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「今さえ良くば、我さえ良くば」というピットフォール

天理教では「今さえ良くば、我さえ良くば」という言葉が流行っている。この言葉の出典がどこから来ているのか私は知らない。しかしことあるごとに耳にすることがあるから流行っているんだと思う。
私は以前から苦手と公言している天理大学おやさと研究所発行の媒体「グローカル天理」であるが、苦手であるので自分で読むことはない。ブログの読者から「読んで感想を書いてくれ」と勧められて読むことしかしない。今回、その中の公開教学講座「現代社会と天理教」第8講「選択と不選択」—教えとともに生きるみち-という論文を紹介された。
要旨としは、「我さえ良くば、今さえ良くばはダメだぜ」ということであった。ただ、私の感想としては、これほど「我さえ良くば、今さえ良くば」に染まった論文はないと思う。交通規則を守らない人間をやり玉に挙げて、「あれはダメ、これはダメ」と言っているだけである。天理アーケード商店街を自転車で通行する若者を交通規則を守らない人間としてレッテルを貼り糾弾している。著者はまったく気づいていない。理論展開せずに他者批判することは批評にもならないただの居酒屋のおっさんの愚痴でしかないことに。同様のことに私は朝日新聞の「声」が苦手である。「あれはダメ、これはダメ。最近の若者はこんなにダメ」ということであり、投稿者がいかに正しいかという主張でしかない。そこには社会に対する不満を「私は正しい」という投稿で自己満足する姿勢でしかない。確かに、危険な自転車運転は慎むべきであろうが、私はそれらを無条件に批判するほど大した人格の持ち主ではない。自分の預かり知らないところで誰かを傷つけていることもあるかもしれない。
ラディカルな論理展開をしないと批評にはならない。これは社会人としての常識ではなかろうか。ましてや大学という学術機関であれば、なおのことではないだろうか。
私の反論として、この著者からはご自身が社会に迷惑をかけて生きているのではないかという慎みがまっく感じられない。自分の生き方が最も正しくて、みんなは私のようにいきていかなければいけないと言っているように聞こえる。私は、人は社会や人に迷惑をかけないと生きてはいけないと思う。この著者は生命維持に必要な呼吸でさえも二酸化炭素を排出せずに、みんなの税金で作られた公共物を使用せずに自己完結で生きているのだろうか。ちなみに私はいろいろな人に迷惑をかけて生きている。私の周りには頭が上がらない人ばかりである。むしろ「我さえ良くば、今さえ良くば」でしか生きていない。どーもすみません。
この方は肩書きから察するに、立派な学術研究機関の方だろうとお見受けする。また後半部に「学ぶことが大事」と言っているので、私は学術的見解として学ばせていただきたい。
察している方も多いと思うが、私が天理教に対して言っていることは副題にもあるようにニーチェをなぞることが多い。本ブログの要旨として天理教はニーチェを超えなければ今後の社会で存在を確かめることは困難になると考えている。アメリカで信仰離れが急進しているように、宗教がなくても経済は回り、人々は生きていける時代である。その中で宗教の存在意義を証明することは容易ではなく、宗教哲学が問い続けている難問である。どこかの宗教団体のように、観光で金儲けをしているとこもあるだろう。一部の人間の自己実現や政治集団として機能している宗教団体もあろう。その中で、形而上学的信仰を持つのであれば、天理教が主張する「人のため」という利他主義の裏にあるニヒリズムや弱者の肯定を乗り超えなくてはいけない。そうでないと天理教も既成宗教と同様のデカダンスを迎える。
ニーチェのように「神は死んだ」と神の不在を天理教人に言えば、激烈な反論があるだろう。「神は死んでいない」とー。しかしそれは表層的議論でしかなく進歩がない。議論を進歩させるためには学術的探索を担保しなければいけない。つまりニーチェがなぜ「神は死んだ」と言ったのか、歴史的に言わざるを得なかったのかを問うことは、教祖が「世界ろくじに踏みならせ」と言って死んだこととそれほど乖離したことではないと思う。「我さえ良くば、今さえよくば」の反対に位置する「人のため」という、自己満足や自己欺瞞を乗り越えなければいけない。
私は「我さえ良くば、今さえ良くば」を平気で口走る天理教人が「感謝、慎み、助け合い」と言っていることに矛盾を感じざるをえない。品格を問う人間に品格が感じられないのと同じである。

インターネットは信頼性が低いのか

前回書いたブログに対して、いくつかのメッセージをいただいた。いくつかの天理教関連ブログや掲示板でも賛否があるようだとある読者が教えてくれた。いくつか読んでみた。偉そうなことを言って申し訳ないが、納得させられるものはなかった。中には、「インターネットで一個人の信仰を論じることはよくない」ということをインターネットを介して一個人が言っている人もいるようだ。滑稽である。
私は「インターネットは信頼性が低い」という言説には乗らない。メールもするし、天気予報も、ニュースも仕事もプライベートもインターネット様に依存している。天理教もまたそれらの文明の利器を多分に利用している。感覚的なもので恐縮だがネットの弊害を訴える人ほど、ネットに依存している偏った人が多いと感じる。そういった方は、うまく使いこなせていない不全感が攻撃性に転移しているだけではなかろうか。こういった言説は、アメリカの銃規制と同じである。銃乱射事件が起こるたびに、必ず銃規制の機運が高まる。しかし銃の恩恵を多分に受けている銃社会では、結局この機運も時間とともに鎮静化する。アメリカの銃規制の歴史はその繰り返しである。つまるところ、道具は使用方法次第である。インターネットもただの道具である。確かに「匿名の掲示板」というカテゴリーに入る情報は一気に信頼性が低くなるのは社会心理学が「没個性化」として証明している。しかし、だからといってネットの天気予報の降水確率の精度が一気に悪くなるとか、メールの内容が勝手に変わって届くということはない。
だから「インターネットは信頼性が低い」というのは「包丁は危ない」ということと同義であり大した意味がない。同じ文脈に教育界では根強い「ゲームはだめだ」というものがあるが、実は何の根拠もない。今や医療や教育でもゲームを使用したリハビリや学力向上がおこなわれている。
結局は「○○は危険だ」というのは、それを指導、教育できない未熟な親の責任転嫁でしかない。ゲームのせいにしておけば、自分の子育て能力のなさを直視しなくていいだろうしね。インターンットも同様に、天理教本部は一天理教人がインターネットで発言しているのを見てやきもきしていることは間違いないだろう。だから「インターネットは信頼性が低いから発言するな」という根拠のない言説を言わざるを得ないのだろう。しかし、私はそういった対策は逆効果であると思う。根本的に対処を間違っているとしか言えない。

私がこのブログで一番言いたい事は、言論の自由でも信教の自由でもない。「そんな八方美人なことを言っていては、現代では淘汰される」ということである。こういったことを言うと、天理教人は「天理教の教えは現代の常識では計れないんだ」という返事が予想される。しかし教祖のひながたが、ある意味ー当時の常識では計れないー”バランス感覚を逸していたために”民衆の信頼を得た事ととは方向性が異なる。過去に逆行するような現代におけるバランス感覚の喪失は、ラディカル(教祖のひながた)であるということと水準が全く違う。そして、私は天理教の良さはどんな人間でも受け入れる「歓待の精神」であると思っている。そして、それこそ陽気暮らしなのではないかと思う。

私のブログを取り上げてくれた、ある天理教関連において私のブログを
天理教社会学研究所(天理教に対して批判的なサイト)
と紹介されていたのはショックであった。批判をしているんじゃなくて、より良くなることを願うために現実的な批評をしているだけなんだけど。これからは
天理教社会学研究所(天理教に対して良心的なサイト)
と言ってもらえるように精進したい。

天理時報4264号視点「信仰者のリテラシーとは」は自由社会に対する挑戦である。

3名の方から私に天理時報の記事についての問い合わせがあった。こういった問い合わせは、私の見解を聞いてみたいということではなく、私に批判的見解を代弁してほしい方からなんだろうと思う。かといって私は代弁する気は毛頭ないのだが、結果として代弁していることになっている場合が多い。しかし私は私の見解を述べるスタンスである。そこには利害もバイアスもない。
天理時報を探してきて問い合わせの記事を読む。うわーラグビー特集がすごいな。問題の記事を読む。ふむふむ。毎度のことだが何が言いたいのか分からない記事であった。「裏を取れ」と言っているこの筆者に失礼だと思い、「裏付け」を行うために大卒以上の家族(文系、理系)に「これちょっと読んでみてくれない?」と聞いてみた。すると二人とも「よく分かんない」と返答された。ということで裏が取れたので、私はよく分からない記事が言いたいことは何か、という視点を出発点に分析したいと思う。
揚げ足を取るようで申し訳ないが、全体的バランスに欠ける文章が目につく。「正しい情報」という定義がなされていないこと(最終的には全部これが原因なんだけど)、教外著書のレファレンスの不備を指摘しつつも自身が引用している文献の主観的要素の多さに気づいていないこと、インターネットの特性を明示せずインターネットの信頼の低さを強調していること、「一つの情報だけを頼りに、あるいは偏った情報を基に記されているケースが多い」と言っているが、著者のレファレンスは(株)日本新聞協会のみであることなどである。確かに丁寧な言葉遣いでカモフラージュされているが、全体的な構成として高校生の小論文でもこんな文章書かないだろうな。パッチワーク文章で段落間が弛緩している。

しかし、そんなことは大したことではない。この文章で筆者が言いたいことは後半3段落だけだろう。そして、この「後半3段落」が解釈によっては由々しき事態なのではないかと私は考える。要約するに「お前ら勝手に天理教のことを書いて発信してんじゃねーよ」という言論弾圧である。表現も「書くなよ」と言えば分かりやすくて、潔さにスッキリするのだが、「責任」や「看板」や「裏をとれ」や「事実であり真実でない」や、最終的には「教えの理こそ、最も重要な「情報」である」???と、すべて輪郭がぼやけた言葉でしか説明しておらず説得力がない。この文章を読んだ人間は、ほぼ反射的に「お前は看板を背負って裏をとって真実を発信しているのか?」という問いが出てくるに違いない。少なくとも、この記事では到底達成されていない。そもそもメディアリテラシーというものは「真実なんて、なかなかわかんないよね」というところから出発するから自己で情報を精査するものである。それをこの筆者は「私の情報は真実である」というところから出発している。なので、ぜひ教えていただきたい。メディアリテラシーにおける真実ってなんでしょうか。NHKであれば真実なのですか。天理教の教えを理解していれば、情報リテラシーは完璧なのでしょうか。私は真実が分かりません。メディアリテラシーより、憲法理解が先ではないでしょうかね。

こういったことを天理時報で発信すると、ホームページやブログを開設している人が萎縮するのではないでしょうかね。そして、著者はラグビーに紛れてそれを狙い撃ちしてますよね?

同じような文脈を最近目にした。兵庫県知事が大河ドラマについて「画面が汚い」とNHKに申し入れをしたことである。これに対して言論の自由を侵害していると方々から反論があがった。それに対して知事は「感想を言ったまでだ」と弁明した。
彼は気づいていない。その発言で、自分の知事としての力量が低いことを証明していることに。知事の仕事の本命は県益を向上させることである。つまり「知事という仕事では県益を向上させることはできませんでした。ここはいっちょNHKさんにもたれて県益を挙げてくだせえ」ということである。
天理時報の著者も天理教の要人であることは間違いない。権力を持った無能な人間は、脅迫するしかできないのは歴史が証明しているだろう。

自明のこととして言論の自由は民主主義の骨子である。言論が弾圧されるのは北朝鮮や中国の社会主義圏である。例えば企業であれば、社員が会社の(事実無根の)不利益を世間に吹聴することは企業として許されない。それは会社というのは利益組織であり、雇用契約に基づいた関係だからである。天理教人がやっているホームページやブログは、利益誘導ではなく典型的な信教の自由の範囲内だと言える。少なくとも教会名などが出ている時点で責任は担保されている。著者や私は個人名を明らかにしていない点で責任性は低い。私が見ても「こんなことを陽気ぐらしを目指す天理教人が書いていいのか」と思うブログ等もある。それは陽気ぐらしへの合目的な功利主義の文脈で私は考えるからである。私の度量衡は、それが陽気ぐらし的かで判断している。しかし、この記事の著者は「自分だけが思う天理教」に合致するかという基準で判断していないだろうか。その人にとってはそれがその人の天理教であろうが「あの人の天理教と、私の天理教はちょっと違う」ということを許容しないのは狭隘ではなかろうか。まさか「みんなの天理教は、私の天理教と同一でなければいけない」なんてことを思っているわけではないよね。

こういったタイプの天理教人を見て、私はつくづく思うことがある。それは、天理教以外の人間に同じことが言えるのだろうかということである。つまり天理教以外で同じことが言えるのであれば、それは偏っていても立派な意見だと思う。しかし天理教以外では肌触りの良いふわふわしたことを言っておいて、対内的には偉そうに言うのは天理教人に対する甘えでしかない。それは学校ではおとなしい中坊が家の中だけ偉そうにしているのと変わりない。これだけメディアが発達してきたことを理解しているのであれば、天理教以外の人間に見られることは必然であろう。私が見ているように。つまり、この筆者はご自身の思想が世間に曝され批判されることを勘定にいれてない。私は天理教は立派な社会的に容認された組織だと思っている。そのため私は社会人の責任として、天理教の内部で繰り広げられている権威的姿勢を社会に提示しつづける。本当に天理教が「だめの教え」(最終的な教え)であると信じるなら、やっていることをみんなに見てもらって判断を社会に委ねるべきだろう。

結論。私は天理教の教えの良
さは男らしさにあると思っているが、この天理時報の記事の文章は男らしくない。全然マッチョではない。私が思う天理教の男らしさとは、許容範囲が広くていろんなものを受け入れてくる懐の広さである。天理教の最大の教えである「陽気ぐらし」とは、国や人種や宗教、思想、出自を超えるものだと私は認識している。しかし言論の自由を抑圧し、同一の見解を押し付けているのが今の天理教の現状であろう。ブログで裏を取る人間がどこにいるんだよ。それこそ社会を馬鹿にしてるだろ。

天理教の名を冠したブログをやっている人間として宣言しておく。本ブログでは言質の裏を取るつもりもないし責任も負わない。内容も偏っており真実なんて一片もない。フィクションだ。読む人は自己責任だぜ。本ブログは公衆便所の落書きくらいで世界で一番、読む価値がないんです。そういうことで。

天理スポーツの教団的機能

年末年始にかけて天理大学ラグビーのことについて目にする機会が多かった。「天理大学ラグビー部???」と首をかしげてしまう。それまで天理大学ラグビー部の活躍なんて聞いたことがなかった。天理ラグビーという言葉を聞いたことはあるが、それは全国制覇の実績がある天理高校を指しているのだと思っていた。しかし、その天理大学が大学選手権決勝の国立競技場に立つとは驚きである。ラグビーに門外漢の私でも、同志社三連覇の平尾誠二が走る姿は今でも脳内再生できる。私のようなミーハーは同志社以降は早慶名しか知らない。
メディアを見ると、今回の天理大学の活躍は複数の4年生の活躍が大きいようだ。ということは、天理大学の活躍は一時的なものなのかもしれない。
いずれにせよ、今回の活躍は賞賛に値する。
ただ、このニュースを教団は、これから発行される出版物でことあるごとに利用するであろう。その利用方法は対外的な布教戦略ではなく、対内的にマイノリティの自己愛を満たす装置として。

天理教人のバランス感覚が試されるとき


年末に、ある天理教人より天理教についてお話を伺う機会があった。今の天理教の「においがけ」(布教戦略)は、パナ創業者の松下幸之助をネタにするのが流行なようだ。去年は、その話を何度か耳にした。松下幸之助の経営哲学の中には、彼が天理教本部に行ったときに得た天理教の信仰実践が元になっているというのがウリなのだそうだ。私は他者(権威者)の威光や肩書きをかざさないと天理教の良さを説明できないのは信仰として悲しい事実なのではと思うが、その天理教人は経営の神様が天理教の教えからヒントを得たことに誇らしげに語っていた。
そういえば、パソコンの検索候補には必ず「天理教 芸能人」と出てくる。そんなこと調べてどうするんだと思うが、多くの天理教人にとっては大切なことなのだろう。
私がいろいろと質問していると、JIBA-NETというものを勧められた。これは会員制天理教人のSNSのようだ。このSNSは今の天理教では満足しない若手天理教人が、いろいろと今後の天理教について議論しているという。これはメンバーズオンリーで、メンバーからの招待がないと入れないようだ。私も招待されたが、本ブログとは関係のないラインであったので筋違いと思い辞退した。メンバーになりすまして、本ブログで意見するのはただのリークになるだろうし、そしたらSNSの秩序を乱すことになると遠慮させていただいた。
ただ私の主観であるが、ここ数年(ほんの1、2年)で天理教の雰囲気が大きく変わってきていると思う。その雰囲気というのは、市井の天理教人の発言量が格段と増加していることである。つまりインターネットである。数年前であれば天理教のことを調べるなら、天理教の刊行物を読むか、身近な天理教人に直接話を聞くしかなかった。それが今では天理教の情報はインターネット上にあふれている。ツイッターには毎日天理教に関する情報が刻一刻と流れ、Youtubeには天理教行事が動画で流れている(3、4年前はそんなになかったと思う)。天理教の会長さんがホームページやブログで発言しているサイトも散見される。前述したSNSも同様だろう。
天理教の内部にいなくとも、天理教の様子が垣間みれるようになった。それは良い側面もあり、天理教本部も利用しているツールである。しかしツイッターなどでは、天理教を信仰しない人間によって、天理教(宗教)に対する嫌悪感が露骨に表現されているものもある。
数年前には天理教本部が、天理教人のネット発言に規制の通達を出したこともあるようだが(真偽は不明)、天理教以外の人間による発言は止めようがない。去年、世界各地でおこった民主化革命を例に挙げるまでもなく、今後の情報の拡大は天理教本部が規制できるものではない。情報肥大で天理教が崩壊することはないだろうが、今後の天理教を巡る情報の拡大は天理教にとって果たして明るいことだろうか懐疑的にならざるを得ない。つまり現代では、知らない単語が出てきたら真っ先にインターネットで検索する人が大多数であろう。天理教人に接した人は、真っ先に「天理教」という単語を検索する。その検索先に「怪しげな天理教」「何を言ってるか分からない天理教」があれば、人々は天理教を回避するだろう。
月並みで申し訳ないが、この情報過多を生きて行くにはバランス感覚が必要である。「怪しげな」「何を言っているか分からない」という点では、本ブログで「理の親論」や「古典的布教手法への懐疑」「天理教は悲観論者」として何度か論じた。大衆迎合する必要はないだろうが、天理教人にとって「変えていいこと」「変えなければいけないこと」「変えてはいけないこと」を早めに整理していかないと、天理教が溢れた情報に息苦しくなっていくのは意外に早いかもしれない。インターネットを使わない人口が急速に減少しているように。ということを考えた。

理の親について 付け足し


昨年末に「理の親」について論じた。私は理の親の教義的解釈については分からない。多くの天理教人が「理の親という概念は教義に存在しない」と教えてくれた。「世界いちれつみなキョウダイ」(親は神のみで、人間は全員子供)という教えと、「理の親」は確かに正面衝突する。私は、教義的解釈よりも目の前の天理教人の振る舞いという現象を見る。その視点で判断するなら「理の親」は明らかに存在する。「理の親」を権力として利用するものや、「理の親」で人生を振り回され苦しんでいるものなど、このブログのおかでたくさん知ることができた。しかし、なぜ「理の親」というものが生まれ、現代まで生き残っているのか、それについては外部にいる私には分からない。
教義的解釈や歴史的意義については
「天理教みさとブログ」
http://tenkoku0805.blog9.fc2.com/
が詳しく、私も勉強させてもらっている。この方については天理教信仰者であり天理教研究者だと認識している(間違っていたらすみません)。私の乱雑な天理教論にも的確にアドバイスをしていただいている。宗教という微妙で繊細な課題に対して発言するというのは、非常に勇気のあることだと思う。ほんとに。どれが正しいかということではなく、こういったエネルギーを持つ方を大切にしたい。
みさとさんが「理の親」について教義的に解釈、解説を書いておられるので参考にしていただきたい。天理教研究者ではない私には不勉強のあまり理解できない点も多いが、学ぶことは多いと思う。

今年最後のウエルカムバック!


昨日は今年最後の天理教本部の祭典日であり、天理界隈は多くの人で賑わった。私が娘と天理に着いたときには祭典は終盤にさしかかり、講話の途中であった。言い訳だが、京都方面と大阪方面が合流するところから車は渋滞していた(これは天理教とは関係なく慢性的な渋滞のようだ)。天理市内では祭典の影響で車がゆっくりとしか進まなかった。
やっとこさ本部の駐車場に駐車し、中庭という神苑の中心で天理教人と合流して冷たい廊下を歩き参拝した。つま先が凍死するのではないかというほどの冷たさであったが、どこか趣きがある。講話が聞けなかったのが残念であった。そこからメインである詰所というところまで歩く。詰所に向かう途中で、黒塗りの高級車が複数台とまっていた。「あれは何ですか?」と天理教人に聞くと、「あれは祭典に参加する大教会長様方のお迎えの車だよ」とのこと。黒塗りのピカピカに磨き上げられた高級車に運転手付きである。私はネットの掲示板で散見される「天理教幹部の贅沢三昧は許すまじ」という論陣に加担するつもりはないし、そういったネトウヨ的考えには否定的立場である。しかし「ピカピカ黒塗り高級車に運転手付き」というのは、このご時世では違和感でしかない。何十億と稼いでいるハリウッドスターですら、高級外車よりもエコカーに乗る時代である。当の大教会長様たちは、そんなことは微塵も思っていないだろう。「お与え頂いたものに乗っているだけさ」としか言わないだろう。しかし、このような外から見て贅沢に映る現象の延長線上には宗教団体への課税という流れがあることをどのくらいの人間が考えているだろうか。天理教はまともな宗教団体なので宗教団体への課税が法制化されたところで大きな問題ないというのは思慮が浅い。この場合、問題がないのは財布だけである。大切なのは宗教団体は課税すべきだよねという「そういう目」で世間から見られることである。この問題は踏み込むと話が長くなるので割愛するが、外部からの「そういう目」を容認することは天理教にとって非常に厳しいことになると思う。つまりピカピカ黒塗り高級外車に乗っている人が寒空をブーンと通りすぎるのを見れば、その大教会長様たちがいくら「神一条の精神で」と講話で訴えても、説得さや求心力に欠けることは言うまでもない。講話で扱われていたOne for all,All for oneの示すOneは幹部の私利に成りかねない。

詰所につくと、思いのほか私たち親子は歓迎された。この詰所は東北の方が多いとのことで、娘は聞き慣れない東北弁に爆笑しきりであったが、お菓子をもらい、餅つきを体験させてもらい、醤油やバターなどいろいろなお餅をいただいた。天理教の歓待の精神は、天理教が最も誇れる財産だと思う。

そうだ、天理へいこう。

ついに師走に入った。早いものである。私の仕事納めは29日だが、子どもたちは冬休みである。今日は行きたくない忘年会がある。行きたくない忘年会のために休みをとったんだと知り合いの天理教人に話したら、26日は天理で餅つきするから忘年会までの時間は天理に来なさいとお誘いいただいた。今から娘と天理に向かおうと思う。餅つきなんて何年ぶりだろうか。娘ははしゃいでいるが、雪道が心配である。

天理時報がしっくりこない理由

このブログのタイトルには天理教という名を冠している。つまりブログの内容は天理教に関することである。私がブログで心がけていることは、自身の感覚を大切にしていることである。それは「あれ?おかしいな」や「なんだかしっくりこない」というビミョーなところである。そういったビミョーな疑問符から私の思考が開始するので、この疑問符を共有できない人にとっては「コイツなに言ってんだ?」と思われるかもしれない。そんな方は少なくないと思う。
天理時報についてブログの俎上に挙げることが多いのは、私の手元にユウイツ定期的に届く天理教の刊行物だからである。昔からの天理教人の知り合いは複数いるが、仕事をしているため頻繁には会えない。だから天理教の動きは天理時報を通してでしか知りえない。私が天理時報を批判するのは、主に天理教人や記者のエッセイである。「視点」(社説)や「和楽」(朝日でいえば天声人語)のような欄である。天理教の動静を報告するだけの記事は情報なので批評のしようがない。「ふんふん」と読むしかない。
しかしエッセイは、社会に対する天理教の反応、思考、方向性が反映される。そこには私からみて非常に危険思想ともとれる考えが掲載されることも多い。危険思想とは、社会から乖離したことを天理教の官僚が「天理教全体の意見」として発言することである。たとえば「天理教は臓器移植に反対だ」と一面的で性急な解答を述べたりすることである。先週は天理教の傘下にある病院の入院棟が拡張される記事が大きく扱われていた。先進医療を批判する一方で、医療に依存する。この八方美人な矛盾を私は放置できない。
ガリレオが地動説を実証し、宗教裁判で有罪にされた。しかしその後の科学の進歩で1992年にローマ教皇はガリレオに謝罪しなければならなかった。死後300年後の謝罪ってどうよ。この出来事と同じ「後だしジャンケンってずるい」匂いを私は感じる。教義に忠実であることと、社会に寛容なこととは異なる。そこには「かしもの•かりもの」という教義があるから臓器移植は認められない」という単純で、思考力の低い展開しかない。「教義がこうだから」というのは現代を生きる宗教家としての敗北であり、「なんとかしよう」という気概や男らしさが感じられない。科学の進歩で謝罪せざるを得なかった「聖書に神が大地を固定した」という記述は、そのまま天理教の「かしもの•かりもの」という教えの論理展開と並列できると私は考える。教えと社会を架橋しようとしないのは、将来を放棄している。
なぜ天理教ではそういった現象がおこるのか次回検証したい。そこには、私が天理教を批判する現象の共通課題があると思う。それは同時に、天理教が組織としてより良くなるための私なりの回答となる。そんなに大したもんじゃないけど。

天理教が最も嫌いな相手を支援するということ。

12月11日の産経新聞にて震災で被害のあった宗教施設という一面が掲載されていた。主に寺社の被害の数が計上されていた。天理教に関する記述もいくつかみられた。新興宗教は沿岸部の施設が少なかったり、歴史が浅いため建造物がしっかりしていることが理由で震災の被害がほかの既成宗教と比べて少なかったようだ。その中で天理教は全半壊した教会が57もあり、宗教団体別でみると多かったようだ。
もう一つは、各宗教団体の支援体制である。新興宗教が活発に支援をおこなっていることも紹介されていた。天理教は本部が組織したボランティアだけで1万8千人、教区•教会の組織によるものが延べ3万人が支援(災害ひのきしん)に動員されている。この数は、創価学会が2万人、立正校成会の8500人、真如円の4100人と比べて群を抜いている。支援は決して数ではないが、天理教が5万人近くを被災地に送り込んでいることは天理教の人助けの実践や、その準備性の意識の高さを裏付けるものではなかろうか。5万人もの人間を本部が「行ってこい」と言って行かせられるものではない。これは天理教を構成する一人一人の意思の現れであり、敬服したいと思う。もちろん産経新聞だけの情報によるので注意が必要だけど。
ただ、この記事が一番訴えかけているのは、地域コミュニティの重要な役割を担う寺社が被災したことによって、その地域の文化や歴史が衰退する危険があるということである。そして、その寺社は政教分離から義援金などの支援が全く届かないということである。この記事を読んだ天理教人はどう思うのか私は知りたい。政教分離だから支援が届かなくて当然だと思うだろうか。宗教法人は免税されているから、行政が支援することは必要ないと思うのか。または地域が必要とするなら地域の人間の手で再建されるべきであろうか。
震災以降、全国の自治体ではカウンターパートでの協定を結ぶ遠方の自治体や団体が増えている。つまり、A県が被災したときには、その支援の中心はA県とカウンターパート協定を結んでいるB県が中心に行う。そのためにA県とB県は事前に準備をして「もしものとき」のために準備をしている。これは、この度の震災が広域にわたったために、誰が支援のコントロールをするかという混乱の反省からである。同じような規模の自治体が、相互に備蓄することでリスクを分散させ、もしもの時には迅速に対応できるということである。このようなことは自治体レベル以外でも多くみられる。同種企業や、その他の団体でも同じである。東北で被災したスポーツクラブや市民団体には、都市部のクラブやプロチームが用具や場所の提供を行った。行政支援では、被災者のスポーツの用具までは細やかに対応できない。このような関係する人たちがカウンターパートで支援することは私は分かりやすくていいことだと思う。
そのように考えると、被災した寺社を支援するのは被災しなかった宗教団体の役割ではなかろうかと思う。
過去に私は天理教人が、ほかの宗教団体を批判していることを何度か耳にしている。同属嫌悪だろうか。歴史的世界的にみても、宗教団体同士の争いというのは非常に敏感で過激であることは現在進行形でも確認できる。しかし天理教が持つ陽気暮らしという金科玉条は、天理教を信仰している人間だけのものではなかろう。それは詰まるところ天理教が最も嫌いな人間と仲良くすること抜きでは陽気暮らしなんて達成することはできないということである。たとえオウムであってもである。
以上のことから私は見てみたい。天理教が被災した寺社の支援を行うところを。もし、そういったことがあれば、それは非常に美しい光景だと思う。