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天理教における修業的鍛錬とは何か  つづき

前回の続きを書きたい。まずは修行という言葉を定義したい。私は専門ではないので、一般的な理解にとどめたい。修行とは心身の鍛錬のことを指す。その目的は自己の超越であり、仏門であれば「悟り」になるだろう。ここで確認しておきたいことは、修行というのは一貫した内的作業であるということだ。山に籠もろうが、滝に打たれようが、それは自己を解脱し涅槃に達することを目的とする。この現象は宗派や教義に限らずに大きな違いはないだろう。この徹底的に自己と向き合う作業について、天理教はどうであろうか。私は以前のブログにて、「天理教には修行的要素が少ない」といったことがある(と思う)。「自己と向き合う」ということが、どの水準を指し示すのか、これは人それぞれにあると思う。前回のブログでは古典的布教手法について、時代的な布教戦略であるべきだと書いた。時代的といったのは、時代によって社会の流れに沿ったものであるという意味がある。それは天理教の歴史が示していると思う。初めて大阪の地で神名流しをしたのは教祖の娘である。それが布教(においがけ)の雛形となっており現在でも行われている。一方で、天理教は核家族化が始まった高度経済成長時に地域のリーフレット配布を行い、収益の低下にともなって天理時報の販売拡大路線をとってきた。メディア戦略としてもTVCMからラジオやスカパー番組やインターネットの活用といったように時代に合わせた戦略をとっている。前回のブログの主旨をここで補完させていただくのであれば、私は古典的布教手法といったものは修行という概念には馴染まないと考える。なぜなら修行の「自己と徹底的に向き合う」という十分条件には当てはまらない。「私は個別訪問を今まで○○万件してきて、徹底的に自己と向き合うということを達成してきた」という方がおられるかもしれない。しかし私は布教(においがけ)という側面がある以上は、修行的要素の条件を満たし得ないと思う。なぜなら布教の目的は外的利益の獲得であるからだ。徹底した自己点検において、外的利益をもたらすことになる他者の存在は、自己と対峙する場面において邪魔でしかない。同じ他者の存在であっても、修行的な他者というのは内的他者でしかない。宗教から派生した精神療法の一つに「内観療法」というものがある。これは隔離された静かな部屋で、ひたすらに他者への思いを一人で回想するものである。徹底した自己洞察ということは、心の内の自己や他者と向き合うことである。それが宗教者や信仰者であれば神の存在も参照されることとなるだろう。前段が長くなったが、上記理由によって私は外的他者が目の前に存在する布教戦略などは修行ではなく、単に布教手法でしかない。そうであるならば、布教手法というものに時代的普遍性はない。時代の窓に合わせて、変えることが大切になってくるのではないか。だって修行的要素がないのだから。しかし、この考えには違和感を感じる人も多いであろう。この違和感はどこからくるのか。それは先人が行ってきたという「雛形」の意味性に関するものだと思う。雛形という意味を手法に付与するのか、目的に付与するのかということであろう。手法というのは「神名流し」「路傍講演」「個別訪問」という実践であろう。この手法に意味をもたせるのであれば、被布教者がどれだけ引こうとも、社会が天理教をシニカルに見ようが、昔ながらの手法を行わなければならない。なぜなら行うことに意味があるのだから。一方で、雛形を目的に付与するのであれば、手法は時代や状況に合わせて変えていっても何ら差し支えはない。教祖の娘が行った手法が重要なのではなく、娘が何のために行ったのかという目的が大切になるからである。私が今まで天理教人をみてきて、一番修行的価値が高いと感じているのは「おつとめ」でなかろうかと思う。それは何の外的利益も発生させないからである。以前、友人に連れられて、ある大教会の集会に参加した。そこでは「偉いセンセイ」という女性の講演を聞いたことがあるhttp://ameblo.jp/tenrikyosyakaigakulavo/entry-10387718421.htmlその方は「おつとめの動きは体にいいと偉い医者が言っていた。おつとめをすると病気にならない」と奇奇怪怪な権威主義的な話をされていた。この話を良識ある天理教人に話すと「その手の話は山ほどある」と返答していた。悪いことではないが、宗教者としてはおつとめという宗教儀礼の目的性がズレた少し恥ずべき見識ではなかろうか。そういった話はお菓子を食べながらダイエット番組をみてる「おばさん」だけにしてほしいものだ。私が言いたいのは「おつとめ」という行為が、神との対話を中心とした自己点検の場であるということ。もちろん教義的にはおつとめの意味性というのは、より形而上的意味として存在すると思う(まさか健康のためのおつとめではないと思うが・・・)その中には「他者への祈り」や「神との契約」がすでに包含されているのである。以上の理由から、私は天理教の布教手法には、信仰的意味はそんなにないのではないかと思う。信仰を費用対効果で論じることはよくないが、社会に嫌悪させてまで古典的な布教手法を行う価値があるのかというのを見直してもいい時代にきているのではないかと思う。神名流しをやることが重要ではなく、なぜやったのか、どういう思いをもって教祖の娘は神名を流しに大阪に行ったのかということを理解することが宗教的意味があると思う。先人の雛形が大切だからといって、そのまんまのコピーをしていれば理解できるというものでもないと思う。ひょっとしたら現代の方がやる方も見る方も非常に苦痛なのではないかと思う。天理教人には分かってもらえないかもしれないが、天理教の法被を着た人間が街中に存在することは、それを見る人間はかなり高い確率で親近感よりも不信感を抱くのではないかと思う。その点をもう少し検討してもいいのではないかと思う。

コメント欄について

ある方から「ブログにコメントできない」とご指摘を受けた。以前はコメントフリーにしていたが、悪徳業者の迷惑コメントばかりだったのでAmeblo会員のみに設定を変えたのである。今回、上記のような依頼を受けたので再びコメントフリーにしたいと思う。私の見解に批判的なコメントもあると思うが、それらも含めてオープンにしたいと思う。私がコメントを見るかどうかは分からないが。
ただ、このブログは震災以降毎日300人くらいの人が見ている。ほとんどが天理教人だと思う。また最近になって、天理教本部のネット監視ブラックリストにこのブログが加えられたとも聞いたので、コメントする方は注意していただきたい。

天理教における修業的鍛錬とは何か

ツイッターという簡易ブログにて「天理教」と検索してみると、多くのつぶやきがみられる。大多数が天理教外の方のつぶやきであると思う。どんなつぶやきがあるのかは、実際にツイッターで検索してほしい。私は定期的に検索している。その主観的感想を述べる。そこでは「天理教に勧誘された」とか「天理教の太鼓のドンドコがうるさい」や「天理教が列をなして歩いている」というつぶやきが多い。ネットという特質から肯定的側面よりも、否定的側面が多いことは注意したい。好意的意見もあるが、それは天理教人による発信だと思われる。
こういった市井の声について、このブログを読まれている天理教人の方はどう思うだろうか。「そんな声をいちいち拾ってらんねーよ」とか「一部の意見だね」とか「言いたい奴には言わせておけ」と思うだろうか。もし私のことであれば、「言いたい奴には言わせておけ。けっ」となるだろう。しかし、こういった声は無視してもいいのだろうか。確かに、いちいちとすべての意見に反応するこは現実的ではない。社会の周波数をすべてキャッチすることはできないかもしれない。しかし、こうした意見を考察し、せめて社会が天理教に向ける周波数を知ることはとても大切な作業ではなかろうかと思う。つまるところ、私はこういった作業への取り組む姿勢から(でしか)天理教の衰退や天理教の今後を考えることができると思う。それは天理教がオリジナルな立場を形成してきた一方で、大衆のニードに敏感に反応してきた歴史がある。そこを無視してオリジナルな主張を繰り返すことは、天理教の将来が大変厳しいものとなる。

分かるだろうか。天理教が行っている古典的な布教戦略である「神名流し」(法被を着て列をつくって天理教の歌をうたいながら歩く行為)や「路傍講演」(町中で信仰体験を語る)や「個別訪問」(自宅に突撃訪問する)は、天理教人にとって、とても大切な宗教的行為である。しかし一方で、天理教と社会を乖離させる側面があることも大切な視点だと思う。

以前、ある青年が私に話かけてきた。上記古典的な布教戦略が苦手であると。人前で、どうしてもできないと。しかし、理の親(信仰上の上司)に相談しても「頑張れ」「気合いがたらん」「たんのうせい」と言われるのみだと。私はこの理の親の正論と侵襲性と方法論の乏しさと鈍感さ、青年の時代的感受性と敏感さと逃げ場のなさを感じた。

これらは、どっちが正しいという問題ではない。この行き詰まりにきてようやくだが、記事のタイトルの意味を考察する意義が出てくるのだと思う。つまり、天理教を信仰することへの目的性の探求である。上記、布教戦略は「布教」(においがけ)という名目で実施されることが多い。しかし本当にこれは布教の意味を達成できているのだろうか。私は布教よりも修業的要素が強いのではないかと思う。では、天理教のおける修業とは何なのか。ベテランの天理教人を見ても、この古典的布教戦略を進んでやっている人をあまり見た事がない。「路傍講演はやりたくない」というコトバは聞かれないものの、進んでやっている人はいないように思う。むしろ「やらされている感」が漂っていると感じるのは私だけだろうか。つまり、ベテランも「これって意味あるのかなーあんまりやりたくないんだよね」という違和感を無意識的に抱えているように見受けられる。こういった感覚は私は現代では、むしろ当然の身体感覚だと評価していいと思うのだが、それを言ってしまうと信仰的成熟度が低いと評価されることになるのだと思う。これらの布教戦略が「できて一人前」という信仰的イニシエーション採用している限り、この「やらされている感」から抜け出すことは不可能だと思う。

言葉の温度差

先週の天理時報4231号を読む。やはり震災記事が多い。その中で2ページにある「和楽」という記事に目が留まる。著者は苗字しか出ていないが、他の震災記事とは一線を画す生々しさを感じた。文面からは筆者が被災者であることは分かるのだが、その強いメッセージ性に圧倒される力強さを感じた。私のように外部から震災を観ている人間の書く物と、安全な場所から一時的に被災地に乗り込んだ方の書き物、そして被災地にずっと留まざるを得ない被災者の書く物の間には絶対的な温度差があると感じられる紙面であったように思う。だから余計に、安全な地域にいる人の文面は「教えに基づいて行動しよう」という、あたかも言いそうな定型句の空虚さが目立つように思う。それは、また私のブログでも同様な距離感があるのだと思う。だからといって、安全な土地にいるものが発言をしてはいけないということではない。ただ、その被災者の温度差を意識している方がどれほどいるのかと問うてみたい。それは同じ2ページで扱われているが、今後天理大学が目指す「被災者の心に寄り添い、癒しを与えるための宗教性」ということに深く関わっていると思う。概念だらけで、分かるようでまったく分からない言葉が天理時報には多いと感じた。自戒の念を込めて。

教義の学問的証左

今回はある教会長さんとのメールのやりとりの私の送信済みメールをアップしたい。この会長さんは、非常に博学な方で、かといって教義を押し付けないバランスのとれた方である。メールをしていると、私の知的好奇心がかき立てられ言いたい事がさくさく出てくるという、会長さんとして理想的に教化的な方である。その方への返信として私の文面はちょっと生意気であるが、せっかく長文を書いたのでブログの記事にかえたい。

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前回のメールにてAさんのメールでは信仰と学問的意義の2層で論理展開がされていると感じました。信仰という視点では、Aさんが信じて取り組んでおられることに私が口を挟む余地はありません。

一方で、学問的意義で言えば私はAさんのおっしゃられる教義の「学問的立証」という点が理解できません。私が拠り所とする思考は科学であり反証をするのが主な作業であります。その点で申し上げますと、教義の学問的立証という視点は論理の信頼性や妥当性という点では懐疑的にならざるを得ません。科学が扱う絶対的数字でさえも、publication biasがあり研究者の都合よく利用することができます。その点で、何をもって学問的立証と思われるのでしょうか。Aさんのメールからは「旧帝大の偉い人が言ってるから」という権威主義的な視点しか感じられませんでした。

私の大局的な考えを申しますと、教義の真偽や発展については天理教研究者やコアな信仰者以外には、そんなに重要ではないと思います。それは前にも申し上げましたように教義の是非に触れることは、信仰の根幹に触れることであります。その根幹に容易に触れることがあっては、根幹から崩れる危険性を孕んでいます。教義を語るときは畏敬の念をもって「ちょっと正座でもしましょうか」というような雰囲気で接するべきだと思います。たとえば、家庭であっても家族の根幹を構成する両親の性体験なんてものは触れるものではありませんよね。だいぶ性に対してオープンになってきましたけど、やはりわれわれの世代では家庭で性を扱うことに対して抵抗を感じます。それは「古い世代」ということではなく、やはり家族の根幹に触れることに対して「触れないほうがいい」という当然の身体感覚だと思っています。閑話休題。

学問的意味については、それは天理教のお抱え学者(天理大学)がすればいいと思います。また、私はその真偽性を確認することに労力は注ぎたくありません。しかし、その可変性をもった教義理解に対して現実問題にはなかなか適用できないことを信者は忘れてはいけないと思います。つまり、添付していただいた神殿講話文ですが、その中の「月日親神が心を尽くし切って創造した人間であるのに、それを知らないで上層階級の人々が、この世を自分たちの思うがままに支配しているのは大変残念である」といっておられることは、今回の震災を読み解く上では大変ラディカルな疑問を私は感じました。他人事のように、あたかも天理教人は「私たちは高山に虐げられている」という被害者面が感じられます。これは内省という視点に多分に欠けるのではないでしょうか。東大生が「俺さ勉強できないし」と言ってるような違和感を感じました。私は教義の真偽よりも、私はその態度や考え方を問題にしたいと思っています。
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以上である。

天理教から原発を見る

まずはここまでの展開を整理したい。まず地震といった自然災害は天理教教義に引用されている(と聞いている)。そのため自然災害の天理教的解釈を行う場合には、教義を参照すればよい。しかし原発は自然災害ではない。原発は人工物である。人工物による人為的災害が記述してある天理教教義は私は知らないし、聞いたことがない。人工物ということは、間接的に人工物を欲望した我々が招いた結果でもある。この結果に対して「原発はいかん(遺憾)」と直接に批判することも大人としてナンセンスであると思う。なぜなら、我々こそ原発の利益を多分に享受しているからであり、その自省的思考がワンクッション必要なはずである。被災者の数や規模も重要なファクターである。例えば、人為的である交通事故災害などの規模が小さい災害であれば(といってしまうと当事者の方には失礼だが、敢えて学問的議題として)、それには個別の身上(病気)、事情(悩み事)のように個人の運命論的解釈が着地点となる。会長から信者へ「神様があなたに与えた試練である」と個人に帰結することができる。原発による解釈を難しくしているのは、その災害が大規模かつ限定的に行われていることである。つまり天理教的に原発を読みとく場合には「なぜ福島の人が被災して、それ以外の地域にいる私は大丈夫なの?神はなぜ福島の人に厄災を見舞ったのか、福島の人だけが神の逆鱗に触れる行為をしたのか。そんなわけない。なぜ神は福島を選んだのか」という自問が必ず暗く横たわってはいないだろうか。天理教の中でこの原発問題で口を割る人がいないのは、やはり暗にこの問いを意識しているのではないだろうか。いや、意識してなくても簡単に口を割れない雰囲気を感じているのではないだろうか。私は、もしこうした答えのないアポリアに対して自問や戸惑いがないことは、すでに宗教家、信仰者としの感受性を放棄していると言ってもいいと思う。原発について調べていると以下のような記事を見つけた。

http://www.yomiuri.co.jp/feature/20110316-866918/news/20110422-OYT1T01000.htm

ベネディクトが正解だとは思わない。しかし彼の戸惑いは人間と神に対して何より率直なものであると思う。天理教では、何人かの「偉いセンセイ」が、すでに「此度の震災は、我々の心遣いが悪いからである」という明快な回答を信者と神に提出していると私は聞いた。しかし彼らは被災者からでさえも「なんで?」と問われたときに同じように明快な回答ができるだろうか。できるのであれば私は彼らの信念を尊敬し、彼らの万能感を嫌悪するだろう。宗教家や信仰者は教義に沿った回答を求められるが、それが現実の身体感覚からズレることも必要なことだと思う。「いや、ズレてはならん」という宗派や学派があっても、それは全く問題はない。しかし「陽気暮らし」という金科玉条を掲げた天理教は、教会長のプライドよりも「目の前の弱者」を一顧だにしないわけにはいけない。なぜなら人間は神ではないからである。天理教外の人が天理教と聞いて「道徳的な宗教」と思う人は少なくないはずである。私もそう思う。しかし、その発展を寄与するような「より道徳的であろう」とする思想的風土は天理教人をみて少ないと感じる。倫理学のように天理教における最大多数の最大幸福を求めるような風土があってもいいと思うのだけ、そういった発展的であることを回避する傾向が強いと感じさせられるのは残念である。なぜなら今後、より教義では間に合わない今までの経験では追いつけない出来事がでてくるだろう。そのときに天理教人としてどのように思考し、行動するかは日常的に準備しておいて陽気暮らしから遠ざかることはないと思う。ということで、天理教的原発の見方は「自分でよ~く考えて」ということです。それしかないんだよ。ほんとに。

ちょっとまってね。原発の見方。

前回、原発の天理教的見方を考えようと予告した。その後、私なりに現在の日本での原発を巡る思考をなぞとうとした。しかし、いくつかの思想家(中沢新一、東浩紀など)の原発に対する見解を読んだ。中沢新一は、震災後に色々な方面からコメントを求められたが、あえて口をつぐんでいたようだ。
大きくまとめると、津波と原発はいっしょに論じられているが、全く異なるということ。原発に取り組むには今まで用いられなかったような全く新しい解法が必要ということ。そして誰もその解法を持っていない。たとえ解法を持っていても、自分で考えることをしない日本人には、きちんと考えさせることが大切であること。それはWWⅡで国際的信用を失い、その後復興して、今まさに2回目の国際的信用を失っており、これからの対応次第では、日本として国際的立場は失墜する可能性が高い。その中で原発では一人も死んでないから大丈夫という新自由主義や頑張れば復興できると政府が言っている状況では、この国の将来は見通しが悪いという展開になっている。今までにない、思考や行動の転換を行わなければ日本人は生きていけない。むしろ、これはポストポストモダンを生き抜くチャンスなのかもしれないということ。
私も概ねこの流れには賛成である。私自身がよく考えずに「ちょっとどう考えたらいいの?」と知識人に頼ったのも恥ずべきことなのだろう。いまひとつ、私もよく考えたいと思う。天理教人も、この状況をどのように読み解くか考えるべきだと思う。

天理教は人災をどう紐解くのか

これまでに天理教はどのように東日本大震災を読解しているのかという点を考えてきた。その反応は賛否両論があったように思う。災害は神の残念、立腹という教義から「震災は神の天罰」(戒め論)という解釈が大勢であったように思う。しかしそのロジックを採用する限り、その場の理論的(精神的)安寧は得られるものの、災害が無くならない現実がある限り、長期的なフラストレーションに陥りペシミスティックが増幅し陽気ぐらしが遠ざかる危険性を私は提示した。その上で、どのように震災を紐解くのかは天理教災害救援ひのきしん隊の活動や、被災者の思いというリアルを想像されていれば天理教がどのような見解をしめそうが私は応援したいと思う。
このたびの震災で、ネットをはじめ色々なツールで天理教人も含めて多くの人が震災に対して声をあげている。もちろん政権への批判や原発への是非をめぐる激しい議論もある。天理教では、前述した震災に対する考え方や、被災地の悲惨さ、災害救援隊の活動状況などが多い。その中で、社会は大盛り上がりなのに、天理教人だけが口にしないテクストがある。それは原発という人災のこと。震災に声をあげている天理教人や講話をする先生方の話を又聞きしても、唯一聞かれないのが原発の天理教的見解である。原発に触れている話しや教義があるかもしれないが、天理教というオリジナルな見地から原発を語る話はきかない。
語られている問題よりも、語られないことがあるのはなぜかと思考を巡らすほうが本質的であることは経験的な身体感覚である。天理教人を見ると原発はアンタッチャブルな話題であり、どう読み取っていいかわからないから、誰かが口火を切るまでとりあえずスルーしているようにも感じる。天理教は人災をどのように見ているのだろうか。これは、天理教教義では追いつけないような新しいことであり、だれも言葉を持たないのだろうか。それとも本当に天理教では触れてはいけない“何か”があるのだろうか。次回はそのことについて「お道の視点から」を参考に考察したいと思う。

災害救援ひのきしん隊のブログとその他


コメントの暖かさとリアルな情報交換は秀逸。応援しています。頑張って!
http://ejsai9.info/blog/?p=91

何よりリンク先のYouTubeの歌が素敵ですな。
http://www.youtube.com/watch?v=WDmPGi8zPxs

フェイスブックにもあった
http://www.facebook.com/saiq.jouhou

できたてほやほやなんだね。検索しても出てこない。
http://www.kawaramachi.org/ukeire/index.html

天理教と情報統制について

天理教は震災のひのきしん(ボランティア)を積極的に行っていることは天理時報が教えてくれている。天理時報を発行している天理教所有の出版子会社の天理教道友社のホームページを見ると「道友社スタッフノート」という記者のブログができていた。知らなかった。そこでは震災での取材が毎日アップされている。http://www.doyusha.jp/doyu/blog/
先日メールをやり取りした会長さんは、天理教の出版物や言論の検閲の天理教内での厳しさを教えてくれたが、このようなホームページでの一記者の日記は新しい試みではなかろうか。しかしこういったオープンな試み(姿勢)を行っているからといって、天理教は外部に開かれていると評価することできない。こういった選択的検閲の最大のモデルは中国政府である。根本的には宗教団体は政治とは違うわけで、全ての情報をオープンにする必要はないと思う。しかし新しい流れであることは間違いないと思う。その背景には天理教の外部への意識が変わってきているのか、インターネットという制御できない情報過多への後手の対応なのかは分からない。しかしこの情報化の中で、庶民の天理教に対する発言は非常に多く聞かれるようになったと思う。ホームページだろうが、ブログだろうが、一信者が天理教を発言することは多くなっている。良い意味でも悪い意味でも。どこまでプライバシーを保護し、どこまで知る権利を保護するのか、とても難しい舵取りが試されていると思う。対応を間違うと、一つの針の穴からの情報流失が組織を崩壊させる危険性を現代は持っていると思う。