作成者別アーカイブ: Cain

祈り


震災のニュースを見るのが辛い。見るたびに被害が大きくなっているからである。

今はどこに行っても、日本全体がhypomanicな状態である。これが落ち着いたときに真の落胆が待っていることは阪神大震災の教訓でもある。今は大きく注目されて、叫びを受け止めてくれる雰囲気があり、非常事態という連帯があり、言葉は悪いが一種のお祭り精神状態である。今後、とりあえずの救援活動が終了し、海外からの興味も落ち着き、被災者が真に喪失体験と向き合ったとき、そこには大きな孤独と悲しみが横たわる。そこに真の支援が必要とされる。

天理教では3/12-14の正午に全国で、天理教のお祈りである「お願いづとめ」が行われたようである。教会本部の神殿には、平時にもかかわらずあふれるばかりの人が震災の最小の被害と早い回復を祈ったと聞いた。人間の無力さは十分に震災で証明されたが、こんなに人間が心強いことはないと震災で気付かされるという側面もある。

天理教には「災害救援隊」という自己完結型の救援組織がある。その災害救援隊も現在被災地で活動が始まっていると聞く。自衛隊や米軍などのように大きな活動はできないだろうが、天理教ほど全国津々浦々にわたる共通マインドを持った組織はないだろう。天理教の災害救援隊の活躍を期待するとともに、本当に大切な真の助け合いがなされることを願う。

被災した方すべてに、神のご加護を祈ります。

東北地震について

被害にあわれた方のご冥福と被災された方の回復、一つでも少ない被害をお祈りします。祈ることしかできませんが、阪神大震災の恐怖を知っているものとして、今は最小限の被害を願っています。

天理教の方から、昨日から3日間、天理教本部にて正午に「お願いつとめ」というものが行われるとメールを頂きました。「お願いづとめ」とは、被災された方のお見舞いと被害拡大の阻止、そして早い回復をお願いするおつめとのことです。天理教本部に行けなくとも、同時刻に神にお祈りするとのこと。私も祈ります。

宗教法人への風当たりと、かなめ会という俗物

ここのところ日本での宗教法人についての動きが感じられることを報告したい。ある方から、天理教のかなめ会の2月定例会での議題について教えていただいた。かなめ会というのは、天理教本部に直属する会長らの集まりである。表向きは親睦会的なものらしいが、実質的には宗教法人天理教の支配権を握っているといわれている(私も正確なかなめ会の機能は分からない)。その中で1月に朝日新聞が「休眠状態の法人の実態、その法人の売買が問題となっていること。行政の不活動法人の整理縮小は進んでいない」という記事が紹介されたようで、各直属教会でも教会の整理をすすめるようにとの話があったようだ。。

http://www.asahi.com/national/update/0130/TKY201101290388.html

自明のことだが、宗教法人は税制面でかなりの優遇措置を受けている。これは世界基準である。しかし日本の場合は制度が緩く、一度法人資格を取得すればそれを維持することに大きな労力とならない。一方アメリカでは、日本と同じく税の優遇措置は同じだが、その基準や管理体制は厳しいと聞く。法人資格を取得しても、その運営面での監視や提出書類は厳格なようだ。そういった側面からも、現行の制度のままでは「宗教法人だけ特別なんておかしい」という世論が形成されるのは時間の問題となるだろう。かなめ会では、その点を考慮し「今後、活動実態のない法人への風当たりは一層厳しくなる。天理教も社会に誤解を招かないためにも不活動法人の吸収合併、整理縮小を行っていくべき」とのお達しがあったとのことである。私はこれを聞いて天理教が社会的な流れに歩調を合わせていく方向性であることを確信した。同時に、初代真柱が天理教への弾圧を弱め、社会的信用を得るために教祖の意向をスルーした流れが今の天理教であることを再認識した。

そしたら、先週木曜日発売の「週刊新潮」にて「宗教法人に課税せよ!」という記事が掲載されたのは、偶然ではなかろう。私はまだその記事を読んでいないが、聞いたとろこによるとその中で天理教に言及されているところはないらしい。槍玉に挙がっているのは、創価学会、幸福の科学、金閣銀閣寺など莫大な資産がありながらも運用面で不透明な教団である。記事の骨子としては宗教法人に課税することで、4兆円の税収が見込まれるとのことである。4兆円は大きいが、これはあまり現実的ではない。しかし宗教法人課税に対して世論が流れていっていることは分かる。

そしたら、今朝の朝日新聞に「遺産の預貯金9千万円を宗教法人へ 遺言書偽造事件」とうい記事が出た。暴力団が宗教法人を購入し、その法人を利用して税を逃れていたという事件である。色んな出来事が線でつながり、私はちょっと恐怖を覚えたほどである。流れは一気に宗教法人への風当たりを強くしている。これで、テレビメディアが食いつけば一気に世論が形成される。おぉ怖い。

http://www.asahi.com/national/update/0305/TKY201103050381.html

宗教法人の税制優遇措置は有名なことだが、天理教としては大きな問題ではないと私は感じる。天理教本部は、毎年天理市に対して用途を指定しない30億円超の寄付をしているからである。だからといって天理教は大丈夫という問題ではないが、被包括法人の天理教で活動実態の少ない事情教会といわれる教会の整理縮小は進められるべきであろう。
税制や不活動法人の問題よりも大きな問題と私が感じることがある。それは、かなめ会という天理教の中枢の実権を持つ組織で、教義とのすり合わせなしに社会的迎合方針を打ち出していることである。なぜならば、各教会の設置には神の許しが必要であるからである。その神の許しを、社会の流れに応じて人間の手で整理、縮小することに何の違和感がないままに進行していることである。かなめ会の総意として、そういうもん(神の許しなんて人間の作ったもん)だと言われてしまうと反論できないが、天理教の異端の多さの核心には、こういった教義的論理矛盾があるのだと思う。長期的視点で、そういった方針が天理教に利するはずはないと私は思う。

$天理教社会学研究所

現代日本社会を最悪に評する天理教

先週の天理時報4218号にて。紙面5ページの「クローズアップ旬の本」を取り上げたい。布教所長でもあり、脳神経外科医師の方の本が天理時報記者によって紹介されている。私は本書を読んでいないために、本の内容がわからない。しかし、この書評を読む限りは非常にトンデモ本であるようだ。トンデモ本なのか、トンデモ本にしているトンデモ書評なのかは本書を読んで判断してほしい。
本の紹介は3段落目から開始するのだが、その前にある2段落の意味がさっぱり分からない。紹介しよう。

 「高止まり傾向の続く自殺者数、ニートと呼ばれる若者たちの増加、相次ぐ児童虐待や凶悪犯罪・・・。
 一見すると理解できないような事件・事象が続く現代社会。昨今、当事者や周囲の人々の“心の問題”にスポットを当て、事態の解明や対策を急ぐ気運が高まっている。
 本書は・・・(中略)が、長年、治療に当たってきた頭痛やうつ病についてまとめたもの。」

とある。この部分は本書の引用ではないし、この文脈が3段落目(「本書は」)に引き継がれているわけでもない。この記者がどの程度、もの書きとしてのトレーニングを受けているのかは甚だ疑問だが、発行部数17万部のもの書きとしては責任感と国語能力が低すぎではなかろうか。まだある。本書の著者は大学教授まで登りつめた方である。その方が何を書いていようが、書評をするのであれば、その価値を減じてはならないのが最低限のマナーだと思う。嘘をついてまで賞賛する必要もないが、最低でも読者に購読意欲を沸かせなくてはいけないと思う。しかし、この書評を読んで読者はどうだろうか。私は少なくとも「こんな本に金を払う気はないね」と思わされた。そう思ったポイントは以下である。「本編でも、頭痛の中でも見逃されやすい片頭痛や、うつ病が発生するメカニズムと対処法について解説を加えつつ、それらを解決するキーワードとして「耐える、こらえる、踏ん張る」「依存から自立、そして自活」の二つを提示する。」と引用している。しかしこの引用では、非常に誤解を招く恐れがある。詰まるところ、うつ病の人に対して「耐えろ、こらえろ、踏ん張れ、依存するな自立せよ、自活せよ」と言っているに等しいのである。きっと前後の文脈を説明していれば、誤解を招くことはないだろうけど、この書き方はマズイのではないだろうか。もう1つは、本書からの部分的な引用が多すぎるために著者のエピソードの質が軽く扱われている点である。軽く扱われているために、読者にはうんざり感が漂う。というのは、貧しくも心豊かに暮らした少年時代の思い出、高校生のときに父親から「お前、医者にならんか」と言われて医師を目指したことなどである。これがリア充によるリア充の論理に聞こえるのはルサンチマンの私だけだろうか。ちょっと年配の上司が「我々の学生時代なんてね、マージャンばかりしていたよ」というような「めんどくせぇ自伝」を聞かされている倦怠を感じないだろうか。
でも、まぁ著者も本書の冒頭で「一見平和に見える日本社会は、自殺者が世界で八番目に多く、うつ病が増加し、ニートやフリーターによる生産性の低下を招き、虐待の増加などキレやすい社会に移行している」という大概な責任棚上げ論で、ニートやフリーターの方から反論されてもいのではないかと思う。社会学的視点で書き直すのであれば、「一見平和に見える日本社会はやっぱり平和で、うつ病増加は製薬会社の策略で、生産性の低下は労働人口の減少であるが、低賃金で質の高いフリーターが日本の生産性を担保している。虐待の増加は、氷河の一部が情報化で顕在してきている。現在の日本で一番犯罪率が高い(キレやすい)のは60代の男性である」となるだろう。

結論として、天理教の存在意義を際立たせるために現代社会を露骨で恣意的な悲観論へとロジックがすり替えられている。天理時報を天理教とするならば、天理教が率先して悲観を牽引していることは悲しいことである。しかし、あまり悲観的になりすぎてしまうと宗教の意味がなくなってしまう。どんなに社会や人々が悲観的であっても宗教家こそ諦めずに希望を持ってほしい。

「いやいや、こんな日本も捨てたもんじゃないよ」というロジックを天理時報が採用すれば、もっと天理教を信頼する人は増えると思うのだけどな。私は日本に生まれてよかったと思うし、皆一生懸命生きてると思う。色々あるけどそんなに悪くはないし、少しでも良くなってほしいと思うのだけど。天理教の時代は終わったのかな。

天理教の見方、考え方

先週届いた天理時報(4217号)での感想。最後の6ページでの「現代社会と家族」というテーマで天理やまと文化会議委員のPh.Dを持つ教会長さんのエッセイがある。そのエッセイを読んで、私は非常に共感を覚えた。というのは、私と非常に同じような考え方であったからである。
天理教の教義では、この世は神の創造である。それは天理教的事実である。しかし神の創造だからといって全てが神の意思ということではない。体は神からの借り物であったとしても、その心や魂は我々の意志に委ねられている。神の意志かvs人間の意志か、この線引きはとても難しく、天理教教団がこの線引きに対して厳格なラインをひかずに曖昧さを持っている姿勢は私はとても大切だと思う。神の意志に委ねすぎる危険性を私は常々警鐘を鳴らしている。神の意志に委ねすぎると、人間の曖昧さ、不確実性、反省、失敗体験などを奪いかねないのである。そして神の意志の名のもとに天理教人は無力となり、思考停止となり、自身が神となる勘違いを起こす。こういった事態に対して私は「ちゃんと自分で考えたほうがいい」という姿勢を一貫して持っている。陽気ぐらしというのは最終目標ではあるが、何をもって陽気ぐらしというのかは個々人が考えなくてはいけない。某教会長が言うように「笑いながら暮らすのが陽気ぐらし」という非現実的な目標を掲げるのも結構だが、そういった無自覚的な人間こそ、「親の言うことが聞けないのか」や「素直になれ」と周りの人間を虐げているのを私は見てきた。そのような経験から神の意志というファシズムこそ、私は怖いものはないと思う。
そういった観点から、先週の天理時報のエッセイは好感が持てるとともに、教団が緩やかな教義修正に入っているのではないかと思う。そのエッセイの骨格の部分を引用する「私たちが普段「当たり前」だと感じている価値観の中にも、その依拠するところが実は「不確かなもの」であることがある。常識という“色眼鏡”を着けたままでは、物事の本質を見誤ってしまう恐れがある。」ということである。これは、一見「当たり前だぜ」と思うことなのだが、大切なことはこの天理時報の読者の大多数が天理教信仰者であることだ。つまり、天理教信仰者に対して「あなたの常識はズレているかもしれないよ」というメッセージであると思う。たぶん。天理教人にとっての常識とは何か。紙上では主に「家族団らん」のことを指してはいるが、天理教人が依拠する教義を「実は不確かなもの」と言っていること、またそれを記事にした教団の姿勢はおおいに評価できるのではないだろうか。家族とか、愛とか、信頼とか、そんなものを神は用意してくれない。むしろ、そんなモノはない。だからこそ、種をまき、大切に育んでいく必要があるのだと。「親のためにきちんと成長しろ」では誰も育たない。目の前にいるのは、神ではなく人間なんだよと。そういうことを考えた。

神は死んだ さてどうする天理教


前回の記事で「神は死んだ 我々が殺したのだ」というタイトルは、私のオリジナルではなくニーチェの言葉ですからお間違えなく。神だから死ぬことはないけど、我々「人間界」において神は死んだという意味ね。ニーチェはその時代背景もあり、理性(人間の思考)の延長である神と絶縁することによって、キリスト教に抵抗した。しかし彼が抵抗したものはキリスト教であって、キリストではない。つまるところ、天理教に関してよく言われる「教えは好きだが、組織は嫌い」というのと同じベクトルだと理解していいだろう(ニーチェに関しては僕は詳しくないので、間違ってたらごめんなさい)。
ここまで言って気付いたのだが、このブログのサブタイトルが「Gott ist tot.=神は死んだ」である。我ながら、なかなかのセンスである。「神は死んだ。さて天理教はどうするのだ」というのがこのブログの骨子なのだと改めて思う。

参考文献
http://www.amazon.co.jp/gp/product/images/4003363922/ref=dp_image_0?ie=UTF8&n=465392&s=books

神は死んだ、我々が殺したのだ

ある教会子弟の、ある天理高校生と話す機会があった。その子は天理高校で寮生活を送っていたが、3年生で卒業前のため、1月いっぱいで寮を出て、実家である地方の教会に帰っているようである。その子が天理大学進学に際して親子で(親は教会長)色々と問題が勃発しているようなのである。問題は、自由にしたい子どもと、制限する親というどこにでもある構図であり、誰でも見覚えのあるInitiationである。しかし様相は一般的な発達段階でのInitiationとは異なるようだ。というのは、その子が怒っている核心は自由の獲得ではなく、“親子で向き合えない”ことだというのだ。その子は教会で生まれ、育ってきたために教会の経済状況や身分の公共性というものが身体化している。そのため「あれ買ってほしい」や「皆こうしているから私もこうしたい」などと要求を強引に押し通すことは言わないし、現実検討能力は非常に高い子だと私は思う。まー年頃だし親子だからある程度は無理なことを言ってるかもしれないけど、それが無理なことも承知しているだろう。しかし、大学進学に際し経済状況を鑑みて「もっとこうした方が教会のためにもいいんじゃないだろうか」という提案をすると、教会長である親御さんは「お前は分かっていない」や「親の言うことが聞けないのか」と議論を摩り替え、恫喝するようである。その子いわく「いっつも同じことの繰り返しなの。どっちがみんなのためになるか、どっちが効率的かという議論よりも、彼(親)には“自分の考えに意見されるのが許せない”のよ」ということである。なるほど高校生にしては、なかなかの洞見である。結局、現在も平行線のまま冷戦が続いているようである。
 先週の天理時報では天理教の“談じ合い”の大切さが書いてあった。談じ合いとは、つまり話し合いということだろう。しかし、上記の事例ではその談じ合いの屈折したパワーバランスが露呈している。強者による談じ合いこそ怖いものはない。一昔前(5,6年前)に、私も天理教人の会議に何回か招待されて参加したことがある。会議では議論が煮詰まってきたり、意見が分かれたりすると、その会議で一番偉い人(理の親)が出てきて「神様はこう言っている」と言って、その偉い人の意向に沿う形で神様は利用され、そのまま議決されることがかなり多かった。会議という民主的な場が、一瞬にしてファシストとなる。その「話し合ってる意味ないじゃん的嫌悪を感じたため、私は出席を拒否するようになった。あの天理教の、強者による、強者のための会議は思い出すだけで気分が悪くなる。きっと、天理高校生のその子も同じような気分の悪さを味わったのであろう。しかし、私は思う。その教会長の親御さんもまた、その気分の悪さを数多く潜り抜けてきたサバイバーなのだ。だから自分が上の立場に立ったときに、同じような仕方で強権力を発揮せざるをえないのだろう。だって、天理教内で育ってきた教会長はその方法しか知らず、弱者の話を汲み取るという経験がないのだから。そう考えると誰も悪くない。ただ、それを許せば、その子が将来的に天理教に嫌気がさす蓋然性は恐ろしく高いだろう。天理教を信仰することに「意味ないじゃん」とならないように“談じ合い”の基本ルールを定めてみてはどうだろうか。もしくわ、談じ合いを撤廃し、教会長の権限を明確にして徹底的な縦社会を構築するかである。自由と制限こそ、宗教がもつ葛藤なんだと思う。教会という閉鎖空間では、そのコントロールは教会長に一任される。しかし、その教会長の質が問題となる場合が多い。ある一定の実働的な監査制度がないと、天理教は足元(教会)から少しずつだが着実に崩れていっている。

私は例えそれが間違っていても、常に弱者の味方でありたいと強く思う。

メディアリテラシーと八百長

以前から公言しているように、私は大相撲ファンである。朝青龍が問題を起こせば「若者はやんちゃくらいがちょうどいい」と擁護し、品格問題が出れば「品格なんて口に出すものじゃない」と擁護し、賭博問題が出ても「相撲賭博なんて江戸文化だ」と私は相撲を擁護している。賭博があるということは、八百長があるのは当たり前である。大相撲はいつの間にか国技になり(国は相撲を国技と決めていない)、祝祭性のある神事のはずが健全なスポーツになっている。そのために何かあれば批判される。たかが神事と考えれば、賭博も品格もやんちゃも大した問題ではない。だって神事の本質は人間にとっての非日常性だからである。当人達がよければ、ある程度のことで「あーだこーだ」言うものではないのだ。日本の伝統文化(舞妓、歌舞伎・・・)とはそういうものである。興味のない人があまり他所の台所に入らないほうがいい。

今回の八百長疑惑も大した問題ではない。しかし私は八百長報道に怒りに近い疑問を持っている。それは警察の情報操作である。まずは事件を追ってみる。警察は賭博問題(犯罪)に対して数人の力士に対して強制捜査を行い、携帯電話を押収した(捜査権)。その携帯電話に八百長の疑惑となるやり取りがあった。それを警察は第三者の毎日新聞にリークした。ということである。これは警察の職権と証拠の乱用ではないかということで私は恐怖を覚える。ついこの間検察の証拠改ざん事件で、証拠の扱いに関して問題とされたばかりである。捜査目的外に証拠を利用し、第三者に漏らすという今回の警察の意図は悪意に満ちてはいないだろうか。そしてメディアも誰もこのことに怒りを示さないことが怖い。「今度は八百長ですか?まったく相撲界は腐敗しており遺憾ですな」と言ってる場合ではない。

例えるならば、あなたが痴漢疑惑で警察に取調べを受けて、警察があなたの携帯をみて「あなた浮気もしてるんじゃないの」とあなたの奥さんにリークするようなものである。こんなことがあっていいのだろうか。人を罰しようとするときの正当性を帯びた攻撃は非常に怖いものである。

今回は天理教に関係がないことで申し訳ない。

世界ろくじに踏み均せという神の真意への誤認

1月は天理教にとって教義的に大きな意味を持つ。陰暦1月26日は教祖が肉体的に亡くなった日である。そのため1月は全国各地の天理教会では、大祭が執り行われる。このことは先週届いた天理時報に載っていた。天理時報では26日の天理教本部での春季大祭がメイン記事であった。その中で、真柱は春季大祭の意義について振り返った。天理時報では度々真柱の言葉である「世界ろくじに踏み均せ」との言葉が扱われている。そこで私はハタと立ち止まる。「世界ろくじに踏み均せって何だったけな?」と。私は知っていたはずである。なぜなら、過去にこのブログで扱ったことがあるからだ。えぇーと。あのときには知り合いの天理教人に教えてもらったはずなのだ。記憶が定かではないが、そのときに教えてもらったのは、教祖は115歳生きられるところを25年縮めて90歳で亡くなった。その際に教祖は人間に「さぁさぁ扉ひらいて、世界ろくじに踏み均そうか」と問いかけたそうだ。それを聞いた人間は当初、意味が分からなかった。「扉ってなんの扉だ?でもまぁ、何にせよ閉じるより開いた方がいいから開いてもらおう」ということで、「開いてくだせぇ」とお答えした。そして教祖は亡くなられた。その後の教祖の言葉を伝える役であったものから、「教祖が扉を開くと言った真意は、後は君達が天理教の教えを実践しなさいということ。いつまでも教祖に頼っていてはダメよ。君達人間が教祖抜きで自分で考えて陽気ぐらしの実践をやりなさい」という親心で教祖は25年寿命を縮めたと私は理解している。私も「世界ろくじ」の意味がイマイチ理解できていなかったが、天理時報における真柱の説明では「ろくじ」とは「単に主主の不平等や不公平がない世の中というだけではない」と書いてある。つまり「さぁさぁ扉ひらいて、世界ろくじに踏み均そう」というのは、お前たち人間が世界の陽気ぐらしに向かえ」ということになる。
私がこの件で大変興味があるのは、陽気ぐらしに向かうための天理教学的意義ではない。私が最も興味をひくのは教祖の言葉を人間が理解できなかった。「扉を開く」ことに対する誤認があったということである。教祖も人間が理解できないような言葉を使用するというのは少々イジワルな気もしないわけではないが、受け取った人間が神の真意を理解できなかったということである。このことに私が大変な興味を示すのは、それが教祖の死を招くということではなく、信仰というもの、人間というものの根底を示すものだと思うからだ。私は色々な状況においてコミュニケーションというものを重視する。そのコミュニケーションは言語的なやりとりから、世代間コミュニケーション、前回扱ったようなレヴィストロースのような歴史的、民族的コミュ二ケーションこそが人類の生の本質であり、目的であると思う。そういった観点から私達にできることはコミュニケーションを志向すること、相手の思いを理解しようと努め、他者に伝えることである。それが言葉だろうと、信仰だろうと、種だろうと同じことである。すべては誤認、誤解、無知から始まるのだ。まずはそこから始まると思う。もちろん、その先にも100%の相互理解なんて有り得ない。分かっていても分かっていないことだらけである。何十年一緒にいる家族ですら理解できないことがある。そういったコミュニケーションの志向性と、理解への慎みことが大切なんだと私は思う。そういった意味でも天理教にとっての1月というのは信仰の基礎、人間の基礎を振り返る大切な月なんだな思う。ということを天理時報をみて考えた。

構造主義から天理教を観る④

文化人類学者のレヴィストロースは、世界各地の未開地民族のフィールドワーク研究を行ってきた。彼は宗教研究(シャーマン研究や神話研究)も行ってきたもので宗教にも精通しており、その業績は膨大で偉大なため私のブログよりも著書をあたってほしい。ただ、彼の宗教論は私もよく知らない。というのも彼が世界に名を馳せたのは「野生の思考」という著書である。これは哲学書や思想書ではなく、彼のフィールドワークに基づく実際の報告書なのである。この中で、従来まで未開地民族を野蛮として扱ってきたマルクス主義の“知識人による上目線”を快刀乱麻を断つように痛烈に批判した。その大きな武器となったのが構造主義である。その彼がフィールドワーク研究から得た知見を元に集約したのが「親族の基本構造」という本である。その中で人類の発展を構造主義的に読みほどき、人類の継続(結婚というコミュニケーション)には“女性の交換”が必要不可欠という慧眼を得る。またその女性の交換を促進するキーポイントが近親婚の禁止(Incest Taboo)である。
 コミュニケーションの活性化(人類の継続)を行うためには、交換を行う必要がある。経済であれば貨幣の交換(流通)である。貨幣は持っているだけでは意味がなく、使って初めて価値が生じる。そして二者間での交換を限定交換、色々な人との交換を一般交換とした。限定交換とは、二者間、つまり自分が働くお店でしか物を買わないということである(スーパーと小売の取引は無視して)そうすると、自分とスーパーだけでしかお金は動かない。レヴィストロースはこういった二者間での交換を限定交換といった。一般交換とは、実際生活と一緒で色々な場所でお金の交換を行う、買い物をする場所が色々あるということである。そうすることでお金は流通し、そのお金は多数の人のところに行き渡る。一般交換することで誰も得はしないし、損もしない。しかし常に動的状態となる。動的状態とはどう意味を持つか。それが生き続けるということである。選択肢はたくさんある方が楽しいのである。それを婚姻に当てはめると、二者間で女性を交換しても人類の発展はない。「うちの娘をやるから、あんたの娘をくれよ」では、男女の数の偏りによって消滅する。むしろ色々な人と交換することで発展するのだ。それを促進する最大の機制として発見されたのがIncest Tabooである。Incest Tabooがあることで、二者間の流通を抑止し、他民族、他親族への女性の交換として成立する。女性を迎え入れた親族は、自分の娘を嫁に出す(反対給付)ことで家系図は拡大する。またタイムラグが生じることで世代間交換が成立するため、親族(人類)は発展する。我々現代人にもIncest Tabooが存在する。しかしそれは遺伝学に基づく優生学的問題があるからである。しかし遺伝学的な問題だけだろうか。民法に3親等以内の婚姻が禁じられているからというよりも、もっと大切なのは「それってよくない感じがする」という倫理観である。我々は潜在的に“血が濃くなる”ことに対して「んーちょっとなー」という違和感を持つ。文化人類学的なIncest Tabooとは、そういうことであり、遺伝学を知らない未開人にも共通したものとなる。「それってよくない感じがする」という違和感は、レヴィストロースに言わせるならば、人類発展のために必要な身体感覚(無意識レベル)なのだ。畢竟、それを否定してしまうと自分の存在すら否定しかねない状況になる。ここで一つの疑問が生じる。「なぜ女性の交換であり、男性の交換ではないのか?」ということである。実は私もこの点にはすっきりしているとは言い難い。父権性社会が主であるために女性が交換主体とならざるを得ない(交叉いとこ婚)という説明(説明といってもレヴィストロースはフィールドワークだから、自分の目でみてきたことを言っているに過ぎない。そのため、別にレヴィストロースが編み出したものではない)は、「なぜ男性の交換はだめなのか」という説得性という意味ではイマイチである。女系の民族(exカンボジア)には適用し難いものがあるからである。しかしここに天理教の教祖は女性であったということでオリジナルの研究が発展できそうだが、誰かやってないのだろうか。
前置きは長くなってしまったが、レヴィストロースのいう「外婚」(私のいう教外婚)こそが、人類を継続させる本質なのである。つまり他親族、他民族との女性の天理教信者の交換こそが天理教を維持する文化人類学的回答なのであるり、私の回答でもある。今後天理教の衰退に歯止めをかけるためには信仰的近親者との婚姻は避けて、非信仰者との婚姻を推奨した方が天理教を維持できる可能性は高い。だって、私達が現在も先祖の血を脈々と続いてきた事実があるのだから。

さて、サッカーも勝ったし寝ましょ。

参考文献
クロード・レヴィストロース「野生の思考」
上野千鶴子著「家父長制と資本制」