神が人間を作ったワケ

天理教では周知のように人間を作ったのは神様という教えである。
その人間の誕生方法は他のサイトや文献に譲るとして(私もあまり理解できていない)
人間の誕生理由にはどういった意味付けがなされているのか。

よく聞かれるのは
「神様は人間が陽気暮らしするのを見て、共に楽しみたいと思し召されて人間を作られた」
という文脈である。

なるほど。
神様はとにかく陽気暮らしがしたかった。。
人間の存在理由がそのまま人間生活の目標となっている。
実にシンプルで分かりやすい。立派な教えである。

しかし、まだ若かりしころの私はこの人間創造の理由がピンとかなかった。
それは、上記の一文が日本語として不適切で飲み込めなかったのである。
この「神様は人間が陽気暮らしするのを見て共に楽しみたいと思し召されて人間を作られた」
という一文の違和感というのは、つまるところ「神様が見た人間は何者か?」ということである。

この一文を時間軸にそって考えると
神様は人間を見た。
人間が楽しそうにしているのを見た。
神様は思った。
私も人間を作ってみようと。
そして、人間を作りました。

ということ。

つまり、神様が最初に見た人間は誰が作ったのか?
という疑問に行き着く。

もし、天理教の神様が人間を作る前に人間を見ていたのであれば
天理教は人間を作った原点ではないことになる。

という矛盾を若かりし日の私は思っていた。

そして、先日私と面識のある青年が同じことを言っていた。
天理教は天地創造の物語から、すでに矛盾だらけではないか。と。

天理教ほど規模が大きくて、研究が豊富で教義が安定している(新興)宗教は例をみない。
しかし、天理教人ほど教えを熟成させる雰囲気がないのも珍しいのではないかと思う。

例えば、私が常々批判している「天理教言語の乱用」を指摘する人間はなかなかいない。
「いんねん」や「理」などの難解な概念でさえも、ぽんぽん人の口をついて出てくる。ぽんぽん。
それは自己内省的要素を伴わず、信者や相手をコントロールする手法として使用されている。
宗教の熟成とは内省を伴わずして達成できない。
「私にとっていんねんとは何だろう?」
「陽気ぐらし達成のためにどう振る舞えばよいか?」など。
そういう自己反省の修行的要素は、正直言って感じられない。
相手を説きふすためのツールなのである。武力と言っても過言ではない。

また、そういったことを指摘するリーダーが存在しないのも残念である。
何かあれば「心の問題」として曖昧に処理されていては信仰の意味がない。
(天理教の新聞である「天理時報」は様々な社会的時事を扱っているが、
結論はすべて「心の問題」としか言えていない所にも組織的未熟さを感じる)

閑話休題。
人間創造の原理について結論を言うと、
神様(天理王命)が最初に見た人間もまた神様(天理王命)が作っている。

私は時間軸にそって考えてみると仮定したが、そこに大きな問題がある。
神様は時間軸で動いてはいない。
神様は無時間モデルであるのだ。
神様は現在、過去、未来を自在に行き来できるのである。
「そんな馬鹿な」と言われそうだが、
神様の存在は我々人間が想像できるものではない。
それが神の定義でもある。
そこを忘れてはいけない。
だから、神様の真意を人間が推し量ることはできない。
「神様はこう言ってるんだよ」と言う天理教人は多いが
その都度、私は「嘘つけ」と思う。

こんなに科学が進歩しても、人間はオリジナル細胞一つ作ることができないのだ。
人間の知恵で神の能力を比較考量できるはずがない。

そこを理解している天理教人は会ったことがない。
もちろん、そこを説明できる天理教人も見たことがない。

前述した青年に対し、私が述べたのは。
「宗教や神、また人間は、そういった矛盾で曖昧模糊とした存在なのかもしれないね。
それでも君が天理教の教えを好きだと思うなら、その矛盾も抱えて自問していく
ことが天理教の発展、また君の成熟にもなるんじゃないかな。神様は我々人間の
及ばない存在であることを認識することから考えてはどうかな。
私たち一人一人が生きていることが、もうすでに奇跡なのかもしれない。」
というような臭いことを言った。

神様が人間を作った理由なんて誰も分からない。
私たちは、とりあえず陽気ぐらしを目指すだけなのである。

神が人間を作ったワケ」への4件のフィードバック

  1. 匿名

    1. 改名しました。
    私たちは人間です。

    間違います。
    失敗します。
    人を傷つけます。
    争います。
    偉そうに説教します。
    八つのホコリ積みまくります。

    しかし
    反省します。
    人を喜ばせます。
    慈しみます。
    敬います。
    愛します。

    とりあえず「生きる」。

    それだけしか我々には出来ません。

    神様が人間を作った理由なんて誰も分からない。
    私たちは、とりあえず陽気ぐらしを目指すだけなのである。

    カイン様
    この言葉に尽きます。
    歯を食いしばって生き抜きます。

    tenrikyo-huyou 改め
    晴天の心 より

  2. 匿名

    2. 晴天の心さま
    ありがとうございます。

    歯を食いしばって生き抜くのですか。
    食いしばってばかりは疲れますので
    時にはヨダレを垂らすくらいの適当さも
    忘れずに、ですよ。

    改名了承しました。
    こっちの方が素敵と思います。

  3. 道の迷い子

    死ぬまでは生きなきゃしょうがない、つらい事の多い人生でも。陽気ぐらしをさせる為に、神様が人間をお造りになってくだされた、そう信じて生きれば、前向きに生きられるし、決して悪くは無いと思います。ほんとかどうか、なんて検証する必要も無いでしょ。そう信じて生きれば、それが真実となります、きっと。

  4. 匿名

    先にキリスト教の神は自分に似せて 人間をつくった と聞いていたので 人間が陽気暮らしをするのを見て〜は 神の考えでは人間というものの イメージができてて その陽気ぐらしするイメージもできていると解釈してました。神が最初にみた人間 確かに

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