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理の親が「理の親が・・・」というのは、そろそろ止めてもらえませんかね?


最近日が暮れるのが早い。まだ明るいと思い込んでいて、外が真っ暗だとびっくりする。毎年同じ驚きを迎える。四季のある日本はいいなぁと感じる。年を取るとはこういうことを言うのだろうか。

ここ2ヶ月ほどコンスタントに天理教的体験を多くしている。その一つに、ある女性と話したことを振り返りたい。詳細は割愛するが、その女性はタイトルにあるように「理の親」ということで悩んでいた。天理教以外の方に説明するが、「理の親」というのは信仰の上での親のことである。私を信仰へと導いてくれた人が「理の親」ということになる。それが何故悩む原因になるのか。それは「理の親」には、更なる「理の親」がいて、その上にもその「理の親の理の親がいて・・・というように真柱あたりまで続く。私も教義上の解釈や詳細は定かではないが、信仰上の親という概念は間違ってはいないだろう。教会単位で考えるともっと分かりやすい。信者は所属する教会が「理の親」であり、各教会の理の親は大教会で、大教会の理の親は教会本部ということになる。似ている世界としては任侠の世界である。私はつくづく天理教の世界はヤクザ世界だと思う。
説明はこのくらいにして、その女性が悩む理由は結婚について理の親たちのいうことが全く異なるということだろう。一方では結婚賛成、一方では結婚反対、一方では結婚保留(ふせこみなさい)などである。そして理の親全てが「理の親に喜んでもらうために」というレトリックを用いて自分の思い通りにさそうとするようである。この件に関して多くを語るつもりはない。私が訴えたいのは天理教人が人を苦しめているという実際である。特にこういったレトリックを用いて人をコントロールすることを私は積極的に反対する。天理教の信仰の柱の一つである「おたすけ」というのは言い換えれば「人権擁護」ということも十分に包含すると私は思う。弱者の人権を擁護し、他者の人権を尊重することは「おたすけ」と遠くはないはずである。しかし天理教人、特に一定の権力を持つ天理教人(教会長以上)にそのことを理解している人間は少ない。もし、人権に配慮するならば私が主張するような天理教的専門用語を人に向かって言わないはずである。人に向かって言った時点でアウトなのである。なぜならば、それを言う関係ではすでに上下関係が成立しているからである。そして上下関係でしか意味をなさないからである。アウトでない場合があるとすれば、それは信者が教会長に、下の立場の人間が上の人間にである。ちなみに同じ立場の人間同士でもセーフだが、そもそもこの場合同じ立場などあるはずがない。簡単な例を挙げると、東大生が「学歴って関係ないね」と言っているのと同じ構図である。相手が東大生でなかったら、相手は「東大生のお前に言われたかねーよ」となるし、相手が同じ東大生でも学部や成績、親の職業などイラっとさせる要素は山ほどある。ただ「理の親」が学歴より質の悪いところは信仰的(心理的)に拘束、罪悪感を生じさせることであろう。信仰がマインドコントロールと意識的に割り切っている方がおられるなら私は感心したい。しかし、一定の権力を得た天理教人が重罪なのは、それを無意識的に行っている点であろう。

ただ強調しておきたいのは私はその天理教的用語自体を批判しているのではない。それは大変信仰において意味のある概念であると思う。またそれがないと信仰が成立しないというのも理解できる。問題にしているのはその使用方法なのである。上の人間が自分の意志を通すために使用されるのは人権侵害である。そしてそれらの正しい使用方法というのは本来ならば自身の内省に用いられるべきであろう。「理の親に喜んでもらおう」とか「私はまだまだ伏せ込みが足らない」とか「私は徳を積もう」などである。それが信仰の本筋であり正しい使用方法であろうと思う。それが「理の親に喜んでもらえ」とか「あなたは伏せ込みが足らない」とか「あなたは徳が足らない」などは勘違いも甚だしい。そういう人たちを見たり聞いたりするたびに私は「お前は神様か!」と突っ込んでやりたくなる。

天理では教会長講習というものがあると聞いたことがある。どんなものか私は分からないが、今の天理教のカイチョウさんに必要なのは小学校でも扱うような人権教育だと思う。


「おつとめ」は体にいい!?


先月は秋季大祭と青年会総会というのがあったようだ。実はそこに私も誘われたのだが、平日なので丁重にお断りさせていただいた。そしたら25日に来てくださいと言われた。25日??と首をかしげたが、25日というのは天理では色々な催しがなされているようなのである。26日の秋季大祭に向けて地方から多くの信者が帰ってくるのが25日だからである。せっかくの休日なのにと思ったが、その知り合いの天理教人の熱意に負け天理にいった。その中のイベントの一つに私も参加した。もう一ヶ月近くの前のことなので記憶が定かではないが、確か大教会長という人の話が10分ほどあって、その後にパワフルな女性の講演が60分くらいだった。人の話が苦手は私は本当に退屈したのだが、内容も退屈であった。「精神病の人にはお手ふりがいいと有名な医者が言っていた。あの左右対称の動きが脳科学的、神経科学的にリハビリに最適なのだ」と。もしあの場に精神医療従事者がいれば「そうですねー・・・」と苦笑しながら言わざるを得ない貧困な内容であった。貧困な内容とは、そうかもしれないし、そう思いたいが、そんな簡単な話じゃないのよということである。確かに何らかの形で体を動かしたりすることは色々な疾病に有効であろう。しかし、お手ふりに明確な治療効果があるなら治療者は宗教的行為なんてことはさておき、世界の医療者はこぞってお手ふりを推奨するだろう。そうしないのは、効果が微力だからである。微力というのは変わらないのと同等であろう。それは治療行為ではなく、適度な運動、バランスのとれた栄養摂取と変わらない程度である。もしそれ以上であるならば、世界の治療者はこぞってお手ふりを導入するだろう。それをあたかも「治療法はこれしかない」的ないい方をするのはよくない。なぜ良くないのか。それは歴史上数々の犯罪を犯してきたカルトと言われる団体が使うレトリックと同じだからである。

病気の人に対して治療と称して宗教行為を行うのである。それは医学への挑戦と神への冒涜ではないだろうか。特に天理教の場合は一定の宗教的理解と必要性を主張している。その組織の人間が「お手ふりは治療効果がある」というのはマインドコントロールと言っても問題ないだろう。

そこで更なる疑問が湧いてくる。それは「おたすけ」という宗教行為をどのように捉えるのかという点である。「おたすけ」というのは病んだ部位に対して手かざしでお祈りをするものである。これは治療行為ではないのか。私は「おたすけ」と医学的治療の教義的解釈は分からない。しかし私の感覚的視点で言うならば、「おたすけ」はあくまで意味論であり、特におたすけの行為者の神との契約が重要視される点で説明できると考える。しばし「おたすけ」を受けるものの中には医学的治療を施されているものがいる。それは行為者の医学的治療への理解と無介入によって決定されると思う。もし、前に挙げたパワフルな女性講演者のように医学的治療への介入(混同)を行うならばそれは医学的治療への挑戦となる。また「おたすけ」という意味論への冒涜ということになると思う。医学的治療への理解と無介入は、「おたすけ」の意味を保持しつつ、医学的治療を容認するというバランスのとれた解釈となる。また、それは天理教の姿勢と合致する。その簡単な方法としては、おたすけの場において「病院にも行きなさい」と言うことで済む。その一言で身体的(表層的)治癒と宗教的(深層的)治癒は分けられることになる。そして「おたすけ」の目的は宗教的治癒である。それしかない。

ある宗教行為を、科学的に昇華されたものとして論じる人間(講演者)ほど神を信じていないと思うのは私だけだろうか。「おたすけ」や「おつとめ」というのは大変意味のあるものだと思う。しかし欲張ってしまうと、その宗教性(畏敬)を減じてしまっていることに気づいている天理教人は少ないと思う。「おつとめ」はおつとめという宗教的意味があり、直接的に体が治るものではないと思う。


天理時報普及キャンペーンと財政


天理時報9/6号で一面を飾ったのは「天理時報普及キャンペーン」である。キャンペーン内容は天理時報を購読者に手配りする。ちなみに私の自宅にも天理時報が毎週?輸送でビニールに入れられ届いている。私の家には誰も手配りしてくれないのだろうか。このキャンペーンのシステムはどうなっているのだろうと思う。私の自宅には誰も訪れた様子はない。そもそも、私の自宅に届く天理時報は誰がお金を払っているのだろう。現時点で私は払っていない。知り合いの天理教人が「天理時報読んでよ」と春頃に私に言った。私は深く考えずに「いいよ」と返事しただけである。それから暫くして天理時報が自宅に届けられる様になった。正式?な申込も、購読料の説明も支払いの話も受けていない。もし年末か年度末に集金されたら文句を言ってやらねばならないと思う。「押し売りじゃねーか」って。まぁべらぼうに高い金額ではないけど。
閑話休題。
その天理時報だが、今回の記事では私のようにキャンペーンでの新規購読者が2万人増加したようである。天理時報の年間購読料が3960円だから、単純計算では7900万円あまりの増収となる。2万人増えて、総発行部数は15万部から17万部へとなった。つまり天理教道友社は天理時報で6億7千万の収入を得る事になる。これは多いのだろうか?
天理教の年度予算は約170億であるから、私は6億7千万円の増収は少ないと思う。しかし、その170億円が年々減少傾向にあるのであれば話は別となる。宗教団体の出版・刊行物が教団の盤石で貴重な-安定した-収入となっていることは宗教学をかじっているものであれば自明である。某学会が日本の新興宗教の中で突出して安定した財務を行っている「ひながた」である。もし天理教の財政も年々減少傾向にあり逼迫しているのであれば、安定した収入の確保に努めるストラテジーはある意味健全である。どうしてこのような推論を私がするのか。それは「天理時報普及キャンペーン」で手配りという活動から、たすけあいの輪というところへと強引に結びつける手法が、どうしても布教戦略に手詰まりしているような淋しさを覚えるからである。天理時報がよく使う言説の一つに「価値観が多様化する現代社会」という定型フレーズがある。しかしトップダウンの戦略ではそれに太刀打ちできるわけがない。そもそもトップダウンとは従属成員を含め、組織の一元化、中央集権化を目指すものである。トップダウンの体制が多様化を志向する現代社会と背馳する形態であることになぜ誰も気づかないのであろうか。天理教と自民党がかぶってみえるのは私だけだろうか。


天理教と政治


過日、衆院選で自民党が大敗したことは記憶に新しい。以降もメディアでは、今後の政治の動向に注目が集まっている。
天理教では直接的に政治とは距離をとり、明確に支持する政党や為政者はいないようである。
http://www.dpj.or.jp/news/?num=7871
私はこの天理教の姿勢に対しては大変好感を持っている。しかし身近にいる天理教人と接して思うのは、天理教教義と絡めて政治を考える人が少ないことである。今回の衆院選についても同様である。多くの天理教人は、ほぼ自由意志で投票したと思う。しかしその一票にいかに天理教的意志や思いが込められているのかは懐疑的である。多くの人が世論と同様の思考、流れ、雰囲気のまま投票したのではないかと思う。なぜなら、私が接する天理教人の政治に対する考えは、そのまま世間一般人の思考と同じとしか思えないからである。
まずは世論であるが、世論の流れとして今回の選挙は官僚政治への嫌悪や市場主義批判という理屈において自民党と決別することを選んだ。しかしその結果としてどのようなビジョンや結果を期待しているのかはメディアも、有権者も思考の及ばないままに自民党にNOを突きつけたと思う。今回の選挙は政権選択という副題が付いていたが、それ以上に思考した多くはいないはずである。そして私が接する天理教人もまた、世論と同様の思考と定型句でしか選挙を語れないでいた。つまり天理教的選挙の見方は皆無であった。
確かに、理想言語として「陽気暮らし」という言葉が聞かれるが、そこからどのような社会的実現を目指して投票に至るのかは乏しいと言わざるを得ない。この記事を講読されている方はほとんど天理教人であると思う。その方に問いたいのは、いかに選挙を天理教的に読み解いたかということである。
前に挙げたリンクから「かつては天理教から議員を出したこともあったが、いまは距離を置いている」という説明をされるのは結構だが、それは個人レベルで言ってしまうと社会市民としての責任を放棄していることにはならないだろうか。日本人は無宗教や無神論者ということを平気で言うが、私はそれを信じない。確かに日本人は信仰に対して寛容な面がある。しかし人間に誕生と死がある限り人間から信仰は切り離せるものではない。また為政者の多く(全員だが)が特定の宗教を持っている。某学会のように露骨に-直接的に-宗教と政治の繋がりがあるのは異例だが。天理教を信仰している為政者も少なくはないだろう。
私が今回問題提起したいのは天理教は政治に距離を起きすぎたあまり、政治を天理教的に読み取る力は明らかに減退しているのではないかということである。政治は所詮、政(まつりごと)である。しかし前々回で指摘したことであるが、脳死判定や裁判員制度など個人の宗教観や信仰が大きく影響する場面も多分にある。それを世論に流されるかたちで天理教らしさが発揮できないのは、宗教として意味性を減じているのではないか。天理時報の在り方や天理教人の振る舞いを見て私はそう思う。そして、そういった振る舞いは一見大衆の支持を集める(天理教は某学会のように政治に口出ししなくてエライね)だろうが、長期的には天理教の存在意義を損ないつつあることに気づいてもいいのではないか。


臓器移植と教義解釈(8/30付けの天理時報から) 

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今年は冷夏のようであるが、まだまだ日中は暑い。

それはさておき、8/30付けの天理時報を見て仰天してしまった。今号の一面記事は台風9号の被害である。天理教が持つ災害救援隊の活躍がニュースとして扱われている。災害救援隊の活動は素晴らしい活動である。そして今号のために用意されているメインテーマは発達障害である。「子どもの発達障害」というテーマ設定から私は疑問である。なぜなら発達障害は子どもだけの疾病ではない。私の知り合いに児童青年精神科医がいるが、彼は数年前から「発達障害(PDD)の喫緊の課題は義務教育を終えた人の支援である」と言っている。昨今、教育界を中心に発達障害がにぎわっているようである。その点で言えば、子どもの発達障害は流行であり、ある程度、行政支援や支援技術も輪郭が見えてきている。しかし、その発達障害の子が義務教育を終えたときに進学も就労もできずに自尊感情を傷ついたオトナとなる。中には知能が高く(HFPDD:高機能公汎性発達障害)、進学や就労ができても人間関係を結べないで孤立するケースが多いと聞く。
前々回に「子育て不安」の件について私が主張したことがそのまま当てはまる。

常々思うことだが、天理時報の裏付け取材はズサンであるとしか言えない。

まぁそんなことは今回大したことではない。私が今回の天理時報を見て猛烈に反論したいことは別にある。それは3ページ目の「視点」である。そこで扱われているのは「臓器移植」である。臓器移植法改正に基づく脳死判定の天理教的評価である。この話題は非常にセンシティブであり、究極的に宗教的な話題である。こういった話題こそ今号みたく紙面の隅に小さく載せるのではなく、里親記事のように継続したシリーズを展開して欲しい。著者は誰なのか明らかにされていないが、一人の個人的見解を天理教的見解の総括として新聞の片隅に載せる姿勢は許されるものではない。こうした慎重に、かつ継続的に扱われるべき課題を簡単に済ませようとする天理教的姿勢に対して私は積極的に批判する。

本記事の内容もまた到底賛成できるものでもない。「脳死は出直しではない」というテーマを自ら設定していながらも、その教義解釈について答えていない。また『「脳死を人の死」として臓器を切り取るような行為は許されてはならないと考える』と帰結している点は問題の摺り替えである。そしてそれは狭隘な個人的思想の何ものでもない。またその思想は今後臓器移植が発展していく中で建設的見解ではないことは明白である。この考えでは、もし天理教人の中に臓器移植をすれば助かるであろう人がいても、移植せずに見殺しにするだけである。そんな簡単な話だろうか。この著者はきっと臓器移植の当事者になりレシピエントになったとしても臓器提供することは拒むのだろう。そうでないと主張の筋が通らない。この著者の論理は輸血を拒否する某教団と何が違うのか私には分からない。天理教的な見方を提示しているつもりだろうが、その説明は現実離れしている。匿名にしている点も、その自信のなさが現れていると思う。

問題は複雑であるという見識があるならば、その複雑性を担保した結論を出さないのはなぜだろうか理解に苦しむ。天理教が持つ「天理やまと文化会議」というシンクタンク的組織がありながら、こういった貧弱な結論しかでないのは天理教の知的リソースの部分はすでに死んでいるといっても過言ではない。「天理やまと文化会議」なるものの実態は分からないが、アカデミックの作法がある人間はこのような無作法な断定はしないはずである。なぜならアカデミックの使命は人類の発展だからである。その点は天理教の金科玉条である陽気ぐらしと背馳するものではない。以前、天理大学に哲学専攻を作るべしといった私のアイデアが再燃しそうである。

「脳死を人の死」と「臓器を切り出す」ことを一括りに批判する著者は天理教教義の部分に関しても軽薄であり、知的に貧困であるとしか言えない。

ちなみに私の臓器移植に対する考えは、世論と同じである。それは「よく分からない」ということである。よく知らないことではない。よく分からないのである。よく分からないから、みんなで考えましょうという姿勢こそがオトナの振る舞いであると私は信じる。臓器移植をして喜ぶ人、悲しむ人。臓器移植ができなくて悲しむ人。著者はどの立場で臓器移植を考えて、『「脳死を人の死」として臓器を切り取るような行為は許されてはならないと考える』と考えるのか明確にすべきであろう。この著者は、そういった当事者を前にしても、同じ言葉を吐けるのか。吐けるのであれば私は思想家として立派だと思う(天理教人としては最低であるが)。少なくとも自分の意見を押し通すために、自分の経験に関連する教義のみを取り出して何も言わせないように周囲の口を閉ざす(教育界ではそういった行為を脅しという)やり方は幼稚であり何より陽気ぐらしではない。

この著者が誰だか分からないが、こういった思想的に未熟な人間が天理教内部にいるのでは天理教の将来は明るくない。

こういった考え続けなければいけない大切な問題に対して独断的な指針は断固許してはならない。
天理教の将来を憂うが故私は本当に嘆いている。そして本当に腹が立つ。


里親ブーム


天理教では里親がブームのようだ。ブームといっては語弊があるようだが、天理時報での扱いをみるとブームとしか表現できない。また天理教人と接しても里親という用語はよく聞かれるのでブームなのだろう。

一方、里親に関して天理教は連盟を持ち、ある程度の歴史をもっているという。現代の子どもを巡る社会的な環境の変化は里親に明るくなくても自明のことである。そのことに関して言えば、天理教の里親としての歴史は社会的信頼性を持ち得る貴重な資源であることは納得できる。

ちなみに私は里親に関して全くといっていいほどの門外漢である。

門外漢の私からみて思うのは、そのブームと歴史性の並列は納得できるものではない。

里親という難しい課題に対して歴史を成り立たせるのは、関係者の不断の汗しかないと思う。長年にわたりコツコツと取り組んだ成果が社会の信頼を獲得し歴史を形成させあたのは言うまでもない。その取り組みが信仰に裏付けされたものであろうがなかろうが現場の汗は本物だと思う。信仰が立派だろうが立派でなかろうがそんなことは二の次となる。目の前にいる人間(子ども)とは抜き差し成らない真剣勝負であろう。

が、一方で昨今の天理時報の里親礼賛の流れはどうしてもポピュリズムの域を脱しない。こういった刹那的な注目の仕方は、思わぬ事態で幕を閉じることになるのではないかと私は危惧する。歴史という性質を持ちながら、あたかもその信頼を過信して新しい流れをつくることは、一方で帰属成員の倫理的規範を低下させたり周囲の理解を浸透させる前に思わぬ落とし穴に堕ちて終わることが組織の在り方としてたまに発生する。

昨今の社会情勢で言えば、金融や経済という日本独特の社会風土を持つ中でITや外資といった新しい風がITバブルやM&Aとして入ってくるものの、結果的には日本独特の保守的な風土に馴染めず反感を買ったり、不祥事を起こして市場から追放されるケースが多い。

天理教の里親に対する姿勢もそういった風潮が感じられるので私は危惧する。今後、天理教において里親が重要視され組織が拡大すればするほど、倫理的規範の低下や宗教色を帯びた家庭が里親をすることの是非という議題が俎上に挙げられる。何年もコツコツと取り組んできた方達には面倒なことだが、そういったことが発生するのは社会的責任という名の元に公然と求められるであろう。特に日本社会では「出る杭は打たれる」という諺があるように、注目を浴びれば一気に世論は右傾化することを忘れてはならない。その辺の戦略について天理教幹部や天理時報の責任者はどの程度考えているのかは疑問である。

今後、天理教の里親が虐待や委託費の使途不明で事例化しないことを祈るばかりである。


子育て不安はイケナイことなのか!?


お久しぶりです。本当に。
前回の更新が3月の後半だから、約4ヶ月間放置してたってこと。
どうも、すみません。

こんなに放置してたら、訪問者数も0に等しいと思っていたらそんなわけでもない。毎日50-80の人が訪問してくれている。最盛期は200人近い人が毎日来てくださっていたからそれを考えても、ありがたい。

私事になるが、4月から仕事の担当業務が増えた。朝は6:00には家をでて、帰宅するのは1:00という生活を週に6日も続けていた。よく今生きていると思う。7月に入り少し余裕がでてきた。8月はゆっくり。9月は瀕死になるのではないか。今から考えるだけでゾッとする。

でもこまめに更新しようと思う。今もちょこちょこ天理教人と接することはある。そこで感じることや、理不尽なことは山ほどあるから。

今年から購読している「天理時報」。今も毎週、毎月?我が家に届く。しかし読んでいる時間がまったくない。丁寧にビニールに入れられたまま書斎の「不要な書類ボックス」に積まれている。申し訳ない。

ということで、今回は手元にある最新と思われる天理時報の感想文にしようと思う。

今回のトップ記事は「こどもおじばがえり」の直前特集のようだ。といっても、これはツッコミようがない。ふむふむ、なるほどと読むしかない。

しかし、今回の天理時報の目玉は「子育て支援」についてのようだ。数ページに渡って特集が組まれている。

記事の構成として、まずはアンケートで育児不安を多くの人が持っていること→色々な人の意見→専門家の意見→信頼関係が大切となっている。意外に天理時報お得意の「だから、天理教の教えが一番大事」というような自民族中心主義的(ethnocentrism)結論は控え目であった。しかし、こういった現実的課題を扱う場合は今回の場合の「信頼関係」のように曖昧模糊とした結論にしかできない手詰まり感は顕在である。そのため内容は巷間に流布している育児書の域を脱しない。それが悪いとは言わないが、天理教発行の媒体としては意義が霞む。

ここでも私が一貫して言っている天理教と世間の橋渡しは成立しない。

物足りない。

では、どうしたらいいのか?という問いが次に発せられると思うが、私はその答えを持っていない。天理教の専門家でも、子育ての専門家でもないからだ。しかし子育てに関しては専門家は不必要だと思う。

なぜならば、子育ては苦悩しながら、挫折しながらするものだからだ。

天理時報では育児ノイローゼという言葉がしばしば使用されていたが育児ノイローゼという精神医学的用語は存在しない。育児が原因で疲弊した状態を指すのであれば、私は育児ノイローゼを歓迎したい。ここは天理時報と私の意見が対立するのだが、虐待に結びつきやすいのは、私はむしろ育児ノイローゼを発症しない人だと思う。子育てに悩まない親こそ、現代では心配されるべきなのではないかという実感がある。もちろん育児ノイローゼが原因の虐待は皆無ではないと思う。しかし育児ノイローゼになるくらいなら、虐待の危険性や保健指導や行政フォローの充実が担保してくれていると思う。その点は行政も力を入れている。育児ノイローゼの定義がはっきりしないから何とも言えないけどね。

しかし、子育てに正解はないというのは、子育て経験者なら自明のことをなぜ天理時報では誰もはっきりと口にしないのだろうか。そして、私が一番違和感を覚えたのが「現代の子育ての難しさは昔とは個人的環境も社会的状況も異なるはずなのに、誰もそのことを理解していない」ということだろう。記事の中で、現代の子育ての大変さに触れている箇所はある。しかし、どれも「信頼関係」や「悩みを話せる環境」「聞き役に徹する」などで一定の答えを導き出している。現代の子育ての難しさを指摘しながら、一方では昔と同様の対処法を(半ば正当性を帯びながら)教えるという背馳になぜ誰も気づかないのだろうか。我々が戦後望んできた資本主義社会、民主主義社会の結果が個を確立させ、ハードを重視しソフトを軽視した社会を作ってきたのだ。その責任性を無視(内省しないで)して、答えを押し付けるのが誤りだと、明確に答えを導き出す姿勢こそが誤りなのだとなぜ誰も言わないのだろうか。
地球温暖化でエコブームなのに、週末にはETC割引で車を乗り回している日本人のメンタリティ構造と似ていると思った。あと皆既日食も。温暖化も孤母社会も、一人一人に責任があると反省しないで社会構造が原因、巨大資本が原因、政治戦略が原因、民意の低下が原因と責任転嫁したところで解決できる問題ではない。

そこにこそ天理教が強く出られるポイントだと思うのだがなぁ。
私は、天理時報の思索の浅さを憂う。


何事にも相性はある。天理時報にも。


お久しぶりです。前から公言していたように年度末は大変忙しい。毎日のようにまとめ書類の締切があり徹夜することも。しかしようやく一区切り。来年度の準備もおっけい。4月しばらくまで落ち着いた日々を送れそう。何より落ち着いて寝られることが幸せである。

WBCの優勝は素晴らしかった。私はライブで見てはいないが(だって平日の昼間だもん)、WBCを見てる人を見ていた。

そして次の日?に天理高校野球部が選抜高校野球で負けたのを作新学院出身の取引先の方に聞いた。天理高校野球部、今回は優勝候補だったようだ。知らなかった。天理高校野球部の活躍は、天理教の広告塔としてかなり大きな要素を占めている。高校野球がなかったら天理もPLも智弁も知らない人が多いと思う。高校野球が持つクリーンイメージは新宗教団体にとって大きな武器となることは間違いない。確信犯的である。
その辺の宗教団体の広報戦略は大変興味深いものがある。「新宗教と高校野球」という本はないのかな。一度調べてみたいものである。

話は変わり、今月始めからわたしは天理時報を定期購読することになった。先月末に知り合いの天理教人から「天理時報とってる?とってないなら取りなさい」と言われ「そーですねー」と社交辞令で適当に流したつもりだったが… 本当に来た。ビニールに包まれてる!手続きなどした覚えはないのだが。不思議である。

そこで、初めて送られてきた天理時報をじっくり読んでみる。んーやっぱりしっくりこない。朝○新聞の「声」のような雰囲気がどうしても馴染めない。天理時報の論調は間違ってはいないと思うし、むしろ素晴らしいことばかり書いてある。このしっくりこない感じはなんだろうと思っていると、村上春樹が現代のイデオロギーを「過剰な正論」と表現している文に当たった。なるほど。しっくりきた。過剰なんだよ正論が。天理時報も朝○のコラムも。その否定を受け付けようとしない大学生のレポートのような雰囲気が読んでいてシンドイのだ。正論でもいい。ただもう少し建設的な思考文体や、こんなダメ日本を許容する姿勢を見せてほしい。「いやー今の世の中って素晴らしい!」と言って欲しい。ダメな現状に満足することは天理教の宗教戦略にとって不都合でることは私も理解しよう。「喜ばびましょう」と言いつつ、喜んで(満足して)しまっては負けというパラドックスに天理教の布教戦略の本質があることも認めよう。でもね、そこを理解している天理教人は果たして何人いるのだろうか。そのパラドックスを理解しないと「陽気ぐらし」が霞んで見えるのは私だけだろうか。私はこんなダメな日本を、ダメとは思わない。

その次の号から我が家に届く天理時報が不要書類のラックに未開封のまま積まれていくのであった。
いや、それはもったいないから最新刊は捨てずにリビングの読めるとこに置くようにしよう。
支払いはどうなるんだろう。まさか天理時報ってタダじゃないよね・・・


世間様


先日、天理教人と話していると世間様(せけんさま)という言葉が多く使用されることに気づいた。

世間様とは字の通り、世間の人々ということ。

その言葉は世間の人と天理教の人という無意識的境界線なくして成り立たない。

話は知り合い(世間の人)の不倫という下世話な内容だった。それに対して天理教人が繰り返す「あの方は世間様だからな・・・」という説明には全く同意できなかった。「あの方は世間様だから(不倫をするものだ)」という説明は、何も説明していないばかりか「私たちは粗悪な世間一般とは違い、高貴な天理教人だから」という自己優越的ニュアンスが漂っていた。

こういった差別的思考をしていては、世間と天理教の間隙は広がるばかりである。相手と自分を無意識的にも意識的にも分離するストックフレーズの危険性や、思考の脆弱性は早々と意識化した方がよい。

そこに何故誰も注意を払わないのか不思議である。そこを意識せずに世間様に布教をして、世間様に断られてもそれを雑草魂のように美化(神様は見ている的な)していていは意味がない。断られても断られても心を折らさずに不足(不満・不平)を言わないのが天理教の美徳らしいが。

不足をしないことを「たんのう」と説明してくれた天理教人がいたが自己理解(自身の持つ差別性や嗜虐性)を担保せずに、「たんのう」を理解してはいけない。教義の安売りはしてはいけない。布教をして断られても、無意識的に「君たちは(所詮)世間様だからね」と見下していては布教の意味がないということである。

そういった人として当たり前の作法を教える人(センセイ)がいないのは何故だろう。世間と天理教の橋渡しをする人がいないと、どんどん天理教は世間から乖離する。こういった天理教人を見ていると、背中に「私はあほです」と張り紙をされていることに気づかない人を見ているようで辛い。

天理教人も世間で生きていることにそろそろ気づいたらどうでしょうか。



裁判員制度を考える。


読みにくいと批判頂きましたので、フォントを大きくし改行も減らしました。当分このスタイルでいきます。私が読み直して補足もしました。また何か注文あれば教えてください。(1/19)
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先日yahooトピックを見ると「宗教界裁判員制度に悩む」という記事が出ていた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090111-00000008-yom-soci
http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-news/08/news0801/news080129/news080129_02.html

昨日、道友社のHPでも同様の記事を読んだ。
http://doyusha.jp/?page_id=874

いずれ私も裁判員制度は書きたいと思っていたが、シンクロニシティを感じたので、そろそろ私も書こうと思う。私の経験的作法として、あまり潮目や流れには逆らわない方が物事を円滑に進められると思っている。いや、ほんとに。何事にも旬があると言った方が分かりやすいだろうか。制度は今年の五月から開始されるわけであるから、ちょうどいい時期なのかもしれない。

まずはyahooの記事を見てみよう。主に寺社の方の意見であるが、基本的に裁判員制度には肯定的(無難な意見)である。各宗教者の立場としては、「裁判員制度にどう対応するのか。宗派としてメッセージを明らかにするべきではないか」「人を裁くことはできないと思う一方、宗教者としての意見をしっかり述べることが大切という考え方もある」。なるほど。

では道友社の記事を見てみよう。こちらでは、弁護士であり教会長でもある方が書いている。一弁護士の意見であろうが、天理教のグループ企業である道友社の記事はそのまま天理教教団の見解として捉えて差し障りはない。内容は制度の概要説明が主であるが唯一「月次祭の祭典日と重なったら……」という章は具体的事由を想定しており大変興味深い。しかし結果として「月次祭の祭典日と重なったら……」という前句に対しての結論は曖昧模糊となっている。詳しくを記事を見ていただきたい。

前段の各宗派による意見表明と後段の天理教の見解とを比較考量する。各宗派は明確な意思表示をしており、天理教の意志は明確でない。そして、この天理教の曖昧な態度を私は支持したいと思う。

なぜならば裁判員制度誕生の背景には「多種多様な人材に門戸を開くこと」(平成14年7月5日司法制度改革推進本部顧問会議第5回会合内閣総理大臣挨拶要旨)とあり法律家だけでなく国民皆でやりましょうということである。法律家が考える社会的通念だけでなく個人(国民)の信条、思想を勘案し人を裁きましょうということである。大事なことは「多種多様な人材」とは「多種多様な個人」であると私は思う。間違ってはいけないのは「多種多様な組織」ではない。これを宗派に当てはめると制度自体の骨子が揺らいでしまわないだろうか。

例えば、天理教教団が各教会長に対して裁判員制度の思想について統一見解を明示したとしよう。「天理教の教えから考えて死刑って絶対ないよね」とかね。すると教会長さんには「死刑」という選択肢は無くなる。たとえその教会長さんが「この犯人は死刑に相当するよな」と考えていてもである。

裁判員制度導入は、ある一定の重大事件について行われるようである。もし殺人事件であったときに、犯人の残虐性、過酷な生い立ち、情状酌量、いろいろな背景が存在する。まして同じ事案はひとつとしてないはずである。統一見解によって思想を縛ることは、それら犯人の個人史を無視する可能性を孕んでいることを忘れてはいけない。犯罪から教義を見るのではなく教義を通して個人を見なくてはいけない。

天理教が持つ「陽気ぐらし」という命題は大変素晴らしい。しかし、それと「量刑を軽く(重く)すべき」と決めてしまうことは背馳しないだろうか。背馳しなくても、陽気ぐらし=死刑反対は論理が飛躍しすぎている。なぜそのような推論になるかというと、私が常々申し上げているように天理教は教義解釈が非常に未熟である。天理教成員において自然発生的にコンセンサスが得られるほど思想的(教義)成熟は歴史的に達成されていない。つまり「陽気ぐらしとは」「人をたすけるとは」「殺人とは」というセンシティブな課題は未だに硬直したレトリックで縛られている。例えば「陽気ぐらしとは皆が笑って過ごすことだよガハハー」と思慮浅く思考制止のまま平然と語るカイチョウさんたち。まるで枕詞のように。裁判員制度を契機として天理教を信仰するものの間で上記のような課題が実生活上における教義として議論が活性化することがあるならば私は非常に歓迎したい。(本来ならば天理教の研究機関に頑張ってほしいのだが)。そういった意味で天理教の控えめな態度には敬意を表する。ひょっとしたら、「どうしたらいいのだろう」と悩む教会長がいるかもしれない。それはそれで大変結構なことであると思う。死刑賛成の教会長がいることは大切だと思う。教会長それぞれの経験、思想をもって望んでほしいと思う。前述した道友社のに対して「月次祭の祭典日と重なったら……」という状況が実際に生じたとしよう。「裁判員制度は不参加で祭典優先で」という教会長も、「裁判員制度も大切なことだ、祭典は欠席しよう」といって裁判に参加する教会長もいて私はいいと思う。もちろん教会が持つ信者の量、質、会長の求心力など色々な状況もある。

天理教が統一見解を出すのであれば、先の道友社のようなメタ思想的なものでなくてはならない。「みんな陽気ぐらしって知ってるよね?それに基づいてしっかり考えて」というようにね。

裁判員制度を信仰の踏み絵としてはいけない。

しっかり考えましょね。

追記1
私は上記yahooのトピックで意見していた各宗派の統一見解に対して否定していない。それは統一見解が生成される宗教団体の背景には、教義に対して成員の歴史的コンセンサスがあるかもしれない。誰が考えてもそう考えるというように。そして、そこに至るまでの十分な議論や研究がなされているのかもしれない。本当はどうなのか知らないけど。

ただ歴史が浅く哲学的考究が浅い天理教においては成員集団において思想的コンセンサスが収斂されているとは言い難い。そういった状況でトップダウンの統一見解は各成員の思想の縛りとなる蓋然性が高いのである。

追記2
裁判員制度を「おたすけの場」と考えましょうと道友社は言っていた。しかし「おたすけの場」と意識させることで「人を裁く場」という意味が低減されるのではないかと危惧する。裁判員制度は人が人
を裁くこと以外の何物でもない。これに反論がある方はイギリスやドイツのように宗教家は裁判に参加できないよう働きかけを行うのがよろしい。軽く考えてはいけないという点では道友社と私は同じである。

人が人を裁く、これほど怖いものはないと私は思う。

そしてここまで書いて今さら言いにくいが、私は裁判員制度自体には反対の立場である・・・