このブログで取り上げるテーマで生命倫理に占める割合は大きいつもりである。これまで臓器移植に関する天理教の考え方を俎上に上げてきた。天理教は臓器移植に賛成なのか、反対なのか。過去の「みちのとも」(内部向け月刊誌)や天理時報においては、教理上反対とするコンテキストが多い。天理教が臓器移植に反対とする根拠は「人間の体は神からのかしもの・かりもの」という教えである。これは人間の体は神様から貸借物であるということである。借りているものは、返さなくてはいけない。だから傷をつけてはいけないし、もちろん又貸しはいけない、という貧困で原理主義的で直線的な論理展開であったと思う。しかし一方で、天理教傘下の病院では臓器移植の認定を行政から受けるているなど「言ってることと、やってることが違う状態」が発生している。
臓器移植に限らずに、いま流行りのiPS細胞や、尊厳死、出生前検査など、生命倫理や命に関する課題は今後も大きくなっていく。特に遺伝分野は、今後産業の拡大が予想されている。これらは多分に宗教的命題を孕んでおり、命を物象化、商品化させる難しい問題である。天理大学の諮問機関の天理やまと文化会議が、生命倫理に関する議論をしているようだが、結論は「難しい問題だから考えねば」というところで毎度思考がストップしている。
私は、こういった天理教の中途半端な姿勢を適宜批判してきた。なぜなら、こういった課題を取り上げるたびに「じゃあどうしたらいいの?」という現場の読者から質問をいただくからである。天理教は何も回答しないが、末端の信者からは「どのように教理を解釈したらいいのか」と意見を求めらることがある。外部の私が回答できるわけがない。天理教が臓器移植に反対の立場だからといって、なかなか信者にその原理主義で固まった理路を提示できない。それでは時代に逆行するだけでなく、「かしもの・かりもの」という教えがあるから臓器移植に反対と言っていては、「陽気ぐらしと整合性がつかない」という当たり前の違和感が信者たちにあるからだろうと察する。
私は天理教の八方美人な思考停止姿勢を批判してきたが、ここにきて「カインは解決策を持っているのか?」と批判の矛先が私の方に向いてきた。もちろん、私は天理教の専門家ではないし教理を理解していないので答えなどもっていない。しかし天理教の出版物等を読む限りにおいて、「大きく違う」と感じることがある。
私の業務においても倫理的判断を求められることは多い。むしろ判断をすることが私の仕事であるといっても過言ではない。その経験から言えば、天理教の生命倫理に関しては、それほど難問ではないと思っている。むしろ簡単な問題だと思っている。簡単な問題を天理教が結論を出せないのは、大きな勘違いをしているか、組織構造に問題があるのだろうと思う。そのため簡単な問題が、非常に世界的難問になってしまう。
大きな勘違いをしているというのは、何も天理教が生命倫理学を構築する必要はないということである。そんな頭脳は天理教にはない。役割でもない。倫理的課題といっても、枝葉に惑わされてはいけない。生命倫理を構築するのは、そのアカデミックなトレーニングをうけた医療倫理学者や哲学者が考えることであり、市井の一医者や特定の宗教者が判断することではない。そんな奴らに誰も回答を求めていない。議論することは自由であり何も言わないが、天理教の論点は”そこ”ではない。
枝葉に惑わされれば、「これはどのように教理上判断すればいいのだろうか」という問題が山ほどでてくる。しかし、現場ではそれを判断とは言わない。毎度一から判断していては、時間もかかり、その判断は経験主義的になり信頼性はない。現場で必要な判断とは、どれだけ基準に近い判断を導き出せるかということである。大切なのは判断の基準を作ることである。つまるところ、天理教の判断の基準は何かということである。具体的に言うのであれば、天理教が議論すべきことはiPSの倫理的課題ではない。「天理教は今後社会とどのように付き合っていきたいのか?」ということに尽きる。それらは天理教の専門家にしかできないが、しかし私が見る限り、これらを議論している痕跡はない。
天理教が今後、社会とどのように付き合っていきたいのか。これら判断の基準が提示されれば、どのように論理展開すべきかは自ずと判断できる。むしろ論理展開など、ある程度文学トレーニングを受けていれば例え反対の立場であろうと、何とでもできる。では天理教にその判断の基準が出せるのかというと、現状ではそれはできないと思う。その天理教という船がどこに向かうのかは、船長を中心とした方向性を決定できる幹部たちにしかできない。船長以下は、船長が示した方向性に舵をきり、帆を上げるだけなのである。
以前、ある地方行政の町おこしのプラン策定に関わったことがある。そこでは「どうすれば町に人が増えるだろう。どうすれば町が活性化するだろう」という議論が中心である。しかし行き詰まるところは毎回同じであり「町はどうしたいのだろう」ということであった。それは第三者委員会がいくら議論しようとも、方向性を決めるのは町長や町議会でしかない。民意の付託を受けた町長が、今後町を福祉行政に力を入れるのか、働き世代の人口増加を望んでいるのか、それが決まっていない中で議論をしろと言われてもお金もない、支援もない中で判断ができない。技術的な問題よりも、まずは当事者たちが「今後どうなりたいか」ということでしかない。ゴールさえあれば、そのプラン策定や予算配分は自然に構築できる。
枝葉を議論すると、行き着く先は、自ずと同じ壁にぶち当たる。その壁とは、リーダーや幹部がどう考えているのかということである。リーダーがこの舟をどこに向かわせたいのかが決まれば、それ以下の人間は、そこに向かって論理をビルドアップして道筋を作る。生命倫理に関して、天理教の思想を突き詰めれば、現代に存在する社会的合意を判断の基準とするのか、現代社会が合意しようと天理教のオリジナル性を優先していくということである。やはり話はそこまで難しくない。それは医学や哲学、宗教学、天理教学の判断ではない。リーダーを含めた幹部たちの判断である。社会に合わせるか、オリジナルを作っていくか、判断基準の軸足をどこに作るのかということである。
そして、私は天理教の場合、社会的にも歴史的にもオリジナルな論理展開を創ることは原理的に不可能だと思っている。それは天理教のゴールが陽気ぐらしという