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天理教の家族観から見えてくる天理教の限界


私が天理教に期待すること。それは現代社会において、今まで通用してきた上昇的価値観が行き詰まり、新たな価値観を模索すポストモダンにおいて天理教的価値観を取り入れることである。その典型例が大地震による生き方の“再構築”であろう。我々は今まで家族や命や縁などといった面倒なものを軽視してきた。その私たちの強欲な生き方に対して「本当に大切なもの」を模索しなくてはいけないと思う。それは決して「昔はよかった」と安易にタイムスリップすることではない。それだと同じことの繰り返しに過ぎない。
今までのやり方では通用しない「何か」を、私は天理教の高潔な教えに期待した。新しい価値観の構築を。しかしそれも雲行きが怪しくなってきた。
特に今週の天理時報4236号の裏表紙の「現代社会と家族」という天理大学教授の記事を見て愕然としてしまった。よく分からない図はまだいいが、結局は「昔はよかった」ということである。「田舎で育った私は家族に囲まれた理想型であった。今でも我が家は家族一緒に神様をおがんでおり絆があって素晴らしいのだ」ということである。そこには宗教学者目線で解法を提示することはなく、これからの現代社会を生き抜くためには「私のような生活を」ということであり全く内容がない。「私は正しい」という上から目線でイラっとさせられる。家族に囲まれている私が正しいではなく、核家族が当たり前となり、家族が一緒に住んでいない場合や、絆がない状態において、どのように家族を考えて接着していいのかを提示するのがあなたの仕事ではないか。あなたが宗教学者として解法を提示できないようでは誰が提示するんだ!と私は言いたい。いや、一応解法は末尾に提示してある。そこには「生活圏の差異を超えた絆を与えてくれるのは、やはり“超越的な価値”とのつながりーお道の場合には、親神様と人間のつながりーの意識ではないだろうか。」という聞き飽きた中身のない結論であった。むしろ、家族の絆を言うのであれば「親神様と家族のつながり」ではないだろうか。家族一人ひとりが信仰していては家族として交わらないだろう。宗教学者として“超越的な価値”を信仰に求めるのであれば、その信仰がどのようにして家族に醸成できるのかを一般に提示できるのは宗教学者のあなたしか提示できない。あなたがそれを放棄して、市井の教会長さんのような非現実的なフワフワした事を言っていては天理教の知的威信は相当に低下しているとみていい。それが今の天理教の限界なのかと思うと、天理教が混沌とした社会で今後も存在意義を示せる可能性はないに等しい。「こころが大事」くらい私でも言えるぜ。
ただ可能性として、天理時報が意図的に信者の思考停止のために編集段階でフワフワした結論にするように圧力をかけた可能性は否めない。実際に、天理時報の記者は執筆依頼をするときに「こう書いてくれ」という圧力をかけると私は聞いている。

天理高校野球部の不祥事について。

ここ数回、連続ブログとして信条教育について検討している。そんな中、昨日の昼休みに「天理高校野球部が暴力事件で夏の大会辞退」というニュースを知った。シンクロニシティである。ちょっと調べてみるとネットではその情報が溢れていた。恐るべしネットの繁殖力である。
もちろん天理高校は天理教の学校であり、このブログでテーマとなっている信条教育である。しかし今回のような個別の事象において、全体論的な信条教育の是非を語るべきではないと思う。これは信条教育の成果でも問題点でもあってはいけない。
今回の問題について強いて言うのであれば、私は教育の目標は社会的自立であると思う。そう考えると信条教育に関わらず教育過程にあるものは未成熟であり、未完成である。教育の成果とは最低でも卒業時にしか判定できない。もしくわ死ぬ間際でもその学校の意義や信条教育なんて理解できないかもしれない。畢竟、罰するだけが教育ではなく、加害生徒の処遇や被害生徒、無関係な野球部員の将来を適切に扱うことこそ教育機関としての天理高校の意義があると思う。
個人的な感想からいえば、天理高校がスピード感をもって部長、監督の首を切って、無期限活動停止としたのは、私立としては避けられないことだろう。天理高校の初期対応としては、方法はそれしかなかったのかもしれない。しかし高野連の連帯責任を容認する姿勢には甚だ疑問である。本問題に関係のない球児だけのチームで出ればいい。私はその方が心情的に楽に天理高校を応援できる。高野連が連帯責任を容認するのであれば管理する高野連にも高校野球のドラマ性や神聖さを賛美する私達にも責任がある。自分の首をさらけ出さないでお上な態度で教育を語っていても、そうは問屋が卸さない。教育は効率とは対極にあるもので、時間がかかり、非効率的なものである。その非効率性を無視して教育を語る人間を私は信用しない。
それにしても殴った理由として「練習が軽くなったことを喜ぶ後輩をしかりつける」というのは、むしろ男らしいではないか。ただ病院送りはマズイよねぇ。

「信条教育」を「効率」で語ってはいけない

前回ブログでコメントをくださった方には感謝申し上げたい。しかし、私の話も含めて、話が少しふわふわした話になってきた。ネット特有のデマになりがちなので、ここで整理したい。信条教育を信仰者以外が担うことについて話をしたい。天理教には各種学校が複数ある。それは一般課程に重きを置いたものから、布教者を養成するような天理教の専門学校のようなところまである。天理高校や天理大学というのは天理教を信仰しない一般学生も多く入学する。天理高校は入学の条件に「天理教子女」とあるが、スポーツで優秀な成績の者などは、適当に子女にされることもあるようだ。天理大学は天理教を何も知らない学生も入学する。しかし天理高校は「教義」の時間が必修であり、天理大学も「必修」で天理教を学ぶ単位が用意されている。これらの学校では天理教を学ぶという信条教育が最大の特徴である。では信条教育の必要十分条件とは何だろうか。それは教員が全て天理教信仰者であることだろうか、全生徒が天理教に対して好意的であることだろうか。私が考える信条教育の必要十分条件は「信条教育がある雰囲気」だと思う。どのような雰囲気で教育を行うかということである。その雰囲気に「教え」が漲っていることはとても大切だと思う。特に天理教本部がある土地は、独特の雰囲気がある。私にはよく分からないが、あの土地を「特別な雰囲気」とする方は多いのではないかと思う。熱心な信者にとっては「ぢば」を母胎のような包まれた場所や神を感じられる場所として捉える方がいても私は不思議に思わない。信仰とは別に、環境としても京都や大阪からは少し離れた自然の多い学習環境にはとてもいい場所だと思う。
そして、そのような雰囲気を醸成する大きな要素は、学校トップの思想であると思う。前回、天理医療大学の学長予定者の挨拶文に関して「医療の専門家としての理念と経歴は素晴らしいようだが、信仰と医療を橋渡しするような思想や意欲は全く見受けられない。」と私は記述した。次に天理高校校長と天理大学学長の学校挨拶文をホームページから以下に挙げたので見比べてみたい。
http://www.tenri-h.ed.jp/1bu/aim/koucho.html
http://www.tenri-u.ac.jp/info/q3tncs0000000v6t.html

これはあくまで私の感想であるが、天理高校と天理大学のトップは、間違いなく天理教の篤い信仰者であると思う。この温度差は非常に大きいのではないかと思う。なぜ私が組織トップの思想が学校の雰囲気を作り、信条教育の核をなすと考えるのかを説明したい。いったん天理教の学校問題は離れるが、一昨年度から今年度にかけて関西の2つの看護系私大で、不祥事や内部闘争が発覚し現在は法廷闘争までいっている学校がある。一部関西メディアでは取り上げられていたが、単にどろどろの「内輪揉め」であるため世間にとって大きな関心事にはならなかった。その2つの学校に私の知り合いがいるから詳しく聞いていたのが、原因はまさしくトップの人間による学校の私物化に由来する。人は権力を持つと、意のままに人事やお金を操作しようとする。もちろん、立派な校訓や理念があるのであろう。結局、その校訓や理念も、使いようによっては保身のために自己の正当性を担保する道具になる。トップが自己優先すると、それを支える教員の意欲は激しく低下する。結果として、学校の雰囲気は悪くなり生徒の質も悪くなる。そうなると学校はただの集金システムになり、教育という目的を失することになる。トップが代わることは組織の雰囲気を良くも悪くもするということだ。そして一度権力を握ったトップはただでは代わらない。
特に私立学校では、学校の個性というものが売りになる。天理教の学校の最大の売りは、専門知識よりも天理教教義に基づく「信条教育」であろう。生徒が信条教育に理解をもつ必要はない。なぜなら彼らは、これから信条教育を学んでいくからである。彼らが天理教のお膝元で生活し学ぶということが大切なのである。もし学ぶ内容が大切であり、偏差値だけが大切なのであれば、天理で学ぶ意味はない。天理教のお膝元である天理という雰囲気の中で、多くの天理教人と接することが人格成熟にとって最大の信条教育になると思う。天理教関連の学校で教えるものは、信条教育が子どもの人格成熟に多分に寄与することを信じていなくてはいけない。「天理で学ぶことに間違いはない」のだと。少なくとも天理で教育をするということは、そこを理解していないと本末転倒であろう。その天理で学ぶことの意味を理解していない者を学校の最高責任者に指名するということは、私は天理教にとっての「最大の過ち」になっていく可能性があると思う。それは、天理教の衰退が叫ばれている昨今において、全国にある1万数箇所の教会の会長に、天理教のプロではなくて、経営のプロを置き換えるのと同等の恥ずべきことだと思う。

信条教育は学歴で賄うことができるのか

前回のブログのコメントの返信を書いていたら長くなったので、ブログアップに替えたい。ある方が『学閥のボスが「学長じゃないと嫌」とごねた』ことに関しては、事実であれば興味深い見解である。
以下の大学パンフレットを読む限り、学長、学部長は天理教と全く関係のない方と思われる筆致である。医療の専門家としての理念と経歴は素晴らしいようだが、信仰と医療を橋渡しするような思想や意欲は全く見受けられない。私は天理教人が学校運営を行うことに意義があると思うが、天理教を信仰しない人間、もしくわ天理教に深くコミットしていなかった人が「信条教育」を行うのは本末転倒ではなかろうかと思う。こういったことを許容してしまうと、天理教人の存在意義がなくなるのではないか。そして、それは天理教にとって地殻変動的な危機になるのではないか。つまり災害救援も、布教も、教会運営も、それぞれボランティアのプロ、広告のプロ、経営のプロに任せればいい話であって、天理教人が行う必要はないということになる。なぜ天理教が災害救援を行い、布教を行い、おたすけを行うのかという背景は、教えの根幹を構成するものである。それを他人に渡すのは、天理教人として魂を売っていると言っても過言ではないのだろうか。信条教育よりも学歴を優先した先に待つものは何だろうか。それにしても、こういったことに天理教人が声をあげないのは何故なのだろうか。何か理由でもあるのだろうか教えてほしい。私は知らない。
http://www.tenriyorozu.jp/pdf/univ/pamph_web.pdf

天理教に2つも大学が必要なのか。

本日、我が家に届いた天理時報4235号の一面は『「天理医療大学」来春開学へ」である。天理医療大学って何だ?と首をかしげてしまった。どうやら、天理教が所有する病院である天理よろづ相談所「憩の家」病院の傘下にある看護専門学校と医療技術専門学校が統合し、大学へと改編するようだ。ということは今後、天理教は2つの大学を所有することになる。なるほど。あれ?冷静に見ると、これは天理教全体として見るとおかしい話ではないだろうか。大学にするのであればすでに存在する天理大学に医療系の新学部を作ることがナチュラルではないだろうか。天理時報では大学への改編について、「より質の高い医療を提供するとともに、近年の少子化や、若者の高学歴化に対応するうえから、4年生大学への移行を目指すもの。」というもっともらしいが、中身がまったくない説明がなされている。社会を斜に構えて見てしまう質の悪い私は、こうした弱者救済には程遠い不可解な組織改編にはどうしてもお金の動きが気になってしまう。同時に、母体となる病院が公益財団法人へ移行する記事もさらっと扱われている。私は法人資格には全くの門外漢であるが、特殊法人も公益法人も真っ先に思い浮かぶのは「天下り先」である。また、なぜ天理大学はそっちのけで改編が進められたのか。そこで、以前その病院に勤めていた天理教人Aに聞いてみた。
Aの話を要約すると、この病院のほとんどの医師は京都大学か奈良医科大学の医師である。それらの医師は天理教とは全く関係がなく、ただの大学医員の研修先、就職先として機能している。むしろ天理教を信仰している医師であっても、それらの大学出身でなければ相手にされないそうだ。また病院の経営側にいるもののほとんどは医療経済を知らない天理教幹部である。なぜ、何も知らない人間でも病院経営が勤まるのか。それは天理教信者にとって、この病院は天理教によって「素晴らしい病院」と刷り込まれており、病院側は何の努力もせずに全国から患者を集めることができる。医療レベルは普通であり、「素晴らしい」という形容が当てはまる医学的功績はない。これらのことから、天理大学への改編入は天理教幹部と病院幹部の「甘い蜜」を減らすことになる。当然、天理医療大学なるものは、教団と病院の天下り先増加として機能する。新しくなる医療大学自体の建物やカリキュラム内容は大きくは変わらない。そのかわりに名前と就学年数が変わる。建物は変わらずに名前が大学に変わるということは、運営者・関係者が増えるということである。これらのことから天理教は大学を2つも所有するという前代未聞の事態になっている。公益という信頼の名のもとに、どう考えても病院側が天理大学への編入を嫌がったことが見える。
私もよく分からないし、ある特定の人物の逸話を「本当の話」として扱うのは危険である。しかし内部にいた人間のリアルな肉声としては納得がいくことが多い。以前私が聞いた話では、病院の設立当初は関西では有数の先端医療施設であったようだ。設立当初からハイレベルであったのは、教団が多額のお金を用意して京都大学から医師を呼び、高額な医療機器を購入したからであると聞いた。その後の教団と病院のお金の関係は分からないが、Aによると現在、病院自体の経営も厳しいようだ。経営は厳しくなっているのに病院は新病棟を建設するなど拡大を続けているとのことだ。となると、今も教団から病院へのお金の流れはあるんだろうなと私は推測する。病院がどこまで拡大を続けるのかは分からないが、ひょっとしたら病院拡大も、大学改編も教団は病院を統制できなくなっているのではないだろうか。私の考えすぎだろうか。教団側から考えると、天理教が2つの大学を近所に持つことはあまりに不自然である。どう考えても「おかしいでしょ」となる。全国各地の大学が淘汰されていく中で、大学や病院の破綻から天理教が崩壊しないことを祈るばかりである。そもそも何の目的で大学にするのかや病院を拡大していくのかが不明であることは、宗教団体としは根本的に大きな不安ではなかろうか。お金を見すぎて、信仰の本質が分からなくなっているのではないかと私は危惧する。今後も、この大学と病院については調べていきたいと思う。特に幹部の年収などのお金の流れについては、公務員の天下りと比較してみたいものだ。本記事の情報が誤っている場合は訂正するので教えてください。また他の情報があれば教えてほしい。

不満の溜め方

現在の天理教に対して危機感や不満を持っている方が非常に多いと感じる。私がこうした敵対的ブログをしているから、そうした意見しか集まらないというのも当然である。以前私に話しをしてくれたある方は「現状の問題点を言うと、それは教義に対する不足となり、神への冒涜と変換される。より良くしようと声をあげることさえできないようでは、天理教はよくならない」と言われていたのが印象的である。つまり現状を良くしようと問題点を列挙すれば、瞬時に発言者の信仰度合いに対して疑惑の目が向けられる。「お前はまだ分かっていない」と。これと同様の理論展開は非常に多い。むしろ、これ以外にはないのではないかと思うくらいよく聞かれる。続きはまた今度

天理教幹部内での見解の相違はあるのか

「天理教おやさと研究所」のサイトを見た。この研究所の天理教的位置づけはよくわからない。研究者の名簿と経歴を見ると、学術的というよりも宗教団体所有特有のオピニオン組織のようだ。オピニオン組織ということは、天理教にとって痛いことは言わない。むしろ、ふわふわした議論の中で、信者を逸脱させることなく天理教(教団)志向へと導くことが最大の目的となる。その中で、「月間グローカル天理」というファイルを見つけた。
http://www.tenri-u.ac.jp/oyaken/j-gt.htm#TOC11
私はまだ巻頭の所長の文章しか読んでいない。私は非常にひねくれ者なので、所長が「上から目線で十把絡げの答えが考えだせるという考え自体が人間の傲慢である」といいつつも、後半は上から目線(神はこう言っている)の断定ばかりであることに違和感を感じる。しかし、それを読む限りでは天理教幹部が述べる教義解釈とニュアンスの違いがある。このことは非常に興味深いと思う。天理教幹部と研究所の人間が、信者に対して思考停止装置を求める水準の相違は何か。この違いは、今後の天理教を占う上で大変興味深いと思う。私も色々と読み比べて、今後問題提起をしていきたいと思う。もちろん私の文章が一番稚拙であることは間違いない。先に言っちゃってずるいけど。

宗教家が非現実的な夢想家であることについての整理


村上春樹がバルセロナの受賞スピーチで地震についてコメントした。
http://www.47news.jp/47topics/e/213712.php?page=all
彼は2009年にもイスラエルの文学賞授賞式にてイスラエル軍のガザ侵攻を批判した。このとき私は初めて世界的小説家Murakami Harukiの肉声を耳にした。イスラエルでイスラエル軍への非難を口にすることの勇気と、小説家の使命感を感じた。今回も彼は、小説家としての思考回路と役割を明確にしたと思う。
特に印象的であったのは「非現実的な夢想家」という言葉であった。この言葉がメディアを通過すると、日本人は反原発を訴える非現実的な夢想家であるべきというメッセージに置換される。しかし全文を読むと、彼のメッセージが非常に宗教的であることを感じないだろうか。もちろん彼は原発に反対のスタンスであるが、同時に「原発=危険」という図式だけで反原発を批判する人間も効率という鎖に繋がれていると指摘している。
天理教は「陽気ぐらし」という非現実的な夢想を教えの柱に置いている。村上スピーチから天理教を見るのであれば、社会全体がどれほど陽気暮らしを不必要としも、天理教人は決してそれを放棄することはせずに、陽気暮らしを訴え続ける必要があるということになる。しかし、ここでも重大なトラップがある。それは、非現実的なこの天理教の教えは、依然として輪郭が定まっていない。それは私がたびたび俎上にあげていることでもある。この使い勝手の悪い言葉を志向するということの最低条件は、陽気ぐらしが非現実的であり、夢想的であるということの認識ではないかと思う。なぜなら、そこを踏んでいないと「とりあえず困ったときには陽気暮らしと言えばいい状態」となり、思考が停止する。思考が停止するということは、効率というシステムに巻き込まれてしまう。つまり、陽気暮らしであることの現実的探求をしつつも、一方で陽気ぐらしという回答は考えなくてもすでに用意されているという「現実的に非現実を主張する」という不全感が生じる。このことは、あくまでバーチャルに軸足を置く小説家と現実に軸足を置く宗教家の大きな違いなのかもしれない。ということを考えた。

原発反対活動をする天理教人について

「原発反対活動をする天理教人についてどう思いますか?」との連絡をいただいた。この短文だけであったので、どういった背景があり、どういった目的で私に連絡をされたのか詳細は分からない。ただ予想するに、原発反対運動をしようとしている天理教人が身近にいるのか、そういった動きをしようとする流れを感じている方なのだと思う。
せっかくなので今回は原発と天理教論を考察したい。以前に「天理教から原発を見る」とブログを書いたが、そこではベネディクトの回答を例に出しつつ「よーく考える必要がある」と私は回答を保留した。しかし、私に連絡をしてきた方は、それだけでは足りないと感じられたのかもしれない。いつも中途半端な回答で申し訳ない。とほほ。
では今回は明確に結論から申し上げると、天理教は原発反対という姿勢を明確にしない方がいいと思う。いいと思うというのは、極論を言うと、賛否両論がある議論に対して、どちらか一方を強固に主張することは陽気ぐらし的ではないということである。つまり原発反対は天理教的ではないということである。電気という利益を享受しているからとか、原発を生業としている人もいるからという側面はあるし、私の個人的な考えとしても原発はない方がいいのかな、とも思う。しかし私はやはり「よく分からない」という側面が強い。原発反対を主張する人は「これだけ原発は危険だ」という。しかし私には、それがどれくらい危険なのか分からない。交通事故死亡者数の方が多いんだから、車を撤廃すべきだと言わないのはおかしいという話も一理ある。原発反対をする人の多くは、活動家や左翼的思想をもっている人であるという情報もある。
かといって、私は原発反対を主張してはいけないといっているわけではない。私が主張しているのは、それは個人が考えるべきことであるといっているのである。つまり、組織や団体として原発反対を言わないほうがいい。またその組織や団体が「天理教」という字を冠している場合は原発反対を主張することは、被災者への冒涜に転移する可能性がある。「何言ってんだ。被災者が一番原発反対って言ってんだろ」と反論させるかもしれないが、私は被災者が原発反対と言っているのはあまり聞いたことがない。遅々として進まない復興や原発の対応についての怒りは聞いているが、原発の存在をそのものを批判している被災者の声を私は知らない。もちろん、私の感覚もメディアコントロールされたものかもしれない。それくらい混沌としている。声高らかに主張する人は、あたかも被災者の声を代弁しているようであって、私は代弁できているのか疑問である。また社会学的には、何か政治的主張に加担する宗教団体というのは非常にリスクが高い。それは某学界がそうであろう。味方はあるが、敵も多いのは宗教の役割ではなかろう。宗教団体は政治団体ではない。
私が天理教として原発反対を成し遂げたい方に問いたいのは、天理教人として何を成し遂げたいのかということである。天理教的地位の向上だろうか、弱者に限定した陽気暮らしなのだろうか、それとも政治的発言力の向上なのだろうか。私は分からない。ただ感覚として降って沸いたような反原発の気運に対し、胡散臭さや浮き足立っている感を覚えるのは私だけだろうか。運ばれた料理に不手際があったからといって、「責任者出てこい」では何も状況はよくならないだろう。何度も申し上げるが、天理教の役割はご飯を求めている人に対して、黙ってご飯を差し出し、その方の健康を祈ることではなかろうか。自分の意見や思想をいったん括弧に入れて、とりあえず病める者を想像し、神と対峙す中で他者へ祈りを捧げるというのが本質的な慎みではなかろうかと思う。善悪の判断ではなく、宗教者の役割というものを前提として考えることが、原発に限らずにもっとも大切なことなはずである。

天理教における修業的鍛錬とは何か  つづき

前回の続きを書きたい。まずは修行という言葉を定義したい。私は専門ではないので、一般的な理解にとどめたい。修行とは心身の鍛錬のことを指す。その目的は自己の超越であり、仏門であれば「悟り」になるだろう。ここで確認しておきたいことは、修行というのは一貫した内的作業であるということだ。山に籠もろうが、滝に打たれようが、それは自己を解脱し涅槃に達することを目的とする。この現象は宗派や教義に限らずに大きな違いはないだろう。この徹底的に自己と向き合う作業について、天理教はどうであろうか。私は以前のブログにて、「天理教には修行的要素が少ない」といったことがある(と思う)。「自己と向き合う」ということが、どの水準を指し示すのか、これは人それぞれにあると思う。前回のブログでは古典的布教手法について、時代的な布教戦略であるべきだと書いた。時代的といったのは、時代によって社会の流れに沿ったものであるという意味がある。それは天理教の歴史が示していると思う。初めて大阪の地で神名流しをしたのは教祖の娘である。それが布教(においがけ)の雛形となっており現在でも行われている。一方で、天理教は核家族化が始まった高度経済成長時に地域のリーフレット配布を行い、収益の低下にともなって天理時報の販売拡大路線をとってきた。メディア戦略としてもTVCMからラジオやスカパー番組やインターネットの活用といったように時代に合わせた戦略をとっている。前回のブログの主旨をここで補完させていただくのであれば、私は古典的布教手法といったものは修行という概念には馴染まないと考える。なぜなら修行の「自己と徹底的に向き合う」という十分条件には当てはまらない。「私は個別訪問を今まで○○万件してきて、徹底的に自己と向き合うということを達成してきた」という方がおられるかもしれない。しかし私は布教(においがけ)という側面がある以上は、修行的要素の条件を満たし得ないと思う。なぜなら布教の目的は外的利益の獲得であるからだ。徹底した自己点検において、外的利益をもたらすことになる他者の存在は、自己と対峙する場面において邪魔でしかない。同じ他者の存在であっても、修行的な他者というのは内的他者でしかない。宗教から派生した精神療法の一つに「内観療法」というものがある。これは隔離された静かな部屋で、ひたすらに他者への思いを一人で回想するものである。徹底した自己洞察ということは、心の内の自己や他者と向き合うことである。それが宗教者や信仰者であれば神の存在も参照されることとなるだろう。前段が長くなったが、上記理由によって私は外的他者が目の前に存在する布教戦略などは修行ではなく、単に布教手法でしかない。そうであるならば、布教手法というものに時代的普遍性はない。時代の窓に合わせて、変えることが大切になってくるのではないか。だって修行的要素がないのだから。しかし、この考えには違和感を感じる人も多いであろう。この違和感はどこからくるのか。それは先人が行ってきたという「雛形」の意味性に関するものだと思う。雛形という意味を手法に付与するのか、目的に付与するのかということであろう。手法というのは「神名流し」「路傍講演」「個別訪問」という実践であろう。この手法に意味をもたせるのであれば、被布教者がどれだけ引こうとも、社会が天理教をシニカルに見ようが、昔ながらの手法を行わなければならない。なぜなら行うことに意味があるのだから。一方で、雛形を目的に付与するのであれば、手法は時代や状況に合わせて変えていっても何ら差し支えはない。教祖の娘が行った手法が重要なのではなく、娘が何のために行ったのかという目的が大切になるからである。私が今まで天理教人をみてきて、一番修行的価値が高いと感じているのは「おつとめ」でなかろうかと思う。それは何の外的利益も発生させないからである。以前、友人に連れられて、ある大教会の集会に参加した。そこでは「偉いセンセイ」という女性の講演を聞いたことがあるhttp://ameblo.jp/tenrikyosyakaigakulavo/entry-10387718421.htmlその方は「おつとめの動きは体にいいと偉い医者が言っていた。おつとめをすると病気にならない」と奇奇怪怪な権威主義的な話をされていた。この話を良識ある天理教人に話すと「その手の話は山ほどある」と返答していた。悪いことではないが、宗教者としてはおつとめという宗教儀礼の目的性がズレた少し恥ずべき見識ではなかろうか。そういった話はお菓子を食べながらダイエット番組をみてる「おばさん」だけにしてほしいものだ。私が言いたいのは「おつとめ」という行為が、神との対話を中心とした自己点検の場であるということ。もちろん教義的にはおつとめの意味性というのは、より形而上的意味として存在すると思う(まさか健康のためのおつとめではないと思うが・・・)その中には「他者への祈り」や「神との契約」がすでに包含されているのである。以上の理由から、私は天理教の布教手法には、信仰的意味はそんなにないのではないかと思う。信仰を費用対効果で論じることはよくないが、社会に嫌悪させてまで古典的な布教手法を行う価値があるのかというのを見直してもいい時代にきているのではないかと思う。神名流しをやることが重要ではなく、なぜやったのか、どういう思いをもって教祖の娘は神名を流しに大阪に行ったのかということを理解することが宗教的意味があると思う。先人の雛形が大切だからといって、そのまんまのコピーをしていれば理解できるというものでもないと思う。ひょっとしたら現代の方がやる方も見る方も非常に苦痛なのではないかと思う。天理教人には分かってもらえないかもしれないが、天理教の法被を着た人間が街中に存在することは、それを見る人間はかなり高い確率で親近感よりも不信感を抱くのではないかと思う。その点をもう少し検討してもいいのではないかと思う。