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神殿講話に意味はないについて

神殿講話とは、教会の神殿にてセンセイのお話を聞くものである。
主に、月々のお祭り(月次祭:ツキナミサイ)の終了後に行われる。
主に役員センセイや、カイチョウさんや、その上のセンセイや、
とりあえず偉いセンセイが信者に対して教育的演説を行う。

講話であるので、教育的色彩が強い。
つまり、指示的であるのだ。

しかし、私がこの神殿講話でいつも感じるのは
神殿講話が終了する頃の人々の顔は疲れきっているということである。
確かに、お祭りの場合2時間程度の「おつとめ」の後でのお話であるから
身体的に疲弊しているというのは当たり前なのであろう。
しかも、講話中、聴衆はその話を聞いているのさえも不明である。
大半の聴衆が起きているのか、寝ているか、聞いているのか、
どれにも判断がつかない微妙な姿勢であることが多い。
(聴衆の人々の不可解な姿勢を見ると笑いが込み上げてくるのは私だけだろうか)
2時間の後の30分程度(長い人では1時間以上とも)の難しい話は苦痛でしかない。

それでは、講話のもつ教育的意義は全くないのであろうか。

クールなビジネスマンがいたら、
「疲弊した状態で長時間話を聞いても何も頭に入らない。
記憶に残したいなら3分以内で要点を絞って話すんだな。ふん。」
といいそうである。

確かに、話す人の話力も検討しなくてはならない。
「この人は一体何を言いたいのであろう?」と論理的にバラバラな話を
いうセンセイは非常に多い。
一方で、ただひたすらに話に聞き入ってしまうほどのセンセイは少ない。
(うまい人は本当にうまい。)

しかし、そういった話者の力不足を考慮しても私は長い話を無駄だとは思わない。
確かに、「聴衆の記憶に残る話」を目標にしてしまうと前述したビジネスマン
のような合理的結果を導いてしまう。
しかし、神殿講話は例え無駄な話であろうとその話を聞いてる(フリ)
ことは非常に大切な宗教的行為だと私は思う。

別席という行為が、同じ話を複数回聞くことも同様の意味だと思う。
(注:教義上、なぜ9回聞かなくてはならないかは私は知らない)
つまり、複数回同じ話を聞くという行為に意味はあるのだ。
それは、話の内容よりもその場所で、話を聞いたという身体運動が最も重要なのだ。
もし、話の内容が最も重要であるなら9回も聞く必要はないし、理解した時点で終了のはずだ。
大切なのは、話の内容を理解しようがしまいが、そこにいて話を聞いたという事実なのである。

話は変わるが、天理教の人はなぜか「涵養」(カンヨウ)という言葉をよく使う。
ある日、私が「『涵養』ってどういう意味ですか?」と問うと、
「『重要』という意味だ」と言われたセンセイがいたが間違いである。
『重要』という意味のカンヨウは『肝要』という字である。

何が言いたいかと言うと、涵養というのはシャツにこぼした醤油が広がるように
じわじわと浸透するという意味である。
そして、教えというものも涵養であるのだと私は思う。
それは即時的な理解ではなく、超長期的な納得であるのだ。

前述したビジネスマンは、なんとか話を理解したいのであるが、
神殿講話は教えを納得する場所であるのだ。
そう考えると、どれだけつまらない神殿講話でも無駄ではない。
同じようなことを、ダラダラと話すことによって聴衆にはその教えが骨肉化されていくのが教えだと私は思う。

また、その意味においても私たちの理解の及ばないところに何かしらの神の真意
というものがあるのかもしれない。私たちが宗教の効果を計れないことが宗教の持つ逆説であるのだ。そういう意味では教育も同じである。

誰も「これに何の意味があるのか」なんて分からない。
意味があると判明するのは、だいぶ後になってその人が死ぬときや、後継に聞くことでしか確認できない。(自分が死んだ後に後継に聞くことは不可能である)

私たちにできることは、「意味がなくても、とりあえずやっとく」ことでしかない。
意識は寝ていても体に神殿講話という無意味なシャワーを浴びることは個人の信仰という意味において重要なのである。
信仰は難しいがシンプルなのである。

だからといって、私はつまらない話を迎合しているわけではない。
センセイたちには、なるべく興味をひく努力を見せて欲しいものだ。

天理教の疑問 その1

記事の更新が滞ってしまっている。
気づいたらもう師走である。

早いものです。

前回、「おさづけは効かない」という挑戦的な記事を載せたおかげで
閲覧者は多くなった。でも反応が全くない。うぅ・・・
さっき、自分でも読み返したのだが読み返してみて思ったのは
「この記事を書いた人間は天理教支持者か?それとも反対勢力なのか?」
というあまりに矛盾した問いである。
確かに、敵か味方か不明な人物に声をかけないのは生存戦略上賢明である。
以前から明言しているように、私は天理教応援者であります。支持者とは異。
私は長い間アカデミックな分野にいますので、批判なくして成熟無しが、ポリシーなのであります。(初めて言ったけど)
今後社会において天理教の発展を遂げるなら、宗教という明らかにすべきでない部分でも、明らかにできるとこはクリアにした方がいいんじゃないの?というモチベーションであります。よろしくお願いします。

続きまして、今回は
やはり師走は忙しくてじっくり記事を書く時間がないので
きになるトピックをサクサクをアップします。

私が天理教と出会って、未解決の疑問がいくつかあるので、
それを小出しにしてブログの更新に換えたいという卑怯技であります。

もちろん、私が抱く疑問は真剣な問いであり、
且つ、誰も真剣に答えてくれなかったので、答えて頂ける方は私見でも
よろしいので教えて頂きたい。批判はしません。再質問はするかもしれませんが。

では

質問その1

おつとめを挟む場合の前後の拝は何をしたらいいの?

です。

説明しますと、おつとめをしない場合の参拝の方法は天理教では基本的に

4拍手、1拝、4拍手

です。1拝の時は長めに拝をし神様に感謝や祈りを捧げるのは自明です。

しかし、おつとめがある場合に

4拍手、1拝、おつとめ、1拝、4拍手

となりますよね。
この場合の拝は前後で違いがあるのでしょうか?
また、礼ではなく拝なので長いですよね。(長い人では5分以上も・・・)

おつとめ前の拝とおつとめ後の拝では、何かしら教えの違いでもあるのかと。
それとも、単におつとめ前の祈りの続きなのかと。
そうしたら、おつとめ前の拝では中途半端になるのでは?
もしくわ、おつとめ前と同じことをお祈りしているのかと。
色々考えております。

天理教を深く知らない私だけが知らないのかと危惧しております。

どなたか親切な方がおられたら答えて頂きたいです。切実です。

よろしく御願いします。

おさづけは効かない

前回の記事は長くて読みにくいという意見を頂いたので
要約します。

タイトルの通り、結論としてはおさづけは効かないのであります。
いや、効いてはダメなのであります。

おさづけは周知のように「既に病人」の方を前提としています。
つまり、一般的なおさづけは、おさづけによって病気が治癒、
もしくわ寛解することを目的としています。

しかし、私たち人間が望む効果は歪んでいませんか?

なぜなら、病気も含め、生まれてから死ぬまでが神様の御守護であるからです。

つまり、被おさづけ人が病気になるのも、治癒するのも、死ぬのも神様の
ありがたい御守護なのです。

なので、我々人間のおさづけによって病気が寛解、治癒することは教義上許してはならないのです。

おさづけの結果として病気が治癒しても、それはおさづけの効果ではなく
神様の意図と人間の願望が「たまたま」合致した結果なのです。
なので、「おさづけが効いた」「あの先生のおさづけは必ず効く」という
言説は、人間思案に溺れているとしか考えられません。

では、なぜ意味もないおさづけたる行為が存在するのか。

おさづけが病人のためではないとしたら,残るは自分しかいません。

「他者のため」に誠心誠意、神に祈るというのは陽気暮らしの金科玉条であります。
自分ではなく、「他者」のために祈るという姿勢は他の宗教に例外なく美しいのではないでしょうか。
そして、その姿が自明のものとされているからこそ、「人を助けて我が身助かる」という陽気ぐらしの本質があるのではないのかと思います。

初めて天理教本部の神殿に行った人(特に他宗教の外人)は例外なく
天理教の他者性に驚倒するという話を信頼する人から聞いたことがあります。
なぜなら、宗教とは自分(家族や同じ神を信仰する同志)を中心に
考えることが「当たり前」なのであります。

○○の神を信じる者だけ、契約を結んだ者だけが、極楽浄土や天国に行けると他宗教では聞かれますが、
そういった小さいことにこだわらず、他宗教をも同じ人間(兄弟)として内包する教義を持つ天理教を「すげーなー」と思うのは私だけなのでしょうか? 
天理教人でこの点について共感してくれる人はほんと少ない。
(ある役員夫人は、「キリスト教は天理教が作ったんじゃないの~」という迷言を私は聞いたことがあります)

あと、難しい点に天理教の他者性は目的的であり手段ではないということです。
あくまで無意識的な他者のためにという目的が、意識的な手段になってしまうと、
おさづけは誰のためでもなくなって崩壊してしまうという点です。
つまり、「他者が助かるために」他者におさづけを行う→「自分が助かるために」他者におさづけを行うとなると、その意味は大きく異なります。

「他者が助かるため」から「自分が助かるため」という風にズレていることについて私が耳にした例を挙げますと
「徳を積むために云々」「いんねんを断ち切るために云々」と言う理由が使われます。
こういった動機で、ひのきしんやおたすけ、においがけ、伏せ込みを行ってもなんの意味もないでしょう。
天理教で用いられる「素直」という言葉は他者に対して「素直」なのではなく、
神(教え)に対して「素直」であるべきという意味でしかありません。
つまり、自己の羞恥や闇の部分(いんねん)を暴露することでも、
打算的に自分への見返りを思案することでもなく、
陽気ぐらしを信じて素直に神の教えを信じ、「こんな私でもできることはやらさせてもらいます」というあまりに謙遜(慎み)な姿勢であり、シンプルな結論なのです。

今まで一心不乱にお助けをしてきたのに、この記事によって
お助けの他者性を意識化してしまった人には申し訳ない。
どうであれ、ただ、「この人のためだけに」という思いこそ神様は見ていると信じるしかないのです。

あぁ、要約なのにまた長くなりました。すみません。

おさづけとその意味性について

天理教には「おさづけ」という行為がある。
「おさづけ」は、病気の人に行う宗教的行為である。
行為自体としては、「おつとめ」の手振りと類似しており、
その一連の流れの中で病気の患部に対して手をかざしが行われる。
時間にして、5~10分程度だろうか。

「おさづけ」を行う(取り次ぐ)資格は別席を運んだ(完遂した)者である。
別席とは本部施設内で約90分天理教のお話を聞くことである。
それを9回行ったものは9回目に本部神殿にて、おさづけのお許しを頂くのだ。
「おたすけ」を掲げる天理教の活動主体はこの「おさづけ」と言っても過言ではない。
身上者(病人)がいれば、「おさづけ」を行い、病気の治癒を願うものである。

説明が長くなったが、今回はこのおさづけをテーマに掲げる。
通常は社会学的視点から天理教を考察を試みているため、
天理教学者でもない私が天理教的テーマを真正面に掲げるのは腰がひける。

しかし、私の頭の中は何かをきっかけとしてテーマが浮上すると、そのことで一杯になる。
増やせるものなら、脳内メモリを増やしたいものだが申し訳ない。

今回、私の頭に浮上してきた「おさづけ」のきっかけは
「おさづけを取り次ぐ(行う)と取り次いだ手が温かくなる」と不思議そうに
語っていたA氏のレトリックである。私はこのような言説を何度か耳にしたことがある。みなさんはないだろうか?

しかし、この現象は科学ですでに説明可能である。
私の学部時代のゼミの教授は自律訓練法(Autogenic Training)の専門家でもあった。
自律訓練法とは、リラックス法である。身体を弛緩し、重感・温感を中心に
意識を身体に集中させる方法なのである。
学生の時に、その根拠となる生理学的実験を行ったことがある。
それは生体情報を記号化してフィードバックするという方法である。(Ex脳波、心拍、皮膚電器…)
例えば意識を指先に持っていくと指先の温度は有意に上昇するのである。
簡単な話、右手の指に対して「右手は温かい」と意識を集中させる(念じる)と
2℃くらいは簡単に上昇するのである。5℃のやつもいた。
それは別に画期的な実験ではなく、基礎心理学の分野では合意形成されている。
つまり、おさづけで「手が温かくなる」というのは自明のことなのである。

私が、おさづけに対して言いたいことは
上記のようなおさづけの周辺事案はおさづけの本質を低下させる恐れがあるということである。

もう一つ、おもしろい話がある。

どこかで立ち読みしただけなので、はっきり覚えていないのだが、
手かざし療法なるものが科学的に確立させている海外の研究者がいる。
手かざし療法とは、その名の通り、患者に手をかざして治癒させるものである。
もちろん、この研究者は手かざしの効果を科学的に証明している。
かなり本格的に取り組み、活動を拡大しようとしていた矢先のことである。
これに単純な疑問を持った人が、効果はないという証明をした。
というものである。そして、その反対の証明をしたのは9歳の少女である。

この出典は確かイグノーベル賞の本だったかな。
9歳の少女が疑問に思い証明したことは、専門家バイアスを単純に浮き彫りにしたのである。

そういった意味では、おさづけも手かざし療法である。

私は、これらの事実から「おさづけ」の意義を失わせたいのではない。
むしろ逆である。

「おさづけ」の効果や科学性というような点に着目していては天理教の意義はない。

「おさづけ」の本質は効果ではない。自己満足でもない。
おさづけの本質は私見では「教祖の代理」だと私は思う。
「なーんだ、そんなん誰でも知ってんじゃん」と言われそうだが、
純粋に教祖の代理を本質と置いているのかは懐疑的である。

少なくとも、おさづけという行為に評価や検証をすることはしてはいけないことなのだ。
「なぜ、してはいけない」のかという問いは、同時に「教えに対して私は懐疑的である」
という意味を孕んでいるからだ。

「おさづけ」の主体者は、取り次ぎ人ではなく神である。
神の真意を、人間が検証し操作することを認めてしまっては、その時点で神の意味は失せてしまう。
神の真意は、我々人間の内省をもって仮説としてしか扱えない。
また、その仮説は事実を検証できるものでもない。
人間にできることは、「おさづけ」の結果をも神の守護であると疑いを持たないことだ。
「おさづけ」の結果、病人が死のうとも、治癒しようとも、その結果こそ立派な守護である。
あまりに自明の基本的な守護である。
その意味において「おさづけ」の結果は治癒や回復ではないのだ。

神を主体と考えた時に「おさづけ」の効果に人間的意味はない。
人間がいくら望もうとも、死のうが治癒しようが結果という守護は神の裁量である。死ぬという結果も神の守護である。

それでも、「おさづけ」たる行為が存在しえるのは
「教祖の代理」としての人間の振る舞い方なのではないかと思う。
「おさづけ」の結果に意味がないのであれば、行為自体に意味があるしかない。
その行為とは、あまりに根源的な「他者への祈り」であると思う。

手かざし療法が、なぜ効くのか。
それは、誰かが誰かのために祈るという気持ちでしかない。
その結果、プラシーボであると言われても、それはそれでいい。
ただ、プラシーボで全てを説明できるとは思わない。

「おさづけ」の結果は神の意志であとうとも、その行為者は人間であるというアンビバレントの意味は大きい。
結果は神がもたらすという意味で、人間は無力である。
しかし、その中でも懸命に他者のために祈るという行為こそ「陽気ぐらし」の本質である。

「あの先生のおさづけは必ず効く」や「効かないおさづけなんてない」という言説を何度か耳にするが
こういう議論はとてつもなく無駄なのである。
前者はおさづけを行う人間を差別化し、後者はおさづけを行う人間を平等化している。
しかし、両者とも効くー効かないという人間的意味において解釈しているにすぎない。
私たち人間にできることは、ただひたすらに他者のために神に祈る。
ただ、それだけだ。

そして、他者のために祈る姿こそ人間臭く、一番美しい姿だと思う。

ITについて

お久しぶりです。

愛用のmacbookが突然シャットダウンするという事態に見舞われたため
修理に出したところ1週間かかるということでした。そして今もまだ修理中なのです。
ちなみに修理には4万5千円かかると言われ、欲しかったレオパードもエイトックもおあずけとなりました。無念。

私は仕事柄ずっとノーパソを持ち歩いています。

なので、そのノーパソが故障すると非常に仕事が滞ります。
データはすべてサーバーに置いてあるためPCがあるところであればどこでも仕事できます。
しかし、PCのあるところは結構少ないのです。(あっても勝手に使えない。)

もちろん、家には他にPCがあるのですが、私一人だけのものではないので
メールやサーバーアクセスや、このブログも常にIDとパスワードでログインしなくてはならないという非常に手間な作業が必要なため、メールの返信意欲もブログアップも滞った次第であります。すみません。

ということで、私の頭は常に「PCがあったらなぁ」と思っているので
今回はITと天理教について考えたいと思います。

ITといったら大風呂敷ですが、簡単にPCやネットについて考えたいと思います。

単純に天理教がITにどれくらい力を入れているのか考えてみましょう。

天理教は公式HPを持ってちょうど10年になるらしいです。
(HPの下にsince1997と書いてありました)
携帯対応やライブカメラなんかもついており、一見充実しております。
(ライブカメラだけど動画ではなく1hごとの静止画。ライブ…??)

天理教の公式HPにケチをつけるつもりはございません。

しかし、通常の組織のHPにあっても当然のものが天理教公式HPにないものがあると思いませんか?
それは、内部情報とコンタクトです。
つまり、組織の(簡単な)体系と「意見があれば連絡してね」という窓口である。

もちろん、教団は会社ではないのでHPの目的を一方的な情報告示としても問題ないです。

しかし、企業や社会組織がそういったことを敢えてコンテンツを用意している理由は単純ですね。
それは、閲覧者の信頼を得るためです。
閲覧者の信頼を得るため、「我々はこういった組織ですよ」とか「何か分からないことがあったらメールくださいね」といったコンテンツを用意するのだ。

そして大切なのは、HPを公開するという意味は「世界中の誰でも見ていいよ」という意味である。
もうすでに信者である人たちに対しては天理時報や他の出版物や伝聞で教団の情報は伝えられている。現在のHPの少ないコンテンツでは信者用として不可能である。
もし、信者向けを主としているならコンテンツを充実させて天理時報に劣らない様々な情報を掲載しなくてはならない。教義の概略なんて、信者には不要であろう。

つまり、天理教のHPはほぼ”天理教信者以外を対象”としていることが分かる。

“天理教信者以外を対象”としているならば、コンテンツの少なさや教義の骨子は納得できる。
そして、同時に、余計に、内部情報とコンタクト窓口のなさが問題になる。

なぜなら、”天理教信者以外の人間”が欲望するものは表面的な教えではなく、その組織が信頼を得るに相応しいかどうかという教団の足下である。

例えば、どれだけ素晴らしいことを掲げている企業でも資本金が少なくて、監査も置かず社長のワンマンとなれば、契約に値しないと思うビジネスマンは多いだろう。
さらに実態の掴みにくい社会活動家や公共団体は、余計に出資報告や体系という足下をしっかりしておかなくては誰も興味を示してくれないだろう。

HPという容易な広報手段は、その使い方を間違えると真逆の効果をもたらすことがある。

天理教HPから教団は、足下を見るような醜い人間を毛嫌いしているようにも感じる。
それだけ、HPと閲覧者との距離を感じる。

教義云々よりも、まずは「これってどういう組織?」とか「お金の動きは?」といったコンテンツをまずクリックするのは私だけなのであろうか。

天理教はあまりに人間臭い人間はお嫌いなのだろうか。
天理教が理想とする人間像とは、一体どういった人間なのだろうか。
素直に「はいはい」と言うことを聞く人間だけなのだろうか。

今後、天理教HPに内部情報コンテンツと教団メールアドレスが現れたら
私は安堵のため息をつくであろう。

ITというテーマのくせに、天理教HPの話だけでしたね。こりゃ失敬。

なぜ誰も口を割らないのかについて

前回、天理教トップの後継者問題について「なぜ誰も言わない」と記載しましたが、
それについて「信者個人単位では皆言っているよ」とか「言えない理由があるんだよ」
というご指摘を頂きましたので、それを紹介します。

信者単位では皆言っているという点につきましては、やはり皆さん「気になる」事項
であると判断してもよろしいかと思っております。

それに関して弁明しなくてはならないことは、私が申していることは主観的感想にすぎないということであります。本件に関しましても、「誰も言わない」と私が申したのは狭い中での私の周辺問題でありまして、私が懇意にさせて頂いております組織(系統)以外の事は正直何も知り得ないというのが事実であります。だから、私の主観は狭く、それが全てだとはもちろん思っておりません。しかしながら、毎度申し上げているように狭くとも主観で感じたことを大切にしていきたいと思っております。

そして、読者の方から頂いた意見には誤解を除き、反論などはせず、読者の方が判断して頂きたいと思います。宗教とうテーマ上、反論をしても結論が出ないのは明白でしょう。

しかし、メール等でご指摘頂いた分には私が紹介しなくては、読者の方に伝わらないので
簡単に要約して記載しようと思います。ご了承ください。

で、話を元に戻しますと

私が「誰も真柱の後継者問題を言わない」ということに関して「言えない理由がある」と
ご指摘頂きましたので簡単に紹介します。

言えない理由というのは「天理教では夫婦の問題(子どもができない)というのは『いんねん』で説明されているから、真柱の後継者の問題は中山家(真柱の家系)の『いんねん』に踏み込むことになるから誰も口にできない」というようなご指摘でありました。

なるほど。私には盲点でした。しかし、よく考えれば単純なことでした。

普段、天理教人が悩みを抱える信者に「お前んちのいんねんが悪い」という説明をされて
いる以上、その理路でいくと真柱に後継者ができないということもいんねんと認めざるを得ないということなのですな。

それでは、口が裂けても誰も言えませんね。

自分で自分の首を絞めているような感じですね。

しかし、私は何度も言っているように『いんねん』の使用方法が間違っているからこういう歪んだ現象が発生するのでしょう。

『いんねん』というのはアンタッチャブルであり、形而上的概念で我々人間が判断できるものではないはずです。しかし、それぞれの天理教人は「私が正しい」と言わんばかりに『いんねん』を断定しにかかります。これは彼らも不幸としか言えません。
「それは違うよ。いんねんと言っちゃ何も解決しないよ。」と誰もアドバイスしないのは何故なのだろう。

卑怯にも私は天理教学には詳しくないです。
しかし、こんな他者を苦しめる宗教は御免です。
なぜ、そこまでして他者の粗探しをするのでしょうか。

たかが、夫婦問題で先祖代々から末代まで続くいんねんと言われてもね。

信仰心や宗教的涵養というのは、他者からわざわざ言われなくても
神を信じることによって解決可能性を見出していくものじゃあないのかね。

話が長くなったけど、他者に『いんねん』という天理教人は人として信頼に値しない。

脱線しましたけど、真柱の後継者問題に踏み込むことの延長には踏み込んだ人間の振る舞いを否定してしまう恐れがあるという悪循環でしかないということですね。
誰もそんなこと考えてはないでしょうけど、それを意識化することの危険性は感じているのでしょう。

追記
「過去の記事が微妙に変わっているじゃねーか」というご指摘もありましたが、
私は過去の記事をたまに読んで、いじってます。
それは、書いた時はバーと書くので、助詞の使い方や言葉遣いなど所々おかしな点があるからです。しかし、内容の筋はいじっていません。
突然「です、ます体になってる」とか、「ため口かよっ!」という点がありますが以後、気づき次第統制したいと思いますのでご容赦ください。
内容の筋は変更してませんよ。たぶん。

20年後の天理教について  真柱をヒントに。

前々回に「天理教の歴史的使命の結論は20年後には出ています」と書いたことについて
「信者の高齢化だけでは説明できない」というご指摘を頂きましたので私の考えを補足をしたいと思います。

確かに信者の高齢化だけを根拠に20年と指定するには無理があります。

もちろん、そう指定したのは複合的な理由があると考えています。
その一つを今回取りあげてみたいと思います。

私が天理教に関して感じることの一つに、真柱という存在があまりにもアンタッチャブルな存在であることであります。
なぜ、それほどまでに信者は真柱を神格化し過剰なほど畏敬の念を抱いているのか。
日本の象徴である天皇と同じくらい、いやそれ以上に絶対視されているのか。

真柱は神なのか? 

私が「真柱様ってどんな人ですか?」と聞いても、ほとんどの信者は露骨に質問する私を敬遠する。
しかし、一般感覚として普通に知りたいことであるはずではないのか。
詮索でもなく、興味本位でもなく、大組織のリーダーがどんな人かを知るのは普通感覚のはずである。これが普通でないなら私が間違っているが。

そこで、色々しつこく聞いて集めた情報は、彼はかなりクレーバーな人間であるということだ。
もちろん学歴ではない。(そういえば、天理教幹部に天理大学卒が少なく、有名大卒が多いのも不思議である)

もう一つ重要なことに世継ぎ問題がある。
この問題も、誰も口にしないのは誠に奇妙としか言えない。
「次の真柱は誰かなー」や「お子様は生まれないのかなー」というのは
天理教の将来において、かなり重要事項であるはずだが誰も口にしない。
それは教団内合意が形成されているのか、暗黙の了解なのか私は知らない。
私なら自分が所属する組織の次期リーダーは気になってしょうがないと思う。

真柱はクレーバーであるということであるが、もしそうであるなら、彼が自身を神格化し
お子様を生まないのは彼の思惑なのではないかと思う。
つまり、彼には自分の振る舞いによって、今後の天理教の将来像というものが頭にはあるのだと思う。かなり明確に。当然だけど。
その将来の天理教の青写真というのは、私が主張するように将来的に天理教は消滅しなくとも、現在とはかなり縮小した教団になるというイメージであると思う。
もし、クレーバーな彼が天理教の繁栄を真剣に考えているならば「繁栄する政治判断」をすでに行っているはずであるからだ。
彼が「天理教は衰退する」と断定しているか、「将来、天理教の歴史的使命は終える」と考えているならば、「世継ぎになる子どもは生まない」という政治判断は計算されてのことだろう。そして、そこに信者の意識を持っていかないために北朝鮮のおっさんのように自身を神格化させ不可侵なものとして絶対的存在とすることは必要である。
彼一人を神格化することは、周りを無能、無名、無害化することも含まれる。
実際、現天理教幹部で真柱に対抗できるくらいカリスマがあり、有能な人物は見当たらない。(私が知らないだけかもしれないが、私が知らないということは信者8割以上が知らないでもいいと思う。主観だけど。)
そして、その絶対的存在が崩れる時に、教団はカオスと化すだろう。
そして、混沌としているうちに求心力を低下させるのは組織の性である。
というのが、クレーバーな彼が思い描く天理教の青写真であろう。

もし、彼がクレーバーでなかったら。。。
お子様ができないのは身体的理由か、何かの別の理由があるのだろう。
そして、お子様が懐柔された際には万々歳であろう。もうないと思うけど。
そして、「このまま」天理教の衰退は淡々と進むだろう。

以上のことを踏まえて、真柱という役割の機能不全も大体20年後には判定可能であると私は考えている。
そして、やはり20年後に天理教は衰退する道を選ぶ可能性が高いと思う。
なぜなら、真柱の言動を見て「こいつキレるな」と思うことがあるのは私だけではないだろう。そんな彼が、今後の天理教の行方を考えていないはずがない。

なぜ、衰退する必要があるのかー

それは、その方が陽気暮らしができると彼が判断するからだろう。
天理教を信仰しても、人間生活に何のメリットもないとね。

修養科、教養掛について

修養科、教養掛というのは、3ヶ月の修養科の先生であります。
詰所での修養科生の指導、監督や学校での教師をすると私は聞いてます。

昨日聞いた話なんですが・・・

ある日。
仕事がうまくいかない教会長子弟A君が、半ば強制的に修養科に参加することになった。
修養科の生活に慣れるために修養科開始期間より早めに天理に入った。

詰所とはどういうところなのだろう?
どういう生活が3ヶ月も続くのだろう?

と若者は不安でしょうがなかった。

教会長である親も心配し、社会適応の難しさを教養掛の先生に伝えた。
教養掛の先生はとても親身になり「よく分かります。じょじょに頑張りましょう」と。
そして、先生はA君にも「朝が苦手なら、じょじょに早く起きれるように頑張ろう」と。
A君は、先生の優しさに安心し、3ヶ月続けようと胸に刻んだのである。
両親も安心し遠方の故郷へと帰った。

次の朝、A君は先生の怒号で起きた。
朝が苦手なA君も突然のことに飛び起きた。
独り部屋なのに、先生は断りもなくガラっと扉をあけ、怒りちらしたそうです。

A君は不安でいっぱいで、話し合いもできそうになく、帰りたくなりました。
A君は事の顛末を親に電話し「まだ始まってないけど、帰りたい」と話しました。
すると、親はA君に「先生から電話きたよ。あなた、先生の言うこと聞かなかきゃだめじゃない」と言ったそうです。
先生はA君がいかにダメな人間かを親に電話で言ったそうです。

A君は失望しました。誰も味方がいないと感じました。天理教の理不尽さを知りました。

カイチョウさんの質的低下を私は常に主張しています。
こういったケースは本当によく聞かれます。

人の話を聞けなく、権力で自己の価値観を押し付けるカイチョウさんは多いです。
多用な価値観を認めるという枠内では収まりきらなくなっています。

こういった暗部に対して何らかの対処をしなくては、天理教の将来は容易に見えてきません。

尊敬できない人間が信仰する宗教を、信仰する習慣は私にはないです。
他にあれば教えて下さい。

三日講習会について

現在、本部では三日講習会というものが開催されています。
三日講習会とは修養科(3ヶ月)に参加できない人達を主な対象に
三日間だけの天理教講習会というわけであります。

これも実際は、参加者の大半は教会家族や教会内部の人間であって修養科に時間的理由で行けないという、天理教初学者は少ないであろうという見解は大きく間違ってはいないでありましょう。

以下、私が三日講習会のHPや伝聞から違和感を感じたことについて列挙してみたい。

三日講習会とは3つのレベルから構成されている。
Ⅰ~Ⅲというレベルがあり、参加者の習熟レベルに応じて講習できる。
Ⅰを受講した人はⅡへ、Ⅱを受講した人はⅢへと、ステップアップできる。

私が問題としたいのは、天理教を全く知らない人でも
3日間の講習を3回受けるだけで教会長資格検定試験前期を受講できるという点である。

あれ?  修養科行かなくても検定試験前期受けれるの?
三ヶ月も行く必要ないじゃん。

という結論は誰でも思い浮かぶはずです。

そして、これは3日×3回=9日間と三ヶ月という違いは本質的には変わりないと教会本部が認定したということになる。

つまり、三ヶ月の期間で経験する人間関係や仕込み、伏せ込みと言われるものの中から
個人を見つめ直し、天理教の教えを涵養させ人生の教えとして骨肉化させるという部分は修養科の付加価値であり主要課題ではないと認めたことになる。これはマズイと思う。
なぜなら、その三ヶ月で得られるものは知識やおてふり技術のような意識的作業よりも
無意識的な上記に挙げる付加価値の方が信仰として大切であると私は思うからである。

結果として、修養科の存在意義を低下させることになるのは明白である。
修養科の歴史的使命はもう現代では終結してしまったと本部は結論づけていると
考えないのであれば、理由は何であろうか?
もし、修養科の参加人数が減少したその理由を「三ヶ月は長い。仕事を休めない」という参加者理由を優先したのであれば宗教の本質に対して安易な道を選んだとしか思えないでしょう。

企業や、自治体が開催するような種々の講習会や大会で参加者に参加しやすいように
予定を組み替えることは営業努力であると言えます。
しかし、あくまで宗教団体が参加者の予定に合わせるという態度はよくない。
なぜなら、宗教は情報を伝えるのではなく信仰を伝えるからであります。

断固たる、揺るぎない教えを持つ宗教団体は、参加者の意図により教えの方法論を
安易に路線変更することは、同時に宗教性の尊厳を低めることになってしまいます。
そうでないとするならば、三日講習会の目的である修養科の参加人数の増加という明確な理由が必要である。
講習会を開催した結果、修養科の人数が減少したのであれば本末転倒であるし、
こういったシステムを容易に考えつく官僚は頭がよくない。三流企業である。

そういった意味も含め、もう一度、宗教の本質、天理教の歴史的使命を明確に打ち出す必要があるのではないかと思う。
天理教を広めたいのか、少ない子弟を囲い込みたいのか。
もう、天理教は社会では通用しないことを教団幹部は自認し、今存在する人的資源を囲い込むことに官僚が方針転換したのであれば、それはそれで賢明であろう。
しかし、その方法に長期的展望はないのは明白だ。

結論として、三日講習会の目的は理解できるが、修養科や教えの中での存在意義を説明できていない。

もう一つ、HPから講習会の概略を5分間の動画で説明してくれるコンテンツがある。
ここで、気づいたことの一つに、講習会ではビデオ教材を多用するという点である。

ビデオを使用するのに、何故奈良まで行かなくてはならないのであろうか?
「いや、ビデオはビデオであって、その要旨は講師が伝えます」だって?
じゃ、その講師込みのビデオを是非作ってください。

もし、講師の伝えることが大切ならばビデオを使う理由が見当たらないはずだ。
ビデオを使うことで基本的な教理知識の統一や、講師側の負担を減少する
ということであるならば教会本部は「講師の質が低下している」ことを暗に示していると
解釈できるのは自然である。そして、これを理由にしてしまうと、その理路の行き着く先は天理教の衰退でしかない。
講師によって、「○○と言う」人と「△△と言う」人と「□□と言う」人と違いがあることに危惧を感じているのであろう。本来であれば、そういった個人の違いも「個性」として内包されていたものの、それができなくなっている今、講師によって天理教解釈に決定的な違いや、看過できない事態が生じていると思われる。
それが、天理教の求心力の低下と結びついていると考えられる。

そこまで、私のように半ば妄想的に考えられているとは思わないが、
天理教の行いは少々「それってどうなの?」ということが非常に多い。
それは、また宗教という中で寛大さを失って、あーだこーだと目先の利益を追求する企業の悪あがきのようにも思える。

1年、2年後の天理教よりも、是非10年50年後の天理教のビジョンをど~んと示して頂きたいものだ。

錯覚から天理教の終焉について

26日は教会本部の秋季大祭でした。

私が教会本部の祭典でいつも感じることは信者の高齢化であります。
少子高齢化は天理教も例外なく当てはまる。
一方で、天理教の発行する媒体には信者の中で若者が多いという意見がたまに見える。

たしかに、若者の育成に天理教が力を入れているのは素晴らしいと思う。
しかし、天理教的イベントに参加する人たちや天理教関係の学校に通う若者が
すべて天理教信者と換算するのは非常にマズイと思う。

日本の数多ある宗教の信者の総和は、日本総人口を容易に上回ることは周知の事実であります。
信者という定義も問題ですが。

それが、どう天理教にとってマズイのかと言うと、
天理教の信者数も類推するに、公式に発表された数より少ないであろうということであります。
つまり、各信者や天理教人は「天理教って信者数多いよね。」と思うことによって、
天理教が日本宗教(新宗教)のドミナントという安心感を覚えます。
安心感は同時に危機感を無意識に抑圧してくれます。

よく、大きな祭典などで「よくこれだけの人が全世界から集まるよね」と思うものですが
(実際に私も思った)、よく考えると天理市のごく一部の時間に、一部の地点に人が集中することを考えたら、大きなな宗教といえどあれだけの限定した神苑にしか人が集まらないという見方もできます。

渋滞した市内と、なかなか動けない神殿では私たちの目も錯覚を起こして当然です。

各教会を見ても、信者家族とされていても熱心に信仰しているのはお婆さんやお爺さんだけという家族が多い場合が結構あるのかと思います。

祭典の人ごみや若者の伝道などを見て天理教的使命が完遂したとは全く思えません。
また、そこで「天理教は凄い」と錯覚を覚えるのは、天理教の将来を考えた場合に消化不良でしかありません。

私見としまして、天理教の歴史的使命の結論は20年後には出ていると感じています。

嫌味でなく、現実課題として熱心な信者の大多数である方たちが亡くなった後
ほぼ同時期に、次期リーダーの継承をどうするかというのが決着した後
自ずと結果は見えてくるのではないでしょうか。

現在の私の類推では、20年後ほぼ天理教という集団が社会のマイノリティになる可能性が高い。

若者が興味を持つ天理教の楽しい部分vs天理教子弟がどんどん流出している暗い部分
人格者として振る舞えない会長vs天理教を知らない人の方が人格者
方法論が進歩しない布教実践vs天理教を白い眼で見る社会
社会的弱者を囲い込む信仰vs社会に通用しないのに説明責任を全うしないカイチョウ
人間より神が大切vs親でもないのに親孝行を強いられる

など、決着してなくて、進行させねばならい議論が沢山あると思います。(vsに特に意味はないです。ごめんなさい。)
これらを一体、どれくらいの人が真剣に考えているでしょうか。

ある教会長子弟が私に「天理教は理不尽なことばっかりや」と言っていたことがあります。
身内の子どもに「魅力ない」と言われて、天理教の素晴らしさを布教できるはずがありません。しかも、複数の人が「理不尽だよね」と賛同していた。
いくら立派な法律があろうと、運用する政治家が悪くては(法解釈が曖昧)いい国に
なるはずがありません。
法を教義に、政治家を会長と当てはめも問題ないでしょう。

カイチョウさんがいかに素晴らしいものか私は知りませんが、
人として尊敬できない人の教えを信じる習慣は私にはありません。
そして、一般社会のバランス感覚も私の感覚に非常に近いのではないかと思う次第です。
(最後感情的になってごめんね)