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しばらく宗教的人権をテーマにしようと思う

私が最近、興味を持っていることは「大津市いじめ事件」と「検事総長告発事件」である。どちらも「組織的隠避」ということが共通項だと感じる。一方は子供の自殺が、一方は田代検事の不起訴処分が発端である。どちらも、一般市民感覚では「あり得ない」というところではないだろうか。両者とも、調査中であるから事実関係はこれからであり明言はできない。これらの事件は組織と社会の乖離であると方々から指摘されつつも、私が興味深いと感じるのは、組織内では常識とされつつも、組織外の反応を(無意識的にでも)想像できたために隠避ということになっている点だ。つまり「隠す」ということは「オープンにしたらえらいことになる」ということが想像できるために「隠す」のであろう。もし「オープンにしたらえらいことになる」と想像できない人間は、「隠す」ことなどしない。特に検事総長告発事件では、最高検の調査報告書を読めば読むほど矛盾点ばかりである。最高検の報告書は「田代検事は記憶が混同した」ということを信じているが、大事な裁判資料の記憶を混同するようでは検事の資質を問われても仕方ないだろうし(実際に検察官適格審査会にかけられたようだ)、それを許容する最高検は「私たちは検事の資質を見る目がない」と宣言しているのと同等である。法治国家の根幹を揺るがす恐ろしいことである。

紛らわしい話題になって恐縮だが、天理教が何か「組織的隠避」をしているということではない。しかし身内には権力を用いて、対外的には事なかれという構造は検討の余地がある。日本では新興宗教団体に対して厳しい目が無条件に向けられるが、天理教では比較的好意的な目でみられているように思う。しかし天理教もまた社会に対して不透明な部分が多いことは事実である。それは犯罪事由ではなく、あくまで組織的倫理観といえる。ロシアやインドネシアなど大統領の再選に有限があるように、権力を長期に保持することは組織の私物化になることは歴史が証明している。

前回にも少し触れたが、天理教内において子弟や“理の子”にあたる信者の処遇を巡るトラブルは多いと感じる。天理教の内部にいる若者と少しでも話し込めば、個人的感覚では過半数以上の若者が必ずこの種の悩みを抱えていることが多い。進路の妨害から、婚姻への抵抗、理の親からの心無い命令、教義的正当性にすり替えられたお供えの圧力などである。

先日も天理教人の女性と話をした。これから天理教を信仰しない男性と結婚を控えていると報告を受けた。非常に喜ばしことでお祝いをしたが、問題があるとのことである。結婚予定の男性は天理教に否定的ではないが、男性の家系では別の宗教を信仰している。そのために、女性が所属する教会の会長夫妻に結婚を祝福されなかったとのことである。女性のご両親は熱心な信者で、会長の意見次第で親の態度も決まるようだ。会長夫妻は反対はしなくとも祝福はしてくれず、いつもはよくしてくれるのに、「あら、そう」と素っ気なかった態度のようである。正論を言うのであれば「その程度なら法律的に問題ないだろう」や、「実の親がしっかりしろ」「会長夫妻なんてほっとけ」という意見が出るだろう。しかし彼女の純粋に親を思う気持ちや、理の親でさえも大切にしたいという思いを私は無視できない。愛した男性と大切な親は天秤にかけるべきものではない。そして、このような罪悪感から、実際に結婚の予定が遅れているとのことである。まだ結婚の日時は決まっていない。こういったことは何代も続く伝統ある厳しい大教会に共通することなのだろうか。

こんな話を聞いて私は黙っていられない。今後、理の親の介入があれば、その時は自治体の人権擁護委員会に相談・申し立てを行うように助言した。「それは君が悩むことではない。理の親でさえもやってはいけないことがあるんだよ」と。いじめの問題と同じで、これらは信仰的(教育的)問題として権力が硬直した一組織が完結するものではなく、しかるべき機関に任せるべきであろう。それらは「問題がある」ということではなく、「調べてください」というレベルで十分だ。

私は常々、天理教の金科玉条である陽気暮らしは人権を包含するという立場をとっている。しかし、人権に関して適切な教育や感覚を持っている天理教人に会うことは少ない。前回も言ったが、天理教の人権意識は江戸時代なみであると言っていい。理の親は思い通りに子供の進路や婚姻を操作する。私は数年前に伝統ある大教会の会長が、結婚できない末端会長に対して「お前がその気になれば、いつでも女を用意してやる」と酔っ払って言ったのを私は実際に聞いたことがある。こういった発言は、オフレコであるし酔った席だからと看過することもできる。しかし私のような第三者や女性がいる前で発言するのは、組織の長として倫理的にいかがなものかと思う。そんなことは気にしなくていいほど大教会長というのは人格的に優れた偉い人なのだろうか。この大教会長は、信者には「神のようだ」と揶揄されているようだが。

会長職というのは、どれほど権力を持っているのだろうか私は知らない。しかし立派な天理教人である前に、規範意識をもった普通の人間であるべきであろう。そして「陽気暮らし」や「だめの教え(最終的な教え)」という大命題がある以上、天理教の公共性は社会に審問を委ねるべきであり、私は発信し続けたいと思う。素っ気ない態度も酔っ払った上での発言も、ご自身の立場や権力をもう少し律された方が、今後の天理教のためだと思うのだけれど。もし読者の中で天理教の人権に関する事例などがあれば、私にメールで教えていただきたい。今後、宗教ハラスメントについて大きなテーマとして考究していきたい。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

天理教のリアルな一部


ある読者からいただいたメールを紹介したい。読んでいただければ分かるが、私の狭い経験とは比べものにならないほど言葉に深さが感じられる。メールでやり取りをさせてもらったが、とても紳士的で社会人として好感が持てる方である。なぜ、こういった人間的魅力がある人材ほど天理教を離れていくのかは議論の余地があると思う。宗教ハラスメントという点を注意して読んでほしい。天理教人の一部に、こういった人がいるというよりも、天理教には多かれ少なかれ、このようなシステム的な負の共通点があることを私は強調したい。
以下、引用する(体裁は文意を損なわない程度に修正した)

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私は天理教の末端教会の長男に育ち、純粋な天理教の信仰生活と教団組織の現状や構造との乖離に疑問を持って育ってまいりました。そして、不条理な構造を維持しようとする既得権益どっぷりの教団や理の親と呼ばれる組織の支配者たちに対して、改革の声をあげたくても、仮にあげたとしても、もはや糠に釘で、本当に末端の教会の後継者や信者たちは無力だとほぼあきらめている状況の人間でもあります。「陽気暮らし、世界たすけ」とは名ばかりの形骸化した教団組織なら、もはやいらないとさえ思っております。組織が沈没しようが教えは変わりませんから。個人で教祖中山みきのひながたを求道していけばいいのだと。今は実社会で、自分のできることをしっかりと行い、自分の生活費は自立して自分で稼ぎ、人生の拠り所として教祖の教えを慕い、教団組織とはほぼ関わらずに、悠々自適に陽気に暮らしております。ある意味、末端教会だったからできた教団から距離をとることかもしれません。

天理教の、とくに理の親に都合の良いようにコントロールされている末端の側の人たちは、明らかに人間として不条理な命令だとしても素直に言うことをきいておられる方がたくさんいらっしゃいます。

また中には、私のように、これってどう考えてもおかしいよなと思いつつ、しかしその疑問を持ったり、怒ったりするだけで神に背いたのではないかと、大変強い罪悪感に苦しめられる人間もたくさんいます。

ちなみに私は「理の親」から酔っぱらって何度も差別的な発言をされたり、夜中怒鳴って電話をかけられたり、無理やり進路を強制されたり、詳細は書けませんが他にもありとあらゆるパワーハラスメントを受けてきました。通常世間一般では許されないでしょう?といったことも、泣き寝入りしてきました。

実はこれらを天理教教会本部(渉外課)に訴えたことがあるのですが、理の親の会長と相談しなさいと言われました。しかし、その理の親(一つ上級も大教会も)こそが元凶で頭がおかしいのだから、まさに犯罪者と警察組織の癒着のようなもので、結局逃げる(関わらないようにする)しかありませんでした。もうこの組織に自浄作用はありませんね。

カインさんも書いておられますが、

>>その脅迫的な悲しみを生んだシステムを採用している以上、共犯である。

本当に同感であります。

きわめて閉鎖的な、まるで表沙汰にならない中学校の悪質なイジメ、および周りの権力者による隠蔽に近いものを感じます。第三者機関に監視、監査していただくわけにはいかないものでしょうか。

人は権力(しかも神の)を手にすると、一般的な人間としての感覚が麻痺するのでしょうか?虎の威を借る狐ならぬ神の威を借る凡人 が神様をバックに自分の都合のいいように人をコントロールする。状況によっては何でもアリの恐ろしさを感じます。某教団を思い浮かべてしまいますが。

もちろん、理の親と呼ばれる立場の方が、素晴らしい信仰的指導者で、その方に絶対について行きたいと思う方が、その方を慕い、その方の言うとおりに自分の人生の指南を仰ぐことは否定はいたしません。その方の教会に所属し、たすかり、信仰生活を続け、お供えもできる範囲でしていく、こんな結構なことはいうまでもありません。

しかし三代、四代ともなってくると、理の親しばり、はともすると究極のパワーハラスメントにもなることはもう実証済みなわけで、独立希望の教会は、本部直属にするなど改革は望まれす。

個人の幸せの実現のためにあるのが信仰のはずなのに、組織の繁栄を優先するために各個人が自分の幸せを一生をかけて犠牲にする。まさにカルトであります。こんな無理が続くわけがありません。

天理教の純粋な信者たちは、理の親に対して、教祖のおっしゃる教理との乖離に、疑問や不満をもつことでさえ大きな罪悪感を感じ、それを抑圧して苦しんでおられる方がほんとにたくさんいるんです。

植田先生のブログにも救われました。

また私はこれまでも現教団体制にまったく疑問を持たない私の両親に、そんな疑問や不条理を訴えてたことがたびたびあったのですが、いっさい耳を貸さないですし、むしろ不足するなと一喝されるのが落ちでした。

しかし、カインさんの正論を両親に読ませたところ、やや最近は、教祖の純粋に素晴らしい教えの実践と、一部既得権益を固持したい権力者(理の親たち)が間違ったコントロールをしてきたという事実を分けて考えてくれるようになってきました。(たとえば、純粋な真心のお供えVS暗黙の強制のお供え要求)人をコントロールするために俺の言うことを聞け→理を立てろ、こんな教理はない等)

そして私自身も最近、教団に対して疑問や不快を持つことに対する罪悪感およびマインドコントロールも多少和らぎ、私のスタンスは、もはや現教団組織には期待も協力もせず、自分の日常生活で教祖の教えを精一杯実践し、世の人々のためによき影響力をなるべく残せるように努力していくことだと思っております。
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tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

色々な人がいて当然なんだけど・・・

ブログの記事に連絡先のアドレスを載せた途端に多くのメッセージを頂戴した。今までもプロフィール欄に公開していたけど気づく人は少なかったのかな。
そんなことはいいとしてメッセージをいくつか見て愕然とした。「これは本当に天理教を信仰する人たちなのか?」と思わざるをえない。つまり反論できないメールばかりである。反論できないということは、論理的でないということである。自分の考えを説明できない小学生同士のケンカのような感情的な批判は、こちらも打つ手がない。中には論理的に反論していただける方もいた。そんな方には私なりに丁寧に返事をさせてもらった。ごく少数の方からは応援メールもいただいた。嬉しい限りである。
以上のことから宗教の怖い一面を見させてもらった。同時に天理教によって苦しんでいる人の、恐怖感や罪悪感を私も疑似体験できたのではないかと思う。これらの人々は、天理教のごく一部であると思うので、これを天理教の全体像として詳細に論じることはしたくないし私も相手にしない。しかしこういった天理教信仰者の中に宗教的偏向性が存在する認識は、きちんと社会に発信していきたいと思う。

話は変わるが天理教本部の修養科に、先月フランス国営放送が取材に来たという情報が入った。この件について、どのような編集・放送がなされたのか情報をお持ちの方がいたら教えていただきたい。外部評価の大好きな天理時報なら当然記事にすると思うのだけれど、記事にしない理由でもあるのかな。
tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

若者の気持ちなんて分かりはしない

前回のブログで若者の伝道について書いたら、いくつか反論をもらった。反論の中心は「天理教の若者は熱心」ということである。
その反論について、私は「そうですか」としか言えない。私もデータを示しておらず、あくまで個人的感想の域を出ないからである。たとえば、天理教の若者イベントの参加者数や、天理教子弟の割合なんかを示していただけると話は早いのだけど。
私の感想というのは、何年か前に観察した若者のイベントと、天理大学の先生と話したことや、知り合いの天理教教会の若者たちと接した経験をもとに話し手おり、「カインが言ってることは主観的な感想にすぎない」と言われても「はい、そうですか」としかいえない。その上で、私は発言を止めない。自分の主観が主観に過ぎないのかを試したいし、現在の天理教の組織構造という点を考えたときに私の主観は、多くの点で妥当性があると思っている。そういった意味では、このブログを読んでいる天理教の方や、そうでない一般の方に評価してもらえればいいと思っている。

その上で、私の若者論をここに記録したい。「最近の若者は…」というフレーズは、どの時代にも言われることである。私も酔っぱらった席では言っているのかもしれない。会社などで入社したばかりの若者を見ると、そう言いたくなる気持ちも分かる。一方で「最近の若者は独特の感性をもっているんだ」と幇間になるつもりもない。若者は所詮若者であり、迎合するつもりもない。

ただ厳然たる事実として「将来」という道は、若者が担っていることは確定している。そのためにも若者にどんどん育ってもらわなくてはいけない。

私は仕事柄大学生と話すことは多い。そこで感じることは「若者は、我々中年の考えや心配なんて、全く興味が無い」ということである。テレビでも有名なコメンテーターが「社会構造の欠点」を偉そうに並べているが、そのコメントを本当に聞くべきだろう人は、そんな番組をまったく見ていないのと一緒の構造である。同じように天理教でも、「縦の伝道」というフレーズがあるが、本当に必要な人には全く届いていない印象がある。その上で、大人が伝えるべきことは何なのかを考えたい。

話を戻し、私に届いた反論から話を始めたい。私の若者論の出発点であり、色々な若者論の盲点は「あたかも若者の気持ちを理解できそう」という大人側の驕りや幻想だと思う。「若者」という通過点は、大人が全員通ってきたポイントである。そのために、大人たちが若者について話をするときは必ず自身の過去に退行せざるをえない。それが個人的経験なのか、同時代的意識に由来するのかは分からないが、「自分も通ってきた道」という点で、すでに大きな勘違いを生じている。「若者の気持ちなんてわかっている」という勘違いがないと、伝導という概念は生まれない。私は若者の気持ちなんて分からないし、分かりたいとも思わない。

一方、天理教の若者を対象にしたイベントを見ると、その過剰な適応性には驚愕する。どの若者もハイテンションに「イェー」と自己顕示的に大声で言っている。一方で、その組織に対する、また教義に対する従順さには恐怖すら覚える。天理時報などで天理教のイベントに参加した若者が「神様に生かされているって素晴らしい」や「天理教が大好きです」という非常に好意的な涙ながらのコメントを見ることがある。あれを天理教人はどう見ているのか私は知りたい。逆に聞いてみたいのが「尊師は素晴らしい」や「オウム真理教が大好きです」というコメントを天理教人が聞いたらどう思うのだろうか。一般の人であれば、どちらも恐怖感を覚えるのは想像に難くないのではないだろうか。マインドコントロールとまでは言わないが、私が天理教人に対して「バランス感の喪失」と言っているのは、そのような「自分(天理教)はいいが、相手(オウム)はダメ」というジャイアン的自己愛に対してである。もちろん、犯罪行為については許されるべきものではないが、問題は宗教性や信仰に対する態度についてである。

論理的に考えるのであれば、天理教が将来において発展を望んでいるのであれば、ここまで組織に従順な若者を育てているようでは不可能ということである。そして、天理教では組織に従順な若者を育てることを目標にしているように見える。反対を押し切って社会に出た優秀な若者たちは、そのエネルギーを天理教には向けてくれない。だって構造的に無理になってるんだから。ブレークスルーというのは、既存の枠組みを乗り越えることである。その枠組みを乗り越えるのは、既存の枠組みの中にいる人間では難しい。

日本の企業も、かつては年功序列で年齢と共に段階的に上昇できた。しかし、幹部の役職を輪番で既得権益を手放さなかったために組織は緩やかに減衰し続けてきた。カルロスゴーンもハワードストリンガーも最大の目的は古典的日本風土を打破するために呼ばれたというのは有名な話である。そこにはどれだけ優秀な日本人がいても、日本人である以上、現状を打破する経営は無理ということである。もちろん、生え抜きではない外部の“血”を入れることは大きな抵抗があったに違いない。「外部の人間に分かるわけがない」と。しかし錆びた構造を打破するためには、一番やってほしくないことをやる決断が大切なのかもしれない。

そして現在の天理教幹部もまた、一部の同じ権力的な苗字ばかりが並んでいる。それが悪いと言っているのではない。幹部には“理”という絶対的な権力カードがあるのだろう。私が主張したいのは、その是非ではなく「そのカードを保持していると、周りから冷めた目で見られているよ」ということである。そう考えると、今後の天理教も従順な若者が、順番通りに(理の通りに)重要なポストに就いていくことは想像に難くない。そして天理教という船は今まで通りにゆっくりと沈んでいくのだろうと推測する。

もう一つエピソード。数年前にある天理大学関係の研究会に出席した。そこで天理大学の先生であり天理教の信仰者である方が、数名の学生に対して「君は胸を張って、私は天理教を信仰していると言えるのか。言えなきゃダメだ」と言っているのを聞いたことがる。私としては「そりゃ言えねーだろ」と思った。同時に「マインドコントロールはこのようにして形成されるのか」とも感じた。つまり、天理教がIBMや電通のように誰もが知っていて、「おーそんな会社で働いているのか、すげー」という存在であれば「俺の会社はIBMだぜ」というように「俺って天理教だぜ」と言えるだろう。しかし現在の天理教の社
会での許容度を考えたときに、「俺って天理教だぜ」ということで何が達成されるのか私には分からない。その行為は天理教と社会の距離の増大を招くしか作用していないのではないだろうか。そういった意味で、私は「俺って天理教だぜ」と言えない天理教の若者の感性に1票を投じたい。

天理教では若者が声(批判的、革命的に)をあげれば、会長たちは遠い目をして「俺たちも若い時はそうだった」という。一方で「俺たちもそうだった」以外のことが生じれば猛烈に対抗するようだ。天理教の若者の進路や婚姻を巡るトラブルは多い。複数の事例を私は本人たちから聞いている。その他にも裏付けはできていないが、このブログを通して“理の親”や実の親による宗教ハラスメントと言えるような脅迫的な事例をいくつか教えていただくことがある。

私は若者が悪いとか、上層部が悪いと言っているのではない。構造システムが問題であると言いたい。天理教本部がどれほど革新的な若者育成の手法を採用しても、どれほど若者が声を上げようとも、今の天理教の組織システムでは能力を持った者、意欲に溢れた者は潰されていく。天理教の組織論は、親の言うままに進路や結婚をさせられていた江戸時代や明治時代であるかのような錯覚に陥ることがある。「それ、ほんまに今の時代のこと?」と聞いてしまうこともある。

先ほどの若者の件も、天理教本部は「末端のことまで知らない」というだろう。しかし、その脅迫的な悲しみを生んだシステムを採用している以上、共犯である。

結局、私が天理教の若者論で言いたいことは何かと言うと、若者の育成に対して「口を出すな、金をだせ」ということである。各教会の会長や大教会長は権力に無自覚であるものが多すぎる。その権力構造にどっぷり入っているものには、私の声など全く届かないだろうがね。
tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

情報発信と天理教の苛立ち

東京国際ブックフェアというものが開催される。明日5日から8日まで。http://www.bookfair.jp/
東京国際ブックフェアとは、出版物の見本市である。そこに天理教傘下の天理教道友社という出版社も出展するようである。おそらく私は昨年の天理時報で同様の記事を見た記憶があるので天理教道友社は、毎年このフェアに出展しているのだろう。
https://exhibitor.reedexpo.co.jp/TIBF/2012/search/jp/tibf/list.php?mode=jas&val=ta

驚いたのは、その模様をユーストリームで中継するようなのである。http://www.ustream.tv/channel/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%A22012-%E5%A4%A9%E7%90%86%E6%95%99%E9%81%93%E5%8F%8B%E7%A4%BE
ユーストリームとは誰でも中継、放送がインターネットで配信できるサイトである。非常に先進的な試みではないかと思う。宗教において閉鎖性とカルト性が比例することは社会学の常識なので、こういった開放的な試みは非常に新しいことだと思う。私は歓迎したい。しかし一方で、違和感を感じることも事実である。この違和感はどこから来ているのだろうか。宗教団体という内面的なものがインターネット配信という表面的なものを利用する安直さだろうか。天理教も某学界と同様に出版収入という安定的な収入にシフトしていることだろうか。おそらく、私が感じる違和感とは”開放の一方通行性”なんだと思う。ユーストリームとはインターネットを利用した比較的新しいツールである。それはインターネットを使用することからも分かるように、”誰でも、どこでも、何でも”という特徴を持つ。天理教がそのツールを利用することは時代の流れを考えると必然だと思う。しかし一方で天理教は、信者に対して情報発信の圧力をかける。「インターネットで天理教という名前を入れて安易に発信するべきではない」と。これはまさしく時代の逆行であるし、表現の自由への挑戦である。天理教は対外的には優しく、対内的には圧力をかける傾向がある。内弁慶というか、二枚舌というか。これが私の感じた今回の違和感だろうと思う。私の手元にも、天理教人がインターネットで天理教の情報を(ネガティブに)発信したあまり、天理教から罰というか、軟禁というか、処分を課せられたという事例が届いている。これは不確かな情報だったが、複数の情報を精査するとかなり事実に近いようだ。
中国の人権活動家を巡る、公安と民主主義の闘いが天理教でも再現されているといっても過言ではないと私は思う。人権を無視した”おいしいとこどり”は、そうは問屋が卸さないと私は正義を信じたい。

生命倫理をちゃんと考えているとは思えない

少し前のブログで臓器移植に対する天理教の姿勢について批判的に書いた。「天理教は臓器移植に反対の立場だ」と。すると何人かの方から「天理教はそんなこと言ってない。レファレンスを示せ」というメールをいくつか頂いた。
本件に関する私の情報ソースは、①天理時報の「視点」と②「みちのとも」における「天理やまと文化会議」の見解の2つである。
①については、このブログでも過去に取り上げたことがあるので参照していただきたい。http://ameblo.jp/tenrikyosyakaigakulavo/entry-10331233283.html
天理時報の「視点」というのは、天理教幹部数人が書いているエッセイのような記事である。その時々の著者はほぼ匿名である。天理時報の性質は対外的な色彩が濃い。匿名であっても、それは天理時報の社説という性質と同等である。天理時報の社説ということは「視点」の見解が天理教の見解と推論することは自然なことである。つまり、その「視点」を書いた人間が「これは私見にすぎない」と言ったところで、読者が「天理教の総意」と捉えることは避けられない。特に私のように天理時報から主に情報を収集している者にとっては当然である。今は購読していないけど。
②「みちのとも」については1年以上前に私が天理教の臓器移植論を調べていたときに、知り合いの天理教人に教えてもらった。「みちのとも」とはA4サイズで厚さ5mmくらいの黄色い表紙の月刊誌である。私は購読していないが、コアな天理教人にとってはフォーマルな情報が載っている。天理時報は表面的(対外的)な天理教の動静が主であるが、「みちのとも」は対内的な性質であり、天理教の財政状況や人事などは「みちのとも」で扱われるようだ。
「みちのとも」に掲載された臓器移植に関する記事は、「ほら、載っているよ」と教えてもらって読んだだけである。内容は詳細に覚えていないが天理時報と同じような内容だったと思う。今回、その「みちのとも」がいつ発行されたものだったかを調べていると、ある天理教人のブログに当たった。その中で「みちのとも」の臓器移植の箇所が引用されていたので引用する。

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立教173年3月号の「みちのとも」誌で、臓器移植に関する本教
の立場が明らかにされた。もっとも、23名の委員で構成される
【天理やまと文化会議】による見解であって、必ずしも教団の見
解を代弁するものではないし、まして親神様や教祖の神意を表
明するものでもない事は自明のことである。
その見解の要点は以下の如きである。
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「それぞれの魂にふさわしい」とは、身体は”その人のみ”に貸し
与えられた”固有”のかつ”専用”のものであるということである。
顔形や指紋、遺伝子とその発現が一人ひとり異なるということを
思い起こせば、容易に了解されるだろう。
このことから、体が「かしもの・かりもの」であるということは、借り
手には”使用”だけが許され、”譲渡”といった、”処分”までは許
されていないと思案するのが順当だと思われる。
このことはまた、移植を受けた人の身体が他者の臓器を、”異
物””非自己”と認識して排除しようとするため、移植を受けた人
は終生、免疫抑制剤を服用し続けなければならないという事実
とも符合する。
そう考えれば、身体の一部をやりとりする臓器移植は、本来的に
は親神の思召にそぐわない、不自然な営為であると考えざるを
得ない。
    
  立教173年3月号 みちのとも P33 21行~P34 15行
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この引用は、おそらく私が読んだ「みちのとも」と同じ記事だと思う。ここで扱われている「臓器移植に反対」という見解は「天理やまと文化会議」の見解であり、教団の公式見解とは異なるらしいが、それはただのズルい言い訳である。活字にした以上は、それが天理教の総意と見られることからは逃れられない。
上記引用したブログの記事が間違っていれば、私も訂正する。しかしこれが正しければ「天理やまと文化会議」が出した見解は、著しくバランス感覚を逸している。これはカルト教団の見解に近く、原理主義的である。つまり「かしもの•かりもの」だから「臓器移植は認められない」というのは中学生でも思いつく理路である。私の周りの天理教人たちが苦慮し、知りたいのは“その先”のことである。しかし「天理やまと文化会議」では“その先”のことはスッポリと抜けている。臓器移植された肉片は“自分”のものとは異なるから、一生免疫抑制剤を服用しなくてはいけない。天理教の教えは、その医学的事実と符合するんだぜ、と「天理やまと文化会議」は言っているが、それは“今”の科学技術でしか見ておらず、“これから”の医療の進歩は無視している。今後、医療技術が進歩して、免疫抑制剤を一生服用しなくてもよくなり、「天理やまと文化会議」の見解と符合しなくなった時代がきたときは、どうするつもりなのだろうか。話は臓器移植だけの簡単なものではない。IPS細胞も人工授精(代理母)など生命倫理に関する“これから”の難しいトピックは「かしもの•かりものがあるから」というだけでは解決できなくなるのは明らかである。その意味で、先に挙げた天理時報の「視点」や「みちのとも」の天理やまと文化会議の見解は拙速であり、稚拙な結論である。そして天理教以外の人間が知りたいのは、「かしもの•かりものがあるから」というプロセスはどうだってよくて、「天理教は臓器移植に反対だ」という結論でしかない。天理教がそこまで公表しておいて「公式見解ではない」というのは責任回避の上であまりにズルい。「天理やまと文化会議」というのは天理教のシンクタンク的役割みたいだが、本件に関して天理教の知的リソースはまともな思考回路ができていないか、メンバーは中学生ばかりなのだろうかと思う。
一方で、厚労省の臓器移植提供施設一覧において天理教傘下の「憩の家病院」はどうやら認定を受けているようだ。http://www.pref.nara.jp/imu/iryokeikaku/h15/pdf/03_04_10.pdf
天理教は「言っていることと、やってることが違う状態」である。これは天理教傘下の病院を教団がコントロールできていないのか、それとも天理教の臓器移植論はその場しのぎのパッチワーク理論なのか。いずれにせよ天理教の生命倫理に関する足並みはバラバラであると私は見ている。
私は生命倫理こそ宗教が最も大事にしなくてはい

原発再稼働に対する天理教の沈黙について

震災以降、原発についての意見を求められることが多かった。その度に私はブログで意見を書いた。私の意見はどちらかというと原発再稼働について反対である。「どちらかというと」という非常に曖昧模糊とした回答で恐縮だが中身が見えないから反対も賛成も判断する材料がない。より率直に言えば、なぜこの混沌とした状況の中で、専門家でもない人があれほど熱狂的に原発を反対できるのか知りたいという思いもある。あのような熱狂的な原発反対運動を見ると、やはり日本は宗教的な国だなと思う。
正直な反応として、私にはまだ震災のショックが残っている。私は被災したわけでもなく、遠方の関西にいたため何の影響もなかった。しかし震災以降、事故や事件のニュースを直視できなくなった。そういったニュースを見ると「悲しくなる」とか「しんどくなる」というものではなく、無意識にチャンネルを変えると家族に指摘された。それがまだ続いているようだ。ただでさえ、テレビは夜のニュースしか見なかったのが、それも見る時間が減少しダウンタウンばかり見ている気がする。

原発問題について、社会学を勉強したての学生なら「交通事故の方が危険率は高いっしょ」とか「北朝鮮がテポドン打ったら無意味」とか平気でいうであろう。反原発としては「経済活動よりも人命だろ!」という大義名分があるだろう。「なんで天理教は原発について意見を表明しないんだ!はっきり意見を言えよ!」という反原発の天理教人からも声が届いたこともある。

そんな中で読者より教えていただいた。原発再稼働について真宗大谷派東本願寺が声明を発表した。
http://higashihonganji.or.jp/info/news/detail.php?id=402

政治的な判断か、思想的な判断かはわからないが、特定の宗教団体が世論を二分する事象に明確に判断を下すことは非常に注目している。この動きが今後どのような影響を及ぼすだろうか。私は「どちらかというと」反原発の立場であるが、そのうえで天理教の原発に関する沈黙については評価できると思う。天理教の教義と歴史を考えると、私が持つ天理教のイメージは積極的に社会を造っていくタイプではなく、必ず弱者でも受け入れてくれるイメージである。別の言い方をすれば、天理教のイメージは兵士に訓練をして積極的に戦闘を仕掛けて領土を拡大していくタイプ(中国や創価や幸福)ではなく、負傷した兵士がかならず還ってこれる故郷的なイメージである。
なぜイメージで話をしたかというと、このイメージこそが天理教の真骨頂であると思っているからである。確かに原発が再稼働しないと経済が停滞し生活の質は低下し、失業者も増えて自殺率が増える危険性もあるという社会学的な理路を示すこともできる。しかしそれは宗教の役割ではない。
私の天理教に対するイメージは、別の言い方をするとマイノリティにも門戸を広げているという解釈もできると思う。声高らかに派閥を形成することではない。天理教の役割は表面的な思想ではなく、人間論的な哲学だと私は思いたい。つまるところ、天理教である以上は多数派でも少数派でもいけない。「誰でもオッケー」というポジションであり、賛成ー反対とは次元が違う。もちろん天理教人個人が思想を持つことは問題ないだろうが、常に一歩ひいた万物に対する受容性を持っていなくてはいけないのではないだろうか。実際、天理教に対して受容的で故郷的なイメージを持っている人は多いと思う。その人たちが「天理教は反原発だぜ」と攻撃的な姿勢を提示されるとどう思うだろうか。ちなみに私はドン引きした。もちろん「天理教は原発賛成だぜ」という姿勢も同じである。

そう考えると、私は天理教本部が過去に示した「臓器移植に反対!」という明確な立場は許容できない。天理教本部は莫大なお金を投じて現代医療を経営している一方で、最先端医療にケンカを売っている。人間の体は神からの「かしもの・かりもの」という教えがあるからだろう。しかしあまりに思慮が浅すぎる。むしろ教義と社会をうまく架橋するのが天理教本部の役割ではないかと思う。何が思慮が浅いのかというと、臓器移植に反対するということは、臓器移植で助かっている人や臓器移植を望んでいるマイノリティの人を天理教は認めないということである。別の言い方をすれば天理教は人を差別化しますという宣言でもある。
この問題は、これからどんどん大きな社会のテーマになっていくと思う。そういった意味でも天理教が「臓器移植に反対」と判断したことは、拙速でありカルト宗教と言われても反対できないだろうと思う。

ぜんぜん伝わっていない縦の伝道


関西では今夏計画停電が実施されるようだが、天理教の夏のイベントはどうなるのだろうか。

1ヶ月ほど前に2日続けて信仰者と会うことがあった。一日目は仏教系で、2日目は天理教の方である。話した時間は1時間ほどであったが、内容は共通点が多かった。テーマは両者とも「優秀な人材が流出する中で、いかに信仰を世代間伝達し拡大していくか」であったように思う。知力や行動力のある優秀な若者はどんどん宗教組織から離れていっている。私の知っている天理教人も、国公立大学や有名大学を卒業したものは、研究者や有名企業で最先端、最新の仕事をガシガシしている人が多い。その人たちと話をすれば天理教の内部事情なんてどうだってよくて、「陽気暮らし」を達成するために高い志をもって教えを体現している人が多い。そういった人たちの中には、天理教教会の子息や多数の檀家さんを抱えた後継者もいて、社会に出ることに反対されてきた人も何人かいる。宗教団体のメンター(理の親)たちは若者たちが社会に出ることに対して、とりあえず否定する。しかし、その否定が何を目的とするのかは、後継者不足考えたときにもう少し慎重であるべきだと思う。

仏教と天理教は教義と教団は全く異なるのに、抱える課題や背景が多いことは驚きであった。坊主も会長も、実力はなくても血が大きな意味を持つ。もし実行力や意欲が高ければ、その血も求心力になるが、中には実行力も意欲もない人がいる。そういう人の血は、神や仏の名前を借りて自身が権力化する傾向がある。特に若者の指導に関しては、会長や坊主が人事権を握り、さらにその上のセンセイと言われる人の承認が必要となる。会長や坊主は、上級のセンセイ(理の親)からのポイントを稼ぐために「子どもは社会に出て働いている」というよりも「御用に勤める」としたほうがいいのだろう。実際に天理教の会長さんと話せば、芯のある理念や意欲に溢れる将来よりも「とりあえずお道の御用を」というところで思考は停止していることに気付くだろう。ただ結果的に仏教系の方が人として健全度は高いと私は思った。それは最終的に組織を抜け出せる道、仏法とは違う生き方が仏教系には確保しているということである。ようは金である。現在、逃走中の指名手配犯ではないが生きて行くためには金がいる。現在日本では金がないと生きて行けないようになっている。
私と話をした仏教系の僧侶は、どんなに下っ端でも月に10万余りの金は頂けるということである。社会保険と税金も払っている。一方天理教では私が知っている青年さんのところでは月に2万円しか給料(給付)がなく、年金も税金も払っていない。両者とも食事や生活場所は確保されているが、この金額の差は自立(社会的にも、文化的にも)という意味では非常に大きいと私は感じる。

天理教は、天理教組織に入った瞬間に二度と自分の意思で飛躍できないように羽をもがれると表現した天理教の子息が言ったことはあながち間違いではない。極めつけは、月の2万円の中から毎月神へお供えをしなければ、それは信仰が未熟という証明になる。これは天理教だけに観察される特異点ではないだろうか。宗教組織に100%在籍するものが、その組織にお供えをするというのは興味深い。一見お金は流動しているように見えるが、実は二者間で往来しているだけであり経済活動とは言えないだろう。

私は天理教に関するお金問題は新興宗教としては比較的安心感があると思う。しかし一度組織の中に入ってしまうと、それはなかなか抜け出すことができない構造に入ることになることは否めない。知り合いの会長さんと話をすれば、多くの人が天理教の現状に危機感を感じおり、多くの会長さんが「こうすべきだ」と立派?な改革案をもっている。しかし、その足並みの悪さと現実検討能力を欠いた改革案は、「居酒屋のおっさん」の閾をでない絵空事ばかりであり、その人たちの教育論もまた若者を狭隘な見識で「お道のために伏せ込みを」としか言えない。その結果、本当に優秀な若者は天理教を無価値なものとして離れて行く。それが今の天理教が持つ深刻な側面であろう。

先日、サービス業の小さな会社の経営者と話しをする機会があり、経営について興味深いことを聞いた。例えば、会社のスタッフの求人をかけると、びっくりするくらいの人が応募してくる。この時代だし。しかし雇ってみると全然使えない人が多い。だからしっかり書類選考と面接をするようになった。その結果、たしかに優秀な人を選ぶことができるが、優秀な人は一定期間の経験を積むとよそへ行ってしまう。そして、また募集をかけなければいけない。結局、使えない人ばかり会社には残る。ということである。会社も経営が非常に厳しく人件費にお金をかけることができない。しかし人件費をケチることで悪循環は形成され、少しずつ、そして確実に業績は低下していったとのこと。

この時代だし仕事を求める人は多く、厳しい待遇でも応募を出せば人が来る。経営者としては、仕事を求める人の足下を見ていたつもりだったが、実は仕事を求める人に足下を見られていたのは経営者であった。幸いにも、その経営者は啓発セミナーに参加して悪循環に気づかされたということである。人件費を拡大することは痛く、勇気がいる。しかし少しでもいい待遇で新しいスタッフを迎えようと待遇面を改善した。すると優秀な人材が集まり、少しずつ業績が回復していったということである。賃金や待遇面を手厚くすることで、スタッフの自尊心は高まり、やる気も出てくるということを痛感したということである。特にサービス業であるから余計であろう。

人材流出という点では、ここに大きなヒントがあると思う。何を若者に伝えるのかというのは、今の日本社会が抱える共通課題であろう。しかし経営だろうが、宗教だろうが少し考えれば当たり前のことばかりではなかろうかと思う。何も難しい経営論や、コーチングスキルなんて付加価値にすぎない。信仰離れが深刻であるからといって、縦の伝道と称して説教大会を開催しても逆効果だけでしかないのではなかろうか。

我々は若者にもっと気持ちよく仕事をしてもらい、チャレンジしてもらえる環境を作ることだけでよい。偉そうに前面に出て、いつまでも若者に席を譲らない老人や、文句を言わない若者を「素直だ」という勝手な評価を植え付ける中年、自由や反骨を押しつぶす組織などは、やる気を損なうことでしかない。20,30年後に死んでいる人間の言うことなんて、現在の方向性において何も信用できない。

ファミリーだから、子ども

天理教と生活保護

どの時代にも宗教とお金にまつわる話は多い。今回は私の考えというよりも、色々な方の意見を聞いてみたい。また推測の域を出ない話になると思うので、そのことを注意して読んでもらいたい。

そう生活保護費である。有名芸人が国会議員から吊るし上げられていることで注目を浴びている生活保護制度である。生活保護費が国会予算に占める割合は多く、3兆円とも言われている。非常に莫大である。このまま支給額が増大すると、国家が沈没するのではないかという話も聞かれる。
このブログは一応社会学という名前がついているが、私は社会保障制度については明るくない。申し訳ない。ただ今回の事件をきっかけに生活保護法を読み、オピニオンリーダーたちの記事を読んだ。生活保護とは、最低限度の文化的な生活を営むことを国家が個人に対して義務を背負うものである。反対に、国民は勤労の義務がある。簡単に言うと生活保護は「働けない人」に対して支給されるという解釈で私はいる。今後は制度が見直される可能性が高いようだ。

そこで教えていただきたい。以前、私はある読者から「天理教人にも生活保護をもらっている人がいる」と聞いたことがある。天理教を信仰しているだけでは様々な事情があるから問題ないと思うが、いわゆる五体満足で道専務(天理教の業務だけを仕事とする人。もちろん収入は皆無に近い)と言われる方が受給している場合はあるのだろうか。そして、もしあるとすればそれはどういった解釈のもとで成立しているのかを私は知りたい。国側の視点と天理教側の視点と両方の解釈も。もし受給しているのであれば、それはどの制度や法律よりも、信教の自由が優先されるということであろうか。そもそも天理教人は生活保護を受給している人はいないのだろうか。
これは例え道専務と言われる人が受給していたからといって、「天理教は働けるのに働かないんだぜ」とイデオロギーを形成しで不正受給の流れに話題をもっていくつもりはない。ただ社会の構成員として率直に知りたい、よく考えたいと思うだけである。

天理教と足


今回は天理教組織とは離れて文学的なエッセイを書きたい。
少し前に天理教人と話していて、大変興味深い話を聞いた。天理教が始まったとされるのは、教祖が神の天啓を受けたときである。その日を境に中山みきの体内に神が入ったということである。
天理教学では、その史実や意味解釈にいろいろあるのだろうと思う。実際に私が調べても、理解ができない古語が並ぶばかりであった。「今の天理教が言ってることは歴史事実から間違っている」と忠告をいただくことも多いが、それはそもそも天理教の古典文献の少なさを考えると証明の必要条件を満たさない。1冊2冊の文献を取り上げて「これが正解」というのは、若者が「外国では19歳から酒が飲めるから19歳から飲んでもいいじゃん」と言っているのと変わりない。ということで私は教義解釈に関しては「色々な解釈があってどれだっていいが、とりあえずお酒は20歳からって社会は合意している」ということを採用してとりあえず議論を転がしたい。

私が大変に興味深く感じたことは、教祖の体内に神が降臨したという瞬間に先行して教祖の息子が足を痛めたことである。もともと教祖の中に神が入ったのも、教祖が息子の足の回復を願う祈祷をしていたことによる。この「足を痛めた」という事象が、古代キリストとの共通点を見出さずにはいられない。

キリスト教を考える際に「足」はキーワードである(と私は思っている)。異端を見つけるための踏絵という歴史があり、穢れを落とすために洗足式がある。キリスト教やイエスの歴史において、足を扱った物語や逸話は多い。そして最も私の知的興奮をかきたてたのは、キリスト教に影響を与えたギリシャ神話のオイディプスの神話を思い出さずにはいられない。

この神話は日本では心理学や文化人類学で大変に有名な話である。

オイディプスが生まれる前に、父であるライオス王は「息子が生まれると、息子はあなた(父)を殺すだろう」という神託を受けた。それでライオス王は、生まれた子供オイディプスを捨てた。捨てられたオイディプスは羊飼いに育てられ成長した。ある日、オイディプスが道を歩いていると、前からライオス王の行列がやってきた。オイディプスは王に道を譲るように命令されたが、オイディプスは拒否した。それに怒ったライオス王は、オイディプスの殺害を命じたが、逆にライオス王がオイディプスに殺された。オイディプスはライオスが父とは知らずに、父を殺害したのである。もちろんライオス王もオイディプスが息子と知らぬまま、神託通りに殺されたのである。その後、オイディプスはテーバイの街へ向かう。テーバイではスフィンクスという怪物が人間を襲っていた。スフィンクスが出す謎解きに答えられないと食われてしまうのである。スフィンクスはオイディプスにも謎を出した。「朝は4本足で歩き、昼は2本足、夜は3本足で歩く生き物は何か」という問題であったが、オイディプスはすぐに「人間」と答えスフィンクスの退治に成功したのである。赤ちゃんは四つん這いであるき、そののち二足歩行になり、老人になると杖という3本で歩くという意味である。これも足にまつわる重要なポイントである。

その後、オイディプスはライオス王の国を奪い、実の母親イオカステを母親とは知らずに妻として迎えた。その間に子供を授かったが、国は衰退の一途をたどった。そこで改めて神託を求めると、原因はオイディプスにあると言われ、父殺しや近親相姦の事実が判明する。母でありながらも息子の子どもを生んだイオカステは自害し、オイディプスも目をえぐり国を追放されたという話である。

そして、オイディプスという名前こそが「足を痛めた者」という意味である。父であるライオス王も同様に足を怪我している者という意味である。

以上のことから、天理教教祖の息子である中山秀司が天理教創世記において足を痛めたことは、とても文学的要素が組み入れられていると感じた。これが事実かどうかはしらないが、天理教の教典が二代真柱の命により、当時の小説家や知識人などによって編纂されたことを考えれば、ギリシャ神話からヒントを得た経緯があっても不思議ではない。推測で恐縮だが、天理教には中山秀司が足を痛めた以外にも足に関する出来事や事故が、天理教や社会の情勢を反映するように扱われているという逸話はあるんじゃないかと思う。知らないけど。キリスト教でも、足を痛めた者やふらついている者に対して、信仰の足並みや迷いとして解釈する場面が多い。中沢新一は、「キリスト教は創世記からふらついている(不安定な、脆弱な側面を持つ)宗教だ」と言い切っている。

話は飛躍するが、天理教はキリスト教と構造的に共通点があると感じることが多い。異端の多さや、イエス(教祖)は人なのか神なのかという矛盾を創世記から抱えていることも同じである。そういった意味で、これらの宗教における足という概念への考察は非常に学術的価値があると思う。