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落し物と探し物

今年の私は厄年ではないが先月から不幸なことが続いている。ブログでも報告したが、始まりは先月の車の事故である。それを皮切りに、今月は財布を2度も紛失した。一度目は仕事帰りに寄ったナカウである。財布の上に車のキーを乗せていたのだが、なぜか車のキーだけ持って出てしまった。その時はお店の方が連絡してくれたが(ナカウのお兄さんありがとう)、今回は連絡がない。今回は車に乗る前に弟と電話で話していた。車の横で話していたら、片手に持った財布をなぜか車の天井に乗せてしまった。電話を切った後は、天井の財布はそのままに車を発車してしまった。5km先の家に着いたときにはもう遅かった。警察に行き紛失届けを出したのだが、紛失した場所を聞かれて「5km圏内です」と伝えると警官に思わず「広っ!」と突っ込まれてしまった。カード類は電話で止めて、幸いにも現金は\2,000-ほどだったので大きな紛失ではない。ただ、あの財布は1ヶ月前に念願かなって購入したばかりのお気に入りである。そんなに高くはないけど、今の私にはべらぼうに高い。1ヶ月の間に車を事故し、財布を2度も無くすバカボンがこの世にいるだろうか。それは私である。そのためか職場では「うつになったんか?」や「お払いに行くべきだ」など好き勝手言われている。そして今日は隣の席でコーヒーを飲む上司に分厚いファイルをぶつけ、上司をコーヒーまみれにしてしまった。久しぶりに本気で謝った(もちろんいつもは適当に謝っている)。今年はもう静かに生きることにします。

あ、天理教のことを言うわないと。天理教のことで聞いたことや、考えたいことが色々ある。その中で、今年の後半は臓器移植のことを継続的に考えていたように思う。私の周囲でもマイケルサンデルや生命倫理がホットトピックとして耳にすることが多かった。このブログを更新するときも臓器移植に対しての天理教の見解や、どう読み取るかという点で書こうかどうか悩むことが多く、結局私の中での理論的成熟を待つために敢えて筆を置くことが多かったように思う。もちろんまだ成熟は達成されていないが、出力することで成熟を醸成さすことができるとも思う。切れ味のよい筆致よりも、ぽつぽつとしか語れないものも是としていただきたい。
天理教自体に臓器移植や生死に対して議論がスルーされている悲しさはあるものの、決して先見的ではないと思う。先の天理時報では「臓器移植反対」と書いた記者がいたが、それを教義として言い切ってしまうと医療を「修理、肥やし」という教義とは矛盾する(天理時報の記者は、そこまで考えてはいない)。そういった意味では臓器移植に対しても脳死の是非や臓器を移植するという医学的生命倫理以上に、宗教では身体観、死生観というラディカルな議論でなくてはいけない。それを天理教に譬えるならば、「かしもの・かりもの」という議論は必至となる。議論の中心なるのが「かしもの・かりもの」という教えと、「修理、肥やし」の境界はどこにあるのかということだろう。この体は神様からの「かしもの・かりもの」だから体に傷はつけていけないのか。では擦り傷はだめか。刺青はだめか。手術はだめか。移植はだめか。整形はだめか。化粧はだめか。意図的に自分を傷つけるのがダメであるなら体に悪影響となる食事やお酒、喫煙はだめなのか。糖分や塩分の取りすぎもだめか。挙げればキリがない。天理教以外で世界の多くの宗派で禁欲的制限が課せられているのはまさに教義解釈からである。いつもの嫌味な言い方をするならば、その大切なことを”ちゃんと”考ようとしている天理教人はいない。天理教人だからといって社会を天理教的に”真剣に”読み解く人はに出会ったことはない。社会問題があれば「それは神様がこうおっしゃっているに違いない」というテクストは教義解釈ではなく、自分は真実を分かっているという正当性へのすり替えである。こんなことをやっていては天理教の論理(教義)腐敗は秒読みである。今後の天理教の存在意義を確立するためにも世論と同じ右へ倣え状態ではなく、里親をやっていれば間違いないではなく、教えの根幹を成熟させる必要があるのではないか。むしろ教えの根幹がしっかりしていれば、何を考え動いても、それは全て天理教的となるのではないだろうか。宗教学者の島田裕己は「天理教は新宗教よりも既成宗教に入れてはどうかという議論もある」とは言っていた。既成宗教だから良いとも思わないが、土着という意味では天理教が日本文化に根ざすかとうかの岐路であることは間違いない。少しずつ天理教と臓器移植について考えていきたいと思う。

ps「かしもの」と「かりもの」はどう違うのだろうか。誰か親切な方教えてください。

他宗教への理解が、天理教の価値を決める

宗教学者の島田裕己の著書を書店で立ち読みした。彼の最近の著書は「日本の10大宗教」「宗教ビジネス」「葬式は、いらない」と読んでいる。今回は書店で立ち読みをしたのだが、家に帰ってからさっきまで書店で読んでいた著書名を覚えていないことに気付いた。「何を読んだんだっけ?」とamazonで探してみるが表紙すら覚えていない。自分の注意力のなさを後悔する。amazonで探している中で彼が2008年に「天理教」という著書を書いていることを初めて知った。今度読んでみよう。

ところでタイトルを忘れた今日読んだ本だが、その中で彼は「『日本の10大宗教』が30万部も売れたことは驚きである。主たる購読者は50代の男性だが、若い20代の人の多さにも驚いた」というようなことを書いていた(引用ではなく私の記憶)また彼の感想として「若い人たちが宗教に対して興味を持っていると感じる」と述懐していた。オウム事件以降、日本の社会は宗教と断絶状態であったが、その後スピリチュアルや占いを経由して宗教に回帰しているということである。この点に関して、私も同感である。

なにより驚きだったのが、彼が自分自身を「昔の私は宗教の一部分だけをみて、宗教団体を評価していた。しかし中立、公平という視点を持つように心がけている。真に中立、公平は不可能であるが、そういう立場で評価するようにしている」(引用ではなく私の記憶)という記述であった。オウム事件でバッシングを浴びてアカデミックを追放された彼の言動から考えると、かなり衝撃的な低姿勢である。年をとると人間は自然とコンサバになるのかなーと思ってしまった。そういえば、「上野千鶴子も最近はましだよ」と知り合いの社会学者の友人が言っていた(私は読む気ないけど)。

島田裕己の成熟を奇貨として、宗教という多様性を中立的に見ていくという志向性は非常に興味深い。政治や宗教や性というテーマは私の中では必ず論争(戦争)になるほど他者と相容れないテーマである。なぜなら政治、宗教、性について他者と真に分かり合えるということは有り得ないと思うからだ。そういってしまうと何事も分かりえることなんてないけど。その中で中立性を目指すということは大きな挑戦であり、応援したいものだ。天理教人は天理教以外の宗教に対して無知な人が多い。いや、無知はいいが、興味がない(知ろうとしない)、もしくわ見下している人が多いことは残念である(イエスもムハンマドも創造したのは天理教だと(見下すように)言っていた天理教人がいた。確かに人類創造の教義からはそう考えられるだろうが、原理主義じゃないんだし、もっと慎みを持ってほしいものだ)。信仰を持つことは大切なことだ。しかし一つの教義に拘泥して「天理教以外はダメだ」と排他的でいることが、何より天理教をダメにすると考える天理教人に出会ったことはない。分かり合えない相手だからこそ、「ちょっと教えてよ」と相手を理解しようと努める姿勢が大切ではなかろうか。(中学生の頃、私は実家に来た「エホバ」の信仰者に「今日は時間ないけど、今度話を聞きたいからまた来てよ」と言ったら、父親にブチギレされたことがある)。天理教人が他の宗教をどのように見ているかという姿勢が、天理教(人)を究極的に理解する一番の方法かもしれないということを考えた。

あなたはアレフをどう思っていますか?何も知らないのに嫌悪していませんかね。

愛とか、信頼とか、という過信

ある教会の会長さん婦人が病気になった。大病ではなく治療法も確立しているため命に別状はない。手術も入院も必要なく、体への負担は小さい。ただ通院と投薬という長い治療期間が必要ということである。

周囲の人間は、当然のことお見舞いに行く。そして返り討ちに遭う。という話を聞いた。

ん?返り討ちとはどういうことだろうか?

私に話をしてくれた、その教会の信者さんは「奥様を心配してお見舞いに来てくれた人みんなに、病気になったことのありがたさを説いている。それは会長さんの奥様だし百歩譲っていいのだが、最終的には『あなたも心を入れ替えなさい』」と言われるのだそうだ。「心配して会いに行ったのに、こちらの改心を求められるのは人間同士の付き合いとしてどうかと思う」とのことであった。

これを見た天理教人はどう思われるだろうか私は聞きたい。このご婦人の対応を「宗教者として当然だ」と思うだろうか、それとも「やっぱマズイよね」と思うだろうか。私は後者である。

もう一つ付け加えるのは、このご婦人にとって「病気になったこと」はとてもストレスフルなことであろう。そのストレスの捌け口のためか、以前にも増して「説教ぶり」は加速したようだ。それは周囲も十分想定の範囲内だろう。しかし、実際問題として信者は教会から離れ教会との交流は疎遠になりつつある。そしてこのご婦人は、どんどん元気がなくなってきているとのことである。

これを見た天理教人はどう思われるだろうか私は聞きたい。この信者達の対応を「信仰者としての涵養が足りない」と思うだろうか、それとも「ご婦人がそんな対応をしていては周りの人間は離れていくよね」と思うだろうか。私は後者である。

天理教人と話して私はよく思うのだが、信仰も含め、人間関係などは「すでにあるもの」という幻想はそろそろ捨てた方がよろしいのではないだろうか。「すでにあるもの」という考えは天理教でいう「いんねん」という必然的関係(世間でいう因縁とは異なる)に近いと思う。「あなたと私が出会うのは、いんねんという教義上絶対である」という考え方である。天理教家族論では、家族や家というのは「いんねん」という縁であり神様からのご守護の一つとして解釈される。私はその考えに疑義はない。しかしその思考をそこでSTOPさせるとどのような自然展開になるのか。それは「あなたと私の関係は人間思案ではどうすることもできない。私たちの関係はすべて神様が導いてくださる」という他力本願的思想へと流れる。つまり、「あなたと私の関係は神様任せになり、実際の人間関係軽視になる危険性がある」ということになる。それが先の会長さん婦人の例ではなかろうか。あなた(信者)と私(教会)の立場は歴史的、存在論的に定められた関係であるという考えでいると、その関係を“大切にする”という意識が低くなるのは当然である。そうなると何が残るのか。それは「あいつは分かっていない」という分別のない定型フレーズしかない。

人間関係は決して「すでにあるもの」ではない。教義上「すでにあるもの」と規定されているからといって実際生活上の人間関係を軽視していいとはならない。それでは天理教の存在意義はなくなる。教義上に「すでにあるもの」という規定があるからこそ、それを育み養う必要があるのではなかろうか。それは天理教人も「そんなの分かっている」と思うだろう。しかし「そんなの分かっている」わりに、自分の振る舞いへの反省は少なく、場当たり的ではなかろうか。特に血に関しては、天理教人は異常な執着を見せる怖さがある。対外的には「やさしい天理教、無害な天理教」という側面と、対内的には「頑固な天理教、因習的(家父長的)な天理教」という極端なところがないだろうか。天理教は「縦の伝道」と声高に言っているが、実際の縦の伝道には制限や脅迫を用いている場合が少なくない(過去のブログを参照してください)。本来的な縦の伝道では、尊敬や自立を用いるべきではなかろうか。しかし天理教人は信仰的下位(理の子や子弟)の信仰的自立や社会的自立は神様がお望みではないという神の意向にすりかえるという恫喝で強く排除する傾向がある。信者数の激減や事情教会(問題教会)の増加、異端の多さという公にしない天理教的特長をより真摯に考慮する必要があると私は思う。若者の恋愛のように「あなたは何も私のことを分かっていないのね」というのではなく、「あなたのことを知りたいから、もっと教えてね」というように、信頼や愛は一緒に作っていかないと存在しないのではないか。それは「感謝・慎み・助け合い」の感謝に十分に当てはまると思うのだが、どうだろうか。

私は相手の改心なんて、求めようとは思わない。そんな尊大な(偉そうな)人間になりたくないものだ。私は嫌な相手からでも「どうぞ」といわれたら「ありがとう」と言える人間でいたいと思う。そんなにできていないけど・・・

やっぱり心配、20年後

$天理教社会学研究所


前回のブログで26日に天理に参拝に行くと予告していた。そのことについて報告したい。

朝に私用があったため天理に着いたのは昼過ぎであった。そのまま知り合い2人の天理教人(男性と女性)と合流し本部神殿参拝へ。ちょうどおつとめ→真柱のお話が終わったところ。昼前は適温であったが天理に着いてからは怪しい空となり寒かった。その後、知り合いは信者詰め所に行くとのことで同行しようとしたが、あまりに寒く、また色々な時間的都合(天理教人二人は青年会という部会の行事も引き続きあるとのこと)から私と女性Kさんと少しの間喫茶店で時間を潰すことになった。この女性Kさんは教会の子女であり、某国立大学を出た才女である。天理高校を卒業し天理教の施設で働いたあと、今は一般企業で多忙な毎日を送っておられる。もちろん話題は天理教について。Kさんの感想として「参拝の人数は以前より少ないなと思ったけど、高齢者の多さにはやはり驚く」という話をする。私は持論である「20年後はどうなってるんでしょうねー」とさりげなく話をしてみる。もちろんわずかの時間であったため深い話はできなかった。しかし多くの若者(特に天理教の内部側の)が天理教の将来を憂いているということが分かった。「じゃあお前が頑張れよ」ということになるのだが、この問題を「最近の若者は意欲がない」という世代間的枕詞で片付けられるとも思わない。日本全体が宗教に対して嫌悪感を持っているというレヴェルでもない。こういった天理教の将来について話をするときに、常々私が思うのは、若者が嫌がっているという話ではなく、オトナが遠い目をする傾向があるということである。バリバリ天理教の仕事をしているオトナこそ、口には出さないが真に天理教の危機感を感じているのではないかと勘ぐってしまう。今の60-80の高齢信者を支えている、40-60のやり手な教会の人を支える若手がいない。学生の時に進路選択を天理教内に留まるように強制的に制限される若者は、後々天理教には繋がる確立はかなり低いとKさんはいう。Kさんもまた天理高校→天理大学以外の大学(天理教のスカラシップを受けていた)→天理教本部の施設3年→天理教には戻らずに一般企業という経歴を持っている。Kさんもまた「進路を迷っていると理の親が出てきて、あれをしろ、これをしろと言い出す。それでも返答できないと、家族のいんねんの話になって何も言えなくなる」というお決まりパターンになる。私は、Kさんに対して「それはあなたが素直じゃないからよ」なんて信仰心の成熟には口をはさまない。ただ、私が主張したいのは、現代ではIdentityの形成途中の若者に対して制限を用いるばかりでは「あ、この人のようなオトナ(天理教人)になりたい」とは思わないだろうな、といことである。

その晩に別件があったので16:00くらいには近鉄電車で天理を出た。天理からの帰り道は毎回色んなことを考えさせられる。

地元の駅についてからは大学時代の友人2人と食事をした。二人とも大学時代は哲学専攻であり、一人はPh.Dの研究者Hくんで、一人は某宗教本部(仏教)の官僚Jくんという二人とも知的攻撃派である。大学時代の友達であるので、言いたい事が言える仲ではあるが、現象学やら時間論やら難しい話ばかりで「それって何?オイゲンフィンクとどう違うの?」と私はもっぱら聞き役であった。ただお酒が進んでくるとだんだんと話もシンプルになってきて「だからお前はダメなんだ」とおっさん3人のただのケンカに発展しかねないところで店員さんに「もう少し静かにして」と言われて解散した。Hくんは私の天理教の話に興味を示し、今度天理に行ってみたいと言っていた。

お店を出てからは雨が降っていた。知り合いの天理教人から電話があったので雨宿りがてら話をする。酔っ払いのおっさんの話を「あははは」と素敵な笑い声で流していただいた。酔っ払いの電話ほど面倒なものはなにのに申し訳ない。私は何を話したのかあまり覚えてないが、「めぞんどひみこ」という映画を見るように仰せつかったことは記憶している。

ということでとても濃厚な一日であった。

最近の出来事

個人的なことになるが、先週に車を運転中に交通事故を起こしてしまった。幸い私に怪我はなかったものの相手は即死であった。相手といっても動物なのだが。飛び出してきたというよりも飛んできたので不可避であった。もちろん警察を呼んだのだが、警察が何かをしてくれるものでもなく「気をつけてねー」と去っていった。残ったのは車の修理費とやるせない気持ち。私の車はいわゆる“いい車”ではないため車両保険をかけていなかったのが残念であった。それでも50万はキツイ。いまどきのエコカーでもなく燃費も悪い車だから手放そうとも考えたが、されど愛車である。私の車に乗っていただくお客さんは、例外なく「素敵な車ね」と言ってくれるのが自慢である。そもそも私は物を大切にするタイプである。大切にするというよりも新しいものを買い換えるタイプではなく、永く使えるものをずっと使い続けるタイプなのである。手帳も、下着も、ステーショナリーも新しい変化よりも、毎年毎回同じものを選ぶ。ロングライフデザインである。こういってしまうと私は非常にこだわりが強くて、融通が効かない人間と思われるかもしれない。そうではない(知り合いの先生に病名が付けられそうだが)。もちろん機能主義でもあるから使い勝手がよくて、精神的にしっくりくるからこそ使っているのである。もし永く使っているもの以上の“永く使えるいいもの”があればいつでも乗り換える。しかしなかなか“いいもの”に出会うことは少ない。
車に詳しい友人が、今のエコカーは確かに家庭経済上はエコであが10年20年と永く乗れないと言っていた。骨格がしっかりした一昔前の車が一番強いのだそうだ。長い目でみたときに家庭経済上の差はない。むしろ世界的環境で考えるならば、エコカーだから排出ガスが少ないという評価と同様に、エコカーを大量生産するために発生するCo2の量を考慮しなくてはならないと言っていたのは慧眼である。私はエコに対して賛成派であるが、現在の経済合目的的なエコには懐疑的立場でもある。あとは天邪鬼性格であるため、皆が流れるものには「そんな簡単な話があるものか。へん!」とへそを曲げるタイプである。そういえば天理教の環境的立場はどんなものなのだろう。聞いてみたいものだ。

どんなに屁理屈をこねても手元に残るのは50万円の見積書というのは悲しい現実だ。生活どうしましょ。

追伸
26日は知り合いの天理教人に誘われて天理に行きます。大祭に参拝できそうです。仕事は偶然臨時休業なんです。

天理教里親論で決して語られない最も大切なこと


天理教の里親重視政策が続いている。なぜ天理教はこれほどまでに里親を重視するのか。その裏には「たましいの家族”の物語  里親 ─ 神様が結んだ絆」という天理教書籍の出版が背景にあるようだ。先に私が指摘した「今後天理教は出版刊行物を発展させ、安定した収入基盤を得る方針だろう」というのは外れてはいないだろう。そのひとつが天理時報の手配りであり、今回の里親本の出版になるのだろう。今後も天理教の出版物と布教戦略がセットになった方針が出される可能性は高いはずである。
 天理教が宣伝する里親論について、私は懐疑的、否定的な立場である。それはすでに説明しているが、宗教団体が里親をプッシュする危険性がイマイチ加味されていない思慮の浅さが窺えるからである。それは今回のテーマでもあるが、天理教の里親論では決して語られないことがある。それは一人称の語りである。天理教の里親論(おたすけ論)では、いかに被援助者が可哀想で悲しい人たちで、助けを必要としているのかが表現される。それは、とても大切なことではあるが実際の現場では盲目的であるまいか。目の前の人間が虐げられていようが、Disabilityであろうが、だからといって彼らが即座に被援助主体になるとは限らない。極論であるが、DVであろうが、不幸な境遇であろうが、被援助者かどうかはその人との関係性を抜きに優先されるべきではないと思う。もちろん、一定の専門性を持った人間が「これは助けてやらねばいけない状態だ」となっても同じである。どんな不幸な人がおり、いくらこちらが助けの手を差し伸べても、その人が「助けていらねーよ」と思えば、その時点で援助者、被援助者というストーリーは終了するのである。また私の他者論になりそうだが、他者を理解するためにはまず自己を理解するまなざしを持たなくてはいけないと思う。つまり、他者理解よりも自己理解が先取されなくてはいけない。
 私の知り合いで臨床心理士を養成する大学院で教授をしている人がいる。彼は「大学院2年間で一番学ばなければいけないことは、心理学の知識でも治療技法でもない。徹底した自己理解が本質的な学びとなる」と話していたことに私は積極的に賛成する。自分とは何か、もっと言えば自己の対人関係の偏りや性格の歪みに気付かずに他者を治療することは不可能である。むしろ自己理解の志向性を経験していれば治療技法なんて何でもいいと思う。自己の特性を知ることが、相手を知ることに繋がるのだと思う。そういった姿勢が天理教には抜けている。つまり宗教団体が里親をすることについての哲学的な問いがすっぽりと抜けている。天理教とは何か、おたすけとは何か、里親とは何か。もちろん、こういったアポリアに答えはないだろう。しかし大切なのはそういった思考を持ち続ける志向性だと思う。畢竟、躊躇しながら実践することが慎みである。先の大学教授の言葉に、もうひとつ興味深いものがあった。「ここ10年、心理学を学びたいという人は多い。大学院の受験には人の相談に乗るが好きだから、それを専門にしたいという中年の方も多い。しかし合格するのは、何も世間を知らない現役学生が多い。なぜなら、一定の社会経験がある方は自分の経験に拘泥して物事を判断する。それではクライアントの経験との距離が近くなってしまう。それでは他者の意見を素直に聞くことができない。その点現役学生は白紙である。また学生によっては人の相談が苦手という子もいる。しかしそのくらいの方がクールにクライアントと対峙でき分析できる」と言っていた。経験の距離では私も同感である。子育てをしたことのある方が、子育て相談を受けると、やはり自分の経験をもとに話してしまうものなのだ。それが悪いことではないが、専門家としてはダメということなのだろう。
 まずは自分が何者なのか、自分の長所と短所は何で、それが他者に与える影響とは何かという哲学的思索が天理教里親論にはかけている。天理教の跡継ぎ不足は深刻である。跡継ぎが不足しているというのは、天理教の家族機能自体が瓦解しているともいえる。実際にそういった教会家族は私の知る限りでもいくつか知っている。全国の1万7千余りの天理教の教会の7割が問題を抱えた事情教会という事実。この事実を見なくてし、里親論を語れるだろうか。天理教里親論の前に、天理教内家族論を喫緊の課題とすることを提案したいものだ。里親を受け入れることができる機能的家族を持つ天理教教会はそんなに多くないとしか思えない。それは私が常々批判しているカイチョウサンを始め、天理教全体の構造にも波及していく問題でもある。つまり、天理教の家族が機能していない一因、事情教会が7割もある一因は教団組織の在りかたにも関わってくるのだが、そこまで考えている天理教人を私は知らない。けど、やっぱそこが本当に大切なことなんだが、誰もそれを語らない。何か事件化してからでは遅いと思うのだけどね。

天理教的危機についての続き


前回の記事で天理教の地殻変動的危機についての序章を書いたので今回は続きにしたい。天理教の地殻変動的危機の“地殻変動的”という修飾を設けたのは、現時点で本質的な問題を形成しているわけではないが、今後表面化することが予想されるためである。また地殻というのは物事の土台であり、その変動が予見されるというのは、将来的な天理教の本質的変動が推察できるということである。

将来的な天理教の危機として私が前提としてあげるのは構成員のファミリー化である。それしかないと思う。ファミリー化と聞いてもピンとこないと思う。最近天理時報でのホットトピックは「家族団らん」であるが、そのことではない。ファミリー化というのは天理教組織全体における身内化といっていいだろう。マクロ的視点で考えるとイマイチぴんとこない。ミクロ的視点でみよう。宗教学全体から見て、天理教の教勢というのは年々衰退している(天理教教団発表の信者数は200万人だが、実際には100万人未満と言われている)。また教会は世界に1万7千あまりあるといわれている。しかしその7割程度は教団内部では事情教会といわれ、本来的な教会として機能不全を抱えた状態である。例えば教会の跡継ぎが不在であったり、構成員の不足により教会の定例行事が行われなかったりということ。ここまでの話はいくらかの宗教学者が明らかにしていることであり、私の周囲の天理教人の話を聞いても同様の感想を抱く。しかし、今回はもう少し踏み込んで議論を展開したい。というのは事情教会が7割ということであるが、あとの3割は万事OKなのかということである。私見としてはこの3割が問題がないということではなく、この生きている3割、天理教を支えている3割にこそ危機的状況が訪れているということだと思う。その3割の機能的教会にこそ世代を超えてファミリー化としているのではないか。ここからは私の体験的な印象がだいぶ加味されるが聞いていただきたい。各教会を考えたときに天理教の構成員として教会家族と信者家族がいる。教会を運営するのは教会家族であり信者家族はあくまで信者家族であり教会運営にComitmentできても信者であるかぎり、その立場は下部に低位固定される。私が強調したいのは、公称には上がらない信者家族の天理教離れではないかと思う。そのことについて私は今まで信者家族の高齢化であり、宗教離れという世間論を述べてきた。しかし本質的にはそういった社会問題として帰結できない、より深部での違和感がある。結局それは家父長的な制度であったり、古典的な世襲制度として説明できるのだろうが、実際の体験的違和感を述べたい。
私は比較的規模の大きい某大教会に関与することがあり、知り合いも何人かいる。そこで感じることは同じ苗字の人が多いということである。大教会の役員、また主要な直属教会といわれる親藩、譜代にあたる教会は、その大教会の成立に歴史的に深く関わってきたファミリーである。天理時報を見ても教団本部の人間として登場するのは見慣れた苗字の人である。兄弟や親族と思われる人が天理教内部では数多くいる。また同じことは各教会単位でもある。あの教会と、この教会の人は親族であったりする。これは「理」という世襲制を採用している際には仕方のないことだと思う。またそういった形を踏襲することがここまで天理教が歴史的に存在してきた理由なのであろう。しかし歴史は終わる。藤原氏も豊臣家も、日本歴史至上最大のファミリーを形成した徳川家も歴史的使命は終了した。ということはどういうことなのか。世襲制は最終的に終わるということでもあるが、もっと本質的なことは世襲制は“周囲の人間”に飽きられるということである。私の身近な例を示すと、最近ある教会の会長さんが亡くなられた。その教会の後継者は不在である。どうしたものか、その教会を指導する上級教会の会長は事情教会にしてはならないと、自分の次男をその事情教会寸前の会長に「お引き寄せ」したのである。なんとか事情教会は免れたようで、周囲は次男の素直さと事態が一件落着したことに安堵していた。しかし、これは信者にとってはどうだろうか。会長が亡くなったことで、よく知らない落下傘部隊ーしかもこの場合、次男は天理大学を出たばかりの若造ーが突如として信者を指導する会長になったのである。私が信者なら「やってらんねーよ」状態であろう。信者とて信仰の歴史があり、信心もあろう。それが世間も良く知らない若造が血を引いているというだけで自分の精神的支柱のMentorとなるのである。ましてその人事に疑義を挟もうものなら、理の継承を受け入れないということで信者としての信仰的立場は危うくなる。信者は神格化された会長様の決定を素直に受け入れるしかないのである。これは実際の話であり、“よくあること”なのだそうだ。どんどん教会はファミリー化しており、3割の機能的教会の実情である。平安時代にでもタイムスリップしたような言説が天理教人からは聞かれ、「娘を嫁に行かすなら天理教を信仰している人じゃなきゃいかん」「嫁にもらうには天理教を信仰している子じゃないとダメ。あの人のように一般のお嫁さんをもらうと天理教からどんどん離れていく」といった天理教以外の無反省的なアレルギー反応は依然強い。ファミリー化を形成することは悪いことではないが、このファミリー化を意識化しないとどんどん教会と信者、世間の距離は増大していくものになるだろう。
まとめはまた今度。

天理教における地殻変動的危機感とは

いささか攻撃的なテーマを設定したが、かといって誇大とも思わない。これから論じるのはあくまで私見であるものの、読者の方も周囲を振り返ってすりあわせて頂きたい。その上で「カインの言ってることは杞憂に過ぎない」と仰るにであれば私の見識の甘さということにある。

歴史は21世紀を歩みだしたが、天理教の将来はまさしく21世紀が岐路になる。それは必然たる宗教として日本文化、世界文化の準拠となるのか、はたまた数多ある「そういうもの」の一つとして「ただあるだけの無害な集団」となるのか。(集団としてサイズは縮小しても天理教が解散することはないと思う)

こういった長期的展望を持って天理教を論じる方は少ない。私は聞いたことがない。主に天理時報からだけど。「陽気ぐらし」という目指すべき理想像はあるが、50年後100年後の天理教の姿を大風呂敷を広げて望見するような方はいない。政治も含め、夢を語る人がいなくなるのは寂しいものだ。かといって龍馬に頼るのも情けないかと思うぜよ。

前置きが長くなったが、本題に入りたい。しかし諸事情から、この記事はPCからではなくiPodから書いている。もう指がつりそうである。なので本題はまた今度。

二次被害とは人為的であり、止めることができる


随分とブログの更新を怠ってしまい申し訳ない。忙しいという言い訳はしない。ブログの代替というわけではないが、先月から知人にすすめられてtwitterを仲間内でやっている。”つぶやく”ことがこのツールの主旨である。かといって実際は意味もなく有名人のようにつぶやいているわけではないが、オンラインで複数の人間に伝達できるという点で非常に重宝している。メールだと複数に伝達するには一斉送信しなくてはいけないし、「了解しました」という見ましたよ返信もしなくてはいけない。しかしオンラインだとなぜだか「見ていないやつが悪い」という雰囲気が出てきてしまうのが不思議だ。ついでにメールのように「届いてません」や「PCがないので見てない」という言い訳が通らない。
いま私が使用しているSNSツールは本ブログとtwitterとmixiで盛りだくさんである。そのツールごとに現実世界でのリアルな関係性が構築されている。意外にこういったツールを毛嫌いする人は多いが、私は発信することが好きであり、リアルな関係をよりおもしろくすると思っている。基本的に私は貧乏マインドだから使えるものは使わないと論理である。

さて本ブログだが、こんなブログでも毎日数百人の方が読んでくれているようだ。本ブログの主旨は天理教だが、その天理教に関しても先月のブログ更新からも色々なフィードバックやレスポンスを頂いた。その中には私のブログを見て共感、応援してくれるようなポジティブなものが8.9割、ネガティブなものが0.1割くらいである。残りの1割は私に「どう思う?」と相談、意見を求められる。すでにお気づきの方はおられると思うが、その相談、意見メールの概略は「天理教人にこんな(ひどい)ことを言われたんだが(されたんだが)」というものがほとんである。もちろん私なりに精一杯の誠意で返事を送る。しかし文脈や状況が分からない上に、私は天理教の組織内の人間ではないのでどうしようもない。なので「頑張って」としか言えない。しかし私に意見を求めるというのは、それほど切迫している状況なのだとも思う。そういった方には「個人を特定されない程度に脚色してブログでアップしていいか?」と許可をもらっている。今迄本ブログでアップしてきた事情やケースはそういったものである。今回もある読者に許可を頂いたのでアップしようと思う。私はこういったケースを通して天理教を批判したいのではない。事実を知ってほしいのである。もちろん当事者の天理教人(加害者)が本ブログを読むことはないだろう。しかし読んでいる人には「ひょっとして私も知らず知らずのうちに同じように人を傷つけているかもしれない」ということを振り返ってていただければ本ブログの使命は十分達成されていると思う。

今回はAさんという女性からメールをいただいた。Aさんは旦那さんと生まれたての子どもの3人で某教会に住み込んでいる。旦那さんは教会に生まれ育ち、会長跡継ぎである。奥様のAさんは一般家庭に生まれ育ち、旦那さんと出会い結婚となった。Aさんは結婚前は天理教の教えに対して好感を持っておられたようだ。しかし結婚前にお子さんができてから天理教に対する思いはマイナスへと転じ始めた。というのは旦那さんの両親(天理教のカイチョウさん夫妻)には堕胎するようにと言われたそうである。今でこそ「できちゃった結婚」というのは珍しくないはずであり、一定の市民権は得られていると思うのだが、天理教では「出来ちゃった婚は断固否定」なようだ。その後、結果的にそのまま結婚することになり出産されたそうである。出産後も本当に大変なことがあったようである。しかしこれ以上ストーリーを展開すると個人が特定される恐れがあるためここで止めておく。ただ、私がAさんからのメールを読んでいる間は非常に胸が締め付けられるほど出産後に大変な事態を経験されたのだ。しかし、この件に関してはその教会の上級教会の役員がしゃしゃり出てきては知った様な口ぶりで「すべて神様のおかげ」的な軽はずみな発言(本当はもっとひどいコトバ)でAさんを傷つけたのである。とても大変な事態がありAさんは十分に傷ついていることは想像に難くないが、それに上乗せするように上級教会の役員は二次的被害をAさんに負わせたのである。読者の方は何が何だか分からないかもしれないが、Aさんが経験した大変な事態を知れば上級教会役員の「すべて神様のおかげ」的な発言は考えられないと思う。実際、寛容な私でさえも「この役員は血迷っているのか?」と思うほどである。人の気持ちを想像する力が少しでもあれば、そんなことは言わない。例えるならば、身内が亡くなって打ちひしがれている状態の時に「あいつは生きてても仕方ないから、神様が早くに死なせたんだからいいじゃない」というようなものである。本当はこんな例えよりヒドイんだけどさ。

Aさんの補足では、この教会の系列は非常に「親(天理教における親:教えを教えてくれた人:理の親ともいう)を立てる」のに厳しい教会の系統であるようだ。しかしAさんにとっては親という名の権力でしかないという。慧眼である。だから「私が正解だ」という顔でしゃしゃり出てくることがカイチョウさんには可能なのだろう。

これが天理教教会組織の実態である。

よく天理教人の中に他宗教に対して否定的は発言をされる方が散見される。献血をしない団体などに対しても「ひぃぃなんてヒドイ宗教なんだ!」という感想を持たれる方は多い。一方で出来ちゃった婚を真正面から否定する天理教人も多い。本人は倫理的価値観に基づいて否定しているのだろうが、天理教人が他宗教を批判している理路は全く同じであることに気づいておられない。びっくりするほど無自覚である。

この際、天理教は「出来ちゃった婚反対の宗教団体」にすればいいのではないか。とさえ思う。天理教のドクトリンとして何を持とうが私は知ったこっちゃない。しかし、よく知らないくせに他を批判するのであれば、あなたたちも世間に問わなければ卑怯ではないだろうか。「天理教は(私は)出来ちゃった婚に反対で堕胎させようとしますが、世間のみなさんどう思いますか?」ってね。

天理教は神を悪用し、人助けというマッチポンプで自我を形成しているとしか思えない。

堕胎させようとするなんて本当に天理教人には腹が立つ。天理教人のどの口が「家族円満」なんて言えるのだろうか。出来ちゃった婚に反対ではないという人もいるって?そういう方こそ「よそはよそ、うちはうち」ではないだろうか。大切な跡継ぎである我が子が、とんでもない馬の骨の子を授

宗教ブームが来ているのか!?


こんにちは。GWまっただ中。昨日まで出張に出ており、今晩は昔からの友人と食事で、明日はわけあって東京の友人と奈良に行く事になりそう。わけは言わないけど。天理は通るけど寄らない。その後は移動してゆっくりする予定。私のGWは今日から3日間。大変嬉しい。3日間も休みがあるなんて久しぶりである。といいつつも、今は職場にいるのだが。

前回のブログで宗教学者の島田裕巳の「葬式は、いらない」の書評を今回のブログにすると書いた。しかし、実際手にしてみると買うほどのものではないかなと。新書だし。立ち読みで。結局島田氏として葬式のデメリットや最近の傾向を述べてはいるが、結局は葬式は無用ではないという結論に落ち着いている。死者の鎮魂のための儀礼は必要だが、それは形式的意味と同様に、死者への慰めという心的装置が重要という至極当たり前の論旨であったように思う。もちろん、最近の葬式の動向や葬式経済学に関心がある方は講読されたい。天理教でも葬式を行うようなので、参考にはなると思う。私は、もっと精神論というか、現象学的宗教学に言及されている方がおもしろいのだが島田氏はそういった思考はあまりされない。彼は宗教を哲学的思索よりも、科学的手法を用いて宗教を論じることを得意とされる方だと私は印象づけられている。ま、そんなところかな。

しかし「葬式は、いらない」の隣にあった「考える人2010年春号ーはじめて読む聖書」と内田樹・釈徹宗の「現代霊性論」を購入する。私は宗教学者でも宗教者でもないのに宗教学的文献を購入するなんて、自分がどこに向かうのか不安がよぎるがいいでしょう。先日も先輩から「今度のプロジェクトのために、これを5月上旬中に読んどいて」とさらっと言われた英語論文が50ページもある。仕事もしていないのに、宗教書を読んでいていいのだろうか。結局、自分の方向性の不安と折り合いがつけられず休日に仕事場に来ている。かといって仕事をするわけではなくブログを更新している有り様である。こんなに逃避を駆動していて私は大丈夫だろうか。ま、いいか。

まだ「現代霊性論」は読んでいないが、「考える人」は大変おもしろい。聖書のことだから、キリスト教が前面なんだけど、書き手がおもしろい。特に田川建三は「神を信じないクリスチャン」として聖書の研究をする稀有な研究者である。宗教という現象学を、これでもかと構造的に分析している。かといってクリスチャンに対して敵対的でも、好意的でもない。あくまで「あの人の神様と、この人の神様はまったく違う。そういうものだ」というクールな視点は慧眼である。こういう人が天理教にもいて欲しいと思うのだが、天理教学者(天理時報に出てくる宗教学者)は、天理教礼賛しかしない。宗教団体付属の研究機関というのは大変な社会的使命を担っているのかもしれないが、アカデミズムの使命も忘れてはいけない。天理時報を読む限り、天理時報に出てくる天理教学者はアカデミズムを背負ったまま自慰行為をしているとしか思えない。天理時報全体が、広くいえば日本の国民性が幼児的自己愛心性を持っているとも言えるのだが。しかし、天理教が衰退している将来的展望の不透明さにもう少し自覚的であるべきだと思う。このままじゃいけないねぇというようなね。

「現代霊性論」も含めて、もう少し読み進めたら感想をかきます。
さて、仕事しよ。