天理教での結婚の位置を考えたときにパッと思い浮かばない。
夫婦雛形・・・くらいのメタ概念しか私は知らない。申し訳ない。
しかし、今回は結婚を重要な概念として知的探索を試みたいと思う。
突然だが私の周りで天理教に関して結婚で悩んでいる人は多い。
主観的な感想だが、実際に出会う人数に比して悩みを打ち明けられる経験という
のは社会生活を送る上で有意に感じられる。そして、主観であってもそういった気づきを
私は非常に大切にしている。そして、そういう経験が間違っていたことはない。
本題に入るが、悩みは例えば彼が後継者であるとか、親(相手の親にも)に反対されたりなどなど、である。
不肖な私に悩みを打ち明けられる人もいる。数少ない友人だけど。
決まって私は「申し訳ないけど、僕にはどうすることもできないよ。」と力不足を承認して頂く。なぜなら、それは非常に複雑で「メンドクサイ問題」であるからである。
できることなら「ちょっとお父さん、あなた娘の言い分も聞いてあげなよ」と言いたいが
プライドの高いセンセイやカイチョーさんたちは他人の言うことなんて聞かない。
それこそ、暴力的に「徳がない」「お前はなにも分かってない」「いんねんじゃー」と言い
聞いてくれない。実際にそういうことを私は経験している。
上記のように言葉責めだけで済むならいいが、もっと理不尽で、あり得ないケースもある。
私の聞いたところでは、カイチョーさんが娘の彼氏を尾行したり、お付き合いしている子ども二人の了承を得ず、相手家族に「うちの子と付き合わないでくれ」と行った人もいる。
結婚を反対するにしても、もっと社会勉強をされた方がいい人が沢山いる。
そういった人達というのは自己愛性人格障害の方と同じ位付き合いにくい。
周囲の人間を振り回すことに長けている。
もちろん、そういった人たちが「陽気ぐらし」と言っていることも個人的には腹が立つが、
そういった人たちを監視する機関がないことは組織として未熟でしかない。
早足で結論を概観すると「メンドクサイ問題」となることは非常に核心的だと思う。
「メンドクサイ問題」というのに直面したときに私は全身が脱力した感じになる。
なぜなら、メンドクサイ問題はアポリア(難問)ではないからである。
難問というのは答えの出しようがある。答えがないことも答えである。
しかし「メンドクサイ問題」というのは問題を解決する姿勢を否定されているからである。
しかも、「当事者であるお前の問題だけど、お前は解決してはならないよ」という
非常に屈折した感覚であるからだ。
だから、「私の意志を反映することが許されない問題」であるのだ。
結婚というのは根本には当事者である二者間の合意がなくてはならない。
しかし、親たちは自分の望まない相手である場合には戦略的に結婚を妨害し、
なんとか自分が納得する結婚を作り出そうとする。
しかし、反対する親たちが納得する結婚は構造的にあり得ないのではないかと思う。
なぜなら、結婚を妨害する理由は相手への不満ではなく親の慢性的な不安である場合が多い。
天理教はメジャーだが、日本では宗教というカテゴリー自体がマイナーである。
つまり、天理教であるというアイデンティティ自体が無意識下に劣等感を帯びているのではないかと私は思う。それが、慢性的な見捨てられ不安になり理解者である子どもたちを手放しできない状況になる。また、天理教家族というのは一般的に兄弟が多い。そういった現象もヒントにはなるだろう。
だから、結婚に反対するカイチョーさんは基本的に相手が誰だろうが反対する。
唯一快諾してくれる場合は、理の親からのお告げである(この場合に助かる場合が非常に多い。結婚に反対しても理の親が「いいじゃないか」と言えばすんなり治まる→見捨てられ不安は理の親の依存的承認で誤摩化されるていると私は思う)
夫婦雛形を強調するのはいいが、それを過信してはならない。
価値観の異なる人間が一蓮托生のごとく言葉を交換して愛を確認しあって生きるのが
結婚だと私は思う。理想論であろうか?しかし、愛は既にあるものではない。
話を親側に戻すと、息子の結婚を反対しているカイチョウーさんはその昔、自身の結婚は
理の親に指示されて結婚されたらしい。奥さんとなる彼女にプロポーズをするよりも先に
理の親(実の親ではない)に「結婚しいい?」と伺いを立てたらしい。
つまり、恋愛もろくにしてないおっさんが息子の結婚を反対しても説得力がない。
そして、根本的な家族の誕生を阻止する人間に「陽気ぐらし」を標榜する資格はない。
そんな人は例え子どもが離婚したときは「ほーらね、いわんこっちゃない」と言うだろう。
離婚しても「大丈夫、家族が応援しているぞ」とは決して言えないんだろう。
器ちっちゃ。
生理学的に言えば、結婚は早い方がいい。結婚が早いと社会的なリスクが高くなると
警戒する人が多くなってきているが、リスクを分散するために家族がいると私は信じる。
人は決してコントロールなんてできない、してはいけないと断固思う。
追記
主観的な論及になったが、寛大で人間的に尊敬できるカイチョーも多くいる。