最近日が暮れるのが早い。まだ明るいと思い込んでいて、外が真っ暗だとびっくりする。毎年同じ驚きを迎える。四季のある日本はいいなぁと感じる。年を取るとはこういうことを言うのだろうか。
ここ2ヶ月ほどコンスタントに天理教的体験を多くしている。その一つに、ある女性と話したことを振り返りたい。詳細は割愛するが、その女性はタイトルにあるように「理の親」ということで悩んでいた。天理教以外の方に説明するが、「理の親」というのは信仰の上での親のことである。私を信仰へと導いてくれた人が「理の親」ということになる。それが何故悩む原因になるのか。それは「理の親」には、更なる「理の親」がいて、その上にもその「理の親の理の親がいて・・・というように真柱あたりまで続く。私も教義上の解釈や詳細は定かではないが、信仰上の親という概念は間違ってはいないだろう。教会単位で考えるともっと分かりやすい。信者は所属する教会が「理の親」であり、各教会の理の親は大教会で、大教会の理の親は教会本部ということになる。似ている世界としては任侠の世界である。私はつくづく天理教の世界はヤクザ世界だと思う。
説明はこのくらいにして、その女性が悩む理由は結婚について理の親たちのいうことが全く異なるということだろう。一方では結婚賛成、一方では結婚反対、一方では結婚保留(ふせこみなさい)などである。そして理の親全てが「理の親に喜んでもらうために」というレトリックを用いて自分の思い通りにさそうとするようである。この件に関して多くを語るつもりはない。私が訴えたいのは天理教人が人を苦しめているという実際である。特にこういったレトリックを用いて人をコントロールすることを私は積極的に反対する。天理教の信仰の柱の一つである「おたすけ」というのは言い換えれば「人権擁護」ということも十分に包含すると私は思う。弱者の人権を擁護し、他者の人権を尊重することは「おたすけ」と遠くはないはずである。しかし天理教人、特に一定の権力を持つ天理教人(教会長以上)にそのことを理解している人間は少ない。もし、人権に配慮するならば私が主張するような天理教的専門用語を人に向かって言わないはずである。人に向かって言った時点でアウトなのである。なぜならば、それを言う関係ではすでに上下関係が成立しているからである。そして上下関係でしか意味をなさないからである。アウトでない場合があるとすれば、それは信者が教会長に、下の立場の人間が上の人間にである。ちなみに同じ立場の人間同士でもセーフだが、そもそもこの場合同じ立場などあるはずがない。簡単な例を挙げると、東大生が「学歴って関係ないね」と言っているのと同じ構図である。相手が東大生でなかったら、相手は「東大生のお前に言われたかねーよ」となるし、相手が同じ東大生でも学部や成績、親の職業などイラっとさせる要素は山ほどある。ただ「理の親」が学歴より質の悪いところは信仰的(心理的)に拘束、罪悪感を生じさせることであろう。信仰がマインドコントロールと意識的に割り切っている方がおられるなら私は感心したい。しかし、一定の権力を得た天理教人が重罪なのは、それを無意識的に行っている点であろう。
ただ強調しておきたいのは私はその天理教的用語自体を批判しているのではない。それは大変信仰において意味のある概念であると思う。またそれがないと信仰が成立しないというのも理解できる。問題にしているのはその使用方法なのである。上の人間が自分の意志を通すために使用されるのは人権侵害である。そしてそれらの正しい使用方法というのは本来ならば自身の内省に用いられるべきであろう。「理の親に喜んでもらおう」とか「私はまだまだ伏せ込みが足らない」とか「私は徳を積もう」などである。それが信仰の本筋であり正しい使用方法であろうと思う。それが「理の親に喜んでもらえ」とか「あなたは伏せ込みが足らない」とか「あなたは徳が足らない」などは勘違いも甚だしい。そういう人たちを見たり聞いたりするたびに私は「お前は神様か!」と突っ込んでやりたくなる。
天理では教会長講習というものがあると聞いたことがある。どんなものか私は分からないが、今の天理教のカイチョウさんに必要なのは小学校でも扱うような人権教育だと思う。