生かされているというアポリア

このブログを訪れてくださる人数は
平均して一日30人から50人です。

こんな、たらたらと説教じみたものを読んでくださり
本当に感謝しております。

中には直接メールをくださったり、コメントを書いて
くださる方もおります。

その数は多くないので、返事を書かせていただいています。
(遅いですが)
匿名のブログでありますので、批判的な意見も多いかと
思われそうですが、批判的な意見は全くといってないのです。
情報が溢れる中で、いちいちブログに批判しておられない。
批判をするくらいならそんなブログ見ないということと一人合点しております。

それはさておき、そういったメールやコメントで読者様との交流において
私の知らない世界、壮絶な体験をされた方の話を聞かせて頂きます。
そういったお話を通して、天理教の新たな一面を垣間見るとともに
私の考えを明確にし、時には考えを改めてさせていだいております。

また、そこから貴重なテーマの案を与えて頂いていることにも感謝します。

今回はそこから得られました「我々は神様に生かされている」という
教えについて考察していきたいと思います。

過去に書きました「修養科の査定ライン」という記事の中で
いくつかコメントをいただきました。コメントなので
誰でも見られます。
ブログの特徴上、過去のコメントを閲覧する読者は少ないと思います。
そのコメントを埋没させるのは勿体ないと思いましたので、また私が
コメントの返事を書くうちにどんどん長くなりましたので
今回はそこから引用します。

ある読者の方のコメントで
<<正直・・・お道のみならず宗教というものが、人間にとって必要か不必要かで
日々もがいてるんですよ。 私は、陽気ぐらしどころか、「この世は苦の連続だ」と
考えてる始末です。まずは、生かされているという感謝の気持ちをもつことが
私には必要なんでしょうけど。宗教は難しいですね。>>

というコメントをいただきました。

そのコメントの返事を書くつもりでしたが、
書いているうちに長くなったので、記事に替えさせていただきます。

私の考えでは宗教を必要ー不要の一元論で結論を導くことは難しいと思います。
必要な部分も不要な部分もあり、また人それぞれにとっても宗教を必要な人と不要な人と
あるのではないかと思います。
(この場合の宗教とは宗教団体であり信じる気持ちとか形而上的概念とは別です)

「神様に生かされている」という実感はとても崇高な教えであると思います。
しかしその教えには「私の人生は私のもの」という俗物である人間としての(多少わがままな)
自我を超越したものであると思います。教えというか仏門で言えば悟りに近いですね。

その「神に生かされている」という教えの対象は人間であります。。
天理教の教えでは神様が主体の世界です(この世は神様が作った世界であり、人間は世界を作れない)
しかし、人間のための教えという意味は、この世界を巡るストーリーの
主人公は人間であるということであります。

簡単に言えば、神様は監督で、我々人間はアクターであります。
しかも、このストーリーは全てアドリブで進行します。
しかもテーマは「陽気ぐらし」です。
大切なことは、アクターは舞台上しか動けないし監督は舞台に上がれない
ということなのです。
しかも、この監督は演技指導も台詞も用意してくれない。
監督ができるのはキャスティングと舞台の強制終了です。
「私が必要と思ったら舞台に挙げるし、降板もさせる。それぞれが自分で判断して陽気ぐらし
に向かって好き勝手演技しな」というタイプの監督です。黒沢明より恐いですね。

そういえば、昔「トルゥーマン・ショー」という映画がありましたね。
主人公はトム・ハンクスだったかな。その映画の概要は
主人公の青年は生まれてから一度も家がある島を出たことがない。
しかし、実は彼の人生は24時間全世界で放映されているのです。
それを気づかずに彼は人生を過ごすということです。
もちろん、島は超巨大なセット。
島の住人(彼の身内)は全てエキストラ。
主人公の彼だけが、リアルな世界だと思い込んで生活している。
という話です。

我々の世界もこのトルゥーマンショーと似て非なるものですね。

閑話休題。
我々人間は神様ではない。
神様に思いを馳せるより、人間として与えられたテーマを懸命に生きる。
これが人間にできることだと思います。
時には失敗し、時には後悔し、それでも反省し、信じ合い愛し合って生きる。
不器用でも懸命に生きる人間くささ。これほど美しいものはないと私は信じています。

その点を考えると「人間は神に生かされている」というのは所詮教義です。
また、こういった教えがあるからこそ反省し泥臭くも「生きる」ということだと思います。
されど教義ですね。

しかし、その教えを教義ではなく、生活として「生かされている」と思う人がいたら、
その人は「我々は神様に何故生かされているのか、神様は我々に一体何を望んでいるのか」
という無意味な思考を絶えず生活の端々で巡らさないといけません。
めんどうな人ですね。

「生かされている」という受け身の中で、必死に生きるという積極性。
ここを明確に割り切れていますか。ここを割り切れないと「生かされている」という
教義が非常にプレッシャーになります。
「生かされている」ということを時には意識し、神に感謝します。
しかし、そればかり強調する人が怪しい(重い)と感じるのは
その人が他者に迷惑をかけていることが無自覚的ではないかと思えるからです。
我々は知らないうちに他者に迷惑をかけているものです。
時には命あるもの(牛や豚。たぶん蟻も)を殺してもいます。
それが悪いのではありません。そういうものなのです。
「生かされている!」と説教じみていう人は、そういった自己反省的視点を
直視していないのではないかと思わされるのです。

私たちは人間です。

間違います。
失敗します。
人を傷つけます。
争います。
偉そうに説教します。
八つのホコリ積みまくります。

しかし
反省します。
人を喜ばせます。
慈しみます。
敬います。
愛します。

とりあえず「生きる」。

それだけしか我々には出来

生かされているというアポリア」への3件のフィードバック

  1. 匿名

    2. 無題
    いえいえ。
    こちらこそネタを拝借してありがとうございます。
    またお願いします。

  2. 根掘り葉掘り

    心通りの守護を賜りながら、生かされているのですね。
    この神言は、感謝と謙虚さと、常に永遠に神と共に在るという大安心感を教えているのですかね。

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