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謝ったら負けについて

先日、女子青年の女性たちと話す機会があった。
とてもキュートで親しみのある方たちでした。

その中の一人が「先日、車で接触事故をした」ということであった。
私は会話には入らず(輪に入っていたけど)、ふむふむと皆さんの会話を
聞きながら茶菓子をいただいていた。

会話は事故の際の対応についてに移る。
結論として事故は「謝ったら負け」ということである。

謝ったら自己の過失を認めることになるのだから自分が悪くても
「決して謝ってはいけない」という非常に危険なリスキーシフトな流れであった。

そこに私は非常に危惧を覚えたのである。
「事故の際に謝ったら負け」という言説は私も何度か耳にしたことがある。
しかし、陽気ぐらしをメドウとする天理教人の方たちから何の違和感もなく
発せられたことに違和感を感じたのである。

私が危惧を覚えるのは、自己の利益の追求には自己の過失を可能な限り認めない
という醜い且つ正論なのである。そして正論は正論であるが故、質が悪い。

私は米泥棒を許した中山みき様のように相手の過失を許せと言っているのではない。
自己の利益はともかく相手の過失を責めるのはもってのほかだ、ということでもない。

事故を起こした刹那、そういう利害関係を発生させることが非常に生きにくいと思うのだ。

「いやーすみませんね」から始まる円滑な人間関係は遺産となってしまったのであろうか。
それとも単に私がオジサン化してしまっているのだろうか。

事故の責任の割合は第三者や専門家にまかせればいいのである。

事故処理と、それに発生する心理的負荷は比例するものだと思う。しかし、余計に
相手を罵り、批判するという最も生体エネルギーを奪われる行為を天理教人が推奨
することが私は腑に落ちない。

事故の際の対応スキルであるならば、相手も責めず、自己も不利にならない
アサーションが必要なのである。

経済合理主義な日本社会の功罪として彼女らもまた人間関係を損得で考慮しているのだろうか。レストランでお店側の不手際をこれでもかと罵るサラリーマンを見かけるぐらいに非常に空しい感覚を覚えたものだ。

天理教人の思考回路が一般人の合理主義と同じになった今、天理教の存在意義とは
何だろうかつくづく考えさせられるばかりである。

みんな怒っている

亀田一家の騒動について、私は大変憤りを感じています。亀田の謝罪?記者会見を見てみても「あれは、誠意が感じられない」とコメンテーターに一蹴されているのであります。
「あれ?君は亀田に怒っているんじゃないの?」って?
はい、私は亀田に怒っていません。亀田の件で怒っている人に怒っているのです。

 亀田の件で怒っている人は、何に、なぜ怒っているのか私は分かりません。
亀田の反則行為は悪いです。しかし、ちゃんと処分は下っています。世間的には「あの処分は軽い」という意見がドミナントらしいのですが、その意見がどこから発生し、どこに向かっているのか私は分かりません。
亀田を批判するみなさんは、亀田をどうしたいのでしょうか?
誰か説明していただけませんか?

 ちなみに、私は亀田ファンでもボクシングファンでもありません。そんな私が怒っているのは、無責任に簡単に他者を懲らしめるメディアと、それにスケープゴートの如く論調を同じく意見する人々です。

 もう一方で、冷静にメディアを概観しますと「そんなに怒ることじゃないんじゃないの」と言っている人も多くいます。たかが20歳前後の若者の調子に乗った言動。そういえば、亀田に関わらず主演映画のプロモーションで悪態をついた女優も、「腰が痛い」と言いつつも地元でサッカーをして批判を浴びた力士もまだ社会経験を積まない若者でありましょう。

 勘違いしていただきたくないのは、私は亀田や上記の若者たちを擁護しているわけではありません。私が亀田の件で怒っている人を怒っているのは「亀田はけしからん」という意見も含め、「亀田くらいで、そんなに怒るんじゃないよ」と怒っている人も含めているわけであります。

 批判する人も批判に批判する人も国民の99%以上の人が、悪態をつく若者と何の利害関係もないはずでしょう。それでも亀田の件で「私が不愉快を感じるのは、亀田の態度は十分に私の気分を害している」と言われる方はチャンネルの選択の自由ということが抜けています。見るものを自由に選べないなんて北朝鮮でもありえません(北朝鮮は番組選択の自由はないですが、TVのon/offの自由はあります)。冷静に考えれば、本件で一喜一憂するのは視聴率至上主義のメディアに感情を揺さぶられているだけです。

 街中にふと目をやると悪態をつく若者なんて探さなくても見当たります。私たち大人は彼らに対して見て見ぬ振りを決めこんで無関係を装っているのは、大人としての振る舞いではなく、自の欲求不満を意識化してしまうのを恐れているのではないでしょうか。 無意識のどこかで若者を「自由きままに生きている」生物として、大人と対照化し、彼らに羨望の念を抱いてしまっているという奴隷道徳を認識する恐さが根底にあると私は思います。

 亀田の件は現代社会における大人としての未熟な部分を露呈しています。品格という問題が言われて久しいですが、こういった「本来、俎上にも挙げられない「どうでもいい問題」を社会的時事として扱うことが既に、我々大人達の幼児化と言わざるをえないのではないでしょうか。亀田を批判する人も批判する人を批判する人も、丁寧にブログで取りあげる人間も早く成人しなくてはならないと思う次第であります。

心理主義について2     に行く前にメディアについて一息。

前回、天理時報を切り口に天理教の心理主義を概観しました。
天理時報は心理主義しているという点について「あれは単なる情報ペーパーと考えれば
心理主義だが独善的だろうがいいじゃないか」というご意見があったので私の考えを述べたいと思う。

天理時報は新聞である。新聞は立派なメディアである。
社会を「知る」ときに私たちはメディアの何を用いるだろうか。
テレビ、新聞、ラジオ、広告、伝聞(電話、メール、井戸端会議)、直接体験
であろうか。多種多様である。
しかし、重要なことは如何なる手段であろうと私たちが知ることは
そういった方法で「伝えられたものでしか」ない。
つまり、私たちの脳に収納される情報はすでに発信者によって選ばれたものであるのだ。
(直接体験は複数の身体情報が付随するという利点があるが、その情報は汎通的がない)

著名人たちのNHK批判の一つに、NHKが掲げる「公正、客観、中立」を挙げる。
カメラのファインダーで映された、時間、場所は何らかの意図があるのは当然である。
なぜなら、報道は24時間、360度、誰の意見もなしに全世界を映しているわけではない。
TVで報道されるのは、「視聴率がとれそう」なのか「メディアの社会的使命」なのか
分からないが、「これは報道しよう」「これはカットしよう」と取捨選択する人物は必ずいるにちがいない。要するに「公正、客観、中立」なんてあり得ないのである。

そう考えたときに、私たちはあまりに容易にメディアの情報を信頼しきっている。
結論としてはもう少し与えられた情報に対して懐疑的になってもいいんじゃないか。
ということです。特に不透明な宗教団体は、その信仰を信頼するためには情報ペーパーで
あっても「これだけじゃ、わかんないよね」「結局天理教って陽気ぐらしって漠然と言っているけど、どこに向かっているの?」とかね。
もちろん、情報受信者の私たちにも問題はあるのだが、発信者である教団にも
少なくとも信者には教団情報のアクセス権をしっかり明示する必要がある。

追記:
上記の場合の社会を天理教に当てはめてもいいのだが、天理教は対外情報も非常に少ない。天理教にはドウユウ社という子会社が存在する。そこでは、天理教関連の出版物やラジオ、テレビの発信をもおこなっているらしい。なので、情報の取得手段としては複数あることになる。しかし、格差社会で問題とされている現象がここにもある。
それは情報のアクセス権へのアクセスがみたされていないのである。
「天理教もバンバンCMしちゃいなよ」とか「広告にお金つかいなよ」といっているわけではない。信者の天理教へのアクセス権を確保すべきということである。
上記では主に情報の受信者側からの視点になったが、発信者である天理教は
もう少し丁寧に現実に即した情報を披露すべきだろう。
例えば天理教HPの単純さには宗教という不明瞭なものを不明瞭なまま理解させるのにはぴったりであろう。参考比較に某学会のHPはコンテンツが多い。
私の希望としては具体的には、毎月1回でも記者会見なりプレス発表をすればいいんじゃないかな。例え記者はいなくても一般社会と純粋に対話するという場を設けることは非常に健全な組織運営ではないか。ただでも怪しい団体が怪しい広報活動をしていたのでは誰からも信頼されないのは社会の常識であろう。

今回は情報の発信者と受信者の両面から考察してみました(考察にしては陳腐だけど)
私事で申し訳ありませんが最近激務でして、なかなかブログUpできてません。
なので、記事もバーと書くのであまり推敲されてません。読みにくくて申し訳ないです。

天理教に対する質問があれば私なり(社会学的)にお答えしますので、匿名でもメールでしたらお答えしようと思います。ただ、記事にするかもしれないことを御容赦くださいませ。

心理主義について

私は新聞も含めて定期購読をあまりしない。
なぜなら理由は簡単。読みたいと思うものがあまりないからである。
私が読みたいと思うものの条件は、私の知的興奮を喚起し、「ほ~なるほど」と思える
文脈があるものである。

ここ最近はメディアの論調も均質化しておりどの広報物も論点は大して変わらない。
一昔前までは、「この新聞社はウヨだね」なんて言葉が各社毎に聞かれたものだが、
今となっては何がウヨかサヨかも分からず、軒並み同じような論調である。
なので、読まなくても「こういったことを言ってるだろな」という私の想像を裏切ることはない。
なので、「何があったか」という情報は新聞を購読しなくともクリックだけでよい。

その中の知的興奮を喚起しない出版物の一つに「天理時報」が挙げられる。
私は2007年現在ではほとんど読んでいない。
昔はある場所に行けば最新の天理時報があったので時間潰しにいつも読んでいた。
しかし、読む度に何も掴んだ実感が持てない。
「この意見ちょっと使ってみよ」とか「僕はこの記事の意見には反対だな~」といったことがまったくない。
宗教新聞という特筆上、無難になんとなく結論を覆い隠す必要があるかもしれない。
しかし、天理時報の場合その結論が少し心理主義に偏っているのではないかと思う。
宗教なら多少独断的、強引な視点も有りかと思う。しかし、心理主義的な天理時報では
すべて「こころの問題」として片付けられているような印象を待たざるを得ない。

そして、「こころの問題」こそ非常に厄介なものである。経験的に。
なぜなら「こころの問題」という結論は、実は問題の結論を持っていないのである。

濫用される「こころ」に私は嫌気が差したのである。

そもそも、「こころ」という形のない言語に対して天理教は説明できているのか聞いたことがない。
天理教での「こころ」の概念が明示されていないのだ。
「すでにあるもの」として使われているにしかすぎない。

しかし、この問題は今ある問題をどのように考えるかという点で非常に大切な問題である。

私の友人に心理学や精神医学の友人がいるが、その人達も「こころ」の定義は異なる。
基礎心理学の准教授をやっている友人は心理学を志す理由の一つに「心理学辞典に『こころ』がなくて驚いた」ことを挙げている。
知り合いの精神医学の友人(精神科医&臨床心理士)は「『こころ』なんてないよ」と言っていた。「こころなんて虚像にすぎない」と。
心理学は行動の科学という点では原因論ではなく現象論にすぎない。

宗教という性質上、こころを身上・事情の原因に挙げる姿勢は批判できない。
しかし、もう少し問題を一つ一つ丁寧に検討する姿勢も必要だと私は思う。
その詳細は次回。

道一条について

道一条(神一条)とは簡単に言えば「天理教一筋」ということだろう。

この言葉はことあるごとによく耳にするが、これは教義にのっているのか私は知らない。
つまり、教祖が発した言葉なのだろうか? 人間の都合で発せられたのだろうか?
この発生の差異は意外に重要だと思う。別に原理主義を気取るわけじゃないけど。

そして、何をもって道一条とするのか定義も知らない。(知らないばかりで申し訳ない)

天理教以外を信仰しなければ道一条なのか。
公的な書面の職業欄に「天理教布教師」と書ければ道一条なのか。

前者と後者の差異は中味と外面である。
仕事は会社員でも天理教を信仰しているという中味の問題とする前者と
熱心かどうかは不明だが、とりあえず社会的職業としては天理教布教師であるという後者である。

もちろん、私が主観的に判断してドミナントなのは後者である。
そして、後者であることに高い価値が置かれているのが現状である。
(私の主観は主観でしかないのだが、私は常々申しているように、こういった「なんとなく・・・」といった主観的体験を非常に大切にしている。数値で表すことよりも、理由は分からないが経験に裏付けされた気づきは時として物事の本質を射ている場合が多い)

前回、「御用がないときは日中でもPCでネットサーフィンしているカイチョウがいる」というようなことを書いたが実際にいる。もちろん、ヒマなんてない熱心なカイチョウもいるだろう。しかし、私はサーフィンしているカイチョウを批判する気はない。
ダラダラするのも仕事の内だと古き良き古代人の私は思う。

私が問題にしているのは、そういった現象を無視し、何をもって熱心とか考えない、
業務はカイチョウに一任されている、等の周辺事案をほったらかしにしているのに、
平気で他者をコントロールするために教義が濫用している点である。

そして、安易に職業的道一条を強調することは社会を破滅に向かわせることとなる。
以下、説明しよう。

前回のブログで道一条に高い価値が置かれている意味が分からない云々・・・
と書いたが、道一条であることに高い価値を置くことは間違っている。
なぜなら、道一条に高い価値を置いてしまうと、道一条ではないことの価値が低くなるのが自明の道理である。すると、価値を追求し続けると国民全員が道一条となってしまう。
全員が職業的に道一条となっては誰が社会を回すと思われているのだろうか。
「いやいや、極端だなー」といわれそうだが、これは極端ではなく当然の理論的結果である。極端を嫌うのであれば極端にならない理論を作るのべきであろう。

それと、職業的道一条は当然のごとく信仰の形骸化としか言えないのが現状だろう。
日本ではイベント化している宗教だが、それでも信仰は形式ではない。

以上、道一条を職業としてしまう危険性について考察してみた。
それでも道一条は職業ではなく、中味の問題だと言われる方がいたら
「じゃあ、私の信仰が道一条かそうでないかは誰にも分からないだろう」と言うしかない。
やはり、道一条などと言える人は常人にはないスーパーパワーを持っているとしか思えない。
おやすみなさい。

徳分について

頑張っている人間に対して「あなたは(成功するだけの)徳がない」と断言する人がいる。

こういった発言をするカイチョウさんがいると聞かされたことがある。
「こういった発言はどのようなものか?」と私にお伺いされたので、「そのカイチョウさんは神様だよ」と皮肉交じりに解答してあげたのだが、神様となりえた理由を説明したい。

そもそも徳とは何なのだろうか。
教義解釈としては「徳を積む」という言葉を聞くように、量的な規範として存在するものだと考えられる(たぶん)。そういった視点では日本では日常言語として常用され、日本文化に馴染んでいる儒教の五徳としての意味が近いように思う。

しかし、昨今の上記事例のような使用が目立つことから徳という意味の実質的運用は個人の資質として使用されている。個人の能力や才能として使用されることが目立つ。

前者の使用では啓発として他者に教授することは教えである。
しかし、後者の使用では他者を価値付けてしまう恐れがある。
つまり、後者では啓発からレッテル貼りになる可能性を孕んでいる。

その中で宗教というドグマチックな性質を持つ集団では中味を強者の思い通りに
容易にすり替えてしまうことができる。

事例を詳しく説明すると、「徳がない」と言われた人間は教会の子弟である。
その子弟は後継者ではないが自分の夢である資格をとるために勉強をしているのだ。
(もちろん、反天理教ではない。むしろかなり熱心。目指す資格も立派なものである)
しかし、子弟の道一条を願う親(カイチョウ)に言われたのである。
道一条というのは仕事しなくてプラプラ教会でネットばかりしているカイチョウでも
道一条と言えるのだが、そこに宗教的高位な価値を置く理由が私には見えない。

「徳がない」と否定する意見だけがレッテル貼りになるのではない。
逆に「徳がある」と言う人間も同様である。
(これは私も実際にどこぞのセンセイが発言したのを聞いたことがある)

徳が「ある」や「ない」と言える人には、徳が見えることになってしまう。
徳が見えるなら是非説明して頂きたいものだ。どんなものだろう?

ちなみに、徳の存在を説明できる人は徳を資質や能力と思っているのだろう。
なぜなら、徳分は規範でしかないので査定しようがない。

だから、徳分を査定できる人はきっと人間には認識できないスーパーパワーを
持っているのだろう。

天理教的世襲制について

天理教の世代交代は基本的に世襲的である。
世襲的と言い切ってしまうのは語弊があるので形態としてである。
教義上では『理』というものが次代の人間を決定する。
しかし、当然のごとく理は目に見えない。
なので、求められるポストに就いた後でしかその人に理があったとは言えない。

教会に生まれた長男は理を持つと考えられ、長男が後継者とされる場合が多い。
なぜ長男なのかは教義解釈よりも文化的慣習による部分が大きいと思う。
なので、今までの長男達は違和感なく理の使命を生まれた瞬間から受け入れたのだと思う。
また周囲の人間も日本文化と相俟って世襲的に違和感を感じなかったのだと思う。

しかし、現代において問題が生じている。
世襲を拒否する若者が大量発生する予兆があるのだ。
つまり、理を持つとされる子どもが「俺きょーみねーよ」と言って一般企業に就職する
人間が出てきた。そして後継者を一般公募しなくてはならない事態が生じている。
以前もそういったケースの教会はチラホラあった。そういった教会は事情教会(問題教会)
として秘密裏(あえて表に出す必要もない)に処理されていた。

当ケースにおける以前の事情教会は信者も少ない機能不全な教会に目立った。
しかし、現代では信者を多く抱える教会やサラブレッドの子どもたちにまでそういった現象が波及していっている。
人々は「理の継承は世襲という形態で伝授されているのではなく、継いだ人間に理は存在する」という逆転した時系列の考えを持ち始めているように私は思う。しかし、それを声に出して言うことは憚られ、発言者にも火の粉が飛んでくる恐れがあるので無意識に抑圧しているように感じられる。
つまり、理があるから継ぐのではなく、継いだ人に理があるという微妙だが大きい異変を感じ取っているのだ。
大きい異変というのは以前の理の使用では理は神からの天啓であると考えられていたが
、もしかしたら人間が作り出しているのではないかという畏れを喚起していることにある。
つまり、後継者は世襲に限定されず「誰でも会長になりえる。」という状況を作り出しているのだ。
しかし、長男に理があるのではなく継いだ人間に理があるということこそ、私たちが一番納得できる着地点のように思う。(教義上の理の概念では現実的に説明できない)

しかし今後、もし教会長の不祥事が多発し職を剥奪されるような事態が多発したら、
継いだ人間に理は継承されるという概念もまた検証し直さなくてはならないだろう。
ないと思うけど。
その場合の着地点は「理は人間には解釈できない。神のみぞ知る」となるしかない。

期を同じくして、ただ今おぢばでは「後継者講習会」というものが開催されている。
後継者講習会というのは後継者を育成するためのものだと思うが、
それに参加している人は大して問題ないだろう。
重要なのは後継意欲の持たない人間と後継を育てられない現センセイたちであろう。
育てる力のないものを会長としていることに本質的な問題を孕んでいると感じるのは私だけであろうか。後継者講習会は会長を対象にすべきなのではないだろうか?
育てようと思わなくても立派な人間に人々はついていく。

はい?  教会長資格検定講習会があるですって?  あれは会長の業務遂行能力検定であって人格的素養を高めるものではないのですよ。医者という資格を持ってるからといって決して人間として尊敬に値するというものではありません。

会長という名称について

組織のトップであったら、組織形態を冠とすることは当然である。
会社なら社長。
組なら組長。
町なら町長。
などなど。

そういった意味では教会という組織のトップに対して会長という名称は適切である。

しかし、私は「会長さん」と聞くとどうしても違和感を覚える。
一般的に「会長」と聞くとどうしても平社員からのヒエラルキーを上り詰めた功労者という
背景を想像させられるのが普通ではないかと思う。

結論を先んずれば、私の会長に対する違和感の所在は、通常会社の会長という名称に付随されるべき人格者としての尊敬に値する実績が担保されていないからだと思う。

人格者というのは単に「いい人」という意味ではなく、とりあえず組織のトップに立ったこと
のある人間という価値に対しての一定の評価である。
実績の担保というのは例えそいつが人格的に「嫌な奴」であっても会社を運営(設立)したという実績は個人的感想に依拠しなくとも社会的に評価される人であるという意味である。

会社というのは事業が何であれ、利益を上げ社員に賃金を払っているという金銭の流動を行っている時点で社会に貢献しているので、すでに個人としての資質は秀でている所があるというこのになる。

一方、教会の会長の場合、通常背景に付随する実績が担保されていない。
そのため、会長というポジションが信頼できない。

なぜ、私がそこに疑問を抱くかと思えば主観的に尊敬できない人間が多いからだ。
挨拶もできない、人間関係もできていないのに偉そうにアゴで使う会長を私は知っている。
それは決して嫌な奴ではない。嫌な奴以前の問題だと私は感じている。
だから、そういった会長に対して批判的なのである(個人的感情が大きいが)
そして、実績もないのに「会長さん」と言われ続けることに酔っているとしか思えない。
毎日、教会でも家庭でも外出先でも「会長さん」と呼ばれればその気になるのが当たり前だ。
私が提案するのは会長という名称の変更か、会長へのエリート教育である。
名称の変更に関しては、代表者や責任者で十分ではなかろうか。
会長という名称では人格を問う以前に崇高なイメージに左右されやすい。

会長へのエリート教育というのは聞こえはよいかもしれないが、
社会人として当たり前の振る舞いができるように教育するということである。
挨拶から、他者への配慮などである。世間に出たことのない会長さんは意外に多い。
現実的対応として審査機関を設けることであろう。「この会長さん、適切ではないので
懲戒請求したい」というのもアリだと思う。(橋本弁護士が言う法曹界みたいだね)

しかし、審査機関を設けて「じゃ君は会長としての資質がないので免職」ということはできないだろう。だって、会長への登用は神の判断(おさしず)だから。神の判断が誤りだとしてしまうと宗教として存在意義はなくなってしまう。
その辺の境界が難しいのだが、是非本部には知恵を絞って欲しいものだ。
なぜなら、会長の資質低下は現場の喫緊の課題であり、組織の崩壊というのは中央から崩れるのではなく現場からボロボロと崩れるのが当たり前であるからだ。

追記
私なりの会長批判を行ったが、尊敬できる会長、一教会に留めておくのも惜しい会長も
いるのは覚えていて欲しい。

ひのきしんについて

啓蒙主義以降の批判からキリストが復権したのはコツコツ取り組んだ奉仕活動が
大きな要因だったと言っても過言ではないと思う。

先日、キリスト教会所属の韓国人ボランティアがタリバンに拘束される事件があったが、
韓国ではキリスト教の勢力はかなり大きいみたいである。
その勢力拡大の要因としてボランティアの充実が挙げられていた。

ボランティアを天理教で言うと「ひのきしん」に相当すると考えられる。
私は以前、偉いセンセイの講演で「ひのきしんという用語は世間一般でも『ひのきしん
といえば天理教』というくらい有名である」と聞いたことがあるが、世間一般に在籍している
私としてはその感想に同意できなかった。

毎年5月には「全教一斉ひのきしんデー」という行事があり、全国(全世界も)の天理教人が
ひのきしんというボランティア活動をしている。それは主に地域等の清掃活動になる。

ひのきしんとボランティアの違いについては、行為に込める思いの違いである。
ひのきしんという行為は「他者の利益」のためでなく「神への感謝」である。
例えば、清掃活動という行為でもボランティアの場合「皆が気持ち良くなればいいね」というような思いを込められるが、ひのきしんの場合は「神様から借りている体とご守護に感謝しましょう」という思いになる。感謝の形態である。

思いの違いこそあるが、共通の利益のために行う行為なのでボランティアだろうが、ひのきしんだろうが非常に素晴らしい行為である。

しかし、ひのきしんの場合、単純に喜んでいいものだろうかと私は常々思う。
なぜなら、ひのきしんの説明において、「ひのきしんとは神への感謝」である。
という点で思考がストップしていることである。

「個人の神への感謝を共通利益に還元する必要性を今ひとつ説明しきれていない点」

「どういう時に神への感謝の必要性を体現しているのか」
という点である。
まず、説明しきれていない点については「神への感謝」なら「一人でしろよ」となる。
+ひのきしんをしている人に対して「ありがとう」ということは矛盾していることになる。
ひのきしんをしている人が持つ個人が感じる神への感謝と共通利益は直線ではない。

直線というのは贈り物をくれた人に感謝することである。
贈り物をあげてないのに「ありがとう」と言われるのは間接であり、そこには他意がある。
だから、説明をする場合「神への感謝」という言葉で終わらせてはいけないと思う。
「神への感謝をするために皆の利益になることをするのは・・・・」という付け足しである。
もちろん、その付けたしは人類は兄弟という思想から想像するに難くない。

では、2つめの「いつ感謝の必要性を体現するのか」という疑問については前述した
なぜ説明する必要があるのかという疑問と結びつく。

この間、敬老の日であった。養老先生がどこかで言っていたのが、
「敬老の日がわざわざあるのは、日頃から老人を大切にしていないからだ」
というようなことを聞いた。
それを「ひのきしん」にあてはめると「全教一斉ひのきしんデー」の存在意義も掠れる。
なぜなら、神への感謝は特定の短期間で終わるはずはないからである。
つまり、私がひのきしんと聞くとその背後には自己満足という背後霊がチラチラ目についてしまう。
そういった視点で見るとひのきしん自体がイベント的に使用されている感さえある。
何人かで集まると、とりあえず「日頃生かされている喜びを体現するためにひのきしんでもしよう」(こんなメンドクサイ理由を言う人はいない)と、「とりあえずひのきしんやっときゃいいでしょ」というものがあるように感じる。
以上、私の不埒なひのきしんへの不満を述べたが、それが理論的、教義的に正鵠を得ているとは思わない。私が強調するのは「神への感謝」を言い過ぎることによって他者への共通利益を生み出す理由をダブらせているという点である。
また一方で、ひのきしんという行為自体が布教という側面を担っていることを明示する必要もあるだろう。(そうでなかったら敢えて目立つことをする必要はない=「目立つためにひのきしんをしてない!という人間がいたら是非一人で誰もやらないことをしない必要性を私は聞き出したいものだ)
クリアな説明と、これは布教でもあるという意味を含めることを合意するだけでも
ひのきしんの存在意義は非常にクリアだし、意味も大きいと思う。

結婚について

天理教での結婚の位置を考えたときにパッと思い浮かばない。
夫婦雛形・・・くらいのメタ概念しか私は知らない。申し訳ない。
しかし、今回は結婚を重要な概念として知的探索を試みたいと思う。

突然だが私の周りで天理教に関して結婚で悩んでいる人は多い。
主観的な感想だが、実際に出会う人数に比して悩みを打ち明けられる経験という
のは社会生活を送る上で有意に感じられる。そして、主観であってもそういった気づきを
私は非常に大切にしている。そして、そういう経験が間違っていたことはない。

本題に入るが、悩みは例えば彼が後継者であるとか、親(相手の親にも)に反対されたりなどなど、である。
不肖な私に悩みを打ち明けられる人もいる。数少ない友人だけど。
決まって私は「申し訳ないけど、僕にはどうすることもできないよ。」と力不足を承認して頂く。なぜなら、それは非常に複雑で「メンドクサイ問題」であるからである。
できることなら「ちょっとお父さん、あなた娘の言い分も聞いてあげなよ」と言いたいが
プライドの高いセンセイやカイチョーさんたちは他人の言うことなんて聞かない。
それこそ、暴力的に「徳がない」「お前はなにも分かってない」「いんねんじゃー」と言い
聞いてくれない。実際にそういうことを私は経験している。

上記のように言葉責めだけで済むならいいが、もっと理不尽で、あり得ないケースもある。
私の聞いたところでは、カイチョーさんが娘の彼氏を尾行したり、お付き合いしている子ども二人の了承を得ず、相手家族に「うちの子と付き合わないでくれ」と行った人もいる。
結婚を反対するにしても、もっと社会勉強をされた方がいい人が沢山いる。
そういった人達というのは自己愛性人格障害の方と同じ位付き合いにくい。
周囲の人間を振り回すことに長けている。

もちろん、そういった人たちが「陽気ぐらし」と言っていることも個人的には腹が立つが、
そういった人たちを監視する機関がないことは組織として未熟でしかない。

早足で結論を概観すると「メンドクサイ問題」となることは非常に核心的だと思う。
「メンドクサイ問題」というのに直面したときに私は全身が脱力した感じになる。
なぜなら、メンドクサイ問題はアポリア(難問)ではないからである。
難問というのは答えの出しようがある。答えがないことも答えである。
しかし「メンドクサイ問題」というのは問題を解決する姿勢を否定されているからである。
しかも、「当事者であるお前の問題だけど、お前は解決してはならないよ」という
非常に屈折した感覚であるからだ。
だから、「私の意志を反映することが許されない問題」であるのだ。

結婚というのは根本には当事者である二者間の合意がなくてはならない。
しかし、親たちは自分の望まない相手である場合には戦略的に結婚を妨害し、
なんとか自分が納得する結婚を作り出そうとする。
しかし、反対する親たちが納得する結婚は構造的にあり得ないのではないかと思う。
なぜなら、結婚を妨害する理由は相手への不満ではなく親の慢性的な不安である場合が多い。
天理教はメジャーだが、日本では宗教というカテゴリー自体がマイナーである。
つまり、天理教であるというアイデンティティ自体が無意識下に劣等感を帯びているのではないかと私は思う。それが、慢性的な見捨てられ不安になり理解者である子どもたちを手放しできない状況になる。また、天理教家族というのは一般的に兄弟が多い。そういった現象もヒントにはなるだろう。
だから、結婚に反対するカイチョーさんは基本的に相手が誰だろうが反対する。
唯一快諾してくれる場合は、理の親からのお告げである(この場合に助かる場合が非常に多い。結婚に反対しても理の親が「いいじゃないか」と言えばすんなり治まる→見捨てられ不安は理の親の依存的承認で誤摩化されるていると私は思う)

夫婦雛形を強調するのはいいが、それを過信してはならない。
価値観の異なる人間が一蓮托生のごとく言葉を交換して愛を確認しあって生きるのが
結婚だと私は思う。理想論であろうか?しかし、愛は既にあるものではない。

話を親側に戻すと、息子の結婚を反対しているカイチョウーさんはその昔、自身の結婚は
理の親に指示されて結婚されたらしい。奥さんとなる彼女にプロポーズをするよりも先に
理の親(実の親ではない)に「結婚しいい?」と伺いを立てたらしい。
つまり、恋愛もろくにしてないおっさんが息子の結婚を反対しても説得力がない。
そして、根本的な家族の誕生を阻止する人間に「陽気ぐらし」を標榜する資格はない。
そんな人は例え子どもが離婚したときは「ほーらね、いわんこっちゃない」と言うだろう。
離婚しても「大丈夫、家族が応援しているぞ」とは決して言えないんだろう。
器ちっちゃ。

生理学的に言えば、結婚は早い方がいい。結婚が早いと社会的なリスクが高くなると
警戒する人が多くなってきているが、リスクを分散するために家族がいると私は信じる。
人は決してコントロールなんてできない、してはいけないと断固思う。

追記
主観的な論及になったが、寛大で人間的に尊敬できるカイチョーも多くいる。