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天理教と原理主義

先般、ある本(日本人著)を読んでいると
「原理主義という考え方になりやすいのは、教師、警察官、宗教家である」
という記述に出会い立ち止まって考えた。

なるほど。宗教家は原理主義的な考え方になりやすいのか。

原理主義というとイスラムやキリストを想像してしまう。
しかし、日本社会ではイスラムやキリストなんて根付いてない。

広義の意味で原理主義を捉えると「ねばならない思考」と言える。
こう考えると日本の宗教家に対しての共通項が見える。
「ねばならない思考」というのは教義を維持するためには必要なことである。
陽気暮らしは天理教の金科玉条なんだしね。「陽気暮らしをしなくちゃいけない」。
それは天理教人が絶対に忘れてはいけないはずである。

しかし、原理主義で一番大切で、且つ一番危険なことは原理の篩に掛からない
例外をどのように扱うかであろう。
そして、皮肉なことにその例外に対して宗教の真価が問われるといっても過言ではない。

少し難しい言い方になったので、例えをあげよう。
天理教の大切な教えに「夫婦雛形」というものがある。
これは夫婦の姿は陽気暮らしをする家族、地域、社会、世界、宇宙の基盤となる。
ということだと思う。詳しくは知らないけど。
そして、夫婦という形の対極にあるのは離婚である。
原理主義的に「夫婦雛形」を考えると、離婚経験者は
「夫婦雛形」を破壊した、諦めた人と否定形で語られる。
これは非常に危険なことだと思う。
だって、離婚した人は天理教では常に罪悪感や余計な背徳感を背負わされるんだから。

同じ教えは「陽気暮らし」や「人を助けて我が身助かる」などでも同様である。
それができない時や、できない人は暗黙のうちに否定されてしまう。
しかし宗教には教義がないと始まらないわけで、しかし、
例外を見ようとするなら、教義それにばかり固執できない。

教義から外れた例外なるものの救済こそが宗教の本質だと思うのだが
「言うのは簡単だぜコノヤロー」と叱られそうですね。

ただ、実感として天理教人の「ねばならない指数」は高いと思う。
それは天理時報を見たら一目瞭然である。
天理時報と言って思い出したことがあるのだが、それは次回にしよう。

私の思考スタンスとしては、何かいいものを強調すると、その反動は必ずあるということである。
天理教で言えば、眩しいほどに素晴らしい教義であろう。
その教義の反動は天理教人の不満、不平、愚痴の多さを見れば一目瞭然である。

話は逸れるが「これって素晴らしいよね」と言ってしまった刹那、
それ以外のものの価値を下げてしまうのだ。
例えば、私はエビスビールをよく飲む。ある席で「僕はエビスビールが好きでね~」と
言ってしまったために、宴席の度に「エビス用意しましたから」とか
「今日はエビスじゃなくてすみません」と相手に気を遣わせてしまう面倒な人間となってしまったのだ。
まるでカイチョウさん状態である。
「いえいえ、私はエビスじゃなくてもビールが好きだから!」と言っても後の祭りである。
本当に申し訳ない。

原理主義の難しいところは「私は原理主義じゃない」と断言すことに内包するパラドックスだろう。
「原理主義でも、アサヒでもキリンでも、なんでも結構ですよ」と言える大人になりたいものだ。
私がね。

教会本部ぶらり旅の続き。

昨日の教会本部ぶらり旅の記事の続き。

教会本部での滞在時間はわずか90分であった。
しかし神殿にいたのは30分ほどである。
残りの時間は何をしていたのか。
ブラブラしてました。

神殿を出て、参拝だけして帰るというのも勿体ないので
天理本通りという商店街をぶらりと通った。
ちょうど、商店街のイベントをやっていたようで
お揃いの衣装を身に纏った若者たちが商店街を占拠していた。

商店街という細長い場所で踊っておられたので
何をやっているのか見えないし、通れないし、で結局商店街の入り口に
ある道友社という出版社の書店にだけ立ち寄った。

道友社というのは天理教出版物を扱っている会社?である。
帰ってネットで調べたのだが、道友社の組織概要は明記されておらず、
収支も不明、ネット販売の責任者は分かったが、組織体系なども不明であり
間違いなく天理教が持つ子会社なのだろう。

その書店では沢山の天理教の書物が販売されている。
見た事がある本も沢山あった。
今時、カセットテープやシングルCDも売っていた。需要があるのだろう。

いくつか興味をそそられる本もあり手に取ってみたのだが
やはり天理教賛美の自画自賛本しかない。当たり前だけど。
天理大学の先生の本もあるのだが、あまり学術性は感じられない。
んーなんだかな。

そういえば、天理教内ではM上和雄先生という人が有名だそうで、その方の
書物が沢山あった。ダライラマと一緒に映っている写真もあった。
同僚Kと私は思わず「おぉー」と感嘆の声を挙げたが、声を向けた先は
ダライラマであり、私たちはM上先生のことを知らない。
知らなくては評価もできないので、彼の書物を今後読もうと思う。

以前、知り合いの天理教人から噂で聞いた話によると。
M上先生は糖尿病患者?に対して研究を行ったようである。
その研究とは、患者を二つのグループに分けて、
一つのグループには吉本(お笑いの)を見せて
もう一つのグループには吉本を見せなかったのである。
結果は、吉本を見た患者群が見なかった群に対して有意に糖尿病の値が減少したのである。
考察として、「笑いは健康にいい」ということである。

この研究を知り合いの天理教人は嬉々として私に教えてくれたのだが。
私は何も驚かなかった。

なぜなら、それは子どもでも分かる常識だからである。
嬉しい、楽しい、気持ちいいというポジティブな感情が心身にいい影響がある
なんて誰でも知っている。最新の研究論文を読まなくても自明である。
特に日本人であれば、デカルトの心身二元論を読む前に心身一如という言葉が
あるくらい身体化された思想であるはずと思うのは間違いだろうか。

むしろ、心身医学や援助領域で今考えなければいけないのは
いかに援助者も被援助者もよりよく生きるかということである。

吉本を見て笑えば健康になるなら、365日24時間吉本で笑えるという検証をしてもらいたい。

福祉や医療現場で問題となるのは、持続可能な笑いとは何かという問いであろう。
そこではやはり、人生とは何か、病いとは何か、生きるとは何か、死とは何かという
極めてラディカルで答えの無い、決して笑えない問いと直面せざるを得ない現実がある。
そこにこそ、宗教や信仰という存在が人をよりよく生きる笑いとならなければと思う。

その点を留保抜きに教団(道友社)が「よいしょ」しているのは決して笑えないと思う。

また天理教人のメディアリテラシーの低さは現代日本のそれと同様でしかない。
天理教という明確な教義に拠って社会を見れば、「天理教的社会の見方」という
独自で一歩進んだ考えができるんじゃないかと思うのは私だけだろうか。

天理教の教えってそんなに悪くないと思うのだが、
それに基づいて思考を巡らし、社会を見ている天理教人は少ない。
メディアが言った通りに社会を批判し、社保庁を批判し、
相撲協会を批判し(おっと相撲ファンなので)、犯罪者を批判し、
「批判ばっかり言ってても陽気ぐらしできないよ」という天理教人に会ったことはない。
「嫌なことも多いけど、いい社会だぜ!」と言ってほしいものだ。

天理時報や神殿講話で聞かれる理想化された眩し過ぎる教義と
グチグチと社会の不満を述べる天理教人との乖離には愕然とすることが多々ある。
そして、その乖離が同一の人間から語られることは特筆すべき現象である。

なんだか怪しいね~と同僚と話して道友社を後にした。

教会本部ぶらり旅


おぉ初めての画像。

三重で諸用があり、昼過ぎに通過点となる天理市に入った。
いつもは知り合いの天理教人に連れられてしか教会本部に行ったことがないのだが
今回は、私と同じ非天理教の同僚Kと男二人で訪問となった。

天理ICで降り、さぁ教会本部に行こうかという所で思いがけない問題が生じた。

駐車場がないのである。

いや、教会本部所有と思われる駐車場は沢山ある。
しかも、どこもガラガラでる。

しかし勝手に入って停めていいのか、停めた所から神殿までどうやって行くのか
何か証明が必要なのか、全然分からない。
「参拝者の方はこちらへ」とかパンフレットとか全くない。

天理教初心者にはなんと不親切なところだろうか。

いや、むしろ「天理教初心者は来るんじゃねー」という教会本部の政策なのか。
それとも旅行気分で来た私たちが、天理教的作法を知らなかっただけなのか。
教会本部の意図は分からない。

ハッピを来たバキバキの天理教人は沢山いるけど
彼らに道を聞いて、異常に親切にされても面倒だし。

ということで、結局暫くウロウロして優しそうな家族連れに方法を聞いて、
郵便局近くの駐車場を案内してもらった。

駐車場から一番近い参拝場に行き、
参拝して、グルッと神殿を一周した。

神殿を回ってみて思うのは
警備員みたいな人や、掃除をしている人が「こんにちわ」と挨拶してくれる。

最初は気持ちがよかったが、人間関係の発展を望まないマニュアル的挨拶が続くのには
正直ウンザリしてしまった。挨拶とは人間関係構築の入口と出口であるはずが
神殿では、「知らない人にも挨拶する常識」が非常識という感覚を呼び起こしてしまう。

人間関係の構築とは「時間の共有、空間の共有、存在の共有」だと思う。
挨拶で続く言葉が「今日はいい天気ですねー」という意味もない会話でさえも
もしくわ沈黙がずっと続いたとしても、人間関係の構築という視点では必要となる。
その根底にあるのは「相手を知りたい」という相手への興味でしかない。
「この人はどういう人なんだろう。知りたいけど分かんないから話しかけてみよう。」
という他者への興味が人間関係構築の根本である。
そこが抜けている挨拶に意味はあるのだろうか。
過激ないい方をすれば、挨拶をするという自己満足ではなかろうか。
神殿という神の存在を意識せざるを得ない特別な場所だから余計に、過剰にそうなるのか。

ということを同僚Kと話し合って神殿を後にする。

帰りに有名なサイカラーメンを食べに行きたかったのだが、
ラーメンを食べる胃の余裕がなく断念する。場所も分からないし。

何か観光地的な、名物的なものを探したけど見当たらず。
何もすることがなくなったので、早々に天理市を後にする。

滞在時間はわずか90分。

今回のぶらり旅で他にも感想はあるんだけど、それはまた次回。

明日、久しぶりに天理市の教会本部に行きます。

タイトルの通りです。
天理市の近くまで行く事があるので
帰りに少し訪問してみたいと思います。

三連休のど真ん中なので人が多いのかな。

神殿の雰囲気を味わって、
有名なサイカラーメンとやらを味わってこようと思います。
そういえば、他に名産とかオススメはないのかな。

また感想はUPします。

守るべき宗教儀礼

昨日、天理教の行事についての記事を書いたのだが、
その記事について匿名の方からメールを頂いた。

メールの内容としては、「あなたの意見に賛成です」
といった好意的な内容だった。ありがたい。

それはいいとしてメールの後半にちょっと引っかかった。
その内容を以下紹介する。
「お祭りなど天理教の行事というのは基本的に決められた日です。
しかし、社会一般は曜日単位で動いていますので、会社勤めなど
社会で働く人間が天理教の行事に参加するのは難しい。
他の宗教でも例えば第三日曜がお祭りとあるように、休日に行事を合わせる
ような取り組みも必要ですね」

というような内容であった。だいぶ簡略化したけど。

確かに、会社人であれば基本的には土日が休みなので
平日に天理教の行事があると参加しづらい。
その意見には私も同意する。しかし、天理教の行事を
休日に移動させるという点には私は同意できない。

まず私の意見を説明する前に、天理教の行事を整理して考えたい。
天理教の行事には大きく分けて2種類ある。
それは宗教儀礼と非宗教儀礼である。

宗教儀礼というのは、神前で普遍的に連続的に行われる行事である。
月次祭(ツキナミサイ)と言われる毎月決まった日に行われる祭りもあれば、
10年毎の年祭、会長さんが替わった場合などの報告祭であろう。
天理教人に分かりやすく言えば「お許し」(教会本部(神様)の許可)
を必要とする行事である。

非宗教儀礼というのは、単発的に行われ、神前を前提としない行事であり
「お許し」を必要としない行事である。

宗教儀礼では、執り行うという組織的意義が優先され、
非宗教儀礼は、参加するという個人的意義が優先されるとも言える。

非宗教儀礼については、既に休日に設定されていることが多い。
それは神に対して行うのではなく、参加者に対して行うものだから。
教会本部や各教会もそれなりに工夫はしていると伺える。

私は、この天理教の現状に対しては疑義を挟み込む余地はないと思う。
しかし先のメールの発信者は宗教儀礼に対しても休日開催を望んでいるような
筆致だったので敢えて俎上にあげたい。

論理の焦点は「なぜ宗教儀礼は決められた日でないといけないのか」である。

宗教儀礼の核となるものは「神聖」さである。それだけである。
前述したように天理教で宗教儀礼を行う際は「お許し」が必要となる。
つまり宗教儀礼は神の領域であるのだ。

常々言っていることだが、私は神の領域に対して人間が口を挟むことをよしとしない。
それはいかなる形であろうと、神聖さを減じることにしかならないからである。
神から与えられた儀礼に対して人間が口を挟むことが許されるのは神聖さを高める場合
における周辺環境に対してでしかない。
周辺環境ー教団の規模や神殿の拡張など物理的変容に伴って儀礼の形もまた変わってきている。
別の言い方をするなら,時代に沿った儀礼の変容とも言える。
そういった変容を私たちは伝統や歴史と呼ぶ。
しかし決して儀礼の意味変容には触れてはいけない。

また神聖さは、教団内の帰属意識であり信仰の基礎でもある。
そしてこれは、教団内でしか通用しない非常に狭い思考である。
これが人間、天理教を信仰する人にどういう意味を持つのかというと。
神聖さを尊重することは、信仰を成熟させるということなのである。
神聖さや神にベクトルを向けようとする姿勢や心性こそが信仰であると言い切ってもいい。
この点で、先のメールの発信者の意見を考えるならば、彼(彼女)は信仰を成熟させる
目的がないと私は考えざるを得ない。信仰と神への畏敬は同じベクトルである。
自分勝手に都合よく神聖さを歪曲するのは信仰ではない。
自分勝手な歪曲を望めば望むほど、にベクトルは神に向かわない。
そのパラドックスになぜ気付かないのだろうか。不思議である。

私は物心ついた時から大相撲ファンである。
今の大相撲スキャンダルには「こまったもんだ」であるが
大相撲に対して時に問題とされることに、女人禁制が挙げられる。
「土俵に女性を挙げないのは何事か」とね。
これらは主にフェミニズム(男女同権主義者)の方たちからの主張である。
彼らの主張は時代を象徴しているように合理的であり、正論である。

大相撲は元々、選ばれた力自慢の男性が、神様に感謝するという神事なのである。
「選ばれた男性が神様に感謝する」という意味が既に決められているのだ。
なんだか天理教でいう「ひのきしん」のようだ。
フェミニスト達が、相撲を通して「神様に感謝する」目的のために
日々稽古している姿勢を見せるのであれば、
「男性が」という条件は淘汰されても相撲の伝統は存在し続けると思う。
しかし、彼フェミニストの目的は「神様に感謝する」ということではなく
「女人禁制を排除する」という目的でしかない。
つまるところ私が言いたいのは、彼らは大相撲という神事に興味はないのである。

伝統を守っている方に、伝統を留保し権利をと強制するのは論理の飛躍でしかない。
そのような論理の摺り替えが政治、外交、行政、医療、教育、家庭・・・
現代では平然と当たり前に行われていることに私は不思議でしょうがない。

話が長くなったので結論を言うと、儀礼が決められた日に行わなくてはいけない理由
それは神が決めたからである。
信仰は神にベクトルを向けるという非常にシンプルで基本的なことである。
そのことに発信者の方も早く気付いてほしいと思うばかりである。

ここまで読まれて「なんだ、そんなこと当たり前じゃん」と思われた方には貴重な時間を
割いていただいて申し訳ありません。

労働という罪悪感

暑さも和らいできたと思っていたが、
今日は珍しく暑い。ムシムシ残暑である。
仕事の効率がなかなか上がらない。

仕事の話のついでに天理教人の労働観を考えてみたい。

先日、知り合いの天理教人Oさんに「青年会」という組織の行事のお誘いを頂いた。
携帯メールで。
そのお誘いの日は、休日出勤の仕事があるので丁寧に、やんわりとお断りをした。

そしたらOさんから返事がきたのだが、私はその返事を見てビックリした。
内容は、私の仕事の価値を問い、且つ天理教の御用を優先できない仕事なんて価値なし
と書いてあったのだ。私はその慎みの欠片もないやり取りと、コミュニケーションの幼稚さに
愕然とした。もちろんそのメールに対しては恐くて返信を送れなくなってしまった。

私の仕事は基本的に日曜日はお休みと公言しているので、その行事に
参加したくないから適当に仕事と嘘をついたと思われたのであろうか。

しかし何故そこまで信仰に対して強制力をもって行事に優先させる事情があるのか私には理解できない。

熱心な信者なんかは、所属する教会のお祭りに毎月有給をとってまで参加していると聞いたことがある。
そういう方は信仰に対して熱心な方なのだろうが、それが負担になっていたり、
天理教人に強要されているのでは本末転倒ではなかろうか。
そして、私も強要されたのである。

天理教人には、その信仰度合いを評価されるような暗黙のノルマがあるのだろうと思う。
それも本末転倒である。

天理教人は「神様に○○させて頂いている」という謙遜した発言が多い。
代表的な文言では「生かされている」という言葉であろう。
そして、それは非常に徳の高い崇高な考えであることに私は同意したい。尊敬もしている。
しかし、その思考が根源的な場合や個人的事情にしか限定して使用されないことに私は不快感を感じる。
畢竟、私たちの仕事や生活もまた「労働させて頂いている」「社会生活を送らせて頂いている」
はずなのであるが、そこまで天理教人の思考が及ばないということを許してはならない。

私が天理教人であり、誰かに行事をお誘いする場合があるなら、
決して行事に参加できない事情を否定はしない。
自分に関係のないことであっても否定的意見を聞いて気持ちがいい人はいないからである。

例えどんなに無意味な行事であっても、他者感受性に富んだ人に誘われるなら、
その人に会いに行くだけでも有意義な時を過ごせそうである。
私も人として尊敬できる人に誘われるなら、仕事があっても「調整しよっかなー」とか
「次は是非早めに誘ってください」と返事したいのだが。

人は大事にされると、どうしても相手を大事にしたいと思うのは当たり前である。

不機嫌な人が多い現代の日本社会の中で、天理教人が陽気ぐらしを実践しているとは感じられない。
天理教人に会って世間話をすれば、天理教人ほど不平、不満ばかりだと思うのは私だけが感じている
とは到底思えない。

私は今の日本社会はそんなに悪いとは思わないが、この意見に同意してくれる天理教人は皆無である。

大工さん

前記事の読者様のコメントの返事を書きつつ思ったことがある。

表統領とは何者だろうか?

少しググッてみたけど分からない。
たぶん、天理教の幹部の中の幹部で専務取締のような役職なのだろう。
てことは裏統領もいるのか?(裏統領・・・こっちの方がカッコイイ)

噂では内統領がいるらしいが真相のほどは・・・分からない。
包括宗教法人天理教と被包括宗教法人天理教教会本部の違いのような大人の事情だろうね。

今度知り合いの天理教人に聞いてみよう。

本題であるが、表統領の字の「統領」は「棟梁」じゃないのは何故だろう?

かねてから、私は天理教の役職は大工さんの名称を例にしているのだと思っていた。
真柱や用木という名称は大工さんっぽいし・・・ 
陽気ぐらし世界の建設とかって聞かれることも多い。

「表統領」って聞いたのも「表棟梁」の間違いなんだと思った。
しかしググッてみると「表統領」で正解らしい。
大工の棟梁というと組織のトップというニュアンスがあるから真柱と差別化するために
「統領」にしたのだろうか。でもそうだとすると「統領」の方が「大統領」という例が
あるから余計にトップというニュアンスが強くなる。不思議だ。

そもそも真柱や用木という名称はどこから来たのだろうか?
真柱を総裁、用木を信者としなかったのには何らかの背景があるはずである。
この点は非常に知的好奇心を喚起されるものである。

私の知り合いの天理教人も知ってなさそうですな。
真柱(用木)がなぜ真柱(用木)と呼ばれるのか誰か教えて頂けないだろうか。

加えて、気になることを。
ググッてて偶然ヒットしたのだが。「かなめ会」と言われる
直属教会長の集まりについてである。この「かなめ会」が持つ権力が把握できれば
天理教教団の力動についてかなりの部分で説明がつきそうな感じがする。

こちらも非常に関心を持っているが全く分からない。
誰か教えていただけないだろうか。

「感謝・慎み・たすけあい」というスローガンの垂れ幕

私の近所にいくつかの天理教の教会がある。
大小様々な教会であるが、今思い出すだけでも5つくらい知っている。
もちろん、仕事先や旅行先でも度々天理教の教会を見つけることが多い。

本当に天理教の教会数は多いと思う。

そして2年程前かな。本記事のタイトルに掲げた「感謝・慎み・助け合い」という
横断幕が全国の教会に一斉に掲げられるようになった。誰でも一度は目にしていると思う。
この横断幕はカラフルなので、地味な天理教の教会も見つけやすくなったのではないかと思う。
今までは街を歩いてても教会かな?と思って見てた建物は
梅の家紋や○○分教会という看板を見ないと天理教と識別できなかった。
しかしカラフルな横断幕ができたおかげで教会を見つけやすくなった。
見やすいところに掲げられたカラフルな横断幕は一番目につく。
今では天理教のアイコン的機能を持っている。

このカラフルな横断幕が作られた経緯なんて私は知らない。

ただ、この横断幕が政策的に何を目指しているかは理解に苦しむ。
天理教は何を目指しているのだろう?
「私たちは、こんな素晴らしいテーマを掲げているのよ!」というアピール?
たった3つの言葉で? 

この横断幕を一般の人が見たらどう思うだろう、という視点は作成者にはなかったのだろうか。
私は少なくとも、これほど怪しいスローガンを掲げている宗教建物には近づきたくない。
さぁ皆さんはどう思いますか。顔も見えない思想なんて怪しいと思いませんか?

また、そのデザインも今風に言えば「ダサイ」である。
まるで、中高年対象のWindowsの初心者講習会で「何か簡単な作品を作ってみましょう」と
いわれて作られたようなシンプルさである。

この横断幕を発案し、選定した人間はきっと他人の心情に鈍感であるのだろう。
少なくとも、そこまで想像性が及ぶ人間ではないことくらい容易にわかる。
一大組織のストラテジーとしては思慮が浅過ぎる。
他者が奇異に感じることくらい気づいてほしいものだ。

もしくわ天理教の意思決定プロセス自体が死んでいるのだろう。独裁でもある。
誰か一人でも「こんなことは一大宗教の教団がやることじゃないっすよ、見たら引きますよ」
と言わなかったのだろうか。
もしくわ天理教の会議特有の「会長さんの鶴の一声で決まりましたが何か?」的な臭いもする。

こんなチープで他者感受性に鈍感な政策をやっていては、天理教の未来は暗い。
今だからこそ、ドシっと構えて人間的成熟を涵養した方が天理教の未来は明るいと思う結論は
そんなに間違ってはいない。
むしろ長期的視点で見れば、その方が長生きできるだろう。これはビジネスと同じである。
ビジネスという財貨の交換でしか成立しないドライな関係だからこそ
人間関係に価値を置く人間と会社が成功できるのである。むしろ本当の成功はそこにしかない。

少しくらい社会で働いた経験があれば当然の結論である。

政策やストラテジーというドライな言葉を使うと天理教人に
そんなものと信仰を一緒にしては困ると言われそうだ。
しかし前述したように経営力と人間力は同じであると考える人間に人は集まるのである。
もちろん、経営力と人間力は同じではない。
不思議なことに経営で成功する人間というのは、経済の勉強より人間(自分も相手も)を大事にする
ことに時間を割く人が多いと思う。少なくとも私の周りの成功者は皆そうである。
人に支えられていることに感謝し、そして自分をとても大事にしているのである。
まして顔の見えない相手に「感謝が大事だよ」なんてドン引きなことは言わない。

ということで、私はあの横断幕を非常に気持ち悪いと思う。
このブログに決して貼りたくないものである。

「この横断幕って怪しいよね。こんなことより地域に出て私たちの顔を覚えてもらおうぜ」と、
自主的に外した教会こそ本当の意味で生き残れる教会なのだと思う。

さて、皆さんはいかが思いますか?

検索 備忘録

さきほどyahooとgoogleで本ブログ「天理教社会学研究所」で検索をかけてみた。

そしたら、検索結果に本ブログがトップで出て来ない。

検索で出て来ない時というのは、長い間ブログを更新してないとか
閲覧数が減ってるとか、検索数が減ってるとかが原因である。

なのでブログの管理画面に戻って、閲覧数や検索数を見るが変化はない。
むしろ増えているといってもいいくらいである。

なのに検索の上位に出てこないなんてことは今までなかったはずである。

おかしい。

どんなに更新しなくても、どんなに閲覧数が減っても「天理教社会学研究所」
とフルネームで検索すればトップで出ていたはずなのに。

どうしても、本ブログを快く思っていない所からの圧力を感じをてしまうのだが、
それはサスペンスや推理映画を好む私の妄想世界であり杞憂である。
だって、本ブログにそんな大きな影響力がないことぐらい誰でもわかる。
きっと、私が知らない何かが原因であるのだろう。何だろ。

しかし、もし今後ブログの更新が1ヶ月以上も続かないことがあったら
私は本ブログを快く思っていない何者かに暗殺されたと思っていただいて結構である。
私にとっては悲劇のはずなのにワクワクするのは何でだろう。

天理教にとってお盆って何ですか?

私の今年のお盆休みは3日間あった。15日から本日17日までの3日間である。

短い。

その3日間は私の実家の方へ家族と帰った。

私の実家は一応仏門であるが、一時期天理教を信仰していた先祖もいたりと
あまり宗教に抵抗も壁もない「お気楽」な家庭である。
もちろん、今年のお盆も宗教的色彩は墓参りなどのちょこっとした程度である。

話は逸れるが、私の友人に禅宗の友人がいる。
そこでは、決まった日に決まった時間に必ずお墓に行かなくてはいけないそうである。
しかも何度もお墓に行かなくてはいけないらしい。
だから、禅宗にとってお盆休みというのは、休みではなくお盆という一大イベントなのである。
私はその話を聞いて「禅宗じゃなくてよかった」と思ったが、
私も含め日本人全体として宗教行事を軽く考える傾向にあることは決していいとは思わない。
宗教行事が持つ意味は社会、文化、個人において重要な役割であることは忘れてはいけない。

話を戻す。
もちろん、実家の近所に知り合いの天理教教会があるので挨拶に行く。
当たり前のように歓迎される。教会の神殿に通していただいたが
神殿は「お盆仕様」ではなく日常の神殿であった。

天理教はお盆をどのように考えているのだろう。

上記のこの疑問がお盆の間ずっと疑問であった。
といっても昨日の話なんだけど。

天理教にとって、お盆とは全く関係のないものなのか。
それとも、お盆に対して何かしらの意味はあるんだけど、
私の近所の教会だけ何もしてないのか。

誰か教えて頂きたいものだ。
そこの教会にお中元を渡したのだが、よかったのだろうか。
甚だ心配である。