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理の親 再考 結


これまで「理の親」について上、中、下と論じてきた。本当は上、下で終わるつもりだったけど、どうしても長くなってしまった。上、中、下と3回を使い果たしてしまったので、今回は「結」として最後にしたい。もうなんでもアリ状態ですけど。

ここまで「理の親」について論じてきた中で、理の子の社会的立場の低位固定化を中心に考察してきた。つまるところ、理の親制度は理の親のために存在するしかないと私は考える。参勤交代で大名の財力と武力を劣化させることで徳川政権が単独で維持してきたのと同様の構図である。徳川政権は長期政権として太平の世を築いてきたというメリットもある。しかし、リーダーとしての個を確立するために自身のポテンシャルを向上させるよりも、周囲を劣化させることで個を維持してきた弊害は大きい。一番の弊害は、代々の継承する度に個の力は劣化していくということである。だって誰とも競争しなくていいんだから。周囲の人間の力を奪い、自分よりも弱い存在にすることで自分の存在意義を主張するのは天理教の地殻変動的な緩やかな、そして確実な衰退と同じ理路である。

もう一つ。天理教の大きな社会的役割として弱者救済がある。社会的多数や社会制度に当てはまらないマイノリティーの人たちを救い上げ、擁護してきた長い歴史が天理教にはある。天理教の教会に行けば、行く当てのない人たちが住み込みで天理教の御用をしている姿を目にすることが多い。それは天理教に限らずに、いかなる宗教にも当てはまる重要な役割だと思う。最近の言い方をするのであれば、宗教は社会のセーフティネットとして機能している。それは行政支援や福祉支援では、手の届かない細やかな支援ことであることが多いと思う。しかし、その前提には支援者の保障がなされなければならないと私は考える。天理教はセーフティネット対象者の受け皿であり、セーフティネットの対象者であってはならない。教祖のひながたのように「貧に落ちきれ」という教えがあるからといって、実際に財産を手放すことは現代社会では現実的ではない。教祖の教えを時代考慮なしに模倣していては「ひながた」の意味性が喪失する。また昔よりも現代の方がセーフティネットが充実しているというのは、Pitfallである。制度としては充実しているが、生命資源として考えると孤独死や餓死者がこの平成の時代にも存在することは忘れてはいけないだろう。現代は金がないと飲食もできない社会なのだ。つまり敢えて、年金制度や社会保障制度を敬遠する天理教人に人を救済する条件(資格)が揃っているのか疑問である。人を守るためには、自分が同じ条件ですでに守られていないといけないというのは傲慢ではなかろう。またそこを教育し、保障する責任者は「理の親」でしかないだろう。でも実際には親は自分勝手で、子どもの面倒をみない場合がある。これはお金だけを要求し、社会保障を黙殺する天理教本部も含めて、宗教的虐待といっても過言ではないだろう。

前回のブログで私は天理教人の社会保障を論じたが、それについてレスポンスをいただいた。それは教祖の教えに「律が怖いか、神が怖いか」という言葉があり、法律や規制を恐れていては神の意思(陽気ぐらし)を達成できないということを教えていただいた。これは神の教えを達成するためには強い意志を持てという教えなのだと推測する。私は個人の信仰的解釈まで足を踏み入れるつもりはないし、「律の方が大事ですよね」と主張する気もない。しかし律をいいように利用している側面を無視して、個人的な思いを教義でカモフラージュさせて「いかにも神様の意思だ」と述べることを私は理解できない。天理教人もまた社会制度の中で生き、法律の恩恵を受けていることは自覚しなくてはいけない。それでも律か神かという二項対立を採用し、気分的な利用をするのであれば、天理教はカルト教団と社会に認定されることを受け入れなくてはならない。それは社会に生きるものの責任ではなかろうか。

理の親 再考 下


理の親論について論じると、多くの連絡をいただくが今回は返信している時間がなくて申し訳ない。

これまでの「理の親」論の中で、私は「子どもの権利ではなく、親の義務」を主張した。親の義務とは、自明のごとく子どもを養育することである。よく勘違いされるが、日本国民の三大義務の一つは教育を受ける義務ではなく、親が子どもに教育を受けさせる義務である。つまり親という役割には責任がある。それは天理教の理の親も親という言葉を採用しているので同等である。理の親がどのような崇高な教説を展開されようとも、子どもの生活環境や養育環境に責任が持てないのであれば、親の養育不足であろう。その養育不足が問題となるのが虐待であるが、この場合は宗教的虐待と概念づけてもいいのではないかと思う。なぜなら最低限の生活を保障せずに、親という特別な力を用いて親への忠誠を半強制的に優先させるのは、虐待と同じ構図である。
 大切なことは、親には子どもにはない力があるということである。それを我々は権力という。「親と子どもは平等な立場である」という親の主張は、強者の理論であって説得力がない。前回のブログでも触れたが、私が知るところの(一部の)理の親は、非常に強い権力を持っている。具体的には理の子の財政に圧力をかけ、理の子の進路決定権を握り、理の子の信仰度を評価する。ここで非常にやっかいなのは、それが「素直」や「たんのう」「いんねんを断ち切る」という理の子の責任性や信仰性に変換されることであろう。もちろん近年では、そのような理の親の強権的な姿勢に歪みが入ってきているという話も聞く。
 例えば、理の親の意向を尊重する形で天理の学校に行った理の子がいる。卒業後は就労したいが、天理教からスカラシップを付与されていたために、就労は許されない。しかし約束通りに卒業後に天理教施設で数年奉仕していては、せっかく学校で学んだことの意味が半減する。理の子としては一回きりの人生だから、周りを説得してスカラシップを返還してでもやりたい仕事につきたかった。しかしそのためにはスカラシップ返還のための手続きをしなくてはならない。それには実の親と理の親の印鑑がいる。しかし彼の説得と熱い意志に対して理の親は「契約だから」の一点張りで話も聞かない。実の親は理の親に依存しているために、「理の親がだめならダメ」という回答しか得られない。そして彼が選んだ道は「行方をくらます」という方法を選んだ。行方をくらますと言っても、逃げたのではない。自分のやりたい仕事(社会貢献という意味では立派な仕事である)を親の支援なしに選んだのである。スカラシップを許可する天理教本部の部署に「私の理の子は卒業後に天理教関連で奉仕します」と約束していた理の親は天理教関連施設で奉仕させるという天理教本部との約束を反故することになる。
 自分の評価を落としたくない理の親は、理の子が自分の天理教関連施設で天理教業務に奉仕していると天理教本部に虚偽報告することで体裁を保っているとのことである。もちろん行方をくらました理の子は理の親の天理教施設で奉仕している事実は無い。将来有望な学生に対して、技術や知識、経済力を活かせなくするような契約は教育上に問題があるようなスカラシップでもある。学生のスカラシップに関しては、一定年限の関連機関での就労を条件にスカラシップを付与することは法人ではよくある。それにはスカラシップで学習した専門知識を社会に還元ということが前提になる。しかし現状の天理教のスカラシップ制度では、卒業後に数年の天理教関連施設での修業のために学校で得た知識を活かすことは難しい。その数年は若者にとって学習した知識や技術、意欲を風化させるには十分な時間である。この制度はお金の有効な活用と、教育的配慮という点で欠ける。
 そもそも、この法人の趣旨は昭和3年10月18日、中山正善天理教二代真柱が結婚の時に頂かれた祝い金の全額を基金として創設。その趣旨は、天理教の布教師が後顧の憂いなく布教活動に専念できるように、親に代わってその子弟子女の教養を引き受けて扶育をし、持って生まれた徳分才能を伸ばす手助けをなし、育っては親同様布教活動に従事するように成って貰うことにある。こうした趣旨に賛同して寄せられた寄付金を蓄積し、その果実を以て扶育をなしつつ信仰の伝承を行い、次代を担う若人を教祖ひながたを辿るよふぼくに育成することが目的である。この趣旨は立派であるが、問題点を挙げるとすれば持って生まれた才能を伸ばす手助けをなし、育っては親同様布教活動に従事するように成って貰うという2つの文章を、契約という人間味のない形で実行しようとしている制度に問題がある。
 昨年くらい、天理教教会の子女と天理で話をした。その方は旧帝大で学んだ後、契約通りに天理教関連施設で働き、その後は専門とも天理教とも関係のない会社で現在はバリバリ働いている。その女史が「スカラシップで学んだものは、大学卒業という肩書きだけである。大学で得た専門知識と人脈と貴重な時間は、その後の天理教関連施設で大きく風化した」と言っていた。これが天理教が育てようとしている親同様の布教活動に従事するように成って貰うことの結果である。私はこの現象は決して少数ではないと見ている。むしろ、青年期という多感な時期とアイデンティティの形成段階に、このような制限的契約は教育上大きな問題があるだろう。
 数年前まではスカラシップの返還制度もなかったようで、卒業後は天理教関連施設での奉仕が強制されていた。現在はスカラシップの返還制度ができたようで、学校で勉強したことを社会で活かしたいと進路変更を強く願うものは返還制度を利用することになっている。しかし表向きは教育的配慮を見せているが、理の親の印鑑という強制力が確保されている。天理教本部も理の親を利用しているということは、その存在に関して同意署名しているということである。
 また行方をくらました青年や、天理教関連で奉仕した後は一般企業に就職した方のように熱い社会貢献意欲と強い自己実現意欲を持っている方とは異なり、そのまま天理教関連施設で「道専務」(就労せず天理教の御用のみに従事する)になられる方も多数いる。しかし、この制度が彼らの天理教に対する篤い思いを醸成する蓋然性は少ないのではないかと思う。篤い信仰心を持っている若者であるなら、そもそもスカラシップを貰って天理教や宗教以外の知識や経験を学ぶ意味性は少ない。それとも天理教本部は在学中に意識が天理教に向かうためのマインドコ

理の親 再考 中

前回のブログでは、理の親という存在について「理の親を事実上容認しているのであれば、親は子に対して親らしいことをしなければいけない」ということを言った。
今回、まず確認しておきたいこととして私はそのようなgive and takeを信仰や人間関係に運用することを好まない。人間関係や信仰こそ、経済合理主義とは対極に布置されるべきものであり数値化や業績、コストとして論じられるべきではないと私は考える。また人間関係や信仰とは、究極的には個別性であり、あまり外部がとやかく言うべきではないというスタンスを私はとる。では、なぜそのような思考であるのに「親は子に対して親らしいことをすべき」と敢えて言語化しなくてはいけなくなったのか。それは、それぞれの個性という一定の幅は認めつつも、あまりに看過できない構造的な問題を孕んでいるからである。つまり、外部がとやかく言うべきではないという前提には、人間関係や信仰に対する一定の信頼という土台が必要となる。その信頼は親と子の閉ざされた関係に依存するのではなく第三者からみた社会的関係によって規定されなければいけない。簡単に言えば理の親子の関係は第三者からみて常識的な人間関係であるべきということである。反対に常識的な社会関係でないというところには圧力や暴力や虐待や恫喝やカルトなどが存在しやすくなる。そのような危険性を知った上で、私は個人の問題として放置はできない。私もまた社会人として社会的責任を負っている。「個人の問題だから」と言うことは、常識に考えれば個性の尊重ということになる。しかし裏を返せば「何もやっても個人が悪いということにできる」という暴力的な構造を作り出すこともできる。
そして今回私がアンタッチャブルな個別性にまで足を踏み入れるというのは、親と子の関係に対して看過できないRigidで強権的な無責任さを垣間見たからである。
前回のブログで少し触れたが、熱心な若手信仰者から連絡を受けた。彼はある地方の天理教の教会で生まれ、高校までを地元で過ごした。高校は天理教の高校に入学し、その後天理教の専門学校に通い、卒業後は天理教関連施設で数年を過ごした。現在は地方の上級教会にて住み込みで奉仕している。もちろん収入はほぼゼロである。そもそも彼が私に連絡してきてくれたのは、私の見解に賛成でも反対でもなく、過去に私がブログで投げかけた疑問に対して正しい知識を教えてくれたのである。少し話を聞くと、非常に熱心な若手天理教人ということで、反対に私が色々と逆質問したのである。彼は私の主張に対して、概ね理解を示してくれたが「自分にはどうすることもできない」という痛切な嘆きを吐露した。つまり、彼も思春期の頃には天理教に嫌気が差して天理教から離れたくなった。しかし実家の教会の経済状況では天理教本部からスカラシップを貰って天理の学校に行くしか選択肢はなかった。スカラシップを貰ったために、卒業後も進路選択の自由はない(スカラシップの申請は彼の意志ではない)。卒業後は天理教関連施設で働くものの、その後の社会で通用する知識や技術や経済力は身に付かなかった。気付いたときには年齢は重ねたものの社会の流れからは完全に取り残されていた。もちろん満足した就労先(天理教の行事に合わせて休みがとれる会社)は得られず、現在は上級教会で天理教の仕事をしている。収入は毎月2万円ほどの給付金である。その2万円も毎月のお祭り(複数の上級教会)のお供えで消えてしまうとのこと。私が「お供えなんて自由意志の任意でしょ?」と問えば、「体裁としては自由意志であるが、お供えの封筒には氏名の記載が当然のごとく求められる。つまり誰がいくらお供えしたかは分かる」という暗黙の強制力があるとのことだ。そして何より私が一番驚いたことは、彼の社会保障である。わずかの給付金も毎月の半強制的なお供えで消えるために、彼は「お供えをしているので、国民年金を払うお金なんてない」と未納であることを教えてくれた。かといって所属する教会が厚生年金に加入していることでもないようだ。
これを聞いた天理教人はどう思うであろうか。「そんなこと普通だよ」や「神様にもたれていれば大丈夫」というだろうか。私は、ここにこそ天理教の理と子の構造的欠陥の中心点を見る。
彼の言葉に対して私が「天理教ではみんな国民年金は未納なのですか」と問うた。すると答えは「経済力のある方や信者が多数いる教会は年金を払っているが、私たちのような未熟な信仰者(お供えをしてくれる信者が少ない教会)では払えない」とのことである。私は失礼を承知で、彼の愚直な信仰に対して敬服するとともに、天理教の構成要員に対する将来的な無責任さに対しては怒りすら覚えた。将来の保障というのは、現在の責任でしかない。そして現在の責任は、彼を社会的弱者に育成した(導いた)理の親にあることは明白である。憲法第25条にもあるように、すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有するが、それは信教の自由で相殺されるものではない。
天理教の最大の広報機関紙である天理時報は、無縁社会や児童虐待、引きこもりなど社会的な流行の問題を取り扱うことが多い。しかし格差社会についてはトーンが低かったように思う。つまるところ、格差社会を掘り下げてしまうと、自ずと自分自身(天理教)の構造的欠陥に行き当たるから避けていたとしか思えない。公明党が靖国問題を敬遠がちなように。
格差社会についてメディアでは「収入の格差」として論じられることが多いが、社会学では「意識の格差」として議論が落ち着いている。元来日本での格差は年収によって決められることが多かった。しかし年収では流動性が高く、貧乏主婦がある日突然大金持ちになることや、経済的に困れば上京して出稼ぎすることもよく見られた。そこまで波瀾万丈でなくても、真面目に働いていれば順調に年収が上がるということが日本社会の慣例であり、一億総中流や八紘一宇を好む日本では格差はあってないようなものであった。しかし意識の格差というのは、強者はより強者となり、弱者はより弱者として固定化することである。弱者は強者になるためのアクセス権すら手に入れることができない。そうすると弱者は強者になるために向上よりも、現在での地位での安定を目指すようになる。最近の若者の消費が停滞しているというのは、それの一面に過ぎないだろう。最近の女学生の将来の目標は「困らないだけの収入がある家の主婦」という消極的な意見を聞いたこともある。それを「最近の若者は元気が無い」と片付けてしまうのは無責任ではなかろうか。当たり

理の親 再考 上

この表題に関して聞かれることが多い。聞かれるといっても好意的なご助言である。そこで、現在私の手元にある考えを整理したい。
以前も私がブログでこの理の親について言及した際に、「二代真柱が、『理の親は教祖だけである』と言った歴史がある」ということを、読者の天理教人から教えていただいた。そうであれば、教会長や信仰先達者を理の親とみなすことは誤りとなる。まず、この事実関係について整理したい。このような「誰が言った」という点や、教義的史実について私は重要視しない。天理教の専門家でもない私は分からないからである。そもそも天理教の教義自体が、逸話や口伝を元に編纂してきた事実があるから、私のような素人が事実関係にこだわっても成果はない。つまり、天理教に関しては教義的事実にこだわることを私はあまり有意義だとは思わない。教義を無意味だと言っているわけではない。この点は、内部にいる方と外部にいる私の最大のすれ違いだと思う。私の目線で少々攻撃的な言い方をするのであれば「天理教人は自分の理屈に合った事実(教義)を持ち出してきて好きなことを言っている」と思うときもある。私の持っている天理教観は、目の前の天理教人が全てである。それを「一部の狭い見識だ」と言われれば同意するしかない。しかし私は指をくわえて「そうですか」とは言わない。「私の言っていることは全ての天理教人には当てはまらないですが」というエクスキューズは常に必要かもしれないが、それでも「こんな場合(人)もいる」と言い続けたいと思う。
さて本題であるが、私の目の前の天理教人を見ている限り、理の親は数多に存在すると確信する。それが末端教会であるならば、上級教会という理の親がいて、さらにその上には大教会という理の親がいて(その中にも複数いる)、最終的に教会本部という理の親がいる。親ばかりである。これが私の知る事実でしかない。私自身の天理教との関わりを考えても、あるプロジェクトをしようとしても、複数の理の親が色々なところから好き勝手発言し、船頭多くして船山に登る状態となった。そのため現場の士気は著しく損なわれた経験がある。さらには意欲減退の状態であっても「喜んで通らなにゃあかん」という奇怪な脅し文句でうやむやにされた記憶がある。これは集団組織として非常に末期症状であろう。
以前、ある方から「理の親というのであれば、まず親らしいことをしろと言いたい」と聞いた。それを聞いた時、私は「まぁまぁ(理の)子どもがそれを要求するのもどうだろうか」と私は少々懐疑的であった。しかし、今回熱心な信仰者の方のメールを見て、私は「まず親らしいことをしろ」という意見に概ね同意したいと思う。その方は、理の親について反対派ではない。むしろ、熱心に自身の信仰を追い求めておられ、組織に対しても素直にコミットされているような篤い方であると筆致をみて感じた。しかし、彼が私に教えてくれた『熱心な信仰者の現状』に対して私は疑問を感じざるを得なかった。長くなったので続きは次回。

厳しい大教会の目的とは

修養科に行っているAさんと先週末1時間ほど話す時間があった。Aさんは私が天理教に関するブログをやっているこを知っているので、私から質問しなくても興味深いことをたくさん教えてくれた。すべてをブログにアップすることはできないので、少しずつアップしたい。
まず前提として、私のブログでは私が経験した出来事や、私が接した天理教人から感じたことだけしか扱えない。なので私の見解が天理教全体に当てはまることではない。その点をAさんにも違う形で教えてもらった。Aさんに教えてもらったのは、大教会(教会の系統)によって、修養科生の雰囲気は大きく異なるということである。つまり、前々回のブログで修養科の「感話」の異質性を取り上げたが、そのような現象はAさんいわく「一部の大教会に多く観察される事象である」とのことだ。修養科生の雰囲気をみてもサークルのように和気あいあいとした雰囲気の大教会や、あまり個人に関与しないあっさりとした雰囲気の大教会、また軍隊のように時間や規則が厳しい大教会もあるようだ。私はこのような多様性は歓迎されるものだと思うが、Aさんは「親を選べないのだから、軍隊のような大教会に入っていたらたまったもんじゃない」と言っていた。Aさんは幸いにもサークルのような牧歌的な雰囲気の大教会で修養している。こういった多様性を天理教人に聞けば「自分が所属する大教会には、そのいんねんがあるのだから必然である」という言葉が思慮なく返ってくるのは想像に難くない。そしてAさんは「厳しい大教会の修養科生は主体的求道精神に欠ける傾向が強い」との慧眼を得た。Aさんは修養科に入ってわずかの時間で、おつとめの作法をすべて暗記し、自然に体で覚えた。そのことをAさんは非常に喜んでいた。しかし厳しい大教会の修養科仲間に伝えても喜びは共有できなかったようである。厳しい大教会では、もちろんおつとめの作法も厳しく練習もシビアで「覚えて当たり前」とのことだ。よくよく聞くと、やはり厳しい大教会は大教会長が信者に対して厳しいとのことである。Aさんは具体的に大教会の名前を3つ列挙していたが、ここでは割愛したい。一つは私がよく接する京都の大教会であった。厳しい大教会では、天理教内での勢力も大きいことを考えると、厳しい大教会ではかなり積極的な布教をおこなっているのだろう。
話を前々回のブログに戻すのであれば、厳しい大教会では権力のヒエラルキーが確立されているために信仰的弱者が多いと思われる。信仰的弱者だから入信させられるといっても過言ではないだろう。しかし、Aさんや私が感じる厳しい大教会ほど主体的求道精神に欠けるのではという問いは、私はあながち外れた理論ではないと思う。布教に積極的ということは、多少強引であるとも言える。強引である結果は、前々回のブログで書いたことである。よくよく考えれば厳しい環境に入れられれば人間の心理としては意欲が減じることは当然の反応である。つまり、強引なのに勢力が大きいというのは、一度入ったらやめられない権力の構図が垣間見れる。その権力は、見聞する限り他者をコントロールする形で用いられている可能性が高い。少なくとも、信者の主体的求道力を賦活させるためには機能していないと思われる。それが「身上さとし」も含めた他者にレッテル貼りをする差別的用語の運用(濫用)であろう。これを厳しい教会の幹部たちはどれほど自覚できているのだろうか。続きは次回。

信仰の上下は人間関係の上下


前回のブログでコメントの返事を書いていたらまた長くなってしまった。悪い癖である。長過ぎて書けなかったので、ここにアップします。

>ぱぱさん
ご指摘ありがとうございます。これは私の草稿であり、文章として未熟な点があることは申し訳なく思います。毎回説明不足ばかりで本当にすみません。(自分で読んでも「なんでこんなこと書いたのかな」と思うこともあります)
本ブログに関して、個人の信仰に足を踏み入れるということはアンタッチャブルで大変難しいことですね。「ほっとけ」と言われれば私は反論の言葉を持ちません。
ぱぱさんのおっしゃられる点について私なりにお答えします。宗教には個人と個人とを接着させ、個人とコミュニティを接着させるバインド機能が重要な機能ですが、それはこれから信仰を始める人や信仰を深める人の主体性(主観的な信仰体験)によって担保されるものだと思います。しかし、そのバインド機能を他者の力を奪う(弱者にさせる)ことで達成することは健康的ではありません。それは信仰的自立ではなく依存です。また信仰の必要性を弱者であることで確保することは、天理教は天理教人によって、恣意的に作られた弱者のためだけの教えになります。そのような選択された信仰は「だめの教え(最後の教え)」ということではないと以前読者の方に教えていただきました。
弱者を弱者に定位させることは、強者への服従を促します。天理教で好まれる「素直」という言葉は教義や先人の教えを求道した上での主体的な悟りであるべきだと私は思います。しかし、私が「素直になれ」という言葉を天理教人から聞いてきた中で、そのような主体的な求道精神はほど遠いものでありました。つまり、そういった言葉は強者によって吐かれ、そして、それは強者の意向を尊重するように仕向けられた服従の言葉として使用されていた場面ばかりでした。弱者もまた強者の意向や強者が望む良い信者という外部圧力を意識した「素直」を実践せざるを得ず、そこには主体的な求道とは対極に位置するとしか言えません。
そういった現象もやはりアンタッチャブルな個人の自由であり、私としては「天理教が今後発展を望むのであれば、そういったことは健康的とは言い難いのでは」とまでしか言えません。
ただ、前回のブログで私が「こういった強権的な人間関係は人権上許されるものではない。」と申しましたのは、病気という心身共にダメージを負った状況の人間に対して「君は色情いんねんを持っている。いんねんを断ち切るためには修養科に行かなきゃだめ」という無自覚的な加害性です。信仰的弱者だけであるなら「健康的とは言い難い」と留めることができますが、医学的に身体的(精神的)弱者に加えて、そういったことを言うのは私は倫理的に疑問を感じたために、上記引用のような発言をしました。これは私の個人的な感想や尺度による部分も大きいので、天理教人が「そんなこと普通だよ」と言われれるのであれば、それは天理教人以外の方に判断していただくしかありません。
また今回は修養科の方の実際の話ではありますが、少ない事例の一つか、主観的脚色の強い感想なのかもしれませんので全てに当てはまるわけではないと思います。
最後に詐欺師の話をしたのも説明不足ですみません。私がここで表現したかったことは意識的にも無意識的にも天理教人は自分にとって信仰的弱者になりそうな人を選択して信仰を勧めている危険性があるのではないかということです。詐欺師はそれを意識的にやっている悪い奴というだけの話です。

信仰的格差について

修養科にいっているAさんから聞いた話をしたい。Aさんが修養科にいって初めに驚いたことは修養科の授業で「感話」という授業があったこと。「感話」という授業は自身の信仰体験をクラスの多数の前で披瀝するということである。クラス全員に順番が回ってくる。話をしたくない人は「パス」もありだというが、「あ~パスするんだ」という停滞した雰囲気がクラス中に充満するということである。私はこういった「感話」のような体験は、宗教の受容機能として一定の有意性は認めたい。そして天理教以外の宗教でも容易に観察されるできごとだと思う。
しかしAさんの話は続く。この感話で聞いたほんどの話が「私は信仰的(いんねん的)にダメな人間で、それを直すために修養科にきた」という文脈が非常に多いとのことであった。そして、その信仰的弱者であることを天理教人に指摘され、いかに自分がダメで、信仰的訓練の必要性を認めて修養科に来たという方が多いということである。Aさんの言葉を借りるのであれば、そこには教えを求める主体性や向上心というよりも、自己憐憫の雰囲気が充満していたとのことだ。個人の感想としてね。
私は個人の理由や経験に口を挟みたくはないが、「そんなレッテルを貼る天理教人はひどいな~」と思わざるを得ない話もたくさんきいた。Aさん曰く、一番多いのは病気(身上)を運命論的因果(いんねん)や信仰的未熟さに置き換えられるということである。たとえば生殖機能の病気(身上)に罹患したとすると、天理教人によって「色情いんねん」(先祖代々から異性に惑わされてきた運命(家系))という信仰上の差別的意味を付与される。病気の上にそんなこと言われてはたまったもんじゃない。
こういった強権的な人間関係は人権上許されるものではない。しかし以前、私は宗教の接着機能として二者関係であればこういった意味付与は許されるのではないかという見解を持っていた。二者関係であれば、パーソナルな理解ができる。つまりお互いの顔が見え、発言者の真意が信仰的弱者にも誤解なく伝達する可能性が高いと思っていた。反対に多数の前では真意が伝わりにくく、誤解が生まれる。だから私はパーソナルな人間理解のために「二者関係であればいいのでは」という見解を持っていた。しかし、今回の話から、その考えも雲行きが怪しくなってきた。つまり二者関係での信仰的伝達は、教えの誤解は少なくなる一方、弱者を弱者に固定してしまう蓋然性が高くなる。Aさんが感じた「感話における自己憐憫な感じ」は、そういった構造的に固定された弱者の生存戦略として妥当な帰結ではないだろうか。つまり病気に対する強者からの「身上さとし」や運命論的因果論は信仰的弱者を弱者たらしめるものに固定するためのレトリックであり、構造的な役割の固定を促進する。強者のレトリックを受け入れることは弱者が強者に反抗することを構造的に放棄することになる。
もう一度言うが、これが悪いということではない。強者から弱者に「お前は知らないだろうが、私は(その病気の意味を)知っている」というレトリックは、立場上の優先的ポジションを先取する。同時に弱者は「私は知らない人間である」ということを刷り込む。もし信仰的探求や求道というものが目的となるのであれば、「いつかあの人のようになりたい」という強者への接近や向上心が必要となる。しかし弱者を突き放すためのレトリックは信仰的涵養や成長とは逆行する。また組織上健康とも言い難いのではなかろうか。
昔聞いた話を思い出した。結婚詐欺師には騙されやすい女性を見つける方法がある。一つのテーブルに女性と向き合ったときに、詐欺師は故意に女性の足を軽く蹴る。結婚詐欺に引っかからない女性は、たまたま足が当たったと思い何も言わない。結婚詐欺の対象になる女性は「あ、すみません」と謝る。つまり、詐欺に引っかかりやすい女性というのはあらゆることを自分の過ちとして認めるとのこと。これは日本人としては美徳の点であると思うが、詐欺師にとっては騙しやすい女性であることは間違いない。という話を思い出した。

売られたケンカは買いません

私のブログに対して「何も知らないくせに!」や「知ったような口を聞きやがってコノヤロー」というメールをいただくことがある。よくある。何度も言うが、私は天理教の専門家でもないし、天理教で生きている人間ではない。また都合が悪いことに、私は職業柄、人権や恫喝には非常に敏感に反応する。
もちろん人文学系の専門家として「知ったようなことを言うな」という気持ちは分からないでもない。私も仕事の上では「外野がごちゃごちゃ言うなよ」と思うことはある。言わないけど。しかしそういった言葉が天理教人から聞かれることは、天理教関係のブログをやっている上では、きちんとブログで伝えておかないといけないと思っている。なんだか変な責任感だけど。
毎回言うが、私は天理教を良くしたいなんて思わない。悪くなってほしいとも思わない。そんな大風呂敷は広げない。ただ私と接する天理教人を見て、私は天理教との付き合い方をきちんと整理したいと思うだけである。確かに私の見解は天理教の教義に疎い点が多い。また私に経験は広い天理教の中では非常に限られた世界かもしれないし、他の系統や天理教人には妥当性に欠ける点もあるだろう。しかし私は今後も声をあげることはやめるつもりはない。もちろん間違いを指摘されれば訂正したい。私にとっての天理教は、目の前で接する天理教人が天理教の全てである。
今後、天理教人と思われる読者から脅しや恫喝があっても私はそれには屈しない。私はそれほど強い人間ではないので、攻撃されても報復はしない。弱い人間なので、批判されると気持ちが折れるのでスルーすることは多い。ただ理不尽な攻撃には私の天理教観は(無意識的にでも)マイナスに働くだろうし、そういった文脈でブログを書いてしまうと思う。

このブログを始めて嫌な気持ちになることは多いが、同じくらい多くの天理教人が「凄くいい人」であることを再認識したことは言うまでもない。

誰にとっての行為か、誰のための行為か。

懇意にしている天理教人Aさんが、修養科というところに入科?入学した。修養科というのは天理の詰所に3ヶ月間宿泊して天理教を学べるところである。http://www.tenrikyo.or.jp/jpn/?page_id=2045 Aさんはご実家が布教所である。もともとは長い間、国の研究機関で仕事をしておられたが、今年後期になりまとまった時間がとれたということで入科を決意されたようだ。ご実家の方や所属する教会からの長年の圧力が小骨として刺さっていたようだ。修養科では時間があるのか私によく連絡をくれる。
必然的に今後の私のブログネタも修養科に関することが多くのなると思う。その話の中で興味深かったことは、お勤めのおてふりを巡る男性修養科生Bさんと先生の言い合いがあったということである。Bさんは天理教の未信仰者であるが、修養科には意欲的に取り組んでいた。ある日、おてふりの授業中にBさんが先生に言った。「先生によっておてふりの教え方が違うから混乱する。どれが正しいのか」と問うと、先生は「おてふり概要に書かれているおてふりが基本だから」と答えた。すると男性は「おてふり概要があるにも関わらず、実際は先生が言うことがバラバラ。その先生達は『今は昔と変わってきているから、こうするのが合っている!』と強く言うから、結局何が合っているのか分からない」と詰問し、困った先生は「じゃあ自分が納得する形でいい。そのような矛盾は沢山あるが、そのうち分かってくる」ということでその場は決着したようだ。周りの修養科の人たちはBさんを支持した雰囲気だったというエピソードである。
このエピソードについて私は答えを持たない。おてふりというものを深く実践したことはないし、実際どういった形で伝達されているのか、正解というものがあるのかも分からない。またBさんのいう「教え方がバラバラ」という水準が何をさしているのかも分からない。
Aさんもまた「おてふりは理をふるものだから形にはこだわるな!」と教えられるものの、先生によっては先生が気に入らない所を注意されたり、合わせることや見栄えに重きを置いたりと教育的に混乱しているとのことである。
私は基本的に自分に関係のないローカルルールにはあまり口を出すべきではないと思う。しかしこういったことは天理教の中に入るとよく聞かれる。私自身も、昔天理教の教会に出入りしていた頃は参拝の回数や参拝の仕方や信仰心の涵養について、複数の天理教人より指導?注意?いちゃもん?をいただいた。うんざりしたこともあった。結果的には足が遠のいたんだけど。
「よく聞かれる」というのは、それを運用するシステムに欠陥が起きているということである。政治家の政治資金規正法で、これだけの問題が継続的に噴出するのは制度的欠陥の何ものでもない。こういったシステムの矛盾は組織であればどこにでも生じることだと思う。それが本件であれば先生である会長の質的劣化であるのか、もともと教義の不安定さから発生しているのか、矛盾を許容できないBさんの社会経験の乏しさか。それは私よりもその場におられた天理教人が感じられることだと思うので、結論は控えたい。

いつも直前に言われても・・・

知り合いの天理教人からハガキが届いた。10月27日に青年会総会という行事が天理市であり、その勧誘ハガキであった。私はもちろん平日なので行けない。言い訳になってしまうが、私を勧誘してくれる天理教人はいつも勧誘が遅い。今回は行事の1ヶ月前のお知らせでまだマシだけど、いつも行事の1週間前など直前である。社会人にとって休みをとるというのは意外に難しい。特に私の仕事は契約者と約束をして会うのが仕事だから数ヶ月前や数週間前の約束を「やっぱりこの日は無理になりました」と断ることは難しい。難しいというのは制度的には問題ないんだけど「約束を反故にするのはちょっと・・・」という人情的、仁義的な問題なのである。過去に誘いを断ったときは「天理教の御用に行けないような仕事は価値がない」というようなことを天理教人に言われたしなぁ。「毎年同じ日だから覚えといてよ!」と言われても、部外者には覚えられないしなぁ。断りにくいなぁ。返事をするのが沈鬱だなぁ。はぁ~。
$天理教社会学研究所-青年会