私がブログを通して言っているのは天理教への批判である。
しかし、批判を行う動機には「キライ」という感情は作動しない。
キライだから批判を行うのは、批判する動機の過半数を占めるものだが、
私は天理教に対して「頑張って欲しい」から批判を行っていることを理解して頂きたい。
「キライ」だから批判を行うなら感情的に、一義的に、一方的にやればいい。
しかし、腐敗した天理教を再建するためには「頑張ってほしい」から批判する中身は
現状を暴露し、分析し、どこを改善したらいいかを論理的に明確にする必要があると思う。
だから、「ここ、もうちょっとちゃんと詰めた方がいんじゃね?」という指摘には素直に応じたい。
しかし、問題を具体的に明確にしているのに「お前は何も分かってねー」と言われても私は困る。
なぜなら次に続く私の言葉は「では、どこがどのように分かってないのでしょうか?」と
聞くしかない。嫌味に言うのではなく、低い姿勢のつもりだが。しかし、私を批判する人は
「ゴタゴタ言ってんじゃねー とりあえずお前は間違ってんるんや!」と言われることが多い。
いや、大半である。私がすべて正しいと思ったことはない。間違っているならば、ちゃんと
相手の意見を聞こうとも思う。しかし、対話しようとしても相手が対話を拒否するならば
私は相手の意見を聞くほどヒマではない。
私が天理教を応援するために批判をするには、批判こそ進化であるからだ。
レヴィー・ストロースがサルトルを論破したように、カルナップがハイデガーを批判したように時代のコペルニクス的転換は批判からでしか生まれない。
現状の天理教を批判をすることで、今後の天理教を再構築していく試みである。
会長の品位は低下し、センセイの理解できないわがままと、たまにしか人前に出てこないくせに出てきた瞬間「あーだこーだ」と述べるリーダーたち。とりあえず信者増加のために
話を聞くだけで用木という別席のありかた。布教は社会から押しだされた人をターゲットとする短絡な在り方。など、一度全部壊さないといけないのではないかと思う。
私の友人で天理大学天理教学専攻であった人がいた。彼は大学3回生の時に卒論の
テーマを天理教批判を主とする論文としようとしていた。しかし、教授にプレゼンすると
「うちの大学で天理教批判をしてどうするのだ?」と言われたらしい。
非常に頭のキレる友人だったので、「ですよね?」と返答しテーマ変更したらしい。
宗教的アカデミックとはこんなものなのかもしれないが、これはアカデミックではない。
この教授がどんなにエライのか知らないが同じ大学生であった私でも「器が小さいんだな~」と思えたほどである。