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批判について

私がブログを通して言っているのは天理教への批判である。
しかし、批判を行う動機には「キライ」という感情は作動しない。

キライだから批判を行うのは、批判する動機の過半数を占めるものだが、
私は天理教に対して「頑張って欲しい」から批判を行っていることを理解して頂きたい。

「キライ」だから批判を行うなら感情的に、一義的に、一方的にやればいい。
しかし、腐敗した天理教を再建するためには「頑張ってほしい」から批判する中身は
現状を暴露し、分析し、どこを改善したらいいかを論理的に明確にする必要があると思う。
だから、「ここ、もうちょっとちゃんと詰めた方がいんじゃね?」という指摘には素直に応じたい。
しかし、問題を具体的に明確にしているのに「お前は何も分かってねー」と言われても私は困る。
なぜなら次に続く私の言葉は「では、どこがどのように分かってないのでしょうか?」と
聞くしかない。嫌味に言うのではなく、低い姿勢のつもりだが。しかし、私を批判する人は
「ゴタゴタ言ってんじゃねー とりあえずお前は間違ってんるんや!」と言われることが多い。
いや、大半である。私がすべて正しいと思ったことはない。間違っているならば、ちゃんと
相手の意見を聞こうとも思う。しかし、対話しようとしても相手が対話を拒否するならば
私は相手の意見を聞くほどヒマではない。

私が天理教を応援するために批判をするには、批判こそ進化であるからだ。
レヴィー・ストロースがサルトルを論破したように、カルナップがハイデガーを批判したように時代のコペルニクス的転換は批判からでしか生まれない。
現状の天理教を批判をすることで、今後の天理教を再構築していく試みである。
会長の品位は低下し、センセイの理解できないわがままと、たまにしか人前に出てこないくせに出てきた瞬間「あーだこーだ」と述べるリーダーたち。とりあえず信者増加のために
話を聞くだけで用木という別席のありかた。布教は社会から押しだされた人をターゲットとする短絡な在り方。など、一度全部壊さないといけないのではないかと思う。

私の友人で天理大学天理教学専攻であった人がいた。彼は大学3回生の時に卒論の
テーマを天理教批判を主とする論文としようとしていた。しかし、教授にプレゼンすると
「うちの大学で天理教批判をしてどうするのだ?」と言われたらしい。
非常に頭のキレる友人だったので、「ですよね?」と返答しテーマ変更したらしい。
宗教的アカデミックとはこんなものなのかもしれないが、これはアカデミックではない。
この教授がどんなにエライのか知らないが同じ大学生であった私でも「器が小さいんだな~」と思えたほどである。

和田あき子について

天理教と関係ないけど、一般社会の屈折した意識を見たので報告。

長野県警は不審者が現れると、その情報を子どもがいる親にメールで配信しているサービスを行っている。
今回(本日?)そのメールの中の不審者情報で不審者の特徴を「和田あき子似」と表現し、一部の父兄から「表現が適切ではない」というクレームがつき県警は訂正・謝罪したという。

みなさんはこの件についてどう思ったであろうか。

私はなぜ父兄がクレームをつけたのか疑問が残った。

それは父兄にとって「和田あき子似」と表現されることで何の被害が生じるのであろう。
むしろメリットだけではないのかと思う。

「不審者の特徴は身長170cmくらい、おかっぱ頭」と長々と表現するよりも「和田あき子似」と表現する方が不審者の特定には簡潔かつ明瞭だと思う。
「えーあの人は不審者っぽいけど身長は170cmより低い?高い?おかっぱ?」と微妙に違いが生じる尺度に照らし合わせるより「和田あき子似」はどう考えても万人に共有しやすい情報である。

たぶん、県警にクレームをつけた人は正義のために社会を代弁したのかもしれないが
クレームを言っていいのは和田あき子か事務所でしかないはずである。
県警と事務所側の二者関係のみ県警は謝罪か訂正が必要なのだろう。

この件に関して和田あき子側の事務所は事態を静観しているらしい。
賢明である。
和田あき子は芸能人である。一般人の話題にされることは例え不審者情報であっても売名という視点からはメリットもデメリットも査定はできない。(単に和田あき子に似ているという程度で和田あき子の評判が下がるなんて誰も思わないだろう。そんなことで評判が下がるなら、タレントは誰も悪役をしないだろう)
こんなことであっても芸能人は名前を自由に使われる使命がある。
使われたくなかったらTVに出るな。

また、和田あき子という人格からも「こんなことくらいで騒ぐほど私は小さくねーよ」というのがオチだと思う。(実際和田あき子は若手時代に今回とは比較にならないほど容貌が大きいことで壮絶な苦難の道を歩んだらしい)

たぶんクレーマーはクレームをつけることは正当だと思っている分質が悪い。
県警も謝罪したと言うが誰に謝罪したのだろう。
このクレーマーは「3丁目の○○さんてやーねー」という誰でもする噂なんてしとことないカシコイ人なのだろう。
ただ、結局あなたは関係ないだけの話だがね。

住みにくい社会になったものだ。ったく。

キリスト教について

以前、センセイと言われる人とお酒を酌み交わしていたときふとキリスト教の話になった。
何年も前のことなので、何故そのような話題になったのかは分からない。

しかし、内容ははっきり覚えている。
そのセンセイは「え?キリスト教は天理教が作ったんじゃないの?」という発言をされた。
私の頭にはクエスチョンマークが点灯した。
よく話を聞くと「キリスト教も天理王命(てんりおうのみこと:天理教の神名)が作った」と思っているらしいのだ。私はそれには同意する。なぜなら天理王命は万物の創世であり、いざなぎといざなみから人間を創造したのだから、人間誕生も含めすべての行い(イエスの誕生さえも)が天理王命の御守護だとするのは宗教の教義としては異論はない。(ちなみに、いざなみといざなぎは天理教オリジナルではなく日本書紀の物語である。勘違いしている人は多い。)

しかし、この後に同意できない言葉が続いた。端折って言うとキリストは天理教より下である。だからキリスト教信者もイスラムも天理教信者である。だからキリストの話をわざわざ親心から聞いてあげているのだそうだ。(ちょうどこの頃天理大学では「キリスト教との対話」だったかな、そんな名前で西欧のキリスト教系の大学と大々的に交流していた)

なんと天理教はエライのだろう。
こういった人としてなめた発言ができる人は天理教以前に人間として私は尊敬できないことを感じないのだろうか。そして、私の感覚は世間に近いと思うのだが。
天理教の常識は世間の非常識と言わざるを得ない。

神は死んだについて

安部首相が辞任したことでメディアは大騒ぎである。
おかげで、朝青龍の問題は聞かれなくなった。いいことである。

朝青龍問題に関して、私は現代社会の縮図であると思う。
批判されるべき人を徹底的に叩く。「もういいだろ」と言わない人はいなくて
次の問題(安部首相辞任)が出てくれるまでモンゴルまで追いかけるという非常に暴力的な現代である。
私は現代メディアには批判的立場である。特にTV。TVは周知のように視聴率至上主義である。スポンサー収入で番組が成り立っている以上、視聴率が取れなくては意味がない。しかし、視聴率至上主義は危険である。危険思想だろうが、刹那的パフォーマンスだろうが、取りあえずマジョリティに受け入れられればOKなのだから。つまり大衆迎合的なことをやればいい。それは、とりあえずタレント議員が乱立している政治や人気があった安部さんを首相にしたように、視聴者にも責任はある。『バカの壁』の養老先生はNHK批判を常々されているが、それはNHKが『中立・公平な放送』というものを掲げているからである。中立・公平な放送というものは全くないのである。例えばイラク戦争でイラクの人達がフセインの像が倒れた後に、その像に群がって足蹴りにしたり叩いたりしていた映像が日本を駆け巡った。しかし、実際その人達は30人程度でその後方では何百人の民衆がその光景を引きながら見ていたそうである。政治的意図なのか、報道の限界か、両方あると思うが、結局花火の上がったところしか私たちは見てないのである。花火の下で若者同士がケンカしてても私たちは知るよしがない。しかし、TVの映像を見て「映っていないところではなにが起こっているのだろう」と一歩下がって見ることは重要である。

そう思うと朝青龍の件は残酷である。批判が民衆の正当性を帯びているから余計である。
確かに朝青龍は悪いことをした。横綱という立場から処分をされるのは当然だと思う。しかし、現状を見ると処分以上である。処分が処分になっていない。メディアの批判は一時置いても、横綱審議委員会や理事長が処分後にネチネチ言うのはよくない。大人げない。
「処分が下ったんだから、もう言う必要はない」となぜ言わないのだろう。もっと言えば「26歳の若者が仮病したくらい若気の至りさ」と寛大な大人はいないのか。てか、横審はいったいどんなエライお方ばかりなのだ?不祥事でNHK会長を辞任した海老沢横審会長、答えて下さい。朝青龍ばかり目の敵にする内館牧子横審委員答えてください。

メディアに戻ると、「朝青龍の解離性障害こそ仮病でないか」「モンゴルではどんな生活をしているのか」などど、ほんとヒマですな。ね、ピンポンの福沢アナウンサー。
重要なのは朝青龍の病気の有無ではない。例え仮病であったとしても、病気を装うほどの状況に追い込まれているというのは事実である。それを、わざわざモンゴルまで撮影隊を派遣してなどと。こういったメディアこそ朝青龍の病気の加害者でしょう。また、それを視聴者が興味を持つ意識も二次被害は確実です。誰もそこには気づいていない。
そして、きっとメディアは加害者になりつつも「自殺者が3万人になりました」「うつ病はどうしてなるのでしょう」と矛盾したことを言うのでしょう。まさに朝青龍に対して向けている意識こそ人を追いつめうつ病を作っていると言っても過言ではないのである。

なぜ、私が朝青龍の話題を出したかと言うと私の知人が同じような体験をしたからである。私の知人は最近仕事を辞めた教会子弟である。仕事を辞めたのは仕事内容が合わなかったからである。その後は、求職活動をしつつも青年として教会の御用に活発に勤めていた。しかし、その家庭(教会)は経済的に恵まれていなくて会長夫妻も仕事をしつつ御用をしているという。そして、親である会長は仕事を辞めた子どもに向かって「あなたは心に欠陥がある。心療内科に行ったらいい。」と言ったそうである。精神医学をかじっている私に言わせれば知人は心療内科に行く理由が見当たらない。

驚天動地である。陽気ぐらしもたすけあいも人を圧迫するものでしかない。相手を直接批判するよりも、それを逃れるために「会長である私は正しい、そんな私が理解できないお前は狂っている」と間接的に言うのは非常に暴力的である。まして、それを発言した会長は医療従事者というのだから何を信じればいいか分からない。
この瞬間、私は天理教はもう過去の遺物になったと思った。
「それじゃ、何にもならない」のである。「お前は精神病だ」という言葉は精神病で苦しんでいる人、なんとか現実に適応しようとしている人を小馬鹿にしている。また、理解できないものとして「精神病だ」と言ってコントロールしようとしているのは自明である。

こんな現代にきて、なぜ「天理教の存在する前提」をラディカルに議論しようとしないのは何故なのか理解できない。天理教はどこを目指しているのだろうか。陽気ぐらしもたすけあいも崩壊しているとしか思えない。このブログのタイトルも天理教の崩壊にしようかな。
天理教を応援したいからと思う私の意見が変わりそうだ。

ハッピについて

ハッピとは天理教人が着ている黒い法被である。
公式HPでも載っていると思う。
真っ黒のハッピで背中に「天理教」と縦書きに書いてあり、表には教会名が書かれているのである。価格は3000円あれば作れると聞いた。天理市街に行けば遭遇率は100%である。
これは元々作業着(布教やひのきしん)として使われていたので昔の写真などを見ていると土木作業(汚れても大丈夫)できていたので私たちのジーパン感覚で使われていたと思う。しかし、時代が進み夏用、冬用とでき、生地も小綺麗になりジーパンからスラックスに昇進した感じがある。今では土木作業では誰も着ない(汚れるから)、そのかわりフォーマルな場でも着られることが多いと思う。例えばお葬式とか。

いや、何が言いたいかと言うと、これはダサイやろ。ということのみである。
デザイン的にも、古くささも天下一品である。何度も言っているが、初めて見た人がドン引きするのには十分である。天理教内では普通のことが一般ではあり得なさすぎることの1つである。

誰か早くあのデザインを進化させてはくれないだろうか。
私はあれを着たら体が痒くなりそうである。着たことないけど。

神名流しについて

私は時々街を歩いていると天理教の人達に遭遇することがある。たまに。
この間は、金曜の19時くらいに大阪難波の駅前で路傍講演をしている天理教人と遭遇した。
10人くらいで、一人が「天理王命」(てんりおうのみこと)と書いた垂れ幕を掲げ、その隣では青年が拡声器で天理教の話をしていた。残りの人は信号待ちの人にビラを配って・・・

関西の人なら分かるものだが、大阪難波というのは繁華街である。ましてや金曜は・・・
しかも、オーロラビジョンやらクラクションやらでもの凄い喧騒である。
一生懸命拡声器で話しているのは分かるが何言ってるか聞こえない・・・
ビラを配るのはいいが、スクランブル交差点では邪魔でしょうがない・・・

このような光景が天理教と社会の解離を端的に表していると思う。
彼ら側には人が多いところで活動したということが適度な疲労感が満足を呼ぶかもしれない。しかし、歩行者側は騒音が一個増え、進路を遮られ、「うぜーなー」と思われていることに想像が及ばないことは理解に苦しむ。彼らは何のためにあんなところで活動しているだろうか・・・ もちろん、数打ちゃ当たるということでビラを貰ってくれる人も、ふと立ち止まって話を聞く人もいるかもしれない。

そもそも、神名流しという行為自体が私は理解できない。いつも誰のためだろうと思う。
個別訪問(天理教人が布教のため、家庭を『天理教ですが話を聞いてください』と押し掛ける)も同じで、これらは世間一般の人は「嫌がる」もしくわ現代人の得意技「雑音として処理する」ことで終わる。まさか、サブリミナルを狙っているわけではないだろう。

神名流しや高校野球などはサブリミナル効果もあるかもしれないが、個別訪問は他者に拒絶される。これはサブリミナル以前の問題である。
現代社会で突然得たいの知れないものに家というパーソナルな敷居をまたがれたら拒否するのが通常である。よく考えて欲しい。しかも天理教人はそこになんの疑問も感じない。むしろ、ことわれ続けても行うことに美徳を見出すほどである。どMでしかない。しかも、彼らは教会に異教徒が来た場合に「そんなもん。いらんいらん!」と追い返す場面も私は見たことある。

もし、これを『たんのう』としてしまうなら、その代償は大きすぎるだろう。だってマジョリティが拒否するよ陽気ぐらしに人が集まるわけがない。

こかん様(教祖の子ども)が浪速に神名流しをしていた時間軸で考えてみよう。
あの時代、神名流しをしていて民衆のマジョリティとして拒否していた人は少ないことは容易に推察できる。民衆は好奇な目で見て、「おや?おもしろいものが出てきたぞ。いっちょ話くらい聞いてやるかー」となったと思う。実際私はそう聞いている。それを現代に当てはめるのは無理がある。その時代の現象をひな形としても、同じことをやってては価値がない。ひな形というのは、温故知新的進化に価値があることではないのか?

私は以前、こういったことを天理教人に言ったことがある。「理解に苦しむ」と。
すると、相手は「それでも引っかかる人にとっては天理教を知ることで助かるんや」と。
つづけて、99人拒否しても1人助かればいいということも言ったが私は到底理解できない。
なぜなら、天理教の教えは苦しんでいる人限定ではないはずだからである。
確かに布教戦略上、そういった視点で布教することは信者獲得のためにアリだと思う。
しかし、そこに集中して「興味ない人は来なくていい」というのは違う。
天理教はだめの教えのはずであるからだ。(だめの教え=ダメな教えではない)
だめの教えなら、みんなに伝える必要があるはずなのだ。
もしそうなら、「感謝・慎み・たすけあい」というスローガンは必要ない。
「救済」します。というメッセージだけで済むことだ。
病んでいる社会を救済し、真の陽気ぐらしを伝えることが天理教人の仕事ではないか。

だから、一人でも助かればいいというのは、残り99人をなんとか減らすために、分かってくれない99人に向かって言わなくてはならない。99人は分かってくれないから、次の100人の内の一人に言ってみようでは一部の均質性の高い人間しか集まらないだろう。
そこで満足するのは、カルトである。
私が言いたいのは分かってくれない人に分かってもらえる努力をしろということである。

そういった社会通念上「当たり前」のことを「じゃ、現代だからこうしよう」ということを皆言わないのはなぜなのだろう。「やっぱこれっておかしーよね」という感覚こそが大切なのだと思うのだが。

追記
韓国ではカトリック系のキリスト教に入信する人が急増しているらしい。その理由は何かと言うと、教会がボランティアをしまくっているかららしい。とりあえず、真面目にコツコツとボランティアを行うことが結果的に布教になり、民衆の信頼を獲得したとTVは解説していた。天理教人がどうしたいかという議論ではなく、どうしたら民衆の信頼を獲得できるかという議論に転換した方が天理教の将来は明るいだろう。

お金について

天理教におけるお金の位置を考えさせられることがある。
また、それはウェブ上で展開される天理教批判と関連がある。

ウェブでの天理教批判で目につくのが金銭問題である。
ウェブ上でのことなので、真偽や信憑性には欠けるものがあるが
それでも火のないところに煙が出ないように、当事者がなんらかの問題を感じての行動であろうことは明白である。その主旨は、お供えを強要されたということが主である。

お供えを強要すること自体が宗教的矛盾を提示しているのだが、先ほども言ったように真偽は不明なので、だからといって天理教を批判はできない。

しかし、私がたまに感じることは天理教の人の金銭感覚と一般感覚との解離である。
内々の話になってしまうが、天理教の教会というのは上級教会への上納金がある。金額が設定されているのかは私は知らないが、毎月のお祭り(月次祭:つきなみさい)で信者から集められた金銭を上級教会の月次祭の際にお供えという形で上納される。だから、上級教会は、下級(部内)教会の月次祭より後に行われる。その上納金の金額が決められているのかは私は知らない。一部なのか、80%なのか、全額なのか・・・スパイではないのでそこまで詳しいことは聞けない。しかし、例えば上級教会にお金が必要な場合(ex普請:教会の立て替え)が生じると部内教会に毎月いくらという金額提示がされる。部内教会はお金集めに躍起になる。お金集めは「お供えは、あなたをたすける(ふしから芽が出る)」という問題にすり替えられ信者に言われる。
その点が一般人には理解できないのであろうと思う。天理教人の説明不足以外のなにものでもない。常々言っているように、理解不明な事象にこそ明確な説明が必要なのである。

ここで本題に入るが、天理教人のお金への執着は素晴らしい。
上納金は当教会への評価へと繋がるし、自己肯定にも繋がる。
ここで、執着という用語を検証してみたい。そもそも、天理教人のお金への執着というのは上記のように評価や自己肯定へ繋がる場合のみでしか発揮されない。
天理教人が行う集金は、なにがなんでも「お金儲け」ということとは異なる。なぜなら、結果的に手元に存在するお金は上納されるべきお金であって教会人個人のため収益とはならないからである。あくまで、金銭獲得という直接利益から生じる評価や自己肯定感という間接利益こそが彼らの欲すべきものである。
  そのためか、彼らは「働く」ということに価値を置かない。働くことは生存戦略上の必須項目であるというのは社会のもつ共通の価値である。しかし、彼らはそれと一線を課す。むしろ、道一条(働かないで天理教一筋)という概念を対峙させることで働くという行為を卑下している視点さえある。そして、働きながら教会人をしている人に対して冷たい視線を送っている。(教会人をしながら働くということは家庭を経営していく上で可能だが、教会人だけでは食べて行けない=信者を獲得できていないというレッテルを張られる)

つまり、私が言いたいことは教会人こそ社会と進んで解離しているということである。
私見だが、教会に引き寄せられる者は社会から押し出された人が多い。そして、教会人は押し出された人とともに「社会は腐っている。社会の人間はお道(天理教の別称)を知らんから助からん」という飛躍した話題で盛り上がる。

社会と天理教との距離を縮める提案をする人を見たことがない。

身上さとしはについて

天理教にある「身上さとし」というのは到底賛成できるものではない。
突然断言して申し訳ないが、間違いではない。

天理教では、有機体である個人の肉体は神様からの貸借物である。
つまり、自分のものではない。自分のものは魂(こころ)だけである。
そのため、死ぬと貸借物は借り主の神様に返却するということになる。
そして、魂は新しい有機体を貸借し生まれ変わるのである。
だから、天理教では死を「出直し」と表現するのである。(出戻りではない)

外界とこころの境界である肉体は、こころの使い方を間違うことで不具合が生じる。
それが病い=身上(天理教的用語)というものである。場合によっては肉体ではなく、
環境クラッシュ=事情として表れる。しかし、これらの身上や事情は神様からのサイン
であり「お前の心の使用方法が誤りだから直せよ」ということである。
私たちが息をし、生活できるのための生体エネルギーは神様の御守護である。
なので、こころの使い方を間違うと体か、周辺環境に不具合が生じるという理屈である。

もちろんこういった理路は宗教ではありえるだろうと思う。特に「バチが当たる」という言葉があるくらいだから日本では浸透しやすい理路である。しかし、「陽気暮らし」を標榜する
天理教の神様は人間が神様の意に添わないと事情・身上を付与するというのは、あまりに醜い神様だろうとも私は常々思う。私は天理教学者ではないので、このことに関して教義解釈は存じ上げない。しかし、中山みきが言ったことと後々人間が作ったのでは意味は大きく異なる。中山みきがそういったなら、天理教という宗教価値はポストモダンな現社会において、求心力はない。もちろん、私もそんな宗教を尊敬する習慣は持てない。人間が言ったなら、天理教の存在意義のためにも改善するべき課題であろう。

同様に「身上さとし」という概念の発生も私はしらない。しかし、身上さとしという概念は存在する。同名の著書も多数存在する。
「身上さとし」とは、例えば体に不具合が生じた場合に、「あなたの○○(体の一部)が病気なのは、心を間違って使っているからだよ」というもの。
私は、実際に「身上さとし」という著書を読んだことがない(手に取る気がしない)ので
実際にはどういう指摘がされるのか分からない。しかし、私は以前センセイと呼ばれる人に
実際に指摘されたことがある。
私は、10代の頃から腰が悪い。原因はスポーツのやりすぎだが。それを述べた際に
「君は腰が悪いのか。腰というのは、人にお辞儀をするために重要な場所だから、君は他者に対して腰を低くしてないから腰が悪くなるのだ。」と言われたことがある。(基本的に私は態度がでかいのは当たっている)
私の知人は喉を痛めて声が掠れた際に「言葉遣いが悪いからだ」と言われたそうである。
なんて「センセイはエライのだろうか」と感服せずにはいられなかった次第である。

「身上さとし」の概念の内容は問わない。しかし、それを人に、そして病人に述べるという感覚が私には理解できない。病気というものは人にとって辛いものだ。辛い人に向かって「心の遣い方が間違っている」なんて言えたものじゃないでしょうか。二次被害の何ものでもない。やはり、そういったものは人の口を介して、人に言うべきものではない。言われた人は絶句してしまうだろう。なぜ、センセイたちはこの辺を理解できないのか私には理解できない。そういったものは「私の心の遣い方が間違っているのかもしれない」と患者(信者)が内省するものであり、センセイは内省を施しても一々教示するものではない。

話は変わるが、天理教管轄の病院である「憩の家」には事情部というものがある。
そこでは、入院患者の希望者に対してセンセイ(講師)たちが天理教的教えを説くというものがあり、広報的には「この病院では入院患者の心さえもカバーしている」と声高に主張している。しかし、そこでも「身上さとし」が横行しているようだ。センセイたちは、ナースステーションに出向いて患者の病名を聞き、その患者の病気に付随する「身上さとし」を病因論で述べるらしい。人間性で寛大な心で患者に安心感を与えて欲しいものだが、偉そうにするセンセイたちは病人に対して「こうしろ、ああしろ」ということに何の疑問も生じなかったのだろう。

しかし、ここ2、3年でセンセイがナースに病名を聞くことが禁止になったらしい。患者の苦情か、ナースの意見か、それとも事情部内部の意識向上なのか、私はこれを聞いた刹那「おぉ、分かるやついるじゃん」と拍手喝采したことは今も覚えている。「私たちのやっていることは二次被害である」と事情部内部での意識向上であったことを期待したいものである。

アカウンタアビリティについて

久しぶりです。なんでこんなに忙しいのかすら頭がまわりません。

ここんとこメディアでちょいちょい目にするのが光市の母子殺害事件について。
私は法曹の人間ではないので、詳細は知りませんし内容についてコメントはできない。
しかし、被告弁護団の論調は到底理解できるものではない。一国民として(裁判員制度も始まるしね)なんとか弁護団の意見を理解しようとするんだけど、彼らは丁寧に説明するどころか「どうせ国民(メディア)は聞いてくれない」という論調で説明すらしようとしない姿勢は問題だと思う。

  そういったことがなんとなく頭をグルグルまわっている時に、橋本弁護士のHPに当たった。橋本弁護士は光市母子殺害事件は担当弁護士ではないみたいだけど、メディアで発言するうちにアンチ被告弁護団の代表みたいになっているらしい。
橋本弁護士の主張は弁護内容の是非ではなく、アカウンタアビリティをせよという一点である。もちろん橋本弁護士なので、HP上の言質は放送禁止用語満載である。この点に関しては私は橋本弁護士と意見を共にする。専門家である以上、素人へのアカウンタアビリティは必須である。しかも、裁判員制度を控え、これからより理解してもらおうとする今ではあたりまえであろう。内容の是非は置いといて、一度橋本弁護士のブログを一読して頂きたい。

 なぜ、今回この件を取りあげたのかと言うと、橋本弁護士のブログを読んでいて、私は私が批判する一部?の天理教人と同様の理路であると思うからだ。前述しているところもあるが、私が批判するカイチョウさんやセンセイたちはアカウンタアビリティをしていない。
「彼らは専門家ではない」「裁判と宗教は次元が違う」などと言われそうだが、私は天理教人の方がこういった責任を強く負っていると断言してもいい。専門家でないとしてしまうことは、つまり天理教の特異性、存在意義が見えなくなってしまう。次元が異なるのは宗教の方がより次元が深いところにあるはずだ。だから、その責任は大きい。信条や生き方などの曖昧なものだからこそ説明できるとこは明確に説明する必要があるのではないか。曖昧なものを曖昧なままにしておくのは非常に危険である。なぜなら、それは誰も理解できないからである。この世界は理解できない曖昧模糊とした複雑な問題が多々ある。アポリアというのは答えが複数あるか答えがない問題なのである。しかし、重要なのは答えがなくても答えが複数あっても答えを出そうとする真摯な姿勢ではないのかと思う。「誰も聞いてくれないよ」とか「こんなことも分かってねーのか」と言ってしまうと他者が理解しようとしてしまっても両者の距離は離れるばかりである。
 私は天理教に関して分からないことが多い。その代表が宗教的言語概念である。私に対して「いんねんとはね・・・」と私の批判も込みで明確に説明してくれた人はいない。私が批判すると「君は素直じゃない」と言われるのがオチである。しかし、そういったものが経験を積み、たんのんできたとしても使ってはいけない場面で使われることに私は同意しない。t例えば夫婦関係で離婚しようか悩んでいる人に対して「それは、あなたのいんねん」と言うカイチョウさん(実際にいる)は尊敬に値しない。文脈やシチュエーションが異なろうが、それは「言ってはいけない」言葉になってしまうのである。いくら、状況説明であっても当事者に対して言うのは対人援助ではない。誰か彼らの暴走を止める人はいないものか。

オルテガとの再会

私の興味、関心は状況依存的である。
高校野球を見れば、なぜ日本社会が高校野球を神聖化するのかを考え、
バスに乗っておばさまの愚行を目にすれば、おばさまの心性を考える。

そして、どれもが私の一貫した研究テーマに沿って結論がなされる。

そして、必ず不思議に思うことがある。それは、関心があるテーマについて関連する
事象が私の身の回りで起こることが多いのだ。例えば、おばさまの心性を考えていたとき
同僚が私にプリモプエルの話をしてきた。私はもちろんプリモプエルなんて知らない。ふんふんと話を聞いて分かったことは、プリモプエルとはぬいぐるみである。しかも、話しかけると「こんにちわ」などと答えてくれるらしい。おもちゃ会社は淋しい20代の女性対象に考案したのだが、実際のメイン購買層は50代の女性らしい。それがもの凄い数で売れているらしい。その人形のために入学式とか開催されているとか、恐るべし。
結論はおばさま達は淋しいのだということ。

前置きが長くなったが、関心あることが次々と起こるのだ。
これはシンクロニシティ以外のなにものでもないと思う。

私が現在関心があることは人の平等について、である。
何をもって平等とするのか、平等のはずなのに社会的秩序を保つためのヒエラルキーとは・・・などといった思春期の中学生でも考えるようなことを人に言われ考えている。
何かものごとを考える際に私は一応アカデミックな人間として過去の知識人の思考をレビューしていることにしている。今回はニーチェを参考にした。
ふむふむ、なるほど「神は死んだ」のか。それが人間社会なのか。とね。
定期的にニーチェを読んでいても、読む人間の興味が変化していれば付箋を付けて鉛筆線を引く場所は必然的に異なる。なので、毎回私は異なることを同じ本から学ぶことが多いと経験的に知っている。これは大切だと思う。

そして、長い前置きのあとだが、今回は『偶然』にオルテガと再会した。
もちろんオルテガは、重要な人物である。かなり読み込んだこともある。しかし、過去の出会いはスルーされ、私の頭にストックされているオルテガの知識は忘却の彼方へと埋没しかかっていた。学生に「オルテガって何した人ですか?」と問われても
「オルテガね。えーと、哲学者で・・・「大衆の反逆」を書いた・・・」
と専門性のダークサイドを露呈することになる。

そして、2007年オルテガと再会したというのは、全然関係のない人の著書を読んでいる際にたまたまオルテガが引用されていただけ。そう、ほんとたまたま。
そして、見る見るうちに埋没したはずの知識が浮上してきて、オルテガとの再会を無為なものにしてはならないと私の頭が危機感を発信してくれた。
そして、オルテガこそが、人の平等について明確な説明を提示してくれた。

長くなったので、オルテガ先生から得たことは次回。