事情教会って言うのそろそろ辞めませんか?

何の本で見たのかは忘れたけど
天理教の教会数は全国で1万うん千ほどあるらしい。
そして、そのうちの7割りが機能不全の教会であるらしい。

機能不全の教会というのを天理教内では「事情教会」というのである。
それも、その名の通り何かしらのうまくいかない事情があるからである。
例えば後継者がいないとか、信者数が少なくて物理的経済的に教会経営できなくて
カイチョウさんは働きに出てるとか、教会家族は別の家に住んでいるとか・・・

という事実は広く聞かれることであり教会本部も把握していると思うのだが・・・

以前聞いた話によると
天理教というのは、その教勢や布教実践において一時期もの凄い勢いがあったようである。
「もう本当に凄かった」らしい。
そして、その流れにそって「倍加運動」という「天理教の教会数を倍にしよう」という
運動があったようだ。そして実際にその運動の効果として同じ時期に誕生した教会が
大変多いらしい。なんと短絡的思考なんだろうか。

その倍加運動と事情教会の統計的相関は知らないが、
倍加運動で誕生した教会がその後、事情教会へと落ちた教会は割合が高いと思う。
(もちろん教会本部は、その関係性を把握していると思うが、公表するわけないけど)

「今の流れにそって、どんどん行こうぜ」という短絡的、刹那的戦略を採用する会社というのは
平成に入り不祥事や業績が伸びなくて潰れていっている。
それと天理教の戦略がダブるのは私だけだろうか。
私はビジネス的には天理教の倍加運動は失敗であると断言できる。

まして、信仰というのはビジネスのように経済合理主義ではない。
信仰という人と人のつながりこそ、
時間をかけて丁寧に顔を合わせていかなくてはいけないのではないだろうか。
宗教に対してビジネスモデルを採用した時点で布教戦略は敗北したのである。
それでも未だに「こころの時代」としか教団が言えないところに組織的、教義的未熟さを感じる。

天理教の高度経済成長期もまた、本当に大切なものを失ったものが多い。
そして、未だに誰もそこに言及しない。
むしろ教内では未だに誇らし気に当時の先人たちを
「先人の雛形」と賞賛し「倍加運動のような機運をもう一度」という煽りがある。
これは団塊でもないのに「オールウェイズ三丁目の夕日」を懐かしむ見苦しさとかぶる。

閑話休題。
事情教会とカテゴライズしてしまうと、そこで思考停止になってしまう。
事情教会にも「全然やる気のない教会」と「やる気はあるけど現状が精一杯な教会」があり
はたまた「ちょっとやる気がある教会」や「気分がいいときだけやる気になる教会」など
場所や環境が異なれば事情の持つ意味は異なることは子どもでも分かる。
これを同一基準で一括りにしてしまうことはしてはいけない。

少なくとも事情教会と一括りにすることで「やる気」がある教会の人間のモチベーションを
削ぎ落としていることは自明である。
そこに誰も注意を払わないのは不思議としかいいようがない。

私の職場の同僚に精神科医がいるが、現在精神医学において注目されている概念に
PDDというものがある。PDDというのはPervasive Developmental Disordersの略で
「公汎性発達障害」のことである。

これが何故注目を集めているのかというと、この疾病が「よく分からない」からである。
「この子は自閉症っぽいんだけど、そこまでいってないし、でも自閉症の特徴あるし・・・」
という超現実的な診断の難しさから誕生した概念なのである。
そして、この概念が非常に便利であると、その精神科医は言っていた。
なぜなら、この概念を言ってしまうと、必ずその子の特徴を後で説明しなくてはいけないからである。
「病気を見て人を見ず」という医者がいるが、この曖昧な概念を使用してしまうと
必然的に「人を見なくてはいけない」状況になってしまうのである。なるほど。
当たり前のようだが、言語概念を当てはめることで見えなくなることは意外に多い。

しかし、最後にこの精神科医が嘆いていたことの一つに、この病気の「分からなさ」は
「理解されにくい」ということだと言っていた。その理解されにくいのは
例えば親であったり、学校の先生であったり、臨床心理士であったりと意外に子どもの
身近にいる専門家たちなのであると。

またまた脱線してしまったが、「事情教会」ということで
よもや、その教会が持つプラスの部分まで見えなくしていることが大きいということである。
もちろん言語概念の使用というのは物事を説明し伝達する場合に便利であることは認める。
しかし多くの天理教人が「あそこは事情教会だよ」と発したその言葉の裏側には、
何か差別的、侮蔑的なニュアンスが見え隠れしていると感じるのは私だけなのだろうか。
事情教会=ダメな教会という図式しか私の頭にイメージできない。
天理教人の頭の中では事情教会=なにがイメージされているのか気になってしょうがない。
きっと何もないのだろうけどね。
そもそも、事情教会なんて概念は誰が言い出したのであろうか。
これを言い出した人はきっと人の痛みに無自覚的な嫌われ者だということしか分からない。

事情教会って言うのそろそろ辞めませんか?」への23件のフィードバック

  1. 匿名

     事情教会だろうが、本部は会費の支払いを一切免除してくれない。お供えも要求する。信者のいない事情教会では、会長やその家族が、世間で働いて得た金をお供えにしているのだろうが、上は知ってても当たり前の如く取っていく。
     何と無慈悲な親であろう。

  2. 匿名A

    教会名称の理は、「末代の理」。らしいですよ。またまた「理」が出て来てごめんなさい。

  3. 匿名Aさんへ

    匿名Aさんへ

    原典(特におさしづ)には 「教会名称は末代の理」とは書いてありません。
    そうした組織制度に執着する教理の曲解は訂正していくべきだと思います。

    以下植田先生のブログより抜粋紹介いたします。
    http://tenkoku0805.blog9.fc2.com/blog-entry-153.html

    抜粋開始

    「末代の理」は、決して教会だけに特別に保障されているのではない。しかも、ここで「名称」と言われているのは教会のことではない。講や布教所として設立された時点が名称にほかならないからである。(中略)名称の理は、最初から教会として願い出たのではないことは、「教会名称録」の設立年月日をみれば一目瞭然である。
     たしかに「おさしづ」には「末代の理」という言葉は出ているが、その主語は「名称」「道」および国々所々に「下ろした理」とは言われていても、「教会名称」という言葉はどこにも使われていない。
     さらに個々の「伺い」で諭された「おさしづ」のお言葉が拡大解釈され、「末代の理」が一般化・制度化されることに強い疑問を感じるものである。
    「末代の理」と言われているのは教会に限らない。一ようぼく・役員であろうと講社や布教所であろうと、信じる誠に変わりなければ、理は末代に続くという意味で諭されているのである。(後略ー以上『教祖ひながたと現代』84~86頁より)

    抜粋終了

  4. 匿名A

    早速のご指導有り難うございます。友人に会いに本部の大祭時に天理に行きます。昨年の10月に行ったときに、たまたま、影も形もなくなった教会の名前が書かれた提灯がぶら下がっているんで、間違いではないかと裏を見ると〇〇県と書いてあったので、よく聞かされるこの言葉が本当だと思い込んでいたものです。「理」という言葉はよくよく勉強して使わないとだめですね。
    それにしても、教団はいつまでカッコ付けているんでしょうね。さっさと整理整頓した方が気楽だと思うんだがね。

  5. 古い教会長

    匿名A 様
    >それにしても、教団はいつまでカッコ付けているんでしょうね。さっさと整理整頓した方が気楽だと思うんだがね。

    私もそう思いますが、責任者が誰もいない組織なのです。本部役員の中で、自分が教団の代表だと自負している人物はいるのでしょうか?おそらく、いないでしょう。もしいたら、今の体たらくに責任を感じ、何かアクションをおこすと思います。
    だから、整理整頓しても、しなくても関係ない。気楽なものなんです。

  6. 匿名

    >責任者が誰もいない組織なのです。

    世にも不思議な集団だな。

  7. 匿名

    世の中にいろんな宗教団体があるけれども、こんなに内部関係者から嫌われ憎まれている教団もめずらしい。ここで批判している人たちはなんで辞めないのか。ほんとうに世にも不思議な集団だ。

  8. 世襲制の弊害

    >責任者が誰もいない組織なのです。本部役員の中で、自分が教団の代表だと自負している人物はいるのでしょうか?おそらく、いないでしょう。もしいたら、今の体たらくに責任を感じ、何かアクションをおこすと思います。
    だから、整理整頓しても、しなくても関係ない。気楽なものなんです。

    事情教会の責任は大教会長にありとの姿勢、本部の責任ではありませんという態度。何かアクションをおこすと過去の方針に楯突く内容に必然的になってしまう、このこと自体が本部員の先祖を否定してしまう。依ってアクションをおこすと異端と騒ぎ立て教外に排除してしまう。——–このようにして天理教の歴史のなかで辞任させられた教会長は数多い。天理教の分派がいっぱいあることはこうした事情で説明できます。これがほんとうの事情本部。

    今のままでいいじゃないか、今日の月次祭は雨にもかかわらず多くの信者の参拝があったじゃないか。自分が役員をやっている間は今までどおりでなんとかやっていけると考える役員ばかりの集団に成り下がってます。

    「おやさまにかえれ」は掛け声だけです。

    マンモスは環境の変化に対応できないで滅びてしまいました。天理教も似たような運命をたどることでしょう。

  9. 匿名

    >世の中にいろんな宗教団体があるけれども、こんなに内部関係者から嫌われ憎まれている教団(本部)もめずらしい。ここで批判している人たちはなんで辞めないのか。ほんとうに世にも不思議な集団だ。

    教会本部の包括団体は止めても、お地場の理は永遠であって、神の約束によって、いつか純粋なものに還るだろうと信じているんだろう。それがたとえ来生であっても。
    お地場の理が無ければ、他の新興宗教のように、百年以上も持つ事はなかっただろう。

  10. 匿名

    >お地場の理が無ければ、他の新興宗教のように、百年以上も持つ事はなかっただろう。

    これはあくまで内側の論理ですね。残念ながら説得力は外に向かって全然ありません(教内の人も聞き飽きているかもしれません)。
    また他の新興宗教に対しても失礼だし、事実としても間違っています。お地場という日本地図上の一点にこだわっていると、世界の人達にまったく魅力がないし、そもそも一生そのお地場に行けない人がたくさんいます。お地場がすごい永遠だというのは、日本のしかも近場の人達につごうのいい、不公平な教えじゃないですか!!
    「お地場は日本地図じゃない、人類創造の永遠の場所だ」と言い張ったとしても、やっぱり説得力がなく、こんなことばかり言ってたらだめやなあ~という感じがします。
    その点、天理教社会学研究所のすごいところは、データで天理教の衰退と問題点を明確に提示しているところです。

    >マンモスは環境の変化に対応できないで滅びてしまいました。天理教も似たような運命をたどることでしょう。

    いまはインターネットの時代ですから、部内教会や末端信者たちがこんなに苦しんでいるという情報を知れば、いくらきれいごとを並べてみても、信頼はされないでしょう。マンモス教団も、内部告発にしっかりと耳を傾けなければ、定向進化の道をひたすらたどって滅びるばかりです。
    人材育成、人材育成というわりには、天理教には坂本竜馬のような真の人材は育成するつもりもないようです。

  11. 匿名

    甘露台の世へと定向進化している開放系の世界と、エントロピー増大によって崩壊している閉鎖系の現天理教社会。
    神は天理教とは無関係によりよき世へと進めて下さっているようだが、平和的に進めて居るようには感じない。
    親里地場のあるべき姿は、神様の望みとは、かけ離れてしまっているという事でしょうね。

  12. 匿名

    >お地場という日本地図上の一点にこだわっていると、世界の人達にまったく魅力がないし、そもそも一生そのお地場に行けない人がたくさんいます。お地場がすごい永遠だというのは、日本のしかも近場の人達につごうのいい、不公平な教えじゃないですか!!

    山田君!座布団さ、さ、さっ、三枚持ってきて!(春風亭昇太ふうに噛みながら)

    これを突き詰めると、立教の「三いんねん」はぶっ飛んでしまいます。
    本部としては一番触れてほしくないところなんですが(笑)。考古学的にも特には稲作の起源、遺伝子学的にもさらには民俗学的にも「人類のルーツはおじば」であるとは全く言えませんね。神道の「国生みの神話」の二番煎じを教理に取り込んだ本部は今さら間違ってましたとはいえないでしょうが(笑)。私見ですから本部は無視してくださいね(笑)。
    天理教の常識は世間の非常識。信用している信者、あなたは騙されてないですか?よーく思案しましょうね。

    さらにいえば海外布教の足かせにはなっても海外信者のにおいがけにはつながりません。
    韓国の方々、どうでしょう?
    コンゴの方々、どうでしょう?
    ブラジルの方々、どうでしょう?
    聞いてみたいものである。

  13. 匿名

    >これを突き詰めると、立教の「三いんねん」はぶっ飛んでしまいます。
    信じるか信じないか、というだけですね。
    もしかして、教祖が、大和地方の近場の人々を対象に、「ここは人類の生まれた所だから大事なところ、ここへお参りしなさい」、と、そんなに大した意味も無く、気軽く仰ったのかもしれません。が、案に相違して、それが天理教の教えの根幹となってしまった、ということだったりして・・。失礼致しました。でも、わかりませんからね。
     教祖の生のお声を聞いた方はもうおられないのですから。信じるか信じないか、ということになりますね。

  14. 匿名

    ここは2択じゃないのでは?

    1信じる 2信じているが他人には言えない 3信じていないが信じたふりをする 4まったく信じない 5わからない 考えたことがない どうでもよい その他 
    もっとあるけどとりあえずは5択でお願いいたします。

    多くの信者は3番なのでは?ちなみに私は正直4番です。
     

  15. 匿名

     中山家を中心とする、教祖の家系、縁戚の方々、中枢部の方々は「3番」かもしれませんね。自分達の立場は「立教の三いんねん」に拠ることだけ、それをひたすら信じ切り、信者に対して正当化するしか無い訳ですから。
    しかしながら、教祖の教えを信じるのに、三いんねんが絶対に必要か、と言えば、別にでっちあげであったとしても、我々にとってはたいしたことでは無い、と思いますね。本部が、ひたすら、自分達の正当性を挙げる為だけにしか、三いんねんなんて意味が無いようにも思います。

  16. 匿名

    威張るためでも、お布施を受け取る為の魂の因縁ではなくて、人類をタスケル為の魂の因縁なのですから、救ける事によって自らの魂を証明しなくてはならない訳です。
    お地場の人衆の前提は神が天下る程完成された人間。雛形人間なのですから、人格者を超えた神格者のようなお方達なんでしょうね。本来の本部員の皆様は。

  17. 匿名A

    各位
    教会名称は「末代の理」について拙い文を書き込んだところ、多くの皆様からご指導を下さって勉強できました。ありがとうございました。
    この場は、質問をするところではないと思いながらも、真剣な書き込みが多く見受けられますので、もう一点だけ皆様のご指導をお願い致します。
    「教祖存命の理」とは?。130年祭などと年忌法要があるのに、生きているとは信じられません。教祖殿という所では、風呂も毎日沸かしているとか。死んだ者に風呂まで必要なのか。信仰という概念からは考えも及びません。無駄な風呂なら沸かさずに省エネに徹せよ。とも思う。

  18. 匿名Z

    匿名Aさまへ
    素朴な疑問に対し誰でも納得できる回答はできませんが、思うところを述べさせていただきたい。
    天理教辞典の「教祖殿」の項には
     教祖は明治20年陰暦正月26日、90歳をもって現身を隠されたが、「身は隠すとも、魂は永遠にこの屋敷に留まって生前同様に働く」と仰せられた。つまり、姿、形こそは見えないが、「存命の理」をもって、お働き下されているのである。「教祖存命」の信仰から、三度の食事はいうに及ばず、風呂、寝室に至るまで生前同様にお仕えしている。したがって、教祖にお住まい頂くところとして教祖殿がある。   (中略)  また、教祖殿の東北隅には、教祖殿と時を同じくして竣工した教祖殿付属屋があり、ここには、御神饌室、御湯殿、御化粧室、御洗面場、御休憩室、御厠、等があり、廊下を以って教祖殿につながっている。とあります。
    さらには、一説によると世界中の宝物を収めた蔵まであるという。

    はたして教祖存命の信仰とはいかなる信仰なのでしょうか?天理教辞典には「教祖存命の信仰」という項は載っていません。そこで「おさしづ」の「存命」という単語をたよりに考えるしかありません。膨大な文字数がある「おさしづ」には「存命」が約200回弱もでてきます。その用語例をすべて検証することは私には到底無理な話です。そこで、おおざっぱに二つに分類することをお許しいただきたい。

    存命中、存命々々の折からの話、存命の間、等は明治20年陰暦正月26日までのおやさまが現身を隠されるまでの文字どおり存命であったときの使用例。
    もうひとつはその後、飯降伊蔵さんを本席と定めた時以降の使用例。こちらの使用例がヒントになるのではないでしょうか。

    M24.2.22  五年祭の当日御墓参り致しましたもので御座いますや伺
    さあ/\尋ね運ぶ一つの理という。幾重の心がある。何もこれ古き処、古きものを脱ぎ捨てたるだけのものや。どうしてくれ、こうしてくれる事も要らん。存命中の心は何処へも移らんさかい、存命中で治まりて居るわい。

    M25.11.21  さづけ一つの事情、これ一つ台ともいう。存命遺し置いたる、入り込む一つ席という。存命一つの理も同じ事。

    M30.8.2   教祖一つの話、存命同様の理である程に。

    M34.5.25  さあ/\なあこうして、皆と/\同等で話し、押し掛ける話し掛けたら、一日の日を以て集まったも同じ事。今日まで教祖存命、教祖日々入り込んで話する。理は軽軽しい事やない/\。十分思い日々心を和らげ、どんな者も頭並べ、頭揃えて通りて来たは、今日まで何年以来、教祖存命同じ事。どんな者でも同じよう、心だけ日日受け取って、日に/\話するは教祖存命同じ事。

    M27.11.30  存命中に神が頼む。席が言うのやない。神が言うのや。神が引いた後で聞いてやってくれ。どんな者でもこんな者でも、学者でも智者でも発明でも、こんな真似は出来ようまい。今日に植えて、今日に大木にも出来ようまい。

    おさしづとは扉開いて存命同様に働くと仰ったおやさまが伊蔵さんの口を借りて(=神が日々入り込んで)話された教団への指導書なのです。つまり伊蔵さんの本席としての働きは教祖存命中同然、存命同様の理、さしづは教祖存命同じ事ということになります。
    しかもやしきの中には存命のように十分働いて居る、さらに存命中の心は何処へも移らんさかいとも仰っているのです。

    M22.8.26  生涯という心の理に許そう、変わらぬ一つの理は存命の理
    M22.10.29 神一条の理を以って治まるなら古き親という、そのまま存命、

    ここまで理解できれば後は簡単なこと。存命同様とは存命ではないということです。匿名Aさまがおやさまの教理を心に治め、ひながたどおりにとおれば「一夜のまにも神が入り込み」お働きくださいます。これこそが存命の理ということです。信仰的にはおやさまの教理が重要で、教祖殿での食事、風呂など形式的なものはどうでもよいということになります。

    答えになったでしょうか?

  19. 匿名Y

    匿名Z さまの
    >匿名Aさまがおやさまの教理を心に治め、ひながたどおりにとおれば「一夜のまにも神が入り込み」お働きくださいます。これこそが存命の理ということです。

    仰るとおりだと思います。

    まず、「存命」と「存命の理」の意味は分けるべきだと思います。
    http://www.tenrikyo.or.jp/yoboku/oshie/oyasama/
    教祖のお立場で、
    教祖は、明治20年(1887年)陰暦正月二十六日、子供の成人を促すべく現身をおかくしになりました。そのお姿を拝することはできなくなりましたが、これまで同様、元の屋敷にお住まいになり、変わることなく世界たすけの上にお働きくだされています。この、ご存命のままお働きくださることを「教祖存命の理」といいます。
    まるでこの文章だと「存命の理」は、教祖側にあるかと思いますが、

    「存命」と「存命の理」について、
    現在の教祖殿において、教祖の現身をお隠しになる前と同様に、食事から着物のおめしかえに至るまで、お仕えされているのが「存命」です。
    「存命」のおさしづは、
    明治二十三年三月十七日(陰暦正月二十七日)
    御守はこれまで教祖の御衣物を御守に用い来たりしに、皆出して了いになり、この後は如何に致して宜しきや伺
    「さあ/\尋ねる処、守いつ/\続かさにゃならん。赤衣という、いつ/\続かんなれど、そうせいでもいと、何尺何寸買うてそうすればよかろうと思うなれど、赤き着物に仕立てゝ供え、これをお召し更え下されと願うて、それを以ていつ/\変わらん道という。」

    御霊前へ供えますや、本席へ御召し更え下されませと御頼み申しますや、どちらでありますや願
    「さあ/\これまで住んで居る。何処へも行てはせんで、何処へも行てはせんで。日日の道を見て思やんしてくれねばならん。」

    押して、御霊前へ赤衣物に仕立て、御召し下されませと御願い致しますにや
    「さあ/\ちゃんと仕立て御召し更えが出来ましたと言うて、夏なれば単衣、寒くなれば袷、それ/\旬々の物を拵え、それを着て働くのやで。姿は見えんだけやで、同んなし事やで、姿が無いばかりやで。」

    現身を隠されても「姿は見えんだけやで」「住んで居る。何処へも行てはせんで」を持って、現身を隠される前と変わらずお仕えしているのだと思います。

    明治二十九年二月四日
    「存命でありゃこそ日々働きという。働き一つありゃこそ又一つ道という。」

    明治四十年五月十七日(陰暦四月六日)午前三時半
    「影は見えぬけど、働きの理が見えてある。これは誰の言葉と思うやない。二十年以前にかくれた者やで。なれど、日々働いて居る。」

    そして、「存命」であるからこそ働きができるのだと思います。

    「存命の理」とは、

    明治二十五年十月二十六日
    「存命なら存命の理以て、嬉しい心の理を取り結んでの理は、重々受け取る処、よう聞き分け。」

    明治三十九年十二月十三日
    「一つ心の理を治め。唯一つ教という心で、通らにゃならん。さあ教祖存命の理という。」

    と以上のおさしづから、「(教祖が)存命なら(人間が)存命の理以て」と分けられ、
    教祖が現身を隠されても、おぢばに教祖が「存命」のままに「存命の理」がおぢばや教祖側にあるのでなく、私たちの自分自身側にあります。
    先で変わることなく、教祖の教えを心に修め、教祖の教えを実践する。そこに教祖の働きがある。それが
    私たちの中に存在する事ができる「存命の理」です。

    と私はその様に思っています。

  20. 匿名A

    匿名Zさま
    匿名Yさま

    丁寧なご指導をありがとうございます。よく勉強をされておられるのですね。私なんか子供の頃から母の横で眠気眼で教典や御筆先を読んでいただけです。
    教祖殿で行われている日常は、私にとっては理解を超える思考です。この地球上で数えきれない名もなき人が生を受け消えていった。そして、これからも生活環境が維持されている限り同じことが繰り返されていく。それでいいと思うのですが、教祖は大変な重荷を背負われたのですね。

  21. 素朴な疑問

    >さしづは教祖存命同じ事ということになります。
    現在は教祖存命の理としての、神のさしづは無いのでしょうか?

  22. 古い教会長

    素朴な疑問 さん。
    >さしづは教祖存命同じ事ということになります。
    現在は教祖存命の理としての、神のさしづは無いのでしょうか?

    多分、本部中枢以外で「神のさしず」は出続けていると思います。
    只、本部は都合が悪いので、狂人扱いをしています。
    「憩いの家」のある病棟に閉じ込められていた方があるそうです。
    これは、かん口令がひかれていました。
    本部中枢ではありませんが、本部関係者の身内の方です。

  23. 想像者

    雛形、仮屋、本普請、神一条の天啓道。
    他の理屈には同意しかねる、ある分派さんのスローガンですが、神一条の天啓道が根幹になければ
    神が顕そうとした、甘露台世界への進化の指揮者としてお地場の構造が、未完のままなのではないか?と想像する者です。
    神からのかりものへの感謝を深め、優しい心で通る。事が基本にあっても、お地場の人衆の成人と進化を楽しんで通るという根本がどこかへ置き去りにされてるように感じるのです。
    未来のお地場は、我々凡夫の目からは、啓示・霊能者の巣窟になる予定だったように、みかぐらうたを唱えていて感じるのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

【投稿コメントについて】
以下のようなコメントは削除します。通常の迷惑メールに加え、敬語を使わない、10語以内、他者の意見に耳を貸さない、名前を変え何度も同じようなコメントをおこなう、非論理的文章など読者に配慮しないものも含みます。なお1度削除しますと、以降自動的に同じIPアドレスからはコメントできません。悪質な場合は自動的にアクセスブロックとなります。