こどもおぢばがえり再考

過去に一度、本ブログにおいて「こどもおぢばがえり」を取りあげたことがある。
どんなことを書いたのか覚えていないので、再考というかたちで考えてみたい。

「こどもおぢばがえり」というイベントの主旨や内容に関しては他のサイトに譲る。

こどもおぢばがえり・・・
まず名前が長いので以下こどもおぢばがえりは「コドオヂ」と表記する。
(さすがに「こどもがえり」は誤解を招くよね)

そのコドオヂに私は数回参加したことがある。
子どものころに何回かと昨年である。
昨年は知り合いに誘われて、夜のパレードを何年かぶりに観覧した。
今年も行きたいのだが、行く予定のないままに結局終わってしまった。

私の知り合いの天理教人(Fさん)の話で恐縮だが、
Fさんの教会ではコドオヂに参加する子どもの数が激変したようである。
数年前までは、観光バス3、4台で100人越えだったものが
今年(08年)は10人程度ということであるらしい。

この人数減少を少子化で一括りに片付けるのは物足りないので
もう少し掘り下げて考えてみることにしたい。
そして、この参加人数の減少こそ将来の天理教の姿を映し出している
蓋然性が高いと思うのはそんなに間違いではないのではと思う。

まず議論の前提として教団による正式な参加人数の発表を私は知らない。
しかし、それでも私は周囲の天理教人の話から参加人数の減少を前提で話を進める。
なので「コドオヂの参加人数って年々増えているよね」と後から言われては
私は素直に「知りませんでした、申し訳ございません」と言うしかない。

そもそも宗教団体が公表する統計的数値は科学的信頼性を担保できないことは
アカデミックの分野では合意形成されている。
そのことは各宗教団体が公表している信者数を見れば誰でもわかる。
「そんなにいねーだろ」と言わんばかりの信者数である。
天理教も例外ではない。
なので、天理教教団が「コドオヂの参加人数は年々増えているんですよ」と
言ったところで、私はそれを鵜呑みにはできない。もちろん逆の場合も同様である。

私の論理展開のきっかけは誰も口にはしないけど何となく皆が違和感を感じること
を根拠にしたいと思う。「コドオヂの参加人数って減少してるよね」という感じである。
「それはお前の主観に過ぎないだろ」と言われるのなら、それにはただ謝罪するしかない。
管見の及ぶ限りこうした誰も口にはしないけど皆なんとなく感じている違和感こそ
物事の本質に近いということはしばしば(かなりの高確率で)起こりえることである。

コドオヂの参加人数減少の一つに考えられるのは少子化である。
これにはもう説明がいらないくらいメディアが丁寧に教えてくれている。
次にFさんの供述や家庭状況から鑑みて少子化という概念で曖昧にされている背景を考えてみたい。

参加人数の減少は、つまるところ勧誘するチカラの低下である。
勧誘するチカラの低下といっても、勧誘する側の力量不足という意味ではない。
この勧誘能力の低下についてはハード面とソフトの面も含めて誘う側と誘われる側、教団の3つの
側面があると考えられる。
まず誘う側から考えると、先のFさんの場合で考えると
コドオヂに100人以上の子どもを多く勧誘できた年というのは、
Fさんの子どもが学童期であった時期とかぶる。
つまり、自分の子どもが小学生であるとPTAや地域の繋がりが
濃厚になるため、勧誘しやすいということである。
自分の子どもが学童期から離れ、PTAなどとの関係も薄れるほどに
コドオヂの勧誘が難しくなるのである。

次に誘われる側の面。こちらの方が奥が深い。
子どもにとってはコドオヂはそんなに(昔ほど)魅力では無くなっている。
現代では子どもの楽しみの選択肢は広がり、子どもにとってコドオヂが「特別な体験」
ではもうない。夜のパレードを見ればディズニーと比較し、
詰所での宿泊はクーラーがないのを嘆くというような子どもが着実に増えているようである。
「コドオヂの魅力は、そういったクーラーやパレードの華やかさなど外形的要素ではなくて
子どもたちの交流や、パレードのゲームのお兄さん的な手作り感ではないか」
と言われそうだが、現の子どもたちは自由時間では友達とじゃれ合うことは少なく、
友達が横にいても無言でDSやPSPをやっているという。
それが事実かどうかというより、そういった地殻変動的変容が現場レベルで
着実に増えているというだけの話である。
こういった現象が勧誘する側にも無意識的に存在し、勧誘の動機付けが低下していると思われる。
人間は自分が熱くなれないものを、他者に勧めることが難しいのは当たり前である。
少なくとも私は嫌いなものを人には勧められない。

次に天理教本部からの視点を一つ。
以下は私の考察ではなく知り合いの天理教人が教えてくれたことなのだが、
コドオヂは年を重ねるごとに幼児化、縮小化しているということなのだそうだ。
数年前までは「白川」という広大な敷地でアトラクションがあったり、
普通の一般施設での舞台公演などがあったようなのだが、(そういえば私の記憶にもある)
ここ2、3年では神殿の近所(神苑内)ですべての行事が行われるようになっているようである。
その結果、何が起こったのかというと。引率する大人達が楽しめなくなったということである。

「いやいや、コドオヂは子どものためものだから、大人は楽しまなくてもいい」
と反論する方がいると思うが、前述したことと同じロジックである。

大人が「コドオヂって楽しいぞー行くぞー」と大人が楽しそうにイベントに駆け出していく姿と
「コドオヂは子どもが楽しむもんだ。ほら、行っておいで。」と大人がいうのでは子どもが楽しいと
感じるのには雲泥の差がある。
これは、私が常々教育に対しても言っていることと同じである。
基本的に子どもは大人が楽しければ楽しいのである。
それこそ、おもちゃやお菓子などの外形的ツールに意味はない。

現在、小、中学校の先生方が苦労していることも同じことである。
いくら学校の先生が教材研究や、授業運営を工夫したところで、先生が「これはおもしろい」と
思わなくては子どもはついてこない。反対につまらない内容の授業や教材でも先生が
「これはおもしろいからやってみよう」と言えば、子どもは一気に授業に乗れるのである。
そう、「乗れる」とい
う感覚なのである。現代音楽で言えばグルーブ感である。
グルーブ感とは全員が共有できるウキウキ、ワクワク感といったところかな。

今のコドオヂに、その乗れる感じは少ないと思う。
子どもの笑顔ではなく、大人の笑顔が少なくなっているのである。
教会本部が、どのような方針をコドオヂに打ち出しているのかは分からないが、
社会と子どもの地殻変動に対応できていないことは外から見て分かる。

ひょっとすると、そういった社会や子どもの地殻変動的変化を
教団は対応できていないだけではなく、まだ意識化もできていないことも十分に考えられる。
自分に都合の悪い情報は見ないようにするのは人間の大切な能力である。

天理教の縦組織の対応の遅さや、「船頭多くして船山登る」なら私も勢いよく同意できる。

私の言いたいことは、何かしらの対応を早急に起こした方がいいのではないか
ということを言っているのではない。
社会や子どもの状況に応じて、微妙に規模を縮小し、いつの間にかコドオヂが
自然消滅しても、それはそれでよい。
しかし現状では中央集権で莫大な費用をかけて、優秀な人員を駆り立てて、
その結果、天理教において何を目的としているのかは私は理解に苦しむ。

目に見える宗教的効果がなくても「子どもの脳裏に天理というところは楽しかった」と
思えてもらえればOKと言われそうだが、
それを教会本部の人間が言っているようでは天理教はオシマイである。
(実際に運営サイドの人間がそう言ってるかは知らないけど言ってそう)

サブリミナルな効果を期待するのであれば、某学会や新興宗教をロールモデルにした方がよい。

私がなぜそこまでコドオヂの費用対効果に対して懐疑的かというと。
華やかな表舞台の裏で、ノルマ達成や、理不尽な徳積みのために
汗や涙を流している人が少なからず知っているからである。

私はそのアドボカシーでしかない。

こどもおぢばがえり再考」への1件のフィードバック

  1. 匿名

    コドオヂで 劇の舞台で 音楽が生演奏だった事に感動しました。楽団みたいなものがあるって 文化的にも価値があると思いました。 海外で楽団がある事は みんながその価値を認めていて 楽団員になる事の難しさも知っててというところがあるように聞いています。天理では支える人々の共通の価値のあるものではなさそうで 残念です。 (末端とか 先々って ひどい言い方ですね)

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