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天理教人の甘えの構造

先週2人の天理教人と話たが、揃って口にするのはコンクラーベが羨ましいということであった。ほぼ世襲制を採用している天理教では、その構成員が世襲制に大きな不満をもっているということであろう。社会学的な見方をすると、世襲制は差別(階層)と密接な関連にある。上から見ると、直線的な伝達ができるものの、下から見るとどれほど頑張っても身分が低位固定される無力感となる。意識的にも、無意識的にも、その延長には上位者による操作や、抑圧が生まれることは歴史が証明している。「おらぁ俺の言うこと聞かんかい」というように。差別までいかなくとも、天理教のヒエラルキーにコミットする権力者は、その階層に甘えている節が多々見られる。特に理の親という権力者の組織に対する甘えは、構成員の不満として燻っている。
私見でも、天理教の権力者の言動は、企業におけるメンタリングとはほど遠い甘えの姿勢が強い。それらは修行の身である青年や信者に対する「伏せ込み」「理立て」「修行」「たんのう」という言葉に置き換えられる。しかし、常識的な思考をするほど、それらの言動は組織に甘えた結果の操作であることに気付く。会長と言われる人間と話せば、彼らが信者たちに対して「俺が言えば言うことを聞く」という傲慢さに気付くだろう。

今回、そのような事例の一端を偶然私が感じることができたので提示したい。

ある日、携帯を見ると知らない番号から数件の着信が入っていた。私は私用電話では知らない番号からの電話は出ない。着信履歴があっても留守番電話には録音されていないから、ほっておいた。しばらくすると1通のメールが入った。内容は顔も知らない(覚えていない)天理教人F氏から突然の仕事の依頼であった。〇〇大教会の〇〇ですがという簡単な自己紹介があったが、私は顔も知らない(覚えていない)。〇〇大教会の名前は聞いたことがある程度。青年会で企画していることがあり、それに対して協力してほしいという依頼であった。馴れ馴れしい文面と協力して当然でしょうという文脈にも唖然としたが、それよりも人間関係が形成していない段階で、勝手にメールで仕事の依頼を寄越されたことにーF氏に連絡先を勝手に教えた人物にー怒りが沸いてきた。これまでも、住所を教えていないのに我が家に天理時報や配布物が届くことがあったりしたが、過去に住所を教えていたり、いずれも調べようとしたら調べられる範囲であるので特にクレームは入れなかった。しかし今回は、面識もない天理教人から突然依頼がくるとは思わなかった。私の知り合いで〇〇大教会の人間は2人だけだったので、可能性が高い方のY会長に電話で問い合わせるとビンゴであった。

私  <面識もないF氏という人物から連絡があったのですが>
Y氏 「ああ、カインの連絡先を教えてくれと言われたから教えたよ」
私  <それは当である私の了解がいるのではないでしょうか。
本人の了解なく連絡先を教えるのは社会人としていかがなものでしょうか>
Y氏 「そう言われればそうかな。でもF氏は悪い人ではないし、
ひのきしんのことだからいいでしょう。協力してやってよ。」
私  <それは私が判断することではないでしょうか>
Y氏 「そんな難しいこと言わんと、頼みますわ」
私  <お断りします。社会ルールの筋を通してください。
面識もないので、私は業務としてF氏の依頼を迷惑メールとして判断し返信もしません。    Y氏からF氏に対する説明と謝罪を要求します>
Y氏 「・・・・。分かった。」

以上が電話でのやり取りである。私が非常に気難しい人物なのか、神の御用なら何をやっても大丈夫だろうというY氏の甘えなのかの判断は読者に委ねる。ちなみに後にF氏から「忙しいと聞きました。残念です」とメールが来た。どうやらY氏からF氏に説明と謝罪はなく、自分のミスからの保身のため「カインは忙しいから無理だって」という適当な言い訳をしたのであろう。
これまでもいくつか天理教人から仕事の依頼があったが、ほとんどがカインは天理教のことを分かっているから(神の御用なら協力すべきことは理解しているから)という、自民族中心主義的な強引さがあったことは記憶している。天理教人が対外的に優しいのは、「後々無理を言っても恩を売っておいたから俺の言うことは聞くべきだろう」という恩着せがましい状態にもっていく場合もあることは天理教と付き合う上で忘れてはいけないと思う。詐欺の手口と似ているとさえ感じる。理の親制度とは、子の存在は、存在する時点でそれは親の成果であり、子は親の言うことを無条件で甘受して当然であろうという関係を作る。ヤクザ思想といっても過言ではない。
私が常々、天理教というヒエラルキーにコミットすると苦労すると主張していることの一端が示せれたのではないかと思う。これから天理教にコミットする人は、本当に気をつけないといけない。天理教の組織に入ることは社会人としての基本的な尊厳と寛容さを喪失し、権力の強引さと神への勘違いに振り回される危険性に気をつけてほしい。

今回の出来事は一人の天理教人の行動であり、全員が社会性を逸脱しているわけではない。しかし、少なからずとも天理教全体にY氏の振る舞いのような甘えの構造があることは強調したい。

参考文献
土居健郎「甘えの構造」

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

良い天理教人の見分け方 「助からない」と言う天理教人には気をつけろ

半年に1回ほど、タイトルのような質問をいただく。「どのようにして良い天理教人を見分ければいいですか?」ということである。話を聞けば、その質問者のほとんどがすでに天理教の内部にいる人である。これから天理教に入ろうとしている人の質問は少ない。もし、これから天理教に入る人が、その見分け方を教えてほしいというのであれば話は分かる。しかし、すでに中に入っている人が質問をしてくるというのは、迷いを感じているままに信仰しているのだと思う。

さらに話は遡るが、私はたびたび会長を初めとする天理教の権力者の一般的な振る舞いに疑問をもっていることを明らかにしている。信者が気安く声をかけられないほど神格化された大教会長や、権力を振りかざしながら金銭のお供えを暗黙に強制する会長たちである。50代60代の天理教人と話せば、その愚痴の多さに閉口するほどである。これら権力者の劣化が著しいことは、ある程度天理教内ではコンセンサスが得られている。強調しておくと、私が申しているのは、一部の劣悪な例外のことではない。全般的な会長職の性質についてである。構造である以上は、会長たちも被害者なのかもしれない。

その打開策を窺えば、天理教人にも社会経験が必要という意見が多いが、果たして、その回答は妥当なのだろうか。

会長になることは神に選ばれし者である。神に選ばれし理があるのは、高校や大学を卒業したとたんに天理教の組織にコミットすることで作られる。信仰的成熟は、天理教内の生活とともに進行する。それはサラブレッドの宿命でありつつも、社会経験の乏しさとして直撃する。天理教の説教はできても、挨拶やコミュニケーションの社会的振る舞いが痛い会長はかなり多い。違う見方をすれば、それらの会長たちばかりに責任を求めるのもかわいそうである。体罰の構造と同じである。「俺らは殴られて教えられたから、殴ってしまった」というのと同じように、「たんのうせいと言われてきたから、たんのうさせた」「伏せ込めと言われてきたから、伏せ込ませた」と同じである。

ただ、周りにいる人間にとっては、バランス感覚を逸した強権的な会長に巻き込まれることは災難となる。インターネットを見れば、天理教被害者の会や天理教に批判的なサイトが検索結果の上位に来ることは、そこにアクセスする人が多いということであろう。火の無いところに煙は立たないように、天理教に対して被害的感情を抱く人は少なくないようである。つまり、会長の個体差が大きいため、今の天理教ではどの教会や系統に属するかで、その後の人生は大きく変わるのである。良い会長に当たれば、自身を高める信仰ができ、悪い会長に当たれば、苦しむだけの信仰でしかなくなる。悪い会長こそ「ここに繋がったのは、あなたにいんねんがあるから」という社会性のない勘違い神発言が出てくるであろう。

周囲の人間にとってみれば、当たり外れの大きい会長の下で信仰するのは、たまったもんじゃない。

冒頭の質問メールを送ってきた人たちの多くは、不安を抱えている。このまま、この会長、この教会、この系統にいてていいのだろうかと。

天理教人を見分けるという私の返事は、これから天理教に入ろうとする人がいれば、会長の交友関係をチェックしてはどうかと伝えている。信者から見てハズレな会長というのは、私見では天理教関係者以外の人間関係が非常に少ないということである。自分の価値観が通用しないところ(一般社会)で、社会的関係が築けない会長は、肩書きや権力でしか人間関係が築けない。反対に、天理教以外の交友関係がある会長は、社会とのバランス感覚が保たれている。話をしても疎通性が高いと私は感じている。だから、会長の交友関係を聞くなり、家族に聞くなりするようにアドバイスしている。

次に、すでに信者として天理教の内部に入っている人に対しては、交友関係のチェックはもちろんだが、より信頼性が高い方法がある。それは脱会を匂わせることである。会長の前で「天理教を辞めようかと思っている」と言ってみてはどうですか、と。ハズレの会長であれば、脱会の匂いを感じ取った瞬間に、天理教の専門用語で攻勢してくる傾向がある。一番多いのが、「お道(天理教)を離れたら助からないぞ」という傾向が強い。「助からない」という言葉ほど強権的で神を冒涜した勘違いはない。私なら「人を馬鹿にしてんじゃねーよ」と言い返したい。天理教の会長としては立派であっても、信者に助からないと言う会長ほど、人間として救いようが無いだろう。もし私が、質問者の立場であれば、脱会しようと意思表示したときに、「そうか残念だが、頑張れよ」と言ってくれる会長の方についていきたいと思うだろう。

自殺対策における宗教の役割

先週末に自殺に関しての小さなのシンポジウムに参加してきた。そこには社会学の学者や学生の集まりでクローズドであった。中にはこれまで国の自殺予防対策に関わっていた心理学者や、行政官、NPO役員もいた。そのシンポでは、例年3万人を超える自殺者を予防するために何が必要かということを話し合う。どちらかと言うと「寄り添うことが大事」というような一般論的教説ではなく、国の施策の統計的効果測定や新しい試みを話し合ったりする刺激的なシンポであった。参加する前は、自殺という重いテーマで、効果測定なんて難題であり、沈鬱な気分であった。しかし先月、驚きのニュースが飛び込んできた。警察庁が、今年の自殺数が3万人を(大きく)下回ると予測したのだ。

これまで、自殺対策の大きな目標は3万人を下回ることであったが、それがいつの間にか達成されたのである。シンポでは、なぜ3万人を下回ったのかという検証が話し合われた。行政官は行政の取り組みの成果を強調したが、社会学では国の自殺対策に懐疑的な論調は多い。つまり、社会学的に自殺という事象は、複合的課題であり一側面的取り組みから効果を挙げることが不可能と見る研究者が多い。たとえば、経済状況(失業率)との相関や自殺直前はうつ病の状態だから精神医療に繋げなければいけないと論じられることが多いが、それらは全て一側面にすぎない。国や地域、年代によって、相関関係の要因の重みはバラバラである。では、側面ではなく正面にあるポイントは何かということである。正面は、自殺する人は援助を避け、死から逃れられない者であるということである。断定はできないが、どれだけ寄り添って監視しようが、経済状況が悪化しようが、自殺しようと思った人を止めるのは難しい。厳しい見方をすれば国の施策があり、熱意があったとしても、自殺直前の人間を追いかけたところで、自殺を思い立った人間は支援から逃げる傾向がある。病院に通院していようとも、友人の抑制で一時的に思い留まったとしても、自殺する人は止められない。それが自殺防止に莫大な金銭的、人的投資してきても自殺が減少しなかった日本の現実であったことから目を背けてはいけない。数分単位で警察官が見回りをしていたのに、留置場で重大事件の容疑者が自殺したことも記憶に新しい。ここまで言うと、私は自殺容認主義者のように思われるかもしれないが、決してそんなことはない。側面的支援は絶対ではないが、必要だと思っている。シンポの結語として、自殺対策が一段落したために自殺者が減少したというパラドックスを確認する必要があり、今年度の結果で決して楽観はできないということであった。

そんなことより私が今回強調したいことは、そのシンポにおいて紹介された宗教の機能である。特に仏教関係では自殺予防や自殺防止活動がミクロとマクロの両方で取り組まれている。一番驚いたのが、宗教や宗派を超えて活動しており、またその内容も自殺予防から、自殺者の追悼、遺族のケアなど包括的であった。いくつかの冊子やポスターなどをスライドで見せてもらったが、まさしく行政の手の届かないところ(時間と手間がかかる)に手が届くような取り組みばかりであった。

宗教の社会学的機能として、人と人を繋げたり、コミュニティを形成するバインド機能というものがある。それらは仏教だけでなく、天理教にも存在すると思う。天理教でも自殺予防の取り組みをしていると思うが、こういった宗教の試みはなかなか表には出てこないが、とても大切なことだと感じられた。前段の例でいえば、自殺を思い立った人間を止められないのであれば、自殺を思わせないようにという試みになる。東北の震災でも、多くの宗教団体が現地にはいって活動をした。中には、ここぞとばかりに被災者を布教するような団体もあったようだが、宗教団体しかできない役割も十分にあると感じられた(鎮魂や崩壊した地域コミュニティを代替した宗派コミュニティ)。地域コミュニティのバインド機能が低下する中で、宗教が作ってきたコミュニティがバインドとして機能することは正面的支援になりうる可能性があると感じた一日であった。大きな不安が取り巻く世の中で「あそこに行けばなんとかなる」という安心感が宗教にあることは、人間にとって宗教とは根源的に必要性であると思う。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

体罰と組織の開放性について

大阪市立桜宮高校の体罰について思うこと。テレビ以外での出版物を読む限り(テレビはあまり見ないので)、この体罰を多くの識者が論じている。体罰容認派、橋本市長の対応の是非、教育現場での公権力の介入批判、桑田論などさまざまである。私は基本的に、教育行政に関しては外部がとやかく言うべきではないというスタンスなので個別事象については論じない。
しかし、せっかくなので今回は体罰を巡っての構造論的な視点や、天理教的視点で考察したいと思う。お正月に天理教の教会にいった感想は次回にする。

体罰の構造について多く論じられているのが「ブラック企業」との類似点である。ブラック企業とは、近年社会問題の一つであり、低賃金で過剰な労働力を強制的に搾取する企業のことである。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BC%81%E6%A5%AD
現代では非正規雇用が増加し、正規雇用として就業できれば幸せな時代である。企業としては多少劣悪な就業環境だろうが、求人を出すと応募が殺到する現状がある。つまり企業は、最も高いコストである人件費や福利厚生を叩けるだけ叩けるのである。「これができないなら、仕事やめちまえ!お前の替わりなんていくらでもいるんだ!」ということである。従業員としては、せっかく掴んだ正規雇用を失うくらいなら多少の我慢は致し方ないとなってしまう。

体罰との類似点について山本直人は「思考停止と慣例服従」と言っている。http://www.naotoyamamoto.jp/blog/archives/2013/01/post-128.html

体罰もブラック企業も、大きな共通点は「その環境が当たり前」と思う/思わされるということであると私は感じている。山本の言うように「密室で」、「絶対に仕返しをされない」という条件が整うことで、それは容易におこなわれる。ブラック企業であれば、それは「顧客のため」「売上のため」と言われ、体罰では「勝利のために」「成長のため」とすり替えられて脅迫される。

ちょっと遅くなってしまったが、私は体罰については嫌悪する立場である。吐き気がする。私も一応学生時代は体育会に所属しており、今思うと非科学的精神論も体罰も経験した。その感想は桑田論に概ね賛同する。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130112-00000005-jct-soci

私は涙ながらの教育論だろうが、勝利に導くためのAll for oneだろうが、上記に挙げた条件が揃う延長線上には、そのまま児童虐待やDV、そこまでいかなくとも女性に対する威圧などに結びつくことを実感しているからである。これは人文学系の人間として最も譲れないところでもある。理論ではなく実感である。

「お前のことを心配するがあまり、手をあげたんだ」という涙のつきのセリフはDV男の常套文句である。児童虐待の裁判にも同席したことがあるが、体罰か躾かという線引きは大変難しいものである。ちなみに児童虐待防止法以前までは体罰を規定するものがなく、暴行罪しか罪に問えない。虐待防止法があっても「躾のためにやった」という親の言葉に反証するのは非常に難しいのである。

個人的には「いい先生」であっても体罰を容認することは決していけない。それは指導者としての敗北である。確かに体罰が容認されていた時代もあったが、現代ではそれは通用しない。時代遅れで淘汰されるべきものであろうし、実際に淘汰が進んでいる。

ここまで読まれて、天理教人の読者は私がどこに繋げたいのか察していると思う。私は常々天理教の組織を思考制止と時代遅れの布教実践を批判している。山本がいう「思考停止と慣例服従」と同じである。私が聞いた天理教人からの伝聞情報や、読者から送っていただいた視聴覚情報の中で、天理教組織内では体罰のような身体的外傷は存在しない。しかし教義に補強された上下関係の中で脅迫ともとれる圧迫説教が「理」や「親の思い」に変換され、資金集めや後継者育成がおこなわれていることを示すメールを送ってもらったり、私の体験でも存在する。これらは法律的に違法ではない。しかし、天理教が「陽気暮らし」という公共の利益を目指して信者を獲得しようとしていることを考えれば、天理教の中身をより多くの人に開示するべきだと思う。

例えば、各教会や大教会からの資金の流れや天理教本部の職員の給与体系、天理教人の子供の奨学金の大教会長(直属教会長)の許可に関する不透明性と進路の強制性、天理教関連高校で毎年新入生に行われるヤマギシの特講やヨットスクールのスパルタを想起させるような規律訓練といわれるものである。これらは実際に私が見て違和感を持ったことであり、これを天理教人に話すと多くの天理教人が同様の体験をしている。ただ天理教人は何故かは分からないが、自分たちの組織に関しては「まぁそういうこともあるなー」と牧歌的で私は非常に嫌悪感を持ったことを覚えている。陽気暮らしを目指す天理教人が、自分の所属する組織においては上記の不透明性や権力の偏在に関しては問題意識を持たないこことは、桜宮高校で皆がみている体育館で公然と体罰がおこなわれていたのに声をあげずに黙認した他の教員と同じである。天理教人に大阪の体罰を糾弾する資格はあるのだろうか。

組織の中身に関しての情報は出す必要性がないから出さないというのは、天理教の開放性に疑問を持たざるを得ない。天理教が今後、本当に陽気ぐらしをしたいのであれば、やってることを皆に見てもらえればいいだけである。例えば毎年春に天理教関連の高校にいくと、新入生たちの異常な従順性を垣間みることができる。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

 

ある天理教教会の寂しいお正月


年始に地元の天理教の教会に寄った。そこの教会には私たち家族が昔からお世話になっている。我が家で天理教の信仰が最も篤かったのは祖母である。私は年始の挨拶と教会家族とメールのやり取りが年に数回あるだけである。その教会に1/2に参拝して感じたことを書く。その教会は地方にある。神殿と住宅が分離しており、比較的大きな教会である。正月だから大丈夫だろうとアポなしで参拝に行った。数年前であれば、正月に教会に参拝すれば、どこかの家族と一緒になったり、教会の子供たちの声が聞こえてきて正月らしい賑わいであった。しかし、今年の正月の教会は非常に閑散として静かで驚いた。子供の声は聞こえず、どこの家族も参拝に来た様子がない。神殿の装飾やお供え物は月々の祭典ほどの豪華さであった。私たちは家族は、「静かだよね。初詣した神社はあんなに人が多かったのに」と顔を見合わせるしかなかった。そのまま誰も会わずに帰ろうかと迷ったが、さすがに正月にそれはマズイと思い、教会家族の住居の方に挨拶にいった。すると会長夫妻が出迎えてくれた。ようやく住居の方で、私たち家族と会長さん夫妻と新年の挨拶と近況報告をした。私から「今年の教会の正月はなんでこんなに静かなんですか」と質問すると、単に人が来ないということである。さすがに元旦の祭典には近所の高齢の信者が多数集まってくれたが、それ以降は誰も来ないということである。一番驚いたのが、この教会には成人した子供が多くいるが、娘さんたちは全て結婚して嫁ぎ、息子さんたちは正月は嫁さんの実家へ帰っているとのことである。そのために正月でも教会は静かであったのである。私に話をしてくれた会長さんは、若い頃から道一条(天理教一筋)で行動的で、縦の伝道にも熱心で若者たち(子供たち)にも厳しく説諭する姿が印象的であった。しかし、今の会長さんを見る限り、若者から“自然と”敬遠される寂しい姿しかなかった。子供たちは誰も教会や天理教を嫌ってはいない。しかし選択肢が増えた社会において、若者の正月の優先順位に教会や天理教が上位に来ないだけのことであろう。もちろん会長さんは、そんな分析を言葉にはしないが、昔から教会の息子たちの話を聞いている私としては、この会長さんの寂しい姿は必然的なのだろうと感じた。この会長さんの後継者である息子は常々「親父(会長さん)は神や親を見ているが、人間を見ていない」と私に言っていたことを思い出さずにはおられなかった。確かに、私自身もこの会長さんと話をすると天理教の用語は多く出てくるが、社会人として人間として対等に話し合えたことはない。「徳がない。理がある。親の思いに寄り添って。」と上から落ちてきた言葉ばかりの再現で、それら天理教の用語を抜きにした人としての生の声がまったくない。私が天理教に対して批判的な論拠を形成しているのも、この会長さんの立ち居振る舞いの影響が強い。偉そうにトップダウンで天理教論をまくし立てて思い通りにした結果、数年後は誰も教会に寄り付かない寂しい正月になっている。この私の思いは、この教会に留まるものではない。上級教会や大教会に足を運べば、同じようなタイプの会長さんの多さに驚倒し、大教会長にいたっては絶対神のように崇められているほどの権力の異常さに気付かされる。このことを考えると、今後の天理教の姿もまた非常に寂しいものになるのではないか。そして、それは思いのほか急速に天理教の足元が瓦解していると推測する2013年の始まりであった。「家族団らん」や、「教祖にもたれて」という輝かしい言葉は、実体がないゆえに若者には信仰的自立を抑圧する機能となっていることを教団はそろそろ自覚してはどうだろうか。そんなことを考えた正月であった。続きは次回。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

命に対する慎みのなさ


このブログで取り上げるテーマで生命倫理に占める割合は大きいつもりである。これまで臓器移植に関する天理教の考え方を俎上に上げてきた。天理教は臓器移植に賛成なのか、反対なのか。過去の「みちのとも」(内部向け月刊誌)や天理時報においては、教理上反対とするコンテキストが多い。天理教が臓器移植に反対とする根拠は「人間の体は神からのかしもの・かりもの」という教えである。これは人間の体は神様から貸借物であるということである。借りているものは、返さなくてはいけない。だから傷をつけてはいけないし、もちろん又貸しはいけない、という貧困で原理主義的で直線的な論理展開であったと思う。しかし一方で、天理教傘下の病院では臓器移植の認定を行政から受けるているなど「言ってることと、やってることが違う状態」が発生している。

臓器移植に限らずに、いま流行りのiPS細胞や、尊厳死、出生前検査など、生命倫理や命に関する課題は今後も大きくなっていく。特に遺伝分野は、今後産業の拡大が予想されている。これらは多分に宗教的命題を孕んでおり、命を物象化、商品化させる難しい問題である。天理大学の諮問機関の天理やまと文化会議が、生命倫理に関する議論をしているようだが、結論は「難しい問題だから考えねば」というところで毎度思考がストップしている。

私は、こういった天理教の中途半端な姿勢を適宜批判してきた。なぜなら、こういった課題を取り上げるたびに「じゃあどうしたらいいの?」という現場の読者から質問をいただくからである。天理教は何も回答しないが、末端の信者からは「どのように教理を解釈したらいいのか」と意見を求めらることがある。外部の私が回答できるわけがない。天理教が臓器移植に反対の立場だからといって、なかなか信者にその原理主義で固まった理路を提示できない。それでは時代に逆行するだけでなく、「かしもの・かりもの」という教えがあるから臓器移植に反対と言っていては、「陽気ぐらしと整合性がつかない」という当たり前の違和感が信者たちにあるからだろうと察する。

私は天理教の八方美人な思考停止姿勢を批判してきたが、ここにきて「カインは解決策を持っているのか?」と批判の矛先が私の方に向いてきた。もちろん、私は天理教の専門家ではないし教理を理解していないので答えなどもっていない。しかし天理教の出版物等を読む限りにおいて、「大きく違う」と感じることがある。

私の業務においても倫理的判断を求められることは多い。むしろ判断をすることが私の仕事であるといっても過言ではない。その経験から言えば、天理教の生命倫理に関しては、それほど難問ではないと思っている。むしろ簡単な問題だと思っている。簡単な問題を天理教が結論を出せないのは、大きな勘違いをしているか、組織構造に問題があるのだろうと思う。そのため簡単な問題が、非常に世界的難問になってしまう。

大きな勘違いをしているというのは、何も天理教が生命倫理学を構築する必要はないということである。そんな頭脳は天理教にはない。役割でもない。倫理的課題といっても、枝葉に惑わされてはいけない。生命倫理を構築するのは、そのアカデミックなトレーニングをうけた医療倫理学者や哲学者が考えることであり、市井の一医者や特定の宗教者が判断することではない。そんな奴らに誰も回答を求めていない。議論することは自由であり何も言わないが、天理教の論点は”そこ”ではない。

枝葉に惑わされれば、「これはどのように教理上判断すればいいのだろうか」という問題が山ほどでてくる。しかし、現場ではそれを判断とは言わない。毎度一から判断していては、時間もかかり、その判断は経験主義的になり信頼性はない。現場で必要な判断とは、どれだけ基準に近い判断を導き出せるかということである。大切なのは判断の基準を作ることである。つまるところ、天理教の判断の基準は何かということである。具体的に言うのであれば、天理教が議論すべきことはiPSの倫理的課題ではない。「天理教は今後社会とどのように付き合っていきたいのか?」ということに尽きる。それらは天理教の専門家にしかできないが、しかし私が見る限り、これらを議論している痕跡はない。

天理教が今後、社会とどのように付き合っていきたいのか。これら判断の基準が提示されれば、どのように論理展開すべきかは自ずと判断できる。むしろ論理展開など、ある程度文学トレーニングを受けていれば例え反対の立場であろうと、何とでもできる。では天理教にその判断の基準が出せるのかというと、現状ではそれはできないと思う。その天理教という船がどこに向かうのかは、船長を中心とした方向性を決定できる幹部たちにしかできない。船長以下は、船長が示した方向性に舵をきり、帆を上げるだけなのである。

以前、ある地方行政の町おこしのプラン策定に関わったことがある。そこでは「どうすれば町に人が増えるだろう。どうすれば町が活性化するだろう」という議論が中心である。しかし行き詰まるところは毎回同じであり「町はどうしたいのだろう」ということであった。それは第三者委員会がいくら議論しようとも、方向性を決めるのは町長や町議会でしかない。民意の付託を受けた町長が、今後町を福祉行政に力を入れるのか、働き世代の人口増加を望んでいるのか、それが決まっていない中で議論をしろと言われてもお金もない、支援もない中で判断ができない。技術的な問題よりも、まずは当事者たちが「今後どうなりたいか」ということでしかない。ゴールさえあれば、そのプラン策定や予算配分は自然に構築できる。

枝葉を議論すると、行き着く先は、自ずと同じ壁にぶち当たる。その壁とは、リーダーや幹部がどう考えているのかということである。リーダーがこの舟をどこに向かわせたいのかが決まれば、それ以下の人間は、そこに向かって論理をビルドアップして道筋を作る。生命倫理に関して、天理教の思想を突き詰めれば、現代に存在する社会的合意を判断の基準とするのか、現代社会が合意しようと天理教のオリジナル性を優先していくということである。やはり話はそこまで難しくない。それは医学や哲学、宗教学、天理教学の判断ではない。リーダーを含めた幹部たちの判断である。社会に合わせるか、オリジナルを作っていくか、判断基準の軸足をどこに作るのかということである。

そして、私は天理教の場合、社会的にも歴史的にもオリジナルな論理展開を創ることは原理的に不可能だと思っている。それは天理教のゴールが陽気ぐらしという

天理教は衰退を止めることができるのか


天理教人から封筒が郵送された。「諭達第三号」と「大望」と「教会報」が入っていた。もちろん頼んだ覚えも連絡もなく、勝手に送りつけられた。

「諭達」は、天理教の重要なイベントを迎える際に、真柱(天理教のトップ)から信者に向けて発表される所信表明文である。重要なイベントとは3年後に教祖が誕生してから130年の区切りを迎えることである。天理教では「3年1000日」という概念があり、イベントの3年前から準備を始めることが多い。3年は1095日だから1000日からは1割近くもオーバーしていることになるが、理由は分からない。「諭達」は天理教人向けの所信表明であり、外にいる私にはあまり言葉の意味が理解できない。一つ分かったことは全国のほとんどの教会に掲げてある「感謝•慎み•助け合い」というスローガンが書かれた垂れ幕は、天理教人に向けてのものだということである。「諭達」から私が読み取れたのは「天理教人よ、感謝、慎み、助け合いをしろよ」ってことなんだと思う。https://sites.google.com/site/yutatu3rd/

「大望」というのは、天理教の青年部が発行するA5サイズ?で厚さ3mmほどの小冊子である。驚いたことが2点あった。一つは、これが月刊誌であるとういことである。我が家には年に2、3回しか届かない。加えて100円もするようだ。天理時報のように、もちろん購読申請していないし、お金も払っていないので、数ヶ月に1度でも文句は言えない。もう一つ驚いたことに、今月号に作家、適菜収のエッセイが載っていることである。彼は哲学者ニーチェに関する著書をいくつか書いている。「大望」では当たり障りのない文章であったが、私が時折目にする産経新聞での記事では、愛国保守というべきか、タカ派というべきか、非常に攻撃的色彩が強い。私が驚いたことは彼の思想ではない。彼の思想を天理教の媒体が採用していることである。彼のブログを見ても政治色が強く、かつ攻撃的である。http://ameblo.jp/tekinaosamu/ ニーチェのキリスト教批判や、適菜収のB層批評は、一歩下がれば「天理教社会学研究所のカインは何を偉そうに言ってんだ」と同等の反感を買う危うさがある。

天理教青年部が、なぜ攻撃的な思想の持ち主に記事を依頼したのか。理由を考えてみると①天理教青年部は執筆依頼をした人間を間違えてしまった②天理教青年部に存在する「改革的気運」を反映したかった。私にはこの2点しか思い浮かばない。①であれば残念な組織であるが、②であれば古典的な既成組織に新しい風を送ろうとしているのかもしれない。しかし、まぁ私の知る限りにおいて、「ニーチェやゲーテならこう言うだろう」という点においては勉強になるが、彼の思想が市場や論壇に定着しているとは言い難いので①が妥当かなと思う。天理教青年部編集者は、彼の書籍や思想をちゃんと下調べしたのだろうか疑問である。

もし天理教青年部が「天理教批判されようとも天理教も変わっていかないといけない。ここはきちんと改革的思想を表現してもらおう」と執筆依頼したのであれば私は評価したい。私に執筆依頼してくれれば、硬直した天理教組織批評ならいくらでも書くんだけど。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

皆にやさしい天理教の思考力低下


来月には衆院選が控えている。ただでさえ師走はせわしないが、日本国中がバタバタした年末になる。私は政治的な発言はあまり好きではないし専門家でもない。そのためできるだけブログで政治的な発言をすることを控えている。ただ、どうしても今の時期にブログを更新しようとすると天理教と政治に関して考えることからは逃げられない。天理教はどのように政治を考えているのかということである。

天理教にも政治は存在する。私の知る限り、組織の内部にある権力闘争や理の親に対する承認欲求競争などは実際に見てきた。しかし、政治的動きではなくリアルな政治との付き合い方や投票行動を天理教としてどのように考えるかは天理教の今後を考えるうえで検討に値すると考える。

例えば某学界では、宗教団体と政治の距離に関してたびたびネガティブな意味で注目をあびている。私は某学界については詳しくない。しかし選挙のたびに職場のスタッフに某学界と関連の強い特定の政党に投票するように依頼されたことがある人は少なくないのではないかと思う。そう考えたときに、天理教から政治活動を強制されたり、依頼されたことはない。これに関しては、天理教の社会的信用に対する一定の評価ができると思う。

しかし非常に狭い経験からの発言で申し訳ないが、天理教は政治に関して無関心すぎるのではないかと私は思う。無関心というのは、各々の天理教人が政治に対して無関心と言っているのではない。天理教という組織が、政治に対して距離を置きすぎていたり、一定の方向性をまとめようとしない傾向が強い。つまり組織として政治に無関心すぎるのではないかと思う。
私は、これまでに天理教が政治に介入しない姿勢を支持してきた。しかし政治や今後の日本に関して天理教人と話をしても、天理教人から聞けるのは“天理教らしさ”ではなく、テレビからの情報を鵜呑みにした実態のない言葉遊びでしかない。

宗教団体が政治的オピニオンを持つという距離感やバランス感覚は、非常に難しいことは承知している。しかし、少なくとも「陽気ぐらし」を掲げて活動している天理教が、弱者を貶めるような政策に声をあげないのは、「陽気ぐらしなんて口先だけで、やる気がない」と思われても仕方ないのではないだろうか。例えば、民主党政権になって生活保護の国家予算に占める割合は増加の一途をたどっている。そして自民党や維新の会は、次期衆院選のマニフェストで生活保護の削減を検討している(現在マニフェスト作成中のため未確定)との情報もある。生活保護は憲法に保障されている「健康的で文化的な最低限度の生活」(憲法25条)のためのものである。これが削減されることは弱者の生活が厳しくなるということである。

押し付けるつもりはないが、天理教人には「生活保護の削減をしない場合、増大する社会保障財源はどこから持ってくるのか」という包括的議論まで求めない。それは政治家の仕事である。しかし「生活保護を削減したら、生活できない人が増え、高齢者の自殺が増えるかもしれないから反対だ」くらい組織として声を上げてもいいのではないだろうか。これでさえも共産的でNGだろうか。原発に関しても、過去にブログで紹介したように天理教以外の各宗教団体は伝統宗教、新興宗教問わずに、脱(反)原発の意見を組織として表明しているところが多い。私は宗教組織として一つの事柄に意見表明するリスクを危惧したが、逆に言えば組織として意見表明できるほどの組織力や統率力があるとも言える。中には組織は脱原発の表明をしたが、個人では原発を賛成している人もいると思う。しかし、意見表明をすることで議論が生まれ、問題意識を共有して発展していけると私は思う。

天理教のシンクタンクである「天理やまと文化会議」がある。ここでは専門家たちが時事トピックに関して議論しているとある。出席したことのある天理教人の何人かに話を聞くと、そこでは議論というよりも、専門家を招いて「はい、大変勉強になりました」という議論とは名ばかりの学部生の講義程度しかないようだ。天理時報10/28号の「視点」ではiPS細胞の生命倫理に関して「天理やまと文化会議では、このiPS細胞と生命倫理問題に関して、すでに2007年12月から計12回の討議を重ねてきている」http://doyusha.jp/doyu/top/?page_id=14223とあるが、「5年間で12回だけ?それだけで超難問を議論したと言い切れるの?じゃあ結論はどうなの?議事録を公開してよ」という疑問を持った人は少なくないだろう。結論はやはり「この革新的な技術進歩によって生命が資源化、道具化、商業化される可能性がより現実味を帯びてくるだけに、iPS細胞が内包する倫理的問題を教理面からも掘り下げていく必要性が増している」と「12回も議論して、まだ掘り下げてないんかい」とツッコミたくなる結論である。

社会的問題に関して、今の天理教は「何も主張しなければ批判されることはない」という姿勢に私は感じられる。それは、社会構成員として無責任ではなかろうか。それでは社会にとって天理教の存在意義はない。各地で頑張っている天理教人や教会は天理教の名を冠する必要はなくNPOやボランティアサークルで十分となってしまう。組織として社会に対して問題提起やAdvocateしないということは、社会的組織として責任を放棄していると思われても反論できない。また問題提起をしないことは、天理教構成員の思考する機会を奪っていることに繋がる。「事なかれ主義」と聞いて天理教が一番最初に脳裏に浮かんできた私の意見である。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

義援金の使途について


植田先生が運営されている天理教みさとブログhttp://tenkoku0805.blog9.fc2.com/を読んでいて、疑問に思ったことを述べたい。天理教では、昨年の東日本大震災に際して10億円近いお金を義援金として集めたことを思い出した。その後10億円は、適正に運用されているのだろうか。確か天理教は義援金と、災害救援活動への支援と2つの集金窓口があったと記憶している。お金の話は下世話すぎるのであまり好きではないが、一度自分の中で整理しようと思う。

天理教ホームページを見ると、2011年6月16日のニュースhttp://www.tenrikyo.or.jp/jpn/?p=3790では
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なお、6月14日現在までの募金累計は下記の通り。
■募金累計(3月15日~6月14日)■
「災害救援募金」
4,023件
3億3376万1,042円
「天理教被災教区・災救隊支援募金」
3,170件
2億8523万5,331円
合計
7,193件
6億1899万6,373円
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2012年01月15日のニュースhttp://www.tenrikyo.or.jp/jpn/?p=3120では
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本教では、東日本大震災の被災地の一日も早い復興を願い、2011年3月15日から12月27日にかけて、道友社を窓口として「災害救援募金」「天理教被災教区・災救隊支援募金」を実施してまいりました。募金総額は、
「災害救援募金」
4億4682万6454円
「天理教被災教区・災救隊支援募金」
4億7391万5132円
合計
9億2074万1586円

本紙既報の通り、災害救援募金につきましては、集まった義援金の中から、お見舞金を含め、岩手・宮城・福島の各県庁へ計3億3000万円を届けさせていただきました。残額につきましても、後日、被災地へ届けさせていただきます。また、天理教被災教区・災救隊支援募金につきましても、募金の趣旨に沿った形で活用させていただきます。長期間にわたり、多額の募金をお寄せいただきました各位のご理解、ご協力に対し、重ねて感謝申し上げます。
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2012年2月9日のニュースhttp://www.tenrikyo.or.jp/jpn/?p=4691では
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1月30、31の両日、原発事故による影響が特に大きい福島と茨城の両県へ。各県庁を回り、全教から寄せられた救援募金の中から、義援金として計1億2000万円を手渡した。これにより、被災地へ届けた義援金の総額は、見舞金を含めて4億5000万円に上った。
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以上がホームページで公開されている情報である。まず被災地への義援金については、総額4億5000万円を天理教から被災地へ渡ったようだ。しかし天理教が集めた義援金は4億5000万まで300万円あまり足りていない。足りない分はどこかから補填したのだろう。これに関しては、比較してはならないが、他宗教や他組織と比べて非常に高額であり天理教の組織力が高いことを示していると思われる。
一方で「天理教被災教区・災救隊支援募金」という窓口も約4億7000万円も集めている。これは、名目上は被災地にある天理教関連施設や天理教が所有する災害救援部隊(天理教災害救援ひのきしん隊)を支援するものとして使われるのであろう。しかし、ホームページではこのお金に関しては何も触れられていない。どうなっているのだろう。当然、名目通りに使われているお金もあるだろうとは思うが、非常に高額すぎて我々庶民には検討がつかない。例えば、倒壊した教会の再建ということであれば4億だって倒壊した教会の数によっては少ないかもしれない。
被災地への義援金は立派に被災地に行き渡ったことが写真付きで証明されているのに、もう一つの窓口で集めた天理教への支援金には何も説明がない。私が知らないだけで天理教の出版物である「天理時報」や「みちのとも」には詳細が載っていたのかもしれない。ただ、政治への不信を持つ我々として「天理教ではお金を本当にちゃんと使われているのか」と疑う気持ちは当然生まれてくる。もし天理教が、きちんと報告をしていないのであれば、なぜ報告をしないのかを思考することは無駄ではなかろう。反原発の人たちが反エレベーター、反車社会とは言わないように、敢えて声を上げないことには必ず何かしらの恣意性があると考えるのは論理的な振る舞いである。
天理教に対する支援金の使途を表に出していないからといって、私は天理教を批判はするつもりは毛頭ない。私は天理教の窓口に募金はしていないし、天理教は公的機関でもない。ただ一大宗教団体であり社会への一定の説明責任を背負う天理教がどのように行動するのかを知的関心として知りたいだけである。

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天理教を信仰することのメリット

先週に天理教本部でおこなわれた天理教青年会総会に参加したことを書きたい。知り合いの天理教人と3人で中庭と言われる場所の端っこの方で見ていた。中央にいる集団には、怖くて近寄りがたかった。式次第が順調に進められていたが、私は天理教人と色々な話ができ、濃密な情報やリアルな天理教人の思いを収集することができた。そのやりとりの中で私が「天理教を信仰するメリットって何だろう」と呟くと、すかさず「天理教人が、それを一般の人に説明できないことが大きな問題だ」という教会長の洞見を得た。天理教の垂直的な組織構造は、下部成員の思考停止を招いている。そのために、下部成員は自らの頭で考えることを放棄してしまったということである。

天理教のメリットという言い方は、棘がある。天理教の人にとってみてれば、信仰をメリットで語ることの抵抗もあるだろう。信仰は生き方や哲学であって経済用語ではない、と。しかし、天理教を知らない人が天理教に接するときに「天理教を信仰することで、人生にどのような善きことがあるのか」という問いは自然な態度である。思えば天理教も、立教当時は「病だすけ」という人間的メリットを契機とし、布教戦略の本命に置いていた歴史がある。その後に、いろいろな抽象的教義の肉付けがおこなわれたのだろうが、「病だすけ」というメリットがなければ、天理教がここまで巨大化することはなかったであろう。

「天理教のメリット」を問うたところで、自分の言葉で説明できる天理教人は私は数人しか知らない。それ以外の天理教人の多くは、センセイから拝借してきた抽象的な言葉を同語反復しかしない(できない)。青年会総会では天理教のトップである真柱の講演もあった。その内容は非常に抽象的・歴史的なものであった。しかしトップは、一定の方向性を示すことが仕事であり、抽象的な話でよいのだと思う。しかし、それを聞いてる下部成員たちが、真柱と同じような言葉を反復しているようでは、聞いている私は天理教という船がどこに向かっていくのか想像もできなかった。つまり、青年会総会の後に、詰所でおこなわれた決起集会のようなものも聞いたが、真柱が話した以上に具体性があったものや、オリジナル性をもったものはなかった。具体性といえば、「来年までに、おさづけの拝戴者を○名いただく!」というお決まりの形骸化した数値目標しかなかった。結局、人数かよ。以前、自民党の安倍さんが「美しい日本にする」と言った。もし、これを政策実行部隊である官僚や行政職員が言ったとしたら、私たちは腹が立つだろう。「お前が言うなよ」と。トップはトップの、下部は下部の仕事があるだろうが、天理教では真柱が何人もいるのだろう。

数年後には天理教は節目を迎えるようだ。それは今後の天理教がどうなっていくのかの大きなターニングポイントであると思う。そのときまでに天理教人から天理教を信仰するメリットを天理教人の言葉で聞いてみたいものだ。陽気ぐらし世界の建設というぼんやりした言葉ばかりは、もうお腹いっぱいだ。

http://www.tenrikyo.or.jp/jpn/?p=6011

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp