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生かされているというアポリア

このブログを訪れてくださる人数は
平均して一日30人から50人です。

こんな、たらたらと説教じみたものを読んでくださり
本当に感謝しております。

中には直接メールをくださったり、コメントを書いて
くださる方もおります。

その数は多くないので、返事を書かせていただいています。
(遅いですが)
匿名のブログでありますので、批判的な意見も多いかと
思われそうですが、批判的な意見は全くといってないのです。
情報が溢れる中で、いちいちブログに批判しておられない。
批判をするくらいならそんなブログ見ないということと一人合点しております。

それはさておき、そういったメールやコメントで読者様との交流において
私の知らない世界、壮絶な体験をされた方の話を聞かせて頂きます。
そういったお話を通して、天理教の新たな一面を垣間見るとともに
私の考えを明確にし、時には考えを改めてさせていだいております。

また、そこから貴重なテーマの案を与えて頂いていることにも感謝します。

今回はそこから得られました「我々は神様に生かされている」という
教えについて考察していきたいと思います。

過去に書きました「修養科の査定ライン」という記事の中で
いくつかコメントをいただきました。コメントなので
誰でも見られます。
ブログの特徴上、過去のコメントを閲覧する読者は少ないと思います。
そのコメントを埋没させるのは勿体ないと思いましたので、また私が
コメントの返事を書くうちにどんどん長くなりましたので
今回はそこから引用します。

ある読者の方のコメントで
<<正直・・・お道のみならず宗教というものが、人間にとって必要か不必要かで
日々もがいてるんですよ。 私は、陽気ぐらしどころか、「この世は苦の連続だ」と
考えてる始末です。まずは、生かされているという感謝の気持ちをもつことが
私には必要なんでしょうけど。宗教は難しいですね。>>

というコメントをいただきました。

そのコメントの返事を書くつもりでしたが、
書いているうちに長くなったので、記事に替えさせていただきます。

私の考えでは宗教を必要ー不要の一元論で結論を導くことは難しいと思います。
必要な部分も不要な部分もあり、また人それぞれにとっても宗教を必要な人と不要な人と
あるのではないかと思います。
(この場合の宗教とは宗教団体であり信じる気持ちとか形而上的概念とは別です)

「神様に生かされている」という実感はとても崇高な教えであると思います。
しかしその教えには「私の人生は私のもの」という俗物である人間としての(多少わがままな)
自我を超越したものであると思います。教えというか仏門で言えば悟りに近いですね。

その「神に生かされている」という教えの対象は人間であります。。
天理教の教えでは神様が主体の世界です(この世は神様が作った世界であり、人間は世界を作れない)
しかし、人間のための教えという意味は、この世界を巡るストーリーの
主人公は人間であるということであります。

簡単に言えば、神様は監督で、我々人間はアクターであります。
しかも、このストーリーは全てアドリブで進行します。
しかもテーマは「陽気ぐらし」です。
大切なことは、アクターは舞台上しか動けないし監督は舞台に上がれない
ということなのです。
しかも、この監督は演技指導も台詞も用意してくれない。
監督ができるのはキャスティングと舞台の強制終了です。
「私が必要と思ったら舞台に挙げるし、降板もさせる。それぞれが自分で判断して陽気ぐらし
に向かって好き勝手演技しな」というタイプの監督です。黒沢明より恐いですね。

そういえば、昔「トルゥーマン・ショー」という映画がありましたね。
主人公はトム・ハンクスだったかな。その映画の概要は
主人公の青年は生まれてから一度も家がある島を出たことがない。
しかし、実は彼の人生は24時間全世界で放映されているのです。
それを気づかずに彼は人生を過ごすということです。
もちろん、島は超巨大なセット。
島の住人(彼の身内)は全てエキストラ。
主人公の彼だけが、リアルな世界だと思い込んで生活している。
という話です。

我々の世界もこのトルゥーマンショーと似て非なるものですね。

閑話休題。
我々人間は神様ではない。
神様に思いを馳せるより、人間として与えられたテーマを懸命に生きる。
これが人間にできることだと思います。
時には失敗し、時には後悔し、それでも反省し、信じ合い愛し合って生きる。
不器用でも懸命に生きる人間くささ。これほど美しいものはないと私は信じています。

その点を考えると「人間は神に生かされている」というのは所詮教義です。
また、こういった教えがあるからこそ反省し泥臭くも「生きる」ということだと思います。
されど教義ですね。

しかし、その教えを教義ではなく、生活として「生かされている」と思う人がいたら、
その人は「我々は神様に何故生かされているのか、神様は我々に一体何を望んでいるのか」
という無意味な思考を絶えず生活の端々で巡らさないといけません。
めんどうな人ですね。

「生かされている」という受け身の中で、必死に生きるという積極性。
ここを明確に割り切れていますか。ここを割り切れないと「生かされている」という
教義が非常にプレッシャーになります。
「生かされている」ということを時には意識し、神に感謝します。
しかし、そればかり強調する人が怪しい(重い)と感じるのは
その人が他者に迷惑をかけていることが無自覚的ではないかと思えるからです。
我々は知らないうちに他者に迷惑をかけているものです。
時には命あるもの(牛や豚。たぶん蟻も)を殺してもいます。
それが悪いのではありません。そういうものなのです。
「生かされている!」と説教じみていう人は、そういった自己反省的視点を
直視していないのではないかと思わされるのです。

私たちは人間です。

間違います。
失敗します。
人を傷つけます。
争います。
偉そうに説教します。
八つのホコリ積みまくります。

しかし
反省します。
人を喜ばせます。
慈しみます。
敬います。
愛します。

とりあえず「生きる」。

それだけしか我々には出来

陽気ぐらしという定義

陽気ぐらしについて書くのはひょっとしたら2度目かもしれない。
わざわざ、過去の記事を探すのは面倒である。
また私の考えも以前と変わっているかもしれない。
変わっているのに気づいた方は、申し訳ないが新しい方を採用してください。

陽気暮らしというのは天理教の金科玉条である。
天理教の最終目標は天理教なのである。
逆説的に考えると陽気ぐらしが達成されると天理教の存在意義は無くなる
といっても言い過ぎではない。

では、その陽気ぐらしとは達成可能なのであろうか考えたい。

そもそも、陽気ぐらしの定義は存在するのであろうか。
私は聞いたことがない。
私が問うた天理教人も明確な答えは言ってくれない。

ひょとすると、私が知らないだけで天理教内では陽気ぐらしのコンセンサスが取れている
かもしれないが誤解を恐れずに私見を述べたい。

私が問うた陽気ぐらしの定義に対しての天理教人の答えは以下のようなものである。
戦争がない。
争いがない。
平和な世の中。
などなど。

言わんとしていることは分かるが小学生が言うように抽象的であり、
私たちの実生活までなかなか落ちて来ない。

陽気ぐらしを私たちの実生活に落とすとどうなるのか。

その点について、具体的例示を言ってくれる人がいない。

では具体的に考えてみよう。

私は戦争を安易に否定することはよくないと考える。
もちろん、戦争はキライだし起こってほしくない。
しかし、私たちは戦争から多くのことを学んだのも事実である。

戦争を肯定ー否定の一元論で考えないで現象学的に考察してみたい。
戦争とは国同士の争いである。争いの原点は誰かと誰かの怒りの衝突である。

戦争を安易に否定することは、怒りを否定することに繋がりかねない。
これには注意が必要である。
私たちは人間である。人間に備わっている感情の一つである怒りは生物学的に
大切な機能である。そう考えると、国同士の戦争も子どものケンカも本質的
には何の違いもない。規模や質は異なるが「怒りによって我を通す」という点において同じである。

まずはここにきっちりと明確な線を引かなくていけない。
ここに線を引かないと定義が定まらない。定義がない論理は他者に理解されない。
その上で、なぜ戦争はNGで子どものケンカはOKのような雰囲気が生じるのか。

それは、戦争(大人のケンカも含む)が理性と知性がある大人の行為であるからである。
子どもは、怒りの感情が芽生えた時に損得で思考できない。
大人は損得で戦争もするし、戦略を練ることもできる。
しかし、そこにこそ私たちは大きな落とし穴に入っていると思う。

例えば、子どもを持った親は理解しやすいと思うが
子どもが何か悪いことをした時に、瞬間的に手が出てしまうことは1度くらいある。
瞬間的に手が出てしまう瞬間に、大人は本当に「子どものため」とは思わない。
子どもが悪いことをして、とっさに手を挙げた親の頭には「くそ!この野郎」ぐらいしかない。
これは私の経験からも明白である。
親の怒りが「子どものために」というのは事後的に親の都合で作られたストーリーに過ぎない。

戦争もまた引き金は損得ではなく怒りによって始まっている。
関ヶ原の豊臣家もWWⅡのアメリカも日清、日露も全部きっかけは報復という怒りから。

そう考えると、私たちは怒りから生じるケンカも戦争も否定はできない。

そして私たち人間に備わっているもうひとつ高次の機能の一つに反省がある。

ケンカも戦争も事後的に反省ができるのである。
反省は後悔ではない。反省は同時代的人間にも後世に繋がる人間にも伝えることができる。
少々飛躍するが、つまるところ私の結論として戦争やケンカそのものを批判することに将来はない。
当事者責任ではなく、戦争を止められなかった我々に責任が帰せられるべきものなのである。
そして、我々に責任が帰せられたときに「争いはだめだよ」と争いを非難することができる。

世界各地で起こっている争い、関係のないように見える我々に少なくとも
社会の構成員としての責任が少なからずあるという内省こそが陽気ぐらしであると私は思う。
世界全人類ハッピ-なんて、達成できるはずがない。
怒り、悲しみ、葛藤、未練、嫉妬、
これらの忌避される感情は誇るべき人間の機能であることを無視してはいけない。
不幸や逆境を抱えながら、それでも腐らずに懸命に生きる人間に私は拍手を送りたい。

ということで、私なりの陽気ぐらしの定義は「建設的志向性」なのである。

天理大学という昼下がり

昨今の大学事情においては少子化の影響をモロに受けている。
特に地方の大学や私立大学などは定員割れをおこしている大学が多く
学園はその運営に苦慮しており、実際に統廃合も含めた再編を強いられている。

一方、有名私大などにおいては財政難の大学を傘下にし
また幼稚園や小学校を創り益々巨大化している。

このような二極の状況でいわゆる中堅以下の大学存続のキーポイントは
その大学の特色を生かすオリジナリティである。
この場合のオリジナリティの概念についてはそれぞれ意見がある。
軽卒にオリジナリティを捉え間違えると、余計地盤沈下しかねない。
流行にのって新学部を作ったはいいものの結局学生には魅力がなく廃止された
学部や学校は少なくない。

今回はそこには言及せず、ざっくり特色と言い切って天理大学を考えたい。

ちなみに私は天理大学には在籍したことがない。
敷地の中には2度ほど入ったことがある程度である。
なので、必然的に外部の人間から見た天理大学の見方ということになる。
大学というアカデミックな社会的組織に外部の視点は無駄ではないだろう。

外部の人間が天理大学のオリジナリティと聞いて思い浮かぶのは
一番に宗教学科の存在であろう。
宗教系の学校が宗教系の学部を持つのは当たり前と言えば当たり前である。
宗教学部が宗教系の学校の核をなすと言っても言い過ぎではなかろう。

2番目は・・・外国語学部であろう。
あまり知られていないことだが、天理大学の外国語の多様性はハンパない。
英文系ならどこにでもあるだろうが、その種類の多さには感心する。(詳しくは大学HPを)
これは個人的な憶測であるが、ここの卒業生は国際的活躍や、それこそ
海外拠点を持つ企業や外務省にも採用されやすいのではないかと思う。

3番目は・・・体育学部であろう。
天理大学の体育学部は日本のスポーツ界でそれなりに目立っている。
それだけでなく私が強調したいのは体育教諭の養成である。
全国の中学、高校の体育の教諭で天理大学体育学部卒は少なくないらしい。
関西以西ではそもそも体育学部自体が少ない事情もあるのだろうが。。。

以上の3点については一般的に聞かれる天理大学の秀逸すべきオリジナリティである。
もちろん、私の持っている天理大学のイメージが間違っている可能性もあるが
他の人が天理大学をイメージする際にもあまり違わないのではないかと思う。

そこで一つ天理大学に対して私が「まずいんちゃうかなー」というものがある。
それは大学院の存在である。
大学HPを見たら分かるように、天理大学には大学院が一つある。
それは臨床心理学である。

私はこの大学院の設置には少々疑念を抱く。
なぜなら、天理大学の臨床心理学は、そこまで社会的高評価を得ていると聞いたことがない。
にもかかわらず臨床心理学の大学院を設置するのはいかがなものか。

日本の臨床心理学の祖と言われる故河合隼雄氏は、天理大学からスイスのユング研究所に
行き、帰国後はかの有名な箱庭療法を日本で最初に天理大学に置いたのである。
しかし、河合氏が京都大学に移ってからは天理大学の臨床心理学は日本を牽引する
存在としてあるようにはとても思えない。
臨床心理の専門家ですら天理大学をもって臨床心理学の拠り所であるとは聞いたことがない。

天理大学が臨床心理学の大学院を設置したのは、臨床心理士の養成が大学院修士卒業が
条件であるという事情がそうさせたのは言うまでもない。
つまり、制度的な必要性に駆られて設置したのである。

それが決して悪いと言っているわけではない。
心理主義に囚われた安易な方法を選んだとしか思えない心地悪さがあるだけである。

それは宗教学や外国語学、体育学部に大学院がないのになぜ臨床心理学が・・・
という非常にシンプルな問いである。

天理大学の経営側が順番を間違ったのである。

もちろん、現在の心理主義の日本では臨床心理学の大学院は人気である。
その波及効果は教団の宣伝、学部の潤いなどにおいてマイナスではない。
大学の経営戦略的には成功と言える。
天理教の新聞「天理時報」を見ても、度々「心の時代」として
臨床心理学の大学院関係の記事が見てとれる。

しかし、前述したように心理主義的流行に駆り立てて大学というものを
経営することに私は賛成できない。
なぜなら、そこには天理大学の長期的オリジナリティを損なう要因しか見当たらない。
臨床心理学の大学院は全国にあまたあり、それを天理大学の特色とすることは
かなり金銭的、時間的投資を頑張ってもらわないといけないのである。

また、私個人の憶測としてそんなに「心の時代」(心理主義)は長続きしないと踏んでいる。
これはアカデミックな終焉ではなく日本社会が臨床心理士を「心のスーパーマンじゃなかったね」
と臨床心理学の限界に気づくのではないかということである。(つまり現在は何か事件、事故、悩みが
あれば過剰に心理カウンセラーや臨床心理士と言われるが、そんなに万能ではないということ)

個人的な経験であるが流行に乗ると後々、後悔することが多い。
例えば若かりし頃、流行にのって有名人の髪型を真似て長髪にしたり
ダボダボのズボンを履いたりしたが、今当時の写真を見せられると顔面から火が噴く
くらい恥ずかしい。(当時は、それがカッコイイと皆思っていた。)
しかし、一方で短髪でモノトーンな服装というシンプルな格好をしている者は
多少時代が違ってもそれほど違和感を感じないものである。

閑話休題。
伝統があり、且つ地道に社会的評価を獲得している宗教学、外国語、体育は
大学院までは必要性がないというのが天理大学の結論である。

現状では問題がないかもしれないが、順番を間違えるような人間が
大学を経営していては、天理大学の社会的評価を得ることは難しい。

私が経営者であれば、宗教学や言語系、体育系の大学院を創る。
それらの研究を促進しその発展を天理大学の存在意義として明確にする。
それが天理大学としての「らしさ」であり、長期的視点から
大学として「生き残る」蓋然性は高いと言い切りたい。
つまり、それらのフィールドの大学院が天理大学にできた場合、
世界的に牽引する研究者や実践者が生まれるのは想像に難くない。
だって元々、その方面を勉強してる人が少な

中国の見方

日本での聖火リレーも終わり、胡錦濤国会主席の来日も終わった。

この件については少し落ち着いたようだ。

そこで、冷静に振り返ってみたいと思う。

日本での報道の在り方を見ると、ドミナントな日本人が
チベットを支持し、中国政府の対応を非難している(ように見える)。
私がGW中に接した天理教人もチベット支持派ばかりであった。

中国への批判は高まるばかりである。

私はチベットも中国も人並み程度のことしか知らない。
チベットの歴史は人民解放軍から50年ほどしか知らないし、
中国の人権問題は改善して欲しいし五輪も成功して欲しい。

中国に関して、日本で大騒ぎしている餃子も情報統制も軍圧も
中国が明確な志向性を持って対応しているとは思わない。

なかなか日本では言う人はいないが、
中国は共産党一党主義である。

それだけである。

もし共産党一党主義がどんなものかを理解している日本人がいたら
中国の食品、情報、チベットの中国の対応がいかに正常なものかは納得できる。

数百の少数民族を抱え、13億の人間を一つの党でまとめるには
中国は「これしか方法はない」とあらかじめレールは決まっている。
それが中華思想なのである。

反日は江沢民が云々
情報統制は民主的でない云々
毒入り餃子の検証は非科学的云々

こんなことは中国の事情考えれば大したことではない。

なぜなら、そうしないと国が成立しないという修羅なのである。

幸福にも日本という狭い島国では、単一民族で
人口は少なく、土地も小さく、インフラ整備も整っている。

そのためか、突然首相を辞める政治家をはじめ真剣さが感じられない為政者ばかりである。
また国の財布の紐を握る日銀の総裁が長期間不在でも
大きな障害が生じない小春日和な国なのである。

それが悪いと言っているわけではない。
そういう国なのである。
日本の為政者はほのぼのとガソリンの値段にあーだこーだと政治をして
中国の為政者はいつなんどき謀反や暗殺が起こり国際社会に非難されるか分からないのである。

そんな小春日和な日本人にとって中国は決して理解できない。
中国自身もギリギリの対応をしているのである。

そんな中国をなんとか理解しようと努めるのか
「フリーチベット」と叫んでいた日本人青年のように
「TVをみて中国が悪いのでチベット支持します」と言うのか。
どちらが建設的であり、陽気ぐらしに近いのか。

私は一体どの情報が本当で、何を信じたらいいのか分からない。
少し話は変わるが、
しどろもどろで「どっちつかず」の日本人は多いのではないかと思う。
一昔前に東京都知事が「Noと言えない日本人」(こんなタイトルだったと思う)という本を
書いて流行語までになったが、
相手の気持ちまで考慮し、きっぱり意見を言わないことこそ日本人の流儀である。
海外のことわざに「日本人ははっきりとものを言わないが、フランスの女性は
知らないことにまできっぱりと意見を言う」というのがある(らしい。フランスじゃないかも)

天理教人が好きな「慎み」という言葉も噛み砕くけば、こういうことなのかと思う。
嫌いな人間をも認めるというのは非常にシンプルだが、難度の高い人間関係である。
一体、どれくらいの日本人が中国人を愛せるのか。勘所である。

そんなに嫌なら辞めればいい。

先日、天理市の天理教本部に参拝に行った。
そのことに関しては前ブログでもちょこっと書いた。

それとは別に、怒りを覚えたことについて表明したい。

私は天理教後継者の知り合いと二人で神殿で参拝を終え、
車で移動し(かなりの渋滞)、昼食をとった後詰所に立ち寄った。
詰所では参拝を終えた信者たちが溢れるようにいた。

私はたびたび教会に行くことがある。
その教会関係の人たちも詰所におり、
その人たちと挨拶をしたり、世間話をして過ごした。

知り合いの詰所での用事も終わったらしく、「それじゃ帰ろうか」と
帰り支度をしようとしていたら、Mさんという男性が近寄ってきた。

Mさんは(前ブログでもMさんは登場したが全くの別人)
とある地方の教会の後継者である。
私との直接的関係はない。しかし何度か話したことがあるくらい。
もちろん、友達ではなく知り合いである。

そのMさんが、私に「今、何してるんですか?」と質問してきたので
「平日は終日仕事して、休日にはたまに天理教に関わらせてもらってます」
と言うとMさんは
「優雅な生活ですね」と言った。
一瞬私はMさんが言う優雅の意味が分からず「そうですね」とだけ言って別れた。

その話を知り合いに言うと
「Mさんは子どもさんが沢山いて、会長さんも高齢で苦労されているみたいですね」
という情報を得た。
自慢ではないが、私はその辺のサラリーマンより働いているつもりだし(平均労働時間をだいぶ超える)
賃金も同齢のサラリーマンと比べて多いとは胸を張っては言えない。
贅沢と言えば、週末の風呂上がりにビールを1瓶飲むくらいである。
毎月の家計のやりとりに関しては苦労しているし、
まして優雅なんて言われたことも思ったこともない。

なるほど、人は苦労すると他人に皮肉しか言えなくなるのか。

そういえば、日本電産の社長が「休みたければ辞めればいい」と発言したことに
関して巷では批判的意見が噴出している。

会社と宗教を同じ水準でものを言うことはできないが
宗教に対して「そんなに嫌なら辞めればいい」と言っても社会は批判してくれないだろう。

アントニオ猪木は幼少のころ貧しい家庭に育った。
それでも厳格な祖父の教えは「貧乏であっても心の貧乏になるな」であったと聞いた。
(あれ?アントニオ猪木じゃなかったかな?)

前ブログも含めて心の貧乏人が少なくとも天理教内に存在することは明言できる。

そして、その少数の心の貧乏人のせいで天理教が好きになれない人もいる。

私も天理教を人に勧めようとは思わなくなった。

修養科という査定ライン

本日は26日。

天理教教会本部の月次祭(つきなみさい)であった。
GWの始まりであり、私も久しぶりの休日で知り合いに連れられて参拝した。
近鉄難波駅から急行で1時間くらい。手軽に行けるものだ。

私は天理教ではないので、天理市の本部には幼少も含め数回しか行ったことがない。
お世話になっている教会にはよく行くので黒法被を見慣れているつもりだが、
それでも大集団の黒法被は見るものに威圧感を感じる嫌なものである。
見るものにマイナスイメージを植え付けるのは好ましくないと思うのは私だけだろうか・・・

儀式的ウエアなら考慮する必要があるが、元々は作業着(ひのきしん着)である。
教義的解釈云々ではないので時代の変遷と共に変わっていってもよいものの一つだと思うが
何故誰も「黒法被そろそろ変えませんか?」と意義を唱えないのか私には分からない。
天理教以外の人間が不快に思うことなんて頭の片隅にでも想像できないのだろうか。
もしくわ黒法被は不快(ダサイ)なものと周知であり、踏み絵のようなものとして存在し
天理教信者を規定する無意識的証明であるのだろうか。

両方間違いではなかろう。

天理教人にとって同じ踏み絵的機能を持つものの一つに修養科がある。
天理教人以外の人のためにも説明すると、修養科とは天理教の修行課程である。
3ヶ月間、天理教の勉強と実践を行うものである。
もちろん詰所と言われる信者施設に泊まり込みで修練するのである。
過去に何回か会社や地域や学校で「天理教施設に3ヶ月行ってきます」と
言った人間がいたが、恐らく修養科に行ったのであろう。

なぜそれが踏み絵的機能を持つかというと天理教人にとって
修養科を経験したか、していないかというのは大きな問題であるらしい。
確かにいい大人が3ヶ月も集中して天理教に没頭するわけだから
ある程度の天理教に対する決意がないと参加できないのも確かであろう。
ということは、修養科を経験した人間は天理教的な一人前という見方がある。
修養科に行かなくては信者になれないというものではない。

なぜ今回のテーマが修養科なのかと言うと
それは今日、修養科に行っていないことで周りの天理教人に陰口や皮肉のように言われ
苦しんでいる人(以下Mさん)を知ったからである。
Mさんは人生半ばで天理教信者になり非常に熱心な信者である。
修養科にも行かなくてはと常々思うが、Mさんは家計を支えているために
修養科には行けずにいる。何年も前から修養科を勧められているが行けないのである。

「それはしょうがないよね」と私なら思うが、
度々、周りの天理教人に「Mさんてまだ修養科行ってないよね」と行けない事情を知っている
人間から言われるのである。

私はこの件に関して非常に怒りを覚えている。
なぜなら、Mさんだけでなく、Mさんのお子さんに対しても天理教人は同じ言葉を言うのである。
「お父ちゃん修養科まだ行ってないのよ。行かないとだめだよ。」というふうに。
私がこの件に関して聞いたのも、Mさんの子どもから間接的に聞かされたのである。
Mさんの名誉のために言うが、Mさんは人として立派な方である。
他者を不快にさせることは決して口にしない方である。
だからこそ、天理教人の振る舞いに対して遺憾に思うのである。

他者の気持ちに敏感であれ。いや、もう敏感にならなくていい。ただ、ただ、
他者に葛藤を仕向けるような振る舞いだけはやめてもらいたいのである。

このケースは私がこのブログで主張したいことの本質でもある。

天理教人は人間よりも天理教の教えが大切なのであろう。
私はそういう方は死んでもらって結構と断言する。

大阪府政について

おひさしぶりでございます。
更新がコンスタントに続かないせいか、このブログの順位が下がり続けているようです。
順位が下がるといってもameba blogの中ですので大したことはありません。
とかいいつつ、かなり意識している自分がいたりします。
そのかわりに、yhaooやgoogleの検索ではヒットするようで、
検索から来られる人も多いみたいです。こんにちわ。
だいたい毎日30人前後の人が訪れてくれています。
ありがとう。

閑話休題。
こんな大きなテーマを設定したからといって大きな話をするつもりはありません。
先日、大阪府の橋下知事が府内の首長を集めての会議で涙を見せる場面がありました。
私は府民ではないので大した興味はありませんが(涙の場面だけTVで見ました)
どうやら、その涙の後が大変だったというのを関係者の知り合いから聞きました。
その後というのは、府庁や自治体に抗議の電話やメールが殺到したということです。
その大半が橋下知事を擁護するものや橋下知事に反対する首長への抗議だったらしいです。

その内容を聞きましたら、簡単に言うと「ちゃんと会議をしろ」ということらしいです。
橋下知事は「議論をしたい」と言っているのに、自治体の首長は「反対だ」と
議論の余地なく反対ということです。

私はこの話を聞いて、私が常々天理教の煩わしさを主張しているのと同じだと思いました。

もし涙を見せなかったら
もし首長が命令口調ではなかったら
もし会議がすでに決定事項の報告だったら
もし報道が前後文脈もきちんと報道していたら

など、私も知らない部分が多分にありますので賛否は言えません。

しかし、橋下知事が上記のように「議論したい」と言って、首長達が議論などせず
「反対だ」と言っている現象が事実とするならば大阪府の実務者会議は機能不全に
陥っていると考えてよいでしょう。

そして、私が主張しております天理教(下部)組織の機能不全も同じ質と考えております。

その同じ質と言いますのは「相手の話を聞かない人が多い」に尽きるのではないでしょうか。

自分が正しいと思い込んでいる人がいる会議は話し合いではなく、
主張のゴリ押しでしかなくなります。
そういった会議は全身のエネルギーを奪われます。
会議というのは同じ目的のもと、意見を異にする人たちがそれぞれの妥協点を
出し合うことではないでしょうか。少なくとも私はそう思います。
大阪府で言えば「大阪府の財政を良くする」という同じ目的のもとで

府「あなたの町には毎年の5億円の助成金を無くします」
町「5億も無くされては経営できません、最低インフラ整備のためにも3億はください」
府「では、2億5千万でなんとかしてください」
町「なんとか経営努力・・・します」

というのと

府「 あなたの町には毎年の5億円の助成金を無くします」
町「若造が何言ってんの?撤回しろ!」
府「なんとかご協力くだ、、、ください。うう(涙)」

あなたなら、どちらの会社に入社したいですか?
ビジネスマンなら、どちらの会社が潰れそうですか?
大阪府の財政が悪化した原因の一端がわかりますね。

また、このような上下関係の図式が天理教でも存在するということです。
むしろ、天理教の方がやっかいだと私は感じています。
それは神様なる絶対があるからです。

私が経験する天理教的会議を例にとりますと
議論が行き詰まった際やセンセイの考え通りに会議が進行しないと
センセイが「神様はこう言っているにちがいないからこうしなさい」などと
言われます。いちばんキツかったのは、教祖の逸話を引用してこられる時です。
そんなセンセイは自分の考えが正しいと思い込み、自分の意見をゴリ押しすること
にしか頭が回らないようです。
それでは議論などしなくてよい。報告でよろしい。
自分の存在意義を確認するかのように忙しい人間を集めるんじゃない。
協調的に見せかける独裁はバレバレである。

大阪府政を批判も肯定もしないが、
組織運営を考えるとうまくいかない組織には共通点があります。
その共通点が大阪府政と天理教という共通点と私は感じたのです。
財政難と人材難。

自分が組織を運営するなら、財政難の方が全然マシだなと思う今日この頃です。

会長の違いについて

大教会とは、50以上の分教会をまとめる教会のことである。
元々、大教会として特別な存在として誕生したものではない。
下部組織である分教会を増やして50にした結果、大教会へと変わることができる。
簡単に言えば子会社が50ある元締めの会社である。

つまり、大教会なるものの条件とは。
特別な能力や性質があるのではなく下部教会の数という
デジタルな数字上のみである。(もちろん例外も存在する)

そのため、大教会が持つ性質や雰囲気や力関係に統一したものはない。

その結果、天理教の特徴の一つである緩さ(自由さ)がある。

新宗教とカテゴライズされている中では珍しい現象だと思う。
通常の新宗教は本部直轄で支配されており、教師と信者間の関係性や道場や教会の
雰囲気は厳格であることが多い。また、そういった厳格さを持ち合わせることが
新宗教を宗教として存在することができるのであろう。
初めから緩くては、教義自体が個人の解釈を許してしまい、結果収拾がつかなくなる。

その点では天理教は、歴史と規模において一定の社会的認知を得ていると思う。

しかしウェブ上で見られる天理教批判を顧みてみると
その緩さが致命的と思われる現象が見てとれる。

「え?天理教はそんなにお供えを強要しないし、強引に入信させないよ」

と信者なら言いたくなるような訴えが見られる。

そういえば私が実際に聞いたことだが、友人が
「天理教ってセックスするとき避妊したらダメらしいぜ」
と言っていたのを聞いたことがある。何年も前だが。
その時の若い私は「だから天理教の教会は子どもが多いのかー」と思ったが
冷静に考えれば、そんな教えがあるはずないことは自明である。

閑話休題。ウェブ上で見られる天理教批判を鵜呑みにすることはできないが
それでも「火の無い所に煙は立たず」であり
信仰者、もしくわ上に立つ者として「梨花に冠を立たさず、瓜田に沓を入れず」である。
天理教に関連する裁判が存在するように、それが事件や事案として扱われることもある。

天理教の特徴である緩さも、個性や、その教会が持つカラーとして機能している間は
非常に魅力的であり、十分に意義はあると思う。大いに歓迎すべきである。

しかし、その緩さ故に人を苦しめることになっては本末転倒である。
カイチョウさんは、その権力の不透明さに慎重であるべきである。

そういう意味も込めて、カイチョウさんの資質向上を一貫して私は訴えている。
後継者や信者のための講習会に大した意味はない。

それが無理なら教会本部は、天理教特有の緩さを是正し厳密に
カイチョウ職を定義づけるか、第三者が閲覧可能な監査機関を設けるか、
理の親という概念を撤廃すべきであろう。

そうしてしまうと信仰というものを伝える宗教では意味がなくなるのかもしれない。
また上記に挙げた例は、極端であり現実的でない。現実的には私も望んでいない。
しかし、私が訴える命題は
「カイチョウの質に関してなんらかの策を講じないと、この先ヤバイんじゃないの?」
ということである。

それほど、私はカイチョウのコセイの行き過ぎに憂慮している。

この間も某有名K大教会のカイチョウの弟(分教会のカイチョウ)が酔っぱらって
信者とセックスしてしまい奥さんと離婚したというのを聞いた(噂だが、かなり高確率で事実らしい)。
そのK大教会のカイチョウは天理教の中でも厳しいことで有名らしい。
そのK大教会の信者いわく、K大教会のカイチョウさんとは信者にしてみれば雲の上の存在らしい。
気軽に「おっす、カイチョウ」なんて挨拶できない、まさしく神格化されているのだ。
カイチョウとして勘違いも甚だしい。K大教会のカイチョウ自身の人間性は知らないが
周りがカイチョウを神格化していることに気がつかなくてはカイチョウとしての能力を疑ってしまう。
またそれが事実でなくても、信者にそう思われていては同じである。
そんな振る舞いをしていては周りにいい影響を及ぼさないことすらもK大教会のカイチョウは
考えが及ばなかったのであろうか。
昭和の大企業が平成になって不祥事が続発しているのと同じ構造である。
ヒエラルキーの一番上にふんぞり返っていては、何も見えないだろうし
下は何も言えないだろう。ただ社会(信者)の問題意識は厳しくなるのみである。

厳しくて有名なK大教会のカイチョウ。
その厳しさが、近親者である弟にさえ伝わっていなかったのである。
事件後の弟がその後どうなっているのかは知らないが、極秘裏に処理されている
可能性が高いことは想像に固くない。

しかし上記のことも、その他の不祥事も、信者にとってはたまらないだろう。

もう少し、いや欲はいわないが、せめて誰かを傷つけないほどに
カイチョウさんは、その職責の影響力や不透明さに自覚的であってほしい。

追記
もちろん、取りあげたカイチョウさんは一部の一部である。
立派なカイチョウさん、人として素晴らしいカイチョウさんもいる。
しかし、「私はエライ」などと勘違いし、「私は常に正しい」と思っている
カイチョウさんは主観的だが結構いると思う。
昔、オーストラリアの福祉の専門家と話をすることがあり私が彼に、
「プロフェッショナルの条件とは?」と問うと
「それは常に『私は間違っているのではないか』と自問し続けることができることだ」
と彼は答えた。
天理教のカイチョウさんも天理教のプロフェッショナルであってほしいと思う。

真心のお供えについて

色々なところで耳にすることがある。
それは「天理教は信者には貧に落ちきれと言うが、幹部は贅沢している」という文脈である。

貧に落ちきれという教えを信者には強要するが、
強要する方は教えを実践していないという矛盾を指摘しているのである。
なるほど。

それには私も事実として見聞きしたことがある。
高級車やハイスペックPCなどを所有している教会を知っている。
噂では、天理教の首長はベンツに乗っていると聞いたことがある。
本当に必要なのか?という視点では疑問である。

また、こういった矛盾を現役の天理教人、しかもカイチョウさんから聞いたことがある。
このことから、この矛盾にはかなりの信者が潜在的に疑念に思っていると推測できる。

しかし、私はこういった現象は非常にマズイと思う。
それは矛盾を抱えることがマズイと言っているのではない(人間は矛盾な生物である)。
そういう矛盾を矛盾として認識している点がマズイと思うのである。

それは、矛盾を感じる人はお供えを「誰に対して、何の目的で」お供えしているのか
分かっていないのではないかと思う。
矛盾を感じている人はお供えと税金を勘違いしているのではないのか。

お供えというのは、神様に対して、他者(人類)の陽気暮らしを願うという目的でしかない。
そして、それを判定できる(見ている)のは神様しかいない。
そして、神様の真意は我々人間では一つも汲み取ることができない。

この前提を忘れてはいないだろうか。
またこの前提こそが宗教たりえるものの金科玉条であり、存在意義である。

つまり、お供えというのはお金や物品の流れ方ではない。
個人が、思いを込めて神様に捧げるという行為である。
それ以上でも、それ以下でもない。それだけなのである。

お供えをしたからといって神様が喜ぶかどうかは我々人間には分からない。
ただ、できることは思いを込めることである。
高価なお供えで思いがこもっていないお供えか、安価でも思いが込められたお供えか。

エラソウにしている幹部が贅沢な暮らしができることもお供えをする方にとっては
いいことではないかと思う。だって贅沢な暮らしができて喜ばれているんだから。
他者に喜んでもらえるということは、天理教教義的に正しいと思う。
思いを込めたお供えものを、幹部が私利私欲のために使おうがそれはお供えをした者が
関知することではない。

矛盾は、お供えをした人が感じるものではない。
お供えをした行為も、そのお供えものをどう扱うのかも神様は全て知っているということである。

そして、「自分らは贅沢なくせに、信者には貧に落ちきればっかり言いやがって」と思う
妬ましい思いも、それもまた神様は見ているのではないだろうか。

あぁ恐ろしや。

大人について

先日のニュースに「成人年齢の引き下げ」についての世論調査の結果が載っていた。
調査結果は年齢引き下げに反対が60%であり、その60%中の70%近くが「未熟である」という回答であった。
 私は正直、「ん?これは社会のドミナントなのか?」と思った。60%中の70%というのは大多数の人間が「未熟」を理由に年齢引き下げを反対しているように見える。しかし60%中の70%を計算すると全体の42%しかない。過半数割れである。メディアはあたかも「ほとんどの人がそう思っている」という論調であるが、「メディアの言うことなんて嘘っぱちだよな」と受信者の私たちはどれほど考慮しているだろうか。メディアや偏った思想のコメンテーターの意見をあたかも絶対的正解として語っている人は意外に身近に多いのではないだろうか。統計は絶対的科学性を持っているが、一方で使用方法によっては簡単に人を騙せるものでもあることを再認識。ものは考え方次第である。
 ただ未熟を理由に成人年齢引き下げを反対しているのは全体の42%であることは必ずしも社会のドミナントではないということを考えても42%というのは多いと思う。そしてこの多さこそ、私がこのニュースを見てゾゾっと悪寒を発生させたものである。
 私は何が言いたいのかと言うと、それは反対する60%の大人たちは「私たちは大人である」と思っているということである。「私は大人である」と思っていなければ「お前はまだ子どもである」などとは言えないはずである。分かるだろうか?大人という立場からしか「お前は子どもである」とは言えないのである。それは無自覚のうちに「私は大人である」ということを内包していなければ成り立たない。そして、私がゾゾっと悪寒を感じたのは「私は大人である」と言う人間こそが「大人ではない」と思われるからである。 
 「私は大人である」ということが「お前は子どもである」と言える条件である。しかし、最も重要視しなければいけないことは「大人という概念は周りが大人と承認することでしか成立しえない」ということである。その証拠に「大人とは何か」という問いに対して普遍的回答はないのである。「大人とは何か」という問いに対して答えられるものはせいぜい肉体的成熟度や経験という個人差ばかりの指標でしかない。それは同時に「子どもとは何か」でパラドキシカルに考えることができる。「子どもとは何か」という問いに我々はどのように答えるのだろうか。年齢だろうか、肉体的成熟度だろうか、社会経験だろか。否、子どもが子どもたりえるものは周りが子どもと思うことでしか成立しえない。だから年齢や体型、経験などに意味はないのである。そして、そこに意味を置くことでしか主張できないことこそ子どもの特徴の一つである。
 簡単に言えば「私は大人である」と言い切れる30歳と「まだ私も子どもです」と言う30歳とどっちが社会人として付き合いやすいかと言えば後者であろう。そういえば、この間のAERAで「出身大学による部下にしたくない人間」みたいなランキングが掲載されていた。堂々の1位は東京大学であった。理由は「使えない」からである。一見、東大出といえばエリート中のエリートであるが実際の人間関係や上下関係で使えなくては本末転倒である。その理路と同じである。天理教においても天理教的サラブレッドほど付き合いにくいという私の主観と合致する。「あー言えばこういう」ではないが、彼らに共通するのは人の話を聞かないという点である。慎みというキーワードは誰のものか疑問に思う今日この頃である。
 品格という言葉が流行って久しいが、この言葉を流行らした坂東さんはあるインタビューで「何かにつけて品格だ、と言う人間こそ品格がない」と言われていることは洞見である。「私は偉い」的な態度や思想は周りをうんざりさせる。またそういった大人は増えていないだろうか?大人の幼児化やネコ化と言われているが、私たち大人とされている人間こそ「まだまだ未熟もんだ」と言うことが大人への第一歩なのだと思う。
 最後になったが、私は年齢引き下げに賛成派である。それは「私も大人ではない」というものでも「早く成人させて大人としての自覚を促す」というものとも異なる。それは今後、少子高齢の人口減少の波を迎えることは、社会の構成員(担い手)を増やした方が「うまく社会がまわる」というかなりドライな考え方からである。成人基準を18歳にすることで、多く税金が掛かっているアルコールやタバコの消費量や少子化を打破する婚姻は増すであろうし、高卒就職率も増すであろう。大学淘汰時代において、大学に進学することは一部の高校生にとって魅力ではない状況は拡大している。また企業側も有能な人材を青田買いする傾向は、今後使えない大学生より使える高校生に拡大する可能性もある。また現在大人とされる私たちも社会の構成員が増えることで年金制度の安定や貨幣の流通による経済安定が見込まれるのではないかという推論できる。それは推論であっても、この状態のまま少子高齢人口減少ボックスに突入するという不安定な日本丸よりは、社会が安定する方向(政治的成熟度)へと向かう蓋然性が高いと思われるからである。また医学的、生理学的、心理学的、教育学的に飲酒、喫煙、社会契約の年齢を引き下げることは教育整備や社会整備などの多少のTune upによる障害や問題はあっても大した差はないと思う。それは、「今日からハタチになったのでお酒飲みまーす」という大学生が言うように、昨日と今日の私に一体どんな違いがあるのか誰にも判定できないのと同じである。それでも社会制度として一定の線引きが必要なら20歳と18歳に大した差はないと思うからだ。本人にとってどっちでもいいなら、周りにとっていい方を選ぶのは大人の作法ではないだろうか。

今回は天理教と関係のない話になってすまぬ。
ただ、全く関係がないとは思わない。
意外に「私は大人である」と思っている現象は天理教の中にも随分多くの人がいると私個人の思惑があるからである。無理矢理くっつけた感があるけど終わります。