前回はひのきしん編として、天理教構造の一端を取り上げた。今回は、より深度を高めて考察したい。ひのきしんの意識の方向性に対して、どうしても神に向かってしまうのは、身体は神からの「かしもの•かりもの」という教えに由来すると推論できる。そして、その神に向かう行動は、必然的に自己満足な内面的限界と対峙しなければならない。特にひのきしんの行動的選択に関しては、人間の裁量以外にはありえない。「神のため」「人のため」とは言うものの、「じゃあ一生、その行為をやりつづけなよ」ということはできない。ここまで言ってしまうと私は非常に嫌味な奴だが、ラディカルに考えれば「神のため」「人のため」と全能知で人間的思考をマスキングする偽善に対しての論理的破綻を無視はできない。ひのきしんの行為選択、開始•終了選択は、どれだけ神の教えを組み入れようとも人間の行動でしかない。かしもの•かりものの教義的解釈は色々とあるのかもしれないが、とりあえず天理教ホームページの解釈を是として議論を前進させる。天理教ホームページでの「かしもの・かりもの」の解釈を引用すると
だれもが自分のものであると思って使っている身体を、親神様からの「かりもの」と教えられます。
そして、心だけが自分のものであり、その心通りに身の内をはじめとする身の周りの一切をご守護くださるのです。
これを、「人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る」(おさしづ明治22年2月14日)と仰せになっています。
従って、借りものである身体は、貸主である親神様の思召に適う使い方をすることが肝心です。
この真実を知らずに、銘々に勝手気ままな使い方をすることから、十全なるご守護を頂く理を曇らせ、ついには身の不自由を味わうことにもなってきます。
天理教人の行動は、真実という目的的な行動でなくてはならないということである。しかし真実というものの定義が非常に曖昧模糊としている。引用での真実の説明は「神様の思し召しに適う使い方」となる。この点について議論をしてしまうと結論が出ないアポリアになるので保留にする。真実の定義については、仏教的な雰囲気があるが今回は問題としない。
この「かしもの•かりもの」という教えは、宗教学として非常に特徴的であり、天理教の根幹であり、天理教の衰退の一因でもあると私は感じている。その意味をこれから説明したい。
宗教学として非常に特徴的と言ったのは、ユダヤ、キリストやイスラム、また宗教の原初において、我々(の肉体)は神からの被創造物であり神から贈与されたものであるというのが一般的教説である。これらの宗教のあらゆる行為において神の存在を突き詰めて行くと、それは「神は人間に贈与をおこなうもの。ゆえに我々が存在している」ということになる。それは天理教人の「神様に生かされている」という言葉と符合すると考えていいだろう。レヴィーストロースが人間関係の原初において贈与論を展開したことからも人類存続の重要な装置である。贈与というのは宗教(人間)というスイッチがオンにされた時点から開始する。つまり我々は神から贈与されたために、それを次の者にバトンタッチすることが最大の使命となる。信仰を伝えるために後世に言葉を伝え、人類を存続させるために異なる民族と女性を交換する。この贈与論は、人間関係と信仰の始まりとなる。しかし天理教では、この文化人類学的洞見や西欧教義に対して意義を申し立てる。かしもの•かりものというのは、こういった古典的宗教の贈与論に対して、天理教は貸与論であると私は解釈する。そして、この貸与論こそが、天理教の衰退に関与していると考えることができる。
宗教的な贈与論は、神から与えられたものを次は人間に伝えることを主に指す。レヴィーストロースが言った等価交換や反対給付という概念は、人間同士の交換という行為を前提としている。農耕民族の物々交換からはじまり、民族間、人間同士の交流が生まれ民族が拡大する。与えられた者は別の者に与えなければいけないという義務感を背負う反対給付によって世代間伝達が促進され人類は存続する。経済でさえもお金の交換であり、人類の原初形態に則している。西欧から入ってきた資本主義の原初形態は贈与という行為であり、その資本主義を形成した土壌はキリスト文化である。以前、私はブログにて「天理教人が天理教の発展を望むのであれば、天理教以外の異性と結婚するような教外婚を推奨するべき」と提案した。それは「天理教の(教会の)息子は、天理教を信仰している(教会の)女性と結婚すべきである」(天理教の娘は天理教の息子のところに嫁ぐべき)という暗黙の了解が存在し、実際に天理教内のファミリー婚の多さに驚愕したからである。この教外婚という概念は文化人類学的な知見からヒントを得たことであるが、天理教の婚姻形態をレヴィーストロースが見れば、天理教は民族的に淘汰され減少していくだろうと言うことは想像に難くない。それほど天理教内ファミリー内での結婚は多いと感じる。むしろ天理教を全く知らなかった女性が、天理教の教会に嫁ぐというケースは、私の皮膚感覚では少数派だと思う。天理教人の知り合いが複数いる人であれば「あの人とあの人は親戚」という多さには驚きを禁じ得えず、こんな時代が、まだ日本にあったのかと異様な恐怖を私は覚えた。あくまで文化人類学的に見ると、同じファミリーでの交換は血が拡大しない。血が拡大しないということは、自然に緩やかに民族は減って行く。他民族との交換は、そのまま遺伝のリスクヘッジになり、拡大し世代間で継続する。
閑話休題。一方、贈与論に比べ天理教の貸与論では、必然的に神との二者関係が求められる傾向が生じる。贈与論では、神から与えられたものを他者に伝えることが目的になる。しかし、天理教の場合は神から借りた肉体を神に返礼することが目的となる。だって借りてるんだから返さないといけない。天理教の貸与論は、個人的には非常に好感を持っており、また日本文化では貸与論の方が馴染みやすい傾向があることも感じる。しかし神から与えられた身体は、最終的に神に返却しなくてはならない。ここが本論のポイントであり天理教の特異点である。この教えは、陽気ぐらしで「人のため」という実践よりも、より根底に流布するものである。天理教本部の解釈は知らないが、「陽気ぐらし」よりも「かしもの•かりもの」が学術的に本質的である理由は、陽気暮らしは行為レベルで、かしもの•かりものは存在レベルだ