お久しぶりでございます。さきほど過去のブログを見返してみると前回のブログが2月。あれ?3月は一度もアップしていなかったのか。「まー年度末は忙しいですわな」という言い訳をしてしまったために、ブログアップのモチベーションが向上しなかった。まー年度末は本当に忙しかったのだけれどもね。その忙しい年度末も旅行みたいに色々と各地に行ってきた。「忙しいんじゃねーのかよ!」と反問されそうだが、プライベートも含めて忙しいということで。話は変わるが、私は旅行や出張などで各地方に行くと必ず天理教の教会を見つけてしまう。もちろん本ブログを立ち上げるくらいだから、私の意識には常に天理教という小骨が刺さっている。小骨が刺さっていなければ、天理教の教会を見つけてもスルーしてしまうのだろうけど。この間も車に乗せてもらっていたら偶然西鎮分教会というばかでかい教会を発見した。そういう話を知り合いの精神科医の先生にすると、専門家というのは常に関心ある領域と事象を結びつけて考える。その結果、理解が深まるのだけど、その思考の断定性に無自覚でいることの弊害を忘れてはいけないという洞見を与えていただいた。その理路を天理教人に転用するならば、メディアを通して得られる情報を天理教人はすべて天理教的文脈で理解する。例えば事件、事故があったときには「これは神様からのメッセージだ」「旬だ」「たすけにゃならん」や「今こそつとめと、さずけだ!」とかね。しかし大切なことは、そういった専門家特有(天理教人は天理教の専門家として)のバイアスから抜け出して考えることは100%不可能というアポリアを自覚することなのだ。「いやいや私の言ってることは間違いかもね」という不確実性こそが、他者の信頼を得る可能性を持っているのではなかろうか。「おれはこうだ!神様はこうだ!」という党派的な人は、それが正しいか正しくないかという水準はとりあえず括弧に入れて、ただ人としてシンドイと思う。私はそういった方と言葉を交わすのはシンドイと思う。よく教育の分野で勘違いをする方が多いが、考えを発展・展開するためには必ずしも批判が必要ではない。批判があってこそ進歩するというのは間違いではないのだけれど、批判だけでは進歩しない。そういう方に限って「学習への動機付けが大切」と平然と言われるのだが、そこに矛盾を孕んでいることに無自覚的である。私は、そして多くの人間は褒められて、支持されて動機付けは駆動する。批判されて「なにおーよし頑張るぞ」と思われる方は、すでに動機付けが駆動しているので動機付ける必要はない。「いやー君の書いた論文はすばらしいね!」と言われれば「えへへ。次も頑張ります」と私はなるのだ。他者に受容して認めることでしか動機付けは駆動できないのに、発展するためには批判しかないという矛盾は無自覚的で都合よすぎではないだろうか。そういうことだと思う。
自分の無能力性に自覚的であること、それが天理教的「慎み」ではないでしょうかね。
またこの年になると、自分と意見を異にする人と一緒に仕事をするエネルギーがなくなる。同じような考えの人と「ほーそうなりますわな」と低刺激でもずっと軒先に座り続ける方が楽ちんなのである。かといって知的創造性や、思考の展開力が落ちたとはあまり思わない(たまに思うけど)。むしろ発信欲求は大きくなるばかりである。
ただ旅行や出張先で偶然天理教の教会を見つけたときというのは、何か隠し事や悪いことが見つかったときのようにギクリとしてしまう。あれは何なのだろうか。
追伸
移動中の機内で読んだ週刊新潮に宗教学者の島田裕己の「葬式は、要らない」の書評が載っていた。近々購読して感想をアップします。