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あけましておめでとうございます。そして今年の抱負。

改めまして、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

早いもので新年も10日が過ぎようとしています。
天理教の一大イベントである「お節会」にはお誘いを
うけましたが、今年も参加することができませんでした。
行かれた方はどうだったのでしょうか?
天理時報によって参加者数が公表されるのを楽しみに
したいと思います。

さて、今年はどういった年になるのでしょう。
天理教では今年どんなイベントや意味があるのだろうと
天理教公式HPを見る。http://www.tenrikyo.or.jp/ja/top.html
お、天理教道友社のリンクが右欄に貼ってあるではないか。
早速天理教道友社のページへ飛んでみる。
おぉなんと天理時報がWEBで見られるではないか!
と感動しているのもつかの間。
WEBで公開されているのは一面だけである。
しかもズームしたら暈けて字が読めない。
そりゃそうですよね。
天理時報をWEBで見られるようにしたら天理教の貴重な
財源が無くなってしまうんだから。
いや、でもこの道友社のページはかなりツッコミ所の多い
サイトではないか!
ネタがなくてブログの更新ができない私には吉報である。
ありがたや。

ということで、今年の私の抱負はブログの更新をちゃんとする!
である。
ちゃんとって?といわれてもちゃんとである。
ちなみに現在、このブログの一日の訪問者は60人くらい。
昨年の夏くらいは100人くらいであったのだが、
私の更新が遅れるのにつれて徐々に減ってきた。
更新が遅れてるからなのか、私の記事が飽きられたのかは分からないが・・・

やはり訪問者が多いと嬉しいのです。
「オレは書きたくて好きなこと書いるから別に見ない奴は見なくていいぜ!」
なんて強気なことは言えません。

どうぞ今年もよろしくお願いします。

今年も終わります。悲しいけど晴れやかな年越し。

前にアップした記事が一ヶ月前。
まことに申し訳ない。

師走だから世間と同様に私も人並みに忙しい。
忙しいと言っても大したほどではない。
仕事柄、年度末の方が忙しい。

私が先週、先々週と忙しかったのは冠婚葬祭が突然2件入ったからである。
冠婚葬祭といっても葬なんだけど。
一つは私の組織の元トップが鬼籍に入られた。
昨春、社長を退任されたので隠居されたのかと思っていたが
会長職についておられたようだ。知らなかった。
会長すみません。

会社では、年明けに社葬を行うということになった。
元々は5日に仕事初めであったのだが、急遽5日は休みになり
6日からの開始となる。

私の同僚などは「こんな年末に亡くなられて大変だよ」と言っていたが
私はこれも会長の愛情であると思う。
もし仕事納め前であれば、会長の葬儀によって年末の業務能力は低下するであろうし
(仕事納めが伸びたかもしれない)
もう少し遅ければ年度末の決算業務に支障をきたしたであろう。
ちょうど年末年始という社会的休戦状態に突入したときに亡くなられた。
これ以上のタイミングであったと思う。おかげで仕事始めが延長された。

こんなことを言っては天理教の方に罵声を浴びせられそうだが、
「出直し」のタイミングというのはかなり人間的事情が優先されるのではないかと思う。
これを「たいしょくてんのみこと」やシンクロニシティと言って概念化してしまうと
「その人」性を埋没してしまうのでこの場合私はしない。
天理教の方に私が懐疑的になる点も同様である。まぁこれは後々。

今回の会長の逝去だけでなく、これまで私が経験した中で
惜しまれる方というのは亡くなるタイミングが非常によい。
もちろん、亡くなってよいことはない。
しかし事後的に「亡くなるのはあの時しかなかった」という時に亡くなられる。
このタイミングの良さは、故人のタイミングではなく
故人を取り巻く人にとってタイミングがよいのである。
そういった意味では故人から周囲への最後の感謝なのだと思う。
死ぬ瞬間まで周りに感謝していく人ほど周りに迷惑をかけずに亡くなっていくのだと思う。

よく「葬儀の参列者の数は、その故人を慕っていた人の数」というような
言説が聞かれることが多い。

しかしこれは本質的ではない。

故人が慕われていたかというのは、故人の思い出がいつまでも忘却されないことだろう。

反対に「嫌な人間」も忘れられない可能性は高い。
しかしそういった方は葬儀の参列者は多くてもタイミングは悪い。
最後まで「嫌な人間」としての腐臭をまき散らして亡くなられる。
もちろん故人への思いはいつまでも「嫌な物」として記憶される。

私もかつて嫌々参列した葬儀くらいはある。嫌々ではなくても業務命令や
役職などで社会的参列なんて嫌ほどある。
そんな葬儀は悲しくも何とも思わない。
酒を呑み交わしたことも、嫌味を言い合ったこともない、知り合いでもないんだから。

そして例外なく、慕われ惜しまれつつ亡くなる方というのは周囲に感謝できる方である。
亡くなった会長も同様である。そして私の祖父も。
最期まで、その感謝する気持ちを閻魔様や親神様が叡智界で受け取ったのと思う。

このタイミングの良さは、故人から私たちへの最期のプレゼントなのだろうと思う。
また神様から故人へのプレゼントであってほしいとも思う。

私のMourning workは長い年月を必要とするようだ。

また惜しい人を亡くしてしまった。

それではよいお年を!

自分の言葉で話してもらえませんかね。

昨日、天理教の「先生」と言われる方と
2時間ほどお話させていただくことがあった。

世間話から、信仰論まで色々な話をさせていただいた。
話をさせていただいたといっても私は専ら聞き手であり
その先生の独演会のような状況であった。

この会合は、たぶん私をなんとか入信させようとする
どこかからの作用だと思う。
それはいいとして。

話の途中で、何度かその先生が私に対して
「君は難しいことばかり言うねー」と言っていたのが印象に残る。
なぜなら、私としては何も難しいことを言った覚えはないからである。
むしろ、全然話した覚えがないほどである。

その先生がなぜ「難しい」と感じたのか。
それは、きっと私の挟む合いの手が、先生の予想外のものあることと
私の聞く態度が肯定的ではなかったからだと思う。
具体的に言うと、その先生は「陽気暮らし」や「若年層の育成」と
いった言葉が出るたびに私が「それって何ですか?」と
ラディカルな問いを発したからである。

私「陽気ぐらしってなんですか?」
先生「みんなが陽気に暮らすことだよ」
私「具体的には?」
先生「・・・笑うんだよ」
私「・・・そ、そうですね。そのためにはどうしたらよいのでしょう?」
先生「おつとめだ!おつとめが大切なんだ」
私「・・・おつとめから陽気暮らし達成までを説明していただけると分かりやすいの
ですが・・・」
先生「・・・・その昔、泥海の中をなんたらかんたら・・・」

といった具合なのが、本当に多くあった。
結局、私は彼が陽気暮らしをどのように考えているのか理解できなかった。

私は何も全て論理的に矛盾なく話して欲しいとは思わない。
教義の詳細なんて余計にウンザリするだけで聞きたくない。
私が求めたのは、おつとめから陽気ぐらしへどのように繋がるのかを
その先生が現在に至るまでに経験したことから言って欲しかった。
分かりやすく言えば、自分の言葉で語って欲しかった。

「私はこういったことを体験してね、おつとめって陽気ぐらしだよなー」と
言ってくれれば、私は興味をもって肯定的に聞けたと思う。
小難しい宗教言語を並び立てられては理解や納得が及ぶ前に
言いくるめられてるような倦怠感が訪れてしまうのである。
相手の理解が及ばない小難しい言葉を言って相手の思考を置き去りにすることを
精神分析では「知性化」という。
どうやら、私は彼が普段知性化で済まされている文脈において知性化させなかったようだ。

しかし、やはり私は非常に難しい話をしたとは思えない。
むしろ、非常に分かりやすくしようと勤めたと思うのだが。
その辺がまったく理解されなくて残念であった。

なぜ自分の言葉で語ることがこれほどできないのであるのか不思議である。
まるで、偉そうに教義を語ることが先生としての条件であるかのように
彼に骨肉化されていることに驚くばかりである。

自分の言葉で語ることこそ、布教の骨子だと思うんだけどな。

M上先生再考

先日、私は会社帰りによく行く馴染みの大型書店に立ち寄った。

新刊コーナーを見ていると天理教内で有名なM上先生の
「アホは神の望み」があったので手に取って読んでみた。

結論から言うと私はp15あたりで、不快な既視感に倦怠し
それ以上読み進められなくなり本を元に戻した。

「不快な既視感」とは別のいい方をすれば「あぁこの人もそういう人か」
ということである。この人もTVのコメンテーターのような
一義的な断定でしか物事を判断する人なのか、ということである。
切れ味はいいんだけどね。

私が常々申し上げているように、
神様を主語にすることの危険性と、
原理主義的断定は、それに当てはまらない人を無自覚的に除外する危険性を
孕んでいる。
そして、その危険性は陽気ぐらしの対極であると私は考えている。

「アホは神の望み」の倒置法を整理すると
「神はアホを望んでいる」ということである。
アホとは関西人にとって、”ある意味”褒め言葉なようである。
(M上先生は関西出身)
単に無知や愚鈍という意味ではなく(そういった意味で使われることもある)、
陽気さ、素直さといった賞賛の言葉としても使用されるらしい。
この本の題名も後者のアホである。

内容を詳細に記述することは控えるが、
私が読むのを諦めたp13-15くらいが一番キツかった。
アホになれない人とはどういう人かを列挙し(「器が小さい」と書いてあった)
アホは素晴らしい、みんなアホになりましょね、というような筆致であった。

言ってることは理解できるし、いいアイデアであると思う。
しかし、それを陽気ぐらしや信仰に照らして考えてみると
違和感が生じないだろうか。
「○○な人は器が小さい」ということが天理教の信仰だろうか。

もちろん、私はアホになれない狭隘な人間であるので、それ以上
本を読む気にはなれなかったのであろう。

アホになるべきという「決めつけ」が
除外を生み、差別を生むことに自覚が足りないのではないかと思う。
それはM上先生が言われるような賞賛される「決めつけ」も同じである。
「決めつけ」を行っている以上、私たちは無意識的に「決めつけられない」
もの(非アホ、器の小さい人)を除外しているのである。

彼は一流の科学者であるが、思想家として教団が彼を売り出していることから
天理教の目指す信仰とは、そんな水準の低いことかとウンザリしてくる。
陽気ぐらしというのは、自分と考え方や価値観が同じ人間だけの小さいコミュニティで
達成されるべきものなのであろうか。
それが天理教の「世界一れつ」という世界なのだろうか。

違うはずである。
それこそ、自分の考え、価値観と異なる人と、
究極には、ひき逃げをする犯罪者や、
ネチネチ文句を言ってくる嫌われ者の上司でさえも、同じ地球の、同じ守護を受ける
コミニュティのメンバーとして容認することではなかろうか。
(犯罪を肯定しているわけではない。犯罪者を手放しで批判し裁くのは私たちではない)

M上先生の言っていることは正論である。
スパッと切れ味もよい。
しかし、私には信仰に基づく思慮の浅さが呑み込めなかった。
もし彼が一流の科学者でなかったら・・・・
ある成功をおさめている分、彼は裸の王様状態なのかもしれない。
科学で成功をおさめているのであれば、科学者として信仰と社会の橋渡しが
できるのは彼しかいないだろうと思う。それが思想家にでもなったような
自信満々の「決めつけ」論で残念である。

彼は研究に没頭し過ぎたせいで信仰を涵養させる前に成功をおさめすぎて
彼の信仰は偏ってはいないだろうか。私は偏っていると思う。
一流の科学者であろうが、少なくとも一流の信仰者ではない。
この人を天理教のオピニオンリーダーにするのは危険であると思う。

私は、自分の考えと異なる意見には耳を傾ける方だと思う。
M上先生の本は、私と異なる意見というよりは、話している水準が異なると感じた。
「アホは神の望み」は「失敗しないお金の儲け方」や「人間関係でうまくいくコツ」といった類いの
数多ある自己啓発書と同じ感じである。

私の意見は暴論かもしれないが、「M上先生、万歳」という右に倣えといった
雰囲気が天理教に瀰漫している恐さを感じている人がいてもいいし、
そういった人を容認するような雰囲気が教団にあれば、天理教の未来も明るい
のだろうと思う。

「慎み」再考

私の朝は、仕事に行く用意をしながら基本的にTVをつけている。
基本的にというのは、正確な時間を知りたいだけで番組自体は
見ないからある。だからミュートにしている。

朝バタバタしながらTVを見る余裕がないのである。

しかし重大事件や初めて見る情報などは、どうしても音量を上げ
TVに見入ってしまう。
昨日の朝に見入ってしまったのは自衛隊の論文問題である。

この件に関してメディア主導の世論がどういった流れなのか私は知らなかった。
前幕僚長(田母神さん)の最優秀受賞をアナウンサーやコメンテーターは
容易に、当たり前のように批判するもののイマイチ歯切れが悪い。
みのさんやその他のゲストの話を聞くと、批判が先行して
なぜ幕僚長が批判されるべき対象となっているのかイマイチ理解が深まっていない。
めちゃめちゃ怒っているんだけど、興奮し過ぎてついに本人も何に怒っているのか
よく分からくなっている人のようだ。

この件に関して、当の前幕僚長は「参考人招致に応じる。こんなことも言えない
ようなら日本は北朝鮮と一緒だ」というようなことを言われている。
なるほど。

この問題の骨子は、紛れもない「言論の自由」である。
これを言わずしてTVでコメントが成り立つのが不思議である。

「言論の自由」はどこまで自由なのか。

この問題では主に3つの視点が言われている。
前幕僚長の言動(彼は本件だけでなく以前も戦争を肯定するような発言をしていた)
は言論の自由の名において批判されるべきではないという視点。
先の戦争は侵略戦争であり日本が加害者であるという国民合意(政府見解)が既に形成
されているから事実関係そのものが間違っているという視点。
前幕僚長は議会制民主主義の直接的為政者ではないが、その役職から
十分に日本国の意見として制約されるべきものであるという視点。

うーん。難問である。

私がこの「言論の自由」を考えていつも思うのは天理教の用語である「慎み」である。
リベラル的思考で言えば「自由」というのは万人に補償された権利である。
しかし上記3つの視点では、一番大切なことが抜けている。
それは天理教の「慎み」にあたる「それを主張することによって、傷つく人がいる」
という点である。

戦争で日本軍に家族や親族を殺された人の目の前で、上記3つの視点を私は言えない。
もちろん、TVなどで上記3つに対してコメントする知識人達も
被害者を前にしては「言論の自由とは」と言えず口をつぐんでしまうのではないか。
それは前幕僚長もみのもんたも同じである。と願いたい。

一番意見を聞かんくてはいけない本人を目の前にしないで、
このような発言や思想が常識のように言われるのはなぜだろうか。

精神科医の木村敏は「異常の構造」の中でこういっている。
「私たちはめいめい、自分自身の世界を持っている。私と誰か別の人物とか同じ一つの部屋の中にいる場合にも、私にとってのこの部屋とその人にとってのこの部屋とは、必ずしも同じ部屋ではない。教師と生徒にとって、教室という世界は決して同一の世界ではないし、侵略者と被侵略者にとって、戦争という世界は全く違った世界であるはずである。しかし、このように各人がそれぞれ別の世界を有しているというのは、私たちがこの世界に対して単に認識論的な関係のみをもつ場合にだけいえることである。私たちが認識的な態度をやめて実践的な態度で世界との関わりをもつようになるとき、私たちはそれぞれの自己自身の世界から共通の世界へと歩みよることになる。」(p.46)

認識論的関係から実践的関係への転換というのは、簡単にいうと
頭の中で完結せずに実際の人間関係、社会関係の中で思考を構築することである。
前幕僚長もみのもんたもコメンテーターも、認識論的な領域に留まっている限り
議論はループを形成し、突っ張り合うだけの理解し合わないものとなる。

私たちの社会では「嫌な人だな」と思う人がいても、
その人に向かって「お前嫌なやつだな」と言ってしまう人は大人ではない。

そういうことである。

それが天理教で言われる「慎み」だろうと私は思う。

私は学生のころ前幕僚長のように
「権利の行使」や「自由の拡大」を手放しで主張していた。
その度に大人からは「責任と他者への配慮」を説諭されていた。
あの頃は私も若かった。

そういうことである。

「なんだかよく分からないけど、これってよくないよね」という心性が
日本人に見られることはとても大切な身体感覚であると思う。
その「なんだかよく分からないけど」という感覚が日本人の慎みを
体現していると思う。そう考えれば、メディアにおける批判に私も追随しているように
思われるがアナウンサーやコメンテーターはオピニオンリーダーとしてもう少し慎重に
発言すべきで、無駄に世論を批判で煽ることはよくない。

自己責任や、クレーマーの増加という話を聞く度に
感じる疲労感と同じである。

一昔前までは「いい大人が何やってんだ」と言われていた。
私には前幕僚長もみのもんたも大人の皮を被った子どもにしか見えない。
かといって天理教人の「慎み」を手放しで賞賛しているわけではない。

「慎み」
そこに大きなヒントがあると思う。それだけである。

天理教の財政と天理時報手配りの戦略

先週、新幹線を待っている間に読んだ本がこちら。

宗教学者 島田裕巳 「新宗教ビジネス」
http://blog.livedoor.jp/shhiro/ 

各新宗教の財政状況やお金の動きについて分かりやすく簡単に説明している。
もちろん天理教についての章もあるので是非ご覧あれ。

宗教学者や天理教外の人間がどのように天理教を見ているかというのは
信仰をより深めるためには無駄ではないと思う。
失礼を承知で申し上げるならば、私は何人かの天理教人と話して知的探究心や
他者(自己)理解を深めるという動機が薄いと思うことが多い。
「人間とは」というラディカルで実存を扱う宗教において、
人間理解を深める雰囲気が天理教人に薄いのは致命的であろう。
それは同時に予々、私が言っていることだが
原則論で物事を言い切ってしまう天理教人が多いことと表裏である。

閑話休題、その「新宗教ビジネス」という本は非常に興味深い。

天理教の2008年度の予算は歳入・歳出ともに164億円である。
この金額について、私は率直に「少ない」と思った。
17000の教会から年間100万集めれば170億円になる。
つまり一つの教会で年間100万円も上納していないことになる。
さらに、この本では某学会についても考察している。
某学会は外部の人間から見れば、非常に集金力がある宗教団体である。
集金力のある宗教と聞くと信者による献金やお供えを強要していると思いきや
実際のところは、この学会は「お金を要求しない宗教団体」を掲げている。
では、どこからお金を集めているのか。
それは、出版・印刷物である。
なるほど、確かにこの学会は「聖○新聞」という新聞を発行している。
その発行部数を聞いてビックリした。
なんと毎日新聞を超えているのだ。

なるほど。

新聞や出版物による安定した収入で、この組織は成り立っているのだ。

なるほど。

ここ1年程、天理教が発行している「天理時報」を天理教信者が
購読者に手渡しで送り届ける活動がある。
その活動の建前は「人とのつながりを大切に」といわれているが、
その活動を天理教の財政状況の落ち込みと、某学会の資金繰りという視点で
考えると安定した収入を確保するためのストラテジーという本音が見える。
少なくとも、これを発案した人間は某学会の資金繰りの安定さを熟知していた
ものと思われる。

私は、この安定した資金調達のための天理教の建前は
あまり長続きしないのではないかと思う。

なぜなら「人とのつながり」という目的がはっきりしないからである。

「人とつながるというのは立派な目的じゃないか」と言われそうだが、
誰に、何のためにつながるというのがイマイチ見えてこない。
私が常々言っているのは「天理教人は地域に出た方がいいよ」ということである。
天理教人は、帰属意識が強く外部者に対して冷たい一線を設けている雰囲気がある。
(容易に他宗教批判や、社会批判などがなされることが一例であり、
常にメディアの情報を鵜呑みにし社会を憂いてばかりの会長さんは本当に多いと思う。
そんなに悪い社会と言っていては何も良くならないと思わないのか不思議である)

天理時報購読者は地域ではない。
私が言う地域というのは「天理教って怪しいよね」という未開発の他者である。
「天理教の人はいい人だよね」という人は既に天理教人に対する理解や
概念が形成されており他者ではない。私の言う地域でもない。
すでに「天理教のことを知っている人」に対して「こんな素晴らしい活動をしている」
ということを伝えても暑苦しいだけではないか。だって知っているんだから。
大切なのは、「天理教のことを何も知らない人(もしくは偏見で見ているひと)」に
対して、「天理教って怪しくないんだぜ」ということを伝えることである。

私が一貫して、天理教人による戸別訪問や神名流しを
「そろそろ、その方法再検討した方がいいのでは」
と言っていることと同じことである。
そのためには、まず他者とは何かという理解から始めなくてはいけない。

人間理解を深める雰囲気がない人に何言ってもしょうがないとも思える。

本部大祭の感想

予告をしていたのに遅くなり申し訳ない。

26日は本部の大祭であった。
私も知り合いに誘われて参拝した。

天理駅に着いた時点でかなりの人込みであった。
平時はかなり閑散とした駅、駅前であるが
テーマパークにでもきたように溢れかえっていた。
日曜ということもあうのだろうか、親子づれ、若者も目立つ。

急いで神殿に向かう。

私が参拝したところは、中庭と言われる回廊で囲まれたところ。
雨もちらほらきており、知人に「中に入ろう」と言われたのだが
「あの人込みに入るのはちょっと・・・」と遠慮させてもらった。

あの人の多さをみて私がフラッシュバック的に思い出したのは
死傷者を出した明石の歩道橋事故である。
他に数年前にメッカで信者が将棋倒しになり
何百人かの信者に死傷者がでたことがある。
大祭でも神殿に至る階段の混雑などをみて心配になった。
特に対策はしていないようだけど事故があってからでは
世論の袋だたきになるのは目に見えているし大丈夫なのだろうか。

ところで、今回の参拝のメインテーマは真柱の神殿講話から
彼が天理教の未来像に対してどのような青写真を描いているのか。
ということを考察することである。

まず謝らなくてはいけないことがある。
私は、前述したように中庭と言われる外にいた。
そして真柱の神殿講話のとき、不幸にも雨が強くなった。
知り合いと雨をしのげる場所を探して移動した。
加えて、お腹の調子も悪くなった。
ということで、なかなか真柱の講話に集中できなかったのである。
もし、真柱の講話について私の解釈に明確な事実誤認などがあれば
訂正し素直に謝罪したいと思う。

私が真柱の話を聞き終わり、一番最初に思ったのは真柱の今回の講話のテーマは
「原点回帰と社会的発展」ということである。
現在の教勢にいたるまでの中山家の受難、昭和20,30年代の教団の受難を受け入れて教団は
発展してきたということを今一度思い返して頑張ろうぜということ。
どのように頑張るのかというのは「天理教ほどの大教団は社会的責任もある」と彼が言った
ことから読み取れる。そういった意味では、彼が天理教人に対して
天理教と社会との橋渡しを担っていってくれよというメッセージとして聞こえる。

というようなことが、彼の講話の骨子であると思われる。
講話を聞いていた天理教人たちがどういった感想を持っているか
分からないが、私の解釈とあまり変わらないと思う。

私が驚いたことの一つに、彼が「天理教ほどの大教団は社会的責任がある」と言い切った
ことである。天理教のトップが自分の組織を「大教団」というレトリックを用いたことには
何かしらの意図があると感じざるを得ない。なぜなら帰属集団内において
「うちの教団は大きいよね」という先に、社会的責任を果たさなければならない
という命題が成り立たないからである。
大教団(大企業)は社会的責任を担っているということは
一方で、小教団(中小奇企業)は社会的責任を担わなくてもよいと暗黙のうちに
同意していることになる。この推論に倫理はない。

また、真柱が社会的責任を述べた文脈で彼が何度も繰り返した言葉がある。
それは「一派独立」という言葉である。
私は天理教初学者なので「イッパドクリツ??」と最初は意味が分からなかったが
教えてもらって合点した。一派独立は天理教教団の根幹である。
一派独立とは天理教が宗教教団として社会に認められた証明である。
彼が今回天理教の成り立ちを詳細に振り返り、大教団と社会的責任と
言わざるを得ないことを考えれば、彼が天理教に対しての将来像に対して
何かしらの不安を抱いてることはご賢察の通りである。

しかし、ここまでの私の考察を天理教人に話すと思いがけない言葉が返ってきた。
「そりゃ10月26日は天理教が始まった日だから、毎年同じ様な神殿講話だよ」という
ことであった。なるほど。毎年10月26日は原点回帰がテーマであるのだ。
真柱の神殿講話が「毎年と同じだったね」なのか「今年は社会的責任とか言ってて
いつもと違ったね」となるのか申し訳ないが私には判定できない。
だって彼の神殿講話を聞いたのは初めてだから。
もし後者であるのなら、真柱も何かしら現状打破的な見解を持っているのだろう。
「具体的ビジョンは何も聞かれなかった」とは言わない。
トップは船の目的地だけを示せばよいと思う。
講話を聞いた天理教人が「いやー天理教船の向かう先が見えたね!」と
思えれば、目的地までの航路はそれぞれ付けていくのだろう。
ちなみに私は真柱の講話から社会的責任を果たす
天理教教団が向かう目的地は見出せなかった。

今回の神殿講話では、天理教の一派独立について
「教団の粘り強い努力により、ようやく政府が認めた」という言い方がされた。
宗教学から得た私の知識では「天理教は一派独立のために、教祖が認めなかったこと
さえも妥協した(教義を曲げた)」と聞いている。
どっちが本当なのかは分からない。しかし、真柱から「天理教はいつも正解」的な
ことが聞かれるうちは、やはり天理教の成熟、組織の成熟はまだまだと思う。

自分の失敗や欠点を認めるては宗教教団として成り得ないと?
私はそうは思わない。
謝りや欠点を認めて説明することが社会的責任であると私は信じる。

さて、皆さんは神殿講話をどのように聞かれたのであろうか。

今週末は教会本部の大祭

前回の記事から長い間放置してしまって申し訳ない。

先週は今年一番の忙しさであった。毎月言ってる気がするが。
今週に入りやっと平穏な日々が戻ってきた。

ところで、今週末は教会本部の大祭である。
大祭とは毎月26日に行われる月次祭(ツキナミサイ)の特別バージョンである。
1月26日と10月26日がその特別バージョン月である。
特別バージョンの教義的意味合いは割愛する。

その大祭に私も知り合いの天理教人に誘われて参拝する。
「25日の前日から来れないか?」と言われたのだが、
それは丁寧にお断りして26日の日帰りで行く予定である。
26日の天理市内の渋滞はハンパないので近鉄特急で向かおう。

特別バージョンでは、天理教最高指導者の真柱がおつとめ後に神殿講話を行うようだ。
普段のお祭りの講話は幹部達である。

そういえば、私は真柱の肉声を聞いたことがない。と思う。
もちろん、書物や出版物、伝聞によって彼の思考を垣間見たことはある。
しかし私が目にしているトップの思想なども、よくよく考えれば先代や二代真柱の
ものが多い。現4代目真柱の思想は寡聞にして目にした事がない。
彼はどういった思考の持ち主なのか今から興味津々である。
彼がどういった発言をするかで、近未来の天理教像を推測できるであろう。

正確に教義を伝える方法はあるのか

前記事のコメントで一般人でも分かる教義解説書があればよいというコメントを
正ちゃんさんから頂きました。

この意見について、私見を述べたいと思います。

私は一般人が読んでも理解できるように理論的に示した教義解説書は必要ないと思います。
(なんだか正ちゃんさんにはいつも反対意見ばかり言っているようで恐縮です。)

もし教団が公式に認めた教義解説書なるものが出ると天理教人の役割を奪ってしまう恐れがあります。
また宗教、信仰という側面から、教義(教え)を活字で学ぶことは個人の教義解釈の自由度(妄想性)が
高まり、単一宗教を存続させるためにはハイリスクです。
もちろん、現存する原典やお偉い先生方が書かれる解説書を否定してはいません。
人からでは得られ難いものを書物で補う、書物はやはり補完的なものでしかないと思います。

本質的には信仰とは、人から人へと伝えるものだと思います。

天理教の現状を省みたときに既に教義の濫用や、教会長の質の低下は見受けられます。
しかし、だからと言って完璧な教義解説書を作ってしまうと教会長の存在意義がなくなります。
それとこれとは別次元の話ですよね。

また誰でも分かる完璧な教義解説書なんて作れないと思っていますが
もし誰でも分かる教義解説書をつくることが可能と仮定しましょう。
そのためには、かなり厳密に教義を規定しなくてはいけません。
その結果、教義は信者を導くものではなくなり信者を縛るものとなるでしょう。
前記事で言った、原理主義的意味合いが濃厚になります。

教義はやはり一定の幅を(意図的に)持たせるべきものだと思います。
「なんだかよく分からないけど凄いもの」という畏敬の念とゴールの見えなさが
神の尊敬と、天理教人への権威へと繋がるのだと思います。
また同じ教義に対しても、天理教人の振る舞いの違いにより
それを見た人は「私はこうしよう」と独自の信仰を築き上げて行くのだと思います。
特に天理教ではそういった「緩さ」が特徴であり、他の宗教では観察し難い
オリジナルな視点であると私は思います。

正ちゃんさんの話を聞いて、私が思い出したのは二代真柱の話です。
その昔、二代真柱は不安定な教義をなんとかしようと教義を研究し、まとめようとしました。
しかし、民間宗教として成長した天理教では、どれが教祖が言った本当の教えなのか、
民衆から伝説や噂として言い伝えられたものか判断できないものが多かったと
どこかの宗教学の研究者が書いていたのを読んだことがあります。
しかし、それでも二代真柱は苦労して天理教教祖伝を完成させたそうです。
結局判断できないまま、ごちゃまぜにして。二代真柱が「これは」と思うものを選んで。
これは批判すべきことではなく、「しょうがない」ことだと思います。

これは意外に天理教内で知られていないことだと思います。

二代真柱の教典編纂について、私が「うーん」思ったのは
「教祖伝逸話集」というのを作成したことだと思います。
これはどこの宗教でも似たような取り組みをしていますが、
教典発行のほぼ同時期に作成したことは、二代真柱が曖昧な教義を
実生活に落としやすいよう、手本となるようにという明確な意図が読めます。

しかし、当時はリアリティや新しさを持って読まれていたものが、
社会の発展と共に、また聞き飽きたものとして風化してきたのでしょう。
その結果、教典や逸話自体が人を説きふすためのストックフレーズや
自分の偏った教義解釈の保証として間違った使用をなされてきたのだと思います。
また、この教義の風化という現象は天理教に偶然とは思いません。
歴史的に見ると、教義解釈の是非を巡り信徒は世界中、今でも絶えず争いを起こしています。
たぶん、正ちゃんさんも、私も、教義解釈を巡る不安定さを憂うが故に
何かしらの指針が必要なのだと感じていると思います。

しかし、それを活字で済ませてしまうと信仰という本質からは余計に遠くなって
しまう、もしくわ対症療法的でしかないと思います。
またあまり厳密な解釈の道筋をつくることは天理教の特徴である「緩さ」や「寛容さ」
をも奪ってしまいかねません。
こういうことを言っては怒られそうですが、私が憂いているのは解釈の自由によって
「人が傷ついている」ということだけです。それが克服されれば、陽気暮らしに向かう
教義(宗教)であれば何でもいいと思っています。
「だからお前はどうしたいんだ?」と言われそうですね。
残念ながら、具体的、効果的なアイデアは思いつきません。
ただ、言えることは「人を傷つける恐れがある」ということを天理教人が
意識することです。
例え、真柱が神殿講話にて「天理教人は気づいていない所で
天理教の教えが人を苦しめている場合がある」と言ったところで
鈍感な天理教人の耳には届かないでしょう。

教義の見本は、やはり天理教人の振る舞い一つであることを時間をかけて
成熟させるしかないのです。
以前、私は本ブログにおいて教会長の質の低下にいて
「教団は何か取り組みをしないと大変なことになるよ」と言ったことがあります。
しかし、この点について最近私は楽観的立場に立っています。
なぜなら、社会は少子高齢化を迎え天理教の社会的教勢も衰退しています。
地方の教会を見れば、信者は高齢者ばかりである現状を見ても自明です。

批判を恐れず言うなら、今後20年でダメな教会は淘汰されていくでしょう。
そういった危機感を持っているかどうかで大きく異なります。
全国の教会の7割が事情教会であるということも教団は見過ごせなくなるでしょう。

右へ倣えで生きてきた大人達にはキツイ現実かもしれませんが、
信者数や教会数など天理教が巨大である必要はありません。
これは日本社会に対して私が思っていることと同じです。
「日本は強くなきゃいけない」「日本の子どもの学力は世界トップクラスでないといけない」
こういったことを言うことに何の意味も価値もないのです。

そういった気付きを促すことに、また天理教が持つ負の側面の一つとして
このブログを読んでいただけると幸いだと思ています。

前記事のコメントの返事 「夫婦雛形と離婚」

前記事で頂いたコメントの返事を書いたのですが
コメント欄というのが1000字以内で入りきらなかったので
ここに掲載します。
コメント投稿者に対しての返事ですので、他の皆様には読みにくい点がありますが
これだけ書いて修正するのは面倒でした。すみません。

以下コメントの返事
(私が頂いたコメントは前記事にありますので参照してください。
コメント投稿者さん、偽名だと思うのでそのまま掲載しましたが
何か問題がありましたらご連絡ください。)

とても意義深いコメントありがとうございます。
基本的には同じことを私も感じています。
以下、私の考えを補足させていただきますね。

この議論において結論を設けるならば、正ちゃんさんが言われるように
<まともな天理教教徒なら>(まともという意味を留保した場合)
で全て決着できると思います。
同様に、これを言ってしまうと、このブログの存在意義もなくなっちゃいます。

私の主張は一般的に宗教者は原理主義になりやすいということであり、
それに私も同意したために今回の議題とさせていただきました。

宗教者は原理主義になりやすい
    ↓
原理主義は、原理に当てはまらない場合を認めてはいけない

原理主義ならば、こういった推論になります。
明確な教義を持つ宗教は、アポリアにぶつかったときに、当然
この原理主義と似た推論を採用します。
採用しないと教義なんていらなくなるからです。

例えば、「人生どのように生きるか」というアポリアに対して
信仰を持たない人々は答えなんて見つけられないまま死んでいきます。
もしくわ自分なりの答えを持って。
しかし天理教人なら「陽気暮らしのために生きる」という一応の
方向性があるわけです。しかし人生には喜べないときも多々あるわけです。
そうした時に、喜べない時にどのように陽気ぐらしを考えるか
という点はまだまだ天理教人の未熟な点であると思います。
教義と実生活の点での結びつきがイマイチ感じられないのです。
特定の個人がどうだというのではなく、全体的傾向としての主観ですが。

正ちゃんさんの意見に「ん?」と思ったのは
<離婚した人が、罪悪感や背徳感を感じるようなことはない>
<別に離婚を非難していません>
というくだりです。本当にそう思われているのですか?
本当に正ちゃんさんが、そう思われるなら、
私は正ちゃんさんの信仰に対して懐疑的にならざるを得ません。
(正ちゃんさんが天理教人ならですが。すいません聞いていませんでした)

天理教人なら、「夫婦雛形」という天理教の教えに対して
やはり離婚は、それに対抗する「イケナイこと」という推論がなされるわけです。
これは原理主義の議論とは次元を異にしています。一つ前段階の推論ですね。
離婚を「イケナイこと」と思うのは、天理教人にとってとても大事なことです。
私が強調したいのは非難すべき対象を、非難しないでどのように陽気暮らし
を獲得するかというアポリアなのです。

つまり教義に対して原理主義を採用すると、教義に当てはまらない人を苦しめちゃう。
しかし、一定の価値を置く教義の中で、その教義に当てはまらないものを
どのように教義に沿って考えるかというアポリアなのです。

離婚経験者は、やはり罪悪感や背徳感を感じるべきものだと思います。
しかし、それを第三者が敢えて背負わせるもんじゃないと言いたいのです。
私の周りにも離婚経験者は数多くいますが、彼らは離婚によって
深く傷つき、周囲(特に子ども)に対しての罪悪感、社会に対しての背徳感を
すでに感じているのです。それを、天理教の「夫婦雛形」という教えによって
他者からの二次被害にしちゃいけないよ、ということです。
また天理教の教えと同様に一般的な価値観としても「離婚はよくない」という
価値観があるはずです。
一般的価値観としては、信仰や道徳よりも社会的家族制度を存続させるという
ニュアンスが強くなりますが、それはそれで大変大切なことだと思います。
そういった価値観の中で「他者のいけないこと」に対して
「いけないなぁ~(非難したいなぁ)」と思うことは大切な身体感覚だと思います。
そして、次の段階として「他者のいけないことをどのように非難せず呑み込み伝えるか」
というのが信仰を持つ人間が試されていることだと思います。
天理教では特別に「夫婦雛形」という「夫婦」を強調した教えがあります。
それに触れた人間、当事者も天理教人も、やはり「離婚」に対して「いけない」と思う
ことは大切なことだと思います。

正ちゃんさんが言及していない点は、まさしく離婚という「いけないこと」を
した人が、「夫婦」を強調した教義に対して何も思っていないという所です。
(これでは離婚当事者が抱えるべき一次被害をも無害化してしまう恐れがあります)
宗教者という他人の心情にセンシティブであるべき人が鈍感であると、自己を省みる
という宗教の本質を他者から剥奪してしまう恐れがあるのではないでしょうか。
私が主張しているのは一次被害は当事者が自分自身で抱える必要がありますが、
他者からの非生産的な二次被害は止めてあげましょうということなのです。
その自ー他の部分をごっちゃにしてしまうと、教義が濫用されちゃいますね。

私がもし離婚の当事者となったときに、それを天理教人に話す機会がありましたら
「離婚はいけないよ」とか「離婚なんて全然悪くないよ」と切れ味良く断言されるよりも
「んーそうか・・・」と教義とそれに反するリアルな他者の悩みの狭間で、返答に困って口ごもり
一緒に考えてくれる天理教人の方が救われる人はきっと多いと思うのは私だけではないと思います。

そういえば、前回天理教道友社の書店に行ったときに見た、お偉い天理教人先生が書かれた本の
ほとんどの共通点は、切れ味の良い口ぶりでした。
天理教的解釈から、その先生の人生経験を重ねて「これはよい」「これはいけない」とか。
人として当たり前の本当に大切なことを言われる方は本当に少ないと思います。
年をとることは一方では怖いなーと思いました。

だいぶ長くなってすみません。
また分からないところがあれば説明させていただきます。