理の親論について論じると、多くの連絡をいただくが今回は返信している時間がなくて申し訳ない。
これまでの「理の親」論の中で、私は「子どもの権利ではなく、親の義務」を主張した。親の義務とは、自明のごとく子どもを養育することである。よく勘違いされるが、日本国民の三大義務の一つは教育を受ける義務ではなく、親が子どもに教育を受けさせる義務である。つまり親という役割には責任がある。それは天理教の理の親も親という言葉を採用しているので同等である。理の親がどのような崇高な教説を展開されようとも、子どもの生活環境や養育環境に責任が持てないのであれば、親の養育不足であろう。その養育不足が問題となるのが虐待であるが、この場合は宗教的虐待と概念づけてもいいのではないかと思う。なぜなら最低限の生活を保障せずに、親という特別な力を用いて親への忠誠を半強制的に優先させるのは、虐待と同じ構図である。
大切なことは、親には子どもにはない力があるということである。それを我々は権力という。「親と子どもは平等な立場である」という親の主張は、強者の理論であって説得力がない。前回のブログでも触れたが、私が知るところの(一部の)理の親は、非常に強い権力を持っている。具体的には理の子の財政に圧力をかけ、理の子の進路決定権を握り、理の子の信仰度を評価する。ここで非常にやっかいなのは、それが「素直」や「たんのう」「いんねんを断ち切る」という理の子の責任性や信仰性に変換されることであろう。もちろん近年では、そのような理の親の強権的な姿勢に歪みが入ってきているという話も聞く。
例えば、理の親の意向を尊重する形で天理の学校に行った理の子がいる。卒業後は就労したいが、天理教からスカラシップを付与されていたために、就労は許されない。しかし約束通りに卒業後に天理教施設で数年奉仕していては、せっかく学校で学んだことの意味が半減する。理の子としては一回きりの人生だから、周りを説得してスカラシップを返還してでもやりたい仕事につきたかった。しかしそのためにはスカラシップ返還のための手続きをしなくてはならない。それには実の親と理の親の印鑑がいる。しかし彼の説得と熱い意志に対して理の親は「契約だから」の一点張りで話も聞かない。実の親は理の親に依存しているために、「理の親がだめならダメ」という回答しか得られない。そして彼が選んだ道は「行方をくらます」という方法を選んだ。行方をくらますと言っても、逃げたのではない。自分のやりたい仕事(社会貢献という意味では立派な仕事である)を親の支援なしに選んだのである。スカラシップを許可する天理教本部の部署に「私の理の子は卒業後に天理教関連で奉仕します」と約束していた理の親は天理教関連施設で奉仕させるという天理教本部との約束を反故することになる。
自分の評価を落としたくない理の親は、理の子が自分の天理教関連施設で天理教業務に奉仕していると天理教本部に虚偽報告することで体裁を保っているとのことである。もちろん行方をくらました理の子は理の親の天理教施設で奉仕している事実は無い。将来有望な学生に対して、技術や知識、経済力を活かせなくするような契約は教育上に問題があるようなスカラシップでもある。学生のスカラシップに関しては、一定年限の関連機関での就労を条件にスカラシップを付与することは法人ではよくある。それにはスカラシップで学習した専門知識を社会に還元ということが前提になる。しかし現状の天理教のスカラシップ制度では、卒業後に数年の天理教関連施設での修業のために学校で得た知識を活かすことは難しい。その数年は若者にとって学習した知識や技術、意欲を風化させるには十分な時間である。この制度はお金の有効な活用と、教育的配慮という点で欠ける。
そもそも、この法人の趣旨は昭和3年10月18日、中山正善天理教二代真柱が結婚の時に頂かれた祝い金の全額を基金として創設。その趣旨は、天理教の布教師が後顧の憂いなく布教活動に専念できるように、親に代わってその子弟子女の教養を引き受けて扶育をし、持って生まれた徳分才能を伸ばす手助けをなし、育っては親同様布教活動に従事するように成って貰うことにある。こうした趣旨に賛同して寄せられた寄付金を蓄積し、その果実を以て扶育をなしつつ信仰の伝承を行い、次代を担う若人を教祖ひながたを辿るよふぼくに育成することが目的である。この趣旨は立派であるが、問題点を挙げるとすれば持って生まれた才能を伸ばす手助けをなし、育っては親同様布教活動に従事するように成って貰うという2つの文章を、契約という人間味のない形で実行しようとしている制度に問題がある。
昨年くらい、天理教教会の子女と天理で話をした。その方は旧帝大で学んだ後、契約通りに天理教関連施設で働き、その後は専門とも天理教とも関係のない会社で現在はバリバリ働いている。その女史が「スカラシップで学んだものは、大学卒業という肩書きだけである。大学で得た専門知識と人脈と貴重な時間は、その後の天理教関連施設で大きく風化した」と言っていた。これが天理教が育てようとしている親同様の布教活動に従事するように成って貰うことの結果である。私はこの現象は決して少数ではないと見ている。むしろ、青年期という多感な時期とアイデンティティの形成段階に、このような制限的契約は教育上大きな問題があるだろう。
数年前まではスカラシップの返還制度もなかったようで、卒業後は天理教関連施設での奉仕が強制されていた。現在はスカラシップの返還制度ができたようで、学校で勉強したことを社会で活かしたいと進路変更を強く願うものは返還制度を利用することになっている。しかし表向きは教育的配慮を見せているが、理の親の印鑑という強制力が確保されている。天理教本部も理の親を利用しているということは、その存在に関して同意署名しているということである。
また行方をくらました青年や、天理教関連で奉仕した後は一般企業に就職した方のように熱い社会貢献意欲と強い自己実現意欲を持っている方とは異なり、そのまま天理教関連施設で「道専務」(就労せず天理教の御用のみに従事する)になられる方も多数いる。しかし、この制度が彼らの天理教に対する篤い思いを醸成する蓋然性は少ないのではないかと思う。篤い信仰心を持っている若者であるなら、そもそもスカラシップを貰って天理教や宗教以外の知識や経験を学ぶ意味性は少ない。それとも天理教本部は在学中に意識が天理教に向かうためのマインドコ