前記事で頂いたコメントの返事を書いたのですが
コメント欄というのが1000字以内で入りきらなかったので
ここに掲載します。
コメント投稿者に対しての返事ですので、他の皆様には読みにくい点がありますが
これだけ書いて修正するのは面倒でした。すみません。
以下コメントの返事
(私が頂いたコメントは前記事にありますので参照してください。
コメント投稿者さん、偽名だと思うのでそのまま掲載しましたが
何か問題がありましたらご連絡ください。)
とても意義深いコメントありがとうございます。
基本的には同じことを私も感じています。
以下、私の考えを補足させていただきますね。
この議論において結論を設けるならば、正ちゃんさんが言われるように
<まともな天理教教徒なら>(まともという意味を留保した場合)
で全て決着できると思います。
同様に、これを言ってしまうと、このブログの存在意義もなくなっちゃいます。
私の主張は一般的に宗教者は原理主義になりやすいということであり、
それに私も同意したために今回の議題とさせていただきました。
宗教者は原理主義になりやすい
↓
原理主義は、原理に当てはまらない場合を認めてはいけない
原理主義ならば、こういった推論になります。
明確な教義を持つ宗教は、アポリアにぶつかったときに、当然
この原理主義と似た推論を採用します。
採用しないと教義なんていらなくなるからです。
例えば、「人生どのように生きるか」というアポリアに対して
信仰を持たない人々は答えなんて見つけられないまま死んでいきます。
もしくわ自分なりの答えを持って。
しかし天理教人なら「陽気暮らしのために生きる」という一応の
方向性があるわけです。しかし人生には喜べないときも多々あるわけです。
そうした時に、喜べない時にどのように陽気ぐらしを考えるか
という点はまだまだ天理教人の未熟な点であると思います。
教義と実生活の点での結びつきがイマイチ感じられないのです。
特定の個人がどうだというのではなく、全体的傾向としての主観ですが。
正ちゃんさんの意見に「ん?」と思ったのは
<離婚した人が、罪悪感や背徳感を感じるようなことはない>
<別に離婚を非難していません>
というくだりです。本当にそう思われているのですか?
本当に正ちゃんさんが、そう思われるなら、
私は正ちゃんさんの信仰に対して懐疑的にならざるを得ません。
(正ちゃんさんが天理教人ならですが。すいません聞いていませんでした)
天理教人なら、「夫婦雛形」という天理教の教えに対して
やはり離婚は、それに対抗する「イケナイこと」という推論がなされるわけです。
これは原理主義の議論とは次元を異にしています。一つ前段階の推論ですね。
離婚を「イケナイこと」と思うのは、天理教人にとってとても大事なことです。
私が強調したいのは非難すべき対象を、非難しないでどのように陽気暮らし
を獲得するかというアポリアなのです。
つまり教義に対して原理主義を採用すると、教義に当てはまらない人を苦しめちゃう。
しかし、一定の価値を置く教義の中で、その教義に当てはまらないものを
どのように教義に沿って考えるかというアポリアなのです。
離婚経験者は、やはり罪悪感や背徳感を感じるべきものだと思います。
しかし、それを第三者が敢えて背負わせるもんじゃないと言いたいのです。
私の周りにも離婚経験者は数多くいますが、彼らは離婚によって
深く傷つき、周囲(特に子ども)に対しての罪悪感、社会に対しての背徳感を
すでに感じているのです。それを、天理教の「夫婦雛形」という教えによって
他者からの二次被害にしちゃいけないよ、ということです。
また天理教の教えと同様に一般的な価値観としても「離婚はよくない」という
価値観があるはずです。
一般的価値観としては、信仰や道徳よりも社会的家族制度を存続させるという
ニュアンスが強くなりますが、それはそれで大変大切なことだと思います。
そういった価値観の中で「他者のいけないこと」に対して
「いけないなぁ~(非難したいなぁ)」と思うことは大切な身体感覚だと思います。
そして、次の段階として「他者のいけないことをどのように非難せず呑み込み伝えるか」
というのが信仰を持つ人間が試されていることだと思います。
天理教では特別に「夫婦雛形」という「夫婦」を強調した教えがあります。
それに触れた人間、当事者も天理教人も、やはり「離婚」に対して「いけない」と思う
ことは大切なことだと思います。
正ちゃんさんが言及していない点は、まさしく離婚という「いけないこと」を
した人が、「夫婦」を強調した教義に対して何も思っていないという所です。
(これでは離婚当事者が抱えるべき一次被害をも無害化してしまう恐れがあります)
宗教者という他人の心情にセンシティブであるべき人が鈍感であると、自己を省みる
という宗教の本質を他者から剥奪してしまう恐れがあるのではないでしょうか。
私が主張しているのは一次被害は当事者が自分自身で抱える必要がありますが、
他者からの非生産的な二次被害は止めてあげましょうということなのです。
その自ー他の部分をごっちゃにしてしまうと、教義が濫用されちゃいますね。
私がもし離婚の当事者となったときに、それを天理教人に話す機会がありましたら
「離婚はいけないよ」とか「離婚なんて全然悪くないよ」と切れ味良く断言されるよりも
「んーそうか・・・」と教義とそれに反するリアルな他者の悩みの狭間で、返答に困って口ごもり
一緒に考えてくれる天理教人の方が救われる人はきっと多いと思うのは私だけではないと思います。
そういえば、前回天理教道友社の書店に行ったときに見た、お偉い天理教人先生が書かれた本の
ほとんどの共通点は、切れ味の良い口ぶりでした。
天理教的解釈から、その先生の人生経験を重ねて「これはよい」「これはいけない」とか。
人として当たり前の本当に大切なことを言われる方は本当に少ないと思います。
年をとることは一方では怖いなーと思いました。
だいぶ長くなってすみません。
また分からないところがあれば説明させていただきます。