前記事のコメントで一般人でも分かる教義解説書があればよいというコメントを
正ちゃんさんから頂きました。
この意見について、私見を述べたいと思います。
私は一般人が読んでも理解できるように理論的に示した教義解説書は必要ないと思います。
(なんだか正ちゃんさんにはいつも反対意見ばかり言っているようで恐縮です。)
もし教団が公式に認めた教義解説書なるものが出ると天理教人の役割を奪ってしまう恐れがあります。
また宗教、信仰という側面から、教義(教え)を活字で学ぶことは個人の教義解釈の自由度(妄想性)が
高まり、単一宗教を存続させるためにはハイリスクです。
もちろん、現存する原典やお偉い先生方が書かれる解説書を否定してはいません。
人からでは得られ難いものを書物で補う、書物はやはり補完的なものでしかないと思います。
本質的には信仰とは、人から人へと伝えるものだと思います。
天理教の現状を省みたときに既に教義の濫用や、教会長の質の低下は見受けられます。
しかし、だからと言って完璧な教義解説書を作ってしまうと教会長の存在意義がなくなります。
それとこれとは別次元の話ですよね。
また誰でも分かる完璧な教義解説書なんて作れないと思っていますが
もし誰でも分かる教義解説書をつくることが可能と仮定しましょう。
そのためには、かなり厳密に教義を規定しなくてはいけません。
その結果、教義は信者を導くものではなくなり信者を縛るものとなるでしょう。
前記事で言った、原理主義的意味合いが濃厚になります。
教義はやはり一定の幅を(意図的に)持たせるべきものだと思います。
「なんだかよく分からないけど凄いもの」という畏敬の念とゴールの見えなさが
神の尊敬と、天理教人への権威へと繋がるのだと思います。
また同じ教義に対しても、天理教人の振る舞いの違いにより
それを見た人は「私はこうしよう」と独自の信仰を築き上げて行くのだと思います。
特に天理教ではそういった「緩さ」が特徴であり、他の宗教では観察し難い
オリジナルな視点であると私は思います。
正ちゃんさんの話を聞いて、私が思い出したのは二代真柱の話です。
その昔、二代真柱は不安定な教義をなんとかしようと教義を研究し、まとめようとしました。
しかし、民間宗教として成長した天理教では、どれが教祖が言った本当の教えなのか、
民衆から伝説や噂として言い伝えられたものか判断できないものが多かったと
どこかの宗教学の研究者が書いていたのを読んだことがあります。
しかし、それでも二代真柱は苦労して天理教教祖伝を完成させたそうです。
結局判断できないまま、ごちゃまぜにして。二代真柱が「これは」と思うものを選んで。
これは批判すべきことではなく、「しょうがない」ことだと思います。
これは意外に天理教内で知られていないことだと思います。
二代真柱の教典編纂について、私が「うーん」思ったのは
「教祖伝逸話集」というのを作成したことだと思います。
これはどこの宗教でも似たような取り組みをしていますが、
教典発行のほぼ同時期に作成したことは、二代真柱が曖昧な教義を
実生活に落としやすいよう、手本となるようにという明確な意図が読めます。
しかし、当時はリアリティや新しさを持って読まれていたものが、
社会の発展と共に、また聞き飽きたものとして風化してきたのでしょう。
その結果、教典や逸話自体が人を説きふすためのストックフレーズや
自分の偏った教義解釈の保証として間違った使用をなされてきたのだと思います。
また、この教義の風化という現象は天理教に偶然とは思いません。
歴史的に見ると、教義解釈の是非を巡り信徒は世界中、今でも絶えず争いを起こしています。
たぶん、正ちゃんさんも、私も、教義解釈を巡る不安定さを憂うが故に
何かしらの指針が必要なのだと感じていると思います。
しかし、それを活字で済ませてしまうと信仰という本質からは余計に遠くなって
しまう、もしくわ対症療法的でしかないと思います。
またあまり厳密な解釈の道筋をつくることは天理教の特徴である「緩さ」や「寛容さ」
をも奪ってしまいかねません。
こういうことを言っては怒られそうですが、私が憂いているのは解釈の自由によって
「人が傷ついている」ということだけです。それが克服されれば、陽気暮らしに向かう
教義(宗教)であれば何でもいいと思っています。
「だからお前はどうしたいんだ?」と言われそうですね。
残念ながら、具体的、効果的なアイデアは思いつきません。
ただ、言えることは「人を傷つける恐れがある」ということを天理教人が
意識することです。
例え、真柱が神殿講話にて「天理教人は気づいていない所で
天理教の教えが人を苦しめている場合がある」と言ったところで
鈍感な天理教人の耳には届かないでしょう。
教義の見本は、やはり天理教人の振る舞い一つであることを時間をかけて
成熟させるしかないのです。
以前、私は本ブログにおいて教会長の質の低下にいて
「教団は何か取り組みをしないと大変なことになるよ」と言ったことがあります。
しかし、この点について最近私は楽観的立場に立っています。
なぜなら、社会は少子高齢化を迎え天理教の社会的教勢も衰退しています。
地方の教会を見れば、信者は高齢者ばかりである現状を見ても自明です。
批判を恐れず言うなら、今後20年でダメな教会は淘汰されていくでしょう。
そういった危機感を持っているかどうかで大きく異なります。
全国の教会の7割が事情教会であるということも教団は見過ごせなくなるでしょう。
右へ倣えで生きてきた大人達にはキツイ現実かもしれませんが、
信者数や教会数など天理教が巨大である必要はありません。
これは日本社会に対して私が思っていることと同じです。
「日本は強くなきゃいけない」「日本の子どもの学力は世界トップクラスでないといけない」
こういったことを言うことに何の意味も価値もないのです。
そういった気付きを促すことに、また天理教が持つ負の側面の一つとして
このブログを読んでいただけると幸いだと思ています。