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天理教を信仰することのメリット

先週に天理教本部でおこなわれた天理教青年会総会に参加したことを書きたい。知り合いの天理教人と3人で中庭と言われる場所の端っこの方で見ていた。中央にいる集団には、怖くて近寄りがたかった。式次第が順調に進められていたが、私は天理教人と色々な話ができ、濃密な情報やリアルな天理教人の思いを収集することができた。そのやりとりの中で私が「天理教を信仰するメリットって何だろう」と呟くと、すかさず「天理教人が、それを一般の人に説明できないことが大きな問題だ」という教会長の洞見を得た。天理教の垂直的な組織構造は、下部成員の思考停止を招いている。そのために、下部成員は自らの頭で考えることを放棄してしまったということである。

天理教のメリットという言い方は、棘がある。天理教の人にとってみてれば、信仰をメリットで語ることの抵抗もあるだろう。信仰は生き方や哲学であって経済用語ではない、と。しかし、天理教を知らない人が天理教に接するときに「天理教を信仰することで、人生にどのような善きことがあるのか」という問いは自然な態度である。思えば天理教も、立教当時は「病だすけ」という人間的メリットを契機とし、布教戦略の本命に置いていた歴史がある。その後に、いろいろな抽象的教義の肉付けがおこなわれたのだろうが、「病だすけ」というメリットがなければ、天理教がここまで巨大化することはなかったであろう。

「天理教のメリット」を問うたところで、自分の言葉で説明できる天理教人は私は数人しか知らない。それ以外の天理教人の多くは、センセイから拝借してきた抽象的な言葉を同語反復しかしない(できない)。青年会総会では天理教のトップである真柱の講演もあった。その内容は非常に抽象的・歴史的なものであった。しかしトップは、一定の方向性を示すことが仕事であり、抽象的な話でよいのだと思う。しかし、それを聞いてる下部成員たちが、真柱と同じような言葉を反復しているようでは、聞いている私は天理教という船がどこに向かっていくのか想像もできなかった。つまり、青年会総会の後に、詰所でおこなわれた決起集会のようなものも聞いたが、真柱が話した以上に具体性があったものや、オリジナル性をもったものはなかった。具体性といえば、「来年までに、おさづけの拝戴者を○名いただく!」というお決まりの形骸化した数値目標しかなかった。結局、人数かよ。以前、自民党の安倍さんが「美しい日本にする」と言った。もし、これを政策実行部隊である官僚や行政職員が言ったとしたら、私たちは腹が立つだろう。「お前が言うなよ」と。トップはトップの、下部は下部の仕事があるだろうが、天理教では真柱が何人もいるのだろう。

数年後には天理教は節目を迎えるようだ。それは今後の天理教がどうなっていくのかの大きなターニングポイントであると思う。そのときまでに天理教人から天理教を信仰するメリットを天理教人の言葉で聞いてみたいものだ。陽気ぐらし世界の建設というぼんやりした言葉ばかりは、もうお腹いっぱいだ。

http://www.tenrikyo.or.jp/jpn/?p=6011

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

天理教青年会総会に行ってきた


土曜日はいつも仕事なのだが、昨日は仕事が休みであった。そのことを天理教人と話しているうちに27日は天理教青年会総会があり、参加してはどうかという話になった。特にプライベートでもすることがないので、フィールドワークがてら一人で天理に向かった。
あいかわらず天理市内は、行事がある日とない日では渋滞の混み具合がまったく違う。やっと駐車場に止めて待ち合わせの神殿中庭に向かった。中庭に入る際に「参加カードを書け」と指示され、書こうとしたが、記入しなければならない項目のほとんどが個人情報であることに驚いた。周りをみわたしたが、個人情報の取り扱いについて注意や説明がない。
先日も職場から、ある会社に商品の問い合わせをしたときに会社名しか言っていないのに、「○○会社の○○様」とメールで返信されたことに驚いたばかりである。
同じように天理教の情報管理はどなっているのだろうか疑問である。集められた個人情報が宗教活動に利用されては困ると思い、もちろん私は参加カードを書かずに中に入った。入口では、参加カードと引き換えに何かを貰えるそうだが、私は貰っていない。残念。
そういえば、思い返せばこれまでに住所や連絡先を教えていないのに、天理教人から郵便物や電話がかかってくることがあった。間違いなく、私の了解なく私の個人情報が天理教の組織内で流通しているのだろう。過剰な個人情報保護には私は基本的に反対の立場だが、自分が対象になってみると、正直に言って怖い。せめて「個人情報取り扱いについて」というエクスキューズくらいは法人として明記すべきなのではなかろうか。青年会総会の参加カード記入の場所に、そういった文書があったのかもしれないが、私は探したが見当たらなかった。
一番怖いと思うのは、一大組織において、こういった倫理感覚がスルーされていることだろう。週刊朝日ではないが、誰も「これってダメなんじゃないの」と言わない(言えない)組織は、かなり将来的にリスクが高いのではないだろうか。週刊朝日は攻撃的姿勢で販売数獲得を目指し、天理教は受容的姿勢で信者数獲得を目指している。その際に本当に大切な節度や倫理観を忘れてしまっては本末転倒ではないだろうか。その結果が週刊朝日なのだろうけど。

今回のブログに対して「いや個人情報の取り扱いについてエクスキューズがあった」ということであれば、「探しても見つけられない場所にあるようでは意味がない」と付け加えたい。

天理教社会学研究所

週刊朝日の事件に思うこと

週刊朝日が橋下大阪市長の出自に関する記事について方々で大批判を受けている。私もコンビニで週刊朝日を買おうと思ったが、すでに売り切れていたので実際の記事は読めていない。なのでニュースからしか情報は得ていない。http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/121018/waf12101817330030-n1.htm

この件について、私が強く意識したことはガバナンスでも、表現の自由といった法律論ではなく“時代性”である。橋下市長と私が同じ意見かは分からないが、人権については島国であり同一民族だけで国家が構成されている日本人は特に意識が低いと私は思っている。私自身も含めて。肌の色や血だけで人の優劣が決まるというのは欧米先進国では議論すら必要ないという国民的合意形成が達成されている。それは長年議論を尽くしてきて論理がブラッシュアップしてきたということではない。差別という苦しみや悲劇が人の優劣とは違うレベルにあるということが涵養してきたのだと思う。そこにあるのは有効な論理ではなく、とてつもない大勢の時間と汗が費やされた歴史なのである。そういった意味では週刊朝日の記事は、少しずつ重ねてきた先人の知恵をひっくり返すほどのものかもしれない。近年、私はテレビや新聞も含めて、メディアの劣化は著しいと思っている。そして行き着いたのが週刊朝日だと思う。週刊朝日ではなくても時間の問題であったかもしれない。同時に、この事件は天理教においても対岸の火事ではないと思っている。

天理教において、その宗教組織的地位は世襲制である。天理教の後継形態のスタンダードとして本部の先生の子は、本部の先生になる。会長の子は、会長になる。信者の子は、信者になる。後継者が不在など、もちろん例外もあるが、天理教の後継形態のドミナントは「血」である。天理教で「血」は「理」と表現される。「血」と「理」は=ではないが≒である(らしい。私は=だと思っている)。この点について議論する場合に前提として、天理教は公的機関ではないということである。なので天理教内に人権問題が存在するという意味ではないし、そういう議論は今回は成り立たない。今回、俎上に挙げたいのは、「理」の適否や教義解釈ではない。天理教が衰退していっている要因に、天理教人は人権意識が低いからではないか?もしくは天理教の世襲的な組織形態の維持が社会から敬遠されているからではないか。ということをテーマにしたい。

私が天理教人に聞いてみたいことは「理」という概念が、排他的機能として作用しいることはないだろうかということである。「血が流れている」ことを天理教では「理がある」という。それは、言葉を替えると「理の有無で人を区別している(差別ではない)」ということである。また天理教には「だめの教え」という言葉もある。この場合「だめの教え」というのは「最終的、究極的な教え」という意味である。これは言葉を替えると「天理教以外は本質ではない」という解釈もできる。昔教会のご夫人は「天理教がキリスト教とかイスラム教をつくった」と言っていた。http://www.tenrikyo.or.jp/jpn/?page_id=2188
今回は、こういった教えの適否を問うことはしない。しかし、こういった教えや制度が社会にどのように受け入れられるのかということは今後の天理教の趨勢を検討するのに値するだろう。天理教は、日本でも世界でもマイノリティーの宗教団体だが、今後天理教が世界宗教として目指していくのであれば、このあたりの解釈はきちんと整理しておかなければいけないだろう。もし今後天理教が世界宗教となったときにイスラムやキリストに対して「天理教は『だめの教え』であるから、天理教以外は本質ではない」と言ってしまえば、たちまち宗教戦争になることは想像に難くない。

天理教人にとって「理」と「血」は違うことと理解できるかもしれないが、その違いは一般の人には分からない。天理教に触れてきた私にもさっぱり分からない。その違いを一般の人にも分かるように説明していないのは、天理教研究者や天理教幹部の怠慢ではなかろうか。つまるところ「天理教は理という概念を用いて、出自によって天理教内での地位を区別している」と指摘される可能性もある。また世界中が豊かになるにつれ人権意識が高まっていく中で、「理」などの世襲制や、「だめの教え」などの排他的教義を持っていくことは社会に受け入れられる組織としては心許ない。

日本でも常識とはかけ離れたところで過激なことをいう政党や団体がいるが、それらはマイノリティーという立場だからそうできるのかもしれないし、同時にマイノリティーとしての役割なのかもしれない。また天理教は行政機関でも、企業でもない組織である。かといって、それらを信教の自由の下に任意で入会できる宗教団体であるから問題ないとして一笑に付すこともできないと思う。個人商店が代々と一族で後継されていることに問題がないように、代々息子たちに継がせることは問題ないと言えるかもしれない。しかし「理」という概念を用いて、天理教全体で世襲制に同意署名することは、問題ないとは言えないのではないか。また憲法14条の解釈から、「天理教の「理」は区別であり、差別ではない」ということもできる。区別であれば14条に抵触しないということもできる。

憲法14条「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」

しかし、「理」があるからといって地位は保障されても、末端の教会は社会生活は保障されない。つまり「理」があるからといって、得ではない場合もある。具体的には無理矢理に教会を継ぐことを強制されている若者や、任意性を装って低賃金で社会保障もないまま青年をさせられている若者(私の周りに山ほどいる)に対して、区別という表現で済むのかという問いや、天理教人であっても「理」のあるものは安定的地位が約束されているということも言えない。つまり「理」によって地位も収入も老後も安定が保障されているのは、天理教本部に役職を置く幹部たちでしかない。「理」によって得をしている者、苦しんでいる者もいるということだ。これが問題をより複雑にしている。この件を論じるには慎重に末端教会や大教会の内情を見なければいけないだろう。

マジョリティになるということは、社会的責任が付随する。逆に言えば、マイノリティーであれば、社会的責任は表面化しにくい分、それほど俎上に挙げられることは少ない。そう考えると天理教も社会的に容認されたいのであれば、古典的な制度や教義は整理する必要
があるのではないか。そうでないと今後、天理教組織として社会的責任を問われることがあるだろう。

朝日新聞は人権や差別に対して、他誌よりも厳しい社風を持っている。しかし、今回の事件でそれらは会社の“本音”ではなく、人当たりのよい金儲けのツールであることは白日の下にさらされることになった。天理教も陽気暮らしをツールとして、出自によって立場や進路を規定する時代遅れのやり方を改めなければ、いつの間にか反社会的組織となっていても手遅れになる危険性がある。個人的にいえば、私は陽気暮らしは人権を包含していると思っている。陽気暮らしという教えがある以上、天理教人は人権問題においても世界の先端を走ってほしいと思うのだが、天理教の組織自体が、平成とは思えないほど保守的で時代遅れの構造なのが残念である。

色々言ったが、私が一番言いたいことは「理」の概念で組織的に世襲制を容認している限り、天理教は社会から冷めた目でみられ続けるだろうということである。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

植田義弘著「中山みき 秘められた大預言」発売記念に寄せて

複数の読者より天理教みさとブログを運営されている植田義弘先生がご著書を発行されたと聞いた。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/6251/chirasi.html

私はまだamazonで発注したばかりで読んではいない。紹介文を読む限りでは、私の苦手な「おふでさき?」(教典)の引用が載っているが、「おふでさき」に親しみのある天理教人なら、読み応えがあるだろうと思う。今回は、販促依頼されているわけでもないが、勝手に紹介したいと思う。

この本の発刊に際しての植田先生のインタビューもYouTubeにアップされている。
http://www.youtube.com/watch?v=oM12CKI3Clc

私がまだ読んでいない本を紹介することは非常に珍しいことだと思う。その理由を述べる。植田先生は常々ブログをアップされている。そのブログで私は大変勉強させていただいているため信頼を寄せている。天理教の出版物(天理教の子会社である天理教道友社発行の出版物)を読めば、そこには天理教の素晴らしさが溢れている。同時に、そこには見聞を広げるような信頼は得られない。天理教の出版物をダメだとは言っていない。むしろ、特定宗教団体の出版物としては自然な姿勢であるとも思う。しかし、それでも天理教の信者数は減り続けていることに変わりはない。
私が信頼を寄せる天理教人に対して「大丈夫か?信者が減ってきて将来どうすんの?子ども養っていけるの?年金も払ってないんでしょ?」と私が心配しても、当の天理教人は「神様にもたれていればなんとかなる」と牧歌的である。部外者である私の方が天理教人よりも天理教の危機感を感じているという不思議な構造である。それでも、天理教の信者が高齢化になってきて減少している中で、誰もその原因究明や対策を打ち出しているものはいない。いても居酒屋の酔っぱらいの会話の閾を出ない。
そういった点に真正面から取り組んでおられる数少ない方が植田先生だと私は思っている。理論的背景や、問題点を鋭く指摘されている。それはこれまでの先生のブログの内容を見てもわかる。先生の思考に触れると、自分の天理教観がぐいっと引き上げられる体験を覚える。それは天理教道友社の出版物では得られない。そういった意味で、私は先生が天理教の出版社以外から、著書として思考を表現されることが、すでに素晴らしいことだと思っている。
もう一つ。これまでのブログから、私と植田先生には意見の一致が見られないところもある(私なんかと比較して申し訳ないが)。しかし、植田先生のようにきちんと思考し、自らの言葉で表現できる者を天理教内で見た事がない。「自分の思考を肯定する論文ばかり読んでいてはだめだ。自分の思考を批判する論文を読まないと自己実現は前進しない」と私は学生時代に学んだ。そういった意味で、自分とは異なる思考や天理教の今後に触れることができる貴重な方だと思う。確かに天理教人にとっては耳の痛い話も多いかと思う。特に現在ブログでアップされている「「点と線」のナゾ解き」は天理教人の多くが感じていることだが、なかなか言葉にできない天理教の厳しい現実が書かれているのではないかと思う。
http://tenkoku0805.blog9.fc2.com/blog-entry-223.html
表現の自由において、少数意見を大切にしたいと思う。特に宗教団体などの周りが見えなくなる思想形態は、リスキーシフトに陥る危険性を肝に銘じておくべきであろう。

久しぶりに天理時報を読む

読者から天理時報の「視点」についてコメント求められた。既報の通り、私は天理教の新聞である天理時報を購読していない。今年春までの1年間か2年間くらいは、知り合いの天理教人が勝手に我が家に届けてくれていた。しかし今は読んでいないので内容も分からない。

天理時報の視点というコラムは、天理教幹部による社説のようなものである。天理時報は毎週?のように発行されており、毎回時事に関してのコメントが載る。天理教にしては非常にスピード感がある。天理教幹部による社説のため、体裁としてはあくまで個人的見解のようである。しかし、書き手の名前は伏せられている。つまり、読者にとって書き手の主体は「○○先生が言っていた」ということではなく、「天理時報に書いてあった」ということになる。それは必然的に 「視点」=天理時報の見解=天理教の総意 ということになる。

天理時報を社説といってしまうことに違和感がある人も多いと思う。なぜなら社説とは、時事に対する社の見方である。しかし「視点」が天理教の見方とは天理時報を読む限り思えないからである。つまり天理教の視点は、天理教の「思考」や「見方」ではなく「説明」にすぎない。

小学生の教員をしている知り合いから聞いたことだが、小学生に読書感想文を課すと、ほとんどが読書感想文ではなく読書説明文になってしまうということである。つまり本の主人公やスト-リーの説明ばかりで、「作品を読んで、どのように感じたのか、どのように考えたのか」といいう読書感想文の趣旨を理解できないということである。

天理時報の「視点」においても、全体の9割ほどが時事の説明になる。例えば、今回私がコメントを求められた「新しい出生前診断法をめぐって(9月16日号)」http://doyusha.jp/doyu/top/?page_id=13866を見ていただきたい。出生前診断法についての天理教的見方は、最後の2段落しかない。「視点」での大部分は天理時報以外の新聞・テレビなどのメディアで詳報されていることを掻い摘んで説明しただけである。より踏み込むのであれば-といっても以前に何度も指摘していることだが-最後の2段落も「親神様の教えに沿ってやりましょう」といういつも通りの予定調和の貧困なコメントしかない。読者が知りたいのは「出生前診断をどのように信者に説明するのか?」という実際的な視点ではなかろうか。

ここを踏み込んでしまうには「視点」の字数では説明できないことは理解できる。しかし既存の字数ですら何も天理教的な匂いを醸し出せないようでは社会的に何も意味がない(意味がない時点で天理教っぽいけど)。
前に天理教人の嘆きを聞いたが、ここ数年の天理教の出版物の動向として外部の知識人や有名人のインタビューや記事を掲載することが多い。すきっぷ?だったかな。これに対して内部である天理教人の溜め息は大きいようである。端的に申し上げるのであれば、天理教の思想的土台をきちんと築かずに外部評価だけを求めることに、どのような経営戦略があるのだろうか。

私はこのブログを開設してから一貫して「天理教の見方」を求めているが、天理教を覗けば覗くほど、中身がからっぽであることに気付かされる。これは天理教の大きな特徴だと思うが、天理教を知らない専門家を呼ばずに(そんなことはNHKで十分である)、天理教幹部や天理教研究者にしっかりと思考させ、発言をさせてはどうだろうか。何度も言うが、今回の出生前診断などの生命倫理を巡る考えこそ、宗教が最も大切にしなくてはいけない議論である。むしろ宗教の一番大切な仕事は「いのち」をどのように考えるのかではないのか。天理教の「いのち」に対する考え方は、天理教を知らない医学者や哲学者では不可能である。こんな中途半端なことばかり掲載して天理時報の記者にはジャーナリストとしての矜持はないのだろうか。天理教は、混迷する社会に対してどのような道筋をつけたいのかさっぱり分からない。私の読解力がないだけだろうけど。

ということで、今回コメントを求められた「新しい出生前診断法をめぐって(9月16日号)」についてはコメントのしようがない。おわり。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

青年さんは運転手


前回のブログで、何人かの方がコメントを残してくれた。私の意見の足りないところを補足・修正してもらっている。感謝したい。一方で天理教独特の用語が私には分かりません。各系統に世話役の先生を付ける“世話人”は知っているのですが、“修理人”とは何でしょうか。また修理人に対するお礼などの相場も教えていただけると幸いです。修理人とは、以前に私が聞いた各教会が変なこと(異端)をしていないか、公安のような監視役のことでしょうか。
先生へのお礼について、私が天理教人から聞いた中では各教会にくる先生にはお礼とお車代(交通費)が必要と言っていました。お車代は大教会の車で来ても実費プラス1万円くらい渡すと聞いたことがあります。もしよかったらメールでもいいので誰か教えてください。

先週末に、昔一緒に働いた同僚と話をした。一緒に働かなくなってからは、年賀状の形式的やりとり以外はまったく疎遠になっていた。今回突然連絡をもらい驚いた。なんと病気になり仕事を辞めてしまったようだ。病気は大病ではなく、治療と休養で回復しつつあるようだ。仕事を辞める必要などなかったが、”区切りをつけたい”ということで退職してしまった。そして彼が次にやろうとしていることは出家である。そのために今は関西地方の山間部の由緒ある寺で修行をしているようだ。
どんな生活かというと、食事は精進料理で夜は早く寝て、朝日よりも早く起床する。食事、動作、作務、禅すべてに決められた作法や型がある。最初は、決められた型を覚えるのに必死だった。やっと型を覚えたら、次に待っていたのは徹底的に自分と向き合うことである。これが以外に難しいということである。作法というのは無になる空間のための儀式(スイッチ)に過ぎない。本質は、型にあるのではなく、型の中にあると言っていた。師匠は、ただ何も言わずに型の遂行だけを毎日繰り返すのみ。解脱や、悟りといった境地なんて想像もできないほど遠く、現在の自分がいかに雑念に捕らわれているかが悔しいほど身に染みていると言っていた。ただ、その雑念のおかげで私に連絡しようと思ってくれたことには感謝した。ゆっくり話す時間がなく、彼の成長を期待して頑張れよーといって別れた。雑念に塗れている私には到底無理だと、尊敬の念をこめて思う。

天理教では修行的立場に当たるのは住み込みの青年さんと言われる立場の方が近いのではないかと思う。しかし天理教における修行的な要素は何かと考えると、それは自己を鍛錬するという要素が乏しいと言わざるを得ないのではないかと思う。私が天理教の青年さんの実態を知らないだけかもしれないから偉そうなことは言えない。青年さんOBや、現在も青年さんをやっている若者を10人ほどは知っているつもりだが、その生活を聞いてきた中では、天理教の青年さんというものは、いわゆる、先生(理の親)と言われる人の「便利屋さん」でしかないのではなかろうか。青年さんの日々の用務の中にはおつとめの練習や布教という宗教行為もあるようだが、それらには明確な外在的目的があり、徹底的に自己と向き合うという誰にも邪魔されずに行わなければいけない内的成長を目指した過程が志向されているとは思えない。そこにあるのは、先生の意向(人間思案)が優先される小間使いでしかないのではなかろうか。私は青年さんに指示をする先生たちを見て「この青年を立派に育てるんだ」という気概や教育的配慮は感じたことがない。そういった建前があったとしても言動からは到底垣間見れない。少なくとも外で見ている私にはそう見える。もちろん反論もあろう。しかし、その反論が「雑用係だろうが、便利屋だろうが、人に言われたことを喜んで素直に通ることが大切なのだ」という域を出なければ反論にならない。なぜそれが反論にならないかというと、それは弱者の言葉ではないからである。百歩譲って、教祖がそのようなことを言っていたとしても、それは強者の我を通すものではなく、弱者の自発的意思に基づくものであるべきでろう。そうでないと陽気ぐらしの筋が通らない。その意味で、私は自らすすんで青年さんを志すものを否定はしない。しかし契約や権力で縛られた若者が、やらされている側面を看過しない。

もし、それらが青年さんの将来的可能性を飛躍させるための行為であるならば、もしくわ雇用契約として雑用の対価(給与)を支払われているのであれば私は何も言わない。しかし仏教とは違い、青年さんは飛躍するための羽をすでにもがれている。前回論じたお金の問題もそうだが、自己鍛錬という精神的側面でも同様である。つまり自己と対峙する時間的空間的な場は用意されず(むしろ天理教では、バカになれと強者に都合のよい思考制止を求められる)、「先生の言うことを文句言わずに従う(素直)」という先生の都合に合わせてすり替えられる。先生すらも容易に間違え、先生であっても修行の身であるという仏教(人間)では当たり前の常識が、天理教にはない。少なくとも私にはそう見える。

天理教本部でも、大教会でもいいが、行事があると青年さんが運転する車が並ぶ(天理教本部で言えば、祭典日の東側礼拝場の道路)。機会があれば、今度その写真でも撮ってこよう。どんなに近い距離でも車を使用して、青年さんが運転する車を待たし、並んで迎えられることが大教会長たちのステータスなんだろうか。
「おう、ちょっと駅まで送ってくれ」と言われている青年さんを何人も見てきたが、これを「ちょっと天理教っておかしいんじゃないか」と思うのは私だけではないと信じたい。

要するにお金ってこと3


天理教内で、幹部たちが高給をもらっていることは天理教内では有名な話のようだ。地方で熱心に信仰している天理教人は冷めた目でみているということである。天理教本部は、これが誤情報であるならば早めに訂正した方がいいと思うのだが、訂正しないということは、あながち間違いではないのだろうか。むしろ50万円以上かもしれないという情報もある。

先週末に会った天理教人に聞いたこととして、現在の天理教の年間収入は150億ほどのようである。それは10年前の約半分まで落ち込んでいるらしい。つまり、ここ10年で150億の減収である。話をしてくれた天理教人は「激減」と表現したが、他の天理教はどう感じているのだろうか聞いてみたいものだ。また現在も150億の収入があることについて、「150億も何に使われてるんですか?」と質問すると20億近くが天理市への寄付で、残りは学校や病院への回付金、あとは人件費と一れつ会でほとんどを消費しているとのことである。

幹部が何人いるのか知らないが、幹部が月に50万以上もらっていても驚かない数字である。同時に「財政難のために、天理教一れつ会の認定が厳しくなっている。大教会長からの承認も厳しい。奨学金が貰えないと、末端の学生は天理に集まらずに地方で進学するか就職する。そうなると正しい教えが伝達しにくく空洞化してしまう。そういった現象は実際に進行しており悪循環でしかない」との洞見を得た。この発言には色々な問題点があるが、私は概ね支持したい。ネット掲示板には「天理教幹部は贅沢三昧」というコメントが散見される。こういったコメントに関して私は否定的に見ていた。なぜなら私と接する地方の天理教人は贅沢とは正反対の質素な生活を送っているからである。しかし、こういったコメントがネット上に断続的に広く見られるには、それなりの理由があると考える方が妥当だろうと私は思うようになった。火のないところに煙は立たないのだから。部外者の私に情報が入っているということを考えると、天理教を支えている地方の下部天理教人の不信感や不満は非常に根強いものなのだろう。

また、ある読者から天理教幹部のものと思われるツイッターを紹介してもらった。一緒にiPadでその幹部のタイムライン(発信)を辿った。そこには普通の生活(食事や余暇の過ごし方)が楽しそうにツイートされていた。私は「これのどこが問題なのですか?」と質問すると「一つ一つのツイートは問題ありません。しかしタイムラインを見返すと頻繁に焼肉をたべたり、毎晩のように酒を飲んだり、家族が旅行に行ったり、毎日布教と生活していくことで必死の地方の下部天理教人にしてみれば、こんなものを見せられたら、やってられなくなりますよ。僕らなんて酒を買う余裕すらありませんから」とのことである。一応参考資料として、天理教幹部の全ツイートを保存しておいた。

話を整理する。天理教幹部は金があり、地方の下部天理教人は金がない。「天理教は贅沢だ」という言説には一理あり、「天理教は貧乏だ」も間違ってはいない。ただ、資金が一部に偏在していることは事実のようである。そして金が集まるとこには権力が発生するのは世の常識である。なんだか中国みたい。

天理教の子弟養成についても話を聞いた。地方の下部天理教の子弟のメインストリームは、高校進学と同時に天理市に移住する。天理教関連の高校で寮生活をする。そして、卒業後は天理大学を中心に進学する。大学進学には100万円以上の学費がかかる。そんな金は地方の教会の親には払えない。そこで卒後は天理教関連施設にて奉公することを条件に大教会長の承認を得る。そして天理教一れつ会に申請する。多くの学生は学費の半額ほどが給付されるようだ。さらに在学中に天理教本部の関連施設にて奉公を約束した者には給付額が倍増(ほぼ学費満額)されるとのことである。

そこには信仰心や教育理念などなく、要は金の世界と思われても仕方がない流れである。

地方の教会の親としては親に代わって学費を出してくれるから、同意せざる得ない。「子どもは天理教の中で、天理の御用(仕事)をしている」という大義名分を維持することは信者への求心と親の見栄、理の親への服従を両立させるものになる。地方の教会の親にとって、こんなおいしい話はない。天理教本部も契約で拘束した若くて従順なマンパワーを採用できる、こんなおいしい話はない。

ここで大きく抜け落ちている点は、子どもの自由意志である。以前、天理教の人権意識を俎上に上げていくといったが、それは天理教の人権違反を明白にすることではない。人権違反などない。むしろ天理教の人権意識の低さを浮き彫りにすることである。金のために子どもの進路を狭めることは、教育的側面から考えて時代遅れである。何度もいうが、こんなことを繰り返していては、天理教の将来はない。天理教は「子どもの権利条約」って知らないのかな?

これも何度もいうが、天理教の命題は「陽気ぐらし」であろう。陽気ぐらしの実践とは「天理教が陽気暮らしの先導となる」べきではなかろうか。「違反はしてない」「人権侵害はしてない」なんてブラック企業が言う「最低限のことは守っている」と同じある。そんなことを言っていては陽気暮らしの先導なんて恥知らずにも程がある。今の天理教では陽気ぐらしはできないと断言する。陰気ぐらしにもほどがある。

いま人気なのが、天理教憩の家病院付属の看護専門学校に進学することである。ここは天理教一れつ会とは別に独自の奨学制度(普通の看護学校の奨学制度)を持つ。そして、看護という確かな技術を身につけることができるのである。ここに進学すると「子どもは天理教の中で、天理の御用(仕事)をしている」という大義名分を損なうことない。もちろん、看護師として働くことは就労であり、給料が発生する。天理教関連施設での給料(お与え)が数万円であることを考えると、病院での勤務は給料を貰え、なおかつ「天理の病院で働いている」ということで信者への求心も失うことがないという「おいしい話」なのである。実際、この天理教の病院で看護師を経験した親は、自分の子どもをこの付属専門学校に進学させる者が多いようである。もし天理教の教会に嫁いだとしても看護師の免許があると、「どうにか生活はできる」という安心感もあるようだ。

もう一つ人気なのが「里親」である。これは時代的要請もあってか、天理教の教会でも里親を実践しているところが多いようだ。なぜか。天理教には受け皿がとなる教会の物理的環境が広いから?信者が支援してくれるか

要するにお金ってこと2


前回のブログで、「天理教人はお金がないのに、子どもを私立の高校や大学に通わせるお金があるのはなぜ?」という矛盾を呈した。

これに関して、以前も取り上げたが「天理教一れつ会」という財団法人が大きく関与している。親が天理教一筋(道専務)の場合、その子どもは高、大卒後に一定期間天理教関連施設で奉公することを条件にスカラシップ(年額数十万円)が給付されるというものである。この制度は子どもに修学の権利を保障する素晴らしい制度だと思う。しかし卒後の奉公と申請には大教会長の職印が必要という点がポイントである。結論を言うと私の知り合いに10年近く大教会青年をさせられた者がいることや、より勉強や部活を頑張りたいという若者が大教会長と話し合いもなく、意味も説明されずに熱い思いが潰されている。進路が大教会長の思うままに決定されているのである。この制度は一部の若者にとって教育的ではなく、支配的制度である。「もっと勉強したい」や「スポーツを極めたい」や「社会でチャレンジしたい」という意志が芽生えても、さらには社会貢献の熱意があろうと、大教会長の気分的思考で「大教会青年をしなさい」と反故にされる場合があるということである。そして実の親にさえも「大教会長さんが言っているのだから」や「最初にスカラシップ契約を結んだのだから」と応援してくれる者がいない。このような事例について私が知っている天理教人は数えるほどだが、明確な証言や特定の実名(大教会長)は複数確認してある。

数年前から、このスカラシップの給付制度が貸与制度に変更することができるようになった。その理由は私にも、教えてくれた天理教人にも分からない。財政的理由なのか教育的配慮なのか。以前に話をしてくれた天理教人は財政的理由を挙げて、給付された学生が、卒後の天理教関連施設での奉公をすっぽかしてしまうケースが相次いでいるとも教えてくれた。同時に、大教会長の職印制度は今もあるので、「貸与制度を利用できるようやになったからといって、それは子どもの教育的主体性が担保されるという意味ではない。貸与制度を利用して進路を変更できるというのは表向きであり、結局は大教会長の承認・決定次第は変わらない」とも説明した。

ここまでは以前のブログで詳細に論じた。この話を天理教人に話してみると「でも、幹部の子どもは天理教一れつ会なんて利用してない。天理教関連施設で働くと月に2万ほどの給料(お与え)が貰えるって言うけど、何十年も働けば、幹部(本部員)くらいだと月に50万くらい貰ってるんだぜ。月に50万も貰えてたら天理教一れつ会なんて利用せずに普通に子どもを私立でも進学させることができるさ」と教えてくれた。この話を聞いて私は驚きのあまり開いた口が塞がらなかった。

幹部が月に50万円も貰っているという話は初耳であった。一人の天理教人に聞いたことなので真偽は分からない。しかし幹部の子どもが大学卒業後に奉公せずにフリーターをしているケースがあることを考えると幹部の子弟は天理教一れつ会を利用していないことは推察でき、50万は嘘でも、ある程度この話は整合性がつく。(私は未確認だが)

私は天理教の財務諸表を見たことがないし、分析する力もないので幹部の給与がいくらかは何とも言えない。誰か天理教の財務状況をチェックできる人はいないだろうか。特に人件費の証明を確認したい。天理教の財務は月刊誌「みちのとも」で公表されている。しかし、それはほんの一部なのだろうか。天理教も他の教団と同じように都合の悪い情報はオープンにしていないのだろうか。

もし幹部が月に50万を貰っているからといって、私は悪いとは思わない。しかし、それでは各地の天理教人や大教会長に進路変更を認めてもらえなかった若者、そして信者はあまりに浮かばれないだろうなと思う。

続きは次回。

要するにお金ってこと1


これから話すことは伝聞情報も多分に含まれている。読者はタブロイド紙を読むように「そんなわけねーだろ」という感じで読んでもらいたい。ほんとかどうかは私はまだ物的証拠を確保できていないがすべて私が天理教人から聞いた情報である。

これまで天理教の構造を論じてきた。毎回テーマを設定して、そのテーマに沿った視点から論じた。天理教人の話を組み合わせると、だいたいの構造的な流れが掴めてきたように思う。ただ、伝聞や噂の部分も多いと思うので「間違い」を想定して読者は気を付けて読んでほしい。

天理教では急激に信者が減少している。その要因について「時代錯誤の布教戦略」や「天理教しか知らず、世間の常識を知らない幹部たち」という文脈は方々でみられる。私も同様の指摘をしたことはある。しかし全体像を考えると、幹部もまた「現状を打破できない」という構造があるのではないか。

私がイメージしている全体像はこうだ。天理教を実質支えているのは、全国各地の教会である。各地の教会で少しずつ信者よりお金を吸い上げ、26日に中央の天理教本部に集められる。各地の教会では毎月の月次祭のときに、主に信者から「お供え」という形でお金を集める。下っ端の教会で集められたお金は、上級教会の月次祭に「お供え」として上納される。上級教会は、さらに上級教会(大教会)の月次祭にて「お供え」する。そのため下っ端の教会の月次祭は、上級教会よりも日程的に前に置かれる。毎月26日が教会本部の月次祭だから、それより前に大教会の月次祭(18日~23日が多い)があり、更にそれより前に下っ端の教会の月次祭が開催される。

上納金を要求される下っ端の教会は、ほとんどお金がない。生活ができないために、昼間は天理教の仕事(ほとんどお金にならない)をして、夜にアルバイトをしている天理教人も多い。しかし天理教の仕事で得られた僅かな浄財も、アルバイトをして得た収入も上納金として搾取される。教会のご婦人で、上納金の催促でうつ病を罹患した女性を私は知っている。かといって、上級教会が悪いということではない。上級教会もまた、さらに上級教会に上納金を催促されているのだから。ここで重要なことは、すべて「お供え」と形容されつつも、お金の動きですべて丸く収まっている点である。要は金なのだ。

さて、これまで主に下っ端の教会の実情を私の知っている狭い範囲で述べてきた。下っ端の天理教人は金がなく国民年金も払えず社会保障もない。私が親しくさせてもらっている天理教人もお金を持っていない。食事に行くときは、必ず私が奢らなくてはいけない。奢ることは構わないけど。服装も華美ではない。本当に金がないのだと思う。

しかし一方で、天理教人の子どもたちは、私立高校の天理高校に通い、私立大学に通っている。天理時報を見ても、幹部たちの学歴紹介で私立大学や都心の大学に通っていた者も多い。当然、私は「あれ?天理教人ってお金がないのに大学に行く金はあるんだ。」と思わざるを得ない。この矛盾こそ天理教の構造的衰退の欠陥(信仰心への意欲低下と権力の私物化)があるのだと思う。

続きは次回。

天理教が考える、メディアへの成熟した考え方って何ですか?


天理教本部は信者のネットを使用した情報発信を快く思っていない。というようなことを以前に書いた。それは天理時報の視点(天理教の新聞の社説)をソースにしている。今回も、教団の情報発信について社説で扱われたという連絡を受けたので、天理教道友社(天理教の子会社)のホームページから当該記事を読む。
以前よりも表現は柔らかいが、やはり信者個人がSNSで天理教のことについて情報を発信することを快く思っていないようだ。
まとめの部分を以下に引用する。

一方で、このようなメディアの進歩に伴い、それらを利用する私たちのメディアに対する考え方も成熟していかなければならないと切に思う。

「こどもおぢばがえり」では、帰ってきた子供たちが普段味わえない雰囲気、広い意味での天理文化にふれ、来年もまた帰ってきたいと思ってもらえるように、携わる人々は暑さもいとわず、心と体を尽くしてお世話取りをしている。そうした姿をソーシャルメディアを通してうまく発信できるような工夫は、今後の課題の一つとなるだろう。

もとより、それぞれの言動、態度あるいはそれによって生まれる雰囲気を通して、一人でも多くの人にお道のにをいを伝えるうえからも、普段から教えに沿った生活態度を心がけることの大切さを肝に銘じたい。

ここで重要なことは主語と目的語が曖昧なことである。「私たちとは誰?」「成熟とは何?」「うまく発信する工夫の指針は?」ということが明記されていない。読み方によっては読者である信者に対する指導的側面が強いと感じる。この記事で使われている言葉は宙ぶらりんのようでありつつも、信者個人への注意として突き刺さる。「お前らのような未熟な信者が適当に天理教を発信してんじゃねーよ」と。いつも思うが天理教人の書く文章は、官僚と同じでなぜこれほど不透明で偉そうなんだろ。そうじゃないと言うなら著者は主語を「私は」とはっきり明記すべきだろう。私はこういった曖昧な言葉で、暗に人を脅すやり方は人として嫌いだ。

今回の「こどもおぢばがえり」でも、同様にソーシャルメディアを利用する姿が見られる。写真やビデオ撮影に関していえば、従来のカメラに交じってスマートフォンで撮影している人が多い。なかには、すぐに友人、知人が見られるように映像を送信している人も少なくないようだ。

誰がSNSを利用しているなんて携帯の画面かタイムラインを見るしか判断できない。まさか一人一人の画面を盗み見しているわけではないだろう。つまり今回の記事で天理教本部は天理教に関連するツイッターやSNSの情報を常に監視しているということになる。

私には関係ないから問題ないが、こういった天理教の姿勢は社会に発信べきであろう。どんなに情報を監視統制しようが、未成熟な私が何を言おうが、天理教の評価は社会がおこなうのだから。

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