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天理教というヤクザ世界

インターネットで天理教を検索すると、天理教に対する批判が所々に目に入る。中には金銭的なトラブルを想起させるようなブログやホームページもある。しかし、その他の宗教団体と比べて、その数は少ない方なのではないかと思う。私の実感として天理教のお金に関して、私はそんなに嫌悪感はない。例えば高額なお供え(お布施)を強制されたり、わけの分からない壷を売られることはほぼない。そういった意味では、私の身の回りで宗教団体に加入したい人がいれば「天理教に入ればいいんじゃないかな」とオススメするだろう。そもそも宗教団体に入りたいという変わった人はあまりいないだろうけど。ネットでは数多くの天理教への偏見や誤解があるが、私は至極まっとうな宗教団体だと思う。宗教の危険度の目安である開放性では、天理教はかなりオープンである。むしろ宗教団体というよりも道徳団体であるとも言える。しかし但し書きは必要だと思う。「天理教の方は、人当たりはいいけど、本当に安心できる教会を選ばないと後々苦労するよ」と。
先日、ある地方都市の教会に嫁いだ女性の話を間接的に聞いた。その女性は布教所で生まれ育ち、天理で恋愛をして昨年教会の後継者の元に嫁いだ。自身が天理教の信仰家庭で育ったことから、天理教の教会に嫁ぐことは喜びでもあったようだ。後継者である旦那は時間のある夜に睡眠時間を削って働きに出ており、貧しい中でも一生懸命生活していた。しかし子どもを身籠ったのと同時に、彼女はうつ病になった。身重な彼女は、不安定な体調と旦那の少ない稼ぎで、生きることだけで必死だった。そこに追い打ちをかけたのが、上級教会からのお供えという上納金の催促であった。上級教会からは頻繁に電話がかかってきて月次祭ごとにお金を持っていかれる。そのお金は信者からのわずかの浄財であり、旦那の稼ぎである。彼女は今は回復しており、「教会なんて嫁ぐんじゃなかった」と冗談半分で笑って言っている。
このようなエピソードは天理教では巷間数多に耳にする。これを聞いた天理教人はどう思うだろうか。「貧に落ちきること」が教祖のひな形と言って終わらせるのだろうか。私は、こういったエピソードこそ天理教が衰退する原因を見る。
私は常々、教会組織のヒエラルキーをヤクザに置き換える。そうすることで天理教の組織が非常に分かりやすくなる。しかし分かりやすいのは組織図だけではない。組織を継続させる機能的な維持要因もヤクザと同じ点が多い。つまり見た目は市民に馴染みやすく優しいが、一度組織に入ってしまえば抜け出すことは容易ではない。そして組織への忠誠は「上納金」(お供え)で測られる。もちろん毎月の上納金の金額は、談じ合いという民主的決定を装って強者によって決められる。もちろんお供えを徴収する上級教会もまた、さらに上級教会によって催促されている。
天理教人がよく口にする「素直になれ」「たんのうせい」「神様はこう言っている」などの天理教専門用語が人権を無視した言葉の暴力と受け取られると、本当に天理教とやくざの違いがよく分からなくなる。阪神大震災でも東北震災でもいち早く組織的に駆けつけたのはヤクザと宗教団体である。
天理教のヒエラルキーの改編か、言語使用の定義を明確にしないと、今後天理教が社会の排除対象になることは時間の問題かもしれないと思う。そこまでいかなくとも、構成員の意欲を減じるようなシステムは制度疲労を起していることは間違いないと思う。折しも来月から暴力団排除条例が全国で施行される。

無縁社会について天理教では語られない大切なこと

前々回天理教が好きなトピックスの一つである「無縁社会」について触れた。それを今回は深めたい。天理教の無縁社会に対する見方は「昔は良かったが、現代は地域社会の縁が薄れている。だから昔のように縁を大切にしなきゃいかん」という方向性でしかない。以前、私は天理教の主張する無縁社会について「単に昔に返ろうではダメだ」と言った。「昔に返ろう」では進歩がない。それらを論じている方の「オールウェイズ」的な憧憬は、単なる時代的後退でしかない。日本が今後もっと貧しくなれば話は別であるが、まさか自分たち昭和世代が勝ち取ってきたものを手放すことなんてできっこない。これらは安易な後退論であり現実的ではない。既成概念をぶち破るという脱構築は、「今迄と違う考え方」ということなのだが、それは今迄しか知らない私達には、今迄学んできた以上のことを簡単にできるわけがないというジレンマを孕んでいる。そのために私は「オレは脱構築ができるぜ」という人間を私は安易に信じない。それは「声をかけあう」とか「心を寄り添う」という小手先のレベルではない。それは天理教の教義の深化であり、軸のある哲学が必要となる。まずは何気なく使っている言葉の自己点検からしかできないだろうと思う(教義の改編ではない)。「陽気ぐらしとは?」「人を助けるというのは自己満足なのでは?」という原点回帰の洗い直しから始まると思う。
そのことの一つに、私は天理教の「喪」の祭礼や死後の世界について「どうなってるんだろう」という疑問を持った。というのは、無縁社会というのはNHKの造語であるようだが、社会学的には無縁仏の増加というトピックを最近耳にすることが増えたからである。無縁社会というのは抽象的な概念であるが、無縁仏の増加という数値は無縁社会を裏付ける証拠であろう。
宗教で無縁社会を論じるのであれば、死後の世界観は欠かせることができないトピックである。現に仏門では無縁仏の増加について、檀家でなくても葬祭を受け入れようとするところも増えているようだ。宗教の前提である「喪」の祭礼や天理教の「出直し」(死)について私はある程度理解しているつもりだ。そして宗教の起源というのは死者の弔いに由来する。死者を弔うことから死後世界の想像や、霊界に送り出してやらないと祟られるということが発生する。それらの多くは、死者を迂回しつつ我々の重要なイニシエーションとなる。きちんと送り出してやらないと、死者は様々な形で蘇ってくる。これらは宗教学や文化人類学で語られることである。仏が存在しない天理教ではいんねんという概念が一番近いだろうか。
天理教は現世利益を中心とした宗教であることは承知しているし、宗教活動の一つとして現世での人間同士の縁結びに対応することは理解ができる。社会学では宗教の機能としてコミュニティを繋ぎ合わせることや、自我の成熟や他者の受容という側面で宗教の役割を説明できる。むしろ社会学では数字で説明できない霊的な部分は扱われない傾向が強い。しかしそこにこそ宗教学の存在意義がある。この場合の宗教を「死後の世界や霊は科学で説明できない」と一笑に付することはできない。葬祭という区切りを持つことは、他者の鎮魂を願う有史以前の人間特有の特性である。それが適切に達成されない場合には死者は鎮魂、成仏できない。これは我々人間特有の基本的な信仰であり、身体に深くコミットしている身体感受性である。私は田舎育ちであるからその傾向が強いのかもしれないが、葬祭などは「ちゃんとしたい」と思う。浄土真宗では死者を穢れとは捉えていないため「御清めの塩」というものがない。この事実に初めて直面したときに、私は信仰や教義以前に身体が「ちょっと塩がないとヤだな」と反応してしまう。こういった体験をしたことがある方は多いのではないかと思う。それは祭礼には厳格な手順があり全てに意味のある作法がある。その手順が抜け落ちた場合に、「ホントにこれでいいの?」と違和感が生じる。その違和感とは口を持たない死者に対する罪悪感と恐怖なのかもしれない。
天理教が務める葬儀に、私は何度か参列したことがある。基本的には神道作法であり、もちろん厳かで厳粛である。しかし、その意味性について私はよく知らない。
だいぶ前置きが長くなったが、私は天理教の死後の世界についてあまりよく分からない。このブログで何度も俎上に挙げている臓器移植も今回の無縁社会も、死後の世界観とは密接に関係する。この死後の世界について私が天理教人に聞けば「人間の身体は神からのかしもの・かりもの」「魂は自分のものだが、身体は神様に返す(出直し)」「死んだら魂は御霊(祖霊殿)になる」という言葉が聞かれる。同時に、それらはそれ以上の探索を拒むような思考停止装置として機能する。しかしこの思考停止装置としての重要性も私は認識しているつもりである。「ケ」というアンタッチャブルは、安易にアクセスできるようなものであってはならない。しかしそれを宗教教義の根幹として容認していいのだろうか。この塩梅は非常に難しい問題である。それはまた別項で論じたい。
天理教の死後の世界については私が聞き忘れているだけか、私が聞いた天理教人が知らないか説明し忘れただけか、そもそも天理教では死後の世界に対して教義を持たないのか、どれかであろう。もし天理教では死後の世界に教義を持たないのであれば、それは宗教団体として非常に由々しき課題であると思う。「出直し」という教えと祖霊殿の意味、お墓の意味、骨の意味、死後の肉体の意味がどういうように整理されているのだろうか。一つの例えとして臓器移植における天理教本部の見解は「脳死状態は神様からのかしもの、かりものの状態であるから、臓器移植は認められない」とする。ということは天理教にとって死体は「かしもの・かりものの状態ではないから、煮るなり焼くなりバラバラにするなりお好きにどうぞ」ということになってもおかしくない。しかし、現実問題として天理教人はそうはしない。そこには私には知らない天理教人の教義や暗黙知があるのだろうが、私は不勉強なため知らない。申し訳ない。
天理教は信仰がなく身寄りのない人間に対して葬祭を執り行うのであろうか。それとも「身寄りのない人間の葬儀なんてできないよ」と行政に丸投げするのだろうか。

天理教と悲観論

前回、天理教の「無縁社会」について論じた。悲観論者は「無縁社会」も含めてネガティブな見方から抜け出せない。同時に悲観論者は悲観的事実が起こることで悲観論に正当性を持たせるという屈折した心性を持つ。「ほーれ、わしの言ったとおりじゃ」と。現在の天理教の限界として、悲観論であることでしか天理教としての存在意義は確立できない。この悲観がどこから発生しているのかを考えると、「陽気暮らしなんて達成できない」というパラドキシカルな無力感から構造的に悲観論が生み出されているのではないだろうか。もし陽気暮らしという概念が明確に具体的であるならば、天理教人が行なうことは悲観論ではなく陽気暮らしへの具体的実践でしかない。陽気暮らしというゴールがぼやけているがために、「おたすけ」という実践の理論的根拠が乏しくなるのは実は多くの天理教人が感じていることではなかろうか。その証拠に「喜ばなければ」という天理教人は、次には決まって現代社会がいかにダメであるかを語る。こんなにダメな社会だから天理教の教えが必要だ!というのは理解はできるが、手法としては悪徳商法と遜色ない。実際に天理時報を見ても、エッセイ記事の文頭は必ず「現代は人間同士の繋がりは希薄」だの「ひきこもり、ニートは増加、心が病んでいる」だの定型文が登場する。私はこういう文に接するとウンザリする。「あぁまたか」といった具合に。なぜなら、そういった言葉を発することで、結果として信者獲得には機能するかもしれないが、陽気暮らしには遠ざかっているのではないだろうかというジレンマを抱えるからだ。高橋源一郎は社会時事を論じる際には対案を提示すべきと言っていたが、社会的病理現象に対して「だから天理教が必要」というのは摺り替えであり対案にはならない。だから、そういったネガティブな言説を論じてはいけないということを言っているのではない。せめて、その屈折した心性が天理教には存在することは自覚した方が健康的であるということであう。自分にも他者にも。
「無縁社会」について論じようと思っていたら、天理教の悲観論になってしまった。私の悪い癖である。「天理教と無縁社会」については次回。

最近の私と天理教の接点

私は週に数回、近所をランニングしている。今は健康志向のランニングブームであり、街を走る人も数年前に比べて非常に多い。しかし私のランニング歴は長い。もう10数年以上前から走っている。振り返ってみれば、空白期間にタバコを吸ってたときもあるが、今は禁煙も達成し健康的である。来月には市民マラソンを走る予定だ。
近所を走ると天理教の教会3カ所くらいを通ることもある。その中で一番大きい教会は路面の掲示物も多く、私はランニングを止めて見入ってしまうこともある。その教会の天理教人とは面識がない。
私が走る時間帯は早朝か夜なのだが、今月に入って夜に走ると天理教の「神名流し」に遭遇することが重なった。「神名流し」とは天理教の伝統的布教手法の一つである。私はその手法には布教戦略としては懐疑的立場である。「神名流し」とは天理教人が列を作り歩くのである。先頭の人が紫色の布地に「天理王命(テンリオウノミコト:天理教の神様の名前)と白抜きに書かれた幟を持つ。2番手が、拍子木を鳴らし、全員で天理教の歌をうたいながら行進する。その布教的意味については何度も論じているが、今月が始まってまだ10日あまりに2回も遭遇するのは驚きである。今までも近所の駅で天理教人が布教をしているのは月に1回ほどは見ていた。ツイッターのTLを見ても、「神名流し」と遭遇したと思われるツイートが多い。好意的ではないのが多いが。調べてみると天理教公式ホームページには今月下旬には天理教の布教強調週間があるようだ。それに前だって青年会が布教強調週間を設けているようだ。私が遭遇したのは青年会の神名流しだったようだ。
もう一つは、書店で手にとった雑誌「文藝春秋SPECIAL」の後半に「がんと向き合う宗教病院」という記事があった。その中に天理教の「天理よろづ相談所病院」(通称憩の家)が1ページに渡って扱われていた。そこでは病院の医師230人のうち天理教信者の医師は20人程度であり、開院当初から京都大学と密接な繋がりがあり、天理教信者の受診率は全患者の1割程度、手術を控えた患者の8割が天理教教師からの「おさづけ」(祈り)を受け、元々は結核?の療養病院であったが、高円宮?から「なんで天理教はしっかりした病院を持たないのだ?」という言葉を受けて二代真柱が設立したこと、過去にキリスト教信者が院長をしたこともあるという事実は興味深い。雑誌では天理教以外にも関連病院を持つ宗教病院が扱われていた。どれも宗教的祈りが強調されていたが、ほとんどがホスピス病棟のことである。天理教ではこれからホスピス病棟を新設するようだ。
http://www.bunshun.co.jp/mag/special/

先週の天理時報を読む。天理大学の宗教学者が「無縁社会」について論じていた。「無縁社会」という言葉はNHKの番組に由来するが、それ以降天理教の「無縁社会」の引用回数は非常に多い。私はこうした天理教の悲観的な印象形成に対して「あんまりよくないんだけどな~」と思いつつ見ている。言葉を与えるということは、そこから抜け出せないということでもある。たぶん今後天理教は、ずっと「無縁社会」と言い続けるだろう。なぜならこの言葉は「最近の若者は・・・」という若者論と同じで、いつの時代になっても終わりがないですもの。そしてそこからなかなか脱構築できない。加えて「無縁社会」と言うことで自己の存在意義を強調できるのである。これは正直言って質が悪い。「あまりよくないんだけどな~」というのは、悲観的な思考が身体化してしまうと、悲観的事実を渇望してしまうということである。悲観的事実が起こることが自己の存在を証明するということなのだから。東日本大震災で半年が経ったが、震災の支援なのに生き生きした人を見なかっただろうか。「今こそやらねば!」という人はあちこちで見かけた。そして、それが被災者との最大の壁であると私は言った。それは被災地に「ひのきしん」で赴いた天理教人も例外ではなかろうかと思う。そのメンタリティは、自己の存在を形成する上では非常に脆い。代表的な話に「消防士は火災を渇望する」というのがある。火災なんて起こってほしくないが、起こらないと消防士の存在意義が無くなる。そして火災が起これば消防士は日々の訓練の成果を発揮できると生き生きとするのである。被災地に行った天理教人が、帰ってから生き生きと被災地の様子を誇らし気に語っている表情を私は忘れられない。消防士の話に戻すなら、消防士はそのペシミスティックな満たされなさを自覚する必要がある。これは天理教人も同様だと私は思う。
「天理教と無縁社会」については次回も考えたい。

「集会」の原則は満場一致って・・・?

先週届いた天理時報の一面は「集会」について。この集会であるが、私は初耳である。天理時報のトップ一面を飾るくらいだから、天理教人にとっては周知された会合なのだろう。それは、会の主旨が天理時報に明確に書いていない点からも窺える。天理教人にとっては「知ってて当然」のことであるが、天理教人以外には理解しようと努めても分からない。「集会ってなんのための会合なんだろう?なんでこんなに直線的なネーミングなんだ?」という疑問を抱えたまま記事を読むが分からない。70周年目を記念しているのだから天理教の運営に関して重要な役割を担っていることは間違いないようだ。私のように天理教のことをよく知らない人も天理時報を読んでいるのに説明してほしい。

この記事に関して、私は脳裏に2つのことを想起した。
1つ目はこの「集会」の持つ機能である。全国から任命された天理教人が天理教の何かを決定しているのだろうが、それはどの水準で機能しているのかという問いである。前回のブログで俎上に挙げた「かなめ会」について、「かなめ会」で議論されたことであっても教区や支部では議論ないという話を聞いた。事情教会の整理というとても重要案件であってもである。極端なことを言えば「集会」で話し合われていることはすでに上層において「決定済み事項」なのかもしれない。記事の中の「教庁側と集会員の談じ合い」という文言からは、集会は表統領の管轄の諮問機関であるのだろうから、教義哲学ではなく組織機能に関わることを談じ合っているなのだろう。そもそも「かなめ会」でも事情教会の整理という件は議論されたは聞いていない。表統領からの報告と私は聞いている。だとしたら、天理教の組織機能を本当に議論されている場は、非常に限られた人間であるということだろう。それは真柱であろうか、表統領だろうか。民主主義の体面をとっているが、実体はどうなのだろうか。それよりも、まずは疑ってかかるという私の悪い癖だろうか。

2つ目は1つ目と大きく関わるのだが、天理教人の「談じ合い」という方法論である。天理教人は談じ合いが好きである。談じ合いは会議とほぼ同義であるが、異なるのはその意思決定プロセスに関して「満場一致じゃなきゃいけないよね」という空気が漂うことである。それは「みんなで決めたから、みんなで頑張らないといけないよね」という民主主義的な感じのことである。そして個人的経験として私は天理教人の談じ合いに関してトラウマがある。昔、定期的に天理教人の会議に出席を求められたことがある。私は実務的な専門家アドバイザーとして参加した。そこでは夕方から始まり、時には日付が変わるまで会議をした。様々な議題が議論された。しかし結論はすでに決まっていることが多いか、議長の意向のまま議決になることが多かった。時には激しく議論が対決されることがあったが、そういう時に限って議長の「神様はこう言っているのだ」という恣意的な教義の引用が披露され、我々は口を奪われて、その引用のまま一気に議決される。もちろん議長が信仰的に一番エライ人である。そういうことが繰り返される中で私は「こんな会議、意味ないじゃん」と倦怠し会議には参加しなくなった。その時はまだ私も若かったな・・・。
私が一番嫌悪するのは、民主主義でも独裁でもなく、民主主義の名を利用した独裁である。そう北朝鮮みたいな。そういった意味でも「集会」において多数の参加者から満場一致という決定を得るプロセスが非常に気になるのである。これは天理教だから気になるのではなく、もし多数の参加者を満場一致で議決にできるのであれば是非その方法論を教えてほしい。数年前に企業ではコーチングという言葉がもてはやされた。コーチングとは企業で人間をコーチ(育てる)するということである。そのコーチングの成果は主に「会議の方法」に民主主義が導入されたことが大きいと聞いた。つまりコーチングが導入される前は会社の意思決定は「エライ人」によって行なわれてきた。しかしコーチングの導入によって、会議の議決は無記名発言や無記名投票、ステイクホルダーの除去が当然となり、その結果「若い人がやりがいと責任を持つようになった」と聞いたことがある。会議の場において上司や自分を評価する者がいれば、円滑や自由な発言はできないのは誰もが経験したことであろう。それを「最近の若者は主体性がない・・・」と括ってしまっているようでは外部企業評価は「成長の見込みがない」となるだろう。
閑話休題。信仰的上位にいる人(エライ人)が、満場一致と言っていることを私は信じることができない。それは信仰的下位の人間が言うことに信頼性がある。震災の原因論に関して天理教では「高山の傲慢」(上にいる人間の傲慢)という言い方が一部の偉い天理教人から聞こえた。しかしその言葉が天理教の高山からしか聞こえて来ないのと同じ理路である。もちろん天理教は政治ではないのだから、独裁であっても構わない。独裁という強いリーダーシップの政治手法が国家を支えていることは世界を見れば一目瞭然である。どうしても独裁=悪いというイメージがあるが、それだけでは民主主義が良いという説明にはならない。民主主義にも欠点は多くある。ということで、天理教の談じ合いに関して私は非常に懐疑的な見方をしている。

突然、天理教の教会が消える日

ある方から教えていただいたのだが、このたび天理教の事情教会が整理されるようだ。情報源はかなり信頼できるソースだと思う。たぶん。天理教の人間思案の集合体である「かなめ会」での合意が得られていることなので極めて事実に近いと思う。
まず今年3月に書いた私のブログを採録したい。
http://ameblo.jp/tenrikyosyakaigakulavo/entry-10822046581.html
そこでは、宗教法人に対する世間の風当たりは今後強くなっていくことを予見した。同時に「かなめ会」において不活動天理教教会の“整理“をしていく方向性を確認された。それが3月のことである。そして今回、「大きな決断」として実際に不活動天理教教会を整理するという話になったようだ。廃止するという言い方ではなく「本部へ理を返上する」という言い方が正しいようだ。
具体的には、現在1668カ所ある無担任教会のうち、10年以上の無担任教会518カ所を今年12月末日を持って理を返上することを願うようだ。ただしこの方針は今後も継続されるのではなく、今回限りの措置であるとのこと。まず私は「無担任教会」という意味が理解できなかった。類推するに担任がいない教会=教会長がいないということなのだろうか。天理教では世界に1万7千の教会がある。私が聞いたところによると、そのうち7割がいわゆる「事情教会」といって(主に構成員数に)問題を抱えた教会であるという。数的に事情教会は無担任教会を包含するのだろう。
私はこの度の方針に対してどのような評価をすればいいか分からない。私に情報提供してくれた方は「文科省や社会の圧力があったのでは」と教えてくれたが、これも事実関係は不明である。同時に「教区や支部ではこういった話は流れなかった。直属教会長(主に大教会長)のマイナスポイントになるために、この話は内々に秘密裏に進められるか、無理矢理役員に担任を持たせるのでは」と危惧されていた。
この問題が今後どうなるかは分からないが、私の疑問は教義が抜け落ちている点である。前にも書いたが教会の設置や教会長の任命というのは神様からの許可が必要である(お許し?だったかな)。つまり教会の設置は神事であるのに、廃止する場合は世間(新聞)の風当たりや文科省の指導という理由があるにせよ“人の手で”決定されることにある。つまり全て後手であるから、秘密裏に進めなくてはいけない事態となる。もちろん、社会の風当たりや文科省の指導の前に天理教本部は無担任教会の実態を把握していていたことは言うまでもない。その対応を放置(10年以上って・・・)していたあまり、この度の苦渋の決断になったのであろう。天理教本部の立場を擁護するならば、社会の空気を読んで前もって対策をとっていれば無担任教会の廃止に対しても神の意向にすり替えられる論理展開ができた時間はあったと思う。
話は変わるが「大きな決断」に直面する人間は、その時点で非常にリスクを引き寄せる人間であるというのは心理学では常識である。大きな決断というのは非常にリスクを生じる。精神的ストレスも大きい。なぜ大きな決断を必要とする人がリスクが高くなるのか。それは大きな決断の手前には選択肢が豊富な小さな決断が無数にある。その小さな決断を無視し続けた人間にだけ、知らないうちに選択肢を狭め、その後大きな決断が訪れる。「2つしかないよ。どっちにする?」とね。進学や就職、結婚などで人々は大きな決断を必要とするが、小さな決断をしている人はあまり悩む必要はなく、リスク(後悔)は少ないのである。
これを件の天理教に当てはめるなら、早い段階で「あれ?おかしいぞ。無担任教会が何年も放置されてる」と対応していれば、こんなことにはならなかったはずである。社会的には、宗教法人の税制優遇の批判的な流れは今に始まったことではない。その怪しい臭いを感じ取れる人間が天理教の中枢にはいないというのは致命的な組織的欠陥ではなかろうか。そのような管理職についていく真面目な天理教人が不憫で仕方ない。「教会」というものの意味性を教勢という体面で不透明にしてきた結果ではなかろうか。そして大きな決断の結果によっては指導力のない直属教会長が白日の下に晒されることになるのだろう。
教会が消えたら、その土地、財産はどうなるんだろう。

私が私であるための文章


今回もコメントの返事を書いていたら長くなったので、ブログに替えたい。

こんばんは。いつもありがとうございます。読者に配慮が少なくてすみません。私なりに分かりやすく書いているのですが、考えたことを一気に早打ちしてしまうので分かりにくくなるのかもしれません。しかし一気に早打ちすることにこだわる理由があるのです。それは「私の生の言葉」を新鮮なままに届けたいのです。私がブログを書いているのはほとんど深夜か早朝です。時には寝なくてはいけない時間や出勤しなくてはいけない時間になり書いている途中で止めなくてはいけません。そして後で続きを書こうと思うのですが、その時には途中まで書いた文章を読み返して「もう違う考えになった」や「そうじゃないんだけどな」と手が動かなくなります。現に、ブログを書いてもアップしないで途中で放置された文章が月に2、3回あります。ですので、ブログのほとんどはHere & Nowを重視しています。

時折、私の書く文章がよく分からないというご質問や、分かりやすく書けとご注文を頂くことがあります。もちろん、できるだけ訂正と修正を心がけていますが、正直私もよく分からない自分の文章に出会うことがあります。「あれ?僕は一体何を言いたいのだろう?」というように。自分でも分からないことを口走るというのは非常に創造的体験として私は捉えています。なぜなら言葉にすることで初めて「あ、僕はこんなことを考えるのか」と自明できるからです。
私が「自分の言葉」を重視することに対してラカンであれば、「お前の言葉なんて一つもない。全て引用である」と言うでしょう。確かに、私の使う単語や語法は私が今まで読んできた哲学者や思想家の筆致(それを訳した日本人の語法)に強く影響されていることは認めます。もちろん考え方でさえも。ソシュールでれば、「お前の使っている言葉から、お前は自由にさえなれないのだ」と言うでしょうね。私が使用する単語や語法は骨肉化しており、容易には脱却することはできません。
以上のことから、現在の私は「なるべく分かりやすい言葉で書こう」と「英単語は極力使わないように」の2つを頭の隅に置いています。しかしそれ以上要求されるのであれば「無理して読まないでいいよ」としか言えません。なぜなら無理をすると、それは私ではなくなるからです。もし読者が私の文章を読まなくてはいけない状況(例えば読者が私の生徒で、ブログの内容を理解しないと単位がもらえないとか)やお金を払って読んでもらっているのであれば、もう少し丁寧に書きますけど。

このブログを継続的に読んでいただいている方はお気づきですが、私の読解は構造主義に依拠することが多いです。ですので、構造主義的に天理教を分解する視点ばかりだと思います。私が天理教を構造主義的に読み解くことで驚いていることは「誰も今までやっていなかった」ということです。長い歴史があり、立派な研究機関を持っていながら、その輪郭の不安定さが表に出てこなかったのは最近になって身にしみている驚きです。ですので、今は天理教×構造主義に対してガシガシと新しい論点、視点を見つけ出すことを優先して取り組みたいというのが本音です。ブログのイメージから私は非常に気難しいおじさんだと思われることが多いですが、実際の私は意外に柔軟でフレンドリーだと思うんですけど誰かに聞いてみないと分かりませんね。長くなりましたが、これからもお手柔らかによろしくお願いします。

いかに信仰動機を駆動させるのか。

前回書いたブログのコメントに返事を書いていたら、随分長くなったのでブログに替えたい。

>匿名さん
こんばんは。いつもありがとうございます。ご経験から紡ぎ出される言葉には非常に勉強させていただきました。また私の見解を丁寧に補足いただき感謝申し上げます。
感想を述べさせていただきますと、何をもって正統とされるかは非常に微妙な課題を孕んでいると思います。なぜなら現実的問題として鼓笛隊と伝道を両立させるためには一時的に布教を忘れ、目の前の人といかに共同的に楽しむ(厳しい練習も含め)かということに没頭する必要があるからです。目の前に用意されたことに対して楽しむことをせずに、布教者の思うままに説法をしてしまっては非常に「天理教=つまらない」ものとなるでしょう。現実的と前置きをしたのは、今の天理教の方向性が過剰に「心」に還元する姿勢は現実には大して役に立たないという皮肉も込めています。
例えば、「こどもおぢばがえり」には「お楽しみイベント」(エンターテイメント)と「仕込み伏せ込みイベント」(教えに基づく学び)の2種類があります。ある会長様は天理教の素晴らしい教えを、なんとか子どもたちに伝えたいと「お楽しみイベント」は少なめに、「仕込み伏せ込みイベント」を多めにしたそうです。その結果、翌年の参加者は減少したそうです。つまり子どもたちには「こどもおぢばがえり=つまんない」となったのでしょう。これは布教という側面、伝道という側面、こどもおぢばがえりの意義から本末転倒ではないでしょうか。
私が何を言いたいのかというと、天理教の素晴らしさは人間関係が開始したその時点でその天理教人の人間性が<既に>担保しているということです。意図せずとも<既に>担保することになっているというのがポイントだと思います。私は「仕込み伏せ込みイベント」を否定しているのではありません。私も教義の紙芝居とお勤めと回廊拭きを体験したことがありますが、あれは非常に貴重な宗教体験であり、道徳教育であると思います。しかし伝道という側面から、それらは貴殿のおっしゃられる「一つの方策」であり、本物志向とは少しズレると思います。貴殿の仰られる本物思考とは目の前の天理教人の人間性が担保しおり、どのように振る舞い、接するかということだと思います。乱暴な言い方を許して頂けるのであれば「こどもおぢばがえり」は楽しいだけで十分だと思います。天理という地と天理教人である引率者は必要不可欠な要素なのですから。

ノンバーバルに関してはコミュニケーションにおいて非常に重要な視点だと私も思います。しかし昨今の心理学還元傾向に便乗するよりも、せっかく天理教の名を冠したブログを行なっておりますので、私は人間性や霊性などでコミュニケーションを論じて参りたいと思っております。

コトバはなかなか届かない

先日こどもおぢばがえりの記事において鼓笛隊活動を例に挙げ、信仰の世代的循環について話をした。すると「じゃあ縦の伝道のためには鼓笛隊をさせればいいんですね!」という感想をいただいた。う~ん、そういう意味で言ったのではないのだけど。なかなか自分の思いというのは相手には伝わらないものである。私なりに丁寧に説明したつもりなんだけどね。
私も本業ではコトバを主要ツールとして扱っており、コトバには強い思いがある。このブログではコトバがどのように発生し、浮遊し、伝達し、反響してくるのかは非常に興味深くモニタリングしている。しかしネットという未知の世界では実験的色彩が強く、学ぶことも非常に多い。このブログではコトバは変容し、一人歩きをし、時にはレセプターの情動を激しく揺さぶる危険性を学んだ。一方で、こんなブログのコトバでも人を励まし、レセプターの情動に安定をもたらすことも驚きとして学んだ。しかしやはりコトバは不安定でなかなか相手に届かない。面と向かっていてもコトバは伝わりにくいのであるから、顔も見えないブログではその思いは非常に強いものであるというのが一番の感想である。私の周りに「話せば分かる」ということを平気で言う人がいるが、コトバを生業としていれば話せば分かるなんて「話したい欲求を満たすだけの独りよがりであることに気付く。
再度説明すると、鼓笛隊をすることは信仰が伝達することの解答ではない。私が言ったのは社会学的に観察された現象でしかない。鼓笛隊活動が信仰を伝達する可能性を持っていることは容認できるものの、「鼓笛隊をさせればいい」という言葉からは、その可能性を感じることはできない。
なぜなら私が考える信仰の本質とはいかに信仰に対してオリジナルなメリットを見いだすかということである。「メリットだと?信仰を損得で語るなんてけしからん」と怒られそうだが、最後まで聞いておくれ。この場合メリットとは経済的利益ではない。精神的安寧のための信仰やコミュニティセーフティネットのための信仰、家族の精神的繋がりのための信仰、自己実現のための信仰、陽気ぐらしのための信仰と色々な複合的利益を指す。そして、それは天理教の雛型でもある。新興宗教の始まりは「貧・病・争」の救済であり、天理教も病の救済として現世利益を人に付与することが伝統的な入信動機である。つまり信仰することは何らかの”良きこと”がなければならない。そのためには信仰に対して個人的な意味づけをすることが必要である。その意味づけを他者が代わって行うことはできない。できないというより意味がない。意味がないということは信仰を継続する上で動機が脆弱ということである。
鼓笛隊に置き換えるのであれば、一番継続性が強い動機は「鼓笛隊をしたい!」と自分で意味付けを行い動機を駆動させることだと思う。子どもであれば、とりあえず大人から「鼓笛隊やりなさい」と言われるかもしれない。しかし継続させるためには「言われて始めたけど、鼓笛隊って楽しいよね」と自分なりに意味付けを行なわなければいけない。冷静に考えると当たり前な話だけど、「鼓笛隊をさせればいい」ということが本質的でないことが理解できる。鼓笛隊のスタッフ側からの視点で考察するならば、子どもに鼓笛隊をさせればいいのではなく、いかに子どもに「鼓笛隊をして楽しい」と思わせるかがポイントとなる。ここまでは一般論であるが、ここから私なりの持論を展開するならば「鼓笛隊をして楽しい」と子どもに思わせるのは、大人がいかに楽しむかであろうと思う。いくらコトバで「楽しめ」といっても子どもは興味を示さない。子どもが興味を示すのは、大人がいかに興味を示して楽しんでいるかであろう。大人が面倒臭そうに「やらされている感」でやっていれば、子どもも「やらされている感」が出てくるだろう。一方で、大人が「ちょっとこれはおもしろいんだぜ」という視点で取り組んでいるならば子どもは寄ってくる。これは教育者であれば誰もが経験したことであろう。
そして、これらは鼓笛隊に限られたことではないのかと思う。つまり上記の「鼓笛隊」の単語を「天理教」に置き換えてみれば、そのまま信仰の動機付けをいかに駆動させるかという話になると思う。「カイン、天理教ってめちゃめちゃおもしろいんだぜ」と天理教人に言われれば「え?なんで?教えてよ」と興味を示すだろう。それはコトバよりも、その人の表情や雰囲気が大切であることはコトバよりも本質をついていることだと思う。私の周りの天理教人を見ても「話を聞いてみたい」と思う方は、話の内容よりも天理教に対する生き方に興味がある。一方、私に信仰の話ばかりしてコトバに頼り切る方は、正直私は避けていると思う。コトバとはツールであり、コトバも生き物であることを考えた。

社会における天理教の役割を考える人は誰か

ある方から「天理大学おやさと研究所夏期特別講座「教学と現代8」東日本大震災における天理教の救援――全教あげての活動と今後の課題を考える」というものがあるとお知らせいただいた。
http://www.tenrikyo.or.jp/jpn/?p=4027
大変興味深いが、この日は土曜日であり仕事があって私は行けない。私が一番興味があるのは、震災における天理教の活動よりも震災における天理教的見方である。そういう視点では講演やパネルディスカッションよりも、司会の方の話を聞いてみたい。この司会の方が出力される文章は非常に宗教学的であり私も勉強させてもらっている。日本の宗教学者の実態として、ほとんどの学者がプライベートでの信仰を持っている。加えて哲学から派生して100年余りしかない宗教学では、ややもすれば独善的な理論展開となる。その学術的な不安定さは天理教学でも同じである。特に天理教内の研究機関であれば、いわゆる「御用学者」として一定の水準で思考が停止する。その結果、学問なのか布教なのか分からない状態となる。そういう視点では、この司会の方の書き物は宗教学的に天理教を読み解こうとする姿勢が感じられる。震災以降のグローカル天理の文章しか読んでいないが、少なくとも私はそう思う。感じ方は人それぞれだけど。誰か本講座の感想を教えてくださいな。