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学生生徒修養科

先日、ある会合で今年度から小学校の教師になった女性のY先生と話した。
そのY先生とは2年ほど前からの知り合いで、ずっと講師として小学校に勤務されていた。
Y先生は新採ということで、先日夏休みに入り教育委員会が主催する新採の研修にいったのだそうだ。
その研修というのは新採200人ほどで約1週間、山間にある施設で班でレクレーションをするのだそうだ。
企業研修も含めていたってよくある話である。

しかし、Y先生が口角泡を飛ばすほど興奮して話したのは
その研修では、1週間の研修を終える頃にはカップルが大量発生していたというのである。
結局Y先生は、その大量発生カップルには加われなかったようである。
(Y先生のために弁解するが、Y先生は頭脳明晰、容姿端麗で笑顔のチャーミングな
魅力的な女性である。男子諸君の女性の見る目のなさを憂うしかない。ほんとに素敵なんだから)

もちろん、私はゲラゲラと爆笑して聞いていたのだが、同じ会合に同席していた心理学者のW先生が
「カップルの大量発生は教育委員会の策略ですね」とクールに切ったのである。ズバっと。
W先生の話では20代の若者を1週間も缶詰にしたら恋愛に発展するのは当たり前なのだそうだ。
就職して、後は結婚して落ち着くだけなのであるから、企業内で落ち着かせたいと思う
のは企業人事戦略では当たり前なのである。もちろん、短期集中であるためにカップルになっても
別れることはあるらしいが、そのままゴールインしてしまう人も多いらしい。

ちょっと面倒なW先生は、その後も心理学的なエンカウンターがあーだこーだ
言っていたが、つまるところ非日常的な環境(孤島)で1週間も缶詰にすれば
若者の恋愛なんてオチャノコサイサイなのである。
参加者のほとんどが20代で同じ職種なのである。
これほど均質性が高ければ恋愛感情も無理はない。

その後もW先生のエンカウンターやTグループと言われる心理学の話題を得意気に話されていた。
自己開示の度合い(悩みを打ち明けたり)や、班で問題が発生すると一気にグループの
凝集性が高まるのだそうだ。当たり前と言われれば当たり前の話ばかりなんだけど
「でも、それって恋愛感情は本物だとしても、それを目的としてやるのはズルイよね」
という話で盛り上がり、挙げ句の果てには「心理学って洗脳じゃん」という話になった。

かなり攻撃的な会合は賑やかなうちに終わったのだが、この話を天理教人にすると
天理教の学生生徒修養科(以下、学修)でも同じような洗脳が行われているということなのだそうだ。

「学生生徒・・・ってなんですか、そのヘンテコリンなネーミングのものは」と私は問う。
そして学修の説明を聞いて私は驚倒したのだが、全く先ほどの心理学者のW先生が
言っていた洗脳と同じなのである。その概略はこうだ。

日本全国から集まった高校生を奈良の天理教施設に一週間泊まりで研修(修養)をするのである。
しかし、修養と言えど勉強や修行だけでなく楽しいコンテンツも多く用意されているのだそうだ。
W先生がいたら「楽しいコンテンツがあるという時点で洗脳だ」と言いそうである。
実際、この学修を終えた青年たちはある者は恋愛に発展し、ある者は涙を流して別れを惜しむ
そうである。そして皆が口を揃えて「参加してよかった」「天理教大好き」というらしいのである。
これが本当なのかどうかは寡聞にして存じ上げないが、事実であるならば異常としか言葉がない。
加えて、一週間で天理教を好きになったという人間が信仰するものを私は信じることはできない。

こんなことを言ってしまっては天理教人の方に叱られそうだが、無自覚な天理教の方に是非問いたい。
それは、一週間の研修(特講)に参加した知り合いが「ヤマギシって大好き」って言っていたらあなたは
ヤマギシに入信してみたいと思うだろうか。同じ理路である。

常々私が言っているように信仰こそ、長い時間をかけて教えを涵養し、
生活の中で内省を繰り返すという時間のかかるものである。
しかし、一方で天理教人ほど刹那的感情に流されて、他者感受性に乏しいものはないと思う。
短期間で獲得できるものを信仰とは言わない。

私も一度大教会で「学生会」なるものの大会を見たことがあるが、
あの天理教の若者たちのノリの良さは異常としかいいようがない。
「イエーイ」のオンパレードである。若者の元気を担保しても、尋常じゃないノリなのである。
私は大人ながら「あの中に入れない子はしんどいだろうな」と思ったほどである。
そういえば、こどもおぢばがえりのお兄さんもまた引いてしまうほどのノリのよさである。
ノリのよい子どもを見ると、何か過剰適応という病態が見えるのは私だけではないはずである。

さきほど天理教の公式HPを見たが、現在その学修のまっただ中であるようだ。
シンクロニシティである。
あさってその学修が終了のようだが、
果たして何人の子が「天理教サイコー」と洗脳言語を言うのだろうか。
誰か教えて頂きたいものである。

事情教会って言うのそろそろ辞めませんか?

何の本で見たのかは忘れたけど
天理教の教会数は全国で1万うん千ほどあるらしい。
そして、そのうちの7割りが機能不全の教会であるらしい。

機能不全の教会というのを天理教内では「事情教会」というのである。
それも、その名の通り何かしらのうまくいかない事情があるからである。
例えば後継者がいないとか、信者数が少なくて物理的経済的に教会経営できなくて
カイチョウさんは働きに出てるとか、教会家族は別の家に住んでいるとか・・・

という事実は広く聞かれることであり教会本部も把握していると思うのだが・・・

以前聞いた話によると
天理教というのは、その教勢や布教実践において一時期もの凄い勢いがあったようである。
「もう本当に凄かった」らしい。
そして、その流れにそって「倍加運動」という「天理教の教会数を倍にしよう」という
運動があったようだ。そして実際にその運動の効果として同じ時期に誕生した教会が
大変多いらしい。なんと短絡的思考なんだろうか。

その倍加運動と事情教会の統計的相関は知らないが、
倍加運動で誕生した教会がその後、事情教会へと落ちた教会は割合が高いと思う。
(もちろん教会本部は、その関係性を把握していると思うが、公表するわけないけど)

「今の流れにそって、どんどん行こうぜ」という短絡的、刹那的戦略を採用する会社というのは
平成に入り不祥事や業績が伸びなくて潰れていっている。
それと天理教の戦略がダブるのは私だけだろうか。
私はビジネス的には天理教の倍加運動は失敗であると断言できる。

まして、信仰というのはビジネスのように経済合理主義ではない。
信仰という人と人のつながりこそ、
時間をかけて丁寧に顔を合わせていかなくてはいけないのではないだろうか。
宗教に対してビジネスモデルを採用した時点で布教戦略は敗北したのである。
それでも未だに「こころの時代」としか教団が言えないところに組織的、教義的未熟さを感じる。

天理教の高度経済成長期もまた、本当に大切なものを失ったものが多い。
そして、未だに誰もそこに言及しない。
むしろ教内では未だに誇らし気に当時の先人たちを
「先人の雛形」と賞賛し「倍加運動のような機運をもう一度」という煽りがある。
これは団塊でもないのに「オールウェイズ三丁目の夕日」を懐かしむ見苦しさとかぶる。

閑話休題。
事情教会とカテゴライズしてしまうと、そこで思考停止になってしまう。
事情教会にも「全然やる気のない教会」と「やる気はあるけど現状が精一杯な教会」があり
はたまた「ちょっとやる気がある教会」や「気分がいいときだけやる気になる教会」など
場所や環境が異なれば事情の持つ意味は異なることは子どもでも分かる。
これを同一基準で一括りにしてしまうことはしてはいけない。

少なくとも事情教会と一括りにすることで「やる気」がある教会の人間のモチベーションを
削ぎ落としていることは自明である。
そこに誰も注意を払わないのは不思議としかいいようがない。

私の職場の同僚に精神科医がいるが、現在精神医学において注目されている概念に
PDDというものがある。PDDというのはPervasive Developmental Disordersの略で
「公汎性発達障害」のことである。

これが何故注目を集めているのかというと、この疾病が「よく分からない」からである。
「この子は自閉症っぽいんだけど、そこまでいってないし、でも自閉症の特徴あるし・・・」
という超現実的な診断の難しさから誕生した概念なのである。
そして、この概念が非常に便利であると、その精神科医は言っていた。
なぜなら、この概念を言ってしまうと、必ずその子の特徴を後で説明しなくてはいけないからである。
「病気を見て人を見ず」という医者がいるが、この曖昧な概念を使用してしまうと
必然的に「人を見なくてはいけない」状況になってしまうのである。なるほど。
当たり前のようだが、言語概念を当てはめることで見えなくなることは意外に多い。

しかし、最後にこの精神科医が嘆いていたことの一つに、この病気の「分からなさ」は
「理解されにくい」ということだと言っていた。その理解されにくいのは
例えば親であったり、学校の先生であったり、臨床心理士であったりと意外に子どもの
身近にいる専門家たちなのであると。

またまた脱線してしまったが、「事情教会」ということで
よもや、その教会が持つプラスの部分まで見えなくしていることが大きいということである。
もちろん言語概念の使用というのは物事を説明し伝達する場合に便利であることは認める。
しかし多くの天理教人が「あそこは事情教会だよ」と発したその言葉の裏側には、
何か差別的、侮蔑的なニュアンスが見え隠れしていると感じるのは私だけなのだろうか。
事情教会=ダメな教会という図式しか私の頭にイメージできない。
天理教人の頭の中では事情教会=なにがイメージされているのか気になってしょうがない。
きっと何もないのだろうけどね。
そもそも、事情教会なんて概念は誰が言い出したのであろうか。
これを言い出した人はきっと人の痛みに無自覚的な嫌われ者だということしか分からない。

歓待について

前回はこどもおぢばがえりの記事において
随分天理教を批判したような感じになってしまった。

天理教応援者の私としては、天理教批判者と思われたくはないので
今回は天理教の「いいところ」を書きたいと思う。

私は、ちょいちょい天理教人と接することがあるのだが、
親しくなった天理教人に必ず聞くことがある。

それは「天理教の好きな教え(言葉)はなんですか?」である。

以前は「天理教のどこがいいんですか?」と聞いていたが
それはあまりに攻撃的らしく「全部だよ」と怒り出しそうな人が
多くいたため変更したのである。
(個人的には「好きな」というところが個人的意見を聞き出すために有効だと思う)

結論から言うと人それぞれである。
「人を助けて我が身助かる」(これ1位だと思う)とか「陽気ぐらし」とか
「素直」とか「一粒万倍」とか。
この間、話を聞いたご夫人は「節から目が出る」(さすが父権制社会のサバイバー)と言われていた。
もちろん私にとって知らない言葉や教えが多く「それってどういう意味ですか?」と
私が問えば、みなさん嬉々として説明してくださるのである。

それはさておき、私が好きな天理教の言葉は「喜ばさずして帰らせない」だったかな?
ちょっと違うかもしれないけど、そんな感じの言葉だった。
確か、教祖が住んでいた屋敷に来た人には、みんな喜んで帰ってもらおう
という意味だったと記憶している。
なぜ、それが私の好きな言葉になったのかと言うと。
天理教に限らず、私は「歓待hospitality」という言葉が好きなのである。
「歓待」と言うとジャック・デリタや阪大の鷲田清一学長などが考察を重ねているが
私も日本人の心性には歓待が非常に馴染みがあり、骨肉化している美徳であり財産だと思う。

歓待やHospitalityと言えば、看護、福祉的ニュアンスがあり、ちょっと小難しいが
なんのことはない「おもてなし」である。
そして、例外なく天理教人は「おもてなし度」が高いと思う。
一応、私は天理教人ではなく、あくまで外部の人間であるので、天理教人による
何か宴席や食事会などがあれば「ささ、どーぞどーぞ」とビックリするくらい喜んで迎えられる。

私も長らく普通のサラリーマンである。そのため接待などで異様に歓待されると
「ん?ひょっとしたら、この接待の後には先方の無理な要求や契約がるのでは?」
と思ってしまうのは当たり前であるし、そうなるのが普通であった。
ビジネスマンに仕事以外での歓待など必要ないからである。

私を歓待してくれる天理教人は私がお世話になっている系統の教会だけなのか、
天理教全体としてそういった傾向なのか分からないが、管見の及ぶ限り
他系統の天理教人についても同じように歓待して頂いていることから全体的傾向としてよい。

日本人の持つ「おもてなし」の心性が天理教の教えによって強化されていることは
間違いではないだろう。通常なら「おもてなし」の心性が駆動しても社会生活を営む上では
相手を警戒したり、保身したりするものである。そういった利害関係の心理的ストッパーを外せる
ことは何か歓待の根底にある人間愛とも言える、赤ん坊のような素直さを感じざるを得ない。
また歓待される方もまた赤ん坊の様な安心感を覚える。
「どーぞどーぞ」と無批判、無警戒に迎えられることほど人間が喜びに感じるものはないのである。

「心の時代」や「縦の伝道」とアポリアを言うよりも「おもてなし」など今ある価値を
見出した方が将来的に天理教が現代社会をブレークスルーできる蓋然性が大きい。
見てる方(世間)にもシンプルで分かりやすいしね。
この辺のことを天理教の研究者はもっと主張してもよいと思うだが。
今の天理教にはオピニオンリーダーさえ見当たらないのだろうか??

この記事を終わる前に留意点を記す。
今回は天理教人の持つ歓待の精神について褒めちぎったが私は何も手放しで賞賛しているわけではない。
同じように歓待する天理教人によって、真綿で首を絞められるように、じわじわと苦しめられている
信者がいることも心に留めておきたい。
それが天理教人の歓待の精神と関係が全くないとは言い切れない。

精神分析学的な依存という視点で見れば歓待も心理的コントロールも大差はない。
それは論理の立て方次第であり、天理教人の心性として今後考察しなければいけない思うのである。

こどもおぢばがえり再考

過去に一度、本ブログにおいて「こどもおぢばがえり」を取りあげたことがある。
どんなことを書いたのか覚えていないので、再考というかたちで考えてみたい。

「こどもおぢばがえり」というイベントの主旨や内容に関しては他のサイトに譲る。

こどもおぢばがえり・・・
まず名前が長いので以下こどもおぢばがえりは「コドオヂ」と表記する。
(さすがに「こどもがえり」は誤解を招くよね)

そのコドオヂに私は数回参加したことがある。
子どものころに何回かと昨年である。
昨年は知り合いに誘われて、夜のパレードを何年かぶりに観覧した。
今年も行きたいのだが、行く予定のないままに結局終わってしまった。

私の知り合いの天理教人(Fさん)の話で恐縮だが、
Fさんの教会ではコドオヂに参加する子どもの数が激変したようである。
数年前までは、観光バス3、4台で100人越えだったものが
今年(08年)は10人程度ということであるらしい。

この人数減少を少子化で一括りに片付けるのは物足りないので
もう少し掘り下げて考えてみることにしたい。
そして、この参加人数の減少こそ将来の天理教の姿を映し出している
蓋然性が高いと思うのはそんなに間違いではないのではと思う。

まず議論の前提として教団による正式な参加人数の発表を私は知らない。
しかし、それでも私は周囲の天理教人の話から参加人数の減少を前提で話を進める。
なので「コドオヂの参加人数って年々増えているよね」と後から言われては
私は素直に「知りませんでした、申し訳ございません」と言うしかない。

そもそも宗教団体が公表する統計的数値は科学的信頼性を担保できないことは
アカデミックの分野では合意形成されている。
そのことは各宗教団体が公表している信者数を見れば誰でもわかる。
「そんなにいねーだろ」と言わんばかりの信者数である。
天理教も例外ではない。
なので、天理教教団が「コドオヂの参加人数は年々増えているんですよ」と
言ったところで、私はそれを鵜呑みにはできない。もちろん逆の場合も同様である。

私の論理展開のきっかけは誰も口にはしないけど何となく皆が違和感を感じること
を根拠にしたいと思う。「コドオヂの参加人数って減少してるよね」という感じである。
「それはお前の主観に過ぎないだろ」と言われるのなら、それにはただ謝罪するしかない。
管見の及ぶ限りこうした誰も口にはしないけど皆なんとなく感じている違和感こそ
物事の本質に近いということはしばしば(かなりの高確率で)起こりえることである。

コドオヂの参加人数減少の一つに考えられるのは少子化である。
これにはもう説明がいらないくらいメディアが丁寧に教えてくれている。
次にFさんの供述や家庭状況から鑑みて少子化という概念で曖昧にされている背景を考えてみたい。

参加人数の減少は、つまるところ勧誘するチカラの低下である。
勧誘するチカラの低下といっても、勧誘する側の力量不足という意味ではない。
この勧誘能力の低下についてはハード面とソフトの面も含めて誘う側と誘われる側、教団の3つの
側面があると考えられる。
まず誘う側から考えると、先のFさんの場合で考えると
コドオヂに100人以上の子どもを多く勧誘できた年というのは、
Fさんの子どもが学童期であった時期とかぶる。
つまり、自分の子どもが小学生であるとPTAや地域の繋がりが
濃厚になるため、勧誘しやすいということである。
自分の子どもが学童期から離れ、PTAなどとの関係も薄れるほどに
コドオヂの勧誘が難しくなるのである。

次に誘われる側の面。こちらの方が奥が深い。
子どもにとってはコドオヂはそんなに(昔ほど)魅力では無くなっている。
現代では子どもの楽しみの選択肢は広がり、子どもにとってコドオヂが「特別な体験」
ではもうない。夜のパレードを見ればディズニーと比較し、
詰所での宿泊はクーラーがないのを嘆くというような子どもが着実に増えているようである。
「コドオヂの魅力は、そういったクーラーやパレードの華やかさなど外形的要素ではなくて
子どもたちの交流や、パレードのゲームのお兄さん的な手作り感ではないか」
と言われそうだが、現の子どもたちは自由時間では友達とじゃれ合うことは少なく、
友達が横にいても無言でDSやPSPをやっているという。
それが事実かどうかというより、そういった地殻変動的変容が現場レベルで
着実に増えているというだけの話である。
こういった現象が勧誘する側にも無意識的に存在し、勧誘の動機付けが低下していると思われる。
人間は自分が熱くなれないものを、他者に勧めることが難しいのは当たり前である。
少なくとも私は嫌いなものを人には勧められない。

次に天理教本部からの視点を一つ。
以下は私の考察ではなく知り合いの天理教人が教えてくれたことなのだが、
コドオヂは年を重ねるごとに幼児化、縮小化しているということなのだそうだ。
数年前までは「白川」という広大な敷地でアトラクションがあったり、
普通の一般施設での舞台公演などがあったようなのだが、(そういえば私の記憶にもある)
ここ2、3年では神殿の近所(神苑内)ですべての行事が行われるようになっているようである。
その結果、何が起こったのかというと。引率する大人達が楽しめなくなったということである。

「いやいや、コドオヂは子どものためものだから、大人は楽しまなくてもいい」
と反論する方がいると思うが、前述したことと同じロジックである。

大人が「コドオヂって楽しいぞー行くぞー」と大人が楽しそうにイベントに駆け出していく姿と
「コドオヂは子どもが楽しむもんだ。ほら、行っておいで。」と大人がいうのでは子どもが楽しいと
感じるのには雲泥の差がある。
これは、私が常々教育に対しても言っていることと同じである。
基本的に子どもは大人が楽しければ楽しいのである。
それこそ、おもちゃやお菓子などの外形的ツールに意味はない。

現在、小、中学校の先生方が苦労していることも同じことである。
いくら学校の先生が教材研究や、授業運営を工夫したところで、先生が「これはおもしろい」と
思わなくては子どもはついてこない。反対につまらない内容の授業や教材でも先生が
「これはおもしろいからやってみよう」と言えば、子どもは一気に授業に乗れるのである。
そう、「乗れる」とい
う感覚なのである。現代音楽で言えばグルーブ感である。
グルーブ感とは全員が共有できるウキウキ、ワクワク感といったところかな。

今のコドオヂに、その乗れる感じは少ないと思う。
子どもの笑顔ではなく、大人の笑顔が少なくなっているのである。
教会本部が、どのような方針をコドオヂに打ち出しているのかは分からないが、
社会と子どもの地殻変動に対応できていないことは外から見て分かる。

ひょっとすると、そういった社会や子どもの地殻変動的変化を
教団は対応できていないだけではなく、まだ意識化もできていないことも十分に考えられる。
自分に都合の悪い情報は見ないようにするのは人間の大切な能力である。

天理教の縦組織の対応の遅さや、「船頭多くして船山登る」なら私も勢いよく同意できる。

私の言いたいことは、何かしらの対応を早急に起こした方がいいのではないか
ということを言っているのではない。
社会や子どもの状況に応じて、微妙に規模を縮小し、いつの間にかコドオヂが
自然消滅しても、それはそれでよい。
しかし現状では中央集権で莫大な費用をかけて、優秀な人員を駆り立てて、
その結果、天理教において何を目的としているのかは私は理解に苦しむ。

目に見える宗教的効果がなくても「子どもの脳裏に天理というところは楽しかった」と
思えてもらえればOKと言われそうだが、
それを教会本部の人間が言っているようでは天理教はオシマイである。
(実際に運営サイドの人間がそう言ってるかは知らないけど言ってそう)

サブリミナルな効果を期待するのであれば、某学会や新興宗教をロールモデルにした方がよい。

私がなぜそこまでコドオヂの費用対効果に対して懐疑的かというと。
華やかな表舞台の裏で、ノルマ達成や、理不尽な徳積みのために
汗や涙を流している人が少なからず知っているからである。

私はそのアドボカシーでしかない。

天理教と宗教建築

今日、書店で中央公論の隣に置いてある雑誌を何気に手に取る。

「ワンダーjapan」という雑誌。
少しレトロな雰囲気が漂う表紙である。

内容は京都や奈良のランドマーク的建築物を紹介しているよう。
その中に天理教の教会本部の神殿やおやさとやかた等の周辺の建築を紹介している。
全部で4項くらいだろうか。比較的大きく扱われていた。
文字による説明は少なく、写真が大きく掲載されており見やすい。

教会本部の神殿について私は幼少の頃から実物も含め見慣れているので驚きやしない。
しかし、初めて本部の神殿を見る人は、その神殿の壮大さや街の異様な雰囲気に
驚くことは想像に難くない。それほどインパクトの大きい建物である。

ただ、私の天理教に対するひいき目なしの率直な思いとして
天理教本部の神殿は文化建造物として「もっと注目されてもいい建造物」
なのではないかと思う。あれほどの巨大な建築物と珍しい建築様式である。
そのわりに、奈良や関西の情報誌や旅行雑誌にはほとんど扱われない。

私は建築に関しては少々関心がある。
そのため、建築系雑誌(BRUTUSや商店建築など)は欠かさず読んでいる方である。
そういった一般建築雑誌で天理教建築については取りあげられている記事を見た事がない。
天理教の教会を安藤忠雄に依頼する教会があってもいいとは思うのだが・・・軽卒な意見ですみません。

天理教の神殿に対しての建築学的評価というのは少なくとも存在する。
有名なのは「新宗教と巨大建築」という新書がある。著者は五十嵐太郎。
数々の宗教建築について考察しているが、天理教の神殿について割かれている項は圧倒的である。
また私の知り合いの建築家も天理教の神殿に対しては「いつか研究してみたい」と言っていた。
加えて、「こんな建築学的に豊富なサンプルが今までほぼ手つかずで放置されているなんておかしい」
と神殿が研究対象となっていないことを嘆いていた。

話はそれるが、今わたしが行って見てみたい宗教建築は大阪にある「光の教会」である。
「光の教会」はキリスト教の教会であり安藤建築である。
教会という空間であるにも関わらず、建築的価値があり観光ツアーのようなものがあるらしい。
もちろんツアーと教会の宗教行事スケジュールは避けているようだが。
日本の著名な歴史的宗教建築は、宗教と言えど宗教的機能よりも観光資源の要素が大きい。
しかし「光の教会」のように生きている宗教施設であっても文化的価値を認めるという点では、
「光の教会」の牧師がその文化的価値を宗教に埋没させるにはもったいないという評価があるのだろう。
それは宗教を軽んじることでもなく、文化は皆の財産であるという正当な評価であると思う。
また教会を公開することが、同時に布教という要素も多分に含んでいることは容易に推察できる。

天理教は文化を大事にしている宗教であると私は思っている。
しかし一方で天理教人が、その立ち居振る舞いも含めて文化的かというと疑問符がつく。
現在、歴史的社会的に誇るべき天理スポーツも天理文化も二代真柱が開拓した惰性でしかない。
少なくとも現在の天理教は文化資源を社会的に構築することに開発的ではない。

「心の時代」や「縦の伝道」などと難問を言う前に、具体的に天理教の社会的資産を
開発的に評価し高めようとする人がいてもいいものだと思うのだが、いない。
それこそ先ほどの話に戻るが、極端な話天理大学に建築学専攻があってもいいと思う。
天理大学=宗教学や心理学に重きを置くという経営は、一方で宗教の柔軟性や多様性を
狭めているようにも感じる。

天理教の人間が宗教という、きな臭い狭い領域に留まる見苦しさと
天理教人であるけども色々な領域にまたがるのでは、その人の魅力は異なる。

道一条といわれる天理教一筋が、天理教内部で高い評価を受けている現状では
まだまだ宗教的成熟が達成されているとは言えない。
スポーツの分野や芸術で活躍している天理教人は多数存在しているが
その人達と「私たちとは別物」という線引きが普通の天理教人の中に見えてしょうがない。
つまり同じ天理教を信仰する者というカテゴリーなのだが、社会的に活躍できている人や
名声を得た人は「特別な人」として同じカテゴリー内で差別化されている。
一度差別化してしまうと、それらの人をロールモデルとして見ることができなくなってしまう。

それは逆説的に普通の天理教人の中には自分が道一条であることで優越感を感じているからである。
同時に、この場合の優越感とは満たされない自分や無力な自分であることを隠蔽し抑圧する
防衛機制としての機能として考える方が妥当である。

もう少し天理教と社会の橋渡しとしての布教実践を教団や個人が真剣に検討してはどうかと私は提案する。

いつまでも神名流しと戸別訪問に固執しては、社会と天理教の距離が増大すると危機感を
募らせるのは私だけだろうか。
少なくとも、私は神名流しや戸別訪問など他者が奇異に感じて、引いてしまうことは
したくないし、持病のじんましんが出そうなので出来ない。
それは、至極まもとな感覚だと思うのだが天理教人はまともな感覚を麻痺させてしまったのだろうか。
それとも私が神経症的不安傾向が強いだけなのだろうか。

どちらも捨て難い仮説である。

天理教の教会は道場?

昨晩、ニュースを見ていると天理教の教会で赤ちゃんが死亡したというのが流れた。
私が学生時代に住んでいた場所の近所であることで驚いたのだが、
そこが天理教の教会ということにも驚いた。

http://www.mbs.jp/news/kansai_GE080707230000131575.shtml

この事件については警察の捜査を見守るしかない。

しかしこのニュースで気になる点があった。
それは、アナウンサーが事件の起こった場所を説明するのに「天理教の教会で」と言わずに
「天理教の道場で」と連発していたことである。

天理教の人はどう思うかは分からないが、
世間一般では(宗教的)道場という表現を聞くとたちまち怪しい雰囲気が瀰漫する。
それは紛れもなくオウム以降である。

天理教の内部では教会を道場とは言わないはずである。
また同時に世間一般でも天理教○○教会と見れば、そこは教会と思うだろう。

つまり、今回の報道には恣意的に「教会から道場へ」と表現が変えられた臭いがする。
恣意的というのは私の妄想であろうか。

記事にした記者がいい加減な取材しかしかなったのだろうか。
いや、むしろいい加減な取材の方が「教会」と表現するだろう。
だって天理教の教会には必ず看板があるのだからね。

ということは、記者はかなり徹底した取材のもと
「天理教の教会というのは自己鍛錬の場としての場であるから道場と表現しよう」と
したのだろうか。しかし、徹底した取材によって視聴者に誤解を招くようなレベルの低い表現を
する記者はいないだろう。天理教の教会を教会と表現する方が理解しやすいのは誰でもわかる。
前面に出ている天理教○○教会と表現しないで、
どこにも書いていない道場という表現を敢えて表記する理由は何だろう。

やはり、そこには天理教をよく思っていない編集者なり、デスクなり、上層部がいるのだろう。

私はやはり昼ドラのような裏を読みすぎる妄想的思索が好きなようだ。

天理時報批判

私の家の近くには天理教の分教会がある。

その教会と私は何の接点もない。

その教会の前の道をよく私は歩いて通るのだが、
道路に面した教会の掲示板には天理時報が貼ってある。
時間があるときなどは、そこに貼ってある天理時報を立ち止まって
読んでいる。(私は天理時報を購読していない)

本日も外出した折りに予定時間まで余裕があったので天理時報を立ち読みした。

印象に残ったのは、なんだったかな。
確か「若者の性」についてのアンケート調査が行われている記事があった。
私は、その記事のチープな作りに驚倒しそうになった。
この「若者の性」の問題意識は「若者が巻き込まれる犯罪には性の問題が目立つ」という断定から
始まる。そして、アンケートの集計に触れ(といってもアンケート自体のサンプルは100名にも満たない
)それぞれの読者の感想を列挙してまとめているのだ。

おなじみの天理時報であるので、結論は「子どもと向き合いましょう」というような
現実と解離した「結局どうしたらいいの?」と思わせる抽象的理想主義で締めくくられている。

それはそれでいいが、私が気になるものとしては論点の古さ、構成の弱さに尽きる。
「若者の性」については80年代、90年代には教育界ではフェミニズムを中心にずいぶん議論されてきた。
(もちろん、現在でも「若者の性」について教育界で議論されているが天理時報で扱っているようなレベルの低い論点「子どもと性について話しますか」などは時代錯誤といってもいいだろう)

私はこの論点の古さには多少怒りを覚えた。それは、読者の感想にも原因はある。
読者の感想の一つに「看護師や保健師がきちんと性について教えてほしい」というような
感想が某教会長さんからの感想としてあったからだ。

私は学校教育についてはある程度の関わりと経験があるので怒りを覚えたのだが、
現在の性教育の開始は何年生からか、この教会長さんはご存知だろうか?
現在、小学校中学年には性教育についての授業が開始される。
また現場の教員は、養護教諭(看護師)とチームを組んで、
いかに早い段階から子どもにストレスなく性教育を行うかで試行錯誤している。
私は、どれほど現場の教員が苦労しているか知っている。

異なる側面を考慮せず、あたかも当然のことのように正論をかまし批判する大人は大人とは言わない。

そもそも大人世代の性の方がいい加減ではなかったか?
また性の氾濫や、それに通じる女性蔑視を父権性で隠蔽したきた歴史があるのではないか?
こういった反省なしに「いや、それでも私は真面目であった」などと言うのは大人の作法ではない。
ただのモテないオヤジである。

天理時報では若者論が好きなようだが、一番声を挙げることが少ない無難な若者を
ターゲットにするには、ちゃんと建設的結論を提示して頂きたいものだ。
(「子どもと向き合いましょう」には何の結論でもない。気持ちが悪いほど自己愛的結論である)
私は、こういったチープなジャーナリズムを断固肯定しない。
なぜなら、こういった議論から陽気ぐらしが全く見えないからである。
若者の性から陽気ぐらしへの道筋を立てるのが天理時報の使命ではないのか。

この記事を書いた人間を知らないが、構成段階で「若者が巻き込まれる犯罪には性の問題が目立つ」
というテーマの主観に危険性や内省は伴わなかったのであろうか。この記者にはもう一度大学で
ジャーナリズムと社会的責任について学ばれた方が賢明である。

また100人も満たないサンプルで若者論を論じるのも強引すぎる。
私は学術的に信頼性を高めるために統計的有意差を検討しろとは言っているのではない。
しかし、もう少し人数を集めるとか質問項目を検討するとか、先行研究をレビューするとか
頑張れるものではないだろうか。(天理大学という立派な研究施設があるのだし)
記者はそこまで、天理時報の記事には使命感はないのだろうか。
どんな文学研究でも、結局は流した汗とすり減った靴底が質を高めるということは大学に
在籍してペーパーを書いたものなら誰もが経験するものである。
思いつきや楽して書いたペーパーなど読むだけ時間の無駄である。
きょうび高校生でも、こんな適当な記事は書きやしない。

もう少し頑張ってもらいたいものである。

私は天理時報を読み終えた時の空虚感や喪失感というのは、どこか既視感があった。
よく考えると朝○新聞の読者のコーナーである。あれも正論が多いコーナーである。
正論を当たり前のように主張する人間ほど、慎みが感じられないものはない。

感謝、慎み、たすけあい、という標語はきっと天理教の人間に対してのものだろう。

メールのお返事

記事の更新が滞っており申し訳ない。

3週間ほどほったらかしで、放置最長期間である。

私事で申し訳ないが、この間公私含めて休まる暇がなかったのである。
おかげで、友人の医師からは睡眠障害の診断を頂戴した。
睡眠障害と言えば、眠れない不眠症が一番メジャーであるが、
私の睡眠障害の特徴は早朝覚醒なのである。その名の通り朝早く目が覚めるのである。
入眠はスムーズである。

朝のおつとめがある天理教の人には羨ましがられるだろうが、
通常の私の起床時間は7時前後である。8時の時もある。
しかし、たっぷり寝ているわけではない。夜は大体2時3時くらいに就寝である。

それが早朝覚醒になり、夜中2時3時に寝ても5時には目が覚めるのである。
また日中にはヒドイ睡魔に襲われることもあり、慢性的な頭痛というおまけつきだ。

睡眠障害というのは本当に辛い。この辛さはなって頂かないと分かってもらえない。

しかし7月も今週が終わればストレッサーであるプロジェクトも落ち着くはずである。
早く今週が終わってほしい。

それはさておき、3週間放置していた間に3つくらいメールを頂いた。
その返答を今回の記事にかえたい。

長々と書かれたものや、なんだかよくわからないものもあったが
メールの内容を簡単に説明するなら「お前は誰だ?」ということである。

私は誰か。アイデンティティなど私も教えて欲しいくらいのアポリアである。

メールの質問項目に沿って答えると

私は学者ではない。
宗教学は専門ではない。
天理教に興味がある。
天理教信者ではない。
社会学者でもない。
普通にサラリーで働いている。
メディアには基本でない。
天理教の教義をよく理解していない。
私は女ではない。
天理教の味方でも敵でもない。応援はしている。
天理教教義は素晴らしいと思う。
天理教の縦組織構造は歴史的使命を終えたと思う。
年は30後半である。
天理大学に在籍はしていない。
どこの教会にも在籍していない。
(関わらせて頂いてはいる)

以上だったかな。

ただ、以前も言ったと思うけど、
匿名にしている意味はちゃんとある。
理解されないかもしれないが、宗教のような濃くてコアな話をすると
誰かが被害を被る場合がでるからである。それは何としても避けたい。
また、そのために有益な経験談を隠すこともしたくない。
なので、読者の方には「こういった屈折した考えの人もいる」程度に考えてもらえればよい。
ただ、プライバシー保護により脚色はしているものの、ほぼ実話である。

また個人を特定できないように配慮しているため
上記に挙げた私の個人情報も場合により脚色してあるため
2、3本当でないことも書いてある。
(本当ではないが、嘘でもない)

ご了解ください。

天理教平和の会を考える

ネットで「天理教」を検索してみると
「天理教平和の会」という団体がでてくる。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-04-09/2007040914_01_0.html
扱われている媒体が「赤旗」って・・・敢えて突っ込まないが。

この団体は閣僚に対して9条を守るよう要請したようだ(昨年の話だけど)

彼らの主張は、以下上記URLより引用。

<<「おふでさき」をひき、「教祖の教えの根本は『世界はいちれつ兄弟姉妹』
『陽気ぐらし』世界の建設」であり、「陽気ぐらしとは『むほんの根がきれる。
すなわち恒久平和が実現される』(天理教事典)」ことだと指摘。
「こうした教祖の教え、つまり天理教立教の精神は、恒久平和を原則とする日本国憲法九条の
精神そのものと私たちは確信し、現憲法九条をまもることこそが、教祖の尊い教えを
まもり広げること」だと述べています。>>

なるほど。分かります。
私も個人的思想としては保守リベラルと言われているので、9条は守るべきものだと思います。

しかし、彼らの天理教の教え=9条を守るという推論に対しては同意しかねる。
それは天理教立教の精神が恒久平和を原則とする憲法9条の精神そのものだと
確信するに至った経緯が読み取れないからである。
天理教の教え=平和 というのは分かる。
しかし、9条=平和 というのは未だ社会的合意(成熟)は形成されていない。
三段論法のようにa=b、b=cはa=cで考えると
天理教の教え=平和=9条となってしまう。
これは飛躍しすぎてはいないだろうか。

なぜ9条が恒久平和になるのか、という金科玉条がない。
9条がもたらす平和とは何か?
天理教の陽気暮らしは平和なのか?
平和とは何なのか?
その答えには、辞書(天理教辞典、そんなものがあるのか)で引いた程度の定義しかないのである。
彼らの推論には日本の平和という近視眼的、独善的意図しか見えてこない。

私は当初、彼らの主張を知ったときは「おぉやるなー」と思った。
しかし彼らがどんな理論と哲学を持っているのか読み取れなかった。
また、それを丁寧に説明している形跡もない。
飛躍した推論というのは精神医学では妄想様観念と言う。

天理教の陽気暮らしと世界の平和、日本の平和を一緒にしてよいのだろうか。
しかし、こんなナイーブな問題を彼らは堂々と主張し、為政者に書簡を送るくらいである。
(為政者に対して「9条守れ」という書簡を送ることが天理教的行動として疑問であり、
慎みというものは感じられない)

彼らの単純性を省みると「赤旗」に掲載されている意味がなんとなく読み取れる。

天理教は政治的スタンスにはあまり干渉しない。
それはとても大切なことであり、私はそういった姿勢の天理教に好意的である。
政教分離を考えるならば、政治的スタンスを明確にする宗教者は宗教者としても疑問である。
(「政治的スタンスをとらない」というスタンスは別にして)
もし、彼らが本気で平和を考えるならば、政治的スタンスを明確にすることは賢明ではない。

彼らの視点では、天理教教団が政治に対して消極的過ぎる姿勢も彼らを苛立たせているだろうと思う。

私は以前、「天理教教団は意見を明確にしろ」と言ったことがある(たぶん過去のブログで)
それは平和の会の人たちと同じじゃん?って?

いえ、違います。
私が教団に対して意見を明確にしろと言ったことは、
平和の会が政治的意見を明確にすることとは水準が違う。
それを説明すると、私が「教団は主張すべき」といったのは、確かヒロシマや戦争を論じたときだと思う。
つまり、私が主張したいのは天理教の政治的スタンスではない。
戦争反対やNo more ヒロシマというのは政治的スタンスではなく
既に社会で合意形成された常識なのである。
(右翼などは政治的スタンスとして戦争賛成を言うが、右翼の根底思想は戦争を止める(平和達成)
ために戦争という手法を用いるというパラドックスであり、本来的には右翼は戦争を望んでいない)

戦争反対などという誰も望んでいない「当たり前」のことを主張しなさいと私が言うのに対して
平和の会は具体的な政治スタンスを明確にしろ、と言っているのである。

国会を見れば分かるが、政党や派閥によって色々な意見がある。
しかし、どんなに意見が違おうとも根底には「日本を良くしたい」というものしかない。
私は当たり前のことを当たり前に言えと言っているだけ。

私の言っていることは政教分離において十分可能である。
しかし法律にあーだこーだと口を出すことは政教分離ではない。
彼らが行っていることは政治に干渉できる第二の学会でも作ることなのだろうか。
学会と公○党の関係を見れば、それが不透明で不健康なことぐらい皆知っている。
(同時に宗教全般に対する国民の畏敬の念を低下させている部分もなくはない)

なぜなら彼らの意見(9条を守れ)が政治に介入することは、政教分離を否認することになる。
(書簡を出してまで、まさか自分たちの意見が通らないことを望んでいることはあるまい)

どれにしても彼らの説明不足は否めない。

彼らが政治に言及する理由。
平和が目的なのに、わざわざ9条に固執する理由。
天理教という名を冠することへの理念。

これらにおいて私は宗教、政治、平和に対する軽卒さしか感じられない。

昨年彼らの活動が3周年を迎えたようである。
3周年大会において全国から30人弱の人数しか
集まらなかったそうである。会員は70人程度。
そのことを考えるなら、この会に参加しない天理教人は
怪しいものには近づかない、なかなか優れた身体感覚を持っているのではないかと思う。
http://nara9jou.exblog.jp/7905367/

神が人間を作ったワケ

天理教では周知のように人間を作ったのは神様という教えである。
その人間の誕生方法は他のサイトや文献に譲るとして(私もあまり理解できていない)
人間の誕生理由にはどういった意味付けがなされているのか。

よく聞かれるのは
「神様は人間が陽気暮らしするのを見て、共に楽しみたいと思し召されて人間を作られた」
という文脈である。

なるほど。
神様はとにかく陽気暮らしがしたかった。。
人間の存在理由がそのまま人間生活の目標となっている。
実にシンプルで分かりやすい。立派な教えである。

しかし、まだ若かりしころの私はこの人間創造の理由がピンとかなかった。
それは、上記の一文が日本語として不適切で飲み込めなかったのである。
この「神様は人間が陽気暮らしするのを見て共に楽しみたいと思し召されて人間を作られた」
という一文の違和感というのは、つまるところ「神様が見た人間は何者か?」ということである。

この一文を時間軸にそって考えると
神様は人間を見た。
人間が楽しそうにしているのを見た。
神様は思った。
私も人間を作ってみようと。
そして、人間を作りました。

ということ。

つまり、神様が最初に見た人間は誰が作ったのか?
という疑問に行き着く。

もし、天理教の神様が人間を作る前に人間を見ていたのであれば
天理教は人間を作った原点ではないことになる。

という矛盾を若かりし日の私は思っていた。

そして、先日私と面識のある青年が同じことを言っていた。
天理教は天地創造の物語から、すでに矛盾だらけではないか。と。

天理教ほど規模が大きくて、研究が豊富で教義が安定している(新興)宗教は例をみない。
しかし、天理教人ほど教えを熟成させる雰囲気がないのも珍しいのではないかと思う。

例えば、私が常々批判している「天理教言語の乱用」を指摘する人間はなかなかいない。
「いんねん」や「理」などの難解な概念でさえも、ぽんぽん人の口をついて出てくる。ぽんぽん。
それは自己内省的要素を伴わず、信者や相手をコントロールする手法として使用されている。
宗教の熟成とは内省を伴わずして達成できない。
「私にとっていんねんとは何だろう?」
「陽気ぐらし達成のためにどう振る舞えばよいか?」など。
そういう自己反省の修行的要素は、正直言って感じられない。
相手を説きふすためのツールなのである。武力と言っても過言ではない。

また、そういったことを指摘するリーダーが存在しないのも残念である。
何かあれば「心の問題」として曖昧に処理されていては信仰の意味がない。
(天理教の新聞である「天理時報」は様々な社会的時事を扱っているが、
結論はすべて「心の問題」としか言えていない所にも組織的未熟さを感じる)

閑話休題。
人間創造の原理について結論を言うと、
神様(天理王命)が最初に見た人間もまた神様(天理王命)が作っている。

私は時間軸にそって考えてみると仮定したが、そこに大きな問題がある。
神様は時間軸で動いてはいない。
神様は無時間モデルであるのだ。
神様は現在、過去、未来を自在に行き来できるのである。
「そんな馬鹿な」と言われそうだが、
神様の存在は我々人間が想像できるものではない。
それが神の定義でもある。
そこを忘れてはいけない。
だから、神様の真意を人間が推し量ることはできない。
「神様はこう言ってるんだよ」と言う天理教人は多いが
その都度、私は「嘘つけ」と思う。

こんなに科学が進歩しても、人間はオリジナル細胞一つ作ることができないのだ。
人間の知恵で神の能力を比較考量できるはずがない。

そこを理解している天理教人は会ったことがない。
もちろん、そこを説明できる天理教人も見たことがない。

前述した青年に対し、私が述べたのは。
「宗教や神、また人間は、そういった矛盾で曖昧模糊とした存在なのかもしれないね。
それでも君が天理教の教えを好きだと思うなら、その矛盾も抱えて自問していく
ことが天理教の発展、また君の成熟にもなるんじゃないかな。神様は我々人間の
及ばない存在であることを認識することから考えてはどうかな。
私たち一人一人が生きていることが、もうすでに奇跡なのかもしれない。」
というような臭いことを言った。

神様が人間を作った理由なんて誰も分からない。
私たちは、とりあえず陽気ぐらしを目指すだけなのである。