天理時報が手元にないので、道友社のホームページから天理時報の記事を読む。
http://doyusha.jp/doyu/top/?page_id=11156
概ね当たり障りのない文脈であるが、海外では宗教を許容する文化を持っていることについて「日本もそうあるべきではないか」というのは、天理教からしか日本を見れていないちょっと一方的な感じがする。言い方は悪いが、私は日本の海外礼賛主義はあまり好きではない(特にアメリカに対して)。海外に行った経験があれば、日本では「おおグローバルな人だ」と一目置かれるというのは1970年代にタイムスリップするほど古典的ではないだろうか。グローバル化というのはそんなちっぽけなことなのだろうか。天理時報でも、海外経験を自慢気に語る天理教幹部が多いように感じるが、果たしてその語る中身はどうなのかといえば逆に封建的すぎて私は海外で何を学んできたのか疑問が多い。私の昔の職場で言語はただのツールであると学んだ。私が言いたいことは、海外の価値観が素晴らしいと国内に輸入するよりも、海外に日本の価値観を国外に輸出するべきだろう。もちろん、私も語学をコンプレックスに思うときはあるが、今は日本で外人に話しかけられてもまずは日本語で対応するようにしている。グローバル化だからといって、大切なことは手放してはいけないと思う。
そんなことを書いていたら、ある方より震災時の宗教団体の動きについての学会発表があると教えてもらった。
http://www.asian-studies.org/absts/2012abst/abstract.asp?Session_ID=961&year=2012&PanelArea_ID=2&area=Japan&Meeting_ID=21
震災に対する教義解釈や、宗教と社会との接点など重要な問いかけがなされている。このページではアブストだけなので、具体的なことはまだパブリッシュされていないので分からない。この発表では、どうやら天理教の活動についても扱われているようだ。発表者は海外の研究者であることは、ある意味とても重要なことであるが、この流れを日本人の研究者や宗教者があまり積極的に作ろうとしてないことが残念だと思う。天理教の中にいる研究者も幹部も、こういったことを外に発信する人がいない。いても少ないのか、なかなか目にしない。震災の救援活動の広報に関して、天理教ではそれを扱った海外の研究者にインタビューをしていたが、天理教研究者が海外に対して発言しているのを聞いたことがない。その沈黙は宗教団体や日本人の美徳であるかもしれないが、天理教研究者や天理教幹部としては敗北ではないだろうか。身内にしか偉そうに言えないのは、然うは問屋が卸さない。