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グローバルとは何か


天理時報が手元にないので、道友社のホームページから天理時報の記事を読む。
http://doyusha.jp/doyu/top/?page_id=11156
概ね当たり障りのない文脈であるが、海外では宗教を許容する文化を持っていることについて「日本もそうあるべきではないか」というのは、天理教からしか日本を見れていないちょっと一方的な感じがする。言い方は悪いが、私は日本の海外礼賛主義はあまり好きではない(特にアメリカに対して)。海外に行った経験があれば、日本では「おおグローバルな人だ」と一目置かれるというのは1970年代にタイムスリップするほど古典的ではないだろうか。グローバル化というのはそんなちっぽけなことなのだろうか。天理時報でも、海外経験を自慢気に語る天理教幹部が多いように感じるが、果たしてその語る中身はどうなのかといえば逆に封建的すぎて私は海外で何を学んできたのか疑問が多い。私の昔の職場で言語はただのツールであると学んだ。私が言いたいことは、海外の価値観が素晴らしいと国内に輸入するよりも、海外に日本の価値観を国外に輸出するべきだろう。もちろん、私も語学をコンプレックスに思うときはあるが、今は日本で外人に話しかけられてもまずは日本語で対応するようにしている。グローバル化だからといって、大切なことは手放してはいけないと思う。

そんなことを書いていたら、ある方より震災時の宗教団体の動きについての学会発表があると教えてもらった。
http://www.asian-studies.org/absts/2012abst/abstract.asp?Session_ID=961&year=2012&PanelArea_ID=2&area=Japan&Meeting_ID=21
震災に対する教義解釈や、宗教と社会との接点など重要な問いかけがなされている。このページではアブストだけなので、具体的なことはまだパブリッシュされていないので分からない。この発表では、どうやら天理教の活動についても扱われているようだ。発表者は海外の研究者であることは、ある意味とても重要なことであるが、この流れを日本人の研究者や宗教者があまり積極的に作ろうとしてないことが残念だと思う。天理教の中にいる研究者も幹部も、こういったことを外に発信する人がいない。いても少ないのか、なかなか目にしない。震災の救援活動の広報に関して、天理教ではそれを扱った海外の研究者にインタビューをしていたが、天理教研究者が海外に対して発言しているのを聞いたことがない。その沈黙は宗教団体や日本人の美徳であるかもしれないが、天理教研究者や天理教幹部としては敗北ではないだろうか。身内にしか偉そうに言えないのは、然うは問屋が卸さない。

天理時報が届かない

我が家に天理時報が届いていないようだ。探してみると結構前から届いていない。天理時報のお金を払っていないからだろうか。そもそも私は天理時報の購読申し込みをしたわけではない。2009年、知り合いの天理教人に「君は天理時報をとっていないのか?読みなさい」と言われたのがきっかけであり、私は申し込みも申請もせずに、ある日から天理時報が我が家に届きだした。どこに申し込めばいいか、お金を払えばいいかも分からない。ブログを調べてみると2009年の4月から我が家に届き始めたようだ。3年間、私の代わりに申請した天理教人が払っていてくれたのだろうか。そんなに高額ではないと思うから(たぶん)、払えと言われれば払うけど、「別に僕が購読申請したわけじゃないし」と一言、言わなければいけないと思っていた。しかし、その天理教人もお金を請求しに来ない。ん~このままでいいのだろうか。この3年間、このブログを更新する上では天理時報は大変お世話になった。だからちゃんと3年分のお金は払いたい。そうでないと私の気持ちが悪い。無銭飲食したような感じである。
私と天理教の関わりは、天理時報への依存率が高い。率直に言うと、ツッコミ所満載の天理時報がなければ、ブログのネタがなくなる。知り合いの天理教人には、たまにしか会わないし。改めて天理時報購読の申請をした方がいいのか、料金支払いはどうしたらいいのか調べていると、天理教道友社のホームページで、一部天理時報の記事が読めることを思い出した。う~ん。わざわざ天理時報を購読しなくとも、ホームページで十分な気もする。今後、どうしたものか。とりあえず、天理教人に連絡をして今までの支払いについて聞いてみよ。もしや、私が辿ったこの背徳感が天理教の狙い?まさかね。購読申請したら、クーポンとかもらえるのかな。

マインドコントロール(洗脳)について

私はあまりテレビをじっくりと見ないが、朝は出勤前の準備をしながら天気予報なり、ニュースなりを聞いている。最近、必ずといっていいほど耳にするのが「女性お笑い芸人オセロ中島」のニュースである。詳細は調べる気にもならないが、彼女は霊能者と出会ってから調子を崩し、その後テレビから姿を消したようだ。それがワイドショーのネタとなっているだけの話である。現時点の論調として、彼女はその霊能者からマインドコントロールされているとのことだ。
こういった芸能人が宗教団体にハマる話題は度々ニュースになる。オウムでは社会問題にさえなった。
天理教では、こういったことがニュースになったことは私の記憶ではない。あったとしても天理教の雰囲気からは難しい。なぜなら天理教は例外なほどオープンな宗教である。天理教の聖地である「ぢば」には、信者じゃなくても誰でもいつでも入れるのである。365日、24時間である。さすがに中心点である「甘露台」周辺(20m四方くらいかな)には入れないが、見る事はできる。このオープンな姿勢は、天理教の安心感でもあると思う。
しかし話はマインドコントロールとなると注意しなければいけないのではないだろうか。結論として、どこからがマインドコントロールで、どこまでが自発的意志かという線引きは、心理学でも社会学でも結論は出ていない。宗教学者の島田裕巳は、今回のオセロ中島件について「マインドコントロールではなく、本人の心の問題」と言っていた。http://gendai.net/articles/view/geino/135292
私には分からない。本人の話を聞いてないし、そもそもあまり興味もない。
厳密に定義するのであれば、マインドコントロールと洗脳は異なるようだ。しかしそんなこと私にとってはどっちだっていい。学術的な話になると問題が複雑になるので、とりあえず「強制によらず、さも自分の意思で選択したかのように、あらかじめ決められた結論へと誘導する技術、またその行為のこと」とWikipediaの定義を採用して話を前進させる。マインドコントロールも洗脳も同じということにするが、このブログでは面倒なので字数が少ない洗脳を採用する。

話は変わるが、2、3日前のツイッターでは天理教の布教についてのツイートが並んでいた。特に関西地方で、2、3日前は同時多発的に天理教の布教がおこなわれたようだ。天理教のホームページによると、現在天理では大学生を対象とした学生生徒修養科が開催されているようだ
http://www.tsa.gr.jp/event/gaku_d/gaku_d.html
なぜ洗脳の話題で、この行事を取り上げたのかは私が言う前にツイートを見ればよい。それが天理教に対する社会の率直な反応であろう。私は宗教の衣装を来た人間が、繁華街で絶叫している姿を見ると恐怖を感じる。
恐らく来週あたりの天理時報では、この学生生徒修養科に参加した学生の、「天理教が大好きになった!」という若者の涙ながらのコメントが天理時報に並ぶであろう。さて、オセロの中島が洗脳で、天理教学生会が洗脳ではないという境界は、天理教人以外には差異がわからず判断が難しい。天理教の布教戦略が洗脳の表現形だとは言わないが、それを見る人にとっては天理教を敬遠する理由に十分なるだろう。

お金について つづき


宗教とお金について、市井でよく聞かれるのは「高額な壷を買わされる」とか「お布施を強要される」と言われることだろうか。または某学界のように「○○新聞」などの刊行物で定期的な収入を得ていることだろうか。その点について天理教は“比較的安心感がある教団”だと思う。お布施(天理教ではお供え)を強要されることも少ないし、高額な商品を買わされることもない。
しかし、手放しで「安心な教団」と判断することは私はできない。前回のブログで「普請」(ハコモノ建築や建て替え)を巡り、ある日突然に信者に茶封筒が渡されるように、天理教という組織にコミットしすぎると大変にお金に苦労するということである。
天理教という組織にコミットしすぎるとはどういうことだろうか。それは天理教人のいう「因縁(いんねん)」というパラレルワールドに突入することである。天理教人は相手と対峙した時に相手との運命論的な関係付けを求める。その概念は「因縁(いんねん)」というテクニカルタームで説明される。やくざが「おらぁ因縁つけてんじゃねーよ」と言う因縁とはちょっと違う。天理教のそれは「生まれながらに十字架を背負っている関係」と言った方がわかりやすい。それくらい悲観的運命論な意味である。私の感覚では、天理教人の歓待の精神は大変素晴らしいものだと思う。天理教を何も知らない人に対して、天理教人は異常なほど良くしてくれる。そのため深くコミットしたときの任侠のような上下関係や、天理教人との社会的コミュニケーション不全には驚嘆させられる。つまり、どの宗教団体でも同じ傾向があるが、天理教でも同様に外からの肌触りは大変心地がよい。しかし一度足を踏み入れると、気付けば親子関係が形成され「いんねんパラレルワールド」に突入していることになる。その「いんねんパラレルワールド」への入場券は「主体はいんねんを自覚しているか」で入手できる。つまり相手(自分)が自身の存在に対して運命論的な天理教的意味を付与すれば、「いんねんパラレルワールド」への入場資格が与えられる。私のように天理教への知識や理解がある程度あっても「そんなもん理解できん」と因縁の自覚ができなければ入場券を持っていないと判断され、よそ者扱いされ、そして歓待される。それを判定するために、天理教人は天理教人にしか理解できない「徳」や「理」などというジャルゴンでジャブを打ってくるのである。「こいつはいんねんパラレルワールドの入場券もってんのか?」とね。
ここで一つの疑問が生じる。「そこまでしてコミットする必要はない。嫌なら天理教辞めちまえよ。信教の自由があるんだから」と。しかしそれを言えるのは強者であり、事態はそう簡単ではないようだ。そもそも天理教は強者をターゲットにしていないことは天理時報を見ても明かである。信仰の対象は救済が必要な構造的弱者である。天理教に選ばれた人間がいんねんパラレルワールドに一度入ってしまうと、そこから抜け出すことは容易ではない。その理由の他の側面に、天理教の信仰は家族単位での信仰を促進する傾向が強いことであろう。つまり天理教は、天理教人対信者個人の関係ではなく、天理教対家族の集団対集団の関係を求める。個人の関係であれば、抜け出すことは比較的容易であろう。しかし家族がコミットしていては、なかなか抜け出すのは難しい。お父さんは天理教を辞めたいと思っていても、奥さんや子ども、祖父母が天理教の行事などにコミットしていては地域や人間関係などを考慮すると簡単ではない。つまり構造的弱者とは社会的な救済が必要な人間という意味ではなく(もちろん社会的弱者も包摂されるが)、天理教組織の中で弱者(理の子)として扱われることを受容した人間のことである。
話を前回に戻すのであれば、理の親子という上下関係であるいんねんパラレルワールドに入ってしまうと、茶封筒さえも無視することはできない。むしろ無視できたり、断れる人には茶封筒は渡されない。そして毎月渡される空の茶封筒には、いろいろな断れない暗黙の思いが入っているのである。「嫌だから断る」というのは容易ではない。むしろ構造的弱者には不可能に近い。
「天理教のお供えは自由意志である」というのは、いんねんパラレルワールドに入っていない人にとっては正解である。しかしいんねんパラレルワールドに入ってしまっている人にとっては、結婚詐欺に近い背徳感を背負わされる。「断ったらどうなるんだろうか」「安い金額だとどう思われるだろうか」と。また、いんねんパラレルワールドに入っている人は声を上げることも、要求を無視することもできない状況に置かれている。もちろん、信仰熱心な方は喜んで茶封筒に現金を入れる人も数多くいるだろう。しかし私と話をした天理教信者は「なんか違うんだけどな」という違和感を持っていたことは間違いない。違和感があるから、私に見せて話をしてくれたんだろうと思う。茶封筒に入れられるお金は天理教人にとって「真心の真実」として人間的評価が付与される。しかし、それでいいのだろうか。真心の真実を求めるのであるなら、自分のやっていることに自信があるなら茶封筒を配らなくてもいいのではなかろうか。
そうなると教会は誰のものかという問いも出てきてしまう。もし教会が信者みんなのモノであるならば、その普請の決定と集金は信者による民主的主体性で担保されるべきものである。茶封筒の存在は信者の主体性ではなく、教会は一部の役員のモノという証明になるのではなかろうか。それはまた今度。

信仰ってなんでこんなに難しいのだろう。誰か教えてくれないか。ほんとに。

お金について


できるだけ主観を省き、私が実際に聞いて、見た事実だけを記載する。

ある大教会では神殿や詰所などの老朽化に伴い、建て替え(普請)をする。
規模が大きいので、その予算は数十億となる。

その大教会ファミリーの系列の下部教会は、その予算を割り当てられる。
「あなたの教会では1000万円をいついつまでに用立ててください」と。

ある日突然、所属する信者にはその連絡が一方的に報告され、各家庭に茶封筒が
教会から渡される。茶封筒の表紙には「徳○袋(○に入る漢字を忘れた)」と書かれている。

別の話。

建て替え予算を割り当てられた地方の教会の会長さんは、銀行からお金を借りた。その額は数百万円。
もちろん、その会長さんは道専務(だったかな。天理教業務だけを仕事としている人で定期的な収入がない)で、もちろん数百万もの返済の見込みはない。

ある日突然、その教会の信者に茶封筒が渡される。
茶封筒の表紙には「徳○袋(○に入る漢字を忘れた)」と書かれている。

以上。
「徳○袋」については、私が実際に実物を見せてもらったので実在するのであろう。それぞれの話は異なる大教会ファミリーの話であるが、それぞれの教会に所属する信者から聞いたことである。信頼できる人なので、これらの話は実際の話である。私の考察は、次回アップしたい。

「ステマ問題」から見えるもの から見えるもの

天理時報4267号の「視点」で「「ステマ問題」から見えるもの」という記事を考察する。ステマとはステルスマーケティングの略である。ステルスとは、ステルス爆撃機がレーダーに感知されない戦闘機であるように「顧客に気付かれないマーケティング」という意味である。「サクラ」といった方が我々世代には分かりやすい。
そこから、著者は周りに惑わされずに自分を信じていくことの大切さを言いたいんだと思う。たぶんね。ただ人に勧められてステーキを食べた逸話は、論旨からズレまくっているから、ないほうがいいと思う。自分を信じることを主張したいのに、人に「一番ひどい」と勧められたステーキを食べて「ひどい」と判断するのは、結局人の価値を採用していることに気付いてない。著者の論旨を採用するなら「人に勧められた一番ひどいステーキだったが、僕はおいしいと思う」ということにしないと論理が成り立たない。

私が言いたいことは一つだけ。ご自身がステルスマーケティングの片棒を担いでいることに気付いておられないことが怖いのだ。「さては、あなたは帝国ホテルのステーキのスパイですな」とね。さすがステマだ。

ステマ問題は、実はもっと複雑なんですよ。それはマーケティングに限らず、閾下刺激として日常的に溢れている。そしてオウム真理教も利用したことであり、対岸の火事ではないはずである。教団上層部であるなら、もう少し危機管理に慎重になってもいいんじゃないだろうか。

誰も止められないインターネットという波


天理教人のインターネットについて発言したい。天理時報での言論弾圧ともとれる記事が掲載されて、その記事に対する反論を書いた。それに対して「天理教みさとブログ」さんからコメントと過去に「インターネットの機能と功罪」という論説を紹介していただいた。http://www.geocities.jp/tenri_kokugen/shiryou/it.htm
大変勉強になるとともに、この記事が10年ほど前に書かれたことに驚きである。10年前…。私がインターネットという言葉を覚えたばかりで、全く使いこなせていないときである。この論説をすべて支持するわけではないが、率直な感想として、このような思考に軸のある方がおられることは天理教にとって大きな財産だと思う。ただ、それを天理教は認めないだろうし、むしろ保守的な現教団にとっては邪魔な存在なんじゃないかと邪推する。信者を思い通りにコントロールしたい天理教幹部にはおもしろくないものね。その辺のことを一度、この方に聞いてみたいものである。

「天理教みさとブログ」でも扱われているように、私はインターネットによる発言を中央集権で管理することはナンセンスであると思う。というより不可能である。本ブログの名称は「アメーバブログ」というものだが、インターネットによる情報はアメーバであり、状況や時間によって変形し変質する。
産業界でもインターネットによってコピーライトやパブリシティ権という課題がホットであるが、違法ダウンロードや違法コピーは規制したところで誰も止められないことはみんな薄々感じている。しかし対応の仕方が分からないから、とりあえず「やめろ」と管理しかできない。先進的な国では、それらを止めることよりも、それらを活用した新たな産業開発へと方向性は変わってきている。

天理教でも同様である。インターネット上には、良くも悪くも天理教に関する情報は増え続けている。各教会の毎月のお祭りの神殿講話でさえも録音され世界中で聞けることがある。先日はUSTREAMで祭典の様子が生中継されたところもあるようだ。

つまり天理教人にとっては、一挙手一投足が天理教としてみられているということである。いい加減なことを言えば、それがそのまま天理教のマイナス評価へと結びつく蓋然性が高くなっている。従来であれば天理教だけの話や教会内という内輪だけの話であり、恫喝であろうが、脅迫であろうが、人権蹂躙であろうが、管理を徹底していれば外に漏れることはほとんどなかったであろう。しかし、小さな田舎の教会でのことが世界に配信される可能性だってある。

そもそもインターネットの性質はフラットネットワークであり、上意下達の垂直的組織体質とは相反する。この性質を読み間違ってしまっているために「管理」という手法をとるのであろう。まさしく管理はトップダウンで行なわれるものである。つまり天理教幹部が天理時報を通して「インターネットでの発言はいかがなものか」というのは時代性の錯誤である。盲目的すぎる。ということは、それほど信者を信頼していないということでもあろう。「管理」が達成したいものの先には何があるのであろうか。そのさきには、天理教の社会からの孤立ではなかろうか。それは天理教が孤立していくという意味ではなく、社会が天理教から離れていくということである。それが私がずっと唱えている天理教の衰退という意味である。

偉そうなことばかり言って恐縮だが、私は天理教人はどんどん社会に対して発言するべきだと思う。もしそれぞれの信仰する天理教に自信があるのであれば、社会に天理教を提示していけばよい。それは布教として妥当性が高いという意味ではなく、現実的であるという意味である。教団は発言を推奨した上で、社会とのコミュニケーションを生成させ、発展させる手法を考える方が現実的である。なぜなら、信仰とは教団と一個人のものはなく、個人対個人のものであろう。社会と話をせずに、「天理教が一番だ」と自分たちの優位性を内輪だけで語っていても社会との距離は離れるばかりである。つまり神名流しや個別訪問をやったところで社会の天理教に対する警戒心は時代とともに増強するだけであろう。

いくら立派な教義を持っていても、一会長さんの神殿講話が世界に配信され、それを見た人が「天理教って何言ってるかわかんねーぜ」とツイートされる可能性は高い。しかし配信それ自体を止めるよりは、「いやいや、それは○○って意味あるんだよ」とか「天理教の目的は○○だよ」と説明責任を誰か別の天理教人が果たすことに期待する方が現実的であり、発展的ではなかろうか。発言するも良し、議論するも良し、教団はもう少し天理教信者を信頼した方がいいと思うんだけどな。

ここまで書いて思ったのだが、天理教幹部は天理教の衰退を(無意識的に)望んでいるのだろうか。まさかね。

自由からの逃走


前々回のブログで天理時報が言論弾圧ともとれる発言をしたことに反論した。反論先は神の名のもとに、一個人の発言を認めないように思想を誘導する雰囲気を醸成していた(しようとしていた)ことである。こういう文脈を見る度、天理教人は信教の自由の意味を勘違されているのではないかと私は感じる。同じような文脈で、金銭のお供えがあたかも税金のような義務感を背負わされる錯覚に陥るのと似ている。
結論を言うと信教の自由は、組織に付与されるよりも個人の権利が優先されると解釈するべきであろう。そして天理教は完全に信教の自由の範囲内の宗教法人である。

信教の自由と表現の自由がごちゃまぜになっているが、本件では同義である。私は信教及び言論、表現の自由は基本的人権という視点でとっても大切なことだと思う。我々が持っている自由の権利は誰にも侵されてはいけない。そして、今われわれが享受している自由は「あって当然のもの」ではない。

歴史的にみれば、自由は何人にも平等に与えられているものではない。今こうして私が自由に発言でき、適当なことを言っていられる自由は、先人達が自由を獲得するために壮絶な戦いの犠牲の上に成り立っている。私は権利への脅迫に対しては徹底的に抵抗したいと思う。私のもとにもコンスタントに天理教人と思われる読者から脅迫ともとれるメッセージが送られてくる。「適当なこと書いてんじゃねーよ」と。そんなこと言われたら、ちょっと気持ちがへこむ。しかし私はそれらによって発信意欲が削がれることはなく、むしろ彼らにとって逆効果であることを記したい。

一方で天理教人が権利擁護に対してあまり声をあげないことに疑問を感じている。「なんで誰も発言しないのか。天理教に限らずに日本の宗教団体の哲学の実践ってこんなものなのか」と。その姿勢は慎みではなく、自由の放棄であるか、ただの平和ボケであると私は思う。アドボカシーできない人間が、人助けなんてできないだろう。それは「北朝鮮に行け」と言われるのを甘受するようなものではないだろうか。

権利擁護や脅迫というものに対して口角泡を飛ばして熱くなってしまうのは私の悪いところである。私の恩師である社会病理学者は、「支援というのは上下関係である。それに無自覚であると上下関係は権力関係になってしまう。支援者は自身の権力の所在に細心の注意を払わなければならない。唯一、権力を振りかざしている人間に対しては徹底的に対抗し弱者を保護しなければならない」と教えられた。まさに学生運動世代の最前線の方だったが、その哲学は今の私を生きている。

天理教人のインターネット使用に関して述べるはずであったが、話が脱線してしまった。

業務連絡

本ブログは天理教公式機関発信ではありません。天理大学、天理高校などの入学に関する問い合わせには答えかねます。公式窓口か近くの天理教会に問い合わせください。

「今さえ良くば、我さえ良くば」というピットフォール

天理教では「今さえ良くば、我さえ良くば」という言葉が流行っている。この言葉の出典がどこから来ているのか私は知らない。しかしことあるごとに耳にすることがあるから流行っているんだと思う。
私は以前から苦手と公言している天理大学おやさと研究所発行の媒体「グローカル天理」であるが、苦手であるので自分で読むことはない。ブログの読者から「読んで感想を書いてくれ」と勧められて読むことしかしない。今回、その中の公開教学講座「現代社会と天理教」第8講「選択と不選択」—教えとともに生きるみち-という論文を紹介された。
要旨としは、「我さえ良くば、今さえ良くばはダメだぜ」ということであった。ただ、私の感想としては、これほど「我さえ良くば、今さえ良くば」に染まった論文はないと思う。交通規則を守らない人間をやり玉に挙げて、「あれはダメ、これはダメ」と言っているだけである。天理アーケード商店街を自転車で通行する若者を交通規則を守らない人間としてレッテルを貼り糾弾している。著者はまったく気づいていない。理論展開せずに他者批判することは批評にもならないただの居酒屋のおっさんの愚痴でしかないことに。同様のことに私は朝日新聞の「声」が苦手である。「あれはダメ、これはダメ。最近の若者はこんなにダメ」ということであり、投稿者がいかに正しいかという主張でしかない。そこには社会に対する不満を「私は正しい」という投稿で自己満足する姿勢でしかない。確かに、危険な自転車運転は慎むべきであろうが、私はそれらを無条件に批判するほど大した人格の持ち主ではない。自分の預かり知らないところで誰かを傷つけていることもあるかもしれない。
ラディカルな論理展開をしないと批評にはならない。これは社会人としての常識ではなかろうか。ましてや大学という学術機関であれば、なおのことではないだろうか。
私の反論として、この著者からはご自身が社会に迷惑をかけて生きているのではないかという慎みがまっく感じられない。自分の生き方が最も正しくて、みんなは私のようにいきていかなければいけないと言っているように聞こえる。私は、人は社会や人に迷惑をかけないと生きてはいけないと思う。この著者は生命維持に必要な呼吸でさえも二酸化炭素を排出せずに、みんなの税金で作られた公共物を使用せずに自己完結で生きているのだろうか。ちなみに私はいろいろな人に迷惑をかけて生きている。私の周りには頭が上がらない人ばかりである。むしろ「我さえ良くば、今さえ良くば」でしか生きていない。どーもすみません。
この方は肩書きから察するに、立派な学術研究機関の方だろうとお見受けする。また後半部に「学ぶことが大事」と言っているので、私は学術的見解として学ばせていただきたい。
察している方も多いと思うが、私が天理教に対して言っていることは副題にもあるようにニーチェをなぞることが多い。本ブログの要旨として天理教はニーチェを超えなければ今後の社会で存在を確かめることは困難になると考えている。アメリカで信仰離れが急進しているように、宗教がなくても経済は回り、人々は生きていける時代である。その中で宗教の存在意義を証明することは容易ではなく、宗教哲学が問い続けている難問である。どこかの宗教団体のように、観光で金儲けをしているとこもあるだろう。一部の人間の自己実現や政治集団として機能している宗教団体もあろう。その中で、形而上学的信仰を持つのであれば、天理教が主張する「人のため」という利他主義の裏にあるニヒリズムや弱者の肯定を乗り超えなくてはいけない。そうでないと天理教も既成宗教と同様のデカダンスを迎える。
ニーチェのように「神は死んだ」と神の不在を天理教人に言えば、激烈な反論があるだろう。「神は死んでいない」とー。しかしそれは表層的議論でしかなく進歩がない。議論を進歩させるためには学術的探索を担保しなければいけない。つまりニーチェがなぜ「神は死んだ」と言ったのか、歴史的に言わざるを得なかったのかを問うことは、教祖が「世界ろくじに踏みならせ」と言って死んだこととそれほど乖離したことではないと思う。「我さえ良くば、今さえよくば」の反対に位置する「人のため」という、自己満足や自己欺瞞を乗り越えなければいけない。
私は「我さえ良くば、今さえ良くば」を平気で口走る天理教人が「感謝、慎み、助け合い」と言っていることに矛盾を感じざるをえない。品格を問う人間に品格が感じられないのと同じである。