グローカル天理7月号の巻頭記事を読むように勧められた。http://www.tenri-u.ac.jp/oyaken/GTpdf/Kanotogen/GT139_kantogen.pdf
私にこれを読むように勧めてくれた方は「これを読むと天理教がカルトになる危険性がある」ということをおっしゃっていたと思う。確かに、この文章を読む限りにおいては、カルトと言われる意味は理解できる。専門家を対立軸に置いている時点で非現実的で、危険思想だと思う。エホバの方がまだマシな哲学がある。輸血を拒否することで有名なエホバは、その事実だけで医学や世間から批判される。しかし彼らの哲学は、医学を否定しているわけではない。彼らはむしろ積極的に医療を求める。「輸血禁止」が哲学ではなく、「輸血をしない最高の医療」が彼らの哲学なのである。彼らにしてみれば、輸血に頼らなければいけない医療は、すでに敗北していることになる。それは考え方によっては、現代医療の一歩先の医療を目指しているといっても過言ではない。しかし、その哲学からかエホバは社会学的分類で言えば、多くの国でカルト指定されていることも事実である。
このグローカル天理7月号の「大震災PTSDの癒し」は現代医療を間接的に否定している。現代医療を手放して、信仰する救済技法(おさづけ)に固執することは、現在社会に対する挑戦であり、社会学的にもまさしくカルトの色彩を強く感じざるをえない。
しかし私はこの論考から、カルトまで昇華できない組織論以前の問題であると思う。つまり、天理教という一大組織をどう見ていくのかという方向性や大局的な見方ではなく、酔っぱらったオッサンの「個人的な戯言」程度でしかないと思う。理由はいくつかある。
まず一つ目はこの一連の文章から「何が言いたいのかよく分からない」という論理構成の点である。段落ごとには理解できるのであるが、文章全体としての一体感がない。むしろ前半と後半では、真逆のことを言っているように感じるのは、私の読解力の低さが原因なのだろう。言いたいことは最後の6行で十分なのではなかろうか。
二つ目は、精神医学に対する知識の無さや調査不足であろう。「PTSDは試行錯誤の手探りでしか治療を進められない」という記述である。また「アメリカ精神医学会のDSM 〔精神疾患の診断・統計マニュアル〕でも、PTSD の原因の規定は改訂版が出るたびに変更になり、最新第4版では原因の記述そのものがなくなっています。」これらの記述に関しては“非常に誤解を生む”表現である。その意味を説明する。そもそもPTSDに限らずに、精神疾患全般に言えることとして「原因なんて特定できない」ということが通説である。そこに拘ることは、診断を構成するクライテリアが得られない。例えば「うつ病」であれば、その原因なんて経済的事情、人間関係、家族関係、健康など様々である。その原因によって診断名が変わっていれば、治療が成り立たない。原因なんて同じものがあるわけがない。だからDSMでは原因ではなく症状を多次元で評価することになっている。もちろん、この方法には限界も多く批判もある。だからといってそれは医学の混乱ではない。同時に、治療はすべて手探りであるが、それは筆者の言うニュアンスとは異なる。筆者はPTSD自体が何も解明されていないブラックボックスであるかのように試行錯誤や手探りと表現する。しかし精神疾患には薬物療法や精神療法は確立されており、治療はまったくの試行錯誤や手探りではない。それは当然のごとくRCTで科学性が担保された治療技法である。PTSDも同様に高い治癒率を持つ治療技法が存在する。そういった意味で筆者は読者を誤解させている。これは筆者の調査不足や精神医学の無理解の何ものでもないだろう。試行錯誤や手探りと表現するレベルが違う。
三つ目は、筆者の専門は「天理教学」であるが、その天理教学という専門性を提示できていない学術性の低さである。文中に医者や臨床心理士、社会福祉士を名指しして「宗教活動をするにも世間一般の専門的知識を必要とするかのような雰囲気があります。しかるに、例えば、医者でも名医は「手術は祈りである」と言うように、その道を真に極めている人は、誰でも人智・人力の限界をわきまえており、最後には神様に問題の解決を委ねます。つまり、“ 専門家に任せておけば悩みは全て解決する” などというのは、人間への過大評価であり期待過剰でしかないのです。ですから、大震災でのPTSD の治療でも、所謂その道の専門家だけに任せておくのではなく、各々が神様のご加護を頂けるように努めることを忘れてはならないのです。」という記述がある。「よふぼく」という天理教人は、天理教の専門家であると私は思うが、筆者はそう思ってはいないようだ。対人援助の領域で天理教学の必要性や存在意義を示していくのは天理教学の使命ではなかろうか。それをせずに対人援助の専門家に対して「あいつらだけではダメだぜ」というのは単なる「妬み、僻み」ではなかろうか。そこには天理教学の専門性は感じられない。PTSDの男性に「おさづけ」をしたところ、今まで治らなかったのに治った。だから専門家に任せるよりも「おさづけをすべきだ!」という帰結は、一教会長であれば許されるが、研究者としては学術に対して礼節に欠けると私は思う。筆者が天理教学の専門家ではなく、一信者として書いているのであれば私は何も言わないけど。そんなことはあり得ないだろう。詳しくは前回のブログへ。http://ameblo.jp/tenrikyosyakaigakulavo/entry-10933538545.html
四つ目は、施設のトップは理で決まるということであろう。これは事実のほどは分からないが、理の中でも優位な順位があると聞く。この所長の名字も、天理教内では有力なファミリーネームになると聞く。つまり、真柱をトップに、その下に位置する天理教施設の所長や室長やら統領は、どれほど実力があっても名字(理)で決定する。反対に、どれほど実力がなくても名字(理)があれば、有力なポストが用意されている。その証拠はグローカル天理のその他の文章を見ればわかるのではなかろうか。組織の長の条件として天理教を信仰していることは必要条件であることは大切である。しかし少数の七光りファミリーが地位を独占しているようでは、今後の天理教の将来はないだろう。むしろ現状の天理教において、メンバーズオンリーの会議室で天理教衰退の打開策をいくら練ろうとしも既得権益を手放さない限り将来という光は入ってこないだろう。それは歴史と北朝鮮が証明している。せめて、天理教信仰者の中から、「できる人」を指名すべきだろうと思う。
以上のことから、カルトの危険性よりも思想的未熟さや責
任感の無さが強く感じられる。つまりカルト以前の問題であり、この論考から天理教学や天理教全体を考えるには及ばないと私は考える。これを許容してしまうと、カルトに対してさえ失礼にあたる。