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裁判員制度を考える。


読みにくいと批判頂きましたので、フォントを大きくし改行も減らしました。当分このスタイルでいきます。私が読み直して補足もしました。また何か注文あれば教えてください。(1/19)
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先日yahooトピックを見ると「宗教界裁判員制度に悩む」という記事が出ていた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090111-00000008-yom-soci
http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-news/08/news0801/news080129/news080129_02.html

昨日、道友社のHPでも同様の記事を読んだ。
http://doyusha.jp/?page_id=874

いずれ私も裁判員制度は書きたいと思っていたが、シンクロニシティを感じたので、そろそろ私も書こうと思う。私の経験的作法として、あまり潮目や流れには逆らわない方が物事を円滑に進められると思っている。いや、ほんとに。何事にも旬があると言った方が分かりやすいだろうか。制度は今年の五月から開始されるわけであるから、ちょうどいい時期なのかもしれない。

まずはyahooの記事を見てみよう。主に寺社の方の意見であるが、基本的に裁判員制度には肯定的(無難な意見)である。各宗教者の立場としては、「裁判員制度にどう対応するのか。宗派としてメッセージを明らかにするべきではないか」「人を裁くことはできないと思う一方、宗教者としての意見をしっかり述べることが大切という考え方もある」。なるほど。

では道友社の記事を見てみよう。こちらでは、弁護士であり教会長でもある方が書いている。一弁護士の意見であろうが、天理教のグループ企業である道友社の記事はそのまま天理教教団の見解として捉えて差し障りはない。内容は制度の概要説明が主であるが唯一「月次祭の祭典日と重なったら……」という章は具体的事由を想定しており大変興味深い。しかし結果として「月次祭の祭典日と重なったら……」という前句に対しての結論は曖昧模糊となっている。詳しくを記事を見ていただきたい。

前段の各宗派による意見表明と後段の天理教の見解とを比較考量する。各宗派は明確な意思表示をしており、天理教の意志は明確でない。そして、この天理教の曖昧な態度を私は支持したいと思う。

なぜならば裁判員制度誕生の背景には「多種多様な人材に門戸を開くこと」(平成14年7月5日司法制度改革推進本部顧問会議第5回会合内閣総理大臣挨拶要旨)とあり法律家だけでなく国民皆でやりましょうということである。法律家が考える社会的通念だけでなく個人(国民)の信条、思想を勘案し人を裁きましょうということである。大事なことは「多種多様な人材」とは「多種多様な個人」であると私は思う。間違ってはいけないのは「多種多様な組織」ではない。これを宗派に当てはめると制度自体の骨子が揺らいでしまわないだろうか。

例えば、天理教教団が各教会長に対して裁判員制度の思想について統一見解を明示したとしよう。「天理教の教えから考えて死刑って絶対ないよね」とかね。すると教会長さんには「死刑」という選択肢は無くなる。たとえその教会長さんが「この犯人は死刑に相当するよな」と考えていてもである。

裁判員制度導入は、ある一定の重大事件について行われるようである。もし殺人事件であったときに、犯人の残虐性、過酷な生い立ち、情状酌量、いろいろな背景が存在する。まして同じ事案はひとつとしてないはずである。統一見解によって思想を縛ることは、それら犯人の個人史を無視する可能性を孕んでいることを忘れてはいけない。犯罪から教義を見るのではなく教義を通して個人を見なくてはいけない。

天理教が持つ「陽気ぐらし」という命題は大変素晴らしい。しかし、それと「量刑を軽く(重く)すべき」と決めてしまうことは背馳しないだろうか。背馳しなくても、陽気ぐらし=死刑反対は論理が飛躍しすぎている。なぜそのような推論になるかというと、私が常々申し上げているように天理教は教義解釈が非常に未熟である。天理教成員において自然発生的にコンセンサスが得られるほど思想的(教義)成熟は歴史的に達成されていない。つまり「陽気ぐらしとは」「人をたすけるとは」「殺人とは」というセンシティブな課題は未だに硬直したレトリックで縛られている。例えば「陽気ぐらしとは皆が笑って過ごすことだよガハハー」と思慮浅く思考制止のまま平然と語るカイチョウさんたち。まるで枕詞のように。裁判員制度を契機として天理教を信仰するものの間で上記のような課題が実生活上における教義として議論が活性化することがあるならば私は非常に歓迎したい。(本来ならば天理教の研究機関に頑張ってほしいのだが)。そういった意味で天理教の控えめな態度には敬意を表する。ひょっとしたら、「どうしたらいいのだろう」と悩む教会長がいるかもしれない。それはそれで大変結構なことであると思う。死刑賛成の教会長がいることは大切だと思う。教会長それぞれの経験、思想をもって望んでほしいと思う。前述した道友社のに対して「月次祭の祭典日と重なったら……」という状況が実際に生じたとしよう。「裁判員制度は不参加で祭典優先で」という教会長も、「裁判員制度も大切なことだ、祭典は欠席しよう」といって裁判に参加する教会長もいて私はいいと思う。もちろん教会が持つ信者の量、質、会長の求心力など色々な状況もある。

天理教が統一見解を出すのであれば、先の道友社のようなメタ思想的なものでなくてはならない。「みんな陽気ぐらしって知ってるよね?それに基づいてしっかり考えて」というようにね。

裁判員制度を信仰の踏み絵としてはいけない。

しっかり考えましょね。

追記1
私は上記yahooのトピックで意見していた各宗派の統一見解に対して否定していない。それは統一見解が生成される宗教団体の背景には、教義に対して成員の歴史的コンセンサスがあるかもしれない。誰が考えてもそう考えるというように。そして、そこに至るまでの十分な議論や研究がなされているのかもしれない。本当はどうなのか知らないけど。

ただ歴史が浅く哲学的考究が浅い天理教においては成員集団において思想的コンセンサスが収斂されているとは言い難い。そういった状況でトップダウンの統一見解は各成員の思想の縛りとなる蓋然性が高いのである。

追記2
裁判員制度を「おたすけの場」と考えましょうと道友社は言っていた。しかし「おたすけの場」と意識させることで「人を裁く場」という意味が低減されるのではないかと危惧する。裁判員制度は人が人
を裁くこと以外の何物でもない。これに反論がある方はイギリスやドイツのように宗教家は裁判に参加できないよう働きかけを行うのがよろしい。軽く考えてはいけないという点では道友社と私は同じである。

人が人を裁く、これほど怖いものはないと私は思う。

そしてここまで書いて今さら言いにくいが、私は裁判員制度自体には反対の立場である・・・

あけましておめでとうございます。そして今年の抱負。

改めまして、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

早いもので新年も10日が過ぎようとしています。
天理教の一大イベントである「お節会」にはお誘いを
うけましたが、今年も参加することができませんでした。
行かれた方はどうだったのでしょうか?
天理時報によって参加者数が公表されるのを楽しみに
したいと思います。

さて、今年はどういった年になるのでしょう。
天理教では今年どんなイベントや意味があるのだろうと
天理教公式HPを見る。http://www.tenrikyo.or.jp/ja/top.html
お、天理教道友社のリンクが右欄に貼ってあるではないか。
早速天理教道友社のページへ飛んでみる。
おぉなんと天理時報がWEBで見られるではないか!
と感動しているのもつかの間。
WEBで公開されているのは一面だけである。
しかもズームしたら暈けて字が読めない。
そりゃそうですよね。
天理時報をWEBで見られるようにしたら天理教の貴重な
財源が無くなってしまうんだから。
いや、でもこの道友社のページはかなりツッコミ所の多い
サイトではないか!
ネタがなくてブログの更新ができない私には吉報である。
ありがたや。

ということで、今年の私の抱負はブログの更新をちゃんとする!
である。
ちゃんとって?といわれてもちゃんとである。
ちなみに現在、このブログの一日の訪問者は60人くらい。
昨年の夏くらいは100人くらいであったのだが、
私の更新が遅れるのにつれて徐々に減ってきた。
更新が遅れてるからなのか、私の記事が飽きられたのかは分からないが・・・

やはり訪問者が多いと嬉しいのです。
「オレは書きたくて好きなこと書いるから別に見ない奴は見なくていいぜ!」
なんて強気なことは言えません。

どうぞ今年もよろしくお願いします。

今年も終わります。悲しいけど晴れやかな年越し。

前にアップした記事が一ヶ月前。
まことに申し訳ない。

師走だから世間と同様に私も人並みに忙しい。
忙しいと言っても大したほどではない。
仕事柄、年度末の方が忙しい。

私が先週、先々週と忙しかったのは冠婚葬祭が突然2件入ったからである。
冠婚葬祭といっても葬なんだけど。
一つは私の組織の元トップが鬼籍に入られた。
昨春、社長を退任されたので隠居されたのかと思っていたが
会長職についておられたようだ。知らなかった。
会長すみません。

会社では、年明けに社葬を行うということになった。
元々は5日に仕事初めであったのだが、急遽5日は休みになり
6日からの開始となる。

私の同僚などは「こんな年末に亡くなられて大変だよ」と言っていたが
私はこれも会長の愛情であると思う。
もし仕事納め前であれば、会長の葬儀によって年末の業務能力は低下するであろうし
(仕事納めが伸びたかもしれない)
もう少し遅ければ年度末の決算業務に支障をきたしたであろう。
ちょうど年末年始という社会的休戦状態に突入したときに亡くなられた。
これ以上のタイミングであったと思う。おかげで仕事始めが延長された。

こんなことを言っては天理教の方に罵声を浴びせられそうだが、
「出直し」のタイミングというのはかなり人間的事情が優先されるのではないかと思う。
これを「たいしょくてんのみこと」やシンクロニシティと言って概念化してしまうと
「その人」性を埋没してしまうのでこの場合私はしない。
天理教の方に私が懐疑的になる点も同様である。まぁこれは後々。

今回の会長の逝去だけでなく、これまで私が経験した中で
惜しまれる方というのは亡くなるタイミングが非常によい。
もちろん、亡くなってよいことはない。
しかし事後的に「亡くなるのはあの時しかなかった」という時に亡くなられる。
このタイミングの良さは、故人のタイミングではなく
故人を取り巻く人にとってタイミングがよいのである。
そういった意味では故人から周囲への最後の感謝なのだと思う。
死ぬ瞬間まで周りに感謝していく人ほど周りに迷惑をかけずに亡くなっていくのだと思う。

よく「葬儀の参列者の数は、その故人を慕っていた人の数」というような
言説が聞かれることが多い。

しかしこれは本質的ではない。

故人が慕われていたかというのは、故人の思い出がいつまでも忘却されないことだろう。

反対に「嫌な人間」も忘れられない可能性は高い。
しかしそういった方は葬儀の参列者は多くてもタイミングは悪い。
最後まで「嫌な人間」としての腐臭をまき散らして亡くなられる。
もちろん故人への思いはいつまでも「嫌な物」として記憶される。

私もかつて嫌々参列した葬儀くらいはある。嫌々ではなくても業務命令や
役職などで社会的参列なんて嫌ほどある。
そんな葬儀は悲しくも何とも思わない。
酒を呑み交わしたことも、嫌味を言い合ったこともない、知り合いでもないんだから。

そして例外なく、慕われ惜しまれつつ亡くなる方というのは周囲に感謝できる方である。
亡くなった会長も同様である。そして私の祖父も。
最期まで、その感謝する気持ちを閻魔様や親神様が叡智界で受け取ったのと思う。

このタイミングの良さは、故人から私たちへの最期のプレゼントなのだろうと思う。
また神様から故人へのプレゼントであってほしいとも思う。

私のMourning workは長い年月を必要とするようだ。

また惜しい人を亡くしてしまった。

それではよいお年を!

自分の言葉で話してもらえませんかね。

昨日、天理教の「先生」と言われる方と
2時間ほどお話させていただくことがあった。

世間話から、信仰論まで色々な話をさせていただいた。
話をさせていただいたといっても私は専ら聞き手であり
その先生の独演会のような状況であった。

この会合は、たぶん私をなんとか入信させようとする
どこかからの作用だと思う。
それはいいとして。

話の途中で、何度かその先生が私に対して
「君は難しいことばかり言うねー」と言っていたのが印象に残る。
なぜなら、私としては何も難しいことを言った覚えはないからである。
むしろ、全然話した覚えがないほどである。

その先生がなぜ「難しい」と感じたのか。
それは、きっと私の挟む合いの手が、先生の予想外のものあることと
私の聞く態度が肯定的ではなかったからだと思う。
具体的に言うと、その先生は「陽気暮らし」や「若年層の育成」と
いった言葉が出るたびに私が「それって何ですか?」と
ラディカルな問いを発したからである。

私「陽気ぐらしってなんですか?」
先生「みんなが陽気に暮らすことだよ」
私「具体的には?」
先生「・・・笑うんだよ」
私「・・・そ、そうですね。そのためにはどうしたらよいのでしょう?」
先生「おつとめだ!おつとめが大切なんだ」
私「・・・おつとめから陽気暮らし達成までを説明していただけると分かりやすいの
ですが・・・」
先生「・・・・その昔、泥海の中をなんたらかんたら・・・」

といった具合なのが、本当に多くあった。
結局、私は彼が陽気暮らしをどのように考えているのか理解できなかった。

私は何も全て論理的に矛盾なく話して欲しいとは思わない。
教義の詳細なんて余計にウンザリするだけで聞きたくない。
私が求めたのは、おつとめから陽気ぐらしへどのように繋がるのかを
その先生が現在に至るまでに経験したことから言って欲しかった。
分かりやすく言えば、自分の言葉で語って欲しかった。

「私はこういったことを体験してね、おつとめって陽気ぐらしだよなー」と
言ってくれれば、私は興味をもって肯定的に聞けたと思う。
小難しい宗教言語を並び立てられては理解や納得が及ぶ前に
言いくるめられてるような倦怠感が訪れてしまうのである。
相手の理解が及ばない小難しい言葉を言って相手の思考を置き去りにすることを
精神分析では「知性化」という。
どうやら、私は彼が普段知性化で済まされている文脈において知性化させなかったようだ。

しかし、やはり私は非常に難しい話をしたとは思えない。
むしろ、非常に分かりやすくしようと勤めたと思うのだが。
その辺がまったく理解されなくて残念であった。

なぜ自分の言葉で語ることがこれほどできないのであるのか不思議である。
まるで、偉そうに教義を語ることが先生としての条件であるかのように
彼に骨肉化されていることに驚くばかりである。

自分の言葉で語ることこそ、布教の骨子だと思うんだけどな。

M上先生再考

先日、私は会社帰りによく行く馴染みの大型書店に立ち寄った。

新刊コーナーを見ていると天理教内で有名なM上先生の
「アホは神の望み」があったので手に取って読んでみた。

結論から言うと私はp15あたりで、不快な既視感に倦怠し
それ以上読み進められなくなり本を元に戻した。

「不快な既視感」とは別のいい方をすれば「あぁこの人もそういう人か」
ということである。この人もTVのコメンテーターのような
一義的な断定でしか物事を判断する人なのか、ということである。
切れ味はいいんだけどね。

私が常々申し上げているように、
神様を主語にすることの危険性と、
原理主義的断定は、それに当てはまらない人を無自覚的に除外する危険性を
孕んでいる。
そして、その危険性は陽気ぐらしの対極であると私は考えている。

「アホは神の望み」の倒置法を整理すると
「神はアホを望んでいる」ということである。
アホとは関西人にとって、”ある意味”褒め言葉なようである。
(M上先生は関西出身)
単に無知や愚鈍という意味ではなく(そういった意味で使われることもある)、
陽気さ、素直さといった賞賛の言葉としても使用されるらしい。
この本の題名も後者のアホである。

内容を詳細に記述することは控えるが、
私が読むのを諦めたp13-15くらいが一番キツかった。
アホになれない人とはどういう人かを列挙し(「器が小さい」と書いてあった)
アホは素晴らしい、みんなアホになりましょね、というような筆致であった。

言ってることは理解できるし、いいアイデアであると思う。
しかし、それを陽気ぐらしや信仰に照らして考えてみると
違和感が生じないだろうか。
「○○な人は器が小さい」ということが天理教の信仰だろうか。

もちろん、私はアホになれない狭隘な人間であるので、それ以上
本を読む気にはなれなかったのであろう。

アホになるべきという「決めつけ」が
除外を生み、差別を生むことに自覚が足りないのではないかと思う。
それはM上先生が言われるような賞賛される「決めつけ」も同じである。
「決めつけ」を行っている以上、私たちは無意識的に「決めつけられない」
もの(非アホ、器の小さい人)を除外しているのである。

彼は一流の科学者であるが、思想家として教団が彼を売り出していることから
天理教の目指す信仰とは、そんな水準の低いことかとウンザリしてくる。
陽気ぐらしというのは、自分と考え方や価値観が同じ人間だけの小さいコミュニティで
達成されるべきものなのであろうか。
それが天理教の「世界一れつ」という世界なのだろうか。

違うはずである。
それこそ、自分の考え、価値観と異なる人と、
究極には、ひき逃げをする犯罪者や、
ネチネチ文句を言ってくる嫌われ者の上司でさえも、同じ地球の、同じ守護を受ける
コミニュティのメンバーとして容認することではなかろうか。
(犯罪を肯定しているわけではない。犯罪者を手放しで批判し裁くのは私たちではない)

M上先生の言っていることは正論である。
スパッと切れ味もよい。
しかし、私には信仰に基づく思慮の浅さが呑み込めなかった。
もし彼が一流の科学者でなかったら・・・・
ある成功をおさめている分、彼は裸の王様状態なのかもしれない。
科学で成功をおさめているのであれば、科学者として信仰と社会の橋渡しが
できるのは彼しかいないだろうと思う。それが思想家にでもなったような
自信満々の「決めつけ」論で残念である。

彼は研究に没頭し過ぎたせいで信仰を涵養させる前に成功をおさめすぎて
彼の信仰は偏ってはいないだろうか。私は偏っていると思う。
一流の科学者であろうが、少なくとも一流の信仰者ではない。
この人を天理教のオピニオンリーダーにするのは危険であると思う。

私は、自分の考えと異なる意見には耳を傾ける方だと思う。
M上先生の本は、私と異なる意見というよりは、話している水準が異なると感じた。
「アホは神の望み」は「失敗しないお金の儲け方」や「人間関係でうまくいくコツ」といった類いの
数多ある自己啓発書と同じ感じである。

私の意見は暴論かもしれないが、「M上先生、万歳」という右に倣えといった
雰囲気が天理教に瀰漫している恐さを感じている人がいてもいいし、
そういった人を容認するような雰囲気が教団にあれば、天理教の未来も明るい
のだろうと思う。

「慎み」再考

私の朝は、仕事に行く用意をしながら基本的にTVをつけている。
基本的にというのは、正確な時間を知りたいだけで番組自体は
見ないからある。だからミュートにしている。

朝バタバタしながらTVを見る余裕がないのである。

しかし重大事件や初めて見る情報などは、どうしても音量を上げ
TVに見入ってしまう。
昨日の朝に見入ってしまったのは自衛隊の論文問題である。

この件に関してメディア主導の世論がどういった流れなのか私は知らなかった。
前幕僚長(田母神さん)の最優秀受賞をアナウンサーやコメンテーターは
容易に、当たり前のように批判するもののイマイチ歯切れが悪い。
みのさんやその他のゲストの話を聞くと、批判が先行して
なぜ幕僚長が批判されるべき対象となっているのかイマイチ理解が深まっていない。
めちゃめちゃ怒っているんだけど、興奮し過ぎてついに本人も何に怒っているのか
よく分からくなっている人のようだ。

この件に関して、当の前幕僚長は「参考人招致に応じる。こんなことも言えない
ようなら日本は北朝鮮と一緒だ」というようなことを言われている。
なるほど。

この問題の骨子は、紛れもない「言論の自由」である。
これを言わずしてTVでコメントが成り立つのが不思議である。

「言論の自由」はどこまで自由なのか。

この問題では主に3つの視点が言われている。
前幕僚長の言動(彼は本件だけでなく以前も戦争を肯定するような発言をしていた)
は言論の自由の名において批判されるべきではないという視点。
先の戦争は侵略戦争であり日本が加害者であるという国民合意(政府見解)が既に形成
されているから事実関係そのものが間違っているという視点。
前幕僚長は議会制民主主義の直接的為政者ではないが、その役職から
十分に日本国の意見として制約されるべきものであるという視点。

うーん。難問である。

私がこの「言論の自由」を考えていつも思うのは天理教の用語である「慎み」である。
リベラル的思考で言えば「自由」というのは万人に補償された権利である。
しかし上記3つの視点では、一番大切なことが抜けている。
それは天理教の「慎み」にあたる「それを主張することによって、傷つく人がいる」
という点である。

戦争で日本軍に家族や親族を殺された人の目の前で、上記3つの視点を私は言えない。
もちろん、TVなどで上記3つに対してコメントする知識人達も
被害者を前にしては「言論の自由とは」と言えず口をつぐんでしまうのではないか。
それは前幕僚長もみのもんたも同じである。と願いたい。

一番意見を聞かんくてはいけない本人を目の前にしないで、
このような発言や思想が常識のように言われるのはなぜだろうか。

精神科医の木村敏は「異常の構造」の中でこういっている。
「私たちはめいめい、自分自身の世界を持っている。私と誰か別の人物とか同じ一つの部屋の中にいる場合にも、私にとってのこの部屋とその人にとってのこの部屋とは、必ずしも同じ部屋ではない。教師と生徒にとって、教室という世界は決して同一の世界ではないし、侵略者と被侵略者にとって、戦争という世界は全く違った世界であるはずである。しかし、このように各人がそれぞれ別の世界を有しているというのは、私たちがこの世界に対して単に認識論的な関係のみをもつ場合にだけいえることである。私たちが認識的な態度をやめて実践的な態度で世界との関わりをもつようになるとき、私たちはそれぞれの自己自身の世界から共通の世界へと歩みよることになる。」(p.46)

認識論的関係から実践的関係への転換というのは、簡単にいうと
頭の中で完結せずに実際の人間関係、社会関係の中で思考を構築することである。
前幕僚長もみのもんたもコメンテーターも、認識論的な領域に留まっている限り
議論はループを形成し、突っ張り合うだけの理解し合わないものとなる。

私たちの社会では「嫌な人だな」と思う人がいても、
その人に向かって「お前嫌なやつだな」と言ってしまう人は大人ではない。

そういうことである。

それが天理教で言われる「慎み」だろうと私は思う。

私は学生のころ前幕僚長のように
「権利の行使」や「自由の拡大」を手放しで主張していた。
その度に大人からは「責任と他者への配慮」を説諭されていた。
あの頃は私も若かった。

そういうことである。

「なんだかよく分からないけど、これってよくないよね」という心性が
日本人に見られることはとても大切な身体感覚であると思う。
その「なんだかよく分からないけど」という感覚が日本人の慎みを
体現していると思う。そう考えれば、メディアにおける批判に私も追随しているように
思われるがアナウンサーやコメンテーターはオピニオンリーダーとしてもう少し慎重に
発言すべきで、無駄に世論を批判で煽ることはよくない。

自己責任や、クレーマーの増加という話を聞く度に
感じる疲労感と同じである。

一昔前までは「いい大人が何やってんだ」と言われていた。
私には前幕僚長もみのもんたも大人の皮を被った子どもにしか見えない。
かといって天理教人の「慎み」を手放しで賞賛しているわけではない。

「慎み」
そこに大きなヒントがあると思う。それだけである。

天理教の財政と天理時報手配りの戦略

先週、新幹線を待っている間に読んだ本がこちら。

宗教学者 島田裕巳 「新宗教ビジネス」
http://blog.livedoor.jp/shhiro/ 

各新宗教の財政状況やお金の動きについて分かりやすく簡単に説明している。
もちろん天理教についての章もあるので是非ご覧あれ。

宗教学者や天理教外の人間がどのように天理教を見ているかというのは
信仰をより深めるためには無駄ではないと思う。
失礼を承知で申し上げるならば、私は何人かの天理教人と話して知的探究心や
他者(自己)理解を深めるという動機が薄いと思うことが多い。
「人間とは」というラディカルで実存を扱う宗教において、
人間理解を深める雰囲気が天理教人に薄いのは致命的であろう。
それは同時に予々、私が言っていることだが
原則論で物事を言い切ってしまう天理教人が多いことと表裏である。

閑話休題、その「新宗教ビジネス」という本は非常に興味深い。

天理教の2008年度の予算は歳入・歳出ともに164億円である。
この金額について、私は率直に「少ない」と思った。
17000の教会から年間100万集めれば170億円になる。
つまり一つの教会で年間100万円も上納していないことになる。
さらに、この本では某学会についても考察している。
某学会は外部の人間から見れば、非常に集金力がある宗教団体である。
集金力のある宗教と聞くと信者による献金やお供えを強要していると思いきや
実際のところは、この学会は「お金を要求しない宗教団体」を掲げている。
では、どこからお金を集めているのか。
それは、出版・印刷物である。
なるほど、確かにこの学会は「聖○新聞」という新聞を発行している。
その発行部数を聞いてビックリした。
なんと毎日新聞を超えているのだ。

なるほど。

新聞や出版物による安定した収入で、この組織は成り立っているのだ。

なるほど。

ここ1年程、天理教が発行している「天理時報」を天理教信者が
購読者に手渡しで送り届ける活動がある。
その活動の建前は「人とのつながりを大切に」といわれているが、
その活動を天理教の財政状況の落ち込みと、某学会の資金繰りという視点で
考えると安定した収入を確保するためのストラテジーという本音が見える。
少なくとも、これを発案した人間は某学会の資金繰りの安定さを熟知していた
ものと思われる。

私は、この安定した資金調達のための天理教の建前は
あまり長続きしないのではないかと思う。

なぜなら「人とのつながり」という目的がはっきりしないからである。

「人とつながるというのは立派な目的じゃないか」と言われそうだが、
誰に、何のためにつながるというのがイマイチ見えてこない。
私が常々言っているのは「天理教人は地域に出た方がいいよ」ということである。
天理教人は、帰属意識が強く外部者に対して冷たい一線を設けている雰囲気がある。
(容易に他宗教批判や、社会批判などがなされることが一例であり、
常にメディアの情報を鵜呑みにし社会を憂いてばかりの会長さんは本当に多いと思う。
そんなに悪い社会と言っていては何も良くならないと思わないのか不思議である)

天理時報購読者は地域ではない。
私が言う地域というのは「天理教って怪しいよね」という未開発の他者である。
「天理教の人はいい人だよね」という人は既に天理教人に対する理解や
概念が形成されており他者ではない。私の言う地域でもない。
すでに「天理教のことを知っている人」に対して「こんな素晴らしい活動をしている」
ということを伝えても暑苦しいだけではないか。だって知っているんだから。
大切なのは、「天理教のことを何も知らない人(もしくは偏見で見ているひと)」に
対して、「天理教って怪しくないんだぜ」ということを伝えることである。

私が一貫して、天理教人による戸別訪問や神名流しを
「そろそろ、その方法再検討した方がいいのでは」
と言っていることと同じことである。
そのためには、まず他者とは何かという理解から始めなくてはいけない。

人間理解を深める雰囲気がない人に何言ってもしょうがないとも思える。

本部大祭の感想

予告をしていたのに遅くなり申し訳ない。

26日は本部の大祭であった。
私も知り合いに誘われて参拝した。

天理駅に着いた時点でかなりの人込みであった。
平時はかなり閑散とした駅、駅前であるが
テーマパークにでもきたように溢れかえっていた。
日曜ということもあうのだろうか、親子づれ、若者も目立つ。

急いで神殿に向かう。

私が参拝したところは、中庭と言われる回廊で囲まれたところ。
雨もちらほらきており、知人に「中に入ろう」と言われたのだが
「あの人込みに入るのはちょっと・・・」と遠慮させてもらった。

あの人の多さをみて私がフラッシュバック的に思い出したのは
死傷者を出した明石の歩道橋事故である。
他に数年前にメッカで信者が将棋倒しになり
何百人かの信者に死傷者がでたことがある。
大祭でも神殿に至る階段の混雑などをみて心配になった。
特に対策はしていないようだけど事故があってからでは
世論の袋だたきになるのは目に見えているし大丈夫なのだろうか。

ところで、今回の参拝のメインテーマは真柱の神殿講話から
彼が天理教の未来像に対してどのような青写真を描いているのか。
ということを考察することである。

まず謝らなくてはいけないことがある。
私は、前述したように中庭と言われる外にいた。
そして真柱の神殿講話のとき、不幸にも雨が強くなった。
知り合いと雨をしのげる場所を探して移動した。
加えて、お腹の調子も悪くなった。
ということで、なかなか真柱の講話に集中できなかったのである。
もし、真柱の講話について私の解釈に明確な事実誤認などがあれば
訂正し素直に謝罪したいと思う。

私が真柱の話を聞き終わり、一番最初に思ったのは真柱の今回の講話のテーマは
「原点回帰と社会的発展」ということである。
現在の教勢にいたるまでの中山家の受難、昭和20,30年代の教団の受難を受け入れて教団は
発展してきたということを今一度思い返して頑張ろうぜということ。
どのように頑張るのかというのは「天理教ほどの大教団は社会的責任もある」と彼が言った
ことから読み取れる。そういった意味では、彼が天理教人に対して
天理教と社会との橋渡しを担っていってくれよというメッセージとして聞こえる。

というようなことが、彼の講話の骨子であると思われる。
講話を聞いていた天理教人たちがどういった感想を持っているか
分からないが、私の解釈とあまり変わらないと思う。

私が驚いたことの一つに、彼が「天理教ほどの大教団は社会的責任がある」と言い切った
ことである。天理教のトップが自分の組織を「大教団」というレトリックを用いたことには
何かしらの意図があると感じざるを得ない。なぜなら帰属集団内において
「うちの教団は大きいよね」という先に、社会的責任を果たさなければならない
という命題が成り立たないからである。
大教団(大企業)は社会的責任を担っているということは
一方で、小教団(中小奇企業)は社会的責任を担わなくてもよいと暗黙のうちに
同意していることになる。この推論に倫理はない。

また、真柱が社会的責任を述べた文脈で彼が何度も繰り返した言葉がある。
それは「一派独立」という言葉である。
私は天理教初学者なので「イッパドクリツ??」と最初は意味が分からなかったが
教えてもらって合点した。一派独立は天理教教団の根幹である。
一派独立とは天理教が宗教教団として社会に認められた証明である。
彼が今回天理教の成り立ちを詳細に振り返り、大教団と社会的責任と
言わざるを得ないことを考えれば、彼が天理教に対しての将来像に対して
何かしらの不安を抱いてることはご賢察の通りである。

しかし、ここまでの私の考察を天理教人に話すと思いがけない言葉が返ってきた。
「そりゃ10月26日は天理教が始まった日だから、毎年同じ様な神殿講話だよ」という
ことであった。なるほど。毎年10月26日は原点回帰がテーマであるのだ。
真柱の神殿講話が「毎年と同じだったね」なのか「今年は社会的責任とか言ってて
いつもと違ったね」となるのか申し訳ないが私には判定できない。
だって彼の神殿講話を聞いたのは初めてだから。
もし後者であるのなら、真柱も何かしら現状打破的な見解を持っているのだろう。
「具体的ビジョンは何も聞かれなかった」とは言わない。
トップは船の目的地だけを示せばよいと思う。
講話を聞いた天理教人が「いやー天理教船の向かう先が見えたね!」と
思えれば、目的地までの航路はそれぞれ付けていくのだろう。
ちなみに私は真柱の講話から社会的責任を果たす
天理教教団が向かう目的地は見出せなかった。

今回の神殿講話では、天理教の一派独立について
「教団の粘り強い努力により、ようやく政府が認めた」という言い方がされた。
宗教学から得た私の知識では「天理教は一派独立のために、教祖が認めなかったこと
さえも妥協した(教義を曲げた)」と聞いている。
どっちが本当なのかは分からない。しかし、真柱から「天理教はいつも正解」的な
ことが聞かれるうちは、やはり天理教の成熟、組織の成熟はまだまだと思う。

自分の失敗や欠点を認めるては宗教教団として成り得ないと?
私はそうは思わない。
謝りや欠点を認めて説明することが社会的責任であると私は信じる。

さて、皆さんは神殿講話をどのように聞かれたのであろうか。

今週末は教会本部の大祭

前回の記事から長い間放置してしまって申し訳ない。

先週は今年一番の忙しさであった。毎月言ってる気がするが。
今週に入りやっと平穏な日々が戻ってきた。

ところで、今週末は教会本部の大祭である。
大祭とは毎月26日に行われる月次祭(ツキナミサイ)の特別バージョンである。
1月26日と10月26日がその特別バージョン月である。
特別バージョンの教義的意味合いは割愛する。

その大祭に私も知り合いの天理教人に誘われて参拝する。
「25日の前日から来れないか?」と言われたのだが、
それは丁寧にお断りして26日の日帰りで行く予定である。
26日の天理市内の渋滞はハンパないので近鉄特急で向かおう。

特別バージョンでは、天理教最高指導者の真柱がおつとめ後に神殿講話を行うようだ。
普段のお祭りの講話は幹部達である。

そういえば、私は真柱の肉声を聞いたことがない。と思う。
もちろん、書物や出版物、伝聞によって彼の思考を垣間見たことはある。
しかし私が目にしているトップの思想なども、よくよく考えれば先代や二代真柱の
ものが多い。現4代目真柱の思想は寡聞にして目にした事がない。
彼はどういった思考の持ち主なのか今から興味津々である。
彼がどういった発言をするかで、近未来の天理教像を推測できるであろう。

正確に教義を伝える方法はあるのか

前記事のコメントで一般人でも分かる教義解説書があればよいというコメントを
正ちゃんさんから頂きました。

この意見について、私見を述べたいと思います。

私は一般人が読んでも理解できるように理論的に示した教義解説書は必要ないと思います。
(なんだか正ちゃんさんにはいつも反対意見ばかり言っているようで恐縮です。)

もし教団が公式に認めた教義解説書なるものが出ると天理教人の役割を奪ってしまう恐れがあります。
また宗教、信仰という側面から、教義(教え)を活字で学ぶことは個人の教義解釈の自由度(妄想性)が
高まり、単一宗教を存続させるためにはハイリスクです。
もちろん、現存する原典やお偉い先生方が書かれる解説書を否定してはいません。
人からでは得られ難いものを書物で補う、書物はやはり補完的なものでしかないと思います。

本質的には信仰とは、人から人へと伝えるものだと思います。

天理教の現状を省みたときに既に教義の濫用や、教会長の質の低下は見受けられます。
しかし、だからと言って完璧な教義解説書を作ってしまうと教会長の存在意義がなくなります。
それとこれとは別次元の話ですよね。

また誰でも分かる完璧な教義解説書なんて作れないと思っていますが
もし誰でも分かる教義解説書をつくることが可能と仮定しましょう。
そのためには、かなり厳密に教義を規定しなくてはいけません。
その結果、教義は信者を導くものではなくなり信者を縛るものとなるでしょう。
前記事で言った、原理主義的意味合いが濃厚になります。

教義はやはり一定の幅を(意図的に)持たせるべきものだと思います。
「なんだかよく分からないけど凄いもの」という畏敬の念とゴールの見えなさが
神の尊敬と、天理教人への権威へと繋がるのだと思います。
また同じ教義に対しても、天理教人の振る舞いの違いにより
それを見た人は「私はこうしよう」と独自の信仰を築き上げて行くのだと思います。
特に天理教ではそういった「緩さ」が特徴であり、他の宗教では観察し難い
オリジナルな視点であると私は思います。

正ちゃんさんの話を聞いて、私が思い出したのは二代真柱の話です。
その昔、二代真柱は不安定な教義をなんとかしようと教義を研究し、まとめようとしました。
しかし、民間宗教として成長した天理教では、どれが教祖が言った本当の教えなのか、
民衆から伝説や噂として言い伝えられたものか判断できないものが多かったと
どこかの宗教学の研究者が書いていたのを読んだことがあります。
しかし、それでも二代真柱は苦労して天理教教祖伝を完成させたそうです。
結局判断できないまま、ごちゃまぜにして。二代真柱が「これは」と思うものを選んで。
これは批判すべきことではなく、「しょうがない」ことだと思います。

これは意外に天理教内で知られていないことだと思います。

二代真柱の教典編纂について、私が「うーん」思ったのは
「教祖伝逸話集」というのを作成したことだと思います。
これはどこの宗教でも似たような取り組みをしていますが、
教典発行のほぼ同時期に作成したことは、二代真柱が曖昧な教義を
実生活に落としやすいよう、手本となるようにという明確な意図が読めます。

しかし、当時はリアリティや新しさを持って読まれていたものが、
社会の発展と共に、また聞き飽きたものとして風化してきたのでしょう。
その結果、教典や逸話自体が人を説きふすためのストックフレーズや
自分の偏った教義解釈の保証として間違った使用をなされてきたのだと思います。
また、この教義の風化という現象は天理教に偶然とは思いません。
歴史的に見ると、教義解釈の是非を巡り信徒は世界中、今でも絶えず争いを起こしています。
たぶん、正ちゃんさんも、私も、教義解釈を巡る不安定さを憂うが故に
何かしらの指針が必要なのだと感じていると思います。

しかし、それを活字で済ませてしまうと信仰という本質からは余計に遠くなって
しまう、もしくわ対症療法的でしかないと思います。
またあまり厳密な解釈の道筋をつくることは天理教の特徴である「緩さ」や「寛容さ」
をも奪ってしまいかねません。
こういうことを言っては怒られそうですが、私が憂いているのは解釈の自由によって
「人が傷ついている」ということだけです。それが克服されれば、陽気暮らしに向かう
教義(宗教)であれば何でもいいと思っています。
「だからお前はどうしたいんだ?」と言われそうですね。
残念ながら、具体的、効果的なアイデアは思いつきません。
ただ、言えることは「人を傷つける恐れがある」ということを天理教人が
意識することです。
例え、真柱が神殿講話にて「天理教人は気づいていない所で
天理教の教えが人を苦しめている場合がある」と言ったところで
鈍感な天理教人の耳には届かないでしょう。

教義の見本は、やはり天理教人の振る舞い一つであることを時間をかけて
成熟させるしかないのです。
以前、私は本ブログにおいて教会長の質の低下にいて
「教団は何か取り組みをしないと大変なことになるよ」と言ったことがあります。
しかし、この点について最近私は楽観的立場に立っています。
なぜなら、社会は少子高齢化を迎え天理教の社会的教勢も衰退しています。
地方の教会を見れば、信者は高齢者ばかりである現状を見ても自明です。

批判を恐れず言うなら、今後20年でダメな教会は淘汰されていくでしょう。
そういった危機感を持っているかどうかで大きく異なります。
全国の教会の7割が事情教会であるということも教団は見過ごせなくなるでしょう。

右へ倣えで生きてきた大人達にはキツイ現実かもしれませんが、
信者数や教会数など天理教が巨大である必要はありません。
これは日本社会に対して私が思っていることと同じです。
「日本は強くなきゃいけない」「日本の子どもの学力は世界トップクラスでないといけない」
こういったことを言うことに何の意味も価値もないのです。

そういった気付きを促すことに、また天理教が持つ負の側面の一つとして
このブログを読んでいただけると幸いだと思ています。