週刊朝日が橋下大阪市長の出自に関する記事について方々で大批判を受けている。私もコンビニで週刊朝日を買おうと思ったが、すでに売り切れていたので実際の記事は読めていない。なのでニュースからしか情報は得ていない。http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/121018/waf12101817330030-n1.htm
この件について、私が強く意識したことはガバナンスでも、表現の自由といった法律論ではなく“時代性”である。橋下市長と私が同じ意見かは分からないが、人権については島国であり同一民族だけで国家が構成されている日本人は特に意識が低いと私は思っている。私自身も含めて。肌の色や血だけで人の優劣が決まるというのは欧米先進国では議論すら必要ないという国民的合意形成が達成されている。それは長年議論を尽くしてきて論理がブラッシュアップしてきたということではない。差別という苦しみや悲劇が人の優劣とは違うレベルにあるということが涵養してきたのだと思う。そこにあるのは有効な論理ではなく、とてつもない大勢の時間と汗が費やされた歴史なのである。そういった意味では週刊朝日の記事は、少しずつ重ねてきた先人の知恵をひっくり返すほどのものかもしれない。近年、私はテレビや新聞も含めて、メディアの劣化は著しいと思っている。そして行き着いたのが週刊朝日だと思う。週刊朝日ではなくても時間の問題であったかもしれない。同時に、この事件は天理教においても対岸の火事ではないと思っている。
天理教において、その宗教組織的地位は世襲制である。天理教の後継形態のスタンダードとして本部の先生の子は、本部の先生になる。会長の子は、会長になる。信者の子は、信者になる。後継者が不在など、もちろん例外もあるが、天理教の後継形態のドミナントは「血」である。天理教で「血」は「理」と表現される。「血」と「理」は=ではないが≒である(らしい。私は=だと思っている)。この点について議論する場合に前提として、天理教は公的機関ではないということである。なので天理教内に人権問題が存在するという意味ではないし、そういう議論は今回は成り立たない。今回、俎上に挙げたいのは、「理」の適否や教義解釈ではない。天理教が衰退していっている要因に、天理教人は人権意識が低いからではないか?もしくは天理教の世襲的な組織形態の維持が社会から敬遠されているからではないか。ということをテーマにしたい。
私が天理教人に聞いてみたいことは「理」という概念が、排他的機能として作用しいることはないだろうかということである。「血が流れている」ことを天理教では「理がある」という。それは、言葉を替えると「理の有無で人を区別している(差別ではない)」ということである。また天理教には「だめの教え」という言葉もある。この場合「だめの教え」というのは「最終的、究極的な教え」という意味である。これは言葉を替えると「天理教以外は本質ではない」という解釈もできる。昔教会のご夫人は「天理教がキリスト教とかイスラム教をつくった」と言っていた。http://www.tenrikyo.or.jp/jpn/?page_id=2188
今回は、こういった教えの適否を問うことはしない。しかし、こういった教えや制度が社会にどのように受け入れられるのかということは今後の天理教の趨勢を検討するのに値するだろう。天理教は、日本でも世界でもマイノリティーの宗教団体だが、今後天理教が世界宗教として目指していくのであれば、このあたりの解釈はきちんと整理しておかなければいけないだろう。もし今後天理教が世界宗教となったときにイスラムやキリストに対して「天理教は『だめの教え』であるから、天理教以外は本質ではない」と言ってしまえば、たちまち宗教戦争になることは想像に難くない。
天理教人にとって「理」と「血」は違うことと理解できるかもしれないが、その違いは一般の人には分からない。天理教に触れてきた私にもさっぱり分からない。その違いを一般の人にも分かるように説明していないのは、天理教研究者や天理教幹部の怠慢ではなかろうか。つまるところ「天理教は理という概念を用いて、出自によって天理教内での地位を区別している」と指摘される可能性もある。また世界中が豊かになるにつれ人権意識が高まっていく中で、「理」などの世襲制や、「だめの教え」などの排他的教義を持っていくことは社会に受け入れられる組織としては心許ない。
日本でも常識とはかけ離れたところで過激なことをいう政党や団体がいるが、それらはマイノリティーという立場だからそうできるのかもしれないし、同時にマイノリティーとしての役割なのかもしれない。また天理教は行政機関でも、企業でもない組織である。かといって、それらを信教の自由の下に任意で入会できる宗教団体であるから問題ないとして一笑に付すこともできないと思う。個人商店が代々と一族で後継されていることに問題がないように、代々息子たちに継がせることは問題ないと言えるかもしれない。しかし「理」という概念を用いて、天理教全体で世襲制に同意署名することは、問題ないとは言えないのではないか。また憲法14条の解釈から、「天理教の「理」は区別であり、差別ではない」ということもできる。区別であれば14条に抵触しないということもできる。
憲法14条「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」
しかし、「理」があるからといって地位は保障されても、末端の教会は社会生活は保障されない。つまり「理」があるからといって、得ではない場合もある。具体的には無理矢理に教会を継ぐことを強制されている若者や、任意性を装って低賃金で社会保障もないまま青年をさせられている若者(私の周りに山ほどいる)に対して、区別という表現で済むのかという問いや、天理教人であっても「理」のあるものは安定的地位が約束されているということも言えない。つまり「理」によって地位も収入も老後も安定が保障されているのは、天理教本部に役職を置く幹部たちでしかない。「理」によって得をしている者、苦しんでいる者もいるということだ。これが問題をより複雑にしている。この件を論じるには慎重に末端教会や大教会の内情を見なければいけないだろう。
マジョリティになるということは、社会的責任が付随する。逆に言えば、マイノリティーであれば、社会的責任は表面化しにくい分、それほど俎上に挙げられることは少ない。そう考えると天理教も社会的に容認されたいのであれば、古典的な制度や教義は整理する必要
があるのではないか。そうでないと今後、天理教組織として社会的責任を問われることがあるだろう。
朝日新聞は人権や差別に対して、他誌よりも厳しい社風を持っている。しかし、今回の事件でそれらは会社の“本音”ではなく、人当たりのよい金儲けのツールであることは白日の下にさらされることになった。天理教も陽気暮らしをツールとして、出自によって立場や進路を規定する時代遅れのやり方を改めなければ、いつの間にか反社会的組織となっていても手遅れになる危険性がある。個人的にいえば、私は陽気暮らしは人権を包含していると思っている。陽気暮らしという教えがある以上、天理教人は人権問題においても世界の先端を走ってほしいと思うのだが、天理教の組織自体が、平成とは思えないほど保守的で時代遅れの構造なのが残念である。
色々言ったが、私が一番言いたいことは「理」の概念で組織的に世襲制を容認している限り、天理教は社会から冷めた目でみられ続けるだろうということである。
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