天理教を知っている人からも、まったく天理教を知らない人からも「天理教の金の動き」について問い合わせがある。その度に説明するのは骨が折れるので、図を書いてみた。
天理教の収入の多くを占める「お供え金」について。
天理教は「天理教教会本部」を頂点としたピラミッドになっている。
本部ー大教会ー分教会ー布教所 という流れである。大教会は約160箇所、分教会は約1万6千箇所となる。
教会、大教会、本部それぞれの段階でオリジナルな信者を抱えている。各教会や教会本部の神殿(参拝場)には賽銭箱が供えられており、神社と同様にお賽銭を入れる。しかしこれらは一人あたり数円から数百円が多く、収入としては大きくはないと聞いたことがある。実際に教会の賽銭箱を覗いてみればわかる。
天理教の集金で最も大きな比重を占めるものは毎月の月次祭(つきなみさい)で集められる「お供え金」である。各教会には必ず決められた日に月次祭がある。信者はその日(もしくは前後)に教会にのし袋に入れてお供えする。のし袋には上に「御供」と書き、下にお供えした者の名前を書く(下記資料写真、名前は仮名)。それを月次祭の際に教会の人に手渡す。教会で集めらえたお金は、集計され一括して上級教会の月次祭に持っていかれて「お供え金」として上納されるのである。最終的には奈良県天理市の教会本部の毎月26日の月次祭に集められることになる。
天理教本部のお供え金は2013年は約120億円であることは既報の通りである。各教会は、全国に1万6000箇所ある。つまり各教会は、年間約70万円余りを上納していることになる。しかし、事情教会と言われる機能不全な教会も多く、各教会でのお供え金のバラツキは非常に大きい。また集金したお金の全額を上納していることはなく、集金した中から教会家族の生活費などが抜かれているようである。
信者にとっては毎月の「お供え金」は署名入りなので、非常に心理的・経済的な強制になっていることは言うまでもない。「お供え金は気持ちでいい」という天理教人がいたら気をつけるべきである。
お供えの袋は署名入りのため、教会の人間には誰がいくらお供えしたのかは明白である。そして金額が高いと「いい信者」で、低いと「頑張っていない信者」となることは当然の帰結である。天理教がヤクザやネズミ講と例えられるのは、こういったピラミッドの上下システムにあることは間違いない。天理教は別名「搾取の天理教」と昔から言われているのはこういったシステムが原因であろう。おつとめの歌の一節である「悪しきを払うて助けたまえ」を「屋敷を払おうて田売りたまえ」と変換され、屋敷や田んぼを売ってでも金を作ってお供えしろという天理教を揶揄する言葉が昔からある。しかし署名入りのお供えなど、こういったシステムが今も残っている以上、現在も「搾取の天理教」に対して反論はできない。「お供えは強制ではない」という天理教の人間がいたら、その教会のお供え金システムに匿名性が保証されているかをきちんと確認した方がよいだろう。
私はこうした半強制的な集金システムが天理教の害悪(衰退)の根源であると考えている。信教の自由の下で、自由意志であるべきはずのお供え金に署名を求めるというのは、解釈によっては信教の自由を侵害するような人権侵害になるとも考えている。
今年の6月に暴力団の上納金は所得税として扱われ、工藤会トップが脱税で検挙される事件があった。暴力団と宗教法人の天理教を同列に扱うことはフェアではないが、天理教の莫大な金額の不透明さを考えると、天理教内の本部への上納金に対しても贈与税や所得税をかけるべきであると私は考えている。宗教法人への課税は、本来であれば私は反対派であるが、賛成派にならざるを得ないほど天理教のお金の流れは不透明であると考えている。(参考:天理教の財政に関する記事)
高校生を対象に合宿を開催して「天理教大好き」「天理教素晴らしい」と、自己判断ができない未成年を短期間で洗脳のように意識変化させるのは結構だが、天理教の権力と金の暗部をひた隠しにしていてはカルトと何が違うのか私には判断できない。
少なくとも、この署名入りのお供え金システムを採用している教会には決して近づくべきではない。初めてこの封筒を見せられたとき、私は「天理教は恐ろしい。しんどなるわ」と思った。こういった感覚は天理教人にはないのだろう。改めて宗教は怖いと思う。
この袋がなくても天理教の教えを信仰することはできるはずである。
tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp
ちょっと、偏見が強いかな。このサイトを見て、うわさに聞いていますが、(私も、こうゆう所があるのを、知っていますが) 私の知る限り、一部には、ありますね。ただ、同じ状況で頑張っている教会が多いですが、全てがそうではありません。ほとんどの教会は、あなたの言わんとする全てを、わかっています。このサイトに上げられるような教会は、私も無くなって欲しいですが、見てのとうりでです。このようなサイトは、いろんな方たちが見ていますので、全てが悪く思われるような気がします。非常に残念です。
悪しき処には、悪しき習慣が蔓延る。
元始まりからの悪しき考えを未だに教え続ける。
先代からの信仰によって苦しみ、自己卑下からの立ち直りの人生。
生きることの意味を考え直すのに、どれほどの時間を要したか。
天理教の教えは、自己卑下に繋がる要素を多分に含んでいる。
世界を救済するかのように謳っているが、本当に社会に貢献しているのだろうか?
人に対して冷たい天理教人を、私はたくさん見てきた。
「御供」なのに、お祝いのご祝儀袋???
おみちも、初期の頃は農作物が御供え物だったのが、だんだんと全国にひろがるににつれて、
お金のお供えも増えてきて、神さまにお礼の気持ちの表れが、ご祝儀袋を使うようになったのかも
しれません。
信者さんからの真実の「御供」が、
分教会 ⇒ いくつかある上級教会 ⇒ 大教会 ⇒ ご本部 と順序の道中
それぞれの教会経営に必要な運営・維持費がありますので、実際「かんろだい」に届く
真実の「御供」は、全体のほぼ半分ぐらいになっているのでしょうか???
それが、今や年間、約120億円!! ⇔ 本当は、もっともっとあると思いますが・・・・・!!
YUKIHIROさんへ
分教会へお供えした時点で真実のお供えです。その時点で神様は受け取ってくださいます。
お金にまつわる噂は色々聞きますし、教会によってもちがうので
続き
一概には言えませんが、確かに分教会での必要経費はお供えからです。
本部から会長へ手当ては出ないので、そうしないと維持できません。
信者さんがいない所は、世間働きされている所や、働いている親族が支えている所が多いのではないでしょうか?
宗教法人登録をしている教会は、収支報告していると聞いたことがあります。
うちも教会ですが、借地のため法人登録が出来ないので、よくわかりませんが。
信者さんが御供えする「御供え金」には、いろいろと種類があります。
① 「御供」 ⇔ 神さまにお礼の気持ち
② 「理立」 ⇔ 身上・事情のご守護のお願い (神さまにお願い)
③ 「ご奉公」 ⇔ 教会へ感謝の気持ち
☆ 全国の天理教信者さんが、毎月三千円ずつを、「かんろだい」の
お賽銭箱に御供えくださると、一年で108億円にもなります。
ありがとうございます。
全国の天理教の信者(ようぼく)さんのうち、三十万人の方たちの真実で集まります。
[ ¥3000×12ヶ月×30万人=108億円 ]
本当に、ありがとうございます。
パンフレットから行くようにはなりました。
しかしその時は一般の第三者の集まりかと思っていました。
自分の問題がなかなか解決しない為に、こちらであなたを見ましょうと言われ行ったところが
分教会でやっぱり宗教だったのかと非常に落胆しました。
知り合って4年目くらいの出来事でした。
それまでは色々聞けて良かったのですが、やはりこうでもしないと信者を募ることができないのかなと
色々思うことになった経験になりました。
悪い教えではないとは思いますが、やはり宗教ってなると敬遠してしまいます。
「道友社の罪」
毎月発行していた道友社の冊子。
小学6年の修学旅行、私は貧しくても当たり前に行くものだと思っていた。
でも、その冊子のなかに、私と同じ学年の女の子、修学旅行の為に少しずつ積み立てたお金。
その積立金を、父親であるどこかの教会の教会長がそのお金を全額お供えさせた。と言う内容。
当然、彼女は修学旅行には行けなかった。
お金としては、わずかな金額。
だけど、その子にとっては大切な思い出になたっであろうことを台無しにした父親。
父親は、娘の修学旅行のお金でさえ俺はお供えさせる!
どうだ!俺は天理教人として立派だろう!と読者に煽るように書いてあった。
親の立場だけで、子の楽しみを奪って良いものか!
道友社は、どうしてこれを選んで出版したのか、聞きたい。
それが美談になっているのです。
もし親が信念を持って行動したのならば、子どもと一緒に十分話し合いをし、十分納得した上での行動であって欲しい。
そして、それを手柄のように話したり、文章にするのはおかしい。
もし、それが信仰であるならば、天教関係の学校は修学旅行を止める。天理教の先生方も遊びの旅行を止めて、全部お供えすればいいと思う。
冊子の件は、まだ私が素直な少女の頃の話。
直近には、教会長夫婦の偽装離婚もあります。
現に当事者から聞きました。
借金に追われた教会長の奥さんが、身寄りのない金持ちの爺さんと仲良くなり、
その爺さんが、2000万円の借金の肩代わりをしてあげるから、旦那と離縁して
俺と結婚してくれと、会長である旦那は借金がチャラになるならと、離婚用紙に判を押した。
大教会長夫婦もこの話を知っており、爺さんが亡くなったら復縁すればいいと軽いノリ!
飲む!打つ!買う!など無縁の教会長なのに、どうして多額の借金を作ったのだろうか?
男やもめに蛆がわくではないが、あまりにも貧相な話しではあるまいか。
この奥さんも昔で言ったら、自分を身売りしたようなものです。
長年連れ添った夫婦なのに、あまりにも寂しい!
大教会長夫婦も、黙認するなんて考えられない。
もう少し、今を生きている人間を大切にしなければ、何のための信仰か!本末転倒です!
本当の話なら、何とも言えないね。
「みちのなかにもせかいあり」で、
教会によっても、いろいろとたいへんなご苦労があるのですね~。
私も末端教会に所属しておりますが、いろいろとご守護をいただいていますので、
ずいぶんと恵まれていると思います。本当にありがたいものであります。
でも、組織たる今の「上級教会・大教会・ご本部」を眺めてみますと、ほんとうに、
ほんとうに残念な姿だなあと、ず~と思いますよね。
「なるほどのひと」⇔おみちのなかで、
ほんになるほどなあと思える人が、なぜだんだんと少なくなってきたのか!!
本部員の方にこそ、いち早く、百十五才の定命に近づける「ひながた」を、
残していだきたいと思っている次第であります。
天理教人の中から、特に真柱さま、本部員の先生方が、お元気で
百十五才が当たり前という時代がくれば、黙っていても、「おみち」は、
もっともっと、よろづよのせかいにひろまっていくことと思います。
御供の話題が出ているので、他の教会は知りませんが私が目にしている教会(分教会)の状況をお話したいと思います。
教祖130年祭まで半年を切りました。他所も似たようなものかと思っていますが、教会では教祖130年祭に向けて心定めをします。つまり教祖130年祭までに〇人をおぢばに連れて帰ろうというわけです。たいていはよほどがんばらないと難しい人数が貼りだされます。
ですがこの数字も、期限間近になると「もはや達成不可能」な数字になってきます。それはその教会の信者が悪いのですが、そうなってきた頃に「ご巡教」が突如始まります。
ご巡教とは、その教会の上級にあたる教会、または大教会役員が担当の教会に行くというものです。「世話人先生」とも呼ばれ、本来はアドバイスなどが目的かと思いますが、実際は違います。御供の取立人です。
曰く、「自分の教会で定めた人(帰参者)の心定めができんかったら、あと神さんに出せるもんといえば、御供だけだろう」と。私の教会の場合は、これを月次祭の後の直会の席で教会信者を集めて言われます。
御供だから自分の気持でいいのかというと、全くそんなことはなく、大教会から本部にいくら足りないから、いくら出せと言われます。つまり大教会も本部に「いくら出します」と、宣言してるんだと思います。ちなみに一昨年?にその話をされた時の信者である私のノルマは70万でした。教会としては1,000万弱です。
教祖130年祭を半年前にした今、改めて巡教がありますので、月次祭に来てくださいと連絡がありました。もちろん前向きに最後の半年、がんばろうと言う話で終わるのかもしれません。しかし頃合的に「もうがんばっても目標達成できないから、あとは御供だね」となっているようにしか思えません。
教祖100年祭の時には、教会長による自殺や銀行強盗といった事件もありました。天理教本部にとっては、とても大きい財政の収入源なのでしょう。末端の教会で不幸が起きないことをお祈りします。
御供え金が、ノルマ化されてくると、本当にたいへんな世界になりますね~!!
一教会で、年間?1,000万円!!。
全国に約16000ある教会の半分8000教会が、1,000万円を御供えすると
「8000×1000万円=800億円」になります。
「800億円」は ⇔ ご本部のお供え収入額の4年以上に相当する金額になります。
◎ 「よふぼくさん」の内、30万人の方だけでも、お一人が毎月3000円を、
「かんろだい」のお賽銭箱に、直接御供えくださると、一年で108億円になります。
( 3000円 × 12ヶ月 × 30万人 = 108億円 )
みなさんの「誠・真実」のお供え金の行方??は、親神さまは、ご存じであります。
こちらの管理人さんも、どこかの過去の記事で書かれていたように「結局、心が大事とかいいつつも金」なんだと思わざるを得ないですね。それを「心定め」という表現に変えて・・・
というか、やっぱり最初の天理教の成り立ちからして、けったいだと思わざるを得ない気がするんですけどね・・・
「我は元の神、実の神である」
「みきを屋敷に貰い受けたい」
「条件受け入れれば、この世界を救う。出来なければ、屋敷吹き飛ばすぞ!!あほんだら!!」
普通に〝脅迫〟じゃねーか!!って、思うんですけどねぇ・・・
で、渋々受け入れたものの、世界は救われてますかね?
教えが、おつとめやら陽気暮らしですが、この有り様ですよ・・・
「我は元の神、実の神である」
「みきを屋敷に貰い受けたい」
「条件受け入れれば、この世界を救う。出来なければ、屋敷吹き飛ばすぞ!!あほんだら!!」
笑
教典のそのくだりは明治の戯曲家に依頼して創作したのは有名な話。分かりやすくね。
もちょっと本質を勉強しましょう。
お供えしたくなければしなければいいだけの事。執着を去ることが重要なのです。痛みを伴わずそれが出来るだけますか?
おやさまの御心を卑下される事、教団の維持運営と同一視される事が残念でなりません。
失礼 出来るだけ→出来ますか?
私は信者でも何でもありませんので、よく分かりません。しかし、昨今の天理市の有り様を見るともう終わっていると思わざるを得ない光景です。。。信者が皆無と言っていいぐらいに・・・
天理本通も閑散としてます。
天理教維持財団が崩壊したのを境目に天理教はおかしくなってしまったのではないですかね。
親神様を見せてくれと言っても見せれるもんでもないでしょうし、いると思えばいる、いないと思えばいない、結局そこに帰結するのでは?ぐらいにしか、思わないです。
別に天理教がこの世に存在しようがしようまいが、何がどう変わるんだろう?と思う部分があります。
良く分からないのなら、中途半端な知識で愚弄しないで頂きたい。誇りを持って通っている者はたくさんいるのですから。
親神様の御守護はいつでも、どこにでも見えています。それに気付けることが尊いのです。
多様な意見を聞くことも、大事なことですよ。
イヤなこともイイこともみんな聞いた上で、自分自身に誇りを持って正々堂々と歩まれることを望みます。
結局大事なのは「をや」のこころにもたれかかること。つまりそれは「御筆先」や「御指図」といった原典から中山美支という一人の宗教家が何を伝えたかったのか正しく理解すること、そのみきから言上の許しをうけた飯降伊蔵氏の言葉に耳を傾けることでしょうね。しかし特に『おさしづ』なんかは難解で、おそらくいわゆる「巡教」にくるお偉い先生方も完璧には理解していないんでしょう。とある原典研究者の方は、今の教団の教えは明治期の「応法の道」よりも酷いとおっしゃていました。あのころはまだ本席が存命であったので、さらには古参の立派な方々がいらしたから何とかやってきけたけれども、志半ばで中途半端な『復元』が終わって以来、いまの「教え」は破滅的としかいいようがない。かといって山名・八島系は何もかも否定して挙句の果てに独立しろ、社を取り払え、かぐらをつとめろともう四方八方誰も信じられないですね。まぁ教祖よりも初代会長をあたかも「神」のように扱う某河原町や質より人の某愛町なんかはマシかな…
信者=信+者=儲
人の為=人+為=偽
つまり、信者集めは儲けの手段。
あなたの為を思っての言葉は偽りである。
うまいこと言うもんですね。うちの教会の直属は某大大大教会様なんかよりはゆる~いんですけどね。。「上級」の会長さんもいい人です、いつも月次祭には大量のお菓子くださるし笑
ただ信者さんがひとり、ふたりと出直されていく…
『復元』がもたらした功罪は大きいですね。末端は苦しいです。父親は一生懸命お道を通っているのだけがせめてもの救いですかね。
天理教の根本的な過ちは「世襲」によって教会を受け継いでいる点が大きいと思います。
宗教は結局、信念を持つ人とその人のカリスマ性に惹かれる信者で成り立つものだと思います。
1代目にカリスマがあったとしても、2代目にその影響力があるかどうか、3代目ともなると何をかいわんやです。その事実が130年祭を迎える現実に現れているのでしょう。
教えの元となる教会を受け継ぐ者が、本物でなければ、誰が何のために集まりますか?そもそも天理教は世襲制で一体何を目指しているんでしょうか?
『天理教の根本的な過ちは「世襲」によって教会を受け継いでいる点が大きいと思います。』
まったく、その通りです。何の経験もないのに、いきなり「理の親」になるのですから。年上の役員や部内会長から、頭を下げられるのですから、勘違いしてもしょうがないですよね。
部内が5箇所以上の教会は役員(部内前会長を含む)の中から次期会長を選んだらどうでしょうかね。
とにかく、このままでは破綻が目に見えてあります。
古い教会長様、カッコつきでも「理の親」という言葉は使わないでください。
この暴力的な言葉のために、信者の気持ちや人権までも
踏みにじられるようなことが起こっているのだから。
「理の親」という言葉に対しては強烈な嫌悪感、いいえ激しい怒りさえ感じます。
信者の天理教離れの最大要因がこの「理の親」制度です。
『「理の親」という言葉に対しては強烈な嫌悪感、いいえ激しい怒りさえ感じます。
信者の天理教離れの最大要因がこの「理の親」制度です。』
同じ思いです。これが一番の問題です。
この「理の親」で、私の家族も一家離散になりました。
天理教を信仰し、正直に生きた者が破滅の道を歩むなんて
あまりにも、むごい事!
「信じた者は、救われない」が、私の今の心境です。
「理の親」ですが、都合のいいように使われているケースが多いと思います。二代真柱様はかつて「理の親とは教祖のみ」と、戒めたことがありました(出典は忘れてしまいましたが)
言う方も「理の親」といえば逆らいようが無いので楽なのでしょう。ですが、その理の親たちが築いてきたのが今の天理教です。さんざん都合のいいことばかり言ってきた挙句、信者からも見放されて責任取れるんですか?と言いたいです。
「理の親」も「貧に落ちきれ」も、教祖の言った言葉ではありません。「貧に落ちきれ」については、櫟本資料館というところに、教祖伝の話が嘘だと分かる証拠があるそうです(詳しくは中山みき研究ノート、または矢島裁判で検索)。
立正コウセイカイも
同じように封筒で記名です
歴代真柱で一番良かった時代は、やはり二代目さんなんですか?三代目さんも、相当期間、就任されていたようですが、、、
私は、天理教の教会に住み、天理教の布教や「おたすけ」だけをやっている、教会長子弟の者です。
信者さんから教会に頂く御供えは、教会運営の為には使います。それはお供えをしている信者さんも同意のもとです。教会に住む者の私欲を満たすために使うことはありません。おそらく、どの教会もそうであると思います。それが本来の天理教の教会です。
お金の為に、天理教の教会をするなんて、申し訳ありませんが、甚だおかしな話だと感じます。もし、教会に住む私がお金がある裕福な暮らしをしたいなら、教会を出てバイトやパートをする方がよっぽどましな暮らしを送ります。
しかし、私は今、妻や子供と幸せな暮らしを送っています。天理教の信仰は、お金ではありません。心のたすけりにあります。自分に都合の良いことも、一見自分にとって都合の悪いことも、だんだんと喜びに変わるところに信仰の喜びがあります。私もまだまだ未熟ながらも信仰の喜びを感じているところであります。
良かったら、天理教の教会で、本当の信仰に触れてみてください。変わると思います。
特例財団法人「天理教いちれつ会」が解散しました時に、
財産約100億円少しを、宗教法人天理教に寄付をしまして、それを
宗教法人天理教教会本部に御供えしたという会計報告があったと
記憶しております。
年間のお供え収入額に相当する臨時収入があった訳であります
から、そんなに御供え・御供えと言わなくても、ご本部にはたくさん
のお金のご守護があるみたいであります。
心配は御無用であります!!
へ〜一れつ会って解散したんですかぁ。
いちれつ会は、」解散はしていないでしょう!只、寄付以外の収入が不自然に増えたので、寄附(お供え)をしたのでは?確か170億ほどでしたよ。みちのともに出ていました。
一般財団法人「天理教一れつ会」を、また新たに
設立しまして、以前の業務を引き継いでいます❗
天理教維持財団が破綻した=天理教倒産ってのは、事実なんでしょ?
「天理教維持財団が破綻した=天理教倒産ってのは、事実なんでしょ?」
とは、どういうことなのでしょうか?
天理教用語を逆説的に考えたら、この教団の本質が見えます。
人を欺くための便利な天理教独特な言い回し、不労所得の者が支配欲、私利私欲、たくさんのお金を得るためには、オレオレ詐欺以上の集団による詐欺集団にて人に怖れを植え付ける。
ここまで天理教を批判できるのは、以前このブログに山田太郎氏のコメントで、「天理教の教えには、何ひとつとして高尚な教えはない」この言葉に、私は勇気づけられました。
明治、大正、昭和、平成と、たったひとりの信仰者によって、子、孫、曾孫、全てが天理教を信仰し、その数は半端な数ではなく、お金も本部の神殿の柱1本くらいはあるでしょう。
それよりも残念なのは、一度きりの人生を天理教に捧げて、赤貧の暮らしをしたこと。
それも1代だけではなく、何代も馬鹿げたことを、さも命より大切なこととして生きてきたことに、何ともやりきれない思いでいます。
天理教が決して明かさなかったことを、闇に葬っていたことに光を当てたい。
さすが天理教!といううものがあったらおもしろい!
http://www.lcv.ne.jp/~toyohumi/kantougen.html
『ほんあづま』2000年6月号巻頭言
「八島何故出て来ない。すぐ来い。天理大学が全国大会に優勝して、祝賀会が東本で行なわれているだ。」「私は柔道部ではありません。ラグビー部ですよ。」「東本で祝賀会が行なわれているのに、天大OBとして出て来ないという事があるか、早く来い。」「行きます、行きます。」
時は、天理大学が東本大教会を宿舎にして、柔道の全国大会に出場し、優勝し、東本大教会の三階大広間で優勝祝賀会が始まった時である。人は天理柔道の総帥、中山正信氏からの電話である。急いで東本へ行き、三階の会場に顔を出すと、挨拶もそこそこに「二人だけになれる所があるか」と言うので、一階の青年ホールへ行き、二人だけの話になり深夜に至るまで続いた。
『ほんあづま』の論調が、『稿本天理教教祖伝』のフィクションの洗い直しを進めて、すでに、こかんさんの大阪布教が、作り話である事が誌上で証明されていたのである。
分家「あまり教祖伝をほじるなよ」
八島「今、内部から発表しなければ取返しがつかなくなります。外部からあばかれたらどうします。山本周五郎が『樅の樹は残った』という小説を書いてから、極悪人原田甲斐が、実は仙台藩を救った忠臣であったと、常識が変わっています。今までの日本は天皇制軍国主義の思想統制があって真実が説けなかった。今から真実を説く、教祖伝の編纂をやり直す、と教会本部が発表すれば、混乱は起こりません。教内はうすうす気づいていながら、何時本部が真実を言ってくれるか待っているのです。後れたら皆が背を向けます。そうなったら取返しがつきません。」
分家「八島が知っている嘘だけではないのだ。真実を知ったら皆が怒って、我々を中庭に引き出して殺すだろう。」
八島「本部から発表すればそんな事は起こりません。」
豪気な御分家中山正信氏の言葉の中に怯えを感じた。私の頭の中に、戦後ニュースで見た、イタリアのムッソリーニがパルチザンに殺され、逆さ吊りにされた場面が走馬燈のように走った。
それから約二昔の歳月が流れた。正信氏が亡くなって十年、その間におつとめを教祖が教えた通りに復元すべき人が、また、ひながたを正すべき人が次々と世を去り、或いは教外に押し出され、みかぐらうたを歌い、教祖の教えを手踊りで、自分の身体で表せる人が次々と教団に背を向け、教えを求めても得られず、修養科生は十分の一に減り、教会は三分の一以上が活動を停止している。
拝み祈祷を営業政策にした神道天理教は迷信家の集団と化して教祖の教えは亡びようとしているのである。
昔、神道になるために、教祖を警察に売った。十余年前ひながたを顕彰し、おつとめの復元につとめている櫟本分署跡参考館を教外のものと断定した。然し今日櫟本のつとめ場所を見ると、捨てた良心の種が育って花咲くように教祖の教えた通り教祖と共に歌い、踊り、誠の心を取戻し、人の喜びを見て楽しむ心を我が身体で表す、世界たすけの働きの中心になるべき人が続々と誕生している。櫟本を苗床にして世界中に良心の花を咲かせなくてはならない。
古い教会長さんは、天理教の内部事情を何もご存知ないんですか?
天理教維持財団とは、別名:伏魔殿と言われていた(絶対潰れるはずがないと言われていた)天理教の金庫です
よ
それが、突如解散したのですよ
何故って?
投機だか投資だかに失敗して、信者さんの大事なお供えのお金を本部はドブに捨てたのです。
恐らく、それを境目でしょう・・・
天理教信者が雪崩の如く大量に去ったのは、、、
熱心な信者さんだった人ほど、「天理教の組織って、結局、金に汚い組織だったのか・・・」
と気付かれたんだと思いますよ。
今の天理教本部は閑散としています。
信者が大量に去ってしまったのは、天理教維持財団(実質、天理教の倒産)が解散したことにあると私は思いますよ。
古い教会長様へ
私の知らない天理教の一端を知ることができ、嬉しく思います。
私が中学3年の時、母と祖母が大教会へ行き、どういうわけか私も付いていきました。
母と祖母が大教会長宅へ来るようにとの呼び出しがあり、何事かと思いきや、いきなり大教会長が
母に向かって人差し指を差して「あんたに、前から言っておるやないか!いつまで婆ーさんに会長させるきか!
早う会長変わらんか!」と怒鳴り、
母は土下座をし、「はい、承知しました。」の二つ返事。時代劇そのものでした。
祖母は、まだボケてもなく、むしろ母より賢い人で、まだまだ会長として続けることができたのに、
母が、舞い上がってしまい、すぐに数百万の借金をして母の会長就任奉告祭を派手に行いました。
母は、小さな店を営んで生計を立てていたのに、会長になったばかりに、いつも教会の御用で店は開店休業の始末。
収入が途絶えたのに、大教会からのその当時の上納金は25万円
母は、気違いのようになりながら、毎月満額上納していました。
大教会長は、私たちの生活に対しての慈悲の心など微塵もなく、搾り取ることしか能がない。
父は精神を病み、母は天理教に狂い、これのどこに陽気ぐらしがあるのでしょうか?
私は、天理教を信仰しなくても、人に対しての慈悲の心があれば、それだけでいいと思っています。
カリスマ性のある人物が離反すれば、山口組の分裂のような、大規模な分裂劇が起きても仕方の無い状況じゃないかな。
天理教維持財団を、そもそも私は知りませんでしたが、投機だか投資だかに失敗したのですね。
上にも引用のある矢島英雄氏の「中山みき研究ノート」にある話に似ていると思い引用します。
こういったことから「稿本教祖伝」第三章「みちすがら」を検討し直してみましょう。最初に出てくるのは、「・・・祖神の思召しのまにまに、「貧に落ち切れ」と、堰きこまれると共に、嫁入りの荷物を初め、食物、着物、金銭に至るまで、次々と困っている人に施された・・・・」ということですが、「貧に落ち切れ」とは、みかぐらうたにもおふでさきにも書いていないし、本席の膨大なおさしづにも出ていません。教祖が言われたとはとても思えません。
(中略)
また、この時期に教祖は、「家形を取り払え」とか「家財道具を売り払え」と言われたとあります。しかし、明治十四年に中山家から丹波警察署に、経済的問題についての上申書が出ています。これは秀司が死んだ後、まつえが出したものです。その文書によると、善兵衛が生きている頃は相当な百姓であったが、善兵衛が死んで二年ほどたった後、秀司が米商いや綿商いをして、それで損失を生じて疲弊した、というように出ております(注=「復元」三十号、二三九頁。おさしづ 明治二十六<1893>年二月六日 櫟一四
つまり「屋敷を払うて、田売りたまえ」として有名な天理教のお供えについて、その根本思想である「貧に落ち切れ」とは言っておらず、秀司が商いで失敗したために、家財を投げ打ったことを、あとから「貧に落ち切れ」という話で塗り替えてしまったわけです。
お供えといえば「貧に落ち切れ」。絶版の本の引用で恐縮ですが、このブログを見る方に正しい事実が伝わればと思い投稿させて頂きました。
憩の家さん、
「天理教維持財団とは、別名:伏魔殿と言われていた(絶対潰れるはずがないと言われていた)天理教の金庫です
よ、それが、突如解散したのですよ」
というのは、100年祭の頃ですよね。それが「倒産した」と結びつきませんでした。今の現状は倒産した状態なのでしょうかね?信者数は激減していますが、まだ元気そうに見えています。
心が離れてしまっている状態ではありますがね。
天理教維持財団・・・
恐らくですけども、、、
数十兆円レベルの損失を出したと言われてます(2001年頃かな)
本部側からの何の説明もないままに、この組織は闇の中に葬りさられたのです。
内部の信者さんでも知らない人は多いと思いますし、知ってる人は知ってるという感じでしょうか。
憩の家でも、よく新病棟建てられるだけの財力(余力)が残っていたものだと少し感心しますが、、、
ただ、病院と本部とは昔のように一体ではなく、経営が何かしら別になっているような気もしますね
昔は教服を着た事情部の人たちがひっきりなしに廊下を歩かれていましたが、今は宗教色も相当薄くなってしまってるように見受けられますし
ちょっと信じられない話です。
考えれば本部で集められたお供えは、教会、信者から集められたものです。教会の土地・建物は無税ですし、生活保護の中からのものもあったかもしれません。天理教は社会に、凄くお世話になっているのです。
それを、(何所かしれませんが)お返し、したのかも知れませんね。
一度、潰れないと再生は難しいように思います。
ここにありました。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/nakayamamiyuki/omithisonogoden/omithisonogoden_11sonogo1co.htm
2001(平成13)年
2001(平成13).4.29日、大本教本部の四代教主・聖子が死去。聖子の姪で直前に養女になっていた紅が五代教主に就任した。
同6.26日、本部神殿で、月並祭祭典中に道の台である三代真柱様の妻中山まさ(天理教婦人会五代会長)の身体の気分が急に悪くなられ、祭典を途中退座された。50日後の8.15日(旧暦 平成13年6月26日)、出直す(享年65歳)。
同9.30日、本部側の理由説明が一切されぬまま天理教の金庫番である天理教維持財団が突然解散する。これに関する本部側としての理由説明は一切されていない。天理教教会本部が株式投資その他で大失敗し、兆を超す莫大な損失を出したのではないか? と云う観測も出ている。
う~ん!何が真実誠か、わけわからん。
騙す方が悪いのか、騙された方が馬鹿なのか。
いずれにしても白黒はっきりさせていただきたい。
古い教会長さんへ
他にも天理教はお金の面ですとねぇ・・・
各教会とか詰所の建物がありますね?
大きいところはそれなりの金額になりますね?
で、天理教のお控え銀行は南都銀行ってのは、ご存知ですか?
天理教本部は教会や詰所建設に関しての負担は一切しません。
南都銀行が全て取り仕切るのです。
お金は全て本部に集まってくる仕組みで、一切、本部側は何があっても痛手を被らない仕組みになっているのですよ。
債務の督促及び回収は、全て南都銀行がするのです。
あと、真柱さん以外に、「表統領」「内統領」という役職の方がいますね?
実質、この2人が舵取りをします。
最高のトップは本当は真柱さんなんでしょうけれども、実際はそうでもないようです。
大教会長たちが本部に集められ、「お前の教会は今年、いくら集めるのだ?お前のとこは?」
みたいな感じで詰められるみたいですね。
それらの相当なプレッシャーから、100年祭の時に銀行強盗に走ってしまわれた会長さんがいたりしたわけです。
如何に金に汚い宗教団体か・・・ということです。
憩いの家さま
金にまつわる流れが、良くわかりました。
全て、トップである本部から大教会へと、お金をもっと出さんか~!と強迫され
大教会から子分の分教会へ、お金もっと出さんか~!と強迫されてたのですね。
やっぱり、天理教は、元始まりから搾取の宗教と言われてもおかしくないですね。
曾祖母が教会をもった時点で、貧困になるのは当たり前。
「正直者が馬鹿をみる」ってことを悲しいくらい実践していました。
私の家でも、恐れから天理教を離れられなかったんだと思います。
事実、私も自教会を売却した時、本部まで話を持っていかなくては、売却にいたらないくらいなぜ信仰する者は、普段お勤めにも来ないのに教会にこだわるのか、なぜ教会にしがみつくのか、意味のない踊りを踊って陽気ぐらしができるとは信じ難く、このご時世に「お江戸でござる」みたいなことをやってて意味あるのかと不思議でなりません。
自教会は、会長不在の信者数名なのに、本部からのお達しは「信者が心ひとつになって、新たに教会を建てよ」でした。
数名の信者は、徳川将軍に言われたかの如く「ははー!」の一言で、教会を建てました。
今さら建ててどうすんのよ!と思ったけど、私には関係ないし!とあっさり見切りをつけました。
けど、そのあとの信者の私に対する強迫は、凄まじかったです。
よく今まで無事生きてこれたと、我ながら感心します。
人助けなど微塵もないのに、どこに人助けがあるのか、むしろ人を狂わす教団にしか思えない。
私自身は信者でもよふぼくでも何でもありません。
私がニックネームとして「憩の家」としているのは、天理教関連の中では一番まともな潔癖に近い(かつては東洋一と称されたぐらいですので)、病院に関しては一目置いているぐらいです。(今は、レベルも相当に落ちてますが、、、バランスが良いのは、循環器内科と放射線科ぐらいでしょうか。京大准教授がこの間、収賄で逮捕されたのはよろづの心臓外科所属の医者でした)
宗教の中身や教理に関しては、他宗教と歴然とした何かの差を感じるようなものは特にないです。
ひと言で言ってしまえば「陽気ぐらし」なんですよね?
別に宗教(天理教)って枠にはめ込まなくても、それなりに良心がもともと人間に備わっているなら、そこに祖神様とか理の親とか固有的表現を介さなくても、人間は何ら問題なく過ごせると思うんですよね。
「あぁ、ありがたい。ありがたい」
こう思うのは結構だし、崇高な精神性の1つではあるでしょう。
でも、それで良いんじゃないか、ぐらいですよ普通は・・・
それに対して、わざわざ恩着せがましく、だからお供えしましょう、神様に心定めしましょう
って、繋げていくのは「おいおい、ちょっと待てよ」って私は思ってしますわけです。
そこから、もうれっきとした宗教ビジネスにカモフラージュしてしまってるんじゃないか?と、批判的に問いたいわけです。
憩の家だって、身上部という京大の一流の医者があっての病院ですよ、そもそもは・・・
そこに、事情部という「おさづけ」担当の部署があって、あたかも天理教の力によって難病が治っているかのようにっては、(恐らく)医者と事情部講師との間でも、何かしら軋轢はあったと思いますね。
医者からすれば、まじないのようなおさづけをしたところで、どうするんだよ?
って、思われていたに違いない。
憩の家の医者は、それなりに知り合いがいますが、宗教の話なんか一切出てきません。
あくまで、彼らは医学的に患者を診てます。
で、経営のトップがクソ過ぎて、今のような有り様に落ちぶれてしまってるいるのです。
天理教維持財団・・・
恐らくですけども、、、
数十兆円レベルの損失を出したと言われてます…
それ誰が言ってんの?なんの疑問もないの?数十兆って…
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1269298912
これがソースだったら、言葉もありません。数字だけ見ても何の論拠もない嘘八百ですもん。
上場企業のランキング見ても、年間業績が兆いってるのほとんどないんですよ。
しかも、一挙にそんな損失出すような投資は素人でもしないでしょ。
例えば、競馬で勝つと見込んだ馬がいたとしても、全財産出さないですよね?
事実だとしたらそりゃもう、何人も首吊ってるレベルですよ。
金額そのものより、集まったお金を循環せず1か所に留めて置くことに、疑問をもって欲しい。
天理王国を支配する中山家とその側近に巨万の富が入るように、仕組まれた宗教組織である。
天理教に限らず、どの宗教も似たり寄ったりで、ただ自分の信じた教えは正しい、素晴らしいと思いたくなる人間の情念があるのみ。
情念がしばしば怨念に変わることもあるが、最終的には誰も責任は取ってくれない、自己責任で生きていくこと。
たまたま天理教の教会に生まれたがために、知らず知らずのうちに天理教の教えが血となり、肉になってはいるが、疑問をもつことにより、苦しい中にも、他人の口車に乗せられない、そして何よりも神にすがる生き方をやめた時から、自分の人生を受け入れることができました。
因縁説、徳、八つのほこり、等々、どれも教祖中山美伎が教える前から、既に存在していた道徳的な教えである。
それよりも中山家と前川家の素性の方に、興味があります。
私のような気の小さな人間は、「人を騙したら罰があたるのではないか」と怯えるが、中山家とその側近は、信じる者を騙し、飢えと貧窮に苦しめて集めたお金を独り占めするその精神が許せない。
え?本気で言ってんの? さん。
金額はともかくとして、天理教維持財団が投資で大きな損失を出したと言われているのは本当なんですか?
確か、100年祭当時、300億円ほどあるという話は聞いたことがありました。
内通者でもないんで知らないけどね、大損失出したらそれなりのことが起こるわけですよ。揉み消せないくらいの。これがいい例。
http://www.bloomberg.co.jp/news/123-MLPCNO6JTSEC01.html
客観的に考えて大損失はないんじゃないですかね。
しかし、維持財団が解散したことは間違いない事実なんですよ(絶対に潰れるはずがないと言われていた組織にも関わらず)ま、宗教法人だし、無税でもある訳だし、天理教なら兆単位規模のお金を持っていても、歴史的長さも考えると何ら不思議ではない。(今までの蓄えという意味でね)ただ、何の銘柄だとか、中身の金融商品までは知りませんけども、(相当なレバレッジを掛けていたのかどうだか)、そんじゃそこらの億単位の金の損失を出したレベルではないことは間違いないです。
何せ財団そのものが解散ですよ。(絶対に潰れないと言われていたいにも関わらず)
結構、天理教=倒産状態ってのは、周知の事実だったりしますよ。
あと、天理教が闇の部分を葬り去ることぐらい、朝飯前だと私は思いますがね。
何せ本部の賽銭箱はどこから入れても下のベルトコンベヤーで一カ所に集まるように作られているとか、それぐらい金に対して周到な組織ですよ。
その周知事実の周知ってだれなの?
倒産したのに物件差し押さえもないんだね。
維持財団の業務といちれつ会の業務を一本化したと理解していましたが、倒産したんですか。そうですか。
あと間違いを訂正しておきますが、賽銭箱は係の人が一箇所ずつ回収されてますよ。南礼拝場の数カ所は柱と一体型なんで下で繋がってるかもしれませんけど、それでもベルトコンベヤーみたいな大層な設備があることは想像しにくいね。せいぜい滑り台じゃないかな。
まぁ、ネガキャン頑張ってください。
以前、週刊文春?に天理教本部の賽銭箱は地下で繋がっており、ベルトコンベヤーで1か所に集めているとの記事が載っておりました。
もし、これがでっち上げだったら、本部は弁護士を使って訴えたはずですけど、何も本部からのコメントは見受けられませんでした。
従って、記事の件は事実なんでしょう。
それと、倒産状態=倒産は近しいけど意味は違います。
解散された「天理教維持財団」は、財団法人の組織であり、「天理教教会本部」は、宗教法人です。
組織上は別法人なので、天理教教会本部は倒産なんかしていません!!
当時、解散する理由や清算となる財産の内容を、しっかり説明をされていなかったようなので、要らぬ 噂が独り歩きしているのだと思います。
尚、「天理教一れつ会」については、組織変更として特例財団法人を解散して、新たに
一般財団法人「天理教一れつ会」を設立して、今までの事業を継続しています。
もしかすると、あまり知られていないのかもしれませんが、天理教は組織上「宗教法人天理教教会本部」と「宗教法人天理教」で構成されています。
また、全国にある大教会・分教会は、宗教法人としてはそれぞれ独立した単立法人です。
組織としては、いろいろな包括関係があって、この複雑な構成は、一般信者には理解しにくくなっていると
思います。
ま、宗教組織が倒産ってのはニュアンス的に変な感じはありますね。
「何を」もって倒産というのかとか、具体的な部分では、難しいところです。
>>解散された「天理教維持財団」は、財団法人の組織であり、「天理教教会本部」は、宗教法人です。
憩の家も、財団法人から→公益財団法人になってますからね。
しかし、まぁ組織系統に色々あるにせよ、莫大な金の損失を出してしまったことは間違いのない事実だと思いますよ。
おまけに信者激減、年間のお布施はピーク時から50億円も減少
もう、虫の息まで間近な気がします。
天理市内はじめ天理本通には、ほんとにあの黒法被を着た人が皆無といっていいくらいにいないんですよ。
昔じゃ考えられない。
総本山付近にも関わらず、感覚的に50人も見るかどうか?といっていいくらいですよ。
しかも、来年は130年祭でしょ?
全然、気合いも何も感じられない。
本部の近くに何やら建物が建設されていますが、これが130年祭への象徴的な建築物なんでしょうか。
分教会は、全国に一万六千ほどありますが、後継者のいない事情教会も多くあるようで、末端教会は、
特にいろいろなかたちで理不尽なご苦労をされていることは事実だと思います。
今後、天理教の組織構造改革にも、できるだけ民主主義の導入を要望いたします。
憩いの家さん、あなたの言う「間違いない事実」の根拠を教えてほしいんですよね。
話のすりかえばかりで、問題の核心には答えてくれない。別に信者数がどうのなんてことはどうでもいいんだよ。130年祭の気合いがどうのというもあなたの感覚の話。今の議論とは関係ないんですよ。
あなたが間違いのない事実と確信した事象が知りたい。それがあるから主張されているわけでしょ?
あとね、倒産の具体的な状態を判断しかねるのに関わらず、「倒産」であると主張なされたことも理解し難いですね。言葉選びは重要ですよ。
じゃ、本部の有力者に聞かれてみてはどうですか?
それで、分かるでしょうに
この文章が書かれてもうすぐ50年です。
50年後の天理教を想う
天理教○○員 ○ ○ ○ ○
(昭和42年2月10日刊 全天理教会に配布す)
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この小書を贈呈するに当たって
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今から30年前、父は単独布教から部属教会21ヵ所をつくって、当時の旧制分教会長として、65才で出直したのであるが、父は晩年最後まで、自分は
御本部の庭掃きでも勤めさして頂きたいと、心から言い暮らして出直しをした。
一昨年の12月、母は91才の高齢をもって出直したのであるが、毎日往診に来ていた医師も奇蹟だというほど、一日一日を保っていた。そしてその最後の
出直しの日、私は教会長として母の枕元に坐った。最後のお授けを取り次がせて貰ったのである。
あるいはこれが母との今生の別れになるかもわからないと思うと、70才に近い身でありながら、子としての感情がこみあげて来る動揺を、一切神に凭れて、
平静に平静にと自分の心を抑えながら母に言った。
「お母さん、今お授けを取り次がさして頂きますが、もう一度身上を貸して頂きたいとはお願いいたしませんよ。
神様の御思召しのままに御守護下さいませとお願いいたしますよ。しかしお母さん、もしも出直しをされても、また○○の教会に生まれかわって来て下さいね」
母は床の中で合掌したまま、いとも安らかな表情で、「それが一番の楽しみだよ」 と小さい声で言った。
平静に平静にと努めていながらも、お授けを取り次ぐ私の両眼からは、熱い涙がとめどもなく流れた。
そうして、そのお授けが母との最後の別れとなったのである。
何回生まれかわって来ても、道の御奉公一念に撤しきっていた母であり、それがこの世における何よりも一番の母のたのしみであった。
およそ道の子として親里を慕い、道を想い、したがって道の最高の親たる真柱を愛さないものが、一人でもあるだろうか。
私は道の子である限り、そうしたものは一人もないと信じる。
かつて真柱は、天理教を一番愛しているものは俺だとおっしゃったことを聞いたことがあるが、私もそうだと思う。
真柱ほど、教祖様の理想実現に想いをこめられていられる方はあるまい。
しかし真柱を愛し、真柱への一番の親孝心とは、当面の真柱の御機嫌を伺い、真柱の御機嫌に終始することでは絶対ない。
いかにして一日も早く教祖様の御理想である陽気暮らしを世界の人類にもたらすかにある。
しかるに本教の現状を見る時、輪郭の美は非常な勢いで整って来ているが、教祖様の理想である助け一条の陽気さは、声のみ大きくしてその実力は
教祖40年 祭当時より、その信仰の熱度において、信徒の量において、むしろ低下しているのではなかろうか。
私は先般、宗教史専攻の東大教授笠原氏とお逢いして、いろいろ御意見を伺ったが、現在伽藍宗教といわれ、わずかに旧蹟として世の観光者によって
命脈を保っている数多くの仏教本山の、最盛期から衰退に及ぶ当時の仏教と本教の現在とが、そろそろ似て来たような感じがしてならない。
もちろん、本教はそこまで下落するとは思わない。しかし、宗教の一番の生命である人の救いにおいて、現勢とあまり変わりのないようなことであったら、
それこそ教祖様に対し、真柱に対し、どこに親孝心といえるだろうか。
先般挙行された教祖様80年祭は、道の子の想いに想った親の年祭だけに、本教史上かつてない盛大な式典であり、天候にもめぐまれて終始されたことは、
われわれ道の者にとっては嬉しい極みであった。
しかし、あの170万人といわれる祭典への帰参者の中、本当に教祖様を慕い、親里を信じて帰参した道の子は、果たして幾人あったであろうか。
当時の集会員会では、約30パーセントの声が出ていたが、その他はそれ等の人たちに勧誘されて、地場を踏んだ観光者たちである。私はけっして
これを悪いというのではない。たとえ本人は単なる観光のつもりで来たとしても、やがては大きな匂いがけとなるからである。
ただ私は、ここでもし道の指導者である教会長級が、あの姿そのままが現在の道の教勢の実力と誤り信じた場合、それこそ最も恐ろしい危険さが
ひそんでいることを憂える。
仏教の衰微した当初の原因が、当時の仏教幹部たちが、その当時の形の上だけの盛大さに囚われて、そのままを本山自体の信仰の実状と思いあがった
誤りからはじまっている。
東京にある一流教会の婦人会と青年会の共同主催の座談会が開かれた時のことである。某教会所属の最も熱心な婦人教会長の質問であったが、
「先生、われわれは天理教貴族をつくるための信仰であるならば、私は道の信仰を直ちに止めます……」 と熱烈な口調であった。
私は貴族的とは、その人の人間としての価値が、その人の生活以下であった場合に起こる現象だと思うのであるが、教祖様ほど民主的に徹底された方は
ないのではあるまいか。
物貰いに来た一乞食の赤児を抱きとって、御自身の乳房を含ませられたあの御態度こそ、教祖から示された本教としての全人類に対する行き方である。
もちろん、つくし運びは本教信仰上の真理であるが、それはあくまで陽気さの上に立ってのつくし運びでなければならない。
どんな身上事情の苦しみの中でも、あくまで陽気さだけは失わない指導こそ、用木の使命だと思う。そこにこそ天理教の魅力が生まれる。
最近のある仏教関係の雑誌に、最近における本教の批判記事が載っていた。もちろん仏教関係の雑誌だけに、天理教的の記述ではないが、私はこれを読ん で、本教の指導者階級にも読んで貰いたいと思った。是非一読しておく必要があるとさえ思った。
これが、「50年後の天理教を想う」と題してこれを転載し、この小書を全国の指導者の立場にある皆さまに贈呈させて頂く所以である。
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50年後の天理教を想う
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昭和20年の敗戦とともに、天理教は、他動的に国家の宗教政策の制限から脱して、立教以来、はじめて自由な天地に出た。
多くの人がなお混迷と虚脱の境にある時、中山真柱は直ちに「復元」を打ち出し、これを教団最高の方針と定めるとともに、原典のみにもとづく
天理教教典の編纂に着手した。
「復元」とは、要するに、教祖の教えの本来にかえれということである。これはまず教理面からはじまり、現在の教典が24年に公布、つづいて31年には、
本部の正式の編纂にかかる「稿本天理教教祖伝」が完成、これで、教理の基本コースは確定した。
だが教団の組織、実態の復元はどのようにすすめられているだろうか。
これに関する構想は、具体的に明らかにされていない。私の推測によれば、組織を一挙に改変することなく、まず組織の内容を形成する信仰を統一し、
向上させ、その成人を待って、次第に理想に近づこうという、現実的な方法論がとられているかに見える。
まず破壊してまったく新しい組織をつくろうというのではなく、漸進的で、あいまいな面が強い。新しいものはほとんどないといってもよいかもしれない。
この復元の実行は、教祖60年祭、70年祭、そして昭和41年の80年祭を軸としてすすめられたが、この歩みの中で、教理的には「ぢば」中心主義、組織的には
「ぢば」にある教会、すなわち教会本部絶対主義の方向がすすめられた。こうして、真柱の絶対権威は高まり、施設はいよいよ本部に集中した。
そして教団の動きは、本部の方針が打ち出されてのち、それが地方に伝わり、時をおいて次第に実行されるという、上から下へ理を流すという姿が
強化された。
この本部中心の権威と統制力は強固なものであって、かつての茨木事件のように、大教会が本部に異を唱えて離反するという事態はもはや想像もされない。
大西愛治郎のように、天啓によって自分が「かんろだい」であると称するような人間も出て来ないであろうし、かつての大平良平のように、教理の純粋化を
求める運動も、その存在理由がなくなってしまった。
では天理教は、もはや、異端を生むべき条件も必然性も皆無であろうか。それほど天理教の方向は安定し、完成しているのであろうか。
私には、そうは思われない。
教理的にも、組織的にも、整然として統制がとれているかに見えるが、燃え上がる信仰情熱、内的エネルギーは、衰弱しつつあるのではないかと思われる。
この内的エネルギーの衰弱は、異端が出ることよりはるかに危険な徴候であると見なければならない。
復元は教祖の理想に照らしてみて正しく、その努力が20年以上にわたって行われているにもかかわらず、その実が思うようにあがらないというところに、
現在の教団の最大の悩みがある。
教理面では、神一条の信仰が事あるごとに下部組織へ向かって流され、講習会も大規模に、かつ根気よく開催されているけれども、その浸透は、
まだ本当の心の深い部分へとどかない。そして、多くの人の信仰の実態は、あいもかわらぬ病気たすけ、御利益信仰の域にとどまっている。
それだけではない。復元の教理を説くべき立場の人の間に、早くも教理の固定化、ドグマ化という現象が生じている。これでは、造花のようにととのっていて
美しいけれども、悩んでいる人を救う本当の力を欠くことになる。
戦後、天理教信仰の目的は、陽気ぐらしであると宣明された。これはたしかに教団の隅々まで知れわたったが、それは言葉の空転で、実際は陽気ぐらしと
相去ることはるかに遠いものがある。
組織面では、世襲制によって主な人事は固定化し、明朗で公正な競争がなく、20年先の構成が大体わかるという具合である。
これを動脈硬化症と呼ぶ人もあるが、青年にとっては、これは甚だ意欲をそぐ原因となるために、多くの有為な若人が、自分の能力をフルに発揮できる
新天地を求めて教会の門を出てゆく。天理教は、かくして人物経済上、大変な損失を重ねている。
(注:このことは将来の天理教にとって、何ものにも代えがたい一大損失である)
それほどの能力も気力もないものは、安易なプチブル生活の地を求めたり、漫然と教団の中に生きているだけで、教祖の精神を喪失している。
教会の後継者が少なくなりつつあるという現実は、前途の楽観を許さぬ事実である。
極言すれば、天理教は、理想は高く、本部は壮大なのに逆比例して、信仰のエネルギーが低下し、人間は卑小となり、求めるものが物質的、形而下的に
なっているのが現状である。
私は異端を待望する人間ではない。けれども、空洞をもつ大木になりつつある現状を放置する時、おそらく天理教は立教の宣言にふさわしい世界宗教として
脱皮することは不可能であると思われてならない。
ここに思いきった信仰と行動力を持つ異端的人物の登場を待望するのであるが、この種の人間は果たして出て来るであろうか。
出て来るとしたら、どこから出て来るであろうか、本部からそういうラディカルな人間は現れないであろう。
青年会にしても、その本部は、失敗を恐れぬ不屈の精神に欠けているから、これも期待薄である。最も有望で有効であるべき文書の面ではどうかというに、
溌剌とした昭和初期の個性と自己主張の時代は去り、自由な批判精神は失われ、真柱の亜流ばかり増えている。それも真柱の打ち出す復元の教理を完全に
マスターした上、自分の独創を出してゆくならよいが、顔色をうかがって書いているような感がする。書く姿勢がおかしい。
これでは真に世に訴え、人の心を揺り動かす大文章は生まれてこない。本来ならば、何がなんでも訴えねばならぬ問題が山積しているのに、
筆を執ることをなるべくなら避けようという傾向が強い。この面でも退潮と衰微の感はまぬがれない。
このように見てくると、天理教は深刻な危機に立っている。人類全体が危機に立っている以上、天理教だけが安泰であるべき道理はないが、
この二つの危機を認識する度合の深いものこそ、現代と次の時代をになう人間像である。
天理教は、短いとはいえ、教祖没後80年の歴史を持っている。この80年祭は、生命も財産も名もいらぬという強い信念の持主によって
築かれて来たものである。この種の人は今も数多い。こうした行為を天理教では伏せ込みといっているが、これある限り、教団は容易なことではビクともしない。
けれども、教団がビクともしないことが理想なのではない。真に人類の苦悩に応え、それを救済するために、教団はどんな犠牲をも辞さないというのが、
本当の伏せ込みである。私が待望するのは、この種の大勇に生きる人間であり、これは、教団の保守的な側から見れば、異端と映るであろう。けれども、
社会はその異端を望んでいるのではあるまいか。
大正の末頃、増野道興は、天理教の海外伝道の可能性について、次のような演説をした。
日本中に布教を終え、その余勢をもって海外伝道をすべしという論は、正論に似てその実きわめて皮相的である。そんな甘い考えで事が成るものではない。
天理教が日本で大いに圧迫され、禁止され、食って行けぬ時代になって、やむなく新天地を求めて海外へ大挙して出て行く。こういう時、海外伝道の道は
開けるであろう。天理教は神の道であり、神の道は人間の欲を徹底的に排する道である。しかるに世人は欲の世界で生きている。
天理教徒が欲を離れ、人にも欲を離れさせる生活を徹底して行った時、神の道と人の道は必ず矛盾すべきものである。
その場合、世間と政府は己れを是とし、神の道に生きるものを非として圧迫するに至るであろう。私は何をいわんとするか。
どこまでも神の道に撤し、ために世人の非難攻撃を受けるに価する天理教を待望するのである。欲のある世人からほめられる天理教は、畢竟神の道とは
無縁のものである。これでは日本の人心改造も、海外布教も成るものではない。
筆者のいわんとするところは、この演説の中に尽きている。天理教は、現代、社会にいい子になろうとしており、また多くの人々は、
組織の中でいい子になろうとしている。ここに問題がある。
明治20年の1月、教祖が姿をかくされる直前、政府の弾圧をおそれて、お勤めをすることをためらっている側近者に対して、教祖は「律がこわいか、
神がこわいか」とせまり、さらに「律ありても心定めが第一やで」と明示された。これが天理教最大の指針の一つである。
現在天理教は、新憲法のもと信仰の自由を保障されている。一切の弾圧はもはやない。律と神とは鋭角的に矛盾はしない。
けれども、律そのものがなくなったのではない。今や律は教団の中に存在している。それは、明らかに人間の心のつくりあげたものであって、天理教の中に、
一般社会の常識や約束事、すなわち人間思案が多くなっているのである。何はさしおいても、この教団の中の律を打破するのが物事のはじめである。
ソクラテスはにくまれ役を一手に引き受けた。アテネを愛する彼は、アテネを巨大な牛に譬え、それが眠りこけないように、自分がアブとなってうるさ
く耳元で音を立てるのだと自負した。彼は不幸にして、牛の尻尾で叩きつぶされる羽目になったが、現在、私のもっとも待望するのは、このアブ的人間である。
これが、差し当たって出現の可能性があり、しかもきわめて重要である。
大なる異端像が現れるほど天理教は成熟していない。けれども、天理教は自己にとじこもって眠っていてよい時ではない。
眠りこけていたら、社会はさっさと天理教を見捨てて行くであろう。
差し当たって、アブ的人間が多く現れること。そこから一人のソクラテス的人間が出現することを私は期待する。
憩いの家さん
あなたの発言に疑問を持っているからあなたに聞いているんです。
もとよりあなたの発言より起こってきた議論なんですよ。
「本部の有力者に聞け」って本末転倒ですよ。これは、あなたが本部の発言の有意性を認めるということになるんですよ。そして、責任逃れも甚だしい提案です。
仮に「そんな事実はない」との返答があった場合は、それを論拠としてあなたの発言がすべてウソであったとご自身で認めなければならないということです。
何度もいいますが、“あなた”が確信にいたった論拠を教えて下さい。
はっきり申して、今のままでは適当なことを吹聴されているようにしか見えません。
古い教会さん
純粋な疑問なんですが、教団組織の否定と理の親の否定、さらには異端者の意見を迎合されているのに、なんでこの教団を抜けないんですか。抜けてほしいという意味ではないので悪しからず。
「50年後の…」は以前読んで共感しました。皆が読むべきものですね。
そうじゃなくてさん。
「純粋な疑問なんですが、教団組織の否定と理の親の否定、さらには異端者の意見を迎合されている・・」と言われていますが、
否定も迎合もしていませんよ。情報を提供しているだけです。それぞれが、自分の頭で考え、自分で責任をもって、自分の意思で行動されることを望むだけです。そのためには、いろんな情報が必要なのです。「理の親」については三代真柱様が否定されていました。
ここにありました。
天理教みさとブログ<原典からの出発>より
http://tenkoku0805.blog9.fc2.com/blog-entry-295.html
「ある時、前真柱様がT大教会詰所で開催された講習会の席で「理の親は教祖だけ」という意味の講話をされたことがあった。その直後、同大教会のO布教部長(以前からの知己)から私に電話があり、「真柱様の話の内容は今後誰にも伝えないように」と大教会長から注意を受けたが、「理の親」という言葉は確かに原典にはないのかどうか」を確認するためであった。私はその質問に答えて「道の親、理の親」という一節はあるが、それは明らかに教祖ご自身を指している。教会長に対して「親の代わり」「親の役目」と言われているのは、明らかに生まれつきの親の立場ではなくても、親の代わりになれるよう努力し丹精するように諭されたお言葉に間違いない」と答えたことがあった。」
うーむ、維持財団の喪失している事実を私が証明ですか(^^;)
(私は最初から余計なことを言うつもりもなかったですし、ありのままの事実のことで書いたまでなんですが、、、)
>>本部の発言の有意性を認めるということになるんですよ
そうですね、有力者の発言ですから、私は認める(肯定)しますよ。
今の閑散とした信者の大量離れとその財団の喪失時期とが見事に被るんですよね、、、
被ったからどうのこうのではないんですが、充分な裏付けになるのです。
現に財団が解散しているのは事実なんですから・・・
8つのほこりがどうのこうのという教えですが、悲しいことに教団自らは「ほこりだらけの組織」ですよ。
また、私の発言からスレがヒートアップしてしまっていることに周りに閲覧者の方々にご迷惑をお掛けしておりましたら、誠に申し訳ありません。
しかし、このサイトの主さんと同様、批判的考察な目線が何事にもないと、ただのイエスマン(思考停止状態)になってしまうところが危惧な部分であると思うのです。
理の親制度とかってのは、有無言わさずに完全に上(かみ)から→下(しも)への無言の圧力のようなものがあるのでしょうし、そこへの斜めからのメスなど入れれる雰囲気がないということ自体がそもそも異様なのです。天理教には、そういった心理的ロジックが(或は表現を変えることによりカモフラージュさせてしまうようなことが)非常に多く見受けられます。
そうじゃなくてさん
もし、天理教の有力者の方が維持財団を解散(喪失してしまっている)という私の書き込みを見て異論があるなら、私はその人と討論したいぐらいです。
三島神社移転問題やら、なんやかんやで、問題色々抱えている部分もあるみたいですしね、、、
古い教会長さん、ありがとうございます。
今後も情報提供よろしくお願いします。
憩いの家さん
維持財団の喪失の事実確認ではありません。
維持財団が解散に至った原因として、兆円単位の損失を出したとおっしゃることの事実確認です。
シンプルにそこが知りたいわけです。兆円単位の損失があったといわれる論拠ですよ。
横ヤリ失礼いたします。
古い教会長さんのご意見は、ずっと尤もなご意見だと思って読ませていただいてきました。
これからも素晴らしい情報提供よろしくお願い致します。
そうじゃなくてさんにご質問させていただきます。
維持財団の解散についてはネットを中心にいろいろと噂になっておりますね。
兆単位の損失という噂もありますが、いくら天理教のお供えが潤沢であっても
そんな金額で損失があったならば
そうじゃなくてさんが参考に提示した他教団のように大々的にニュースになるレベルの話ですよね。
ただ、そうじゃなくてさんは、維持財団が解散したということについてはお認めになるのですか?
もしそうだとしたらそれについてなにかしっかりしたソースはご存知ですか?
またそうじゃなくてさんは古い教会長さんが「異端的迎合」をしていると書いておられますが
どこが「異端的迎合」なのか教えてください。
私は古い教会長さんに全く異論がなかったものですから、
ご指摘内容によっては私もその「異端的迎合」に当てはまるのかと思いますので、
談じ合わせていただきたいと思った次第です。
異端的迎合ではなく、異端者の意見の迎合です。
http://www.lcv.ne.jp/~toyohumi/kantougen.html
このサイトを貼られていたので。異端者の意見に他ならないですよね。それ故の発言です。
私も古い教会長さんの情報は有意義なものと思ってますよ。
維持財団の解散の事実については憩いの家さんの発言に依拠しています。私にとって維持財団の存在やその解散の有無については関心事ではありませんでした。ですから、その財団の存在や目的もわかっていません。
問題としているのは、その解散の理由に莫大な損失があったという情報です。にわかに信じられないものなので、その論拠を示していただきたいというものです。
そもそも天理教維持財団の存在すら怪しいものであるならば、この議論はまったく不毛なものですね。
詳細をご存知でしたらご教授願えませんでしょうか。
そうじゃなくてさん、
「理の親の否定」はどうでしょう?
莫大な損失を出せば、大々的にニュースに出る!?
果たしてそうとも言い切れるものでしょうか?
都合の悪い事は幾らでも闇に葬るようなことは、世の中あると思いますが、、、
維持財団っていうのは、まぁ簡単にいうと天理教の独自の金庫みたいなもんです。
それこそ、各家庭の個人の家にある金庫が、宗教組織レベルでのもっともっと大きいスケールでの金庫みたいなもんです。(ま、別名で伏魔殿と言われていたようですが)
この金庫を触れるのは、一部の幹部クラスであったようですね。(たしか、表統領も含まれるのかな)
>>そもそも天理教維持財団の存在すら怪しいものであるならば
というより、天理教で(或は関係者の方で)維持財団の存在、知りませんか?
最もお金に関する部分を司っている組織だったんですが、、、
やはり、一部の人は知っているが(闇の葬られているだけに)知らない人は知らないということなんだろうと思います。
逆に他の側面から見て、何故、これほどまでに、活気もなく信者が減ってしまっているように思われます?
何が原因(起因)と思われます?
逆にいうと、その組織の損失以外の原因以外に考えられないんですよ。
そうじゃなくてさんのおっしゃる「異端者」の定義ってなんですか?
古い教会長さんが
http://www.lcv.ne.jp/~toyohumi/kantougen.html
「豊文教会」のサイトを貼られた意図って何だったのでしょうか?
ただの情報提供とはいえ、その意図が知りたいです。
また、そうじゃなくてさんが「異端者の意見の迎合」と断言していますが、
古い教会長さんご本人は、「豊文教会」に対してはどのようにお考えですか?
古い教会長さん
これまでのコメントの文脈上で古い教会長さんは理の親を否定されているのだと理解していただけです。心外でしたら申し訳ありません。
憩いの家さん
少なくとも私は維持財団について知りません。
私の知識が総意であるとは申しませんが、維持財団の解散が教勢の低下につながっているというのはピンときません。多分それほど知名度が低い。
教勢低下の原因については、維持財団の解散云々という得体のしれないものよりも、当サイトが取り扱っている様々な事柄に説得力があると思います。
さて、これまでの質問と回答を振り返って、一応の結論を出しておきたいとおもいます。
天理教が投資などによって兆円規模の損失を出したということについて、客観的な論拠が得られていません。そのためこの件は噂話の領域を出ず、ネット上を一人歩きしている捏造された情報である可能性も捨てきれません。また、そもそも天理教維持財団の存在や内容自体もあやふやで、憶測の域を出ていません。
ざっくり申して、情報の精度が2ちゃんねるレベルであるということです。
この場で核心に迫ることは難しそうなので、そろそろ質問は差し控えることとします。
件に関して、時間のあるときに個人的に調べてみようと思います。何かわかればまたコメントいたします。
憩いの家さん
教勢衰退の原因は、維持財団が損失を出して解散したから(存在していたとして)ではないと思います。
やはり一番の原因は、組織体制が、教祖の教えの通りに実践できていないことが一番の原因かと思われます。残念ながら「理の親」や「心定め=金銭」等、現組織を維持するための権力者の横暴による「欲と高慢からの人間のご都合主義の教義化」に汲々と振り回され、末端や信者が疲弊しきってしまったことが衰退の原因かと思われます。
また維持財団解散したのが事実だとしたら、神意からすればそれは人間思案の欲にまみれた埃であり誤りであるとの神の判断から、「神自らによって取り払われた」と解釈できるのではないでしょうか?
そうじゃなくてさんが
>>教勢低下の原因については、維持財団の解散云々という得体のしれないものよりも、当サイトが取り扱っている様々な事柄に説得力があると思います。>>
と述べているということは、そうじゃなくてさんも理の親否定派なのではないのですか?
「理の親」についてはそうじゃなくてさんはどう思われているのですか?
<そうじゃなくてさん 古い教会長さんへ >へ。
御分家の話は、誰かから聞いたことがあったので、調べてみると、http://www.lcv.ne.jp/~toyohumi/kantougen.htmlにあったのです。信憑性があると思いますよ。「豊文教会」については、ネットで見る限りですので、詳しくはしりませんが、信念を持って行動されているものだと思います。
<そうじゃなくてさん >へ。
「理の親」については、そうじゃなくてさんは、答えていませんが、肯定されているようですね。私は否定しています。
あなたは、真柱の言葉でも自分に都合が悪ければ否定されるようですね。
まず、抜粋の文脈から、理の親否定派というところにつながる理由がわかりません。説得力があると認めることが、即ち意見に賛同するということではありませんよね。
おたずねの理の親については、教義ではないと思います。古い教会長さんの情報をみても納得できます。
しかし、教会ならば会長を、職場であれば上司を、学校であれば先生を尊重し、立てていく心は持っておきたいと自負しております。
古い教会長さん
私の当初の質問の重点は、なぜ教団を抜けないのかですよ。組織、理の親、異端云々と、教団を抜けても不思議ではない要素が揃っていながら何故教団に所属し続けるのか…というものです。その質問はすでに答えていただいているので回答は結構です。
理の親を肯定した文脈はないと思うんですけどね。あくまで、質問を形成する構成要素の一つとして理の親を上げただけです。文脈を辿ればわかると思いますが、私が肯定的になっているところありませんよ。あとは先のコメントの通りです。
そうじゃなくてさん。
おぢばの修養科で学ぶこと、聞くこと、真柱さんの祭典講話で聞くこと、すべて「なるほど」と思えることです。その精神で勇んで地方へ帰ると現実は、ちょっと違うのです。縦と横。上級と部内。上下の立場は、「ろっくのぢ」とは程遠いです。
間違った信仰をしている人が、このお道を去っていけばいいと思いますが、あたりまえのことを、ありのままに正直に思い行動している者が去る必要はないと思います。
もし、このお道が間違っているのでしたら、いつでも去ります。
もしかして、「お道は間違ってないけれど、教団は間違っているので、抜けなさい」と、おっしゃっているのですか?
もしかして、こういう意見を言う人は目障りなので抜けなさいと、おっしゃっているのでしょうか?
右か左かと決めつけなくても、批判するから教団を抜けよでもなく、もっと深いものが古い教会長さんの中にあるように感じられます。
少なくても、私の母や借金の為に夫婦別れをするような馬鹿げた信仰の歯止めにはなるかと思います。
私自身、信仰が惡だとは思っていません。いきすぎることが破滅に繋がることだと思っています。
むしろ信仰することで精神が安定することもありますし。
ただ、私の母は教会とは、掃きだめと同じなんだとしょっちゅう言っていて、心優しき信者さんがどんどん離れていき、残っている信者さんは質の悪い信者さんだけが残っていました。
いつも信者さんから袋叩きにあっていた母が、皆が寝静まった頃布団の中でひとり寂しく泣いていました。
上からは、金!金!と責められ、信者さんからは、母の悪口ばかりを言って母を虐めていました。
母に「教会にだれも来なくてもいいんじゃないか」と言っても、「教会は掃きだめと同じや」だけしか言わない。
本当は、教会を預かる会長さんや心優しき信者さんの心のケアがあってもいいのかな~と思います。
いやいや、最初にも申しましたけど、抜けてほしいということではないですよ。
それだけ条件が揃ってるように思えるのに、どうして教団にいる必要があるのだろうとの疑問からです。他意はありません。責めているのでも批難しているのでもなく不思議に思っただけです。目障りならそもそもこのサイト見ませんよ。
排他的な感情などもありませんから、その点、ご承知おき願いたいところです。
要するに
お道=教団 ではない
ということなの?
天理教の教えって、やっぱりどこかに無理(論理矛盾)があるんじゃないかと思わざるを得ない、、、
どんどん、廃れていくだけだと感じる
宗教はどこかは論理的な所で矛盾が発生すると思います。
でも、信仰を持つ事によって安心、安定する人たちも沢山おられると思います。
何のために宗教があるのか、もっと天理教の教会長は考えるべきだと思います。
東日本大震災や、九月の豪雨災害でも本当に天理教は息の長い支援活動、実働をしています。
もっと頑張っている人達に対して、本部が支援しつ続けるべき。
お金の問題も、被災地に使われるなら御供えをしても納得する人達が一部はいると思います。
教会本部にばっかり集まって本部員や大教会長達の会議で決めるのでなく、実働している方々の現場の意見がもっと反映される様に、いまさらながらなって欲しい。
親から天理教です。
いろいろな事がある事を知りました。
所属教会でもここ数年とんでもない事件が続いてます。
ところで天理教をされている方の所属教会でも
130年祭のお供え用 のし袋は配られているのですか?
いくら入れたらいいのか悩んでます
家族三人 袋三枚です。
なにも本部は困っていません。気持だけでいいのではないでしょうか。しなくても、いいくらいです。神様は決して怒りません。
古い教会長さん ありがとうございました。
困ってないですよね、
130年祭だよと言われると悩んでしまい・・・ 気持だけにします。
天理教はなぜお供えの金額で信者の扱い方が変わるんでしょうね
身上になっても、お金がないとおさずけが受けられないのが不思議です
教会を自由に選べれたらいいですね。
御供え金がなければ、身上のおさづけを取り次がない天理教人(教会長)でしたら、
それは、ほんまもんではないですから・・・・・
教会を自由に選ぶことは、簡単にできるものです。心配はいりません。
はっきり申し上げると、教会がなくても信仰はできます。
おぢばがあれば、神殿でひとりでも参拝して、拝むこともできます。
南礼拝場は、24時間ずっとあいておりますので、自由に参拝できます。
自分さえしっかりすれば、組織に所属しなくとも、頑張って信仰できます!!
せっかく、天理教の教えを信仰するというご縁をいただいた訳でありますから、
天理教組織に苦しまない信仰生活でありたいものであります。
自分と神さまの間に余計なものをいれずに、神さまと直接対峙する信仰感を
つくっていければ、何も心配はいらないと思います。
おぢばへ、おぢばへ心をよせて・・・・・
「組織」というものは、人間さまがつくるものであります。
それぞれによって、良いところもあれば、良くないところもあります。
「お金」も、人間さまが使うものであって、必要としている方がどなたさまなのかと
いうことであります。
ご本部は、別にお金には困っておりません。
本当に困っていたら、みんなすぐにわかってしまいます。
それが「天の理」というものであります。
御供えは、言われてするものでもなければ、強制(義務)でもありません。
ありがたいなあと納得されて、気持ちをのせて御供えをいただければ、
ほんにありがたいことだと思わせていただきます。
よその教会はおさずけにお金はいらないのですか?
おさずけ一回3000円だと思っていました。
生死が危ない時だけ、住み込みの子にこっそりお願いしてもらっていました。
お金がなくて断られた人がいるので、、
親切な教会があるんですね。
これからは天理に参拝を考えてみます。
おさづけに値段はありません。教会は上級へのお供えがある為、そんなことを言うのでしょうか?
おたすけは、時間もお金も身も心も、人の為に尽くすものです。人さまから貰うものではありません。
おさづけが「道の路銀」というのは、究極のおたすけをしている「おたすけ人」の為の言葉で、欲から離れた時に与えられるものです。
ご本部はお金に困ってないんですね。分かりました。
では、私の教会で言われたかんろだいふしん、一教会50万は嘘ですね。年金払ってる老人に大金払わせてなにがありがたいのでしょうか。本部のふしんを末端に押しつけないでください。
おさづけの値段の話を読みました。私の時は100万でした。そんなお金を当時の私は払えるわけもなく、ICUの扉越しに自分でおさづけしました。払えなければ死ね、それが私のおさづけの教訓です。
…ですが、それは大教会を巻き込んでのこと。
私の分教会は、私の知らないところでお願いづとめを毎日してくれていました。後になってから知りました。それは本当に有難く韓者しています。
私の所属教会では、積極的におさづけを取り次ぎ、日常的におたすけを心がけることが言われています。
当然金銭など発生しません。会長さんも快く取り次いでくれますし、心の弱みにつけいるような発言も聞かされたことがありません。
様々なコメントを見て、天理教と関わって不快な思いをされている方が多いんだと残念に思いました。環境によって信仰のやりかたも随分違うようですね。人間のできた会長さんばかりなら、こんな風に思われることはないだろうに。
話は変わりますが、先日未信者の友人からこんなことを言われました。
「天理教の人はすごいね。日常的に道に落ちているゴミを何のためらいもなく拾ったり、災害の支援もしているんでしょ。一時的に良いことをすることは誰だってできるけど、ずっと続けることは難しい。天理教の人はえらいね」
私は素直に嬉しくなりました。
組織であるがゆえに、色々とややこしいことがたくさんあって、そのせいで信仰がいやになったり、神様を忘れてしまったりするのだと思いますが、暗いことばかりではないということも忘れてはなりません。現に日常的に人や社会のために汗を流す信仰者の真実は、私の友人の目にうつったのです。
信仰は組織に宿るのではなく、人の心に宿るものだと思います。
生活が組織に縛られて辛い思いをなされている方がいることも承知していますが、神様は「心の真実」を見ると仰せられます。金銭や立場に目をやれば格差が生じますが、神様が心を見る目に格差はありません。
そのことをどうか忘れないでほしいです。
最後にある本の一節を紹介させてください。
「強い者勝ちの世の中に、強い者として生きてきた私が、弱そうに見える人の真実に負けてしまったのである。」
「知恵や力がありすぎると、祈りを忘れる。神の入り込む余地もない。」
神様の世界は不思議です。人間の常識が及ぶ力の原理が通用しない。
逆に言えば、力なき者でも、真実の心があれば何にも変えられないお働きをいただくことができる。
神様の領分でものを考えられる人がどんどん増えていけば素敵ですね。
私もそうなれるようにがんばります。
長文でまとまりませんが、私なりに思うところをコメントさせていただきました。
失礼しました。
今の天理教はおおむね、良い印象を持っておられる方が多いです。他宗教の方も、天理教を攻撃されるような方はなくなりました。それだけ力が無くなり脅威ではなくなったからだと思います。
天理教に悪い印象を持っておられるのは、かつて、熱心に信仰されていた方でお道を離れた方や、今も現役ですが、上層部に不満を持っている人たちだと思います。
わざわざ、外に出て、「においがけ」をするより、今、引き寄せられている人たちを大事に丹精して育てていく方が、よっぽど大事だと思います。
天理教を信仰しようが、しまいが、他宗教を信仰しようが、しまいが幸せにはなれ、いきることは可能です。それは世を見ても明白なことです。おじばに参拝にいこうが、いかまいが、神は今ここに在り、信仰を持つことは容易です。僕は熱心な信者でもなく、誰よりも自分を信じることが大事だし、自分の人生をいきることが大事だと思っています。天理教の人たちは優しい人が多いですが、本当に自分を信じて愛があり、自分の人生を切り開き歩いている人をみることは出来ません。天理王命はおやさまに天下った神様です、おやさまの雛型をたどるなら、誰もがおやさまのように神の社になる、すなわちおやさまは人間として我々の上になる人でなく、一列兄弟となるのですが、冒涜でしょうか。おやさまの教えはその生き方を通して示されています。神がうちにある、当たり前ではないでしょうか。神格化する、そもそもおかしなことではないでしょうか。人は皆、神であり、誠素晴らしい存在で、愛に目覚め、愛に生きればいいだけだと思っています。この考え方を人に押し付けるものではありません。あくまで僕のスタイルです。
言葉が不足しておりました。自分の人生を切り開いて歩いている人を多く見ることは出来ません、です。
どうにも最近、吐き気がする程に、この天理教というものが嫌になってきている。もちろん、純粋な教祖の教えでは無い、教団が自分達に都合よくつくった、教内で通っている教えに対する嫌悪感である。
お供えなどする時、「惜しみながらしたのでは、神様に受け取ってはもらえない、お徳も積めない、何でも喜んでさせてもらいなさい。」、と言われる。その言葉を言いながら、教祖100年祭の時に、多額のお供え金を、当たり前のように要求した、上級の顔が思い浮かぶ。こちらが、最初渋ると、途端に機嫌が悪くなり、何日か日を置いて、ようやく都合をつけると、やっと機嫌を直した、上級会長。それが当たり前のこととされている、天理教というものに対して。
はっきり言ってやろう、たかりと変わらないじゃないか。人の都合も斟酌せず、上から言い放つ、その非常識さ、それが慣行となっている、天理教というものに対しての嫌悪感である。
ある大教会長にお尽くし(お供え)の意味を聞いたことがあります。
その時の答えが「この身体は神様からの借り物です。だから神様にお礼をするのです」とのことでした。
神様へのお礼は・・・・・・・・・
教会や本部に持って行くことなのか?と思いました。
ではなくて、世の為、人の為に尽くすことが神様が喜ばれることで、
教会や本部に持っていくことだけが、お尽くしではないと思いました。
そこからお金の出し方、使い方が変わりました。
古い教会長様へ
なるほど。。。
大教会長様は上手くおっしゃったおつもりなんでしょうね
私も古い教会長様同様
考えさせていただきます
有難うございました
他人様に喜んで頂けると嬉しいです
私も友人にお供えの意味を聞いたことがあります
教会長の友人曰く
命が1番
お金が2番
お金は真実である
命はお供えできないから
2番めに大切なお金をお供えするんですよ って???
あとは かりものかしもの 因縁 隠徳
なるほどね
話はお上手でした
立場が違うのでなんとも。。。
知っている教会について
直轄ですが大教会ではありません
毎月数百万のお供えあがってます
半分以上は銀行に預け
生活費 小遣い はたっぷり
クレジットやローンの支払いもたっぷり
海外旅行も何度も
かなり優雅なお暮らし
信者さんに教えてあげたいです
事実です
賑わしいのは月に1度だけ
普段はひっそりしています
知っている大教会の奥様。婦人会長としてご立派なご挨拶をなされます。しかし朝のおつとめ、夕勤めには出てきません。一家のお食事は炊事場に任せきり。出来立てを運んでもらって、汚れた茶碗や食べ残しはそのまま自宅の玄関に放置。かたづけは「取りに来いよ」ということ。良いことばかりを演説し、実際の生活は人としても、信仰者としても散々。後継者になるはずの子供たちも昔からおつとめには出てこず、どんな教育をしているのか?後継者はちゃんと育っているのか??上だと思うから寒々しい。神様の目には上も下もないのだから、鼻高々の可愛そうなお人たちです。私たちのお供えで不自由なき生活。現実を知らず、号令ばかり。人助け人助けと叫びながら、最後の締めくくりは「お供えを頑張って欲しい」と。そこが本音でしょう。もうがたがたの屋台骨。大教会のご一家、立ち行かないと悟る時がそのうちくるでしょう。一般の私たちはそんな時が来る前に現実を知り、真の神の声を聞き分け、この道の間違いに早々に気づく必要がありましょう。組織に振り回されず、お供えで助かると思わず、一名一人、神と自分との直接的な対話。そして悟り、気づきを得る。この繰り返しが真の信仰だと思います。
本部でとある先生のお話し
親神様から身体を借りている、レンタル料を払わなければならない
現代医療で身体を作ったらいくらかかるかというと、男は五十億以上、女は百億以上
これを目標に支払いしなければならない
出来ない者は、お道の落第者である
支払いは教会や本部へ
この話を知人会長に話したら、一般信者の使命で教会家族はしなくて良いとのこと
無駄話している暇があったらカネ稼いで全部持ってこいと激怒されました
感動して涙が出たなあ
冗談言ってるとしか思えませんが、本当にそのような事言ってるのですか?もし、本当なら、頭がとうとう、おかしくなったのでしょうね。その本部の先生とその会長も。「近ずくな、危険」です。
書類上は教徒人様へ
とある先生のお話、
私も聞かせて頂きました。
残念ながら奇跡は起きず、お出直しになられた方ですよね。
教会本部は世界中の富を集めるつもりなのか?
何の為に?
なんでそんなに金がいるんや?
そりゃあ 地獄の沙汰も金次第だからでしょう。
本部も会長も、心の世界に肩書きは関係ありません。
心が天国にいれば、人に大金を要求するような言動などありえません。
自ら気付いて地獄から抜け出せれば、そのような言動は自ずと無くなるでしょう。
一読者 様。
>教会本部は世界中の富を集めるつもりなのか?
何の為に?
なんでそんなに金がいるんや?
それは「よくに きりない 泥水や・・・・」と言われているように、一度、大金や大きな立派な建物を手にしてしまった人間は、キリのないくらい欲の心が湧いてくるのです。
ブログ<原典からの出発>植田義弘先生のブログです。
http://tenkoku0805.blog9.fc2.com/
天理教の「御供え」についてをリンクします。
http://6706.teacup.com/5051/bbs
命の泣き声~天理教への信仰でお悩みの方へ~
「命の泣き声」さんのホームページのリンクを張ります。
http://inochinonakigoe.grupo.jp/
ご本部の人々は、金で人を苦しめる悪因縁を積んでる最中であります。
彼らにこれ以上悪因縁を積まさない、という親切心があるのであれば、お供えを止めてあげることです。
あの建物群全体も、一体何で必要なのかも不明だな。
現在の利用状況と利用内容を教えてください。詳しい人
一読者 様。
私の知る限り、詰所は普段ガラガラで26日前後でも、当番や、ひのきしんの人が泊まるばかりで、一般の参拝者は激減しています。
修養科生も激減していて一期講師の先生が余るので担任・副担任制を導入しました。一般教会長の負担が増えるばかりです。それなら一期講師も減らせばいいのですが。
本部の建物の中はどうなっているのか、知るよしもありません。
ブログ<原典からの出発>植田義弘先生のブログです。
http://tenkoku0805.blog9.fc2.com/
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そんなに詰所がガラガラなら、熊本地震の被災者で、劣悪な環境にいる方々に希望者がいれば、すぐにでも詰所に入らせれあげればいいと思負いますが、本部はそのような発表はしてないのでしょうか?
熊本の方では、多くの不動産会社が半年間、空いた部屋を被災者に、1円で提供するそうです。全く只では、法律上問題があるそうなので。どこぞの宗教組織とは大違いですね。民間の方がはるかにお助け心があるじゃないですか。
>民間の方がはるかにお助け心があるじゃないですか。
その通りです。
阪神大震災時、被災にあった我々家族は詰所にお世話になりました。
でも宿泊代は全額請求されましたよ。
もちろんお支払いいたしました。
その後まもなく私は天理教から離れました。
それが原因ではありませんが。
>阪神大震災時、被災にあった我々家族は詰所にお世話になりました。
>でも宿泊代は全額請求されましたよ。
>もちろんお支払いいたしました。
被災者に宿泊代を請求する?こんな欲の皮の突っ張った宗教組織も珍しい、いや、日本の宗教組織はどこも、金に執着が強いから、天理教は宗教組織の王道を行ってる、といっていいのかもしれない。しかし情けないね。
年祭毎に無駄な建築をして、先々に無意味な人的経済的負担を強いて、その建築物の使い道も意味不明なのか?
宗教活動にも金がかかるのは当然だが、無理無駄の度が過ぎたら神の返しがあるという教えなんじゃないのか?
50代元信者 様。
>阪神大震災時、被災にあった我々家族は詰所にお世話になりました。
でも宿泊代は全額請求されましたよ。
もちろんお支払いいたしました。
実は、詰所の経営は赤字続きでお供えを流用しているのが現実です。でも、こんな時こそ助け心が必要だと思います。でも、詰所の担当者の采配では何もできません。
ふと立ち止まり現実を見て今、何をするべきかを考える余裕を失っているように思います。
こうすれば良いと分かっていても、自分で考える、意見を言う、実行することを放棄してしまうのです。
いつも指示待ちでしか動けないように教育されているのです。これが洗脳なんですね。
ブログ<原典からの出発>植田義弘先生のブログです。
http://tenkoku0805.blog9.fc2.com/
天理教の「御供え」についてをリンクします。
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徳村さとるは韓日の友好、在日韓国人の地位向上の為にがんばれよ、
そう思う人いるんや。私なんて天理教被害者な気分40年。お母さん死ぬ時浄土真宗と思ってたけど仏壇払って天理のにしよかな?他にまっすぐお祈り出来ない身体に育ってしまってる。
仏教の教えから見たら、人間の都合で物を欲しがる、うまくいかない時は、人に対して徳が足りなぃ、自分の馬鹿さ加減に気付いて欲しい、何があっても良いも悪いも、本人の努力の結果だと思います。
そんな所まで入り込んで、とても気分が、悪いと感じています。
大体、宗教自体を職業にすべきではないのです、
宗教自体職業にするから、生活に金がいる仕方ない、だから搾取となる、
お金払わなくても信仰できるものでしょうに、
天理教のトップと幹部連中がちゃんと別の仕事していて、自分の給料から宗教活動費を捻出して、
活動するのが基本でしょ!
事実上、宗教は教祖とか幹部連中は信者が稼いだお金で養われている状態、
なのに威張りくさっている、それをおかしいとも気づかない未熟な魂。
知り合いの教会。教会長を引き受けた若いお孫さんは細々と働き小さな教会の家計を支えていた。教会長を後継した途端に、大教会長より、「事情働きはならん。道一条になれ。」とのお言葉。
その大教会長は信者の反対の声を押し切って莫大な借金を重ねて、地続きの土地を買い占めた。昨今では信者が減る一方なのに、相当額の借金が今に残り、その支払いの為のお供え金に信者、教会は当たり前の生活が出来ない。部内教会、末端家族は表立って文句も言えず教会家族内では不満がくすぶっている。
大教会長よ、自分たち家族が毎日のご飯にありつけているのは末端教会や信者が働くからではなのか。
雲の上の存在のように恐れられ、偉そうに振舞っているが、それが下の支えがあってのことだと言う事が分からないのか。
大教会家族は信者のお金で食べている。自分たちが「乞食」に等しい事を認識していない。ほとんどの末端教会はお供えに頼らず、自分で働き、自分の稼ぎで食べ、その中から感謝のお供えをし、自立しながら人助けに心を砕いているというのに。
教団トップも大教会トップも魂は「乞食」だ。人の懐をあてにし、勝手都合のいい講釈を垂れる。教祖ひながたを講釈するなら、自ら貧に落ちきるべきではないのか。何を言おうと「説得力ゼロ」である。
莫大な借金の大教会さんのお名前ちゃんと公表してあげるのが親切だと思いますが、個人情報で出来ないのですね。
教団トップも大教会トップも魂は「乞食」だということを、ご自分達は気が付いてない、能天気極まりないですね。下に無理をさせて、自分達の私腹を肥やすことばかりしている大教会などに、従う必要もないことですが、部内教会で連絡を取り合い、理不尽なお供えには異議を唱えようではないか、という話し合いなども、行なえればいいと思いますが、難しいのでしょうかね・・。
ともかく上の言いなりにしていては、一生、陽気暮らしはできないことは確かです。
莫大な借金をして土地を購入した大教会。本部に内緒で購入したわけではないでしょう。必ず「お運び」と「お許し」が付いて廻っているはずですよ。本部は内心、しめしめと思っているでしょう。
仮に、当該大教会が借金を払えなくなっても、本部が残りの債務を支払って、土地の名義は本部の物になるように仕組まれています。それまでに信者がお供えという名目で支払った分の土地が信者に還元されることはありません。
ましてや、この借金の全額は奈良県の南都銀行が融資しているのですから、本部の思うつぼに過ぎません。
何故なら、教団本部は南都銀行の可成りな大口の株主ですから、キックバックもあるだろうし、どちらに転んでも本部は損をしないシステムになっていると思います。過去に借金をした教会が債務の履行が出来なくなり問題が山積し、業を煮やした本部は、全ての教会の借金は本部を通じて南都銀行からでしか融資を受けられないシステムにしてしまっています。そもそも、教会が莫大な借金をしなけえばならないシステムそのものが問われているにも関わらず、いつまで教会制度を維持しようとしているのかさっぱり分かりません。
何時になったら教祖が説かれた「講」のシステムなるのでしょう。
教団本部は宗教法人といいながら体のいい金融屋みたいなものですよ。
とにかく、宗教法人がいかに広大な土地を所有しようとも、固定資産税が課税されないので、結果的には泥棒に追い銭に等しいことをしているということですよ。
信者の皆さん、いい加減に目を覚ませばいいのにと思うばかりです。特に、若い人たちには、この実情を伝えたいです。
ほんとにそうですね。
兆レベルの金額が常識かどうかの判断が出来ないという時点で思考提示状態か、悪意の攻撃かのどちらか。
デタラメ週刊誌の手法と変わず、このブログの質を下げているように感じます。
あのね、週刊誌の記事で主張することはあなたの発言の信憑性を揺るがすことになりますよ。しかもうる覚えとか…。
ベルトコンベアーなんて話しを信じてるって次元で過去の書き込みの内容もアレなのか?と心配します。
憩いの家さんも「絶対潰れない」とか、論理展開に“絶対”を使い出すと危ないわけで、軽い詐欺師の体質を感じますね。批判意識が強すぎて思考が偏ってしまってるのでは?
一日一善と言うでしょう。おつとめは朝夕する必要はありません。一日一回、それこそ義務感で勤めるのではなく誠心誠意で勤めれば一回でいいんです。月次祭も必要ありません。御霊祭も必要ありません。春夏秋冬の年四回を誠心誠意でおつとめすればいいんです。大祭なんてこじつけの最たるものです。何しろ本部員や大教会長さんでも朝夕のおつとめに出ないことがあるのですから。我々のような凡人や最下位のものは、なお更おつとめに出る必要は有りません。
毎日、毎日せっつかれるように生きる必要は有りません。一日3食を食べなければいけないと思い込んでいるだけです。
一日に2食しか食べない日もあります。ある医師の勧めにあるように、一食はニンジンジュースだけのこともあります。
それでも80歳の今、薬の常用服用もなく10㎞ぐらい歩くのも平気です。変な決まり(似非教理)に囚われるから生きづらくなるのです。
東風Z さんがお元気で嬉しいですよ。
「薬の常用服用もなく」10キロ歩くエネルギーもお有りとなると、わが身が恥ずかしい。
天理は何しろ不便だから歩くこと歩くこと・・・。
昨年痛めた足の指裏が今もって歩くと痛みます。
なんで指なのか訳が分からない。
病院へは行かない主義なので誰か教えてください。
デブだからでしょうね。
単に体重増加で足のアーチが崩れているからのようです。
スルーしてください。(恥)
匿のとんちゃん さん
ひょっとしたら、爪水虫かも。実は歩くと痛む足の原因が爪水虫でした。治療すると軽快に歩けるようになりました。
ところで体重ですが、よく噛んで食べてください。唾液という素晴らしい消化液が自然に備わっています。しっかりと噛んで食べると体重は必ず減少しますよ。頑張ってください。
アドバイス、ありがとうございます。
まさかの原因ですね。
投稿させて頂いてよかったです。
素直な質なので、アドバイスは実行します!!!
確かに早飯の癖が抜けきれず・・・汗!
『ピラミッド』
今回のブログの組織図で、天理教ピラミッドが出来上がっているのがよくわかりました。
前からおもってたのですが。
上級教会は、部内教会から上がってきはた上納金は、大教会へ上がります。
上級、中間教会で、上納金を一部をピンハネしたりしているのでしょうか?
末端から上がってきた上納金をは、そのまま本部まで届くのでしょうかる
僕は、、中間教会がピンハネしてるように思います。
昔僕の属して上納金は、朝つとめの手て揃わないそうてす。
信者さんは少ないどおもいます。
部内が十数ヵ所あるがためにり
お金には、困らないでしょう。
億単位の借金をし、息子家族の家まで建てて。
末端から上がってきた上納金をも使われていると思います。
ただ、上級はいつも、人がおらず。
無駄な宿泊施設も、意味はありません。
上級なのに、閑古鳥が鳴いています。
今は末端だけでなく、中間教会も、人手不足のとこが多いです。
土台から崩れ落ちてきた天理教。
信者さんは、じゅんすいです。
大事な信者さんのお供えをピユハネしないでくださいね。
でも、ほんと。
天理教がいつ沈んでいくのか。
犠牲者を減らさないと。
それも、人助けの一部分かもしれない。
本部から各教会になぜ運営費が出ないのか本当に理解に苦しむ。
末端は疲弊しているのが何故分からない!会社であれば営業車とか本社から支給されるけど教会を建てるだけでさらに理立てとかどんな理論!?
本部は高級車買う金があったら末端に中古の軽で良いから支給すれば?
本部の連中は安全領域にいて高いところから偉そうに!おまえらの実力じゃないんだよ!教組の親戚連中は全部裏切って中山家を除け者にしたんだ。そんな連中の祖先が本部にいないと願いたいわ。ダイスケ君は「だいすけ様」を許容した時点で心底呆れる。そんな封建的な呼び方で若い優秀な人が離れていくのが分からないかな?ワクワクさせるカスみたいな企画を考える前に組織のカネの流れを考える事を次期真柱に考察して頂きたい!
陽気暮らし講座とやらに来る本部員にお礼が一万円いる。信者が一人か二人しか来ないのに一万円のお礼。
一日4軒回れば4万円だ。
教会に負担は掛けないという触れ込みで本部から諸経費一万円の補助が出るが、一万円やると言ってもそのお金、元は我々信者、教会からのお供え金ですよ。お礼を持って帰る本部員は高時給一万円のバイトだ。
金欠本部は本部員を稼働させて彼らにバイトさせてるのか。満足に給料が払えなくなったのか?
くれると言うその一万円は我々の原資だ。そんなお金要らないから無償で来てほしい。本部員を疲弊教会に養わせている構図だ。一万もらって一万払って、電気ガス使って、茶菓子買って、駅まで送迎してガソリンだってタダじゃないんです。親ならそんなお礼は取らないだろうに。情けない。
陽気暮らし講座に来るのは本部員ではありません。地方で活躍している会長が講師に任命されています。
本部員は、修理人、世話人といって、もっと凄いお礼をもらっています。
とても素晴らしい考え方だと思います。
スピリチュアルの勉強もされてます?
ってもう3年前の書き込みですね。
人は皆、神の分け御霊であり、神の一部であり、神の子である一列みな兄弟という考え方が教団の大先生には無いようです。せかいろくじにならす。を逆行する体制ではいずれ終焉するでしょう。
天理教をやめて10数年、天理時代の友人がなくなったので、行きたくなかったが、亡くなった彼が会長する教会へ取り急ぎ駆け付けた。
真ん中の親神様のお社の神鏡の左右に、ぜんすけ・ダイスケの色紙。善衛の遺影が飾ってあった。
終わったな。中山みき。
>>真ん中の親神様のお社の神鏡の左右に、ぜんすけ・ダイスケの色紙。善衛の遺影が飾ってあった。
哀れですなあ。。洗脳により凡人以下の人間を崇めさせられ、金も時間も搾取されて……..。
「願う心の誠から見える利益が神」すなわち、神は我々一人一人すべての人間の胸の内にいると教祖も教えておられるのにねぇ………。
ほんとですよね。私は付き合ってと言われた彼氏が居まして、その人が天理教の信者さんでした。離婚して天理教の施設で娘さんと生活しています。ことある事に天理教のイベントに誘われ9回全部行きました。お金も、そのたびに金額指定され支払ってました。最初は3000円でしたが結局5000円になりましてタバコ買ってあげたり誕生日に何かあげたり最終的にイベント行ってないのに御布施の要求に最後は2年前の御布施を立て替えて分が2万有りますと言ってきまして、無理なら良いですと言って来ましたが根に持たれるのが嫌で支払いました。その後、一年間音信不通だったのに、また天理教のイベントに誘って来ました。「私が宗教のイベントに行くメリットは何」と聞きましたら逆切れされまして、ダメ出しをされたり、いかに天理教の行事が忙しいかを嫌みたらたらと言われまして興ざめと憎しみのミックス状態になりました。今は冷静に救い用の無い可愛そうな人やなと思っています。今は初めて2人で乗った奈良行きの電車が良い思い出です。寂しいですが天理教の人と付き合っても未来はなかったです。
ヤマモトヨシコ様
その方とのご縁は切られたのですね。それなら正解です。
天理教は既に急カーブの下降線をたどっています。神が応援しているなら、こんな衰退はないはずです。この教団には神は居ません。
天理教は昔からお金にこだわり無理やり出させ、多くの信者から家財産を奪ってきました。天理教をすれば貧乏すると世間から嘲笑と共に恐れられてきました。
各種行事に振り回され、まともな正業に就くことも出来ない若者が大勢います。そんな男性と結婚しても教会の使用人としてまた会長宅の労働力としてこき使われます。まともで豊かな家庭生活などは出来ませんよ。神に見放された教団ですから未来は有りません。あなたが未来を感じなかったその感性はそう言う醜い現状から正しく感じ取られたのです。去るのが正解です。
今更天理教に脚を入れる事は、あなたの身を滅ぼす様なものです。適切に身を処して頂きたいと切に思います。
神が応援しているなら、こんな衰退はないはずです。この教団には神は居ません。
この教団には神がいます。
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意味不明、、、。
だから、「荒らしの基本ちゃん」はスルーしましょうよ。
ずっとスルーされているからわざと意味不明なことを書いてかまってもらおうという魂胆です。