私が最近、興味を持っていることは「大津市いじめ事件」と「検事総長告発事件」である。どちらも「組織的隠避」ということが共通項だと感じる。一方は子供の自殺が、一方は田代検事の不起訴処分が発端である。どちらも、一般市民感覚では「あり得ない」というところではないだろうか。両者とも、調査中であるから事実関係はこれからであり明言はできない。これらの事件は組織と社会の乖離であると方々から指摘されつつも、私が興味深いと感じるのは、組織内では常識とされつつも、組織外の反応を(無意識的にでも)想像できたために隠避ということになっている点だ。つまり「隠す」ということは「オープンにしたらえらいことになる」ということが想像できるために「隠す」のであろう。もし「オープンにしたらえらいことになる」と想像できない人間は、「隠す」ことなどしない。特に検事総長告発事件では、最高検の調査報告書を読めば読むほど矛盾点ばかりである。最高検の報告書は「田代検事は記憶が混同した」ということを信じているが、大事な裁判資料の記憶を混同するようでは検事の資質を問われても仕方ないだろうし(実際に検察官適格審査会にかけられたようだ)、それを許容する最高検は「私たちは検事の資質を見る目がない」と宣言しているのと同等である。法治国家の根幹を揺るがす恐ろしいことである。
紛らわしい話題になって恐縮だが、天理教が何か「組織的隠避」をしているということではない。しかし身内には権力を用いて、対外的には事なかれという構造は検討の余地がある。日本では新興宗教団体に対して厳しい目が無条件に向けられるが、天理教では比較的好意的な目でみられているように思う。しかし天理教もまた社会に対して不透明な部分が多いことは事実である。それは犯罪事由ではなく、あくまで組織的倫理観といえる。ロシアやインドネシアなど大統領の再選に有限があるように、権力を長期に保持することは組織の私物化になることは歴史が証明している。
前回にも少し触れたが、天理教内において子弟や“理の子”にあたる信者の処遇を巡るトラブルは多いと感じる。天理教の内部にいる若者と少しでも話し込めば、個人的感覚では過半数以上の若者が必ずこの種の悩みを抱えていることが多い。進路の妨害から、婚姻への抵抗、理の親からの心無い命令、教義的正当性にすり替えられたお供えの圧力などである。
先日も天理教人の女性と話をした。これから天理教を信仰しない男性と結婚を控えていると報告を受けた。非常に喜ばしことでお祝いをしたが、問題があるとのことである。結婚予定の男性は天理教に否定的ではないが、男性の家系では別の宗教を信仰している。そのために、女性が所属する教会の会長夫妻に結婚を祝福されなかったとのことである。女性のご両親は熱心な信者で、会長の意見次第で親の態度も決まるようだ。会長夫妻は反対はしなくとも祝福はしてくれず、いつもはよくしてくれるのに、「あら、そう」と素っ気なかった態度のようである。正論を言うのであれば「その程度なら法律的に問題ないだろう」や、「実の親がしっかりしろ」「会長夫妻なんてほっとけ」という意見が出るだろう。しかし彼女の純粋に親を思う気持ちや、理の親でさえも大切にしたいという思いを私は無視できない。愛した男性と大切な親は天秤にかけるべきものではない。そして、このような罪悪感から、実際に結婚の予定が遅れているとのことである。まだ結婚の日時は決まっていない。こういったことは何代も続く伝統ある厳しい大教会に共通することなのだろうか。
こんな話を聞いて私は黙っていられない。今後、理の親の介入があれば、その時は自治体の人権擁護委員会に相談・申し立てを行うように助言した。「それは君が悩むことではない。理の親でさえもやってはいけないことがあるんだよ」と。いじめの問題と同じで、これらは信仰的(教育的)問題として権力が硬直した一組織が完結するものではなく、しかるべき機関に任せるべきであろう。それらは「問題がある」ということではなく、「調べてください」というレベルで十分だ。
私は常々、天理教の金科玉条である陽気暮らしは人権を包含するという立場をとっている。しかし、人権に関して適切な教育や感覚を持っている天理教人に会うことは少ない。前回も言ったが、天理教の人権意識は江戸時代なみであると言っていい。理の親は思い通りに子供の進路や婚姻を操作する。私は数年前に伝統ある大教会の会長が、結婚できない末端会長に対して「お前がその気になれば、いつでも女を用意してやる」と酔っ払って言ったのを私は実際に聞いたことがある。こういった発言は、オフレコであるし酔った席だからと看過することもできる。しかし私のような第三者や女性がいる前で発言するのは、組織の長として倫理的にいかがなものかと思う。そんなことは気にしなくていいほど大教会長というのは人格的に優れた偉い人なのだろうか。この大教会長は、信者には「神のようだ」と揶揄されているようだが。
会長職というのは、どれほど権力を持っているのだろうか私は知らない。しかし立派な天理教人である前に、規範意識をもった普通の人間であるべきであろう。そして「陽気暮らし」や「だめの教え(最終的な教え)」という大命題がある以上、天理教の公共性は社会に審問を委ねるべきであり、私は発信し続けたいと思う。素っ気ない態度も酔っ払った上での発言も、ご自身の立場や権力をもう少し律された方が、今後の天理教のためだと思うのだけれど。もし読者の中で天理教の人権に関する事例などがあれば、私にメールで教えていただきたい。今後、宗教ハラスメントについて大きなテーマとして考究していきたい。
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