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文献について

私は頻繁に大型書店に行く。
本は基本的にamazonで注文するのだが、
「見てみないとどんな本か分からない」本は実際に書店に出向いて
中を見てからでないと判断できない。
amazonは欲望の赴くままにクリックしてしまうので既に持っている本を注文してしまうこともある。

「これは買う必要がある本だ」という本はamazonであるので、
私が書店に行く理由は「何かいい本がないか」と無目的に行く場合と
「あの本は買う価値があるのか」という確認の2つの場合しかない。

今週、仕事の移動中に時間ができたので近くのジュンク堂まで足を伸ばす。
特に欲しい本もなく、ブラブラしていると、ふと
「そういえば天理教の本ってあるのだろうか」と思い、宗教関連の棚に向かう。
すると180cmくらいの高さの棚に30cmくらいの幅で「天理教」という棚がある。
全部で40~50冊くらいであろうか。

一般の書店にもこれほどの天理教関係の本があるのは驚いた。

見たことのある本から、全く知らないマニアックな本まである。
結論として私はその天理教コーナーに2時間近く立ち読みしていたことになる。
その中で一番面白かった本は「新宗教と巨大建築」という本である。
これはおもしろかった。天理市の本部神殿の建築をメインに書いてあるのだが、
切り口が建築であるだけで、いや建築が切り口ということで
非常に分かりやすい平易な言葉で天理教の説明を行っていると思う。

他の天理教関連の書物はタイトルからして怪しくて、あまり読む気が喚起されない
また読み始めても聞き飽きた感やうんざり感がともなうものばかりである。

私は天理教を知りたいと思う。
しかし天理教が発行する書物からは私の知りたい天理教は知れないとも思う。

天理教をより発展させたいと思う時こそ天理教内部で生み出される理論ではなく
別の目、外部の目、または批判的な目からみた天理教というものを丁寧に読む必要があると思う。
それはまたアカデミックで常識な反対意見こそ自分の理論を発展させるチャンスであることと反する。

自分の意見を支持する意見ばかり聞いていては井の中蛙である。
現状を打破する必要があると思うなら、反対意見を聞き、反対意見に反対できる理路を構築する必要が
あると思うのだが、天理教にはその点が欠けているのではないか。
それは、内部において毒を吐き合って、傷を舐め合っているように捻くれているともとれる。

そう思うのは、私も似た様な体験をしたことがあるからである。
天理教人は天理教に反対する意見や人に対して「この人は分かっていない」「あの人は助からない」
という説明をして、反対意見に聞く耳を持たないということを何度か目にしている。
こういった無根拠に他者を排除する方法では天理教に将来はない。
また、こういった宗教に何の魅力もない。
そのことに早く気づくべきだと思うのだが、天理教の他者を排除する言説は
無意識的であることが厄介な一つであろう。
それは別の視点では、他者を排除するということが習慣化しているとも考えられる。

この間TVで見たのだが、お店や会社に文句を言うクレーマーというのは
お店や会社にとっては非常に有効なビジネスチャンスであるということだ。
クレーマーというのは文句を言う厄介者であるのだが、一方では文句には
お店や会社が成長できるヒントや伸びしろを含んでいるということである。
つまり、クレームを文句として聞く耳を持たないお店や会社は「終わっている」のである。
逆にクレームに対して「どんなクレームですか?改善したいので是非教えてください」という姿勢は
「行き残る」会社であるということである。

狭い理論に固執して周りを見ない天理教か
どんな意見にもとりあえず話を聞く天理教か
あなたならどちらがいいでしょう。

「あの人は助からない」という言説を聞いたことがある人は少なくないと思う。

本の話から随分脱線してしまって恐縮である。

M君について

今日は、なぜ天理教にコミットしていない私が
内情に詳しいかということについて明らかにしたい。

私は天理教人ではないというのはすでに言明してある。
しかし、実は幼少の頃から天理教と全く無関係ではない。
幼少のころは、おぢばがえりにも行ったし、教会にも行っていた。
しかし、小学校行くころには全く関係を持たなくなった。
関係がなくなったというのは、物理的環境が許さなかったのである。
簡単に言えば引っ越しただけである。

天理教に関係を持ったというのは私の家が教会の近所であったのと
近親者に天理教信者がいたからである。
しかし残念ながら幼少の頃の天理教の思い出は消えてしまっている。
かといって、天理教に悪いイメージは全くない。
むしろ「昔お世話になっていた」という事実は変わらないし
天理教に対する無根拠な批判には嫌な顔をしてきた。(つもりである)

幼少の頃に天理教と関わって以来はそんなに関わりはない。
しかし、2年前にひょんなことからある企画に呼んでいただいたことから
天理教人と関わることが多くなった。(本当にひょんな出会いがあった)
昨年は月に2度は濃密に関わらせてもらえる時間があった。
そんな中で幼少の頃とは違って天理教、延いては自分の信仰を考えさせられた。

それは信頼、安心、母性であったり、
懐疑、葛藤、不信などであるのかもしれない。

簡潔に言うなれば、教えvs組織 であるのかもしれない。

それは単に宗教批判、天理教批判となってはいけないと思う。
基本的な立場は天理教を応援しているが、主観的立場(ステイクホルダー)でない人間が
考察することも重要だと思う。
いや、外部の人間だからこそ積極的に問題提起する必要があると思う。
なぜなら、天理教の教えの根本には天理教の教えを伝える使命があるからである。
伝えるというのは当然、教えを知らない人間にであるからである。
宗教というナイーブな課題を扱うからこそ不透明な問題はクリアにし、
踏み込んではならない所は畏敬の念を込めて結界を明確にすることが大切なのである。

そして、現在の天理教もまた不透明な部分が目に余ると思われる。
それは教義解釈の点から、ヒエラルキーの階層、集団内力動など様々な水準においてである。
また、同時にそのような課題で悩んでいる人も見ている。
「人助け」を掲げる天理教によって「悩める人間」を作っているという矛盾がある。

一定の組織規模以上になることは、同時に批判や問題が含まれているというのは社会の常である。
しかし、天理教の将来を鑑みたときに本質的課題は組織的な衰退にあると感じられることが多い。
それは、一定の批判や問題ではなく全体的な信仰への欺瞞という感じが天理教人にさえ瀰漫している。
身内の組織に対して「これでいいのか?」と不信に思っている人間が、その信仰の良さを
他者へ伝えることができるのであろうか。私にはそういった人が伝えるものを信仰する習慣はない。

また天理教に対して不信感や(不必要な)葛藤を抱える人間は予想以上に多い。
これらは私が出会ってきた天理教人から直接聞かされ、感じた感想である。

こういった問題点はきちんと少数であってもきちんと表明する必要があると思ったためブログという
ツールを使っているのである。

そこで本題の、なぜ私が天理教の内情に詳しいのかという案件である。
それには某教会の青年であるM君の影響が強い。
M君とは2年前に出会い(実はM君が小さい時にも会っているらしいが私は知らない)その後
かなり懇意にさせてもらっている。またM君は有名大学(天理大学ではない)を出ており
かなり頭がキレるのである。そんなM君は青年という立場で、非常に理不尽な体験を多々されている。
しかし天理教組織内に組み込まれているため、彼はその理不尽な体験を意識的に抑圧しているのだ。
天理教で生きることと、天理教組織で生きることは背反するのである。
M君はいかに天理教組織が機能しないもので私物化されているか非常に丁寧に教えてくれる。
私はM君の代弁者にすぎないと思う。
M君も私は天理教人は基本的に「いい人」だと思っている。
しかし勘違いしている人が多いのも事実である。

私は今後、天理教に入信するかは分からない。
しかしどっちにしろ天理教を知ることは無駄ではないと思っている。

ちょっと中途半端だけどそんな感じである。

最後に、結局ブログで扱うことは私が感じた主観にすぎない。
私の体験が天理教全体に当てはまるとは到底思えない。
神格化している大教会長から、フレンドリーな大教会長まで色々である。
メディアに絶対はなく「天理教にはそういう側面もあるんだー」という
程度で見てもらえることが一番有意義なブログ(メディア)の読み取り方法である。

告白について

早いものでもう2月である。

最近ブログの更新が遅れている。
まことに申し訳ない。

今回のテーマは告白についてである。

前回の続きになってしまうのだが、前回のブログでは知り合いの知り合いの教会にいったことを書いた。大祭のことである。

今回のブログは、そこでの体験第2弾である。

少し話を巻き戻しして、2時間ほどのおつとめが終了し、次はエライ(同意しかねる)大教会長さんの講話(説教)である。

と、その前に実は「感話」というものがあった。

「感話」というのは選ばれた信者が自身の宗教体験や感じ、考えていることを話すものである。時間にしたら10分もないもので、エライ大教会長さんが登場するまでの繋ぎ役のような感じであるのだろう。

その時「感話」に選ばれた信者は50代のご夫人である。

彼女の感話の内容の概略はこうである。

「私は幼少の頃から天理教が嫌で嫌でしょうがなかった。大人になっても天理教を敬遠していた。そして結婚した。すると旦那がとんでもない男であった。借金、女性問題、育児放棄、定職就かずetc 私の人生はドンゾコであった。しかし天理教に反発していたことがダメだったと改心し教会に足を運ぶようになった。以来、旦那もまじめに仕事をするようになった。家庭もそれなりにうまく行くようになった。天理教から離れてはいけないのです。天理教から離れたら不幸になります」

ということでした。
文末の「不幸になります」というのは実際に言ってないけど、ダメになるとか同じような言い方であったと思う。

これらの「いかに不幸から助かったか」という言説は私もよく知っている。
しかし私はこれらの言説に対して批判する気はない。
聞き飽きた感があったとしても発現者のストーリーは絶対固有のものである。
そこから学ぶものがあるかないかではなく、語ること、聴くことという行為は
立派な宗教的行為である。
そういう点では何が言いたいか不明なエライセンセイの話よりは2万倍興味が持てる。また発表後に「あなたも苦労してるのね」とか「立派な感話だったよ」というやりとりが信者間でなされることは明白であり、各々の信仰を涵養する上では宗教教育という点において当然である。

しかし、しかしである。
一つ気になることがある。
それは、自己開示の水準が高すぎる点である。
たった10分の感話の中で、私は彼女の個人情報を必要以上に知ってしまった。
家族構成、名前、住所、財政状況、家族内力動、夫婦生活etc
これには正直言って開いた口が塞がらなかった。

日本人は恥の文化で本音を言わないというのはもう過去のものなのか。
「最近どうでっか~」「ぼちぼちでんな~」という適当で何を目的としているか分からないようなコミュニケーション戦略は日本人の得意分野ではないのか。

日本人がそういう不透明なコミュニケーション戦略を採用しているのは自己防衛のためであることは周知の事実である。欧米列強は「攻撃が最大の防御なり」というコミュニケーションであり必ず「私は・・・あなたな・・・」という主語が無くては成り立たない。「あなたを攻撃しませんが、自分は自分で守ります」というしたたかな姿勢こそが日本人的であり、私は誇れるものだと思う。

日本人は和(調和)を大切にするという観点から考えると
秘すべき個人的内情を開示することは同時に和を不安定なものに変容さすことは推察できる。
「最近どうでっか~」「そうですな、上半期より黒字ですわ~」と言うことはできないのである。
同時に日本社会では過大の自己開示は己を守る防護壁を取っ払うものである。
つまり、一人だけ何が飛んでくるか分からない外を裸で歩くようなものである。
裸で外を歩けば、瞬時に身体情報は外部へと伝達する。
それは非常に生存戦略的によろしくない。
「私はみんなのこと知らないけど、みんなは私の知らないことまで私を知っている」という状況がどれほど危険なものかは社会人なら安易に類推できるものだ。

ではなぜこれらの誰のためにもならない告白が行われるのか。
後で聞いた話によると、天理教では度々「感話」という催しが行われるようだ。
各教会毎でも、色々な規模、集会、対象によってよく行われるのである。
しかも、全ての感話は行き過ぎた自己開示が行われているのである。
つまり「自分がいかに不幸で天理教によって助かった」というストーリーである。

また、負のストーリー限定ということも考えなくてはならない。
「私の家庭は貧乏で天理教のおかげで心が豊かになった」という告白は許されるが、「私の家はお金持ちで何不自由しないがとりあえず暇なので天理教にきてみた」という告白は許されないのである。

こういった負の告白は、他者に共感を強制する面がある。
感話に選ばれようものなら、負のストーリーを構築させねばならない。
しかし、この負のストーリーはなかなかやっかいである。
それは集団への帰属意識を高め、集団内の均質性を高めるからである。
帰属意識は宗教として必然であるが、均質性というのは何か。
均質性とは、要するに「みんな同じ性質だよ」ということである。
つまり均質性という概念の中には柔軟性、多様性という言葉は存在しない。
「みんな同じような苦労しょってんだよね」という感話による共感は
「他者が共感する強制力を孕んでいる」ことを忘れてはならない。

そういった意味では、感話という技法の使用方法を再考する必要がある。
それは宗教が持ちやすい強制力や強迫を、天理教も採用するのかということでもある。
「どういう結果や効果があるか分からないけど、あるんだからいいじゃん」的なものはマインドコントロールである。
(そういえば精神科医の斉藤環がヤマギシのマインドコントロールについて書いていたのを最近読んだな。影響されているのかな)

健全な宗教とは何かということを考えた時に、「感話」と同じように無意識的な暗黙の了解をもう一度丁寧に意識化して再考する時期に天理教はあるのだと思う。
それが、私が度々主張する天理教のおたすけやにおいがけの方法論と教義とのズレなのだろう。
そもそも天理教が健全な宗教を目標としているかどうかは聞いたことがないけど。

一人の中年女性の非常に個人的不幸な告白を聞いて、「聞きたくなかった」と思った私の方が不健全なら、私の言うことは全て間違いということでよろしい。

大祭について

先日、知り合いの教会の大祭(タイサイ)に参加させていただいた。
今回はその感想文にかえたいと思う。

その教会は私の知り合いというか、私の知り合いの知り合いの教会。
もちろん、初めて行った系統の教会である。

あ、初めての人に大祭とは
天理教の教会では毎月決められた日に月次祭(ツキナミサイ)というものが行われている。
何をするかというと、おつとめのフルコース(90~120分)とお話と直会である。
ただ、1月と10月には大祭月でありおつとめは同じだが、お供えや教会の装飾の規模が大きくなり、お話も通常よりもちょっぴりワンランク上の人が行う。
分かりやすくいうと、いつもより気合いが入っているのである。
なぜ1月と10月は盛大にするのか、その宗教的意義についてはここでは割愛する。

とりあえず、朝10時頃に知り合いの車でその教会へ行った。
都市部から車で30分ほどの、のどかな田園風景があるところであった。
その教会では、大祭ということで大教会長という人が来られており
教会の人たちは落ち着かない様子で接待したり、挨拶したりと大変そうであった。
信者といわれるその他の人は20~30人ほどだろうか。若者は2人であった。

私は神殿の隅っこの方に座り、みなさんの行動を眺めているだけであった。
(もちろん、社会人なので挨拶や近くの老人と世間話くらいした)

そのうち、おつとめが厳粛に始まった。
この時点で、久しぶりのお祭り参加である私は足が痺れて集中できなかった。

おつとめ中はずっとおつとめの様子を観察していた。
今まで、いくつかの教会のおつとめを見てきたが、
この教会のおつとめは少し今まで見てきたおつとめと何かが違う。
私はおつとめ中、ずっと「何が違うのだろう」と一生懸命考えていた。

そして分かったことは、乱雑さの中にある一体感である。

乱雑さというのは私が少し「あれ?」っと思った違和感と同じである。
それは、おつとめの形式を守っていない点である。

おつとめでは楽器(鳴りもの)があるのだが、
その鳴りものは男性性と女性性に分けられている。
太鼓などのパーカッション系は男性で
お琴や胡弓、三味線は女性が行う。

また、おつとめにも前半と後半があり、
その間では楽器を担当する人が変わる入れ替え(小休憩)があるのである。

一応、おつとめではこれらのルールが存在するのだが、
これらのルールが守られていないのである。

後で知り合いに聞いた話では、
男性楽器を女性が行うことはよくあるということである。
それは、人数の偏りで担い手がいない時などはしょうがないのだそうだ。

しかし、その知り合いも「あれ?」と思ったことがあるそうである。
それは、前半と後半の入れ替えの時間が長いことと、前半と後半のハーフタイム以外にも小休憩が採用されていることであるそうだ。

通常のハーフタイムは5分以内だそうだ。
だって、場所を変わったりするだけだから。

それが、この教会では15分位。
しかも、皆座ってお茶を飲みつつ談笑するのである。
またハーフタイム以外にも5分程度の小休憩をちょいちょい採用しているのである。

これには天理教人の知り合いも驚倒したようである。

それには、知り合いは「まぁ老人が多いからなー」と結論づけていたが、
私は老人が多いから休憩を多く採用しているという結論は早計だと思う。

確かに全体的に見れば老人が多いが、中年層も少なくはない。
楽器ごとに体力の疲労度も異なるので老人には極力体力の消耗が少ない
負担が少ない楽器を担当してもらうことが優先される。
つまり、ルールを遵守しようとするならば負担の少ない楽器を高齢者、
負担の大きいものを、より若い人に変更すればいいのである。

誰がどの楽器を行うのかは、この教会では自主性が尊重されるみたいだ。
通常の教会ならば、上記事情を会長が考量し「この人は高齢だし負担の少ない楽器をしてもらおう」となるらしいのだが、この教会では会長が
「あなたは何したい?」と聞いて回るのである。
だから、演奏者は自分のしたい楽器を選択できるのである。

その結果、高齢者=負担の少ない楽器 ということにはならない。
高齢者でも、負担が大きくてもやりたい楽器をすることになる。
そのため、試合(おつとめ)中にちょいちょい休憩が入る。

以上が知り合いが出した、「まあ老人が多いからなー」という意味である。

しかし、ちょいちょい休憩を挟むのは「老人だから」という理由だけではない。
第三者の私から見て例外なく、この教会のおつとめは短く感じた。
短く感じたというのは、私の意識がおつとめに没頭していたということである。
簡単に言えばおつとめが苦痛に感じられなかったのである。

そこで、冒頭の一体感の説明になるのだが、
この教会のおつとめから感じられた一体感とは。

それは、紛れも無いおつとめに対する調和だと思う。
私は今回初めておつとめというものが音楽であると感じた。

それは、楽器の演奏スキルが高いということではない。
演奏する楽器の質が高いというわけでもない。(会長は「安物」と言っていた)

特に後半部分ではピッチがかなり早くなり、リズムを刻むような心地よさを覚えたのである。(一応私は10年以上電子楽器を趣味で演奏していた)
ライブで言えばグルーブ感ということなのだろうか。

おつとめには芯(拍子木)というものが存在する。
一定のリズムでおつとめを牽引するもので、
他の楽器はこの芯のリズムに合わせるのである。

しかし、この教会で感じたsymphonyは「合わせる」という感覚ではない。
「重なり合っていた」という感覚の方が近いように思う。
芯に合わす場合は、芯の音を聞いて、その音にズレないように音を出力するので
あるが、symphonyとは全体や他の楽器全部の音を入力して出力するのである。
全楽器が芯の役割として合わさせる音、また合わせる音を同時に出していたため
円環的symphonyが感じられたのではないかと思う。

そう考えた時に、前半や後半でちょいちょい挟まれる小休憩は
高齢者のための休息ではなく、「あれ?音合ってないんじゃない?」
「なんか、しっくりこないね」という合奏やリハーサルなどでよく見られる
超感覚的な仕切り直しのようにも私は感じたのである。

おつとめ=音楽 という理説には異論が多いのではな
いかと思う。
しかし、おつとめでよく言われる「心を合わせる」という意味を再考する
上ではいい教材に出会えたのでははいかと思う。

おつとめに音楽的クオリティを高める要素は不要なのかもしれない。
しかし、「いいおつとめをしよう!」という意志が結果として
音楽的要素を高めることがあっても不自然ではない。

厳粛なルールのもとで、つまらない(と感じる)おつとめと
多少ルールを守らなくても、いいおつとめをしようとするのと、
どちらが健康的か容易に推察できる。
もちろん、おつとめの意義や理念は前提であるが。

その結果、ほどよい満足感と疲労感で、その後の大教会長の講話が
睡眠の時間となっても誰も後悔はしないと思う。

ちなみに大教会長の講話は、ニュースになった子どもが親を殺すという具体的事象から、やっぱ心の教育を大切にしなきゃという包括論的結論で何が言いたいか
サッパリ理解できなかったことは言うまでもない。

あけましておめでとうございます

2008年になりました。今年もよろしくお願いします。

本部では5日~7日まで「おせち」と呼ばれる行事がありました。
ちなみに私は行ったことありませんが。

大量のお供えされたお餅を信者に振る舞われるそうです。

新年の参拝がてらお供え餅を頂けるなんて良心的ですね。
是非続けて頂きたい行事であります。

話は変わりますが、天理教の行事において私が常々思うことは
行事に投資されるお金の問題であります。

なぜ、このような話になるかと言うと
ある大企業のHPを見ておりましたら、そこの最新型の商品の導入例
として天理教本部が取りあげられていたのであります。

かなりビックリしました。

私はガジェットを好むので、そこそこ電器市場には詳しい(つもり)です。
また、詳しくなくとも一般生活していれば最新の電気製品の高さくらいは
容易に想像できます。

それが天理教本部で導入されているということだそうです。

私は天理教の費用対効果については常々批判的な立場を取っています。
夏のパレードやその他設備投資、特に箱物については”今有るもの”を
有効に使おうとしているように見られないと傍からみて思うわけです。
私の知らないところで、ちゃんと活用がされているならば謝罪しますが。

例えばパレードの車はこどもおぢばがえり期間以外はレンタルしているとか、
詰所は本部の月次祭や行事がない日はホームレスに一般開放してるとか
箱物もテナントにしているとかね。
(詰所に関しては維持費だけでも大変と聞いたことがある。また、「おやさとやかた」なるものが本当に必要性に迫られているのかも私は分からない。天理教の減退を考えれば今やらなければならないことは他にあるはずだ)

そういった点で非常に不透明な部分がある。

もちろん天理教に最新機器は必要ない。

「天理教は私たちの血税で運営される行政ではないからこういった問題は問題ではない」と言われそうだが、私の周りでお金に苦労している天理教人は意外に多い。
それは、「お供えは気持ちだから」では済まされないようなかなり強圧的なものである。
教会単位では「来月までに○○万円お供えするように」と金額を指定することなど
ザラにあるそうだ。それが、徳を積むため、いんねんを切るため、などと言葉を換えて言われているのである。実質的に下に行けば行く程「断れない」人達が増えているのは外れていないと思う。本音と建前が実に巧みに作用されている。私が天理教に入りきれない部分もそこにある。
天理教の人は本当にいい人が多いのだがね~

また時代を見てもそういった不透明な部分に対しての批判は強まるだろう。

天理教の最新型の機器を見て「すげー」というより
天理教の人の振る舞いを見て「すげー」と言いたいもんだ。

2007年度の総括

もう大晦日である。

今年も社会では本当に色々なことがあった。
年末に清水寺で行われた今年の一文字では「偽」が選ばれた。
確かに偽を象徴するような一年である。

しかし、流行語にしろ今年の漢字にしろ
どうしても年間の総括にしては下半期の影響が大きいと思う。
ま、何を言っても「そんなの関係ねぇ~」ってとこでしょうか。

私個人の漢字としては「忙」であった。
職場において業務が忙しかったという意味より
色々な場所に出没し、あーだこーだとしゃしゃり出るという
周りの皆さんにはとって迷惑な忙しさであった(と思う。)

来年は落ち着いて一つ一つの仕事に没頭したいと思う。
個人的にも2008年は大きな仕事が2つあるので、それに集中したい。

このブログの天理教研究については
もうすでに頭の中に2つある事案を論破したいと思う。
1つは後継者不足問題。1つは縦組織の解体である。

どちらも長期的展望という意味では輻輳する部分である。
後継者問題というのは、社会的事象と絡めて論じたい。
また、私の耳に入る事例を提示して特に後継する若者の苦悩や理不尽さを
教理の矛盾と共に整理したい。

もう一つの縦組織の解体は、教会単位の縦の繋がりを整理する。
「理の親」という考えは、宗教教育的な妥当性を持ちながら
社会的には容認できない古典的概念である。
その点に言及し、教団は天理教を社会に容認されるためには縦を重視するのか
それとも縦を解体又は減じさせ、時代と共に地域に根ざした活動を展開すべきか
という視点を考察したい。
天理教組織的縦の繋がりは地域、家族という単位の変遷を参照しながら
「その考え、もう終わっちゃったよ」と遺物にするつもりである。
マルクスやフェミニズムのように、一定の社会的、歴史的意味は認めるものの
もうその欠点は十分露呈し、その理論では社会に通用しないことを展開したい。

どっちにしろ、壮大なテーマなので、1年間かけてコツコツ展開したい。
かといって、私の意見は日々刻々と変化(成長?)しているので
違った結論になるかもしれないが、丁寧に紐を解いていきたいと思う。

2008年もよろしくお願いします。

よいお年を。

天理教批判と反省について

ネタがないので「天理教」をキーワードにググッてみる。
(ググる=googleの動詞化した意。つまり検索すること)
すると天理教公式のサイトをはじめ、各教会や各団体のサイトが並ぶ。

と同じくして天理教批判のサイトも目立つ。

ネットサーフィンに精通している天理教人なら一度はこれらの
アンチ天理教サイトに訪問したことはあるのではないかと思う。

宗教をひっくるめて批判するものも
天理教教義を批判するものも
個人的体験から天理教を批判するものも

だいたいこんなところか。まぁ色々ある。

宗教や教義批判に対しては一天理教人にはどうすることもできない。
ましてや信教の自由の国において
ましてやマイノリティ教団に対して、
ましてや匿名性が高い(すぎる)ツールの上でのことである。
なんら真摯に受け止める必要もなく、問題ではない。

そんなものにイチイチ付き合ってられない。

しかし、個人的体験から天理教批判を行うものは看過できない。

なぜなら、天理教の布教実践は民衆に根ざしたボトムアップの布教だからである。

宗教なのだから、民衆に根ざすことは当然なのであるが、
特に天理教に関しては新宗教の割に下部の布教実践は緩く、フレキシブルであると私は思う。
つまり天理教の教えに基づいていれば、その布教実践はバラエティに富んでいる。
確かに教会人員の高齢化や古い思想の方などがカイチョウサンの場合、
定式化された布教実践や古典的な活動ばかりで民衆に共感されにくい。
しかし、若い方がいて活動性の高い教会は色々な活動をされている。
私の知っているところでは、フリマや慈善活動などのオープンなものから
地域単位でのレクリエーションやスポーツ大会などがあると聞いた。
天理時報を見ても教団的指示内容記事より、
下部の活動を熱心に取材している部分も多いと思う。

もちろん、組織としてのヒエラルキーは厳密なものである。
しかし、アイデアを出し合っていかに人々が参加しやすい行事を企画するかは
決して大衆迎合とは言えない。
これを天理教団としてトップダウンしては大衆迎合になってしまう。

地域と天理教との信頼というものは代替不可なものとして絶対である。
天理教というわけのわからない宗教に対して人々はあらゆるイメージを持っている。
「あそこの天理教の教会は毎日太鼓をドンドン鳴らして不気味だわ」と
「天理教って分からないけど、あそこの人はいい人よね」では
天理教は分からないという部分では共通してても、そこへ向ける目は全く異なる。

そして、これからの天理教の行く末もまたこういった人間的な部分によって決定されるのではないかと思う。

だいぶ前置きが長くなったが、たとえweb上のことであろうと
それは、実際にそこに苦しんでいる人がいる。
また、その原因を作った人は天理教人であるというのは事実であろう。
天理教人が犯罪者紛いの行いをしたかの真偽は定かではない。
しかし、誤解であろうと天理教人が苦しみを作ったことは
当事者の天理教人個人に帰結されるだけではすまされない。
それは、万人に好かれ、誤解を招かない人はいないということでもある。

以前指摘した、朝青龍の問題も、温暖化の問題も批判し愚痴をつくことは簡単である。
しかし、同じ社会の構成員として社会的責任を感じるオトナは容易に批判などできない。
若者論から環境問題まで私たちにも責任はあり、私たちオトナが目障りな問題は
私たちが長い間かけて作り上げた問題でもあるのだ。
(私も若いころは若者を嘆くオトナに「お前らが作った社会の結果だろーが!!!」と言っていた。)
資本主義経済の合理化のもと、便利な社会を求めた結果として色々な歪みが生じているのは自明である。その問題群の中で個人が責任を感じることは同時に、「こうしなくては」と建設的な将来を考えなくてはならない。それが反省である。

環境問題を論じる際に、為政者はアメリカや大企業に頼る。
確かに、温室効果ガスを大量に排出する者へ「なんとかしろ」と言うのは当然である。
しかし、国や企業の責任だけとしていては環境問題の本質的解決にはならない。
こういった「責任者出てこい」的な現象が環境問題に関わらず色々な所で出てきている。

専門家はこれらのことを地域共同体の崩壊や家族観の変容などという言葉で誤摩化してしまう。

特に環境問題の場合、あと2、3年の地球の変化で100年後の環境は大きく変わるらしい。100年後には今いる社会の構成員はほとんど皆死んでいなくなっている。「どうせいないなら、今を好きに生きようぜ」では陽気ぐらしなどできるはずがない。
そういった部分でも、天理教の出直しという概念に込められている意味はあるんじゃないかと思う。
(私は出直しという狭義の宗教的意味は知らないが、その意味に加え上述した社会的意味も十分付置されていると考えられる立派な概念だと思う)

閑話休題。「今そこに苦しんでいる人を助ける」という原則は天理教人が最も本領発揮できるものであると思う。例えインターネットでさえも社会に向けられている以上、社会の構成員として反省することが大切である。

天理教への批判は確かに見たくない情報ではあるけれども、「へっ、どうせ嘘だぁ~」と流すのではなく「私も知らないうちに人を苦しめているかもしれない」と自問することはオトナにしかできない作法である。

クリスマスについて

メリークリスマスアップ
といっても、もう日付が変わりそうです。

今日のテーマは  天理教×クリスマス

天理教を信仰する家庭はクリスマスをどのように過ごしているのか。
もちろん、周知の通りクリスマスはキリスト的宗教行事である。
なので、天理教を信仰している人がクリスマスを味わうことは異端である。

なんて古いこと言いません。

クリスマスという行事は日本では、宗教行事としてより、
すでに文化としての要素が大きいのではないかと思う。
そしてこの認識は大多数で、クリスマスに教会(天理教ではない)に行き
聖歌やゴスペルに参加するというコアな信者以外は宗教行事に参加している
という認識はないと思う。
そうした社会認識の上で、天理教の人がクリスマスを敬遠することは
日本人が「俺って無宗教。もしくわ無神論者」って言っているのと変わりない
と思う。なぜなら日本人の宗教観は曖昧であっても、日本文化(生活)と宗教は
切り離せないからである。ex冠婚葬祭、お正月、各種イベント、身だしなみ,,,
日本文化をしない日本人は存在しないのだからね。

かといって、私の周りにクリスマスを敬遠している天理教人は特にいない。
もちろん、敢えてツリーを置いたり七面鳥を食べて祝うこともないのだけど。
みなさん普通に「まぁ子どももいるしケーキぐらい食べようか」的に
きちんと文化的イベントとして過ごされている。

それでいいと思う。

では、なぜ私がここを問題にしたかと言うと。

私が師走冒頭に天理教人に「みなさんはクリスマスはどう過ごされるのですか?」
と聞いたら「いや、何もしないよー」とセンセイ達はおっしゃられたのだが、後で
その子どもたちに聞くと「ケーキぐらいは食べるよ」という矛盾した内容が聞かれたからである。

この場合、子どもの言っていることは事実であると思う。
実際に、この天理教人の家庭ではクリスマスにはケーキぐらい食べるのだろう。
しかし、なぜ父親は「何もしない」と嘘をつく必要があったのだろう。
この天理教人にとってはケーキくらい=何もしない程度のことなのか。
もしくわ、やはり冒頭に挙げた宗教的行事としてのクリスマスを意識して、天理教だから異教の行事を祝えるかと思うことなのか、それとも他者には自分のことを積極的に披露しないという日本人特有の謙遜というものだろうか。
たぶん前者である。

クリスマスという行事は宗教的行事ではなく、文化的行事として日本では合意ができている。しかし、やはり背景にあるクリスマスは異教の宗教的事実であるということに小骨が引っかかって素直に祝えないということだろう。

なんと悶々とした葛藤を持つことか。

いや、しかし、こういった矛盾を孕むことはまことに人間的で健康的ではないか。

「私は天理教だから、クリスマスなんて知らない」
「私は天理教だけど、クリスマスはイエス様を祝うんだ」
とどっちになられても困るものだ。

そういう意味では、天理教人(日本人)は絶妙のバランス感覚をもたれていると思う。
自分の信念はきちんと懐に隠しつつも、状況適応能力はかね揃えている。
かといって、適応的に信念を出す時には出すというようにね。

だから、私は別に「お子様はケーキを食べるって言ってましたよ。」なんて
イジワルなことは言わない。「そういう矛盾したバランス感覚でいいんですよ」と
共感もしなかった。
どっちにしろ私が矛盾を指摘することにメリットはないと思ったから。
指摘してしまうと矛盾を意識化しどちらかの意見を強化してしまう恐れがあるからだ。

私は、ただ「そうですか」と微笑み返しただけである。
それでいいと思う。

あ、書き終わったらクリスマスは終わってた。。。
明日も早起きである。あぁ。

宗教学者の宗教について

昨日、書店で立ち読みした本を紹介する。

島田裕己:日本の10大新宗教:幻冬社新書
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4344980603/250-9048742-7022634?SubscriptionId=15JBHWP7TH9QYT1RMHG2

この本は、新書なので比較的読みやすい。
私のように宗教学に疎い人間でもスラスラ読める。
もちろん、天理教を扱った項目もある。
専門書ではないので、そんなに深くはない。

オススメする理由は、客観的な天理教を提示している点である。
客観という言葉の使用は難しいが、それでも一宗教学者が天理教を外部から
見ている点で非常に興味がもてる。

私はこの本を読んで、改めて信じることの難しさを認識した。
秀逸すべき点は中山みきの早死、精神病説、分派の乱立など、
宗教学という分野の常識から天理教を俯瞰的視座で眺めている点である。

天理教に対して批判的にも、肯定的にも捉えてない。(と思う。)
天理教では自明とされないが、宗教学では自明とされる点は天理教人も
宗教という視点を獲得するために読んで損はないだろうと思う。

注意しておくが、著者の宗教学者である島田裕己という人物については
賛否両論あるだろう。特にオウムの事件について。

私は著者を好きでも嫌いでもないが(彼の本をまともに読む機会がなかったので
評価できない)、ただ勉強になった。

長い通勤のお供にオススメします。1日で読めちゃうけど。

神殿講話に意味はないについて

神殿講話とは、教会の神殿にてセンセイのお話を聞くものである。
主に、月々のお祭り(月次祭:ツキナミサイ)の終了後に行われる。
主に役員センセイや、カイチョウさんや、その上のセンセイや、
とりあえず偉いセンセイが信者に対して教育的演説を行う。

講話であるので、教育的色彩が強い。
つまり、指示的であるのだ。

しかし、私がこの神殿講話でいつも感じるのは
神殿講話が終了する頃の人々の顔は疲れきっているということである。
確かに、お祭りの場合2時間程度の「おつとめ」の後でのお話であるから
身体的に疲弊しているというのは当たり前なのであろう。
しかも、講話中、聴衆はその話を聞いているのさえも不明である。
大半の聴衆が起きているのか、寝ているか、聞いているのか、
どれにも判断がつかない微妙な姿勢であることが多い。
(聴衆の人々の不可解な姿勢を見ると笑いが込み上げてくるのは私だけだろうか)
2時間の後の30分程度(長い人では1時間以上とも)の難しい話は苦痛でしかない。

それでは、講話のもつ教育的意義は全くないのであろうか。

クールなビジネスマンがいたら、
「疲弊した状態で長時間話を聞いても何も頭に入らない。
記憶に残したいなら3分以内で要点を絞って話すんだな。ふん。」
といいそうである。

確かに、話す人の話力も検討しなくてはならない。
「この人は一体何を言いたいのであろう?」と論理的にバラバラな話を
いうセンセイは非常に多い。
一方で、ただひたすらに話に聞き入ってしまうほどのセンセイは少ない。
(うまい人は本当にうまい。)

しかし、そういった話者の力不足を考慮しても私は長い話を無駄だとは思わない。
確かに、「聴衆の記憶に残る話」を目標にしてしまうと前述したビジネスマン
のような合理的結果を導いてしまう。
しかし、神殿講話は例え無駄な話であろうとその話を聞いてる(フリ)
ことは非常に大切な宗教的行為だと私は思う。

別席という行為が、同じ話を複数回聞くことも同様の意味だと思う。
(注:教義上、なぜ9回聞かなくてはならないかは私は知らない)
つまり、複数回同じ話を聞くという行為に意味はあるのだ。
それは、話の内容よりもその場所で、話を聞いたという身体運動が最も重要なのだ。
もし、話の内容が最も重要であるなら9回も聞く必要はないし、理解した時点で終了のはずだ。
大切なのは、話の内容を理解しようがしまいが、そこにいて話を聞いたという事実なのである。

話は変わるが、天理教の人はなぜか「涵養」(カンヨウ)という言葉をよく使う。
ある日、私が「『涵養』ってどういう意味ですか?」と問うと、
「『重要』という意味だ」と言われたセンセイがいたが間違いである。
『重要』という意味のカンヨウは『肝要』という字である。

何が言いたいかと言うと、涵養というのはシャツにこぼした醤油が広がるように
じわじわと浸透するという意味である。
そして、教えというものも涵養であるのだと私は思う。
それは即時的な理解ではなく、超長期的な納得であるのだ。

前述したビジネスマンは、なんとか話を理解したいのであるが、
神殿講話は教えを納得する場所であるのだ。
そう考えると、どれだけつまらない神殿講話でも無駄ではない。
同じようなことを、ダラダラと話すことによって聴衆にはその教えが骨肉化されていくのが教えだと私は思う。

また、その意味においても私たちの理解の及ばないところに何かしらの神の真意
というものがあるのかもしれない。私たちが宗教の効果を計れないことが宗教の持つ逆説であるのだ。そういう意味では教育も同じである。

誰も「これに何の意味があるのか」なんて分からない。
意味があると判明するのは、だいぶ後になってその人が死ぬときや、後継に聞くことでしか確認できない。(自分が死んだ後に後継に聞くことは不可能である)

私たちにできることは、「意味がなくても、とりあえずやっとく」ことでしかない。
意識は寝ていても体に神殿講話という無意味なシャワーを浴びることは個人の信仰という意味において重要なのである。
信仰は難しいがシンプルなのである。

だからといって、私はつまらない話を迎合しているわけではない。
センセイたちには、なるべく興味をひく努力を見せて欲しいものだ。