4/22号のフライデーにて天理教が取り上げられているようだ。早速明日買いに行こう。http://www.bitway.ne.jp/kodansha/friday/scoopengine/
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天理教の視点
私の天理教に対する物言いは経験主義的なものが多い。それは統計やエビデンスでは証明できないものである。しかし、そのことで「お前の言ってることは汎用性がない」と一笑に付されていいとは思わない。少数の方であっても私の天理教論を支持してくれる方は存在する。私を指導した臨床社会学の教授は、「どんなときにも人を脅してはならない。ただ権力に虐げられている弱者を見た場合のみ弱者を解放するときだけ強者に脅しをかけていい」と諭した。さすが左翼の学生運動牽引世代だなと思った。また私の信念としてもどんなに卵が間違っていても、壁にぶつかるのであれば徹底して卵の側に立ちたいと思う。私の強者への抵抗は、立てこもりではなくペンで行う。この思想のもとに私は一部であっても天理教人の万能感によって苦しんでいる人の存在を見捨てることはできない。またそういったダークサイドを知らんぷりをする者たち、独りよがりの陽気ぐらしにすり替える者たちに警鐘をならしたい。幸いにも私は社会の立場から天理教を見ている。外側から天理教をみてみると、その自己愛的姿勢の奇奇怪怪さは目に余るものがある。「宗教団体なんて全部そういうもんだぜ」といわれれば立つ瀬がない。しかし私自身の問題として天理教人と接することが多く、今後の天理教人との接し方をきちんと考えていきたいとおもう。
なぜ私がこのような所信表明演説をしたかというと、ある読者から「お道の視点から」という天理教の著書を紹介され「感想を聞かせてほしい」と窺った。早速ネットで注文し昨日届いた。著書の帯にもあるように、この本は天理時報の社説にあたる天声人語ならぬ「視点」を収録したもので、社会的問題を扱っている。著者は天理教代表役員ということで、著書=天理教公式見解としていいだろう。今後この著書にツッコミを入れる(言及する)ことが多そうなので、まずは私の立場を明示した。
まだ読み始めて間もないため、感想は適宜アップしたい。今のところ、この著者のタイプとして社会学的な見方をする傾向が強い。社会学的見方とは事象の羅列をおこなうことが中心となる。「ああいうことがあった」とか「あれはこういうことだ」と現象を列挙するのが社会学の大きな仕事である。そのため社会学は哲学や医学から時に激烈な批判に晒される。「社会学者は何も問題を解決しない」と。この著者も同様に、問題の解決は提案しない。新聞やメディアから取り入れた知識を列挙しているだけ。私が一番腹立たしく感じたのは、伝聞情報をもとにした断定が多く、内省が少ないことである。「あの人はこう言っていたからこうだ」という文脈ばかりで、この著者の生きた声はない。天理教教義の一面的性質に照らし合わせて臓器移植に断固反対なのは分かるが、自分自身が当事者になった場合の困惑や戸惑いはない。このたびの震災での被災者と非被災者にあるような大きな壁をまず自覚してほしいと思うし、人間というナマモノを扱うのであれば自覚してなくてはならないと私は思う。天理教という一大宗教法人の代表役員だから思想はぶれてはいけないのだろうか。そうであるならば天理教は宗教法人をやめて株式会社になればいいと思う。宗教人だからこそ身体感受性を前面にだしてほしいと期待するのは見当違いだろうか。
今後この著書を読み進めて感想をアップしたい。
備忘
天理教災害救援ひのきしん隊の活動記録
http://keishin.way-nifty.com/jp/files/tenri_0404a.pdf
宗教界での支援:読売新聞記事
http://keishin.way-nifty.com/jp/files/yomiuri0331.pdf
門戸を開き続けることの意味
先週、私が所属する機関が県からの要請により今月末から被災地へ数名が支援に行くことになった。「動ける」と評価された私も候補に挙がったのだが、放射能の影響を心配した上司が「お前には将来がある」という理由で私は行かない。このとき、言葉では言い表せない眩暈を感じた。行けなかった悔しさではなく、「実際に被災地へ入る」ということが現実として「リアル」に体験されたからである。メディアから伝えられる震災情報はチェックしていたし、私なりに被災者の心情を慮って心を痛めていたつもりである。しかし実際に震災を体験する状況に置かれ、被災者に接することの恐怖、どこか震災という事実を避けている自分への腹立ちを突きつけられ眩暈がしたのである。被災者と自分の間にある隔たりに強く困惑した。
前前回の記事で、3000人の被災者受け入れを表明した天理教の姿勢を評価した。同時に、被災者受け入れが進まなくても、その有意性を私なりに説明した。先週の天理時報において、天理教では現在被災者を50名ほどを受け入れているようだ。
阪神大震災の際に心のケアに対しての重要性が叫ばれた。トラウマやPTSDや臨床心理士という存在は、阪神大震災を契機に市民権を獲得した。兵庫県の精神医療は、その後も災害の心のケアに力を入れ、今回の東北地震の心のケアにも、16年前の経験が大きく生かされている。その16年前の心のケアの中心氏人物が天理市生まれの(天理教ではないと思う)中井久夫という精神科医である。その中井久夫が震災の支援で重要視したことは「存在すること」であるという。何か特別なことをしたり、苦労や悲しみを言語化させることではなく、「ただ存在すること」が被災者にも、支援者にも一番の安心感になるという。帰る場所があることが大きな安心感になる。震災で家を失った人には帰る場所がない。しかし帰ってもいい場所があるというのは大きな励みになるだろう。人類の故郷である天理に行けば、いつでも「おかえり」と声をかけてもらえる。このこそばゆい言葉に慣れるのには時間がかかるが、この言葉を投げかけられると恥ずかしながらも口元が緩む体験をしている人は多いのではないかと思う。
全国に展開する天理教の中にも被災した方は多くいるのだと思う。教会も無くなり、家族・信者も亡くした方がいるのかもしれない。まずその方たちにとって「天理があるから何とかなるだろう」という最終的な安心感が門戸を開き続けるcopresenceの意味だと思う。
参考
http://www.osaka-u.ac.jp/ja/guide/president/ja/guide/president/files/h23_shikiji.pdf
真柱、被災地へいく。
今月の19日から天理教のトップである真柱が被災者を励ましに被災地に入るとのこと。
震災直後に菅総理が「存在意義」を示すために被災地に入った。総理を迎えるために多くの現地の人員が駆り出された。そういった安易なパフォーマンスに総理は袋叩きにあった。
真柱が慰問することで、多くの人員がお迎えしなければならないだろう。また天理教の信者が、そのことに疑義を唱えることはできないだろう。真柱の慰問はかなり慎重に行わないと危険なことになる。
私は福島県以外でもまだ被災地が不安定な状況だと思うため、4月中の慰問は時期尚早であり反対だ。そもそも社会はまだまだ戦いの最中である。自主的に節電し、施設を開放し、周囲からの避難要請も被災者に失礼とお断りになった皇室の対応を見習ってほしい。それでも行くのであれば、大きな手土産が必要だと思う。となると、やっぱりお金しかないけど•••
iPhoneからの投稿
なかなかすすまない被災者受け入れ
天理教の被災者受け入れについて続々と各教会単位で受け入れを発表していると聞いた。私はこういった開放的受容性こそが宗教の本質であり、閉鎖的な宗教団体が多い中で天理教の対応を非常に歓迎している。天理教信者に関わらず、多くの被災者がこの制度を利用して復興への足がかりを掴んで頂きたいと思う。一方で、以前話をしたように「そんなに受け入れは進まないだろう」という予測もしている。実際に、「受け入れを発表してもそんなに来てくれない」という話もメディアを通して聞く。というのは、よく分からない宗教への抵抗、愛着ある地元を離れる抵抗、遠方に行くと復興に乗り遅れるという抵抗など被災者が乗り越えなければいけない心的ハードルはいくつもあるからである。しかし私はそれでいいと思う。いつでも門戸を開けておくことが何よりの励みと勇気になると思う。誰も来なくてもあそこにいけば受け入れてくれるという安心感や信頼感こそが、宗教や人間の拠り所となるのではなかろうか。誰も来ないからといって残念がる必要もなく、門戸を閉ざす必要もない。開き続けていることで助かる人はきっといると思う。天理教の本拠地は関西である。関西は東北の方にとっては文化も違う遠方である。だから、人はなかなか来ないだろう。だからこそ、意味があるのだと思う。
天理教災害救援ひのきしん隊の新聞記事
奈良新聞では、天理教災害救援ひのきしん隊の活動が紹介されていましたがhttp://www.nara-np.co.jp/20110325100627.html、その他の新聞で扱われているのを見たことはない(主にWEB版だけど)。そん中、CNNのブログにて大学の准教授が「災害での新興宗教の大きな役割」と題して、天理教の説明と災害救援ひのきしん隊の紹介をしている。天理教だけじゃなくて他の宗教も紹介している。雰囲気として簡単な説明で中立的だと思うけど、私はまだ全部読んでいない。また読んだら感想を載せます。
http://religion.blogs.cnn.com/2011/03/22/my-take-japanese-new-religions-big-role-in-disaster-response/?iref=allsearch
天理教本部で祈る。
ちょうど私が天理教本部の神殿に到着したときには、祭典は終わっており神殿講話の直前であった。私は神殿で囲まれた、「中庭」というところの仮設参拝場に着席した(写真参考)。神殿講和では、もちろん震災の話から始まったのだが、その後は全然聞けなかった。というのは、天気はよかったが非常に寒かった。また神殿には非常に若者が多く、私は話よりもそっちに注意がいってしまった。どうやら明日から天理教を信仰する学生の大きなイベントがあるということで、多くの学生が天理に集まっているようだ。その学生のイベントも震災の影響でダウンサイズを余儀なくされたようだ。私は震災の影響で全てのことに自粛ムードが流れることを是としない。というのは、早い復興のためにも“日常”を維持することが大切だからである。しかし“お祭り”のようなことは被災者心情を考慮して自粛せざるを得ない場合もある。天理教は全国区であるため、その判断は非常に難しいと思う。
ともあれ私は天理教本部での祭典で、多くの人が一心に震災の復興を祈る姿勢には心を震わされた。祈りというのは、何の実益も生じない。しかし一番大切なことだと思う。キリスト教牧師のWIlliam Barclayは、「祈りとは、神に願いを押し付けて神が人間に代わって助けるのではなく、人間が行えるように神が手助けしてくれることである」と記述した。キリスト教では、祈りとは「神との対話」と定義される。神との対話を通して、人間が人間を助けるということが祈りの本質であると。実際の祈りというのは神を媒介として助けられるべき人間や助かってほしい人間を想像し、その救済を願う。このイマジネーションが祈りであり、距離や時空を越えた人間関係なのかもしれない。神という実体のないものが、人間同士を繋いでくれているのかもしれない。新約聖書学者の田川健三は「存在しない神に祈る」ことを信仰の本質にあげている。これほど自然科学が進歩しても、神の存在を科学的になんて証明できない。しかし田川は、科学に証明を求める姿勢を批判する。むしろ神というものを証明できないから神というテーゼが成り立つ。神の存在を証明できないから神が存在するというトートロジーを容認しつつも「少なくともその方が謙虚」という。科学至上主義で、神の存在を否定することは自然科学では間違ったことではない。しかしその科学で証明できるという万能感にあふれた姿勢こそが、傲慢である。我々人間世界には科学で証明できないことが多く存在する。例えば、愛とか信頼とか人間関係とか。それを押し付けることもよくないが、そういったものによって心を振るわせる体験が我々人間には必ずある。「そんなものは目に見えぬから存在しない」という言葉は、同時に自己の存在を危機的なものにする。なぜなら、我々の存在こそが両親の愛とか信頼とか人間関係とうい面倒なものの結果であるのだ。その不確定で曖昧な神の存在を信頼することが、人間を信じることの根本に流布している。100%分かりあえる人間関係なんて有り得ない。だから我々は言葉を交換し、相手の温度を感じることを必要とするのだと思う。無宗教や、無神論ということを平気で口走る日本人。しかし震災以降、多くの人が黙祷を捧げ、復興を祈っている。この信仰心溢れる宗教的行為は、人間の根底に流れているもので、とっても大切なことだと思う。私も天理教の神様に復興を全力でお願いした。
被災者が信者であるか、非信者であるか
天理教本部が、被災者受け入れを正式に開始しました。ホームページから概要を引用します。
東北関東大震災被災者受け入れについて。天理教教会本部は奈良県・天理市と連携し、天理市内の天理教関係施設において食事付にて受け入れを致します。問い合わせ窓口は下記となっています。
1 受け入れ規模・3000人(小中学生は天理市立学校への就学も可)
・天理教信者以外の方も受け入れ致します。
2 受け入れ施設(罹災証明書が必要となります)・奈良県天理市内の天理教関係施設
3 受け入れ期間・平成23年9月末日まで
4 受け入れに係わる諸費用について・宿泊費平成23年9月末日までは無料(それ以降は、ご相談下さい)・食費平成23年9月末日までは無料(それ以降は、ご相談下さい)
市立学校への就学も可能ということで行政としっかり連携がとれている印象がある。罹災証明書(そんなものがあるのか!)が必要ということで、行政支援と遜色のない、また非常に安心感のある対応だと思う。3000人という枠は現在の避難者数からは決して多くはないが、多くの人がこの制度を利用して安心できる生活のためにまずはホッとしていただきたい。気になったこととしては、「天理教信者以外の方も受け入れいたします」という文言である。書いた人は信者以外の人にも宗教団体でも問題ないよという安心感を与えるために、こうした書き方をしているのだろう。天理教側にいる人には何の違和感もない表現だと思うが、天理教の外側にいる人にとってみると「天理教信者以外の方」という明確な線引きをすることに抵抗はないだろうか。なんだろ、どこか天理教信者を中心としたもので、天理教信者以外を突っぱねているような感じがするのは私だけだろうか。むしろ、天理教本部としては「誰でもいいから来てねー」というスタンスではなく、東北の天理教信者の受け入れを中心に考えているということだろうか。私の考えすぎだろうか。
26日にある行事に誘われましたので天理市に行ってきます。
支援はあるものの中から行うべきである
昨日ある天理教人より、京都にある大きな教会の今後の被災者への支援について伺った。22日のその大教会での月次祭において発表があったようだ。その中で、今後京都の大教会で1000人、天理市の信者詰所で500人を受け入れ、そして半年で1億円をその教会ファミリー全体で被災者支援を賄うということだ。この規模の大きさには非常に驚いたが、信者の反応はどうだったのか。それは非常にシニカルな受け止め方が大勢だったようだ。「どうせその負担は末端信者に来るんだろ」という意味の冷笑なのだが、事態は想像よりも深刻であるようだ。というのは、この大教会では天理市にある信者用詰所が建替え中(普請中)のようなのだ。その費用は数十億円規模のようだ(正確な数字を忘れてしまった。また聞いておきます)。震災の支援金以前の問題として、この教会ファミリーでは震災以前に数十億の負債を背負っているのだ。このことに関しては、実は私も以前から承知していた。いつかウラがとれれば公表したいと思っていた。というのは、この数十億円の建設費は、全く返済の見通しがたっておらず、返済能力以上の借金であることは明白であり、企業であれば背任罪も抵触するのではないかという疑いがあるからだ。こういった事実に対して、実際にお金を払わされる信者の倦怠感は相当なもののようだ。そこには「払いたくなかったら払わなくていい。信仰の自由があるのだから」というフレーズは通用しない。信者によるお供えの金額は、そのまま信仰の成熟度や貢献度という度量衡に変換される。つまり、金額によって教会上層部(人間)にとって「いい信者」と「悪い信者」に区分される。「悪い信者」という下層に低位されてしまうことは、この京都のファミリー教会では信仰的な死を意味する。一度上層部に睨まれようものなら、教会はあらゆる面について冷遇させられるというのだ。常識的に考えるならば「そんな天理教なんて止めちゃえよ」ということになるが、地域や家庭、個人の人生、人格に深くコミットされた状態では安易に止めることもできない。数十億の建設費を巡っても、毎月のお供えに加えて、建設費専用のお供え封筒がまわってくるようだ。用途を指定したお供えなんて聞いたことがない。これじゃあ、お供えという名の取り立てである。おかしな話だ。
これに加えて、今回の1億円の支援である。1億円というキリのいい金額についても、世間的な評価が垣間見える。1億円という金額は分かりやすくインパクトがある。しかし何を根拠としているのか不明である。この教会の上層部で「これだけやらせてもらいましょう!」という、何の根拠もない精神論が先行したことは想像に難くない。なぜ1億円なのか、どのように使うのか。より根本的に、そもそも今できることを行うのが支援であり、能力以上のことを設定し、他者に強制することは支援なのかという疑問も生まれる。支援は、集められた真心の義援金の中で行うべきであり、見栄をはるために支援を行うべきではない。
この教会の大教会長は神のようであるという皮肉めいた噂はよく聞かれる。今回の話を聞いたときに、私は日本軍が第二次世界大戦に突入した「空気」を思い出す(山本七平)。天皇の名のもとに、正義を振りかざし「私達がやらねば」という責任、虚栄、見栄、高慢心という空気の中で戦争に突入したのである。結局、一番大変なとばっちりを受けたのは庶民であったことは言うまでもない。
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