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教義の幅について<追記>


前回の「教義の幅について」のブログで、ある教会長の方からご意見を頂戴した。ご本人の了解を得た上で私の返事を以下に転記したい。頂いたメールではなく、私の返事であることをお間違えなく。

その上で、恐縮ながら私見を述べさせていただきます。Aさんのご意見はちょっと横に置いておいて、私が天理教人と話して感じるのは教えをとても硬直して理解されている方が多いなということです。そのため例えば他宗教や信者に対して閉鎖的、排他的となる場合が多いと感じます。しかし私が頻繁に接する天理教人は河○町というところであります。それ以外の方に聞くと河○町は大変保守的独裁的であると聞きます。ですので、Aさんのような考えの方やAさんの所属されるところでは事情や雰囲気が異なるかもしれませんね。まずその点をご注意ください。

次に信仰の幅ですが、私は信仰の幅は「ある程度」広い方がいいと思います。そうでないと信仰や生き方として「非常につまらなくなる(陽気暮らしの本質的意義が喪失する)」と思うからです。Aさんが提示していただいた考え方に基本的には賛成します。しかし天理教として悩ましく思うのが、やはり異端となる危険性ではないでしょうか。信仰の幅をもたせ過ぎると天理教本部の意向に沿わなくなる危険性が高くなるのは異端の多い天理教の歴史が証明していると思います。そのため本部としては一定の規律と言いましょうか、組織的忠誠心を確保する必要もあります。要はバランスでしょうが、とにかく教義に幅を持たせればいいというだけの問題でもないと思います。その点の着地点として、私は教会本部の見解にはとりあえず、それを「真なるもの」として収めたほうがいいのではないかと思います。そこに不信感を持つと組織としての統一性や求心力が低下する危険性が一気に高まるからです。教会本部の見解を真なるものとして、そこからの解釈には幅を持たせたほうが組織の継続性という点においては健康的でありましょう。Aさんのおっしゃられる裏守護という言い方は実践に基づくユーモア溢れる表現だと感嘆しつつ微笑しました。またご指導のほどよろしくお願いします。

という返信を返させていただいた。前後の文脈が読み取れないところもあるかも
しれないが、それは想像にお任せしたい。

教義理解の幅について

前回のブログで「日本人は多神教と馴染みがある」と書いた点について、ある方からメッセージを頂いた。その内容は「天理教においても十全のご守護という十の神様がいる」と教えていただいた。確かに、古来日本で伝わる神名が天理教に存在することは私も知っている。国之常立神(クニトコタチノミコト)という神も十の神の一つである。私は天理教にその教えがあることは知っているが、天理教の神である天理王命(テンリオウノミコト)とのReligional nicheについては知らない。天理教ホームページによれば、十の神様の存在については親神様の広大無辺なご守護を、十の守護の理をもって体系的に説き分け、それぞれに神名を配し、分かりやすく、覚えやすいようにお教えくださっています。「十柱の神名」と呼ばれることもありますが、決して十柱の神々がおられるという意味ではありません。と神であることを否定している。国之常立神は神ではなく神の働きの一つであるという宗教学的にアクロバティックな展開をしている。私は、この点については素人なのでよく分からない。そのまま天理教のホームページが天理教的見解と信じるしかない。しかし私に送ってくれたメッセージを読む限りにおいて、送信者である天理教人は、あまり教義を理解されていないのではないかと思う。以前私にコメントを残してくれた方も「理の親は神様以外にないと真柱が言ったことは天理教内では知られていない」と教えてくれた。天理教内での教義理解のコンセンサスというのはどの程度のものなのだろうか。非常に興味深いが、外部にいる私にはよく分からないということを考えた。

神が多い理由

前々回は震災という人知では抗えない条理にぶちあたり、人々は自然発生的に神なるものを感じているのではないかという話をした。その証拠に「生かされている」という未知なる存在への畏敬がぽつぽつを聞かれる。生きていることのありがたさ、生きることの申し訳なさ、生きていることの偶然性などが詰め込まれた思いが、「私は何かに生かされている」という言葉で表現されているではないかと思う。もちろん今まで特定の宗教や神を信仰していない人が、である。なぜそういった人知を超えたものを信仰することに馴染みがあるのかということを考えたい。
また同じく、海外メディアを中心に非常事態での日本人さの冷静さを讃えた記事も多い。海外で非常事態があれば、人々は略奪や、暴力が起きるが、日本ではきちんと整列して配給の順番を待ち、避難所でも秩序をもって生活していることは海外メディアが驚きともって賞賛した。海外で評価されると、なんだかとても嬉しい気持ちになることが日本人にはある。こういった日本人のメンタリティは「ちょっと危ないな」と私は感じる。相手の評価から相対的に自己を確立し維持することは、自己存在という側面でとても脆い。この件についてはまた今度。
なぜ、日本人はそういった集団心理や倫理性を持っているかを考えてみたい。こういった話になると、昔よく聞かれたのは、日本人にはShynessを強く持っているからと説明されることが多かった。Ruth Benedictの「菊と刀」の中で、日本人は恥の文化を持ち集団から外れる行為をすることは恥となることを恐れる。一方、欧米では常に個人の振る舞いを神が見ており、集団から外れることはTransgressionとして恐れるという説明がなされる。「菊と刀」については、その後一義的な論理展開に懐疑的立場も大きかったが、私も日本人は恥の文化、欧米は罪の文化と同列に並べられていることに違和感を感じている。つまり、より日本人に親和的であるのは神の存在を前提とした上での恥の文化(罪の文化でもどっちでもいい)であると思う。このことについて「日本人は宗教や神を信仰している人は少ない」という人がいる。たしかに宗教団体=信仰と捉えるとその意見は納得がいく。しかし古来、日本人は日常生活に根ざした信仰を多く持っている。○○大明神や○○教ということではなく、それこそ山の神、海の神、土の神、風の神、火の神などである。生活のところどころに神は存在し、それに畏敬し、そこから逸脱することは神に対して恥となる。ごちゃ混ぜがが好きな日本人は神がどれほど存在しようと、仏が何人いようと問題はない。どれだけ交通が麻痺して自宅に帰れなくても、人々は列を作り電車を待つ。これは「やっぱ自分勝手はよくないよね」という心性であり、それは古来から日本人が自然に対する信仰に由来するものではないかと思う。日本人は多神教に馴染みがあると思う。

スパイや工作員には憧れるけど・・・

このブログを介してメッセージをいただくことが多い。同時に私に連絡をすることをとても警戒している方が散見される。私は天理教本部のスパイではないし誰かに情報を伝えることもないし詮索もしないから安心していただきたい。といっても確認する方法はないが。

この際だから伝えておきたいが、過去のブログ内容と比較して「前と言っていることが違う」という指摘もいただく。私は日々成長している(つもりである)ので、新しい見解を採用していただきたい。基本的に骨格は何も変わらないから、私の説明不足が多いことは言うまでもない。以上よろしくお願いします。

陽気ぐらし達成の世界を想像する

前のブログで「震災は神からの天罰か」と書いたことに色々とご意見をいただいた。ありがたい。私の「天罰にしちゃダメでしょ」という見解に賛同してくれる方と、ある程度「やはり天罰という意味もある」と天罰を容認している方もおられるようだ。それはそれでいいと思う。大切なことは行動バランスの問題であり、どちらか一方を頑に主張することも原理的となる。柔軟であるというのは非常に成熟した精神機能であり難しい。
ただ、どちらにしても、どのような宗派、学派にせよ、ポイントとなるのは陽気ぐらしという世界をどのよに思い描いているのかということが重要になると思う。陽気ぐらしという世界は、どのようなものか。災害がない世の中が陽気ぐらし世界なのであろうか。戦争のない世界が陽気ぐらし世界なのであろうか。では戦争の原点となる怒りや争いさえもないのが陽気ぐらし世界なのであろうか。では、社会的に容認されている受験戦争や、利益競争がない世界さえ陽気ぐらし世界なのであろうか。
もし、震災の原因である「神の残念、立腹」が人間の悪しき心遣いに由来するのであれば、そういうものが無くなった世界というのは災害がない世界になる。なぜなら神が残念、立腹する理由がないのだから災害が起こるはずはない。悪しき心がない世界が陽気ぐらし・・・そうなのだろうか。
客観的事実として、地球規模の最大の災害は60億年後にやってくる太陽の消滅である。これは紛れも無い事実である。太陽が消滅すれば、もちろん地球はなくなる。私は中学生の頃に、この事実を知って愕然とした。なぜなら、「この世界」というのは永続的に脈々と続くと、当たり前になんとなく思い込んでいたからである。ハルマゲドンの終末論など「ばっかじゃねーの」と思っていたが、「いずれこの世は無くなる」という科学的事実を知った思春期のカイン少年は足下がガクガク震えるくらい驚いたものだ。この世界はずっとは続かないのである。

私は再度申し上げるが教義の理論的整合性を第一に置くのであれば、「災害は神の残念、立腹」は「人の悪しき心遣い」と直結して考えるべきではないと考える。なぜなら、主観的な目から見た悪しき心遣いというのは弱者を責めてしまう可能性を内包しているからである。これは人の性であるが、事件があれば犯人を探すのである。つまり災害と心遣いを直結してしまうと、災害があれば「誰かが悪しき心遣いをしているから」という帰結にある。それが信仰的成熟のために「私に」に向かうのであればいいが、その誰かが「お前かもしれない」となったときは怖い。それは一転して、言われた者の行動を硬直させ、口を奪ってしまう。早くも天理教の偉い方からは、「人間の心遣いが悪いから神様が怒っている」という発言が一気に聞かれ始めている。神のメッセージを、理の親のメッセージに変換することは非常にリスキーである。つまりお供え袋を手渡して、それを言ってしまうと間接的な恐喝になる。

私は震災は神の残念、立腹であることは教義上認めざるを得ないことだと思う。もし私が宗教学者であるならば「この教義は後付けされた矛盾であり、教義上不完全である」と言うこともできる。しかし現在の天理教教義内にその文言が位置している限り、信者にとってはそこに疑問を挟む余地はない。その中で、どのように教義を読み解くかは自由であるはずである。神が残念、立腹であるのは教義上の事実である。しかしその理由は分からない。やはり我々は神の意志を理解することは不可能であるし、神が何を考えているのかは想像しても届かないことだと思う。私がよく天理教人と話して思うことであるが、信仰は人を縛るものではないと思う。信仰は人の可能性を広げ、豊かにしていくものであるはずだと考える。天理教人は、あたかも現代社会が悪しき心遣いの巣窟であるように表現することが多い。私ももっと世界がよくなってほしいと思うが、でもこの世の中はそんなに悪いとは思わない。このズレはかなり大きいと思う。私の考える陽気ぐらしとは、現在において達成できているとしても何ら差し支えはない。私が陽気ぐらしが達成していると思っても甘露が落ちて来ないから、天理教的にはまだまだあり得ないだろうけど、いたずらに現代社会を悲観的に評することもないと思う。さて天理教の陽気ぐらしとは何を指し示すのだろうか誰か教えてくれないだろうか。

生きる意味

先週届いた天理時報のウラ表紙には驚いた。震災から9日ぶりに救出された孫と、その祖母の一面記事であった。この記事は天理時報だけでなく各種メディアで大々的に取り上げられていたので私も記憶に新しい。「あのお婆ちゃんは、この人だったのか!!」と私も声をあげた。その祖母は天理教信者で、崩れた家に閉じ込められているときは神名を唱えて救出を信じていたという。このご婦人の体験記を読んで、私はVEフランクルの「夜と霧」を思い出した。フランクルはアウシュビッツの強制収容所に入れられ、妻と子どもを殺されて生き抜いた心理学者である。ガス室に送り込まれる死の恐怖とともに「生きる意味」について考え抜いた。それは、生きるということを期待するのではなく、ひたすら生きることが私たちに期待しているということであり、生きるために自分は何ができるのか、というような考えに変化をしなければ人は直ちに絶望するということ(引用箇所が見つけられず申し訳ない。探しておきます)。フランクルは神への信仰を持っていたのかは私は知らない。しかし生への絶望を突きつけられた人間にとって、その絶望から這い上がるきかっけは(生への)意味でしかない。その意味は、人それぞれの意味であるが、そこに神の存在を想定することは十分に考えていいと思う。天理教に置き換えるならば、天理教において人間の身体は神様からの借り物という教えがあるため、命において「生かされている」という表現をする。これは初めて聞くと「なぜ生きることにそんなに卑屈になる必要があるのか」と思うが、神に与えられた命ということを考えれば当たり前の表現となろう。自分の意思で生きているのであれば、生きる理由はそれぞれでよいと完結することも十分可能である。しかし神によって生かされているとなっては、もれなく「何のために私は神に生かされているのか」という問いがひっついてくる。それは天理教にとってみれば神人和楽の陽気暮らしのために生かされていることになるのだろう。震災以降、多くの被災者が「生かされている」という言葉を使用している。甲子園の選手宣誓でも聞いた。それらは、人間は抗えない大いなる自然(災害、死)の中での生きる意味を神(仏でも先祖でも)に潜在的に求めているからなのではないだろうか。親も友人もお金も仕事も失った中で、信じるものがなければ人は生に絶望する。私は絶望の中で神名を唱える婦人の姿に感銘を受けた。

言葉と実践

前回のブログで、地震の教義的解釈について書いたら反響が大きかった。多くの天理教人が地震をどのように解釈すればいいかで悩んでいる。また私のブログを読んで、余計に混乱を大きくしたとの感想をいくつか頂いた。私が何も言わなければ「地震は神様が怒っているんかねー」となんとなくふんわりした考えで今まで通りにやり過ごせていたかもしれないが、私が「結局その考えだと、地震は神様からの天罰でしょ。天理教は石原都知事と一緒ですよ」と突きつけてしまったばかりに「じゃあどうしろってんだ!」と反問されてしまった。ブログでも書いたけど、私は「自分で考えて」と言うしかない。それしかない。「感謝・慎み・たすけあい」と言いながら「天理教は現代社会の困難な課題をすべて解決できる」と万能感に溢れた天理教代表役員の慎みの無さには驚倒したが、真なるところ、例えば天理教災害救援ひのきしん隊が何も言わずに粛々を救援活動をこなしていることこそ慎みの本意ではなかろうか。地震に対する教義解釈で、どんなに有効な理屈を考え出そうが、万能な教義を引き出してこようが、実際に現場で流される汗の前では意味を持たない。ということを考えた。自戒の念を込めて。

天理教において震災は天罰か -災害を神からのメッセージとする危うさ-

少々攻撃的な題名になってしまった。この題名を見た天理教人は即刻否定すると思う。「そんなわけない!」と。しかし震災から1ヶ月が過ぎ、この震災に対して天理教における意味づけが少しずつ見えてきている。意味づけというのは、天理教にとってこの震災をどのような意味として解釈するのかである。私はこの1ヶ月、複数の天理教人と話して、また天理教人が各教会の講話において先生方の話を聞いてきたことを又聞きした。そして、そこから天理教における震災の位置づけを考えてきた。天理時報では私の読んだ限り、震災の意味づけに関する記事はまだ見られない。現在は天理教災害救援ひのきしん隊の活動記事が主となっている。天理教災害救援ひのきしん隊の活動は、実践宗教としての天理教の本懐であると思う。応援したい。
先日は東京都の石原都知事が「震災は天罰である」と述べたことに対して、強い世論のバッシングが起こり発言を撤回することになった。この天罰発言を天理教人はどのように受け止めたのか。
まずは、先日購入した天理教代表役員の「お道の視点から」という著書の「自然災害の意味を考える」(立教167年10月17日号)を引用したい。その中で、自然災害について「その程度にもよろうが、その地域、さらには国、ひいては世界に対する「お知らせ」と受け止めるべきではないかと思う。従って、難を逃れた者としても、親神様の思し召しに沿わぬ人々の姿、世のありように対する警告であって、決して他人事ではないと承知することが大切だと思う。」とあり、それを補強する形で「敢えていんねんという語を使うなら、国のいんねん、世界のいんねんのなせる業と言うしかあるまい」と述べている。これを聞いて私は天理教も震災は天罰という位置づけであることを認識した。それ以外の解法があるなら教えてほしい。この著者が書いている業という単語は、仏教では因果応報を示す。つまり、間違った心遣いをしていると神が災害で人間に罰や戒めを与えるよ、ということになる。人間の悪行は災害によって罰せられる。私が話を聞いた天理教人も皆、表現上はオブラートに包まれているが、言ってることは天罰と同様の理路となる。これ以外にどのように読み解けばいいのか私には分からない。震災は、人間の心遣いが悪いことが原因である。
私は、この考えに対して控えめに「それは違うんじゃねーのか」と思う。控えめにという表現にしたのは、やはり私もピッタリとくる解法を持たないからである。しかし、そうであっても「やはり震災は天罰じゃない。天罰であってはならない」と思う。100歩譲って天罰であったとしても、私はそれを認めたくはない。なぜなら、それは信仰心がないからでも、いんねんを理解していないからでもなく、やはり被災者を思ったときに私はそういった発言に対して口をつぐんでしまうからである。それを人間思案といわれれば、私はそれで構わないのではないかと思う。
この荒れた土地に着陸するのは非常に難しい。一つのヒントとして、キリスト教を参考にしたい。プロテスタントの信者である友人と話していると、キリスト教でも震災の解釈をめぐり「神の戒め論(震災は天罰論)」が少し出ているようである。しかし大勢としては「震災は自然現象」という見方をしていると聞いた。一信者の意見であり、どこまで信頼性があるかは不明であるが、私が興味を引いたのは「主は与え、主は奪う」というところで思考を停止させていることである。どういうことかというと、キリスト教では震災を「神からの特別なメッセージではない」と踏みとどまっているということである。パラドキシカルな表現をするならば、むしろ神からのメッセージは日常に溢れ、日常に我々人間に与え、そして日常的に我々から奪うのであると。個人がどのような意味づけをするかは個人の自由であり、個人が信仰心の涵養や鍛錬のために神からのメッセージにすることは個人レベルのみで行われるべきであるということである。もし教団や各教会単位において統一見解として神からのメッセージだとすると、それは人間から人間へのメッセージに変換されてしまう恐れがあり非常に危険である。この点はヒエラルキーが確立された(天理教で言えば理の親が複数いるような)カトリックよりもプロテスタント信者の方が理解が早いのではないかと思う。キリスト教(プロテスタント)にあるのは「主は与え、主は奪い、隣人を愛する」ということである。震災に対するこの敢えての踏みとどまりは、神の意思をすべて分かることができるという勘違いに対して非常に慎み深いものがあるのではないかと思う。
話を天理教に戻すのであれば、天理教は此度の震災に対して、神からの特別なメッセージという解釈は「踏み込み過ぎ」なのかもしれない。先の著書において著者は「災害は神の残念、立腹である」という神からのメッセージを、著者のメッセージに変換している。天理教においても、この世界、人間の存在はすべて神の所作であるはずである。つまり、此度の震災のみにおいて神が特別なことをしたのではないはずである。生も死も神からの恵みであるはずなのであり、神が立腹している理由を特別なメッセージとして声高らかに宣言することは、それこそ高山の傲慢ではなかろうか。神は災害を起こすだろう。しかしそれは罰ではない。ひょっとしたら災害を通して我々人間の災害の捕らえ方、振舞い方を見越しているのかもしれない。ただ神の真意は分からない。災害は神の怒りであるということだけである。それもまた神でしか分からないことであり、なぜ神が怒っているのかは、我々の淡々とした日常を自己点検するしかできない。悪いことをしたら罰せられるのであれば、それは宗教の役割ではない。著者のように人間が悪いから罰を与えるという神の想像は貧困ではなかろうか。こんな寂しい神に仕立て上げていいのだろうか。此度の震災で偉そうに神のメッセージを代読する人間か、粛々と被災地のために尽力する人間か、さて神はどう思っているのだろうか。自問し続けることが宗教の本質であろうが、私も早く震災に対する天理教教会本部の回答を見てみたい。

理の親は不要か

そういえば、1週間ほど前に誕生日を終えた。また一つ年をとってしまった。まぁいっか。
ここ1ヶ月くらい、このブログを見てメール等を送ってくる方が増えた。とてもありがたいが、基本的に返事はしない(だって挑戦的なんですもの)。気持ちのこもったメールには、私なりに最善を尽くした返事をしている。また情報提供のように、こそっと色々と教えてくれる人もいる。しかし私は天理教版ウィキリークスを目指しているわけではないし、確認のしようがない情報も多いので慎重に聞いている。
今回はメールにて「理の親不要論者ですよね」と同意を求められたため、私の立場を明確にし返事にかえたい。私がたまに言及している「理の親」について、私は「やっかいなもの」という表明を過去に何度かしている。なぜそう思うかは、過去のブログを参照されたいhttp://ameblo.jp/tenrikyosyakaigakulavo/entry-10403626366.html。
上記の過去ブログは2年前のものである。しかし2年前も今とあまり考えが変わらないのは自分でも驚いている。私は「理の親」という概念は肯定派でも否定派でもない。時には理の子の人権を縛る鎖となり、時には師となる。概念は道具であり、時には非常に便利なものとなり、時には凶器となる。「理の親」が凶器となる場合には猛烈に否定し、信仰的人格的成熟を促す場合には支持するのが私の立場である。物事は一面的性質だけで否定も肯定もできない。私にメールを送った方は「理の親」という概念自体が「世界一れつ皆キョウダイ」という教義から有り得ないと説明したからには否定派なのであろう。ただメールは教典を古語のまま引用されていたため不勉強な私には難しくて全部読めない(これからは分かりやすい日本語で書いてくださいね)。私は天理教の教義には「こう書いてあったから」という説明はあまり信用しない。なぜなら教義がどう書いていようと目の前の天理教人の振る舞いを信じるからである。そして何より天理教の教義自体も、教祖が実際に言ったことと伝承が二代真柱によって混ぜられて編纂された経緯がある。社会学的には、晩年の教祖が実際に言ったことには理解できない言葉や文として成立していないものが多分にある。そういったことからも原理主義的に教義に過剰にこだわることも私は好まない。先日紹介したフライデーの天理教記事において、「単に明るく生活するというより、互いの個性を認め合って神とともにあるという生活感を築くと解釈したほうが正しい。これらはすべて、天理教の外部の人から「なるほど天理教の人はいいものだ」と思ってもらえるような人(天理教では「なるほどのひと」という)に近づこうとする実践である。とあったように、天理教の真骨頂は教義ではなく信仰的実践であると思う。教義の内容よりも「目の前」の天理教人が天理教であると私は認識している。
理の親に限らず、その他の天理教的用語も含め、それらは内省のために「自分に向かって」使用されるべきものだと思う。

天理教と日本文化とフライデー

先週発売されたフライデーには、天理教に影響を受けた著名人について主に取り上げられていた。天理教を信仰している著名人については、私が聞いたことがある人も、初めて聞いた人もいた。一番大きく取り上げられていたのはパナソニックの創業者で経営の神様と言われた、松下幸之助である。パナソニックの経営理念に天理教から影響された側面が強いことには驚いた。日本特有の企業風土を造り上げたパナソニックが天理教の組織を手本としたようだ。例えば、日本社会では当たり前となっている“朝礼”は、パナソニックが最初に行い、多くの企業がそれを模倣した。元となったパナソニックの朝礼は、天理教の“朝勤め”を手本にしてたというから驚きである。一学者の調査のため真偽のほどは分からない。しかし、このことは天理教の慣習や文化が日本社会に深く根ざしていることを現していると思う。「私は無宗教」ということを大多数の日本人は思うが、食事のときの「いただきます」も、日曜休日もすべて信仰儀礼が元であり、我々の社会生活自体が宗教と密接に繋がっているのである。
少し脱線するが、学校教育現場では時に宗教行為を拒否することがある。例えば、前に挙げた給食のときにクラス全員で「いただきます」の合唱をするなども、一昔前には「宗教行為だから」という理由で反対されたことがある。この根底には宗教が「悪しきもの」や「個人の自由」という現代人の強いバイアスがある。しかし本来、宗教行為とは神だろうが隣人だろうが礼を尽くし、最大多数の最大幸福を願うものであり、教育というものを包含しているのであり拒否なんてできない。そこを見落としてしまうことは、教育というもの自体が成立しない。宗教組織が教育機関を併設することは珍しいことではないし、天理教もまた巨大な教育施設を持っている。天理教の教育施設についてこの場では割愛するが、私は教えに基づく信条教育は子どもの人格形成の上ではとても大切なことだと思う。
それほど日常生活に溶け込んでいる宗教を今更「見て見ぬふり」はできない。日本メディアでは天理教のような新宗教には放送コードがかかっていると聞いたことがある(ほんとかどうかは分からない)。しかし、日常生活では新宗教を目にすることが多く、天理教を知らない人はいないと思う。これは非常に大切なことだと思う。パナソニックのように誰も知らないうちに天理教の影響を受けてい文化はあるだろうし、私見では天理教を信仰しない人が天理教と聞いて「甲子園常連の天理高校」と、夏のイベントである「こどもおじばがえり」を想起する人は非常に多いのではないかと思う。そして、新宗教に抵抗を見せる日本人も、天理教には抵抗を見せない人が多いという実感がある。宗教学において天理教は既成宗教に分類する流れがあるということは、一定の社会的容認を得ていることだと思う。