ある方から「天理大学おやさと研究所夏期特別講座「教学と現代8」東日本大震災における天理教の救援――全教あげての活動と今後の課題を考える」というものがあるとお知らせいただいた。
http://www.tenrikyo.or.jp/jpn/?p=4027
大変興味深いが、この日は土曜日であり仕事があって私は行けない。私が一番興味があるのは、震災における天理教の活動よりも震災における天理教的見方である。そういう視点では講演やパネルディスカッションよりも、司会の方の話を聞いてみたい。この司会の方が出力される文章は非常に宗教学的であり私も勉強させてもらっている。日本の宗教学者の実態として、ほとんどの学者がプライベートでの信仰を持っている。加えて哲学から派生して100年余りしかない宗教学では、ややもすれば独善的な理論展開となる。その学術的な不安定さは天理教学でも同じである。特に天理教内の研究機関であれば、いわゆる「御用学者」として一定の水準で思考が停止する。その結果、学問なのか布教なのか分からない状態となる。そういう視点では、この司会の方の書き物は宗教学的に天理教を読み解こうとする姿勢が感じられる。震災以降のグローカル天理の文章しか読んでいないが、少なくとも私はそう思う。感じ方は人それぞれだけど。誰か本講座の感想を教えてくださいな。
カテゴリー別アーカイブ: ブログ
全部好きなんて、そうは問屋が卸さない。
更新が遅くなった。更新が遅れたのはブログの代わりにメールの返信をしていたためである。私がブログで天理教を批判するようなことを書くと一気にクレームメールが届き、天理教を賞賛するブログを書くと応援メールを頂く。この極端な落差には戸惑いつつも、丁寧なメールには丁寧な返事を返すようにしている。私の思考を批判する方に対してもできるだけ丁寧に言葉を重ねたいと思う。礼節が保てない方のメールは読む気にもならずにゴミ箱に移動するが。ただ私は天理教を無思慮に擁護するつもりもないし、天理教の崩壊を目指しているわけでもない。私自身が天理教人と接する機会があり、尊敬もしているし「ちょっと違うんじゃないか」と思うこともある。社会学という名を冠してるので、できるだけ社会通念に照らし合わせた感覚で発言したいと心がけている。ただ、私が書くことは私のバイアスが強くかかっているし、私の見解が正しいとも思わないし、万人に共有してほしいとも思わない。もちろん支持されたら嬉しいけど。ということを読んでいただく方の頭の片隅に置いていただければ幸いである。
こどもおぢばがえりの音楽と信仰の系譜
こどもおぢばがえりのパレードを観覧したことは前回のブログで伝えた。今回は、そのパレードを見て私が感じたことや同行してくれた天理教人と話したことを考えたい。まずパレードを見て、その規模の大きさと質の高さに驚倒した。デコレーションされた車(元々は普通の車だろうが、パレードではもはや原型をとどめてはいない)やキャラクターなどの造形物もあるが、鼓笛隊やマーチンングバンドが非常に多い。一晩のパレードで50-100、いやそれ以上の団体が私の目前を通過したのではないか。これが10回(晩)続くのであるから、天理教にはかなりの鼓笛隊が存在することになる。全国に存在する鼓笛隊の天理教が占める割合はどのようなものなのだろうか。私が「これって凄いことだよなー」と話していると、天理教人は天理教鼓笛隊の長い歴史や天理教少年会本部が少年少女への宗教活動として鼓笛隊を積極的に推し進めている政策を説明してくれた。同時に鼓笛隊の本来の目的は「子どものための鼓笛隊」であるはずが、近年では大人が主体となる鼓笛隊が多くなってきている実状を話してくれた。つまり鼓笛隊を所有する地域や教会で子どもが集まらなくなり、仕方なくスタッフである高校生以上が演者も担っているとのことである。こどもおぢばがえりの行事の一つに鼓笛隊のコンテストもあり、本来なら子どもだけで出場することが望ましいが、大人も出場している団体が大多数であるようだ。だからといってコンテストを受けられないということではなく、暗黙の了解が存在するとのことだ。
それにしても、この天理教の音楽性は聞けば聞くほど奥が深い。天理教の音楽性の中核を担う組織は天理教音楽研究会という組織である。このホームページを見れば、その歴史とそれを支えてきた実力には驚かされるものがある。
http://onken.tenrikyo.or.jp/
天理高校吹奏楽部や天理教校マーチングバンド部、天理大学雅楽部がその分野で比類なきパフォーマンスを持っていることは私もたびたび耳にしている。その成果に直接的、間接的に関わっているのが天理教音楽研究会であるとのことだ。ということは、天理教の音楽性のパフォーマンスは天理教教団としての大きな政策の一つであると考えられる。私もこれを機会に色々と調べてみた。しかし残念なことに、その天理教の持つ音楽性を学術的に研究、アナウンスしている人はいない。天理教の音楽性は実践のみなのである。同じ文脈で考えられそうな政策の一つに天理教のスポーツがある。これは「天理スポーツ」という言葉があるように、天理教とスポーツは密接な関係がある。天理大学でも「天理スポーツ学」という講座が開講されている。二代真柱がスポーツに力を入れて天理大学にも体育学部があるのは大変素晴らしいことだと思う。スポーツをやっていた人間として「天理」というのはブランドである。同じ様に「天理音楽学」なるものがあってもいいと思う。もし既にあったらごめんなさいね。
なぜ音楽に疎い私がそんなに天理教の音楽学をプッシュするのか。こどもおぢばがえりの話に戻るが、パレードを見れば「うまい」「へた」だけでは物足りない社会学的視点が盛りだくさんであるからだ。むしろマーチングをやったことがない私には、あまり「うまい」「へた」はよく分からない。隣に座っていた鼓笛隊経験者の天理教人は「あれはだめだ。これはいい」と色々と評価していたが、私は全部の鼓笛隊を「皆すごいなー」と思った。だって私にはできないもの。ただ、私が今回最も主張したいことは、技術的評価だけでなく天理教における音楽の役割というのは非常に重要なのではないかということである。私がパレードを見て一番感じたことは、信仰伝達の系譜である。パレードを見ると子どもも大人もいるのである。小さい子どもは3歳くらいから旗を振り必死で行進に付いて行っている。小学生低学年は笛を吹き、小学生高学年から中学生はパーカションなどの大きな楽器を担う。高校生以上の大人は遅れた子どもの背中を押すなどサポートについているというのが多くの団体が採用していた定型であった。裏方ではもっと多くの大人がサポートしているのだそうだ。さすがに中高年以上はパレードに出ていないが、観客席にはいる。
パレードを見て、その鼓笛隊の生態学とでも言えるそれぞれの年代での役割があることに気付かされた。これはひょっとして信仰を支える上でとても重要な視点なのではないかと思う。というのは、子どもの視点から見ると、自分の成長過程とゴールが先見できるのである。つまり「もう少し大きくなったらパーカッションをして、もう少しお兄ちゃんになれば今度は指導する立場になる」と将来を先取できるのである。この視点は非常に教育的である。自分の将来を「ああいう風になるのかな」と予想できるというのは、強い動機付けとなる。特に小さい子どもであれば「あの楽器がしたい」や「ほめられたい」ということを欲望し、中高生であれば技術的評価を欲望し、大人であれば子どもの達成感や充実感を欲望する。より高い成長を求めるものは天理高校や天理教校の部活動として音楽教育を受けて、卒業後は指導者となるのも同じコンテキストであろう。大げさな表現をするならば、パレードを見ていたら信仰の全サイクルが垣間見れる。この循環こそが信仰の繋がりの本質なのではないかと私は考えていた。「縦の伝道」という言葉があるが、「教える人」と「教えられる人」に超えられない壁があっては伝導しない。そして今まさに天理教教団は信仰の伝導に大変に苦慮していると思われる。だからこそ、実践だけではない天理音楽学という視点も大変に大切だと私は思う。誰か天理音楽学という分野を開拓しれくれませんかね。大人と子どもが一緒の目的に向かって何かに取り組むことは、現代では非常に貴重な体験であることも感じた。ほんとみなさまお疲れ様でした。
こどもおぢばがえりに行ってきた。
本日、こどもおぢばがえりに行ってきます。
昨日、懇意にしていただいている天理教人から電話を頂いた。そこで「こどもおぢばがえり」へお誘い頂いた。この方の教会では、子どもたちを連れてのこどもおぢばがえりは昨日で終えたが、彼は引き続き天理に残り今度は「ひのきしん」という形でこどもおぢばがえりをお手伝いするようだ。この暑いなか敬服したい。彼いわく、夏休み中のこどもおぢばがえりでも、やはり平日よりも週末の参加者が多いとのことである。今年は7/30,31しか土日がないために、その日は子どもの数も多いだろうということである。今日は土曜日である。私の仕事の都合で夜のパレードしか見れないが、ひょっとしたら最も観覧者が多い日になるかもしれない。私は人混みが大変苦手であるが、パレードは娘も楽しみにしている。写真をとってアップしたい。
昨日届いた天理時報4241号を読む。少し気になった記事は5ページの「ようぼく議員“お道の勉強会”を開く」である。天理教幹部が国会議員88名に対して天理教の勉強を参議院会館で開いたという記事である。この記事を読んで立ち止まった。「これは誰に対して書かれた記事なのか?」と。紙面では「天理教が国政に対して物申す」(やや誇張した言い方ではあるが)という雰囲気である。現段階では天理教による自己顕示や教内的求心力を目的としているのだろうか。しかし、これは現段階では特に問題ではなかろう。引っかかるのは、この勉強会が今後も継続することであろう。継続するということは、天理教と政治のパイプができるということである。そうなるとそれぞれの利権が絡み合うのは必至である。つまり天理教が政治に利用され、天理教も政治を利用するという共依存のリスクが高まることは目に見えている。信仰の自由を認めている以上「そういうもんだ」と言われれば私の立つ瀬がない。しかし私は天理教の「政治とは一定の距離を置く姿勢」に対して高い評価をしている。今後天理教と政治の関係性が継続することは、その考えを改めないといけないと思う。「勉強会くらいで、やいやい言うんじゃないよ」という意見も想定するが、私が危惧することの一つに、この勉強会で講師をした天理教幹部の存在がある。天理時報を中心として、この天理教幹部の名前は非常に目にする機会が多い。それほど重要なポストについているのだろう。しかし以前、天理教人と意見交換をしたときに、この幹部が大変革命的・外向的な思想の持ち主であることを私は窺った。その時はそれほど気にならなかったが、実際に私の知る限りにおいて、天理教の刊行物で著名人が扱われる頻度が多くなっていると思う。天理時報本号においても1面の下には大相撲の優勝者や女子サッカーW杯で活躍した選手が挙げられている。特に「すきっと」と言われる雑誌には天理教を信仰しない著名人が天理教とは特に関係のないエッセイを書いているようで、知り合いの天理教人は「天理教の媒体として中味がなく何を目指しているのか分からず、残念である」と感想を漏らしていた。私も同じく、天理教の濃度を敢えて薄めて表現することに天理教として何の目的があるのか疑問である。もし天理教と社会との架け橋を目的としているのであれば、天理教の濃度を薄めることがその架橋の本質的な理由になり得るのか説明を求めたいところではある。天理教人を読者にしているのであれば物足りない。天理教未信仰者を読者と想定しているのであれば著名人を扱う意味は宣伝でしかなく布教ではない。天理教のメディア戦略は信仰的成熟を促すという側面よりは、自己啓発本の域を出ないと今の私は理解している。
一方、宗教社会学において天理教は教祖死後以降、教祖の教えと逆行する形で、社会的迎合政策をとって教勢を拡大してきた歴史がある。外向的な姿勢が今後の天理教にとって、どのような質的変化をもたらすのか注意深く観察したい。特に政治との接近や、メディア戦略が対内、対外的にどのような影響を及ぼしていくかは慎重にみていきたい。つまり某学会を教団的成功と見るか、信仰的硬化とみるかであろう。天理時報に政治家の個人名が出てくるようであれば、それは天理時報の政治的利用が始まったサインだと認識できるであろう。
今年も「こどもおぢばがえり」がはじまる
天理教主催の「こどもおぢばがえり」が今年も7月26日から8月4日に奈良県天理市の天理教本部で行われる。私も昔から行かせてもらっている。昨年は知り合いの天理教人に誘われて夜のパレードを見に行った。
天理教の教えでは、天理教の最重要な場所は「ぢば」というところである。その「ぢば」は人間が創造された場所とされる。なので天理教本部は別名「親里」という言い方がなされ、本部に巡礼に行くときは「里帰り」ならぬ「おぢばがえり」と言われる。「おぢばがえり」は行為を指すが「こどもおぢばがえり」は期間限定のイベントを指す。
こどもおぢばがえりについては過去に何度か俎上に上げたことがある。あまり覚えていないが、今回は「こどもおぢばがえり」の天理教に対する役割を考察したい。
私見ではあるが、天理教を信仰しない人間が天理教と聞いて「こどもおぢばがえり」を想起する人は多いのではないかと思う。「高校野球の天理高校」と「こどもおぢばがえり」は、天理教の知名度に大きく貢献しているのではないだろうか。高校野球に関してはサブリミナルな広告塔として記銘されるが、「こどもおぢばがえり」については知名度だけではなく天理教に対する好感度にも大きく貢献していると思う。私の周りにも天理教信者ではないが子ども時代に「こどもおぢばがえり」に参加したことがある者や、昔一緒に「こどもおぢばがえり」に参加した友がいる。その者たちは例外なく「あのパレードは驚きであった」や「大きな神殿で参拝したことはいい経験だった」と語る。幼少の頃にそういった体験をすることは、その後の社会生活の中で天理教と再会したときに親近感をもって回想する人が多いのではないかと思う。(特に天理教の色彩が強くある関西圏が当てはまるかもしれない。他の地域は分からないけど)
こどもの遊びが多様化・個人化している中で、その娯楽性や刺激性を他のテーマパークや高度な玩具と比較することも可能である。それに対して天理教ではの宗教性や心理的成長が「こどもおぢばがえり」の特徴であると天理時報で謳われている。私はそれに加えて、天理に行ったときの「経験したことのない異文化と出会った驚き」を子ども時代に経験することが大きなポイントではないかと思う。テレビやインターネットというフィルターも含めて、幼少の頃の世界とは非常に狭いものである。そこに実際の目で見て、肌で感じる異文化は強烈な記憶として子どもたちに刻まれる。その強烈な体験としての「こどもおぢばがえり」は子どもにとっての最初の異文化体験となるのではないか。私を振り返ってみても、宗教性や心理的成長よりも「うわーこんな世界があるのか」という驚きでしかなかったのではないかと思う。その驚きは「奇を衒う」という意味ではなく、「ぢば」という場所がすでにその役割を担うのではないか。もし「こどもおぢばがえり」が、多様化したこどもの遊びの娯楽性や刺激性に対して「最近の子どもにこどもおぢばがえりは物足りなくなってきているのではないだろうか」というのは早計である。むしろ、娯楽性や刺激性を求める流れにあるからこそ「こどもおぢばがえり」の驚きは貴重であると思われる。それは、肌で感じることに勝るものはないということではないだろうか。
今年もこどもおぢばがえりがはじまる。私も時間があれば行ってみたい。
中立・公平な報道などありえない
しばらく更新が滞っていた。というのは1週間ほど前から風邪をひいてしまった。こんな暑いときに何をやってんだと軟弱男子ぶりを叱責されそうだ。風邪の原因は分かっている。冷房のせいである。私は昔から冷房には弱い。冷房と猛暑を行ったり来たりしていると、決まって頭痛と腹痛が同時にやってくる。一番辛いのが、就寝中である。冷房をつけたままで寝ると朝は寒いし、タイマーが切れると目が覚める。風邪が維持している要因として寝不足もある。今年は辛い夏になりそうだ。
言い訳になるが、今の私に体力はない。世間は省エネだが、私は自分の肉体を動かすだけで精一杯である。自分の肉体のために、冷房ガンガンで一日中部屋にひきこもり、移動は排気量の多い車を冷房ガンガンですっとばす。世間はエコだが、僕には今イチそれが理解できない。何が理解できないのか。それは「本当にエコなのか?」ということである。今はメディアに引っぱりだこの反原発、反エコの急先鋒である武田邦彦だが、彼は数年前に「環境問題のウソ」という著書で論壇では有名になった。それは「温暖化は問題ない。Co2は増やすべきである。」といったである。同じことは池田靖彦も言っていた。彼らが2人揃ってバラエティ番組に出ていたのは、私にとって衝撃的なことであった。そのうち養老孟司も出るんじゃないか。そしたら本当にホンマでっかと驚こうと思う。
彼らの主張には非常に納得させられる部分がある。しかし彼らの主張を鵜呑みにする怖さもある。ダイオキシンが無害だと今更言われても信じ難い。もちろん、彼らの主張に反論をする研究者も多いことは承知している。
私が何を言いたいのかと言うと、一つの情報に左右されてはいけないということである。きちんと情報を読み取る力が必要である。それがメディアリテラシーということである。中立・公平な情報なんてあるわけがないと考えると、メディアリテラシーは難解だと思われる。しかし実は以外に簡単なのである。それは全ての情報を疑ってかかればいいのである。全ての情報を疑った上で、その説得性や真実性を考慮して判断すればいいのではなかろうか。「東電の言っていることはウソじゃないの?ソフトバンクは企業なんだから利益なしじゃ動くはずないでしょ?電力会社やソフトバンクを必要としない、自己完結型の自家発電を推奨しないのは何故?」というのが私の疑問である。つまり東電もソフトバンクも私は「怪しいもんだ」という思いで見ている。反対にいうと、原発は無くなった方がいいという前提を採用したとしても、東電を袋だたきにする人やソフトバンクを熱心に支持する人には「この人はどこまでのことを知って判断しているのだろうか」とシニカルに見てしまう。ツイッターを見ても「お前たちは知らないだろうが、実は東電(ソフトバンク)は○○なんだ!」という発言が目立つ。原子力の研究者でさえも意見が別れていることについて、外野である活動家が「実は・・・」と言われても私は一顧だにしない。冷静に考えて「まーまーこれ以上ウダウダ言っても決断が遅れるだけだ。とりあえず国には早く決断してもらって、その後で議論しましょうや。」と言わないのは何故なのだろう。なぜなら今一番必要なのは、被災地に対するスピードある対応である。多少の手違いがってもいいから”ある程度”独裁的にバババッと決めた方がよい。余計な人間がウダウダ言い過ぎて、政府の決断が遅れて、義援金の3千億円が未だにほぼ手つかずのまま被災者や被災地に届かないというのは馬鹿げている。私は民主党を支持しているわけではないが、今は民主党の思う通りにスムーズにやらせた方が被災者のためであると思う。修正は退陣させた後でできる。だから私は今は原発に関して「よく分からない」というスタンスで黙って早期退陣を願っている。
前置きは長くなったが、グローカル天理の5月6月の巻頭を読む様にアドバイスをいただいた。5月号を読んでみての感想としては、一活動家の意見と変わらない偏見で満ちたものである。言いたいことは山ほどあるが、上に挙げたメディアリテラシーの欠けた最たるものである。「巷の情報は偏見報道である」と言いつつ、別の偏見を採用していることに全く気づいていないことであろう。この筆者は全ての情報を見並べて「どの情報が正しいか」と取捨選択しているのではなく、「誰が言っているか」という権威に囚われていることでしかない。「国立研究所の偉い先生が言っている方が正しい」ということにしか私は聞こえない。その権威主義の結果が安全を軽視した原発事故ではないのだろうか。それよりも、この著者は本当に天理教信仰者か?と思う記述がある。それは放射線医学総合研究所放射線防護研究センター長は、「もし100 ミリシーベルトの被曝をした場合、10 ~ 20 年の後に、100 人中1人の割合でガンになる人が増える」とコメントをしています。毎日欠かさず汚染した水を飲み続けて15 ミリシーベルト、汚染したホウレン草を食べ続けて8ミリシーベルト等々と加算していけば、年間で100 ミリシーベルトの被曝になる可能性もゼロではないかも知れません。しかし、続いての「しかるに、人工的な放射線とは関係なく、自然にガンになる人は、100 人中40 人程いる」というコメントを読むと、100 分の40 が41 になる可能性を大げさに危惧することに、どれ程の意味があるのかということです。という記述である。私はこの文章で彼が言いたいことは非常に理解ができるが、これを天理教信者が言っていることに非常に違和感がある。つまり「毎年癌で100人中40人が死んでるんだから、原発事故が原因でそれが41人になろうが大げさにさわぐんじゃないよ」ということである。これを天理教を信仰する者が言っていてもいいのだろうか?と私が心配してしまう。特に一信者ならまだしも、天理教のオピニオン機関の所長がこんな脆い思想でいいのだろうかと思ってしまう。天理教だからこそ言えることはもっと沢山あると思うのだけれど、テレビの適当な解説者と同じ事を言っているようでは、今後の社会における天理教の存在意義が心配である。ということを考えていたら、6月号を読む気をなくしてしまった。個人的には5月号の「災害とジェンダー」という論評も、上野千鶴子と同じバランス感覚の乏しい倦怠感を覚える一面的なものである。これはまた今度にしたい。この研究所は天理教的に大丈夫なのだろうか?風邪の体がしんどいので、詳しくはまた今度。
天理教の異文化理解と自民族中心主義
先日、松本復興大臣は偉そうな態度が原因で激烈な批判を浴びて職を辞された。これについてはコメントしないが、そのときに「私は九州の人間だから、B型の人間だから」と釈明したことは記憶に新しい。思わず「九州の人やB型の人はみんな偉そうなのか」とつっこみたくなった。私は九州の人間でもB型の人間でもないが、九州やB型の知り合いを想像すると皆さん温厚で礼節のある方ばかりである。九州の方やB型の方にとってみても「あんたと一緒にするんじゃないよ」と聞こえそうだ。
そのようなことが天理時報4238号でも見られた。いつも俎上に挙げられる3ページの「視点」である。今回は「信仰家庭には神様を祀ろう」である。そこではフランスやヨーロッパの婚姻形態を対立軸において日本文化の優位性を述べている。少なくとも私にはそう読めた。引用する。「ただ、ヨーロッパにおける婚外子や事実婚の増加の原因の一つは、正式な結婚をすると、離婚するときの手続きが面倒だという点にある(日本のように紙切れ一枚で済むわけではない)。さらに、かつて結婚式というのは必ず教会で行われたのであり、婚外子や事実婚の増加は、それが減少していることの裏返しでもある。つまり、夫婦の絆の弱まり、あるいは信仰心が薄れていることの証しでもあるだろう」とある。私は引用した中に含まれる3つの文章の繋がりがイマイチ理解できない。飛躍しすぎではなかろうか。1→2→3と進むところを1→3→7くらいの弛緩があるように感じる。これでは松本復興大臣ではないが、ヨーロッパの人から「夫婦の絆や信仰心が薄れていないわい」と反問されてもおかしくはないだろうか。社会学的にも看過できないほど強烈なethnocentrismである。天理教は天理大学という素晴らしい外国語教育機関を置きながら異文化理解という視点はないのだろうか。私はヨーロッパ文化には全くの門外漢であるが、出来る限りフランス人の視点で反論してみたい。管見の及ぶ限り、フランスの婚外子や事実婚のピークは60~70年代であり、現代ではむしろ家族を大事にする傾向にある。つまり筆者の論理でいう夫婦の絆も信仰心も薄れているのではなく、むしろ濃くなっているのである。引用先にもあるように、フランスではPaCS法という事実婚にも権利を付与する法律が存在する。法律が存在するということは、市民権を得ているということである。
事実婚だろうが、婚外子だろうが、それを批判する権利は我々にはない。なぜなら、フランス人がそれを許容しているからである。もしフランス人が「事実婚なんて認めねー」というのであれば話は別であるが。フランス人が「それでいい」といっているのである。許容出来ないこそ、認めることが異文化理解である。同じ事は外人が生魚を食べる日本人を見て許容できないことと同じである。我々が生魚を食べていることを批判されて、日本人は生き物への愛情が少ないと言われても我々としては「しったことか」となるだけで、刺身も寿司も食べるだろう。我々日本の文化が一番でも、他文化よりも優れているなんてことは全くない。その土地、そこに住める人々にはそれぞれの文化や慣習がある。その一部分を挙げて「あいつらはダメだ」や「我々の方が」というのは非常に狭隘な精神ではなかろうか。慎みはどこへ行ったのだろうか。
先日、天理教人と話した。天理教布教部より「十全の守護」と「八つのほこり」という教材を各教会長が毎日拝読するように(だったかな?)という指令があったようだ。教会本部が教会長の質的向上を目指しているようだと天理教人は言っていたが、どんどん内向きになる政策に早くも現場レベルでは疑問が吹き出しているとのことだ。私も教会長の質に関しては標準偏差が大きいと述べたことがあるが、天理教本部は構成員に対して「締め付け」でそれを是正しようとしているようだ。これは社会の中の天理教とは逆方向に向かっているのではないかと私は非常に違和感を覚える。カルト教団や破綻前の企業のようなきな臭さを感じる。これについては天理教人から詳細を聞いた上で、また今度。
ひのきしんの熱意は冷めた?
昨日、職場に旅行会社の営業マンが営業にきたのでサボりがてら話をした。そこで教えて貰ったのであるが、現在旅行会社が扱う人気の旅行パックは、被災地復興ツアーであるということだ。
野次馬となって物見遊山で被災地に入るなんて不謹慎だと思ったが、真意は違うらしい。そのツアーを企画しているのは若手社員らしいが、真意は多くの人に楽しくボランティアに参加して欲しいとの思いであるという。
被災地では現在でも多くのボランティアを必要としている。しかしその勢いは日毎に減少している。都市型の阪神大震災とは異なり、広範囲で地方型の東日本大震災ではボランティアに出向くのもハードルが高いという。そいういう事情を旅行会社の若手社員は憂いて温泉と被災地での炊き出しをセットにしたようなアイデアを出しあったそうだ。
これを聞いて皆さんはどう思うだろうか。私は非常に歓迎したい。確かに被災地のボランティアと温泉をセットにすることは非常に違和感がある。しかし、ボランティア一辺倒であって疲労してしまうよりは「温泉気持ち良かったし次回も行きたいな」と思わせる方が継続性はある。偽善的ではあるが、それで被災地への人手が用意できるのであれば、あえて偽善的なままでもいいと思う。
立場が脆いのは、最初のお祭り騒ぎだけ参加してそのまま片付けもせずにフェードアウトしてしまうことだろう。女の子を必死に口説いて、女の子をその気にさせといて、夜を共にした途端に音信不通というのは一番卑怯な男ではなかろうか。ドキッ。
さてさて、天理教ホームページでの被災地ひのきしんレポートも先月中旬からストップしたままである。天理教では、もうひのきしん熱は冷めてしまったのだろうか。被災地へ赴いた天理教人は、信者に対して得意気に「被災地はね~」と語ることができたから満足したのであろうか。
今後はいかに支援を継続させるかが大きな課題である。以前「布教のための復興ひのきしんではあってはならない」と申し上げたが、その分岐点はここにありそうだ。誰のための復興ひのきしんかを確認してほしい。
iPhoneからの投稿
天理高校野球部の不祥事について。これで最後。
天理高校野球部の不祥事について聞かれることが多かった。多いといっても5、6件だけど。返事はしていない。その全部が「天理高校野球部を廃部にするくらい、天理高校と天理教は改革しなければ!天理教は野球部を広告にするのはやめなければ!」という内容である。残念ながら私はその意見に賛同できない。それは天理高校が教育機関だからである。
私の持論として、教育に関して外野がとやかく言うべきではないと思う。例えば大阪府の知事は、鳴り物入りの高い支持で当選した。その結果、府の教育に対して「責任者出て来い!」と足下から蹴りを入れ始めた。その結果どうなったかは、あまり知られていない。具体的には色々あるが、主観が強く入るためここでは控えたい。しかし教員のやる気が低下したことは間違いない。府の教育を支える教員のやる気を損なうことが、教育の質を向上させることはあり得ない。知事は見事に教員のやる気を損ねた。それが2年前まで府の教育に関与していた私の感想である。
教育というのは、世間一般から見れば特殊な世界である。学校では対教師暴力なんて日常茶飯事にある。傍からみれば子どもだろうが暴力なんて犯罪だから「警察や保護者に言えばいいじゃん」となるが、それは教育的ではない。教育的ではないというのは後付けされた説明であるが、対教師に暴力を振るう学生にも「人を信じる希望がある」と現場の教員は信じているのだ。警察や保護者に任せることは簡単である。しかし子どもの成長という観点からは、「どの子の将来にも可能性を広げてやらなくてはいけない」という使命が現場の教員はある。特に少年犯罪が多い府の教員は特別にそのような思いがある人は多いと思う。「分かってくれなくても私はいつまででも付き合うぞ」という熱い姿勢ことが現場の教員もモチベーションである。確かに知事のいうように、直さなくてはいけない部分も多い。それは一朝一夕で達成できるものではないことを理解する必要がある。成果がすぐに出ないから、為政者はよく教育を具にしやすいということは、メディアリテラシーとして私たちはわきまえていなくてはいけない。
このことから、天理高校野球部に関しても私は同じように思考する。もし本件に関して天理高校野球部が廃部になれば、それは企業のやることであり、教育機関のやることではない。事件の重大さを許容するのであれば、本件に関して加害者は被害者でもある。そして何より、未成熟で未完成な弱者である。私は天理教人全員から敵対視されても、徹底的に弱者の味方をしたい。
現実的な解決策として、天理高校野球部は来年は胸を張って出場した方がいい。加害者に対する個人的な処分は、過去の前例から引用すればよい。退学でもよかろう。しかし、それ以上に社会的制裁を子どもに課すことは血の通った大人のすべきことではない。こういった事件があったからといって、一気に改革することは特定の子どもにトラウマを残すことになる。それは教育機関のやることではないし、陽気暮らしを掲げる天理教のやることであってはならない。もし、こういったことから改革を志向するのであれば、第一に子どもの成長を妨げないような対処を前提に置いて考えるべきであろう。そうなると必然的にスピード感のある対応はできないはずである。ということで、私が本件に関して発言するのもこれで最後にしたい。あまりとやかく言うべきではない。