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構造主義から天理教を観る④

文化人類学者のレヴィストロースは、世界各地の未開地民族のフィールドワーク研究を行ってきた。彼は宗教研究(シャーマン研究や神話研究)も行ってきたもので宗教にも精通しており、その業績は膨大で偉大なため私のブログよりも著書をあたってほしい。ただ、彼の宗教論は私もよく知らない。というのも彼が世界に名を馳せたのは「野生の思考」という著書である。これは哲学書や思想書ではなく、彼のフィールドワークに基づく実際の報告書なのである。この中で、従来まで未開地民族を野蛮として扱ってきたマルクス主義の“知識人による上目線”を快刀乱麻を断つように痛烈に批判した。その大きな武器となったのが構造主義である。その彼がフィールドワーク研究から得た知見を元に集約したのが「親族の基本構造」という本である。その中で人類の発展を構造主義的に読みほどき、人類の継続(結婚というコミュニケーション)には“女性の交換”が必要不可欠という慧眼を得る。またその女性の交換を促進するキーポイントが近親婚の禁止(Incest Taboo)である。
 コミュニケーションの活性化(人類の継続)を行うためには、交換を行う必要がある。経済であれば貨幣の交換(流通)である。貨幣は持っているだけでは意味がなく、使って初めて価値が生じる。そして二者間での交換を限定交換、色々な人との交換を一般交換とした。限定交換とは、二者間、つまり自分が働くお店でしか物を買わないということである(スーパーと小売の取引は無視して)そうすると、自分とスーパーだけでしかお金は動かない。レヴィストロースはこういった二者間での交換を限定交換といった。一般交換とは、実際生活と一緒で色々な場所でお金の交換を行う、買い物をする場所が色々あるということである。そうすることでお金は流通し、そのお金は多数の人のところに行き渡る。一般交換することで誰も得はしないし、損もしない。しかし常に動的状態となる。動的状態とはどう意味を持つか。それが生き続けるということである。選択肢はたくさんある方が楽しいのである。それを婚姻に当てはめると、二者間で女性を交換しても人類の発展はない。「うちの娘をやるから、あんたの娘をくれよ」では、男女の数の偏りによって消滅する。むしろ色々な人と交換することで発展するのだ。それを促進する最大の機制として発見されたのがIncest Tabooである。Incest Tabooがあることで、二者間の流通を抑止し、他民族、他親族への女性の交換として成立する。女性を迎え入れた親族は、自分の娘を嫁に出す(反対給付)ことで家系図は拡大する。またタイムラグが生じることで世代間交換が成立するため、親族(人類)は発展する。我々現代人にもIncest Tabooが存在する。しかしそれは遺伝学に基づく優生学的問題があるからである。しかし遺伝学的な問題だけだろうか。民法に3親等以内の婚姻が禁じられているからというよりも、もっと大切なのは「それってよくない感じがする」という倫理観である。我々は潜在的に“血が濃くなる”ことに対して「んーちょっとなー」という違和感を持つ。文化人類学的なIncest Tabooとは、そういうことであり、遺伝学を知らない未開人にも共通したものとなる。「それってよくない感じがする」という違和感は、レヴィストロースに言わせるならば、人類発展のために必要な身体感覚(無意識レベル)なのだ。畢竟、それを否定してしまうと自分の存在すら否定しかねない状況になる。ここで一つの疑問が生じる。「なぜ女性の交換であり、男性の交換ではないのか?」ということである。実は私もこの点にはすっきりしているとは言い難い。父権性社会が主であるために女性が交換主体とならざるを得ない(交叉いとこ婚)という説明(説明といってもレヴィストロースはフィールドワークだから、自分の目でみてきたことを言っているに過ぎない。そのため、別にレヴィストロースが編み出したものではない)は、「なぜ男性の交換はだめなのか」という説得性という意味ではイマイチである。女系の民族(exカンボジア)には適用し難いものがあるからである。しかしここに天理教の教祖は女性であったということでオリジナルの研究が発展できそうだが、誰かやってないのだろうか。
前置きは長くなってしまったが、レヴィストロースのいう「外婚」(私のいう教外婚)こそが、人類を継続させる本質なのである。つまり他親族、他民族との女性の天理教信者の交換こそが天理教を維持する文化人類学的回答なのであるり、私の回答でもある。今後天理教の衰退に歯止めをかけるためには信仰的近親者との婚姻は避けて、非信仰者との婚姻を推奨した方が天理教を維持できる可能性は高い。だって、私達が現在も先祖の血を脈々と続いてきた事実があるのだから。

さて、サッカーも勝ったし寝ましょ。

参考文献
クロード・レヴィストロース「野生の思考」
上野千鶴子著「家父長制と資本制」

構造主義から天理教を観る③

ちょっと前置きが長くなったが、本題に入る。天理教の衰退をストップさせる文化人類学的ヒントとは、天理教人の「教外婚」である。天理教人が天理教を信仰していない人間と婚姻するということである。私の感覚として、天理教人は同じ天理教を信仰する人ととの婚姻に強いこだわりを持つ保守的な人が多いと感じる。実際に天理時報でみられる偉い人や、近所の天理教を見ても「同じ苗字」が多いことに驚愕する。これは、畢竟同族内婚姻の成果だと思う。そして、私のそういった感覚が正しければ、それは天理教の地殻変動的衰退と大きく関わってくる。なぜならば、天理教信仰者同士が結婚したからといって、天理教信仰者の絶対数は増加しない。その子どもができたからと言って、その祖父母は亡くなっていくのであるし、出生率と人口分布をみても亡くなるほうが絶対数として多いのであるし、減少していくのも当然である。また天理教の子どもと言っても、前回“縦の伝道”から“内の伝道”への転換といったように、天理教の子どもだからといって天理教を信仰するとは限らない。つまり天理教同士の結婚は信者数の減少を招くことは絶対となる。そういった同族婚姻が推奨される場合は今後構成員数が上昇する場合に“血を濃くする”という生存戦略が採用される場合のみである。しかし現在の天理教は構成員の減少であり“血を濃く”している場合ではなく“種の拡大”が最重要課題であるのだ。
教外婚(もちろん造語だよ)というのは私が初めて言った“異様な”考えだと思うだろう。しかし歴史的、文化人類学的にはすでに論証されているものである。その代表が文化人類学者のレヴィストロースである。

構造主義から天理教を観る②

今年のお節会に行かせていただいたことは先のブログで書いた。その時に天理教人の友人R君と天理駅前でお茶をしたときのお話を備忘録としてアップする(駅前のミスドは平時は閑散としているのだが、その日は激混みしていた。イベント恐るべし)そのときの話のテーマは「縦の伝道」だったと思う。縦の伝道とは、布教において世代間伝達のことをさすようだ。天理教の教勢が凄い勢いで衰えてきている。各地方の教会を見ても、信者数が公称220万人とは言うものの、実際に教会に足を運んで出会うのは人生の大先輩ばかりである。今後の、数年以内に劇的な転換期に入るのではないかという話をしてくれた。その中でR君は「現在の天理教の要職の中にも、天理教の将来を憂いている人はいる。その人たちは、今までに信者の子弟や未信仰者に対して天理教の伝道を行ってきたが、現在は教会家族への伝道をするように訴えている」ということであった。これは現在までは外に対して布教していたが、気付いたら足元(天理教の磐石な構成員である教会の家族)がガタガタであったということだろう。そのため“縦の伝道”から“内の伝道”への転換ということだ。ここまで聞いて私の率直な感想として“内の伝道”ってどうするのだ?という疑問である。里親家族論よりも、天理教内家族論を展開させるべきだと以前天理教の里親政策の中で私は訴えたことと同様になるが、伝道とは理の子や子弟の信仰的自立を達成することである。しかし実際は恫喝や制限を用いて選択肢を非常に狭めている傾向があるようだ。しかし自立とは尊敬や責任をきちんと付与してあげないと育たない。信仰的上位者(理の親)に対して自立的な信仰を持とうというものなら「お前は分かっていない」や「素直になれ」といったマインドコントロール的レトリックで、神の意向という正当性に摩り替えられた恫喝や制限が加えられる。そのようにして得られた信仰的成熟は本質的とは言いがたい。もちろん短期的、表面的には効果的だが、長期的な人間性の成熟には程遠いだろう。非行少年や性犯罪者に対して矯正だけでは、再犯率が下がらないのと同じ理路である。“縦の伝道”が“内の伝道”にシフト変換したところで、私は何も変わらないだろうと推測する。それよりも人間が信仰をドライブするのは何かと考えさせるような自立性を養う方が実際的ではなかろうか。

構造主義から天理教を観る①

前回のブログで「天理教の衰退を止める方法」について私なりのアクロバティックな方法を提示するといった。それは表層的な対応ではなく、文化人類学的な知見に基づくものである。人類学的というのは小難しいかもしれないが、人類発展の構造を長期的視点で見たものということである。話は逸れるが、先日ある有名デパートで働いている友人が「売り上げを向上させるアイデアはないか」と私に聞いてきた。デパート業界の売り上げ低迷は昨年頃から度々メディアを通して知っていた。しかし私のように販売の素人に聞かれても「頑張ってね」としか言えない。ただ、人類学的視点(といっては大げさだが)からみると、人口が減っているのだから、消費人口というパイは減るのだから売り上げが減少するのは当然である。こういってしまうと営業努力も意欲も泡になるので言わなかった。ただ、天理教の衰退という視点でも日本の人口が減少しているという点では絶対数として衰退するのは当たり前である。私が日々のブログで強調している点は、人口減以外の天理教の衰退要因についてであるが、今回は文化人類学的視点から天理教の衰退について考えたい。つづく。
 

天理教を精神分析する(教養編の続き)

前回の「天理教を精神分析する」という記事で、後半部が「よく分からない」とご指摘いただいた。見返したところ、私もそう思う。確かにロジックが飛躍している。このブログを書くときは、一気に書いてしまうため分かったつもりだったのは書いた本人だけだったというのは申し訳ない。前回のブログを修正してもいいが、一度出したものを後出しじゃんけんで手直しするのは何だかずるい気がするので(誰もずるいとは言わないだろうが)、今回は少し丁寧に説明する。

前回の後半部で、天理教の構成員(信者)が歴史的に知的教養を構造的に求められなかったということが、なぜ天理教の閉鎖性に結びつくのかということである。ロジックが飛躍したというのは、途中で2代真柱が教典を編纂する過程や、ユダヤ教に寄り道してしまったために起こったことだと思う。まず天理教の信仰者が構造的に知的教養を求められなかった理由を説明する。知的成熟というのは知識をインプットし、咀嚼し、アイデンティティと照らし合わせて骨肉化する必要がある。それを人は教養と呼ぶ。この過程を経ずに知識だけを得ることはただの雑学である。教養と雑学が異なる点は、このプロセスの違いである。そしてこの違いはとてつもなく大きい。というのは、この大きな違いというのは教養はアウトプットが可能ということである。雑学でアウトプットできる場は、クイズでしかない。しかし教養がある人のアウトプットというのは言葉を紡ぎだし、ナラティブを形成する。そのナラティブが人の心を揺さぶり、世の中を動かすのである。しかし同時に知的教養というのは、その発展する要素に批評力が不可欠となる。ある事象について一方の見方に立脚すると、その批評力は大変やっかいなものである。天理教では立教当時から異端が多いことでもしられている。それは、教義に幅を持たせすぎているという側面から考えると必然なのかもしれない。しかし教団としては、組織の凝集性を低下させるわけにはいかない。その土台として将来、組織の邪魔になるような構造的に「頭のいい」人間をつくりだすわけにはいかない。「頭のいい人間」を作り出してしまうと、異端をつくったり、教団批判になりかねないからである。また教団批判までいかなくても、信仰上葛藤を持ってしまう危険がある。自分の信仰に対して「このままでいいのだろうか」という葛藤を信者が持ってしまうことがすべての始まりであるならば、その葛藤を抑止しなくてはいけない。そのためにも天理教的用語が思考停止装置(防衛機制)というレトリックとして発動させられるのである。発動させられることで、問題を先送りにし、知的葛藤を芽生えさせなくさせる。しかしそういったファシズムは組織としては閉鎖性ゆえに孤立を招き、いずれ終焉を迎える。必ず。その証拠に幼少の頃から強い思考停止装置を発動させられた天理教人の子弟は、一人で歩き始める頃に例外なく強いアイデンティティの揺さぶりを経験すると私はみている。青年期に強い天理教への反発がみられる若者の喘ぎは多い。それを乗り越えることで真の信仰があるのかもしれないけど、そのイニシエーションの必然性は看過できない共通項である。あまり横道にそれるとまた元に戻れなくなるのでアイデンティティについてはこの辺にしておくが、思考停止装置を発動することは短期的なストラテジーとしては集団凝集性のために有効かもしれないが、長期的には人々を飽きさせ凝集性を低減させる危険性が高い。しかし、それ以外の方法のストラテジーを早い段階で考案できなかったために病理は進行し、教団の対応はすべて後手に回らざるを得ない。兎にも角にも、もし今後の天理教を憂うのであればストラテジーの考案は難しいにしても、思考停止装置を発動するようなファシズム的な手法は止めたほうがよい。それだけでも大きな転換であることは間違いない。天理教のオピニオンリーダーなる人が「今後“理の親”って言っちゃダメ」と理の親発言禁止令を天理教人に発令するだけでも助かる人は多いと思う。無理だろうけど。次回は私が考える、一つの方法を提案したいと思う。ちょっと危険思想でアクロバティックだけど。

天理教を精神分析する(教養編)


ある研究会のお知らせを聞いたのでお伝えする。
http://uemachi.cotocoto.jp/event/45183
元々は仏教系の団体であるが、排他的ではなく実験的でリアルな社会活動を展開しているイケてる団体であるようだ。今回は「なぜ宗教者がホームレス支援なのか」というテーマで天理大学の研究者が招聘されている。天理教に関する研究会というのは、その他の学術領域と比して意外に少ない印象がある。天理大学を中心とした研究会や学術会議は天理時報をみる限りにおいて、時折散見されるが、その内容はあまりに閉ざされており、公にされずに外部の人間が知る術は限定されている。私は天理教の発展のためにはAcademicや一般庶民レベル双方での知的、経験的探索が必要だと常々訴えている。そのためにも天理教の信仰者や研究者が開かれた研究会を持ってほしいと思うだが、なかなか難しい。難しい理由は2つある。1つは天理教が宗教団体であること。宗教団体という明確な教義をもつ組織では、そこに異物が混入することは組織の求心性を減じることに直結する。しかし、一方でそういった閉鎖的な姿勢は社会学的にカルトに分類される危険性もある。宗教の持つ「よく分からない」という閉鎖性は、中世であれば畏怖として扱われていた。しかし科学主義の現代では「よく分からない団体」というのは恐怖=カルトとなる。前回のブログにおいて天理教の建築学的評価の見直しを私は提唱したが、それは宗教を社会に開いていく一つの方法ではないだろうか。宗教研究というのは教義研究だけではない。むしろ教義以外の様々な側面(建築、芸術、社会規範)こそが、宗教組織が社会共同体の入場券となることは歴史が証明している。現在の天理教の知名度に大きく貢献している高校野球やスポーツの世界は、それに当てはまる。しかしスポーツは限定的で宗教理解に繋がりにくい(天理教と聞いて天理高校を想起する人は多いだろう。しかし天理高校を想起しても天理教理解にはならない)。天理教の持つ、資産管理を洗いなおして、その価値を見直すことが必要な時期にきているのではないか。
天理教の閉鎖性のもう一つの理由は、天理教の構成員(信者)の教養の低さである。ここまで言い切ってしまうと私が刺されそうだが、天理教信者は「頭が悪い」という意味ではない。天理教は歴史的に信者に知的教養を構造的に求めてこなかったという意味である。多くのノーベル賞受賞者や知識人、文化人を輩出しているユダヤ教徒は、その教義の前提として勉学の励行が挙げられている。同時に強欲を禁じる教義から蓄えた資産は教育の投資となった。その結果、世界的な知識層を形成した。一方天理教はというと貧病争の庶民の宗教であり、知的成熟は教義にはない(と思う)。宗教学的には、東大宗教学科で学んだ2代真柱中山正善が、それまで明確ではなかった天理教の教義を編纂しようとした。しかし、本当に教祖にまつわる逸話なのか、庶民の口から口へと伝承された噂話が教えとして誤って布教されていたのかという曖昧な境界で編纂は頓挫してしまった。一方で、当時2代真柱ほどの教養のある天理教人は周りにはおらず、仕方なく2代真柱は教外の作家や知識人に教義の編纂や逸話の作成を依頼した。そうしてできたのが現在の天理教教典と稿本天理教教祖伝であるとされる。つまり、この2つでは事実と伝承が曖昧なまま混在となっているのである。こうして分かるように、あくまで天理教は庶民のための教えであり、信者に対して知的教養は求めていない。より踏み込むならば、庶民を差別化するような知識は排除される傾向にあると言っても過言ではないだろう。それは現在の天理時報はじめ、天理教の布教戦略は、弱者(庶民)のためのものであることから明白である。これが無意識的であることにようやく気付く(意識化する)のは「天理教は弱者のためだけなのか」というConflictが芽生えることである。「だめの教え」(だめ=最終的な)というのは弱者のためではなく、全人類に対する救済ということであるが、それを「おたすけ」という言葉で記号化してカテゴライズすると、たすけられる人=弱者という自動展開となってしまう。そうすると天理教の金科玉条である陽気暮らし世界そのものが、弱者のためになってしまい、強者(天理教がなくても陽気に暮らしている人々)には天理教が必要なくなってしまう恐れがある。その無意識的葛藤を芽生えさせないためにも知的教養を信者に求めず(排除し)、「素直」という防衛機制を用いて思考制止を促すのだ。ではこのままでいいのだろうか。このまま行ってしまうと天理教の将来は社会的、宗教的マイノリティとしてかなりのダウンサイズが進行してしまう。そのためにも天理教のもつ資源や構成要素を見直し、外に訴えていく必要があり”開かれた天理教”という側面が必要となってくると思う。何が天理教の文化資本(@ P,Bourdieu)となるかボクにはよく分かんないので、皆さんが考えてください。

天理教建築再考

前回の天理教お節会の体験ルポについて私は「5年ぶりくらいだ」と説明した。しかしある読者から「去年も行ったというブログがありますよ」とご指摘いただいた。昨年は天理に頻回に行くことがあったので、失念してしまった。ただ、あまり記憶にない。なんでだろ。ごめんなさい。

話は変わって、天理教の建築学的見方について私は高い評価をしている。過去のブログhttp://ameblo.jp/tenrikyosyakaigakulavo/entry-10115950892.htmlでも取り上げていたようなので採録する。私の感覚としては「天理教の建築学的評価」というのはここ数年で少しずつ上昇してきているのではないかと思う。以前は建築学専門家の間にて時折、その評価を見直したり話題にされることが専門誌上でされることがたまにあった。しかしネットの普及とともに非専門家レベルで話題になることが散見されるようになっている傾向を感じる。あくまで私見だけど。そこで昨日紹介されたものをここでRTしたい。天理教人は、当たり前なのかその建築学的評価に気付くことは少ない。しかし、あの天理市の界隈の雰囲気や神殿の造りは誰が見ても驚愕するものである。巨大であり、厳かであり、繊細であり、奇妙であり、神秘的であり開放的である。見ている者の感受性を揺さぶるのである。京都や奈良にあれば、高い拝観料をとられるだろう。何度みてもやっぱりあれは驚愕である。詳しくは下記をご覧あれ。

http://osakadeep.info/2011/01/11/153249.html

お節会に行ってきました。

6日に天理教のお節会に行ってきました。天理教人の友人と1230に神殿正面の手水のところで待ち合わせ。天理教のお節会は過去に何度か食したことがあるが、最近では5年前になるだろうか。神様のお供え餅であるが、普通に美味しいと思う。しかし何より楽しみだったのが、久しぶりの近鉄特急に乗れること。私と近鉄特急との思い出は幼少の頃に遡る。お爺ちゃん子だった私は、祖父に連れられて近鉄特急に乗ったことが何度かある。JRや近鉄は「特急」というと特別料金が徴収されるので、名のとおり「特別」な気分でお客さんも少なくて、ちょっと行儀良くしなくてはいけないようなウキウキした思い出がある。その後も何度か乗ったことがあるが、祖父が鬼籍に入ってからはウキウキよりもちょっと憂鬱な思い出となっていた。しかし今となってはどれも淡い記憶である。(同じ「特急」でも料金が変わらない私鉄(阪急、阪神、京阪)を見たときは驚愕した)
しかし鈍行電車から特急に乗り換えるはずが、携帯を見ていたらいつの間にか乗り換えるはずの駅を乗り過ごしてしまった。残念である。特急は帰りでいいかと安心したのは束の間、待ち合わせの時間に10分遅れてドキドキしたが友人が15分遅刻してくれたおかげで「めっちゃ待ったぜ」という顔ができた。
友人から入場整理券を貰い、お神酒を頂いて列に並ぶ。15分くらい並んだだけですぐに移動させられ会場に入る。白い長いテーブルに友人と隣り合わせで座る。隣には知らないおばちゃんと、正面には10歳くらいの女の子が座る。ちょっと近くて気まずい。それでも何も言わずに天理高校の生徒さんがお餅と水菜とお出汁を持ってきてくれる。冬休みにもかかわらず、給仕する若者の姿に感銘を受ける。味は炭焼きされたお餅と出汁が合っていておいしい。くせがないので何杯でも食べられそうだ。私もお代わりをして2杯(お餅4つ)を食べた。ごちそうさまでした。その後は天理駅前の喫茶店でお茶をした。天理教人の友人からは、今後の天理教のことや天理教のウラ話をたくさん聞いた。それは追々ね。帰りはもちろん近鉄大和西大寺駅から特急に乗ることができた。ちょっとしたゆるやかな空気を味わえて今年の出だしは好調のようだ。今後天理に行くときは車ではなく近鉄特急に決まりだね!

その夜にはまた別の天理教の方と会って食事をしたのだが、それもまた追々。$天理教社会学研究所
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あけましておめでとうございます。

年末に「今年の総括」と「10大ニュース」を書いていたが、アップまで至らなかった。年末はバタバタしながらもウェブ環境のないところにいたため音信普通で色々な方に迷惑をかけた。申し訳ない。

さて、私の仕事始めはもうスタートしているのだが、今日出向予定の勤務地はまだ冬休みである。そのため今日は特別に休みである。スタートダッシュが苦手な私としては正月休みからのリハビリ復帰のようで嬉しい。しかし昨晩、知り合いの天理教人に天理の「お節会(おせち)」のお誘いを受けたので、これから天理に向かおうと思う。何より楽しみなのが近鉄特急に乗ること。近鉄特急に乗るときは、いつも私が幼少の頃を思い出す。祖父と一緒に乗ったことを思い出す貴重な原風景なのだ。今年初のプチ旅行だ。さぁ天理へ行ってきます。

師もまた走る

本日今年初めて「よいお年を」と職場で声をかけた。そうか、そんな季節だな。仕事上、外に出るのは通勤中の朝と晩だけであるので季節感に疎くなる。この素晴らしい日本の四季の移ろいを味わおうとしていない自分が悔しくなる。今日が冬至ということも夕方になって気付いた。とはいってもやはり師走も終盤である。「今年中」に仕事をできるだけ仕上げようと思うが、「やっぱり来年でいいか」という悪魔の囁きも聞こえる。そんな中、ようやく大きな仕事を一つ脱稿した。昨年まで関わっていた機関で、紀要を書かなくてはいけなかった。私一人だけであればサクサク書いてしまうのだが、共同で書く必要があった。そのため夏頃から打ち合わせやら、校正やらと小骨がずっと刺さっていた。やっと終わったぜ、ふー。年末年始は少し音信不通になりますが、探さないでね。

以前にも言ったんだけど、今月に入って激しく呟いている。春くらいに初めて友人に呟くように勧められたんだけど、夏くらいにそのままフェードアウトしてしまった。そしたらまた別の友人から「再開しましょう」と提案され再開することになった。今回は長続きしそうな感じがする。今回のほうが楽しい。そんなことよりもtwitterで「天理教」と検索すると大変おもしろい。何がおもしろいって「さっき天理教に勧誘された」「天理教を見た」という呟きが多いことである。反応としては好意的、拒否的など様々である。

次に写真にある本を読む機会があった。「おーこれが噂の本か」と手にとってみるが、私一人ではなかったのでじっくりと読めなかった。「はじめに」というところだけ読んでみた。そこでは編者が天理教里親の考え方として「拡大家族」という概念を用いていた。天理教の教会という中で血縁にこだわらない大家族=拡大家族ということから天理教の里親の有意義性を記していた。私はここではたと固着してしまった。「ん?拡大家族?どこかで聞いたことあるな」と。そして記憶を辿っていく。それは思想家の内田樹氏の「拡大家族論」のパクリではないのか?と。彼はレヴィストロースの「親族の基本構造」を援用しつつ、父親ー子どもの二者関係に閉鎖しない、伯父ー父親ー子どもの三者関係が子どもの爆発的な社会性の向上になると説いていた。その拡大家族論の盗用ではないだろうか。まぁどっちでもいいんだけど。天理教の里親ついでに、このブログを通して頂いたメールに返事をしたい。「カインは天理教の里親活動に反対なのですか?こんなに素晴らしい活動に反対する気がしれません」というメールを頂いた。ありがとうございます。それでは答えます。天理教の里親活動には大賛成というか、積極的に応援しております。素晴らしいと思います。しかし上記に挙げた著書でも書いてありましたが、天理教の里親活動を大々的に、賛美的に広報するがあまり、若い教会の人も里親に身を乗り出している傾向があるようです。しかし大々的に、賛美的に広報されたものは所詮「はやり」です。そして、オトナの作法として「はやり」に乗ることほどリスクを伴うものはないと感じるのである。そういった意味では天理教の里親活動には賛成ですが、それを布教活動、政治活動として利用する姿勢には積極的に反対しています。理由は2つあります。1つは天理教の活動は里親がすべてではないこと。2つは里親の肯定的側面しか伝えられていない。以上です。上記著書には全国の里親の1割は天理教関係者であるとのこと。これは大変素晴らしいと思う。しかしその1割の背景には流行以前から、現場での汗と涙の蓄積であることは何の疑いも挟まない。しかし「はやり」によって「じゃ俺も布教に手詰まりを感じているし里親やろっかなー」と思われるように賛美的で「いけいけどんどん」ではいけないということである。「はやり」は、一方で道徳の欠如を招くのは社会の常である。「大変なのは知っているぜ」と反問されそうだが、信念や情熱、教義だけで乗り越えられるものでは決してないはずである。ホリエモンや村上ファンドが脚光を浴びたとき、個人株主が劇的に増加した。「俺も株で儲けよう」と。その結果、自由経済の倫理性が歪めんられ司直が介入することになり、株券が一瞬にして紙くずとなったことを経験した人は少なくなかったはずである。自由市場経済に司直が介入することはすでに自由ではなくなっている。今年9月にも円高で自由マーケットに日銀が為替介入したときに欧米先進諸国が嫌悪したことは正にそういうことだと思う。よく知らないけど。つまり天理教が里親を前面に出すことで里親における天理教の存在意義は大きくなるだろう。同時にその倫理性が歪められるか、減じられることが危惧される。天理教の里親論ではまったく扱われないが、里親制度では大きな助成金や補助金が動いている。また児童自立支援施設での職員の虐待も報告されてりう。そういったリアルなダークサイドにきっちりと向き合わず、「情熱や熱いハート」だけ里親を迎合してしまうのでは、いつ事件化してもおかしくない。天理教が里親を前面に出し天理教=里親という図式を定着させてしまうと事件化したときに天理教のダメージは計り知れないところまで低下するかもしれない。私は1割の汗と涙を無駄にしないためにもそっと応援すべきだと思う。だから、私は今の天理教の里親迎合政策を積極的に批判する。