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私の慎み論

お久しぶりでございます。さきほど過去のブログを見返してみると前回のブログが2月。あれ?3月は一度もアップしていなかったのか。「まー年度末は忙しいですわな」という言い訳をしてしまったために、ブログアップのモチベーションが向上しなかった。まー年度末は本当に忙しかったのだけれどもね。その忙しい年度末も旅行みたいに色々と各地に行ってきた。「忙しいんじゃねーのかよ!」と反問されそうだが、プライベートも含めて忙しいということで。話は変わるが、私は旅行や出張などで各地方に行くと必ず天理教の教会を見つけてしまう。もちろん本ブログを立ち上げるくらいだから、私の意識には常に天理教という小骨が刺さっている。小骨が刺さっていなければ、天理教の教会を見つけてもスルーしてしまうのだろうけど。この間も車に乗せてもらっていたら偶然西鎮分教会というばかでかい教会を発見した。そういう話を知り合いの精神科医の先生にすると、専門家というのは常に関心ある領域と事象を結びつけて考える。その結果、理解が深まるのだけど、その思考の断定性に無自覚でいることの弊害を忘れてはいけないという洞見を与えていただいた。その理路を天理教人に転用するならば、メディアを通して得られる情報を天理教人はすべて天理教的文脈で理解する。例えば事件、事故があったときには「これは神様からのメッセージだ」「旬だ」「たすけにゃならん」や「今こそつとめと、さずけだ!」とかね。しかし大切なことは、そういった専門家特有(天理教人は天理教の専門家として)のバイアスから抜け出して考えることは100%不可能というアポリアを自覚することなのだ。「いやいや私の言ってることは間違いかもね」という不確実性こそが、他者の信頼を得る可能性を持っているのではなかろうか。「おれはこうだ!神様はこうだ!」という党派的な人は、それが正しいか正しくないかという水準はとりあえず括弧に入れて、ただ人としてシンドイと思う。私はそういった方と言葉を交わすのはシンドイと思う。よく教育の分野で勘違いをする方が多いが、考えを発展・展開するためには必ずしも批判が必要ではない。批判があってこそ進歩するというのは間違いではないのだけれど、批判だけでは進歩しない。そういう方に限って「学習への動機付けが大切」と平然と言われるのだが、そこに矛盾を孕んでいることに無自覚的である。私は、そして多くの人間は褒められて、支持されて動機付けは駆動する。批判されて「なにおーよし頑張るぞ」と思われる方は、すでに動機付けが駆動しているので動機付ける必要はない。「いやー君の書いた論文はすばらしいね!」と言われれば「えへへ。次も頑張ります」と私はなるのだ。他者に受容して認めることでしか動機付けは駆動できないのに、発展するためには批判しかないという矛盾は無自覚的で都合よすぎではないだろうか。そういうことだと思う。

自分の無能力性に自覚的であること、それが天理教的「慎み」ではないでしょうかね。

またこの年になると、自分と意見を異にする人と一緒に仕事をするエネルギーがなくなる。同じような考えの人と「ほーそうなりますわな」と低刺激でもずっと軒先に座り続ける方が楽ちんなのである。かといって知的創造性や、思考の展開力が落ちたとはあまり思わない(たまに思うけど)。むしろ発信欲求は大きくなるばかりである。

ただ旅行や出張先で偶然天理教の教会を見つけたときというのは、何か隠し事や悪いことが見つかったときのようにギクリとしてしまう。あれは何なのだろうか。

追伸
移動中の機内で読んだ週刊新潮に宗教学者の島田裕己の「葬式は、要らない」の書評が載っていた。近々購読して感想をアップします。

人間思案


 天理教人がよく使う天理教的用語の中に「人間思案」というのがある。見て字の如く人間の考えという語義なのであろう。その使用方法は「神の思考」という前提が問われる場合にしか登場しない。人間の思考、行動が神のご意志を考慮せず、(愚かな)自分の考えに基づいて思考、行動する場合に初めて人間思案という機制が発動する。この点で注意することは、この用語は(多くの天理教的用語がそうであるように)自己の精神的鍛錬を行う場合の内省的思索としての場合のみしか使用できない。なぜならば「神の思考」そのものを我々人間は得ることができないからだ。絶対的に獲得できない神の視点から人間が世界を見渡すことはできないのである。神が見ている景色を人間は見ることはできないのである。(「神が見ている」という時点ですでに形而上学的にはおかしいのだろうけど)人間はどこまで行っても人間思案でしかない。絶対理解できない神の思考を理解しようとする志向性が骨子なのである。しかし天理教人をみると「絶対理解できない神」ではなく、「私は神の思考を知っている」というスタンスの人がほとんどである。
 畢竟、人間が「人間思案」という語を発話した刹那、話者は人間思案の呪縛に意図せず陥っているのである。どっぷりと。人間思案は神の思考があって初めて成り立つ。しかし人間は神の思考を理解することはできないというジレンマを抱える。「人間思案」と言っている天理教人も薄々感じているのではないかと思う。自分が嘘くさいということを。どうだろうか。
もう一方で私は「人間思案=悪い考え」という雰囲気が漂うことも非常に不愉快である。人間が考えるという行為に善悪はない。メタレベルの話であるし、人間が人間である以上、人間の思考からは脱することはできないのである。そういった雰囲気は天理時報でも散見されるように自虐である。多くの天理教人と話せば、「いかに現代社会がダメなのか」という話しか聞かれない。だから天理教がメシアとして必要なんだと。それらは天理教人に限らずに政治や経済でも同じなんだけど、こういった方々は「悪いことが起こったときこそ存在意義を求める」からやっかいなのである。「ほら、いわんこっちゃない。私の言ってた通りになっただろう」とね。そこには責任性も社会を良くしようという姿勢もない。無意識的にダメな結果を求めていくしか自己の存在意義を語れないのは陽気暮らしと背馳する。私が主張する天理教と社会の架橋は、こういった自己洗浄を出発点としないとプラクティカルな陽気暮らしにはならない。いい加減、社会のせいにするのを止めにしませんか。私たちこそダメな現代社会を構築してきた共犯なのですよ。

家族という幻想

近頃、天理時報を流し読みしていて思うのは天理教的キーワードが「家族」ということ。2月14日の4167号の天理時報では「家族特集」組まれている。そのキーワードは春季大祭での真柱の神殿講話が発端のようだ。その中で真柱は「『家族の絆さえ危うい今日、ようぼくの果たすべき役割は誠に大きい』と話された」とある。その話を元に「布教部長」「海外部長」「道友社長」「強化育成部長」(すごい名前だ)の4者による「今後の取り組みと方向性」として書かれている。「家族」について書いているのは海外部長を除く3者である。何が書いてあるのかは読んでいただきたい。道友社長と強化育成部長は「家族団欒」と書いているが、大祭での真柱は「家族団欒」のことを言っていたのだろうか。それとも「家族」なのだろうか私には確認できない。「家族」と「家族団欒」とでは意味するところが全くちがうので注意が必要だ。
私は真柱の話は基本的に批判しない。なぜなら批判できないからである。抽象的であり、「まぁそうだわな」としか言えないものである。そして組織のトップというのはそういった漠然としたものでいいと思う。大切なのは方向性である。トップが方向性を示し、専門家である実行部隊が具体的に行動に移すのである。規模が大きい組織であればあるほど、その色彩は強くなるだろう。分かりやすくいうと、一国の大統領や首相は大風呂敷を広げ「国の方向性」を言えばいい(夢みていい)。現実可能か不可能かの”ある程度”の現実検討能力は必要だが、いちいちと小さいことを考えるべきではない。なぜなら考えられないからである。現在の民主党政権ではそういった”古いタイプ”の政治家がいない。ただの専門家集団である。それはそれで時代の流れでいいのだろうが、どこか寂しく、また長期日本というビジョンは乏しい。葉巻を銜えて怒鳴り散らす為政者が懐かしいのは私だけだろうか。ただ民主党が専門家集団といっても、自民党とそんなに大きな違いはいだろうと私は見ている。政治の話になると意見する人が多いので、この辺にしておくが、やはりトップと実行部隊の役割は違う。それを考えて本号の天理時報をみると実行部隊の各責任者でさえも具体性に欠ける。その典型が「家族」を定義づけている人間が誰もいないことだろう。そもそも天理教の家族観、天理教から見た現代の家族像というものがどういうものかが4者ではバラバラなのが私は気になる。「家族とは何か」に言及する人間はいないが、それでもそれぞれの家族観に共通の雰囲気が感じられる。それは「古き良き日本の姿をもう一度」という雰囲気である。意識的か無意識的か、その誤読が真柱が言ったであろう「家族の絆」がいつの間にか「家族団欒」という文字に変換されたのではないか(真柱は家族団欒という言葉を使ったかもしれないけど。使っていたらごめんなさい)。また布教部長の家族像は非常に悲観的である。以下、引用する「真柱様が折りにふれてお話してくださるように、いま夫婦・親子の絆の弱まり、家庭の崩壊は切実な状況になりつつある。夫婦の問題では離婚、その原因となるDV、依存症、多重債務など。子どもの問題では不登校、ひきこもり、非行、虐待などが挙げられる。また、うつ病や自殺の問題は一層深刻な様相を呈している。こうした問題を抱える家族にたすけの手を差し伸べ、家庭の再構築を促すべく、私たちようぼくが・・・・」これを読んでみなさんはどう思うだろうか。私は今の日本が「とんでもないダメな国」に思えて仕方が無い。またこうした問題のある家庭は非常に「ダメ」な家庭なんだとレッテルを貼られているように思う。と同時に、天理教を信仰する家庭はこうした問題が全くない家庭ばかりなんだと皮肉まじりに思う。確かに女性や子どもの権利が向上した結果、家庭が抱える問題も彼らが経験した昔とは比べ物にならないくらい複雑になっているだろう。しかし不登校の子どもや離婚を経験したからといって「夫婦・親子の絆の弱まり、家庭の崩壊は切実な状況」と言うのはどうかと思う。私は子どもが不登校のシングルマザーを目の前にして「あなたの家庭は崩壊したのですね」なんてとても言えない。こうした混乱はそもそも「現代の家庭像」を天理教が構築していないために起こるのである。またそういった問題の解決方法についても指摘している当の布教部長でさえ「家庭の再構築を促すべく、私たちようぼくが真剣に取り組む・・・」という。布教部長の答えが真剣に取り組む?今は真剣じゃないの?真剣に何を取り組むの?と思わずツッコミを入れたくなるような回答である。そういった具体的事象に対しても結局は「家族のおたすけは、お道の教義の根幹に基づくおたすけである」と教義にすり替えられている。その話は真柱で十分である。
 また先ほど指摘した「古き良き日本の姿をもう一度」という雰囲気では、現代が「絆の弱まり」としているために、逆説として「昔は絆が強かった」となる。果たしてそうだろうか。私は分からない。一昔前の日本では経済的困窮や地域コミュニティーの関係性があり、家を出たくても出られない者や地域の目があり個性や個人の欲求は集団に埋没するしか生きる道はなかっただけではないのだろうか。確かに昭和までは家族の形態として世代家族が家族の主流単位であったはずである。しかし私たちが望んだように、核家族化は進み、通信技術も進み人と顔を合わせることが少なくなった。その私たちが望んで獲得した生活上で、オールウェイズ三丁目の夕日を目指すことはナンセンスではないか。布教部長も「家庭の再構築」といっているが、布教部長の言っていることは再構築ではなく、再現ではないだろうか。再構築するのであれば、一体古い家族観を解体する必要がある。そこを言及してほしいものだ。「家族」とは何かー天理教的家族論ーってね。ポストモダンに突入するが故(いやずっと前に突入してるんだけど)、新しい家族観を構築する必要があるのではないか。そうじゃないと天理教が望むように日本はダメな人たちばかりになり、社会と天理教との距離は増大するばかりであろう。夫婦や家庭の問題があることが問題ではなく、それらを問題とする認識に問題があるのではないだろうか。離婚、DV、依存症、多重債務、不登校、ひきこもり、虐待、非行、うつ病、自殺こうした問題を経験したからといって他人に問題にされたくはない。不登校の子どもがいることで夫婦・親子の絆が弱まっているなんて言われたくないぜ!それでも家族で楽しく生活してんだ!「いんねん?徳がない?」あなたたちの言葉はあまりに軽過ぎる。天理教人よ、あ
なたちの言うことは理想過ぎて眩し過ぎる。ほっといてくれ。
おっと感情的になって申し訳ない。

鍛えるとは何か


またまた天理時報ネタです。2/7の第4166号の天理時報の3ページの「視点」について論じたい。「視点」という記事は天理教上層部の著者による「天理教的社会の見方」になるだろう。天理教的天声人語である。著者名は明らかにされていない。今号では「子ども時代から心身を鍛えたい」というテーマで論じられている。簡単に説明すると児童・生徒の学力、体力測定の低下を憂い、荒道を切り開く天理教人になるためには心身を鍛えなくてはいけないという、自分たちのことは「棚上げ」的な展開であった。何度か書いていると思うが、私はこういった問題には「まー問題ないでしょう」というスタンスを貫いている。その論拠として、①統計的な一部分の年代で、心身の低下といっても、それは一部分でしかない。よく青少年の凶悪犯罪で言われることだが、多くのオトナたちが青少年の凶悪犯罪が近年上昇していると思っているようだ。それはマスメディアが煽動するまったくの誤解である。確かに、統計的には過去20年という期間をx軸にしてy軸を凶悪犯罪事案件数を100件単位でグラフ化して見ると確かに上昇している。そのことを根拠にマスメディアや専門家がでてきては「最近の子はキレやすい」だの「凶悪化は統計的に裏付けされていると言われる。しかし、そのx軸を過去50年に広げると状況はいっぺんする。凶悪犯罪と言われる殺人、放火、強盗、強姦においても現代の方がはるかに少ない。平成に入り、青少年の凶悪犯罪の検挙数は平均2000人/年に対して昭和35年の検挙数は8000人を超えるのである(犯罪白書)。検挙数=キレやすい世代、という理路を採用するのであれば、現代で一番キレやすいのは50代から60代なのである。そういった意味で一番危険なのは私たちオトナなのである。そのことをまずは覚えておきたいものである。つまり統計という絶対視されるものも研究者の意図で容易に意味が変わるのである。同じように体力について考えると我々の子ども時代の方が体力も学力もはるかに低いのではなかろうか。一見、昔の方が体力はあった子が多いと思うが、その体力も怪しいものである。単に野山を駈ける機会が多かったという原風景だけで体力は高かったとは思っていないだろうか。現代の子どもはそういう機会は少ないにしても、かなり効率的に学校やクラブで習得しているのではないか。それは学力も同じである。それに加え昭和の時代に全国規模の体力、学力を普遍的に調査したものはないというのも子どもからしたらズルイものである。②一つ目の統計情報の使用が正しくとも、体力、学力の低下は間違ったことではない。なぜならば体力、学力の低下は我々が望んだことであるからである。こういうことを言うと口角泡を飛ばして「そんなことを望んだことはない!」と言われる方がいる。皮肉になるが、そういう方はきっと車も乗らず、携帯電話も使用せず、電卓やPCも使用せずに自分の足で移動し伝達し、頭だけで考えているのだろう。自明のことだが、文明の発達は我々が望んだことである。便利な世の中を望んだ結果、必要以上に歩かなくてよくなり、考えなくてよくなったのである。その結果、学力、体力の低下というのは必然であり、私たちが望んだことなのである。そして私はそれが悪いと言っているわけではない。それは当たり前の話だということなのである。むしろ現代の子どもに心身の強化を望むことこそ酷な話ではないか。小学校から英会話やパソコンを習い、帰ってからもオケイコに励む子に、これ以上を望むのはタチが悪い。なぜなら子どもにそういった適応を強いている張本人が我々オトナなのだから。そのことを棚上げにして子どもに要求するのは、教育ママと同じである。いつか子どもは潰れるだろう。そのことを天理教上層部の指導的立場の著者がどれほど理解しているかは疑問である。こういった市井のおっちゃんおばちゃん著者こそ、マスメディアに翻弄されていることに気づいてほしい。信仰があるからこそ世相に流されず普遍的な世界観を構築してほしいものだ。③は②と被るのだが、発達論的にも体力の低下は悪いことという認識を示さない。むしろ体力の低下は進化である。進化論で有名なチャールズ・ダーウィンは著書「The Origin of Species」では進化を表すProgressiveやevolutionという語を進化論として使用していない。使用されているのはmodificationという語である。これはどういう意味なのかというと進化というのは成熟したという意味ではない。進化というのは絶えず環境に適応していくという現在進行形であり動態を示すものなのである。つまりダーウィンに言わせれば、体力の低下でさえも環境に適応していくというmodificationにすぎないということであり、それさえも進化であるということなのである。そう考えると刻々と過ぎる時間とともに、我々は進化しかできないのである。後退などありえない。現在の身体的機能が減少しようとも、それは今後の発展には不可欠かもしれない。今後人類の体力は低下を続け、足の筋力がなくなってきても、その結果背中から羽が生えてくることがあるかもしれない。そうしたときに足が無い方が便利という世の中が来るかもしれない。来ないかもしれないが誰にも分からない。現に尻尾はそうなったのである。
以上のことから私は体力や学力の低下には「心配なし」のスタンスである。学力の低下についてはまだ言いたいことがあるのだが今回は割愛する。天理教という普遍的な教えを信ずる者こそ、一時の世間的風潮に流れてしまうことを非常に残念に思う。私が「視点」を執筆したいくらいだ。

私の話は難しい3


初めて「3」というシリーズ編となってしまった。1、2は前編、中編にして3で完結編としたい。1、2を読んでいただければお分かりだろうが、カイチョウさんと「物別れ」したのは、これから書くことが核心である。2では、カイチョウさんの天理教的説明に私が理解できないということであったが、そんなことで私は人間関係に限界を感じない。本当の物別れはここから佳境に入る。

 まったく私がカイチョウさんの話に理解をしめさないでいると、ついにカイチョウさんは「キミは本当に難しい話をするな」と言いだすのである。私としてはむしろ非常にシンプルに話をまとめたいのだが、根源的すぎるのだろうか、カイチョウさんには今迄天理教内では何の問題もなく通用していた語用が通じなくなり余計に混乱するようである。私からしてみればカイチョウさんの方が「わかったふうなこと」ばっかりなのである。しかしそういったレトリックは私にはもう慣れっこである。理解を求めるということが無茶なことであり、天理教人とはそういうものなのかなという私側の成熟も期待されたので、そこはおとなしく話を聞くことにしたのである。オトナであれば自分と意見が違う人、苦手な人であっても一応の礼節と応接をもつものだろうと思うから。しかし今回はこれが間違いであった。黙って話を聞いていると話はトンデモナイ方向へといったのである。私がぐっと堪えることで調子が乗ったカイチョウさんの話は、ついに私が「助かるか」「助からないか」かという話に発展したのである。お供えの依頼から、ついには私の人生について論じられたのだ。これにはまいった、である。私が「助からない」というのは、つまり私の家族が助からないということになる。私が原因で私の家族が助からないのであれば、それは世代間さえも遺伝していくという壮大な不幸な道(いんねん)を予見(占い)されたのである。これにはさすがに温厚な私もイライラとしたのである。確かに私はカイチョウさんの矜持を多少は傷つけたかもしれない。また今まで通じていたレトリックが通じないことでフラストレーションを溜めたかもしれない。私も大人げなかったと反省もする。しかしこれはあまりにもヒドイのではないかと思う。私にとってはお供えは依頼されるし、家族批判はされるしでいいことなんてありゃしない。「それが長期的視点で助かる道」と後で言われても私が納得するとでも思うだろうか。そんな言語使用は長期的視点を担保し短期的視点で自分の思い通りに言うことを聞かせる脅しでしかない。脅しというのは犯罪に觝触するくらい人権をふみにじるものだと思うのだが、天理教人にはまったくそんな意識はないようである。以前、私が「天理教教会長講習会なるものがあるならば、そこに必要とされるカリキュラムは倫理教育である」といういったことの核心がこういうことである。神という絶対的なるものをバックに背負うのであれば、その時の気分やストレスの状況で神を利用しないでいただきたいと私は本当にお願いしたい。「神様はこういっている」というのは人間には言えないはずではないのだろうか。自分が神だと思い込んでいる天理教人の多いことに非常に落胆するものである。そして、それはかなり強固な妄想である。

私の話は難しい2


私が「心定め」や「心を寄せる」ということに対して説明を求める。それってどういう意味ですか、と。しかしカイチョウさんの話からは「心」抜きで語られることはない。「心」の用語説明をするのに「心」を使用するのは同語反復であり説明にならない。経験的に大学1、2年生くらいはこういった思考ループから自力で脱することはできない。人間関係とは何かと問うても「人間関係とは人間の関係です」というのは同語反復でしかない。そこで私は「人間関係の説明をする場合は「人間」「関係」という言葉は使用してはいけない」と(厳しく)指導するのである。それを繰り返すと自身の思考の限界が分かり、光が見えてくるのである。そのトレーニングは大学院生でも同じである。意外に私たちは「分かっているつもり」で済ませることが多いのである。大切なことは、説明ができることではなく、自分が分かっていないことを説明しようとする志向性を持つことである。結局カイチョウさんに対しても私が学生の思考を明確化するような形で問うしかない。「心とはなんでしょう?」と。そこまで言ってしまうとカイチョウさんも困ってか「心とは魂だ」と今度はスピリチュアルな方向へいってしまった。すると当然のことながら「魂とは何でしょう?」と私は言わなければいけない。私も薄々カイチョウさんの限界を感じていながらも質問するなんて悪い人間だ。すると痺れをきらしたカイチョウさんは「心も魂も3次元なんだ。そういった言語的に説明できるものではない」と言われた。これには私も絶句した。ご存知のように3次元とは立体物である。机もパソコンも食器も3次元である。その「ただの物」と「心や魂」は同質なのだろうか。否。私は「魂や心」は5次元でもいいと思う。ドラえもんでさえ4次元ポケットなのに。これ以上はカイチョウさんの名誉のために控えておくが、結局具体的な説明はいただけなかった。「信仰や教義に具体性を求めてはいけない」と反論されそうだが、その反論には私も賛成する。しかし「お金」というものは具体物でしかない。抽象的思考を拒否しているわけではないが、抽象的思考から具体的事象を繋げる「教えに基づく生き方」を私は知りたかったのである。それだけである。他人の信仰に口を挟むほど私は物知りでも信心深いわけでもない。お金を求められたら「何でですか?」と聞くのが当然であろう。「その金額に対して、どれくらいのメリットが私にあるんですか?投資したら、その分回収できるんですか?」などと経済市場主義的な要求をするつもりもない。ただ、シンプルにその必要性を「あなたの経験から」聞きたかっただけである。

私の話は難しい1


昨日せっかく書いた記事が消えてしまった。仕方がないので思い出しながら書こうと思う。前々回の記事で、お正月に近所の天理教の教会に行った話を書いた。その時にカイチョウさんと「物別れに終わった」と書いた。その記事ではさらりと流してしまったが、今回はその「物別れ」の概要をお伝えしたい。
それは正月の話である。正月に近所の有名神社に家族と友人家族と初詣にいった。その帰りに、天理教の教会にも行くことになった。そこではお神酒をいただき、神殿で家族写真をとっていただいた。その後は梅昆布茶を啜りながら近況などをカイチョウさんとその奥様に報告した。カイチョウさん夫妻は私たちを喜んで迎えてくださり、大変気持ち良く過ごせた。しばらくして「そろそろ帰ろうか」という時になりカイチョウさんから呼び止められた。私に話があるということなのだ。私の家族と奥様は話を続けていただき、私とカイチョウさんだけで話をすることになった。カイチョウさんの用件は「上級教会が教会の立て替え(普請)をするのに何百万円をこの教会で心定め(ノルマ)をしようと思う。心を寄せてくれんか」ということであった。呼び止められた時点で「なんか(よくない話が)くるな」と思っていたが、おぉ予想通りである。忘れてはいけないが私は天理教人ではない。天理教に対して信仰を持たない。しかし昔からお世話になっている近所の天理教の教会さんである。お世話になっている人が「困っている」ということならば「少しくらい協力したい」と思うのは当然である。私は信者ではないので、定期的なお供えや高額のお供えは不可能だが、数ヶ月に一度教会に行くときにお賽銭に入れる小銭に数百円くらいを加算することは難しいことではない。今まで私が数ヶ月に一度教会に行くときに参拝したり賽銭箱にお供えをするのは、天理教信仰というよりも、広い意味で神聖なるものに対する畏敬の念を込めた信仰心である。強制でもアンチ天理教でもない。そういったことを思うと先ほど「良くない話」といったことも悪い話ではない。アンチ天理教的修辞語としてはカイチョウさんの提案はネット上に流布しているような「天理教による金銭やお供えの強要」という言い方もあるかもしれない。しかし比較的良好な人間関係にある目の前の相手が「困っている」ということで考えれば、「じゃあ力になりたい」というのは当然の反応であろう。相手の考えや心情の肌理の細やかさを把握するのはその人との関係性でしかない。セクハラやパワハラが生まれるのは、関係性を飛び越して相手に要求するためである。関係性というのは「この人がしそうなこと」という推測可能性のことをいう。この人がセクハラをしそうであれば近づかないであろうし、逆にこの人に好意を抱いており今後身体接触が予見さえる関係であれば性的要求があっても外傷体験とはならない(ちょっと極端ですが)。関係性を飛び越すと、事件化したときに「そういうつもりじゃなかった。合意の上だった」としか言えないだろう。私はセクハラやパワハラを容認しているわけではない。「あなた、もう少し痩せた方がいいよ」などというセクハラ的発言も、関係性ができていれば、「私の体のことを心配してくれているんだな」や「もう部長ったら冗談ばかりいいですって」となるし、関係性ができていなければ「何言ってんだ。おっさんセクハラで訴えるぜ」となるだろう。こういった点こそ天理教人にも分かってほしいのだが、なかなかそういったことを理解してくれる人はいない。ある知り合いの天理教人は「人間よりも神様が第一だ」という非常に考えさせられることを言っていた。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。その言葉の真意は不明だが、ただ、その人の振る舞い方が人間性や人間関係を軽視していることを考えれば、その意味は推察できる。天理教人と接していると、関係性を飛び越して侵襲的に理解を求めてくる人は多い。「神様」という非常に理解が難しい概念がバックにある時点で、かなり丁寧に説明するか、信頼されるような振る舞い方をするかが関係性の構築に大きく影響することを天理教人にわかってほしい。一般人にとって「神様」は普通じゃないのだから。
 
閑話休題。

カイチョウさんと私の話し合いは、ここで話が終わっていれば問題はなかった。しかし天理教初心者の私としては「心定め?」や「心を寄せる?」と初めて聞く単語や了解できない意味があるので当然のこと説明を求めた。カイチョウさんも「数百円の話じゃねーんだよ」という私の思いに納得がいかないようで、、さて、、ここから話し合いは熱を帯びるのである。

続きはまた今度。

消えてしまった

「私の話は難しい」という長文記事を書いていたのだが、「公開ボタン」を押したつもりなのにアップされていなかった。そこで「下書きボタン」を押して戻ろうとしたのだが消えていた。40分くらいかけて書いたのに記事がなくなったしまった。悲しい。また時間をみつけて書き直さねば。どかかでその記事を見つけたら教えてください。

お節会に行ってきた。


新年あけましておめでとうございます。2010年もよろしくお願いします。例年通り、近所の神社への初詣に行き、また知り合いの天理教の教会にも挨拶にいった。天理教の教会ではカイチョウさんと色々とお話をした。結局私が分かり合えないまま帰ることになったが、その話はまた今度。
 
本日、知り合いの天理教人に誘われてお節会に行ってきた。11:00過ぎに天理市内に入り、駐車場で迷って、12:00に東礼拝場というところで合流した。まったく知らない方に天理教のお節会を説明すると、天理教本部のお正月にはお供え物の鏡餅が全国から大量に集まる。そのお供えのお餅を正月5日から7日の3日間に参拝客に振る舞うのである。出汁にお餅と水菜という非常にシンプルなものであるがお代わりは自由。写真のような食堂のようなところで一気に食べる。参拝客が多いため、食べたらゆっくりせずにすぐに退場する。驚いたのは、給仕をしてくれたのは天理高校という法被を来た若い学生さんであったことだ。まさしく天理高校の生徒なのであろう。その他にも若い人が多かった。大変いいものである。若いときに他者に仕えるというのは大変貴重な体験だろうと思う。まだ学校は始まっていないであろうから、冬休みを返上して参加しているのだろう。現代の経済市場主義の中で育つ子どもには「こんなことして意味あるの?」や「受験勉強した方が時間を有効に使える」という責任者出てこい的若者が多いが(若者に限らないか・・・)、無条件に他者に仕えるということがいかに大切かということは社会に出たときに大きな財産となるだろう。そういった学生の姿勢を見て「来てよかった」と思った。肝心のお節の味はまずまずである。一緒に行った天理教人は「この出汁が絶妙にうまいでしょ」と言っていたが、私はそうは思わなかった。味は普通だ。むしろ味はどうでもいいと思う。お供え物なんだし。食することに意味があるのだと思う。なので、お餅の写真も撮らなかった。

終わった後は詰所というところに行って、椅子に座り、お茶とお菓子を頂き、何人かの人と談話し14:00くらいに天理を出た。私自身、貴重な体験ができたのではないかと思う。天理教人が「これでお正月が終わり、一年が始まるなー」と感慨深気に言っていた。私は天理教のお節でそういった気分にはなれないが、多くの天理教人にとってはお節会というのは大切な正月の宗教儀礼なのだろう。そういった文化は大切にしたいものである。

なにより一番伝えたいことは、正月の奈良盆地は寒いとうことだ。

天理教社会学研究所
天理教社会学研究所

天理教人はなぜ里親制度を希求するのか1


天理教での里親ブームは続いている。天理時報という媒体の影響力の大きさは凄い。私はひねくれ者だから、みんなが右へ倣えをしているときこそ「それはおかしいだろ」と言いたくなる。結局基本的なことかもしれないが、天理教が里親を求める理由を探りたい。

そもそも天理教、特に現在天理時報などで注目されている里親というのは、内容としての里親ではなく制度のとしての里親である。内容としての里親というのは、身寄りのない人に居住空間を提供するということである。制度としての里親というのは制度を取り仕切る団体なりに申請して許可を得たり、里子の提供を受けることである。そもそも内容としての里親というのは天理教的には今に始まったことではないと思う。私の親しい天理教人の教会にも身寄りのない人や家庭に帰れない事情がある人が教会の人間と一緒に住んでいる。もちろん子どもに限らずに。随分と前から。またそういった教会は多いのではないかと思う。そして私はそういった天理教の歴史ある地道な役割というはを高く評価する。昔から、天理教に限らずに宗教組織や宗教施設というのは行き場所の無くなった人を歓待(収容)してくれる貴重な存在である。もちろん現代日本は福祉制度や保護制度が充実しているが、現代だからこそか、それでも行き場所がない人は沢山いる。そういった意味で宗教施設というのは物理的に大きな施設をようしており、そこに信仰を持つ人々がいて迎えてくれるというだけで救われる人がいる生き場所となる。つまり歴史ある、対象者を限定しない内容としての里親というのは今の里親ブームの制度としての里親とは一線を画した方がいいと思う。ではなぜ今、天理教では制度としての里親が求められているのか。
続きは、また今度。