天理教と宗教建築

今日、書店で中央公論の隣に置いてある雑誌を何気に手に取る。

「ワンダーjapan」という雑誌。
少しレトロな雰囲気が漂う表紙である。

内容は京都や奈良のランドマーク的建築物を紹介しているよう。
その中に天理教の教会本部の神殿やおやさとやかた等の周辺の建築を紹介している。
全部で4項くらいだろうか。比較的大きく扱われていた。
文字による説明は少なく、写真が大きく掲載されており見やすい。

教会本部の神殿について私は幼少の頃から実物も含め見慣れているので驚きやしない。
しかし、初めて本部の神殿を見る人は、その神殿の壮大さや街の異様な雰囲気に
驚くことは想像に難くない。それほどインパクトの大きい建物である。

ただ、私の天理教に対するひいき目なしの率直な思いとして
天理教本部の神殿は文化建造物として「もっと注目されてもいい建造物」
なのではないかと思う。あれほどの巨大な建築物と珍しい建築様式である。
そのわりに、奈良や関西の情報誌や旅行雑誌にはほとんど扱われない。

私は建築に関しては少々関心がある。
そのため、建築系雑誌(BRUTUSや商店建築など)は欠かさず読んでいる方である。
そういった一般建築雑誌で天理教建築については取りあげられている記事を見た事がない。
天理教の教会を安藤忠雄に依頼する教会があってもいいとは思うのだが・・・軽卒な意見ですみません。

天理教の神殿に対しての建築学的評価というのは少なくとも存在する。
有名なのは「新宗教と巨大建築」という新書がある。著者は五十嵐太郎。
数々の宗教建築について考察しているが、天理教の神殿について割かれている項は圧倒的である。
また私の知り合いの建築家も天理教の神殿に対しては「いつか研究してみたい」と言っていた。
加えて、「こんな建築学的に豊富なサンプルが今までほぼ手つかずで放置されているなんておかしい」
と神殿が研究対象となっていないことを嘆いていた。

話はそれるが、今わたしが行って見てみたい宗教建築は大阪にある「光の教会」である。
「光の教会」はキリスト教の教会であり安藤建築である。
教会という空間であるにも関わらず、建築的価値があり観光ツアーのようなものがあるらしい。
もちろんツアーと教会の宗教行事スケジュールは避けているようだが。
日本の著名な歴史的宗教建築は、宗教と言えど宗教的機能よりも観光資源の要素が大きい。
しかし「光の教会」のように生きている宗教施設であっても文化的価値を認めるという点では、
「光の教会」の牧師がその文化的価値を宗教に埋没させるにはもったいないという評価があるのだろう。
それは宗教を軽んじることでもなく、文化は皆の財産であるという正当な評価であると思う。
また教会を公開することが、同時に布教という要素も多分に含んでいることは容易に推察できる。

天理教は文化を大事にしている宗教であると私は思っている。
しかし一方で天理教人が、その立ち居振る舞いも含めて文化的かというと疑問符がつく。
現在、歴史的社会的に誇るべき天理スポーツも天理文化も二代真柱が開拓した惰性でしかない。
少なくとも現在の天理教は文化資源を社会的に構築することに開発的ではない。

「心の時代」や「縦の伝道」などと難問を言う前に、具体的に天理教の社会的資産を
開発的に評価し高めようとする人がいてもいいものだと思うのだが、いない。
それこそ先ほどの話に戻るが、極端な話天理大学に建築学専攻があってもいいと思う。
天理大学=宗教学や心理学に重きを置くという経営は、一方で宗教の柔軟性や多様性を
狭めているようにも感じる。

天理教の人間が宗教という、きな臭い狭い領域に留まる見苦しさと
天理教人であるけども色々な領域にまたがるのでは、その人の魅力は異なる。

道一条といわれる天理教一筋が、天理教内部で高い評価を受けている現状では
まだまだ宗教的成熟が達成されているとは言えない。
スポーツの分野や芸術で活躍している天理教人は多数存在しているが
その人達と「私たちとは別物」という線引きが普通の天理教人の中に見えてしょうがない。
つまり同じ天理教を信仰する者というカテゴリーなのだが、社会的に活躍できている人や
名声を得た人は「特別な人」として同じカテゴリー内で差別化されている。
一度差別化してしまうと、それらの人をロールモデルとして見ることができなくなってしまう。

それは逆説的に普通の天理教人の中には自分が道一条であることで優越感を感じているからである。
同時に、この場合の優越感とは満たされない自分や無力な自分であることを隠蔽し抑圧する
防衛機制としての機能として考える方が妥当である。

もう少し天理教と社会の橋渡しとしての布教実践を教団や個人が真剣に検討してはどうかと私は提案する。

いつまでも神名流しと戸別訪問に固執しては、社会と天理教の距離が増大すると危機感を
募らせるのは私だけだろうか。
少なくとも、私は神名流しや戸別訪問など他者が奇異に感じて、引いてしまうことは
したくないし、持病のじんましんが出そうなので出来ない。
それは、至極まもとな感覚だと思うのだが天理教人はまともな感覚を麻痺させてしまったのだろうか。
それとも私が神経症的不安傾向が強いだけなのだろうか。

どちらも捨て難い仮説である。

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