先般、ある本(日本人著)を読んでいると
「原理主義という考え方になりやすいのは、教師、警察官、宗教家である」
という記述に出会い立ち止まって考えた。
なるほど。宗教家は原理主義的な考え方になりやすいのか。
原理主義というとイスラムやキリストを想像してしまう。
しかし、日本社会ではイスラムやキリストなんて根付いてない。
広義の意味で原理主義を捉えると「ねばならない思考」と言える。
こう考えると日本の宗教家に対しての共通項が見える。
「ねばならない思考」というのは教義を維持するためには必要なことである。
陽気暮らしは天理教の金科玉条なんだしね。「陽気暮らしをしなくちゃいけない」。
それは天理教人が絶対に忘れてはいけないはずである。
しかし、原理主義で一番大切で、且つ一番危険なことは原理の篩に掛からない
例外をどのように扱うかであろう。
そして、皮肉なことにその例外に対して宗教の真価が問われるといっても過言ではない。
少し難しい言い方になったので、例えをあげよう。
天理教の大切な教えに「夫婦雛形」というものがある。
これは夫婦の姿は陽気暮らしをする家族、地域、社会、世界、宇宙の基盤となる。
ということだと思う。詳しくは知らないけど。
そして、夫婦という形の対極にあるのは離婚である。
原理主義的に「夫婦雛形」を考えると、離婚経験者は
「夫婦雛形」を破壊した、諦めた人と否定形で語られる。
これは非常に危険なことだと思う。
だって、離婚した人は天理教では常に罪悪感や余計な背徳感を背負わされるんだから。
同じ教えは「陽気暮らし」や「人を助けて我が身助かる」などでも同様である。
それができない時や、できない人は暗黙のうちに否定されてしまう。
しかし宗教には教義がないと始まらないわけで、しかし、
例外を見ようとするなら、教義それにばかり固執できない。
教義から外れた例外なるものの救済こそが宗教の本質だと思うのだが
「言うのは簡単だぜコノヤロー」と叱られそうですね。
ただ、実感として天理教人の「ねばならない指数」は高いと思う。
それは天理時報を見たら一目瞭然である。
天理時報と言って思い出したことがあるのだが、それは次回にしよう。
私の思考スタンスとしては、何かいいものを強調すると、その反動は必ずあるということである。
天理教で言えば、眩しいほどに素晴らしい教義であろう。
その教義の反動は天理教人の不満、不平、愚痴の多さを見れば一目瞭然である。
話は逸れるが「これって素晴らしいよね」と言ってしまった刹那、
それ以外のものの価値を下げてしまうのだ。
例えば、私はエビスビールをよく飲む。ある席で「僕はエビスビールが好きでね~」と
言ってしまったために、宴席の度に「エビス用意しましたから」とか
「今日はエビスじゃなくてすみません」と相手に気を遣わせてしまう面倒な人間となってしまったのだ。
まるでカイチョウさん状態である。
「いえいえ、私はエビスじゃなくてもビールが好きだから!」と言っても後の祭りである。
本当に申し訳ない。
原理主義の難しいところは「私は原理主義じゃない」と断言すことに内包するパラドックスだろう。
「原理主義でも、アサヒでもキリンでも、なんでも結構ですよ」と言える大人になりたいものだ。
私がね。