安保法案が可決された。いくつかの団体、組織、またはその有志がデモやWEBページを作ったりと反対運動がなされた。この件に関して、この場では特に立場を明確にしない。私より詳しい方が多数声をあげており、そちらを参照されたい。
私はこの安保法案の可決までの動きについて、ある意味すごい時代にきたんだと感じることが多かった。それは情報の速度と、組織が隠したい情報の暴露である。つまりインターネットである。
ひと昔であれば、国会で起きていることを「ほぼ同時」に国民が知ることはなかった。多くが数時間後の次の日か、少なくとも、テレビ局というフィルターを通して、限られた時間でしか知る方法はなかった。しかし今回の安保法案では、個人が発信者となり、世界中に情報は溢れた。国会審議もNHKが中継を止めてもネットで見ることができた。
その結果、政党、テレビ局、活動家、あらゆる人たちの隠したいであろう情報が簡単に漏れ伝わってきた。メディアリテラシーという誤った情報に左右されずに、情報を選択し、正しい情報を読み解くことは大切だと思う。しかし、その情報の正しさこそメディアや研究者、当事者も含め、誰も「正しい」判断ができない状態になっていると感じた。そもそも正義はどこにあったのだろうか。
そして忘れてはいけないことは、情報の正誤にこだわるよりも、ネットが人々を団結させ、膨大な集団エネルギーが生まれるということであろう。その結果がアラブの春であり、香港の学生運動であった。権力者がどう行動し、陰で何を話し合ったか、それを知ることが簡単にできる時代にきている。これが社会にとって良いことなのか、悪いことなのか私にはまだ分からない。しかし、もう後にはひけない。小さな出来事、小さな情報、小さな行動が、人生を狂わせ、組織を崩壊させ、容易に権威や権力を無力させる時代になったということである。
この認識は組織経営としては常識になっており、大企業が学生バイトの行動一つで株価を暴落されることは珍しいことではない。
そして、この時代の波に曝されるのは天理教も同様であろう。天理教は良心的な組織であり何も隠してるつもりはないと信じたい。しかし「大教会長に進路を変えさせられた」「お供えは心定めというノルマ制である」「天理時報の購読数が減少しており本部勤務者は一人一部の購入を勧められている」といった情報が証拠とともに私の元に多く送られてくる。ICレコーダーでとった録音データを送ってこられる方までいる。それらを公開するつもりはないが、私が発信していることがガセネタであるかどうかは、読者の判断に委ねたい。今後天理教に関わる人間が、天理教を発展するために団結するのか、天理教を変革するために団結するのか、私にはわからない。
話は長くなったが、これから本題。これまで天理教の財政についてデータを調査してきた。天理教本部の収入の9割以上がお供え金である。では、残りのお供え以外の収入、4億6千万円は何か。天理教の月刊誌である「みちのとも」によれば「雑収入」とある。雑収入で4億6千万円とは、常識外れのどんぶり勘定である。これについては、私も以前の財政データを調べているときに不思議で仕方なかった。「この雑収入はどこからきているんだ?」と。しかしどこにも雑収入の詳細が載っていないため、言及ができなかった。天理教関連の書物を出版している天理教道友社の売り上げだろうか、私は道友社は赤字と聞いているが。
ということで、あらゆる方面から、できる限り調べてみた。すると驚くべき事実がいくつか出てきた。
事実1 宗教法人は、宗教法人法において財務諸表は公開しなくてもよいと決まっている
宗教法人法第25条において、宗教法人は年度終了後に収支計算書を作成し官庁に提出しなければならないとなっている。しかし、公開義務はない。天理教の財政状況を調べている中で、あまりに情報が公開されていないので、薄々感じていたが、やはり公開義務はないということは法律で決まっていたのだ。これは宗教の公益性と信教の自由を担保するための措置であると思われる。しかし、信者などの利害関係者は閲覧を請求することは可能である(しかし「不当な目的ではないと認められる者」とあり、実質のところ信者が教団に財務状況を請求したところで天理教は公開しないだろう)。つまり天理教信者ではない私のように、目的が調査・研究であっても第三者には公開してなくてもよいということである。天理教信者の方は是非天理教本部に開示請求してほしい。そうすれば天理教が信者や社会に対してどのような姿勢であるかは明確になるだろう。
天理教は表向きは情報公開しているようでも、所有財産や予算の詳細など大切なところは全く公開していないので、良心的な組織とは言えない。冒頭にも言ったように、こういった閉ざされた姿勢は今後どんどん風当たりは強くなるであろう。
日本にはいくつかの宗教法人(天理教ではない)が財務状況を公開しているところもあるようで好感がもてる。
リンク 宗教法人法
事実2 天理教には天理教が投資して設立した株式会社があり、そこの役員は天理教幹部ファミリーであると思われる
私が確認したところ印刷業の株式会社天理時報社と、不動産業の株式会社東京天理教館の2つである。天理時報社は代表取締役が諸井博和氏である。彼の名前で検索すると天理教の幹部かその親類であることはよくわかる。みちのともによると「天理やまと文化会議委員」に任命もされているので幹部に近しい人物であることは間違いない。なぜなら天理教幹部で諸井という苗字は多いからである。
東京天理教館は、天理教という名前も入っており、普通に考えて天理教が投資して作った関連企業であろう。代表者の松田嘉次氏は、天理教幹部であるのかはわからなかった。しかし天理教幹部にも松田姓が複数いるため、ほぼ幹部親族であることは間違いないと私は見ている。この天理教会館であるが、月に数百万円のテナントを抱えるビルを複数運営しており、その賃料収入はかなり大きなものと考えることが普通であろう。この会社から天理教へのお金の流れなどは不明だが、この会社自体は、非常に大きな資産と収入を有していることは間違いない。この会社が有しているビルなどは、もともと信者のお供え金が原資であり、天理教を経由して投資されたと考えることができる。土地の取得、ビルの建設など都心に有するということは数百億〜数千億円規模のお金が投資されたことは間違いないだろう。
私には分からないが、もし諸井一族や松田一族のようなものが代々と世襲制で天理教の幹部職を勤めているとしたら、組織として風通しが悪すぎであろう。その他にも同じ苗字の者は非常に多い。この辺もいずれ徹底的に調査したいものだ。
事実3 天理教は株式投資をしており、相当数の株を資産として保有している
実は、私が一番知りたかったのはここである。しかし、宗教法人には資産の公開義務はないため知るすべはなかった。しかし、そのことを株式を公開している企業であれば天理教が株主であることを知ることができるかもしれないと数年前に聞いたことを思い出した。
検索してみると天理教は奈良テレビの主要株主であることが明らかになった。7万6千株で7.13%の比率というとかなりの株を保有している。奈良テレビのwikiに載っていた。
現在の状態はわからなかったが、奈良新聞社の設立時の筆頭株主は天理教であったという情報もあった。
もう少し調べると、天理教は奈良の優良企業である南都銀行の株主でもあった。天理教が保有する南都銀行 の株、その数なんと2014年現在、204万6千株を保有しており、南都銀行の発行株の0.7%の比率である。(大株主総覧2014年版(下巻)東洋経済新報社)。2015年9月現在、南都銀行の株価は約350円である。つまり204万6千株を所有していると計算すると、天理教は南都銀行の株を取得するために7億1400万円を投資したことになる。(注意 取得した時の株価は分からないため推測値にすぎない)
そして、現時点での南都銀行の配当利回りは1.87%で、一株あたり7円とある。つまり天理教は、南都銀行の株を所有していることで、年間2,800万円余りの配当金を得ていることになる。(南都銀行は年2回の配当)
いくつかの資料を目にすると、宗教法人は投機的な株の売買は倫理的に問題があり、また現実的でもない。株の売買などではなく資産として保有し続けて毎年配当金を得ることが目的となる。つまり、上記に挙げた少数の企業だけの投資というのは考えにくく、公表されていないだけで、より多くの株式や資産を天理教は保有していると考えるのが普通である。天理教の4億6千万円の雑収入の内訳は、こういったものだと推測することができる。配当金をお供え金や寄付金と計上することはさすがにしないだろう。もし5億円の多くが株式投資だとすれば、配当利回りを2%で計算した場合250億円もの原資を投資したことになる。教祖100年祭のときに500億円もの収入があったことを考えると、当時の天理教が「今後のため」に株式投資で資産運用していたとしても違和感はないと私は考える。
私は宗教法人の資産運用が悪いというわけではないし、経営上の判断として私は妥当だと思う。しかし、疑問点は残る。それを以下に考察する。
今回の3つの事実は、天理教信者にとっては当たり前なのかもしれないが、私は知らなかったし非常に驚いた。多くの一般人も知らないことが多いであろう。何に驚いたかというと、これだけの資産を保有していながら、財務諸表を公開しなくていいということである。そして、これらの原資はその多くが信者のお供えであることは自明である。そもそも宗教法人法の目的は先述したように公益性と信教の自由の保証であり、宗教法人が資産を大量に保有することなど想定していない。少なくとも、文化遺産や文化財としての資産、または寺社が設置されている土地などの直接的管理のためであり、直接関連のない企業の株式を大量に保有することは想定されていないはずである。(法律的には資産運用として宗教法人の株式投資は問題なし)
これはマズイと思う。何がマズイかというのは、公益性を担うはずの宗教法人が国民への説明責任を果たしていないことである。守られるべき宗教法人が、それをいいことに、理念を逸脱しているのではないだろうかということである。これは市場経済という点においてもフェアではないと思うのは私だけだろうか。私は天理教に対して言っているのではなく、日本の社会制度、宗教法人への課税制度に対する疑義として言っている。宗教法人を市場経済で語るのは妥当ではないが、配当金を得るために、信者から集めた金を投資に回し、それらの活動に対する情報公開がないというのは、それは倫理的に許されるべきなのかということである。(改めて言うが法的には問題がない)
つまり、宗教法人というPublicな組織が、株式会社というPublicな組織から株主として得ている配当金は信者のお供えを原資としており、株の配当金は宗教法人の資産として使われるべきである。
私は何が言いたいのかというと、お供え金も配当金も天理教全体のために使われるべきであり、信者へもフィードバックされるべきということである。より具体的に言うのでれば、天理教幹部だけが社会保障と安定した給与を得ているのであれば、それらを天理教の構成員にも広げるべきだと言っている。それは共産主義的な思想ではなく、社会組織としての責任という点である。特に株式等の配当金は、お供え金の個人の意思とは性質が異なる。株式投資は、利益を得るための、安定した組織運営のための資産運営である。別の言い方をすれば、法人としての「儲けるため」のものであるとも考えることができる。他人の財布で儲けたのであれば、他人にも返す。借りたものは返す。
もし天理教が雑収入で得ている4億6千万円を、1万6千ある教会に配分するとしたら約2万8千円を分配できる。たかが2万8千円であるから必要ないと考えるのか、道義的責任としておこなうのはかは、まったく意味が異なるであろう。
宗教法人がおこなう投資というのは、そういった性質を帯びていることを自覚する必要があるだろう。一旦、お供えという形で出資者の手元を離れたお金を天理教がどうしようと、それが天理教発展になるのであれば、出資者への直接的な還元は必要ないと天理教は考えているのかもしれない。しかしそうであれば公益性を担う法人に属する出資者には知る権利が担保されるべきであり、天理教は株式投資や資産など財務諸表を公開し、広くその財務活動を国民に公開すべきであろう。
少なくとも私が信者であれば、お供えの記名制の廃止と財務諸表の公開がないと信仰心の涵養と組織への忠誠なんて生まれるわけがない。
例えば、こうしたお金の流れを天理教人と議論すると「お供をした時点で、そのお金のことは言うべきではない。それが真実のお供えである」と言われたことがある。信仰者としてはそう考えるのが適切だと思う。しかし、その説明で社会が天理教に理解を示してくれると思うのは全く違う。私が申しているのは、天理教の信仰者に対して公開すべきであると言っているのではない、社会に対して説明責任を全うしろということである(金額を開示しろということではない)。「少なくとも天理教本部は信者にアクセス権を付与できるように情報公開はきちんと納得してもらえるように努力してます」と社会に説明しなくてはならない。信者にきちんと説明して納得して信仰してもらうことこそ、社会への説明と同義ということである。「みちのとも」で公開されているような、どんぶり勘定や、確認のしようがない再現不可能な数字では話にならない。「みちのとも」でも「天理時報」でも公開すりゃいい。信者もよくわかっていないのに、国民が納得することはあり得ない。
そして「お供えをしたお金のことを後でぐちぐち言うな」というのは暴論であり、そういった権力を発する天理教人は、社会に向かって説明責任を放棄していることと同じである。
もし天理教本部が「お供えされたものに口を挟むな」と理解し、配当金などの法人の利益は役員等のみで消費するという考えをするのであれば、信者を消費者と認識しており倫理的に疑問が残る。ここから脱却するためには天理教はヤクザのような親子関係の偽装と上納金を撤廃して、1万6千箇所あまりの個々の教会の自立を促進する必要がある。記名を求めるお供え方法や、大教会長が若者の進路や婚姻までに口を出す現状を見れば(教義にはなくても実際にある)、言い逃れはできない。
ということで、私はこの件に関しても、一定の資産運用をしている宗教法人への課税はおこなうべきだと思う。こういった事実は行政や研究者にきちんと伝えていきたいと思う。
教祖100年祭のとき、天理教の収入は500億円もあった。その金は、どこに消えたのか。今回の調査で、その一端が垣間見えたと思う。
リンク
野村證券 宗教法人向け
弁護士ドットコム 高野山真言宗が「投資失敗」で15億円の含み損「宗教法人の資産運用」はどこまで?
京都仏教界 宗教法人法「改正」と税制 ~宗教法人の自主性を確立するために~
南都銀行 中間配当金支払いに関する通知
tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp
天理教が衰退していくことの危機意識を誰よりも素早く対応していたのが、中山家とその側近達であったということですよね。
つまり、天理教が滅びても痛くも痒くもなく、我々はお供えが減ろうが信者が減ろうが、ちゃーんと食べていけるだけの財力はある!ただ、もっともっと信者を不安がらせて、今のうちに稼げるだけ稼ごうぜってことなんでしょうね。
信仰している方たち!目を覚まそうじゃないですか!
この流れを見ていくと、真柱の実弟が表統領になりたくてなりたくて仕方がないのも頷けます。
天理教に集まる金をいかにして自分たちの懐に納めるか。
元々、中山家とその側近の為に作られた教団だが、いよいよ中山家だけが牛耳るだろうね。
それと、大教会も中山家の右に倣えと、もう既に資産を築いているのかな?
やっぱり、さすが天理教と言いたいです。
皆さん!130年祭だからと言って大切なお金出さないでね。
私にもお供えと書いた祝儀袋を同封した送り主は、大教会の役員で〇〇先生と言われる人物だが、怒鳴りつけようと大教会へ苦情の電話をしたが、あいにく不在で電話に応対したのが若き青年であった。
その青年曰く、「例え10円でもいいからお供えして下さったら、神様が真の心を受け取り、貴方に徳がいきます。」と言い、
私「例え10円でも供える金があったら、私と縁のあるお金に困っている方に美味しいもの食べさせてあげたい。」
縁もゆかりもない奴の贅沢の為に、お金を出すのは勿体ない。
これこそ、大和魂のもったいない精神を貫きたい!
母が良く口にしていた言葉
「世情の道とお道の生き方は違う」と「お道の生き方が因縁減らし、徳積み、幸せになる道、
この道しか幸せになれないと」
私にはどうしても理解できなかった。
だけどようやくわかってきた。
例えば、無銭飲食した者は、すぐさま警察に捕まります。当然悪いことをしたのですから。
だけど、お道では無銭飲食(信者の金)した者が、権力者になり巨万の富を得る。
反社会的な生き方が、お道にとっては素晴らしい生き方。納得!
私、素直じゃないんです。
素直になれって言われたら、えっ馬鹿になれって言うんですか?
不足を言うな!えっ自己主張してるだけなのにどこがいけないんですか?
お前はいつも難しいことを言う!それで終わらす。
コインには、裏と表があります。必ず物には影になる部分があります。
闇夜の夜も必ずあります。雨の日も風の日もあります。
天理教は、陽気ぐらしを標榜して、闇の部分を隠し続けた。
つくし運びが天の理!天とは神にもなるし、お上にもなるわけで、理を利益の利にもなる。
つくし運びが天の理=つくし運びは、お上(権力者)の利益ともとれませんか?
隠された言葉遊びも楽しいもんですよ。
徳子さんのように、宗教には斜めから懐疑的にメスを入れるような見方が絶対的に不可欠なんですよ。宗教ってのは、時に「思考停止状態」にさせますから・・・
何故、天理教を信仰するの?
生まれたところが代々そうだから・・・
そんなの自分自身の信仰心と何もリンクしない言い分だと思うんだけどなぁ・・・
親神様とか見たことあるのか?→無いに決まってるじゃん
じゃ、何を誰に何の目的で祈ってるわけ?お手振りしてるわけ?
って、私は思ってしまう(私は信者でも何でもないですが)
本部周辺の大きな建築物は、莫大な寄付金からだ。
搾取の宗教ってのが一目瞭然で分かる。
かつての東洋一と謳われた憩の家の建設精神だけは、私は評価したい。
私の家も代々天理教。
私は天理教を信仰するために、この世に生まれてきたわけではない!
この信念を貫き通した。
私にも中山美伎ではないが、私を自殺まで追いこもうとした輩もいた。
実際、酷いもんでしたよ。
海に飛び込む寸前までいきました。あの時ふたりの幼子の顔を思い出さなかったら
私はこの世にいなかったでしょう。
私の命を救ったのは、教祖中山美伎でもなく親神でもなく、我が子でした。
神の存在は否定しないが、人格をもった神がたくさんお金を供えたら、
「よーし、よーし、いい子だ。お前に褒美をやるぞ」ってあるわけないでしょ。
神は金を欲しがり、それがないと困るのでしょうか?
金がないと困るのは、神を利用した権力者ではないですか。
オウムや統一教会のニュースを見た時、これって天理教と同じやないかと思いました。
教祖中山美伎のような慈愛に満ちた母から、なぜ放蕩息子の修司が生まれたんでしょうか?
真面目に生活している家族から、なかなか放蕩息子ができる確率は低いのではないでしょうか?
こういう放蕩息子ができる家族に、何らかの家族の問題があったと思うわけです。
そいうことを隠しているんですよ。中山家は!
もうぼろぼろやでおやさとやかた誰だよ四方正面鏡屋敷の解釈間違えたの
きょうだい教会の娘さんのことですが、高校の入学金支払いと同時期に母親の会長就任奉告祭と重なり上級会長からその入学金をお供えしなさい。勉強はいつでもできる。奉告祭のお供えができるのはは今だけや、と言われた。結局その娘さんは高校入学をあきらめ、今の時代に最終学歴中卒。就職しようにもハンディをおっています。では上級会長、天理教組織が彼女の今後を責任を持って手を引っ張ってくれるのでしょうか?神様はいらっしゃいますが、上級会長の「神にもたれていれば良いようになる」の言葉に騙されてはいけません。自分をたすけるのはやはり自分です。感謝の心を持ちつつ精一杯努力することが大事です。金、金、金の天理教。金でたすかると思っています。その娘さん、12年たつ今も高校に行けなかったことの泣き言を言われるそうです。2年前私も父の後を次いで教会長になりましたが、現在その上級教会には諭吉さん数枚のお供えしかしていません。ちょうど上級会長が代替わりし他人さんが会長になったのでチャンスでした。自教会を維持するのが精一杯で今後お供えは出来ませんと宣言して。かつて父は合計にして数千万のお供えを搾り取られましたがそんな事、今後は絶対させるものかと心に強く思っています。130年祭、みんな無理なお供えしてはいけませんよ。私も信者さんにお供えしてとは言いません。生かされていることを感謝し、自分で働き自分の力で生きていく姿、を神は喜ばれると思います。人の人生のかかった涙の詰まったお金で生きてる上級や大教会一家が身上に悩み決して幸せそうに見えないのは天然自然の姿と思って見ています。
あ、間違えました。諭吉さんではなく野口英世さんでした。野口英世さん数枚です。
いまどきこの日本という国の中で、宗教上の立場が上の人間に言われたからと、高校進学を諦めるなんてことが
あっていいのだろうか? これは子どもの虐待にあたらないか?
つくづく天理教組織の中では、立場が下の者の人権がないと感じる。
何もかもがおかしいのに、中にいる人たちはおかしいと感じることすらできない思考停止状態にされている。
みんな、自分の頭で考えるということを取り戻してほしい。
人間なんだから。神様からもらった頭があるんだから。
悪い感情も、汚い感情も、あって当たり前。
自分で自分の感情を見ないで、受け止めないで、心の底に溜め込んで、押し殺して、陽気ぐらしなんてできっこない。
押し殺した感情は、自分より弱い立場の者に向かって吐き出される。
陽気ぐらし・・・聞いて呆れるわ。
世界には、様々な優れた思想、哲学、文化等があり、情報化が高度に進んでいる現在では、求めさえすれば、
その時その時自分にとって必要な知恵や教えを自由な立場のまま、自由に触れたり、勉強したり、
選択したりすることもできるのではないでしょうか。
組織に縛られない自立した関係同士では、しがらみも階級もありません。
自由な立場なので、おかしいと思えば他を選択すればいいだけです。
縁を大切にするのは当たり前のことですが、宗教組織の中はもちろんのこと、
世の中には、ちゃんと人を見なければ、相手の純粋な気持ちを平気で利用したり、
踏みにじったりするような人間が存在することも確かです。
天理教のような家族総出の組織団体では仲間や人数、立場を駆使できるため、教内での立場という万能感
のようなものを感じさせるフィルターが傲慢さを増長させる場合があり、自分が本当は何をしているかの感覚や
理解が麻痺し、真っ当な良心や罪悪感を感じる事が出来無いのか、表向は良い顔を保ちつつも、
陰では驚くほど陰険で意地の悪い天理教人もたくさん見て来ました。
宗教組織に入る場合は、表向きの綺麗な言葉や最初の親切な態度に惑わされず、
様々なリスクがあることを考えなければならなかったと勉強不足、世間知らずを痛感しています。
参考
メサイア・コンプレックスと新興宗教
http://iyashi.find21.net/column/c012messiahcomplex.html
マインドコントロール
http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/mc/2hikaku.html
辛かった教会の娘 さんへ。
本部も大教会もお金が集まっている限り変わらないでしょう。
集まらなくなった時に初めて気づくことがあるのではないでしょうか。
古い教会長さま
そのとおりと思ってます。この組織を解体し純粋な信仰ができる体制に創りかえるにはお金を上にあげないこと。各教会は自主自立の精神を持つことだと思います。上級が潰れ、大教会が潰れ、そして立ち行かなくなった時の新たなスタートを親神様はじっと見守っておいででしょう。。本部の箱物、上級教会の箱物、これらの事にどれだけの信者さんが悩みどれほどの末端教会が泣いたでしょうか。私たち末端教会一家も上級が真柱お入込みに合わせて真柱仕様の豪華応接客殿を建設したりしてその支払いにどれだけ苦労したことか。真柱はご自分の訪問が端々に多大な悩み事をもたらしている事は知っているのでしょうか。亡くなった先代父・初代祖母の涙を喜びに脳内変換し地を這うような信仰生活を思う時、むなしさと割り切れなさで私の心はいっぱいです。これが世界宗教・陽気ぐらしの天理教です。
今、私も自教会を預かる身だったら、辛かった教会の娘さまと同じ考えで行動します。
上へ、上へとお金を運ぶ必要がない。
教祖中山美伎が伝えたかったことの一番大切なことは、神の目からみて人間には上下の隔たりはない。
みな同じなんだと。みな神の子である。
どうか、貴方の教会から意識改革して、情報発信してください。
応援しています。
一読者さま
マインドコントロールのサイト紹介してくださいましたが、そこに書いてある
1.行動のコントロール
2.思想のコントロール
3.感情のコントロール
4.情報のコントロール
これらはみんな天理教にあてはまります。
一信者が教会長に物も言えない、末端会長が大教会長にさからえない、
ハイハイと従順に従うばかりでは、あまりに悲しすぎます。
天理教の人は自己主張訓練をしっかり受けた方がいい。
だめな教えさま
自分が参考サイトを掲載したのは、過去の経験から、信仰する上では、こうした物差しを持っていることも非常に大切だと感じ、一部ですが、自分が参考になったサイトを紹介させていただいた次第です。
本当の陽気ぐらしをする為には、ただただ従順なだけではなく、自分が一体何をしているのかを、自分自身で意識的に理解していることも必要なのではないでしょうか。
また、自分が関わる組織についてよく知ることも。
「分不相応な欲望を捨て 家族を大切に、周りに感謝をし、思いやりを持って生活する。」
例えばこういった「教え」はどの宗教団体でも共通して説いているものでありますが、
大切なのは、「”実際に”組織が、信者が、自分自身が今何をしているのか」ではないでしょうか?
自分自身が上辺だけではなく本当には理解していない行動や言動を他人が理解できる訳がありません。
またいくら立派な建前があっても、本音が別にあれば、少なくとも違和感という形で人にはわかるものです。
こちらのブログは、自身が教団に対して感じた違和感に対し、様々に検証をして具体的な形で我々に問題を投げかけてくれていると感じます。大変わかり易く、参考になります。
臭い物にフタをするのではなく、問題と真摯に向き合い、認めるところは認め、改善すべきところは謙虚に改善していくことが、組織が洗練されていく為に必須なのでは。
しかしながら、そこには既得権益という難関がある。利権ゆえに問題が生じ、利権ゆえに組織が停滞する。
教え通りに欲を捨てた場合、どのような改善が為されるのだろうか。
今、子沢山の教会が沢山あります。長男が太っ腹で大らかな信仰者であればいいですが、自己中心の人だったら、親が出直した後は、「辛かった教会の娘 」さんや「徳子 」さんのような思いをする人が増えるでしょうね。
古い教会長さんが紹介してくださった以下の文についてご質問です。
>>分家「あまり教祖伝をほじるなよ」
八島「今、内部から発表しなければ取返しがつかなくなります。外部からあばかれたらどうします。山本周五郎が『樅の樹は残った』という小説を書いてから、極悪人原田甲斐が、実は仙台藩を救った忠臣であったと、常識が変わっています。今までの日本は天皇制軍国主義の思想統制があって真実が説けなかった。今から真実を説く、教祖伝の編纂をやり直す、と教会本部が発表すれば、混乱は起こりません。教内はうすうす気づいていながら、何時本部が真実を言ってくれるか待っているのです。後れたら皆が背を向けます。そうなったら取返しがつきません。」
分家「八島が知っている嘘だけではないのだ。真実を知ったら皆が怒って、我々を中庭に引き出して殺すだろう。」
八島「本部から発表すればそんな事は起こりません。」>>
無知で申し訳ないのですが、
質問① 御分家(中山正信さま)は、中山家の家系上、どのようなお立場なのでしょうか?
前真柱様の御兄弟ですか?それとも前々真柱様の御兄弟でしょうか?
質問② またこれがかなり気になるのですが、「真実を知ったら皆が怒って、我々を中庭に引き出して殺すだろう。」
とありますが、この「信者皆が知ったら殺意が湧くほどの真実」って何なんでしょうか?
教祖伝が色々な点で劇作家によるフィクションであるということでしょうか?
それとも「貧に落ち切れ=母屋を取り払い財産を施したこと等」の逸話が、
教祖が自らが話して実行したという証拠はなく、
実は息子の秀司さまが大阪で米相場で失敗したのがきっかけで母屋を売り払うことになった
ことが事実だということをさしているのでしょうか?。
それとももっと他に重大な何かを隠しているという事なのでしょうか?
「質問① 御分家(中山正信さま)は、中山家の家系上、どのようなお立場なのでしょうか?」
私も詳しくはないのですが、確か、前真柱様のお姉さんの婿さんだと思います。
「質問② またこれがかなり気になるのですが、「真実を知ったら皆が怒って、我々を中庭に引き出して殺すだろう。」
といのは、おそらく、今の教団の教義は教祖の教えとはかけ離れているのではないでしょうか。
公認を受ける時に、教義を曲げてしまったこと。反対する多くの布教師を罷免したことなどではないでしょうか。
『1904(明治37)年、日露戦争。この時、教祖派の泉田藤吉(中津支教会長。おたすけ人の鑑と云われていた)、万田万吉(島ヶ原会長、中和大教会の植田平一郎の兄弟)らが異端者、本部の方針に謀反する不良教師であるとして会長を辞任させられ、1400名が放逐された。平野樽蔵らが「天理教会本部は天皇と天皇の先祖を神様と言っている。教祖を神様と言う者は不良教師である。辞任してお詫びせい」。
これにより、戦争協力体制へ進んでいくことになり、「借金をしてでも戦時国債を買え」という本部方針の下で250万円以上の戦時国債を買い協力した。日露戦争後、真柱の真之亮に勲六等の勲章が出される。』
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu_79.htm
この頃から、天理教は金集めをするようになったのでしょうかね。
戦後、復元は提唱されましたが、本当の意味での復元はされませんでした。それは、非常に都合の悪い方々がおられるからです。
それが、「真実を知ったら皆が怒って、我々を中庭に引き出して殺すだろう。」という言葉になっているのでしょう。
矢島氏の書籍にありますが「こかん様の神名ながし」も実は後からつけた作り話だったというのもあります。
教祖伝では「天理王命」と神名をかかげ、大阪の町を陽気に勇んで神名流しをしたなどの記載がありますが、矢島氏に寄れば時系列的にまだ「天理王命」はできておらず、矢島氏の推測ですが、日本国の徴兵のため国に背かない宗教をアピールするためにやっていた、のような記述があったかと思います。
本来の原典を見ていないので、私も何とも言えないのですが、当時の教典が編纂されたポイントは思想統制の観点のようでした。矢島氏の本によれば「人を助ける」という心こそが、すべての苦難や問題から自分を助け、完全なる人間となれる、みたいな教えがなされていたと書かれています。
私は現在も教会に通うよふぼくなので、天理教組織と多少なりともつながりがあります。こんなことを書いたら怒られるかもですが、天理教で一生懸命頑張っている人もいる。私も含めて天理教に助けてもらった人もいる。
残念な宗教になってもらいたくないです。
今、こかん様の碑はなぜか?取り払われています。
http://botiboti-icoka.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/24-97a2.html
http://meizei.exblog.jp/3223604/
「こかん」さんが、十三峠を越えたというのは嘘。本当は暗峠を越えたと聞きました。真偽のほどを解説してくださる方出てきて下さい。
天理教って、歴史の浅い(逆にいうと、もっと確固たる証拠のようなものが残っていてもいいものなのに)何かぼやけた部分多過ぎませんか?
そもそも成り立ちの部分からして、中山みき氏の覚醒のようなものから興っていること自体が私は不自然で仕方がないのですがねぇ、、、
身体は人間そのものであるが、心は神(親神)になった
そりゃ、何とでも言えるだろ?って、思ってしまうんですがね、、、
憩の家さん。
「身体は人間そのものであるが、心は神(親神)になった」
ここは、無理がありますね。神であるならば、御苦労はないのです。二代真柱は「天啓以降、人間ではなく、神である」といわれましたが、これは、おさしずでもないし、神の声でもありません。
天理教は二代真柱の研究を越えていく研究者、信仰者が出てくる素地がないと本当に駄目になってしまいます。
自己申告みたいに。
「私は神なんだ」と言ってみたいよ。
だけど、信じる人の方が狂気じみてたみたい。
100人が100人とも救われたらすごいと思うけど、
100人のうち1人でも救われたら、救われた1人の人をあたかも全ての人が助かったと言うんですよね!
結局、他人の言葉に煽られて、人生狂ってしまうのがオチなんです。
世代を超えて。
天理教の根源的な部分で聞いてみたいんですが、本部のクソデカい建物とか(あれ、土地・建物含めてどれくらいの資産価値/評価額ありますかね?謄本で分かるのかな (笑)、信者数とか、何故あれだけの信仰(力)を集めることが出来たのですか?現在は末期状態であることは分かっていますが・・・
天理教社会学研究所のブログ。
一から読み続けてきました。
他にも、天理教関連のサイト、掲示板もあります。
天理教関係者と、対話もしてきました。
このブログの、正当性、正道の比ではありません。
とても、明確であり、核心部であり。
天理教の現実を、伝え問い方向を考えようと。
更新を続けているブログです。
天理教で云う、お筆先と同じではありませんか?
天理教組織関係者、天理教人の方々には。
人として、大人として、先に生まれた人として。
見習って欲しくもあり 、問うべきだと思います。
いつまでも、宗教言葉を列べて。
目を背け、自身の保身ばかりを守ることを。
信仰だと、正当化している場合ではない。
天理教人よりも、カインさんの方が。
天理教のことを考え、発信しています。
ブログの内容は、現実の事実であり。
私自身も、天理教の現実の事実を見て体験し。
抗って生きてきました。
区切りも整理も、長い月日はかかりましたが。
昔に済ませることは出来ました。
ただ、天理教に対しての怒りや嫌悪感は。
生涯消えることはないです。
天理教関係者、非天理教の方、無宗教の方も。
幅広く、多様な立場の方々が読んでいると思います。
天理教組織、天理教人が。
執着し騒ぎたてて、守り隠そうとしていることなど。
本当は、とても下らなく、守るべきことではないことを。
早く認めるべきではないのですか?
天理教、他の宗教団体に属する方々との対話で。
一番の気持ち悪さと嫌悪感は。
認めないこと、と。
神だ教えだと逃げずに。
自身と向き合い、自身に問わないこと、です。
このブログの、記事それぞれを。
もっと、天理教人は。
自身で考え、問い、行動すべきではないのでしょうか。
カインさんは、天理教人と接し、自身でも調べ。
天理教は、良心的であり、良いところは良い!
考えるべきところは、直ちに改善すべきではないのでないのか!
提示するだけでなく、方向性も示しています。
方向性も出せない、認めない、反省もしない。
見ても聞いても、わかっていて知らないふりを続け通す。
天理教組織、天理教役員と比べて。
どちらが大人で、どちらが先人なのか。
明確である。
ブログに対しての、コメントの少なさが。
天理教人の答えの1つです。
本来であれば、数多くの会長、役員クラスが。
数多くのコメント、意見を述べるのが当たり前である。
天理教が消滅することは。
日本国家が消滅する時までは。
ありえないことであると思う。
ただ、人員も上納金も維持費、規模も。
減少は止まらないのも明確です。
天理教組織も天理教人も。
天理教のリーダー、本部役員でさえも。
天理教の衰退を、止めようとは願っていない。
自身の保身さえ付けば、それが善いのが。
それが天理教なのだから。
天理教が、衰退するのは構わないことですが。
これ以上、純粋な信者の方々。
信者さん方々をサポートしてきている、天理教とは無関係な方々を。
巻き添えにするのは、止めなくてはならない。
天理教の為に、家庭家族、生活、財産を。
犠牲に、破綻させてしまった方々が沢山いる現実を。
正当化してはならない。
天理教が社会に云い放つ、人助け?とは…
天理教の末端の教会、信者さん方々や。
非天理教の社会にの方々に助けてもらって来ていることを。
いい加減認め、謝罪すべき、返すべきことが沢山在るはずです。
天理教が。
人助け、世界助け、陽気暮らしと。
社会に、云い伝える資格などない。
確かに天理教を、理不尽な権力に変えているのは、一部の人かもしれない。
でも、それを我慢し許してしまい、犠牲になっている方々が沢山いる。
良心が間違った権力を許し、増大させてしまった。
増大を許したが為に、諦めに変わっている。
今の天理教に、中山みき様を。
おやさま、と呼び慕う資格などない。
何が善くて何が悪いことなのか。
人としての、頑張り方、勇気の使い方、助けあい方を。
先に生まれた大人が、間違ってはならない。
ブログでもカインさんが述べてあるように。
日本の宗教団体の中では。
天理教は、良心的で道徳的な団体である。
私も、宗教団体の中では、そうは思うが。
その天理教でさえも、このような現状です。
天理教も含め、宗教団体との接触、関わりは。
勧められるものではないし、仲間、知人にも。
宗教団体との関わりには、注意を広めています。
宗教=怖い、カルト、洗脳、財産や時間を絞り蝕まれる。
それも、現実の事実なのです。
今、宗教そのものの、在り方が問われているのです。
天理教には。
災求隊などの、素晴らしい行動力がある。
教理も、本部の隠蔽や改ざんがあったとしても。
天理教の教理を、研究し、一般的に学ぼうとしている、機関、人達もいる。
天理教だからこそ、出来ることがあって。
天理教ただからこそ、やるべきことが沢山あるのです。
人間思案などと、人間思案が語っているのは。
呆れて腹立ちしか残らない。
人間は、人間であり。
それ以上でもそれ以下でもない。
中山みき様も、一人の人間です。
そして、天理教も。
社会の中のほんの一部分でしかないのです。
宗教とは、二の次三の次の支えでいいのです。
宇宙からみたら、一人の人間の存在と天理教の存在も。
同じ砂粒の、同じ大きさの、存在意義なのです。
教えという一方的なものは、世の中にはない。
人は、最期の時まで。
社会や人間、時間から学び続けるもとだと思っています。
天理教=ヤクザ社会、反社会的な世界。
そのままであり、ヤクザ以下な部分もあるのも、
認めなくてはならいことです。
縦の教会制度、理不尽な理の親制度。
末端には上納金を迫るが、部下組織には。
援助は一切しない。
宗教法人という、不透明な囲いの中で。
何億円規模の、使途不明金、雑収入。
天理教組織は、人を使い古して切り捨てる。
けつふきは、末端に、個人に押し付ける風習がある。
八方美人に、ここまでやり過ごしてきて。
天理教の、御霊様を敬う、先祖を敬う。
そこに、敬いは在るのだろうか?
余談ではありますが。
ヤクザ社会で、一代で大きな組を築き。
地域の一般の方々にも、とても慕われた。
ある大親分が、走り続けてきた人生の晩年に遺した言葉。
「善いことは善い!駄目なことは駄目!
例え、目上の人に対してでも。
度が過ぎたり、踏み外しているときには。
言わなくてはならないときが必ずある。
親分と呼ばれるからには。
子を守るのは、親分の勤め。
自分の生き方を、正しいとは言えないわな。
でも組の子達が、この世界から離れても。
正当に生きて行けるように、最低限の言葉使いと礼儀にはうるさくしてきた。
人は、50過ぎないと。
本当の味は出てこないんだよ。
ヤクザは、血筋で三代続けてはいけないから。
孫にはやらせない、成らさせない。」
宗教団体にもヤクザ社会にも。
世界中全てに。
最後に残るのは。
その人の人間味だけだと、
人と人としか残らないものだと
すみません。
文章の途中で送信を、触ってしまいました。
人と人しか残らないものだと感じました。
人それぞれに自身が、体験経験して。
後悔の言葉、未来への希望へ、出た言葉と。
教えと称して、心なく権力的に出る言葉と。
残るのはどちらなのでしょうか。
親や先に生まれた方々が。
子や年下の子達に遺せることって。
生きざま…では、そう思います。
おやさまのひながた、おみちをとおる。
談じ合い、神の名がどうの、教理がどうの。
それも、天理教の枠の中では大切かもしれません。
そして、何十年も昔から。
天理教がズレて来ている原因は。
出尽くして、確信確定しています。
それを、また繰り返し話続けることに。
先は見えますか。
問題の先送りをしているだけであり。
結局は、人任せの他人任せです。
もしかしたら、何任せでもないかもしれません。
神のお手入れなどと、言ってる場合でもないと思います。
そこが、問題なのではないのでしょうか。
「中庭に引きずり出されて…」
そのようなやり取りも、文章も。
過去にあったらしいですね。
良心的で、平和主義な方々のお陰で。
成り立ち続いてきた天理教です。
でも、中庭に引きずり出さずとも。
カインさんの以前のブログに載っていたように。
各県の人権問題の相談窓口なり。
社会に問題点を浮き彫りにすることが。
とても重要なことです。
やはり、宗教問題の怖いところは。
宗教団体、宗教法人、家族信仰など。
特殊な囲いの中で、閉鎖的に存在ることも確かなのです。
ある種の、イジメであり、虐待かもしれません。
現実と事実と情報を、画面の中だけでなく。
開放していくことに、先は在るのかもしれません。
130年祭ですか?
そこに、天理教の、天理教人としての。
存在意義は在りますか?
人は、それぞれの存在意義を探して。
生まれ、生きて行くのかもしれませんね。
130年の間に。
どこか「ごみ屋敷」と化してしまった天理教に。
多くの事情教会の整理も放置したまま。
間違った権力を振りかざし続ける。
一部の本部役員、大教会長、上級会長、部内会長を
野放しにしたままで。
末端の教会、信者さん方々の苦しみを。
文章、口頭なりで伝えても。
何も、苦にもしない天理教に。
自身のごみ屋敷の掃除せずに。
周りに対して、ホコリがどうとか伝える。
そこに、神や信仰は無いと感じます。
物事を複雑に考える前に。
大切なことは、もっと手前に在るはずです。
これからの日本は、天理教に限らず。
少子高齢化の波が続き。
大きな山場、場面を向かえ続けるでしょう。
乗り越える法の1つとして。
高齢化と呼ばれる世代が。
きっちりと世代自身で、整理整頓を済ませることです。
先輩とは、最期の時まで先輩なのです。
先に生まれた者としての。
責任は持ち、行動で魅せて欲しく願います。
ひながた…とは、そう在って欲しいですね。
私は生涯、天理教に対しての。
嫌悪感は消えません。
天理教、天理教の大人達に対して。
抗い続け、自身と葛藤を続け。
失い犠牲にした時間や物が、沢山在りました。
たまたま生まれた場所に天理教があった。
それだけの為だけに。
沢山のことを失い、諦めてもきました。
天理教に救われたことなど、何一つありません。
でも、天理教と区切りをつけ整理を出来て。
私がこの家に生まれた役目は果たせました。
この世の中の理不尽の1つを整理出来たこと。
それは、私の自信にもなりました。
信仰とは、続けるだけではありません。
他人にも、子にも家族にも。
委ねることでも、かぶせることでもありません。
答えなど無いのかもしれません。
でも、私は昔よりも笑えるようになりました。
未来や先にも、希望も持てるようになりました。
これから、自分自身の為の。
私が、自分として生まれてきた為の。
新しい人生を歩み走ります。
そして。
純粋な信仰を持つ信者さん方々と。
信者さん方々を支えている。
天理教とは関係のない、ご家族などの方々の。
幸多き毎日を願います。
今の現在の社会や人達が見て、知りたいのは。
今の天理教、今の天理教組織、今の本部役員、
今の教会役員、今の天理教人の方々が。
天理教組織の在り方、区切りをつけ。
大きなメスを入れて、大手術をする覚悟と。
大手術をする行動力があるかどうかです。
そのような意見をよく見て、聞きます。
はぐれ雲 さん、一気に読みました。
ある教会長が言ってました。今の天理教はエンジンが壊れ、船長のいない大型タンカーみたいなもので、どこに向かっているのやら、どこに行きたいのやら分からないまま、今までの惰性で動いているだけで、止めるにも止められない状態です。責任者不在のままあてもなく動き続けるしかないのかもしれません。
はぐれ雲さんへ
<たまたま生まれた場所に天理教があった>、、、、、私にとても大きく重くひびく一行でした。
<でも、私は昔よりも笑えるようになりました。>、、、、、ここまでにどれほどのことがあったのかと推量しながらも
個としてのはぐれ雲さんを確立されたことに”祝”です。
はぐれ雲さんへ
はぐれ雲さんのコメントから伝わってくるものは。
誠実さ、正義感、真実、公平、バランス感覚、信頼感、勇気、
問題意識を持つ、自立、大人、社会常識との調和、責任感、清々しさ など。
現実を誤魔化さず、自ら考え苦労しながら生きてこられた人の言葉には、
借り物ではない説得力や重みが感じられ、心に響きました。
一方これらの対義語は、
不誠実さ、不義感、虚偽、不公平、バランス感覚の欠如、不信感、臆病、
問題意識を持たない、依存、子供、社会常識との不調和、無責任、鬱陶しさ
どれも考えさせられる言葉です。
この動画関連、私は全部見ました(https://www.youtube.com/watch?v=_4kg4X5Enjk)
この天理教会長さんへ法輪されてる方、結構言ってることは論理的だし、あながち間違ったことは言ってないように思うのですが、皆さんどうでしょうか?
結構、私が天理教に対して疑問に思っていることと被ることがかなりあります。
以前この動画を見て、この破折の方に電話したことがあります。
天理教をここまで批判していることが、その当時の私としては嬉しくて電話したんです。
大阪でコミュニティーを開くので来ますか?って言ってくれましたが、破折の方は学会やらあらゆる分野
の新興宗教に対しての間違いを正す!ことなんですが、私にとっては、天理教しか知らないので天理教限定にしか話しを聞いてもわからないので行きませんでした。
この動画を見てすごく気になったことは、会長さん自ら中山美伎さんを精神病だったかも?って言っていたことがとっても知りたいとこなんです。
大和神社の件も、一般常識では考えられないんです。
今に始まったことではないのですが、天理教の底の浅さを露呈したようなもの。
貸しもの借り物の教えも、この神様けちくさいなーと思うし、八つのほこりも感情のない人間にする気?
私の父は昔で言うと気違いです。すると気違いの因縁があると言われたが、気が狂う教えが天理教にあると思う私です。
教会廃止論を10代の頃から考えてました。実際教会を売りましたが、あの偽装離婚した奥さんが私に教会を売って罰が当たらなかったか?と聞いてきました。
問題の根っこは、この罰です。オカルト的な教えを信者に刷り込ませていることが惡の根源だと思います。
「神は罪も罰も与えない」この言葉が好きなんです。ホットします。
近いうちに、由緒ある神社の宮司さんと中山美伎さんに降りた神様を、天理の三嶋神社へ調べに行くことになりました。
興味のある方は、一緒に聞いてみませんかって誘いたいくらいです。
私ひとりで聞くのがもったいないくらいなんです。
我が一族のルーツが、まさしくメサイア・コンプレックスと新興宗教のサイトの内容とピッタリ!
人助けと言う言葉の裏に、心の闇、コンプレックスを隠して生きてきた。
コンプレックスと優越感の感情を持ち、天理教の狭い世界の中の依存と虐待に甘んじて暮らしておりました。
依存からの脱却が、なぜこれほどまで困難を有するのか?
なぜなんでしょう?教えてほしい。
私の推論ですが、信者の年若い娘まつゑを嫁にもらう際「因縁寄せて守護する」と教祖中山美伎が言ったそうだが、女に手の早い秀司が、まつゑに手を出しにっちもさっちもいかなくなり、信者の手前因縁説を説いて納得させたのではないか?既に秀司には妻も子供もいたにも関わらず、おかしいと思いませんか?
ひょっとしてまつゑを孕ましたとか?
そう考えると、この因縁説は都合がいいんです!
「我は天の将軍!」
中山家が、徳川将軍と同じ生き方をしているし、こんなことを考える私を母は理解してくれなかった。
私も自ら奴隷のように生きる母が理解できなかった。
天理教を通して、親と子の確執がありましたが、共依存でもあった。
虐待で思い出したんですが、自教会の売却に当たって大教会長に相談に行きました。
大教会長のあまりにも馬鹿さに「貴方の下で仕えてる方はお気の毒に!」と言って帰りました。
人伝てに聞いたところ、大教会長の奥さんが、私の長姉を自宅へ呼び出し、姉を玄関の土間に土下座させ、あらゆるバック(かばん)を姉めがけて投げつけたらしい。
姉はこの件に関しては、たとえ父のことであっても他人でした。
本来姉は無関係であり、奥さんも私を呼びつけるのが筋ではないでしょうか?
そして私にバックを投げつけたらいいんですよ!
そしたら私も反撃します。それも倍返しで!
こんなことをされても黙っている姉も姉だと思うんです。
話題の動画ですが、問も応えも矛盾してます。ので、聞かなくていいと思います。なぜなら原点としている仏法は同じだからです。ただ、今の信者が教えられている内容として答えられるのはやっつのほこりくらいしかない、のもまた頷けます。なぜなら、そこには中山家の思想統制付の教典があったからです。
「どうせこうせ、あれもいわん、あれもいえん、いわんいえんの理を聞き分けるなら、何かの理も鮮やかという」という、おかきさげの一文は、「言ってもわからないことは言わないし、できないから。できることをちゃんと見極めれればいいじゃん」というのご教祖のことばです。
儲けることしか考えてない中山家は無視していいです。かんろだいは、助ける心を開いた自分自身の心の中にこそあると思います。天理教に捕らわれる人生ではなく、つまりそれはお供えをする、しないの議論ではなく、自分の人生を生きましょう。
よろしくお願いします。
うーん、天理教の存在意義って、そもそも何なんですかね!?
『何』の意味も無いようにすら思えてくるぐらいです・・・
別に存在しようが、しようまいが、誰にとって困るのですかね?
天理教の存在自体が、人類にとって、何が有益なのでしょうか?
最初に中山みき氏に「条件を受け入れれば世界を救う」「受け入れなければ屋敷を吹き飛ばす」
で、条件を受け入れたものの、世界は救われてますか?
ま、それは、1つの嘘も方便というような解釈とも受け取れますが
全て何もかもを「親神様のおかげです」に持っていけば、「それは、定説です」って言っているのと同じで、全てそれで片付いてしまうんじゃないか?と私は思ってしまうんですよね。
詐欺師が最初に実行するのは、カモになるか、ならないかの人の選定を行います
良心的な人間をあの手この手を使って、餌食にするのです
中山美伎の神憑りも、「俺の言うこと聞いたら神が助ける」ってことでしょ!
条件を飲み込んだら、神が守るってことですが果たしてどうかな~?
どこか詐欺の臭いがプンプンするんだけど
「貧に落ち切れ」なんて、誠実な人だったらそんなこと平気で言えない
元々誠実な人達で作った教団には思えない
天理教を信仰して、何ひとつとして有益なものはなかった。
なんかタダの天理教をdisるだけのブログに成り下がったなぁ。そんなに嫌いなら来なきゃいいのに。
ディスっているのではなく、ディスられる側に問題があるんです。
「火のない所に煙は立たない」
やっぱり、『世間の目』ってのは、そんなに節穴じゃないですよ。
信者離れがここまでになっているってことは、見てる人は見てる、分かってる人は分かってる、ってことなんだと思います。
別に信仰を辞めようが続けようが、それは各人の自由なのであって、強制ではなく任意なのであって、各人の自由意思の選択の中で、信仰を離れるって人の割合が多数を占めるようになったってことは、何らかの組織側に問題があるってことです。
よく会社でも、経営サイドに問題があるにも関わらず、辞めていった社員が悪いとかという厚顔無恥の考えの経営者がいますが、見方によっちゃ、会社側が従業員から辞められてしまっている(損失してしまっている)って見方の方が本筋のはずです。従業員側だって、自分が働いている会社(経営側)を評価してます。
天理教だって同じですよ。
本部側が大量に信者を失ってしまっているんですよ。(ま、そんな反省なんて教団側には皆無だろうけども)
つまり、それだけ〝何も魅力も無い〟ということに、信者側が感じ始めたということです。
何事も栄枯盛衰は付き物だと思いますが、ここまでの激減の仕方は異常です。
古い教会長さんへ
「船長の居ない大型タンカー」
真柱様というリーダーは。
何の為の「真の柱」なのでしょうか。
日本は例えお飾りで有っても。
殿様主義を好み選ぶ民族性です。
リーダーに気質が備わってなくとも。
周りがサポートして、支え合う、埋め合うのが。
大組織の1つの柱となるはずなのですが。
真柱様の出すべき善い人柄さえも。
壊してしまってはないでしょうか。
本部、本部役員、かなめ会?、大教会長、上級会長、
末端教会でも発言力の所、系統、地域性など。
教えという言葉を、自己勝手の為に使い。
教えとはズレた自己欲を権力を。
教えとして、神の伝えとして。
恥も未熟さも感じず省みず。
声高々に言い放つ、一部の権力かぶれな方々。
「船頭多くして…」なんて、戒めになる状態でもないですね。
天理教ごみ屋敷のタンカーが、世に迷走を続け。
志をもつ天理教関係者、無関係な非天理教の方々に。
ごみ片付けをさせている現状は。
止めなければならないのは、明確なことです。
宗教家としての、世に対する恥を。
もう一度、誠に考え戒め、行動して欲しく願います。
志を持ち、芯を持つ方々も沢山います。
舵を棄て、さじを投げるのはまだ早いですね。
古い教会長さんの、数々の文面から。
古い教会長さんの、長い間見続け感じた。
天理教に対する、純な志を感じます。
温かい人柄も伝わります。
古い教会長さんの、教会の信者さん方々は。
善い信仰の、触れ合いの場所に集え。
信者さん方々の安心感も在ると思います。
私も、素晴らしい教会長さんとも、接してきました。
素晴らしい教会長さんと接するほど。
自身欲、見栄を振りかざす多くの天理教関係者に。
天理教組織の恥じらいの無さに。
嫌悪感がつのり、怒りを積もらせると同じに。
切なくなることが多々在りました。
mamiさんへ
天理教人、天理信者と呼ばれる方々のほとんどが。
勝手に、天理教信者にさせられてる方々も含めて。
「たまたま生まれた場所に天理教があった。」
たったそれだけの事であり。
熱心‼?な天理教組織、関係者のように。
社会を天理教に無理矢理はめ込ませて。
執着、固執、騒ぎ立てることではないのです。
確かに、先祖や親、手を合わせ祈ってきた方々に対しての情は在るものです。
天理教の、いんねんというものは。
天理教が、天理教が為に作ったものです。
だから私は、天理教的な。
いんねんを切る、という言葉を借りれば。
人が人を踏みにじることを正当化し。
理不尽を権力や隠蔽でまかり通し。
先への夢や希望さへも、人生さえも奪いかねない。
天理教こそが、切るべき根元であったのです。
幼少期、青年期、社会期。
外で沢山笑って家に帰ってきて。
天理教の物を見ると、叩き壊して、庭で燃やして。
灰に戻して、地に還したいと。
こんなものが為に、自分も含めて。
どれだけの人が、悩み苦しみ、振り回されているのか…と思うと。
顔付きが変わる、そんな自分と葛藤し続けました。
出る杭を叩き喜ぶ、浅はかな天理教組織の大人達に。抗い続け、争い続け、長い道のりと時間を使い。
天理教を整理して、生まれてのは。
葛藤のない、自分らしい笑顔でした。
天理教組織は、初代、代々、先人の思い。
と、しつこいぐらいに伝えますが。
私は、先人の方々の魂も。
そして、天理教に理不尽に縛り付けられてきた。
今を生きる私の魂も。
天理教から解放したかったのです。
魂や想いは、縛り付けられるものでは在りません。
mamiさんは、笑顔いっぱいですか?
自分自身の人生で、自分自身の為の人生です。
せっかく自分自身に生まれて来たのだから。
迷い悩みながらも、自分らしく在りたいですね。
一読者さんへ
私のような者に素晴らしい言葉を、
書いて送りいただき。
正直に、嬉しくもあり照れもあります。
そして、本当に素晴らしいのは。
カインさんのブログ内容のそれぞれの記事であり。
カインさんのリアルな心情と意見。
見識、知識の広さと厚さですね。
私は、社会人としても、年齢に相応しい大人なのかも。
世間一般の物差しで言えば、生意気なだけかもしれません。
私が、生まれた場所にたまたまあった天理教を、区切りをつけ整理出来たこと。
生まれ持った性分が。
真っ直ぐ過ぎであり、白黒の色が強かったり。
天理教組織、上級部内会長達、関係者、母からも。
幼少期より、脅迫まがいな天理教言葉を並べられ。
天理教の教理とは、伴わない大人達を見て。
嫌悪し、抗い、争い続け。
そして、母も私と同じ脅迫まがいの言葉、信仰を。
天理教や前の代に押し付けられて来たことを知り。
私の家で続いてきたこんな理不尽な繰り返しは。
私が区切りを付け、終わらせる。
そう、歳を重ねる度に強い意志になりました。
そして、天理教に染まらず、区切りが出来たのは。
天理教に対して「反面教師」で在れたことです。
天理教関係者に、反発するだけではなく。
私自身、社会人として。
仕事もし、家にお金も入れ、家のこともやり。
心なくも天理教のことも最低限はやり、母も支えてきました。
やるべきことはやって来たし、乗り越えてもきた。
人として、男として、筋を通して争ってきました。
残念ながら、天理教には、筋はありません。
部が悪くなると、平気で掌を返します。
そんなこと言ってない‼忘れた!は、常でした。
さらには、会長や先生と呼ばれる方々が、逆ギレする始末です。
天理教に、筋は在りません。
一読者さんも、自身の言葉、自身の意志を持ち、発信しています。
とても素晴らしく思います。
色々な事柄を。
見て、感じ、調べ、思うことがありますね。
私は、10代の頃は。
天理教には、洗脳という言葉は、当てはまらない、ないと感じていました。
しかし、社会人になり、20代を向かえると。
少しづつ、違和感を感じるようになりました。
天理教組織、関係者と言い争いが増えると。
天理教用語を並べ立て、自身を省みない姿、振る舞いを見ると。
天理教にも、洗脳は在ることを痛感しました。
対義語…の部分は。
全て天理教組織に当てはまる言葉ですね。
組織だからこそ、色々な対話の意見を聞き交え。
天理教を磨き上げていくのが、組織のやるべきことだと思いますが。
向上心も持てなく、自問自答、葛藤をしない。
天理教の伝える陽気ぐらしの姿には。
操られているような、自己判断も出来ていないような、怖さを感じる時もあります。
もしかしてら、正確には。
臭いものに蓋をし続けてきた。
「容器ぐらし」なのかもしれませんね。
「天理教社会学研究所」
この言葉の意義を考えるだけでも。
とても沢山の意義が、ここには詰まっています。
天理教組織、本部役員、大教会、上級教会、天理教関係者の方々。
皆さんが、ご自身の信仰する天理教ですよ。
ご自身の信仰を、問題が挙がっているのに。
見ても聞いても、知っていても。
他人事のように、流し済ませていくのは。
もう、やめませんか?
カインさんが、このブログを存続されている間に。
今まで、目をそらし続けて来た事柄と向き合って、1つでも2つでも。
組織改革を、行動に移して欲しく願います。
「史実は、決して真実を語っていない」
歴史は、権力者の都合のいいように歪められているのも事実
全てを鵜呑みにせず、これってどうかな~?と自分の心と向き合い、考えてほしい
自分の信じている信仰は正しい、と思いたくなる気持ちは私にもわかりますが、
でも、やっぱりおかしいものはおかしい
はぐれ雲さんのような建設的な意見は支持します。
データもない感情的な、ネガティブキャンペーンは支持しません。
傍観者さま
ネガティブキャンペーンって面白いこと書くね~
で、その根拠教えてくださる
徳子さま
個人的には徳子さんの境遇にはかわいそうだなぁと同情もします、そういう関係性を生み出す素地(ヒエラルキー)が組織にはある事も認識してます。
しかしそれが天理教の全てではないので。
正すべきところは正す。自他共に「なるほど」と思われる集合体(別に天理教という名前でなくても良いと私は思う)になるため問題を洗い出す。それを共有するのがこのブログの良いところだと思っていました。
ただ悪意しか感じられない意見はネガティブキャンペーンと取られても仕方ないですし、実際偏見だけで書込みされている方もおられますので申したまでです。
傍観者様
天理教を信仰している方の中には、心優しき人もいることは存じ上げています。
でも、そういう方は、教団の中ではおとなしすぎる。
私の周りには、母をはじめあまりにも身勝手なひとばかりで、「我さえ良ければ、今さえ良ければ」
で、問題が起きても神にすがることしかできなくて解決能力がゼロ!
もしかして他宗教の方からの書き込みであったとしても、実際、私の住んでいる小さな田舎町でも天理教の存在は薄れています。
「病助け」では、教勢は伸びないし、虐げられた教会の子弟は離れるばかりです。
それもこれも中山家、本部役員、大教会の「おらが神様だ!俺は徳があるんだ!だからお与えは神からの授かりものだ」と豪語しているが、実際は信者から巻き上げたお金ですよね。
私自身、中山美伎に降りた神に霊性があったから、多くの人が助かり救われ教勢が躍進的に伸びたと思っております。
この崇高な霊性が、残念ながら金!金!金!で失われたように思います。
徳子様
こんにちは。私は一信者です。
何と言ってよいか正直なところ、言葉が出ません。
徳子様の上級の「ハンドバック投げ」の会長夫人は、徳子様に何も言えない、言えるだけの誠のない、
ただの「おばさん」であると思われます。
お姉さまも災難でしたね。だいたい、土下座という儀式は、TVの影響をもろに受けている証拠ではありませんか?
投げられたバックは、いくつもあったようで、お金持ちなんでしょうね。
投げたバックは住み込みさんがひろったのかしら?なんて、おバカな人なんでしょうね。
徳子さんの悔しさを、聞いてくれる人はそばにいないのでしょうね。
悔しいですよね。
「何こんなかったるいこと書いてるの?」と理知的な徳子さまは、いらついていますか?
私、1950年生まれです。しばらく時間をください。多分私の方が年長者だと思うので
すみません、その点だけで、リスペクトを。(うざったい?)
一信者なので、教会が上級から押しつけられる金額の達成に関しての見聞は全くありません。
なので、根拠もなく、資料もなく、徳子様から見れば、批評に値しない、ただの年寄り信者かもしれませんね。
でも、お供えに関しては信者の立場でも、発言させていただいてもかまいませんよね。
本部へと下から積み上げられるお供えは、心定めとしての(所謂ノルマ?)額が達成できない場合、
どうなるんですか?
会社では予算に応じて物事が運ばれます。
不祥事を起こす会社は論外です。
天理教も会議を開いていて天理時報に掲載されていますね。
前年度の実際に集まったお金を翌年度の予算として使えば、身の丈に合った会計に
なりますよね。
言い換えれば、実態に見合った普請、実態に合った活動。
心定め=見込額ですから、組織としてはあり得ない決め方です。
実際はどうなのですか?
収入が見込み額ではだめだと言いたいのです。
教会の娘さんならご存じでは?
心定めは上から言われた額、そのままなんでしょうか?
一応、ハイと受けて、やってみた結果が、100%達成できない場合もありうるわけで、
ここからが本題です。
達成できなかったら、「申し訳ございませんでした」とお詫びすればよいと思います。
それこそ、「低い心」の実践です。
金持ち信者を抱えている他の教会は、自分の所よりも会長さんからチヤホヤされるかも
しれません。人間なんてそんなもの。
でも、よろしいではありませんか。できなかった=努力しなかった ではないことを
=====神様がちゃんと見ているはず。======
なぜ、無理をするのか、その気持ちの中には、親に喜んでいただきたい!という、
純真な気持ちが有るのでしょうね。
でも、昨今の社会情勢を少しでも見聞きしていれば、低所得で生活に苦心している人の
多いこと!いくら心定めしても、政府があんなんでは無理って、だれでも思いますよ。
TVでマツコが言っていました。 「このごろ、臭い(匂いが)(高齢者の)女が多い。許せない」そうです。
年金の額が少なければ予定をうまく組んで、3日間、風呂に入らない事、ふつうに有りますよ。
恵まれた人にはわからないですね。
教内でも同じです。
無理して、借金して、お供えするより、心を低くして、お詫びする方が天理教らしいと思います。
それを実践する度胸が有りそうな徳子さんに実行してほしかったです。
徳子さんの場合、おそらく一軒家でしたよね。
私の両親は最後まで借家暮らしでしたから、うらやましいと草葉の陰で思っていますよ、きっと。
刺激するつもりは全くありません。すみません。
言いたかったのは、下には下が、どん底が有るということです。
徳子さんは徹底的に上級の会長夫人に文句を言うべきですよ。
大切な姉に、バック投げをするなんて、ヒステリーの病でしょうかと。
暴力行為ですから。非は会長夫人にあります。
徳子様にお願いです。
自分の教会、教会子弟の外にも目を向けてください。
それから、「ジュリア」という映画が有るのですが、一場面で
名もない男性が、天を指さしてほほ笑む場面があるのです。
神の存在を示す指に若かった私は激しく共感しました。
機会が有りましたら是非、ごらんください。
私の信仰を表しています。
それと芹沢光治良先生の著作を読破されてはいかがでしょうか。
130年祭を前に再読をしていますが、徳子様には、きっと、
涙なしには読み進めないと思います。
人間の運命は完全版が出ていますから、図書館に行けばあると
思いますから、ぜひ読んでください。
「ひとりぼっち」ではなくなりますよ。人生の同伴者のような手ごたえが
きっと感じられます。
きっと徳子さんの孤独な心に、寄り添ってくれるような、何かが
得られると思います。
本当はお会いして、しっかりと徳子さんのこれまでのご苦労を聞かせていただいてから、
書くべきなのでしょうが、どこに住んでいらっしゃるか分かりませんし、言葉の行きすぎが有りましたら
許して下さいね。本心からそう、思っています。
長文、失礼しました。
(私は東京に住んでいます。)
お詫びなんかでは済みませんよ。上級・大教会・本部が神なのです。一生懸命やったとかどうとかは全く見てくれません。出す金額(他にも初席者数等)が全てです。
特に金額を達成できなかった教会長は、心ない理の親(笑)から徹底的に罵られ、ネチネチと長きにわたっていびられ続ける所もあります。人によってはその教会に所属する一信者に向かっても平気で罵声を浴びせます。
現状の天理教における心定めというのは、神=上級・大教会への誓いなのです。誓いを達成できなければ当然その神は怒りますし、逆に簡単に達成できるような生易しい数字を誓えばまた怒ります。だからギリギリの数字を心定めし、その達成のためには借金なども厭わないという現実があります。神様は見て下さっているとか、それ以前の問題で、まず明日を生きることさえできなくなるのです。
考えてもみて下さい。天理教にドップリ浸かってきた末端教会の会長が、たかが金銭のためだけにある日を境に上級から目の敵にされ、かと言って組織から逃げ出し、社会に出ようにも年齢的に叶わない(日雇いでも何でもあるだろうと思われるかもしれませんが、長く安定はしませんよね?)。実際にそういう境遇に追い込まれて自ら命を絶つ方だって居るのです。
だからと言って、私はそんな末端教会長を助けようとも思いません。まずは自分の生活を守らないことには何も始まりませんから。自分が食うに困るような信仰生活をしていて、周りの人に天理教の魅力を感じてもらえますか?あり得ませんよね。
金金金。金が全てではないと言う綺麗事を並べる人もいますが、それは、最低限の金を手にしているからこそ言えるんです。お金よりも心が大事なら、あれだけ立派な建物、車などは不要なはずです。世界人類が兄弟であるなら、兄であるべきお偉いさん方が、困っている弟や妹たちに対して責任を負うべきなのに、逆に半ばカツアゲのようにガッポガッポと掻っさらうだけ。そしてこの序列は生涯変わりませんから、それは大多数の下っ端は愛想つきます。
もう教会本部自体後戻りなどできない状態に来てますから、もう組織などどうでもいいですけどね。私は組織から距離を置き、神様に問いかける毎日です。ちょっとすみません、助けてもらえませんか?と。
読みづらい文章になってしまい申し訳ありません。天理教に精神を壊されてしまった者からでした。
匿名を許してください(一般信者です)様
私は、日和見的な生き方をしたくない!それだけです。
徳子様
日和見的な生き方は、神様から見ても人間から見ても、さえない生き方だと思われますね。
だからこそ、会長夫人の暴力には一言申し上げることが日和見からの脱却では?
とはいえ、徳子様がそのような行動に出れば、お姉さまやお母様が、怒りまくるでしょうね。
だから、どうにもならず、どうしようもない怒りを体にため込んでおいでなのだと思います。
でも、バック投げなんて、そんなことおかしいでしょ?
表ざたにすればよいのですよ。
日和見に陥りたくなければ、冷静な文章で、かつ、自省点も忘れることなく、
すてきな文章で、さらっと書いてください。
内容はバック投げに絞ると効果ありです。
こんな失礼な信仰者がいるのだと、一言書けば、会長夫人は、きっと寝込むでしょう。
天理教という言葉を入れる必要はありません。
入れなくても、本人は分かりますから。
掲載されなくても、その新聞社には資料として残ります。
場合によっては記者から取材を受けることもあります。
私事で恐縮ですが、天理教独特の口調で、あなたの心の中で因縁をつんだのではないの?
というような事を言われたことが有ります。
家の代々の因縁が表れたことなのに、私の心使いが悪いというのです。
すかさず私は反論しました。
ともに家の因縁を顧みる作業を丁寧にしたうえでの言葉であればなるほどと納得いきますが、
いきなり高飛車にこういう言葉で人を断罪する人が多いですね。
そういうところが天理教はいやなんですよ、とはっきり申し上げました。
カウンセリングだって、まず、人の話を聞いて受け止めるという手順が有るじゃないですか。
天理教は普通の人でも先生になっているから、このような対応しかできないのです。
一応、反論はしておきましたが、心の中では実は、どうでも良いと、分からない人はわからないな、と。
今はそれどころじゃないんです。
自分の信仰をどこまで成熟できるか、人間として完成度を高めることができるか、
出直すその日まで、生きている私たちは修行のためにいるのですから、がんばらなきゃね。
徳子さん、お友達はいないのですか?
ばかにされたっていいじゃないですか。きっと、今の状況を話せる人が出てきますよ。
それが神様の配慮なんですものね。
一人では苦しいばかり。
姉妹や両親だって、信仰は別々ですね。
これは真理です。
私の家族もそうですけれど、当たり前だと思っています。
信仰は一人一人のもなのだから、お母様やお姉さまが、徳子さんの思い通りの信仰、行動を
とらないからといって、心を乱されては、徳子様の心にブレーキがかかってしまいます。
血縁でもない人からブレーキをかけられ、そのたびに苦しい思いをしていましたが、その方の
家族に身上が出て、初めて、その方が謙虚な言葉を言ってきました。
信仰が長くても、経験しないとなかなか分からないのですね。
そりゃあそうですよ。 私たち人間は学び中なんですから。
私などは、良い年をして、まだ、痛い思いをして、初めて分かることが、いまだに多いのです。
こんなおバカな自分ですが、一歩一歩信仰の歩みだけは努力しています。
生きるの疲れたさん
天理にカフェがあるといいですね。
信仰者向けの。
最近のことですが、本通りの◎●ラーメンの角を曲がったすぐの喫茶店で、修養科生の方と話しました。
詰め所の先生に、お助け経験はあるのかと問いかけてしまったそうです。
お助け経験がなくても大学には行っている先生が増えていますね。
女でも大学に行っていますね。
恵まれた方が多いのかな?
教会の人が良い生活をしていなかったら、入信する人なんていない?
そんなふうに考えないでくださいね。
教会の人たちは、ついつい、一般信者は信仰のことを何も分からないとばかりに下に見るんですね。
世間の人は、反対に、教会の人がいい暮らしをしている姿を疑問に感じるものですよ。
ありえないでしょ?って。
世間知らずが天理教には多いのかな?
いえ、自分可愛い、自分が一番という風に、身を守る結果が、それなのでは?
つまり、人間が人間を断罪するから、そのようになるのですよね。
でも、中には素晴らしい先生がいらっしゃるのも忘れないでくださいね。
最近はそういう方々との出会いが多くなり、嬉しいです。
でも、皆さん、くたびれた服を着ていますよ。
でも、顔が違います。
話が違います。
なんでもそうですが、極める道を歩む人たちは、貧乏だって輝いています。
子供もbannbann産んで子だくさんです。いいですね。
お古の服なんて、信者の私たちだって着るのは普通です。
亡くなったお母さんの服を回してもらったり、なんでも頂きます。
教会育ちの方は、貧乏は教会だからと100%思いがち。
50%だけはそうかもですね。
悪口書きます。
本部員さんでも?????????なひと、いますね。
もうすぐ、その先生が又、はなしに来ます。
笑ってすごすことは良いことなのですが、私はもっと、
お助け話が聞きたいです。
それが無いなら、自分の家の因縁を懺悔する話から
自分の信仰の反省話を聞きたいです。
きれいごとの話を聞いても笑えません。
でも、このことを他の人に話したところ、高慢だと言われました。
きっと、そうなんでしょう。
でもそこには、何のために時間とお金を使って教会へ足を運ぶか、
お話を聞いて、わが身を振り返りたいからなのです。
内職の時間をさいて行くのですから、笑い話ではがっかり。
毎年そうなのです。
本部員さん、しっかり信仰を深めてください。
話し方が下手でも、内容が有れば、私たちは聞きとります。
世話人さんのレベルアップをしてほしいです。
だれに言ったらよいかわかりませんので、ついでに書きました。
天理カフェでもあれば、ノートを置いて書きつけることもできますね。
だいすけさまあたりが若いからやってくれないかな。
なーーーーーーんて、ね。
私も疲れたので又内職に戻ります。
5円の中から1円手数料を取られるのです。
でも0円よりは10円欲しくてがんばっています。
教育が無いもので、へたくそな書き方で、ごめんなさい。
こうでもしなければ徳子さんの気持ちは、もっと黒々とした物になってしまいます。
早く自分の人生を見つめなくて、いつ、出直しがくるか分からないくらい、
今は切迫した時代です。
広く世界を見てくださいね。
徳子さんが一生懸命に守ってあげたくなるような、自分の家庭を持つことが
多分、一番の解決法だと思います。
目の前に守らなくてはいけない子供を抱えると、訳のわからない会長や、
会長夫人にはかかわっていられなくなるはずです。
気持ちの整理をつけることが、日和見からの脱却方法です。
新聞の家庭欄の投書欄にでも投書すれば良いのですよ。
匿名ではなく実名で
例文の一部
いつか宗教法人にも課税の目が厳しくなると思いますよ。
政府は取れるところから取ろうと、姑息な方法を一生懸命考えているのですから。
天理教に限らず、他宗教でも、あるいは会社でも同じように、上の者が下の者をいじめるって、
日本中に溢れかえっていると、これまでの経験で思い知っています。
だからこそ、同じ仕事をするにしても、たとえばレジで接客するにしても、誰がレジ打ちしても
購入金額が変わることはないものの、自分の仕事のやり方は、とにかく人に親切に、
明るい気持ちになっていただくことを心掛ければ、今日も人さまの役に立てたと満足感を
持てるのです。
すみません。
削除するところを削除しないで送信しました。
途中から下が削除部分でした。
あーーーーーーー、恥ずかしい・・・・・。
みなさん笑ってやってくださいね。
まず姉のことですが、姉から直接私に話があったわけでもなく、人伝てに聞いたことですし姉も立派な大人です。
天理教用語では、「たんのう」と言う言葉があります。どんなことをされても「たんのう」して暮らせみたいな教えがあります。
大教会長夫人も私には恐ろしくて手が出せなく、部下教会の従順なる信者である姉を苛めたのでしょう。
姉は姉で解決すべき問題です。
一般信者さんは、一体何を私に仰りたいのですか?
私は「思想の自由」が欲しくて欲しくてたまりませんでした。
教会の中で、天理教用語を連発し宗教儀式にがんじがらめに縛られ、息もできないようなこのままでは窒息するのではないかと思い、そこから教会廃止論を考えた次第です。
一般社会では、例えどんな理不尽な目にあっても、働いた対価として賃金が発生します。
しかし、天理教はお道の中で懸命に働いても働いても無報酬、綺麗な言葉を並べての搾取ではありませんか。
これのどこを信じるに値するのか、私にはわかりません。
匿名を許して下さい(一般信者です)様
横から失礼します。
2015年10月14日 6:08 PMのコメントを読ませていただき、理解できないといいますか、
違和感を感じた部分がありましたので、以下一部コメントさせていただきます。
>達成できなかったら、「申し訳ございませんでした」とお詫びすればよいと思います。
それこそ、「低い心」の実践です。
金持ち信者を抱えている他の教会は、自分の所よりも会長さんからチヤホヤされるかも
しれません。人間なんてそんなもの。
でも、よろしいではありませんか。できなかった=努力しなかった ではないことを
=====神様がちゃんと見ているはず。======
この部分には非常に違和感を感じました。 「心定め」や「お供」とは、本来金額を人から指示されたり、
暗黙の威圧を感じたりしながら、頑張って達成するものでしょうか?
また、『達成できなかったら、「申し訳ございませんでした」とお詫びすればよい』とはどういう意味ですか?
心定めやお供えとは、組織運営や維持、そして上の教会の人々の生活費ですよね。
だとしたら、金額云々以前に、たとえ少額でも其々の人が純粋な気持ちでお供えされるものは、
お供えされる人に対し、「少ない」などと不足を言う前に、協力して下さったことに対し感謝するのが
常識なのではないでしょうか。 上下関係とはいえ、地主と小作人ではないのですから、
相手を理解し尊重する気持ちも大切なのでは。
実際には、神様が、集めたお金を集金に来られて喜ばれたり、その金額に応じてそれ相応に願いを叶えて
下さるなんてことはあるはずはないのですから。それは宗教上の建前ですよね。
実際のところお供えとは、組織運営や維持、そして上の教会の人々の生活費であることは事実なのです。
なので、触れて欲しくない部分には目を瞑り、建前を信じて、お供えを差し出してくれる信者さんに対し、
相手の立場になることが出来たなら、「金額が足りなければお詫びすればよい」などという言葉には
ならないのではないでしょうか?
>金持ち信者を抱えている他の教会は、自分の所よりも会長さんからチヤホヤされるかもしれません。
人間なんてそんなもの。でも、よろしいではありませんか。
もしもそんないやらしい教会があるとしたら、それは、純粋な信仰とは全く異なる価値観に支配されて
いる所だと思いますし、そんなところにしがみつきながら、金銭、心身共に何故尽くさなくてはならない
のか疑問に思いました。何かそこに価値があるのでしょうか?全く理解できません。
親様も「神は嘘と追従(ついしょう)これ嫌い」と申されていたはずです。
匿名を許して下さい(一般信者です) さんの
>達成できなかったら、「申し訳ございませんでした」とお詫びすればよいと思います。
という部分は、柏木庫治さんの本の中に出てきます。「心定めは大きい程良い」という部分もあります。これは柏木庫治さんの信仰であり、生き方でありますが、この先生の影響をうけた人が多くおられます。
私も影響を受けていました。でも最近は、柏木庫治さんの話は洗脳もしくはマインドコントロールではなかったかと思うようになりました。「設立20年で大教会になった」というのがステータスでしたが、教会が全て大教会になれる筈がありません。話術が素晴らしくて、「おつくし」の話も納得させられる。でも、一度は出す気になっても、続くわけはありません。出し続けた、その延長線上に今があるのです。みんなヘトヘトになっています。
もういい加減に教理の洗い直しをしなければ取り返しがつかなくなる。
ちょっと話がはずれますが教えていただければ幸いです。130年祭にむけて信者様からあがるお供え金はこれは必ず全額を、上級をとおして上に上げていかなければならないものなのでしょうか?自分が担当する教会の神殿修理に(今年、予期せぬ台風被害で)200万弱の費用がかかり前会長である両親の年金や私のわずかな預金をかき集めて全額自己負担しました。信者さんは5名に足らない末端教会で教会の維持や布教活動をするにしても万年赤字会計です。私としては130年祭にむけて本部ではなく自分の教会にお供えをしたと思っており、今回信者さんからのお供え金からただの2万円でも3万円でも修理費用に充てたいのです。高齢の信者さんにあらためて修理費用の負担などお願いできるはずもなくまたお願いするつもりもありません。私たち末端教会が上級、そのまた上の上級の普請や何やかやでずっとお金で苦しんできたので気持ちがよくわかるからです。私たち末端教会が息絶え絶えになっていても、やはりこの130年祭のお供え金は本部に行くべきお金なのでしょうか?私利私欲に使うのではありません。自教会の修理費用に充てるのは筋が違うでしょうか?皆様、どなたか教えていただけたらと思います。末端教会と言えども親神様をお祭りしています。本部と違うおがけが無い神様を毎日拝んでいるのでは無いと思っています。末端教会に存在意義がない訳はないと思うのです。この先またどこか修理が発生するようなことが起きたら生活が脅かされるような気がしています。末端はいつも出す一方。今回の修理費用、当然のことながら上級からの援助があるはずもありません。
本部は、お金には困ってはいないでしょう。お金は困っているところに必要なのです。困っていないところに持って行ってもお金は生きません。
「自教会の修理費用に充てるのは筋が違うでしょうか?」・・・・そんなことはありません。勇気を持ってお供えを減らして下さい。
出来ないことはできないと、はっきり言う勇気も必要かも。ただ、そのことで心を悩ませたり傷めたりしないで下さい。強くならなければと思います。何かありましたら、ここで大声で叫んで下さい。必ず援助のメッセージが届くと思います。
追加です。上級教会より信者さんからの130年祭のお供えは封を開けずにそのまま上げて欲しいと言われたのです。誰がいくらして誰がしなかったかも丸わかりです。プライバシーもあったものではありません。前会長である父は地を這うような熱心な信仰をしておりましたが父は全部開封しその中から一部自教会の教会活動に使わせていただいており、それは教会長の裁量の範囲だと申しておりました。私利私欲で使うのではないと申しておりました。名前入りのお供え袋をそのまま出せと言われ私としては自教会の修理代に充てたいと反論したいのです。その父も亡くなり今、相談できる人がいないのです。
「それは、神様が言われているのですか?会長さんが言われているのですか?」
「神様が言われているのならそうしますが、人間が言われているのなら、こちらの裁量でさせていただきます。」
「それで何か不足があるのでしたら、直接、おぢばに持って行きます。」
と、私なら言います。
古い教会長様
さっそく有難うございます。そうですか。やはり自教会の修理費用に充てていいのですね。すっきりしました。ありがとうございました。私としては常々1円でも上へのお供えは減らしたいとは思っているのですが、こと130年祭のお供えは信者さんの本部への思いがこもっているはずのお金なので、間でねこばばするみたいで気持ち悪かったのです。自教会のために使わせていただきます。減額します。ありがとうございました。
古い会長様
会長さんが言うのです。何か言われたら本部に直接持っていくといいます。ありがとうございました。心強いアドバイスでした。ありがとうございました。
130年祭祭典終了後、本部では盛大に直会が行われるそうです。本部のお偉方はもちろん、青年、もしかすると本部勤務者や教会長まで全員お呼びがかかって、とても盛り上がることでしょう。もちろん費用は信者さんがない中を必死にこしらえたお供えがバンバン使われることでしょうし、それに対する罪悪感など、幹部達は思いもしないことでしょう。
仮に北大路乗降場に大きなテントを建てて、豪勢な料理を振る舞って、予算は数千万は下らないはず。この直会が行われるのは、確かな情報です。
こんなことに我々のお金が湯水のごとく使われていくのです。ビタ一文お金は出さないでおきましょう。
直会というか、教会長に対する真柱様からの労いの御招宴ですね。杣之内の体育館で行われます。
幕の内の弁当とお下がりのお神酒が振舞われる程度の物です。
青年会の中枢にいる様な人でも豪勢な料理が年祭後に振舞われる事はなかったです。年祭の日ともなると受け入れの「ひのきしん」で忙しく神殿に参拝することもままなりません。
さて、今回の御招宴も久しぶりのもので年祭毎に行われるものではありませんが、本部から全教会長に対する「形」で表される唯一の労いの場である事に違いはないでしょう。17,000有余の教会長に対する直会ですのでそれは相当の経費がかかるのは当然だと思います。
しかしこれとて半数の教会長が出席すれば良い方でしょう。高齢の教会長、増える一方の事情教会。遠方の教会長は信者さん方を引率し連れて帰らなければなりません。
労うべきは純粋に道を求め、教会の手足となって働いて下さる信者さんなのは言うまでもありませんし、教会長も飲ませ食わせさせて貰って喜ぶ馬鹿ばかりではありません。
ただ真柱様に招いて頂くことが勿体無くありがたい事と思い遠方に帰っても、とって返し御招宴に出させて貰いたいと思っている教会長は沢山います。
でもこれが新たな経費負担となって重くのしかかっている事も事実です。
辛かった教会の娘 様
今、ものすごい勢いで事情教会が増えていっています。
教会長として、日々つとめているだけでも、大変な親孝行です。
自分を責めることは、いりません。教会が元気で、信者さんが元気でなければ意味がありません。
何があってもニコニコと生きましょう。神様はいい加減が好きなのです。
古い教会長様
日々つとめているだけで大変な親孝行。ありがとうございます。現在の自分のあり方で堂々としていていいのですね。昨日上級の月次祭に来ていたそのまた上の上級会長さんと話をしていて最近物忘れが激しくてねと嘆いていたら「あんたは暇なから忘れるんだ。わしらは忙しいから大事なことは忘れん。」とはき捨てられました。集計上の初席者や帰参者の数が私の教会が一番少なかったので「あんたは暇だから」の言葉になったのだと思います。信者さんの娘さん宅やらに三日講習のお誘いやら私なりに声かけしております。しかし数に執着するあまりの強引なやり方は世間的な目から見て天理教の面目つぶしですし、人として恥ずかしいことだと考えておりますので私は時間をかけて天理にお連れすればよいと思っています。神殿講話で教会名を挙げてこの130年祭の旬に何してるんだ、と槍玉に挙げられ私は何のために月次祭に参っているんだろうと空しくなりました。人としての在り方、人間の幸せとは何かを聞きたいのであり、数字のはっぱをかけられることを居並ぶ信者さん達も望んでいないと思いました。「ようぼくを作れ。ようぼくしか人だすけは出来ないんだ」とも言っていました。ようぼくしか人だすけが出来ないなんて・・・世界の科学者、生理学者、日本のノーベル賞受賞の方々、おそらくようぼくではありません。必死に作ったようぼくよりもどれだけ全世界を救っていることか。小さな天理教世界の中だけでしか物事を考えられないようではこの衰退も当然の姿かと白けた気分です。
古い教会長さま、心が晴れました。堂々とよい加減でニコニコしています。ありがとうございました。
傍観者様
同感です。本当にご招宴については気持ち悪いです。私は断わろうと思います。美味しいものを食べさせられて喜んでいるほど私も馬鹿ではありません。上手にくすぐられている気持ち悪さを感じないといけません。無い中を捻り出された末端教会や信者さんからのお供え金を使っているのは確かですもの。真柱中山家が負担しているはずはないですもの。行かない理由を上級教会に述べて、少しずつでも中から発信しないといけないですね。
あなたは、大きな人助けをされていますよ。あなたの教会のお陰で、責められることを逃れられた教会長さん方がホッと胸を撫ぜ下ろしておられます。一人万人を救うとは、あなたのことです。
神様は、あなたを愛しいと思っておられるはずです。
ご招宴には、私はいきます。呑んで食べて言いたいことを言うてこようと思っています。
どの組織でも一番泥水をすすり、残飯にすらありつけないのは末端の人間。年祭が終わったら終わったで、「これが終わりではない。ここからがスタートなのだ。お前らしっかりやらんかい」とまたケツを叩かれるのは目に見えている。我々下っ端は一生そうやって馬車馬のようにこき使われるだけなのです。見返りを求めてはいけないのはわかる。しかしこれではあまりにも浮かばれない。
古い教会長様、どうか存分に暴れてきて下さい。期待してます(笑)
徳子様をはじめ、皆さま大変失礼しました。
何か自分の文章が、思いもよらない読み方をされていることに気がつきました。
とても違和感があります。
一般信者の自分が何を言っているのだという、反発心と、悪意の感じがあるような。
因みに柏木先生の事は知りません。
自分が言いたかったのは、できなければできないというしかないのだという単純な発想でした。
それが許されないような酷い教会が有ることをこのサイトで知ったから、無理することはないと
応援したつもりでしたが。
きっと自分のような一般信者は教会の方を理解できないということなのでしょう。
そもそも闖入者だと思われたのかもしれません。
大変申し訳ございませんでした。
とりわけ徳子さんにはいらつかせてしまったようでごめんなさい。
忘れてほしくないのは徳子さんのような教会の方の下に
われわれ一般信者がいるということです。
失礼いたします。
匿名を許して下さい(一般信者です) さん、わかりますよ。
かつて、私もあなたと同じ発想と行動をしていました。何でもわかっているように、ものを言っていました。まるで「あー言えば、じょうゆう・・・」のような感じでした。
ちゃんと、自分の頭で考え、自分の意志で行動し、自分で責任を持って行動することが大切です。
ご気分を損ね失礼いたしました。
皆さま申し訳ございませんでした。
匿名を許してください(一般信者です)様
いつしか会える日がきて、貴方とゆっくりお話しできたらいいな~と思っております。
私の孤独、友人がいないよりも、一族が天理教信者なので親戚と義絶した寂しさはあります。
それでも自分の意志を貫いたことの結果の副産物として、「貧困からの脱却」ができました。
天理教を経済からみてしまう自分がいます。
自教会の信者さんは、心配しなくても百戦錬磨の方ばかりです。
はぐれ雲さんへ
「たまたま生まれた場所に天理教があった」に私が強く反応したのは自分にそれだけの思いがあったのだろうと思います。
中山みきの生き方の中でいちばん影響されたのは谷底布教です。この生き方は必然的に弱者の立場、マイノリティの側にたち、高山(権力側)と対峙する生き方をせねばならないと思ったのです。ただ問題なのは私自身自分ががこの世に生まれてきたことを肯定できてもいない時からこの考え方に縛られたことです。この二つの間で多くの時間を費やしてしまいました。現在は自分自身は分裂せず自分として生きていると思っています。
匿名を許して下さい(一般信者です) 様
違和感を感じたコメント部分について率直な意見を申しましたが、
決して気分を損ねた訳ではありません。どうか謝らないで下さい。
ただ教内等ではおそらく違和感無く受け取られるであろう意見について
正直な気持ちで疑問を投じさせて頂いただけです。
あたりまえのように感じられることも、今一度掘り下げて考えてみると、
別な側面が見えてくる場合もあります。
例えば、謙虚と卑屈さということに関して、こんなことを言われている人もいます。
著述家である千田琢哉さんという方の言葉なのですが、
『自分は謙虚だと思っている人の大半は、単に卑屈なのだ。
謙虚というのは、目上の人間が目下の人間に、気を遣わせないようにと配慮することである。
卑屈というのは、目下の人間が目上の人間に嫌われないようにと媚びることである。』
年祭近い感じなのに、ほとんど活気ない感じですね
徳子様
全てを鵜呑みにせず、これってどうかな~?と自分の心と向き合い、考えてほしい
これが、宗教を信仰する人達には絶対に必要ですよね。
別に、信仰していなくても、全ての事柄に関して興味や掘り下げは必要かと思います。
良い例では、安保法案改正案なんかも、マスコミが都合のいいように報道されている様にね。
特に、教会長には常に必要な事ですよね。
世間に目を向け、困っている人に手を差しのべる事が自然と出来る心を持つ事が、教会長に求められる事だと思うのですが、それができない程に色々と行き詰まった事柄が多すぎで、疲弊している方々が沢山います。
書きましたが、言葉足らずで語弊があるかと思いますが、失礼な事がありましたらお詫び致します。
このサイトで色々な意見が出て為になりますし、部分的にですが同じ事を思っている所もあります。
本当は会って話したい事、議論したいことも沢山あります。
斜め、横、後ろ等、様々な角度から切り込んで下さる方々が居るから面白いですよね。
嘘や確証が無いことに関してのは誹謗中傷はいけないと思いますが、それ以外は言論は自由ですよね。
又、皆様に教えられる事が多く感謝しております。
ありがとうございます。これからもお願いいたします。
財政の公表は、天理教はこれでもこの規模の宗教団体に比べればしている方の宗教団体だと思いますよ。
ただ、会計や運営をしている本部の人達が、ド素人で無能なだけだと思います。
創価学会は勿論の事ですが、財務諸表等の公表等を求め、税金を掛けると成れば、京都奈良をはじめ神社仏閣が大反対すると思われますし(不動産や明朗でない会計が沢山あるため)、そうなればほとんどの宗教団体が潰れるでしょう。現在は天理教の教会では、教会に住んでいる人達全員を国民年金から厚生年金に切り替わると言われているらしいので、それだけでも破綻しちゃうと言っている教会があるぐらいです。
とにかく、相当な額の収入源がないと、税金が掛かれば維持も出来ない所が、天理教だけに限らず沢山あるでしょうから。
悩み人様
私が、カインさんのブログを通して天理教の毒舌、敢えて批判を覚悟のうえでコメントを出さしてもらってますが、ここにくるまでには私なりに過酷な道のりがありました。
母は、末娘であることが同じだけの単純な理由で、私にこかん様のようになって「母をたすけよ」とあからさまに言う人でした。
無論、天理教の批判など話題にもできませんし、ただひたすら自分の運命を悲観していた時もありました。
今、天理教の渦中の中でひたすら苦しんでいる方に、一番読んでほしい応援メッセージです。
ずるい人達から距離を置いて暮らすこと、それができる環境でないならば、徳子みたいな人間でも神から罪も罰を受けなくて社会生活を送っていること。
そして何より生きる希望を失わないでほしい。
いつでも徳子は会いに行きます。
諸井家であれ松田家であれ中山家であれ、中山みきの権威の前では無力であって、仮に運用に欲を交えれば返しにあう。
身体に不自由になる、生命を失うなどの返しが中山みきの権威の表現である。
「天理教の雑収入4億6千万円はどこからきているのか」 表面上に出た雑収入の何十倍何百倍、表に出ない収入がるとみたら正しい。
天理教の資産は全国の天理教会の土地財産であって、日本でも自衛隊、東大、などの高額不動産所有社が天理教団なのである。
情けないことに、人を助ける心の無い幹部ばかりなので、教団全体は不自由であるように見えるが、地場は独り立ちしている。
諸井家も松田家も「道具」に過ぎない。
天理教の総資産を数値化したら、人助けのための経済力に驚かされ、こんなものを今の「情けない・人を助ける心無い」幹部に扱わせる中山みきではないと、わかるであろう。
その資産は創価学会をはるかにしのぐ。
「善兵衛は地持ち」⇔ 「天理教は地持ち」 ここを知って、甘露をいただく旨味を世界たすけに使えるように、我自らを変えたらいかがかと思う。
天理教社会研究をなすという学会員系カインさんは、こんな視点です。
> 事実2 天理教には天理教が投資して設立した株式会社があり、そこの役員は天理教幹部ファミリーであると思われる
創価学会は組織をつくるにおいて7つの会社をつくりました。
学会員はその会社からものを買わない事には信者活動が出来ないわけで、絶対に儲かる宗教ビジネスを構築した。
むかし川口市の工場で、そこは統一教会の売るアイテムの製造をしていて、ちょうど学会の注文が大量に入って、それは倒産した企業を詐欺業者が一瞬だけで大儲けする裏ビジネスですが、発注に来た人間が言っていました。
学会信者の団参では、ここで一ヶ数十円でつくらせたものを、数千円で信者は皆買わされるんだと。
統一教会のアイテムも学会のアイテムもそういう裏で製造され、その会社は消えてしまうから、国税の調査も及ばない。
カインさんは会員ではなく、カイン。
自白の教理に従って自ら名乗っています。カイン、だと。加害者だと。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%83%99%E3%83%AB
カインとアベルは、旧約聖書『創世記』第4章に登場する兄弟のこと。アダムとイヴの息子たちで兄がカイン(קַיִן)、弟がアベル(הֶבֶל)である。人類最初の殺人の加害者・被害者とされている。
加害者のカインさんは、天理教もそういう会社設立の手法で金つくっていないか、集めていないか調べている。
ところが中山家は 霊能力で相場と投機で利益を上げていて、独り立ちしている。
こんなこと、学問では説明はつきませんよ。加害者のカインさん。
基本様
なぜそこまで、カイン様を学会員と決め付けられるのですか?どこにその証拠があるのですか?カインさんが学会員だと、基本様が言われてる根拠は、全て基本様の妄想、想像の産物ではないですか。
カインさんは調査をし、証拠立てる資料を得た上で、記事を書いておられます。基本様は証拠も挙げず、決め付けでものを言っておられるだけと思います。
なぜかは解りませんが、カインさんを攻撃したい、という意図があるように思えます。
旦那がまだ天理教love過ぎて、私よりもお供え、上級loveです。こっちは、トイレや風呂も電気つけず節約を探しているのに・・。一緒にいてもお金がかかる、別れてもお金がかかる。
ははゆば無はさまた 様。
旦那様は立派な洗脳状態ですね。
いくら、どんなにお供えをしても、いざとなったら教会は何もしてくれませんよ。
反対に因縁が悪いからだと言って責められるのが落ちです。
将来の為に、また家族の為に少しづつでもいいですから、旦那に内緒で蓄えていってください。
後々、感謝されると思います。
本部の人間や大教会や大きな教会はしっかり貯めこんでいますよ。
きっと旦那様は「世界を救わなければならない」という使命感に燃えていると思われます。
しかし身内に不自由な思いをさせる人が世界を救えるはずがありません。
江戸時代の終わりころから出てきた教派神道で金光教という宗教があります。
そこではこう教えています。
「ひもじい思いをして信心しても神は喜ばぬ」