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オルテガとの再会

私の興味、関心は状況依存的である。
高校野球を見れば、なぜ日本社会が高校野球を神聖化するのかを考え、
バスに乗っておばさまの愚行を目にすれば、おばさまの心性を考える。

そして、どれもが私の一貫した研究テーマに沿って結論がなされる。

そして、必ず不思議に思うことがある。それは、関心があるテーマについて関連する
事象が私の身の回りで起こることが多いのだ。例えば、おばさまの心性を考えていたとき
同僚が私にプリモプエルの話をしてきた。私はもちろんプリモプエルなんて知らない。ふんふんと話を聞いて分かったことは、プリモプエルとはぬいぐるみである。しかも、話しかけると「こんにちわ」などと答えてくれるらしい。おもちゃ会社は淋しい20代の女性対象に考案したのだが、実際のメイン購買層は50代の女性らしい。それがもの凄い数で売れているらしい。その人形のために入学式とか開催されているとか、恐るべし。
結論はおばさま達は淋しいのだということ。

前置きが長くなったが、関心あることが次々と起こるのだ。
これはシンクロニシティ以外のなにものでもないと思う。

私が現在関心があることは人の平等について、である。
何をもって平等とするのか、平等のはずなのに社会的秩序を保つためのヒエラルキーとは・・・などといった思春期の中学生でも考えるようなことを人に言われ考えている。
何かものごとを考える際に私は一応アカデミックな人間として過去の知識人の思考をレビューしていることにしている。今回はニーチェを参考にした。
ふむふむ、なるほど「神は死んだ」のか。それが人間社会なのか。とね。
定期的にニーチェを読んでいても、読む人間の興味が変化していれば付箋を付けて鉛筆線を引く場所は必然的に異なる。なので、毎回私は異なることを同じ本から学ぶことが多いと経験的に知っている。これは大切だと思う。

そして、長い前置きのあとだが、今回は『偶然』にオルテガと再会した。
もちろんオルテガは、重要な人物である。かなり読み込んだこともある。しかし、過去の出会いはスルーされ、私の頭にストックされているオルテガの知識は忘却の彼方へと埋没しかかっていた。学生に「オルテガって何した人ですか?」と問われても
「オルテガね。えーと、哲学者で・・・「大衆の反逆」を書いた・・・」
と専門性のダークサイドを露呈することになる。

そして、2007年オルテガと再会したというのは、全然関係のない人の著書を読んでいる際にたまたまオルテガが引用されていただけ。そう、ほんとたまたま。
そして、見る見るうちに埋没したはずの知識が浮上してきて、オルテガとの再会を無為なものにしてはならないと私の頭が危機感を発信してくれた。
そして、オルテガこそが、人の平等について明確な説明を提示してくれた。

長くなったので、オルテガ先生から得たことは次回。

おたすけの距離について

今日のニュースに
東京で少年たちが公園で寝ているホームレスに火をつけて殺人未遂で逮捕された
というニュースがあった。(実はホームレスではなく偶々寝ていた人だけど)
また少年たちの供述が「ホームレスは社会に迷惑を及ぼしているから」という理由に
ニュースのコメンテーターたちのこの若者達に対する批判は烈火のごとくだった。
私は「何言ってんだよ、ったく!」と思っていたが、
一緒にTVを見ていた天理教の先生と言われている方も猛烈に少年バッシングをしていた。
私は彼の部下ではないが目下なので「そうですね・・・」と引きつった顔で返していた。
(私は動物化した人に対してケンカするほど元気ではない。平和主義だし。)

こういった方はご自身の発言と「おたすけ」ということを全く別ものとして考えているのだろうか。この少年たちの歪んだ思考を発生させた原因の一つとして私たち大人が構造的に作り出したかもしれないという蓋然性は考慮されないのであろうか。甚だ不思議である。
同じ社会の構成員として、歪んだ社会に対して「私にも責任がある」という思いは非常に大切だと思う。前述したバッシングを平気でできる人というのは「私は正解であり、少年たち(又はその両親)は間違っている」という距離を明確にしている。そして、おたすけこそ距離ではないかと思う。対人援助では、いかに援助者ー被援助者の距離を縮めるかであり、両者とともに歩んで行こうとする内省が一番大切なのだと思う。また、用木が陥りやす問題として、頭から「この少年たちを助けたい」と思うことでさえも距離を明確にするという点では同様であろう。偉そうだしね。この少年達に「君たちは可哀相な人間だから助けてあげるよ」と言うあほな用木はいないだろう(似たような人は沢山いるけど)。社会の歪みこそ「私にも大人として責任がある」と思うことが距離を縮める第1歩であり、「おたすけ」の本質に近いだろうし、陽気暮らし的であろう。

参考文献
東浩紀『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』

パレードと格差について

こどもおぢばがえり(以下KOG)が終わった。
私も若い頃は積極的に参加したが最近はどうなっているのか分からない。
でも期間中一度はパレードを見に行くようにしている。今年も行った。

それに関して3日前「小さい頃は毎年KOGに行っていた」という女性と知り合った。
彼女は現在は天理教と関係のない職についており、実家も含め天理教との接点は
幼少の頃のKOGだと言われた。だから用木でも信者でもなんでもない。

なぜこんな話になったのかは不明だが、彼女から夏の思いでの一つとして語られたものだ。
(もちろん、私が天理教に興味を持っているなどという話は一般社会では非公開である)

私はこんなブログを書いているくらいだから、
「それはどんなの?」「なぜ行ったの?」などマシンガンのように質問した。
彼女の答えは「天理教主催の子供を対象としたお祭り」「両親が旅行とか連れて行ってくれなくて近所の教会の人が両親と仲良かったから」「もちろんうちは天理教じゃないけど」
「でっかい城みたいなとこに連れていかれて『あしきをはろーて』と踊った」「中途半端なパレードとか見せられた」・・・etc
色々と注目すべきところはあるんだろうが、彼女が発した中途半端なパレードという表現についてのみギャップを感じたので考察したい。

私が初めてパレードを見た時は正直感動した。
こんなスケールのでかいパレードを宗教団体ができるものか!とね。
「こんなディズニーみたいなクオリティの高いものを作るなんて凄い!」てね。
私が聞いたところによると対外的にも評価が高い、らしい。

しかし、よく考えてみるとディズニーには負ける。よく考えなくてもだけど。
私が聞いたところによると、パレードの関係者はディズニーにも調査しに行っているとか。
でもこれは直接的問題ではない。

事件は観客側で起こっている。会議室じゃない。
観客側の子どもたちの経年変化を俯瞰してみよう。
20年程前の子どもたちで特に関西圏ではディズニーなんて行ったことない子どもは少ないと思う。私の実感的に。つまり20年前の子どもなら、KOGのパレードを見て単純に「すげー」と思う子は多いのではないかと思う。
そして、現代の子どもに目を向けてみよう。現代では、ディズニーに行ったことある子どもは昔より多いのではないかと思う。これは私個人の主観的実感なのでなんとも言えない。しかし、現代では東のディズニー、西のUSJとなっている。
それ以上にTVを初め特にインターネットのアクセス権の増加によって子どもたちの情報は格段に増していることは周知の事実ではないかと思う。
昔の子どもがパレードを見て「すげー」と思うのと現代の子どもが「すげー」と思うのは異なる。現代の子どもの中には「すげー」の後に続く言葉が重要になる。
昔の子どもなら
「すげーこんなの見たことねー」と思うが現代の子どもでは
「すげーディズニー(もしくわUSJ)みてー」と直に喜べない蓋然性は有意に高いと思う。
結果、パレードを見て「中途半端なパレード」と表現する人がいるのは事実だろう。

私が問題とするのは、そういった子どもの変化を主催側は認知しているのかということ。
パレードの目的を考えた時に、主催側と観客の意識の格差はもう少しパレードの存在意義を考慮してもよかろう。
ハイクオリティを目指すことは当然だが、似たような表現方法ではそろそろ通用しなくなるのではないか。
KOG参加者が減少しているかは私は知らないが、たぶん減少しているのではないかと思う。それを主催者サイドが「少子化だから」と決めつけているのだったら、その時点でこの宗教会社にサバイバルな社会を生き抜く力はないだろうと思う。

幻想について

暑い。ここ2、3日で一気に夏になった気がする。

今日は一日働いて夕刻電車で帰った。近所の駅に着き、駅のホームから改札までエレベーターに乗った。私が一番に乗ったので、エレベーターガールのように皆がエレベーターに乗り終わるまで『開』ボタンを押していた。降りるときも全員が降りるまで『開』ボタンを押し続けていた。当たり前だが、ほとんどがサラリーマン。企業戦士な荒んでいる方々は私が『開』ボタンを押してようと当然のように出て行く。誰も私に感謝なんてしない。しかし、最後に出た年配の管理職だと思われるおっちゃんが私に頭を下げ、「すみません、ありがとう」と連呼しながらエレベーターを降りた。降りた後も、後ろ向きな姿勢になりそうでも私に再度頭を下げられた。顔を上げる際、私も恐縮し笑顔で会釈すると彼は私に親指を立てて『good』サインをし、振り向いて帰った。私は『good』サインを返せなかったことを悔やむ。なかなかカッコイイ男を見た。

それはさておき、幻想について質問があったので答えようと思う。
私は常々「愛や信頼は幻想である。また宗教的言語概念も幻想である。」と言っている。それについて私は結局「愛や信頼や宗教的言語概念は存在しえない」ということかといったものである。
結論から言えば、存在すると思っている。
幻想というのは存在しえないものという意味ではなく、そういった概念の使用者は適切な理解に基づいて発せられているのではないということを言いたいのである。
例えば、「いんねん」について話す会長に対して、私は「あなたはいんねんをわかっているのか」ということを問いたい。(実際に問うても他者を納得させる理路を提示できるような会長は皆無である。ほとんどが一時的な感情に任せて『いいくるめたい』欲求場面でしか使用されない)
例えば、里親をされている方が『家族は愛と信頼が大切』という場合と阿部首相が『家族は愛と信頼が大切』という場合では水準が異なる。抽象的な言語を使用する場合、その言語が相手に届くための重要な要素は背景と目的であると私は思う。この場合言葉が届くというのは音声ではなく体である。その変のヤンキーが『愛だね』と言っても大人たちはシニカルに見ているのと同じ理路である。それはヤンキーの体から紡ぎ出されたコトバではない。愛とか信頼が、人と状況によって軽々しくもあり、重々しくもあるのはそれである。宗教的言語概念であっても相手をコントロールしたり意図的に悟らせるような目的や状況の中で使用する人間を尊敬できる習慣を私は持ち合わせていない。

しかし、ここで注意しておかなくてはいけないことがある。今回、抽象的概念という解釈をするために愛、信頼と宗教的言語概念を並列したが、これらは言語水準として同じであるということではない。愛や信頼は幻想でありながらも日常生活的に感受できるものであるが、宗教的言語概念については「そもそもどの程度の人間が感受できるのか」という疑問符が必ず付く。原理主義的に言えば「たんのうし素直になれば感受できる」ということになるのかもしれないが、果たして実際的に感受している人間に人格者として一貫性が通っているのか私は聞いたことがない。それはやはり、ヤンキーと「いんねんは・・・」という会長が同質としか見れないからなのだと思う。

会長『さん』の質的低下については異論がある人もいるかもしれない。しかし、会長というレッテル抜きに人格者として質的に低下していることは異論はないと思う。現在の日本社会の質的低下がそのままである。そこに「天理教」を特別なものとしての宗教的意味はそんなにないのだろうとも思う。存在意義とは社会の構成人員の質的低下が伴っても決して会長さんだけは質的な低下を招かないことだと思う。「おぉあの人カッコいいな」と思われる会長さんはどんどん少なくなっている。現代の狂った日本社会を牽引している要因の一つには権力が放し飼いされている天理教なのかもという危惧を覚えるのは私だけだろうか。

追記
会長さんの質的な低下については私は至る所で聞いている。団参で「面倒な」信者を本部に置き去りにして皆でバスで詰所に帰るとか。巡教で全く信者に会わずに話(高圧的)だけして「お車代」と「高級郷土料理」を強いるセンセイとかね。上の教会になればなるほどそういう傾向はあるみたいだけどね。。どうでもいい部分だけ組織が構造化されて、大切な部分は放ったらかしな部分も現代日本と同じだね。

素直について

天理教では、よく素直という言葉が使われる。
その言語解釈は当然のごとく主体的な活用ではない。受動的である。
簡単に言えば自分の意中はさておき、とりあえず
「はい。あなた様のおっしゃる通りでございます」という封建的言語使用の構造である。
「とりあえず」というアンガジュマン的強引さを伴うことが重要である。

ここに「私の意見」は加味されない。「私の意見」は「あなたの意見」なのであります。
しかし、「私の意見」をどうのようにするかという処理方法を私は聞いたことがない。
そして、これがメンタルヘルス上、集団心理学上ことのほか重要なのだとも思う。
「私の意見」は「あなたの意見」と直面化された人の内面では何が起こっているのか。
1.「こいつに何言っても通じないし、とりあえず『はい』って言っとこう」なのか
2.「私が間違いなのであり、この人の言うことは正しい」なのか
どちらなのだろうとつくづく思う。
もちろん、「素直になれ」と発する人にとっては相手が2.と思っていることが前提だろう。
しかし、実際の言語使用を見ていると1.でしかないと思われるような場面が多々聞かれる。1.であることは非常に生存戦略上不健康でしかない。
私はその場面を聞く度に「腑に落ちない」感を覚えるのだが、
それがどこから来ているのかを思うと「腑に落ちない」点が理解できる。

なぜ腑に落ちないのか、それは天理教的「素直」概念の使用は上下関係のみにおいて
使用されるからである。つまり、強者(先生と言われる人)が弱者(目下)に対して、なんとか強者の思い通りにコントロールしたい欲求のもとにしか使用されない点である。そこに封建社会において『素直』が非常に効果的に発揮される本質的な御恩と奉公のような関係とは異なる。

弱者が強者に対して「素直」である場合のみ歓迎され
強者が弱者に対して「素直」であることは抑圧(構造的に無視)されている。

そういった無意識的構造こそが天理教衰退の本質なのかとも私は思う。
少々頭のキレるビジネスマンならこういった関係が非常に不透明で組織力が
弱いということは瞬時に察知されるであろう。

もちろん私が一貫して批判している、宗教的言語概念にもこの「素直」使用は当てはまるだろう。「素直になれ」なんて言葉を使用する人は、相手の言葉を黙殺しコントロール欲求のみでしかない。そしてそれは非常に不健康であり、「陽気くらし」とは対極にあるとしか思えない。そういった人間が「おたすけ」と言っても、私は彼らを尊敬できるほどバカではない。人間をコントロールしようとする人間は、人間はコントロールできると思っている。根本的に気づいていないままに優越感に浸り人間を小馬鹿にしているのだろう。

「素直になれ」を言う人は、その言葉を発した瞬間に「私は弱者に素直でない」という
ことを自明のままにしていることに気づくべきであろう。
「素直な人間」は「こいつ素直じゃねーな」と思うことすらない。素直な人間は弱者の意見にもしっかり耳を傾け、「そうか。お前の気持ちも検討してみる」と素直であるべきでしょう?

河合隼雄 尊師の死について

昨晩知人からメールで知らされた。
ショックと共にいつかこの日が来ることを準備させられていたと思う。

私が河合尊師を知ったのは中学生の頃。何気に実家に置いてある
「こころの日曜日」(だったかな?)という尊師の著書を手にしたことを今でも覚えている。
田舎のハナタレ中坊であった私でさえ「やさしい文を書かはる人やな」と感慨を覚えた。
以降私は拠点を関西に置いているので、異なる分野でも尊師の存在は無視できない。
そして、大学院時代は尊師の教え子?同僚?に私は教授されたのだ。
つまり私は彼の孫弟子になる。会ったことないけど。

私の恩師曰く、河合尊師の若かりし頃は本当にピュアな男子であったようだ。
実家のある丹波篠山の方で子どもたちのために施設を作りたいという夢を持っていた。
しかし、知的貴族な家庭で育った彼の知性は一般からは飛び抜けて頭がキレる。
当たり前のように、日本の臨床心理学の第一人者になり、
当たり前のように日本の文化基盤を作った人であった。
若かりし河合青年は援助熱意も半端なく、欲望の政治とはほど遠い人であったようだ。
しかし、稀有な知性は当然の如く政治的に利用された。
それはまた第一人者であるがための使命であったのかもしれない。
そして、政治でも臨床心理学の地位と日本文化の涵養を高めた彼の功績は大きい。
しかし、最終的には政治的な責任を負わされ、それが負荷になったのか約1年間昏睡の状態となった。
尊師が亡くなる2日前に私は恩師と飲み交わし、当たり前のように河合尊師の話になる。
「きっと河合先生は昏睡の中でも神話の夢を見られているのだな~」と回復を祈った矢先であった。非常に辛い。
河合尊師の死は日本文化、臨床心理学界に大きな損害である。
そして、また一時代の終わりなのかもしれない。
ここから、ポストモダンの「こころの時代」の新たな挑戦を我々は河合尊師から
ためされているのではないかと感じざるをえない。

天理教との関係では、彼は京大卒のあと天理高校の数学教師から
ユング研究所、天理大学、京大というふうに辿った。
文化庁長官を歴任して最終的に天理教内の病院のベッドで人生を終わられた。

上記のように彼と天理との関係は深い。
噂で聞いた話だと、彼は自分を育てたのは天理だと思われていると聞いたことがある。
天理高校教師をしていたくらいだから、彼のプライベートな宗教は
天理教だと思うが確証はない。たぶんそうだと思う。

日本社会、天理教、共に河合尊師を亡くした損害は大きい。
しかし、これはきっと河合尊師が私たちに残した挑戦状に思えてならない。
ユーモアのある関西弁で「きみたちが新しい陽気暮らしの実践をやってみよしー」
てね。河合尊師はきっと天上の世界で微笑んで応援してくれているだろう。

メールの返信について

懇意にしている用木さんからお誘いメールがくる。

彼のメールはいつも「明日ヒマ?」の一文から始まる。

このメールを見るといつも憤りを感じる。
なぜなら「めんどくさい」からである。

彼の言う用事によって私の返信は「いいよ、ヒマ」であり、また「忙しいから無理」と返事することもある。なぜ用件を言わないのだろうか?  不思議である。

「明日○○があるんだけど、君も行かない?」なら次の返事で即答できる。
しかし、「明日ヒマ?」だけでは「何があるの?」と聞かなくてはいけない。
そういう煩わしさはビジネスマインテッドな私としては究極に疲れる。
(もちろん、彼とは友達なので私は何回も1度で言うように言っている。)

以上のように愚痴を言うことによって私のカタルシスを達成したいのではない。

このような無意識的な部分にこそ本質が隠されているのではないか。
今回はここから、用木的コミュニケーションを読解してみようと思う。

私は彼らがこうした段階的コミュニケーションを使用する影には
慢性的なコミュニケーション不全が生じているのではないかと思う。

つまり端的に言えば、社会的役割演技の場面設定が少ないがために
モデルとしての間主観的な心情を理解できないのである。

私の経験から言えば多くの教会家庭では「会長さん」という役割演技は
教会だけに留まらず、家庭でも使用されることが多々あると思う。
「会長さん」と言われる人は教会でも地域でも家庭でも「会長さん」なのである。

つまり、「会長さん」は会社では部下や上司から「課長」「君」、地域では
「○○さん」家庭では「あなた」「お父さん」という役割演技の多様性が少ない。

私の知る用木の何人かも同様である。彼らは「青年さん」で通じる。
その場合、非常に人格形成では不利なのではないか。
人格形成と言えば大げさだが、狭義の発達段階に限らず
社会的な立ち居振る舞いでの学習経験が少なくなる。

「会長さん」が家庭でも「会長さん」なんてたまったもんじゃない。
「課長」が家庭で「課長」なんて言う家庭はないだろう。
しかし、「会長さん」というのは社会的役割だけでは終わらず
人格者的要素も含むものであり、不可侵であり絶対である。
そう考えると「会長さん」と言われて気分を悪くする会長はいないだろう。

よく、落語や相撲の世界では「弟子入り」すると父親を父親として呼べない。
あくまで師匠であり、実子は他の弟子たちと扱いは同じになる。

そういった、現象をひとくくりに批判しているのではないが、
それがもたらす影響は少なからずあるのではないか。若貴兄弟のようにね。

つまり、彼らは往々にして社会的立場という環境が少ない。
それでも「多くの人たちと会ってるもんね」といわれるのは水準が異なる。
あくまで、自分が用木以外にどれだけの役割演技ができているのかということである。

そういった多様な人間関係学習機会が少ないがために、
場面に応じた関係性の定型句(語彙)が少なく「相手の立場」を思いやるという機会さえも、少ないのである。
彼らの対人関係でのパフォーマンスは決して高くない。

話が通じない&相手が納得しないと彼らはとりあえず
「まーとりあえず来てみなよ」という常套句を用いる。
私はそれで、初めて神殿に足を踏み入れ、何千人が黒い法被を着て
大合唱をする異様な風景を目の当たりにして失神しそうになった。

カスタマーにはアカウンタアビリティが叫ばれているが彼らにはできない。
その必要性があったとしても彼らはそれを感じる感覚器官すらないのだ。

注)私の用木の友人のことだが、文中は「彼ら」を多用したのは、
その友人に限らず所々で複数の人から私がそう感じたからである。

天理教的「相手を思う」についてはまた今度。

今日の里親番組について

先ほど、TVで里親の家庭のドキュメント番組があった。
私はあまりTVを見ないが、この家庭は高知の天理教の教会という情報を事前に
掴んでいたので見ました。
もちろん番組では天理教という言葉は一つも出て来なくて意図的に天理教的風景を
削除しているようだったが、一応「天理教○○教会」という看板と神殿の様子が
ほんのチラっと垣間見ることができた。ほんのちょっとね。

番組概要を説明すると、そこの奥さん(お母さん)が凄まじい過去を持った子どもたちと
懸命に向き合って行くというもの。(夫もいるがVTRでは存在が薄かった)
特に一人の女の子にクローズアップされてその子のライフヒストリーを詳細に記述してあるものだった。

これを見て私が思ったことは、この取り組みをしている家族は素晴らしいと思う一方で
用木のモデルにはならないのと用木の理想主義的幻想を昂進させるという危惧である。

まず、「モデル」についてであるが前回本ブログで説明したように
番組で取りあげられた家族(教会)の取り組みをマネすることは容易ではない。
物理的な教会の構造の問題、実の家族システムの問題、経済的な問題など
色々な問題が山積するが、何より意識がついていかないだろう。
私も何度か「施設」と言われる場所に行ったことがあるが、その実状は半端ない。
もちろん番組では、その取り組みを美化して「素晴らしい」というストーリーで表現するが
実状は非常にシビアである。特に家族の境界を超えて生活することの負担は
通常では想像できないくらいシビアである。
私も「おたすけ」の気持ちはあるが、決してマネなんてできねーと思ったものだ。

次の理想主義だが、天理教は理想主義である。
常々私が言っているように宗教的言語概念を対人的に
容易に採用する人は具体化し説明することができない人である。

具体的に説明できる人間は「それはね・・・」と現実に即したことが言える。
しかし、そういった人達は具体化したことが言えない。

なぜなら、何も知らないからである。
例えば天理教の教会で生まれ、天理大学を出てそのまま天理教関係に属する人は
現実社会を知らない。今、リアルな問題として社会で何が起こっているのか説明できない。だから曖昧な言語概念しか言えない。自分の言葉でストーリーを作る経験がない。
つまり、曖昧な言語概念しか言えない人は現実社会では通用しない幻想を信じている。
具体的なことに対して説明できないものだから、「いんねん、り、たんのうetc」と同様に
「愛・信頼・心」というものを多用する。理路は同じである。

話は長くなったが、その番組で里親が何故理想主義を昂進するかもしれないかと言うと、
代表的な場面があります。それはそこを経営している(会長夫妻?)お母さんとお父さん
が並んで「子どもに対してどのような考えなのですか?」みたいなインタビューを受けているというものでした。

奥さんは「子どもとはケンカしてぶつかり合えればいいんです。」
夫は「家族というのはドロドロしたものなんです。」
ということでした。特に問題なのは奥さんの言葉です。
これは一見すると「ケンカしてぶつかる」ということを肯定的に捉える
というガリレオ的発想ですね。しかし、この言葉は私たちがイメージするもの
とはだいぶ異なる。
では子どもとケンカするというのはどういうことなのか。
それは、具体的な言葉を投げ合うということです。
そして、その中には決して相手の口を権力で封じるような暴力的用語は使用できない。
例えば、約束を守らない子どもに対して「お前はとくがないんや!」なんて言っても
子どもは「はぁーウザ」と言われるのが今の子どもたちです。

言うこと聞かない子どもたちに対してあのお母さんは簡単な言葉で非常にシンプルに
言い合っておられました。そして、決して高圧的な抽象的言語を口にしません。

「ケンカしあえればいい」というのは面と向かって言い合うことですが、
どれだけの大人が、特に相手の口を封じるような言語を使うことに慣れている用木が
本当に面と向かえるのか懐疑的にならざるをえまませんね。

お母さんの「ケンカし合えばいい」というのと私たちが「ケンカし合う」という
意味は以上の点で水準がだいぶ違いますね。
もしあのVTRをそのまま「私もあれくらい頑張らなきゃ」と安易に思うことは危険です。
なぜなら、それは本当に深部にあるその人の持っている人間的バイアスを
包み隠してしまう恐れがあるからです。

援助者として重要な要素に、私がどういう対人的バイアスを持っているか
自覚することがあります。
つまり、私は何に敏感に反応するかということであります。
例えば、家族問題を抱えている人は家族問題を抱えている被援助者にはより容易に
コミットできるでしょう。
女性差別に敏感な人は、例えば強権的な男性にはより批判的になるでしょう。
あなたのバイアスは何ですか?こういうラディカルなひとだすけのトレーニングが
できる養成施設などはありません。つまり、社会を知らない人間は自分を知らない。
そして、人間というものがどういうものかという考察さえできない。なぜらなら、習慣化
されていないからですね。

偉そうな用木のみなさん。辛いでしょうか、「私は何も知らない」という自覚から
初めてはいかがでしょうか?

天理教の用語使用についての説明

今まで色々書いてきたのですが、私はちょいちょいマニアックな用語を使用します。
マニアックというのは天理教にだいぶ深くコミットしている人しか分からない、
普通の人なら「どういう意味?」となる天理教的専門用語です。

例えば・・・
「いんねん・とく・り・たんのう・ひのきしんetc」です。
確かに一般的に使われる用語(とく、いんねん)もありそうですか、
やはり天理教教義に合わせて考えると世間一般的解釈とはビミョーに異なります。
しかし、ここではあえて説明しません。説明を知りたい方は他をあたってください。
(申し訳ございませんが、「言ってる意味よく分かんねーよ」という方は天理教公式HPでは『教え』というコンテンツが用意されていますので、そちらをまずご覧ください。そこで説明されていない用語は自力でググってください。)

ここは原理主義ではないので、本来の意味解釈には言及しません。
しかし、現状における教義用語の使用は天理教原典の解釈とは異なるということは
十分考察しなくてはなりませんね。
つまり、どれだけの人がそういった宗教的言語概念を理解しているのかは
非常に懐疑的にならざるを得ませんよね。

ここからは私見になりますがお付き合いください。

用語の意味ですが、私は「そんなもの分かっている人はそもそも存在しない」と思います。
なぜなら、概念の継承は正確には行われないのが当たり前だからです。
例えば『赤』という概念でさえ、江戸時代の人と現代人ではイメージするものが違います。
縄文時代の人に「車といえば?」と聞いて4輪車を想像する人は皆無でしょう。
だって、4輪車なんて縄文時代にはないんだから。
もちろん、文化でも異なります。日本では「レインボー」といえば7色ですが、
どっか違う国は確か5か6色となるはずです(曖昧な記憶ですみません)
もひとつ日本で「犬の鳴き声は?」と聞くと「ワン」が当たり前ですが、
アメリカでは「バウ」が当たり前です。(辞書にも載ってるよ)

つまり、概念というのは時代、文化で大きく異なるのが文化人類学的基本です。
そして、天理教の宗教概念でさえそれが100%のまま継承されていると思いません。
むしろ、歪曲して(変化して)現代に伝わったのです。
「でも現存する書物にはちゃんと説明が書いてあんじゃん。事例(逸話集)もあるし」
と言われそうですが、そういった書物は昔のまま正確に伝承されていても
解釈する人間(読む人)の意識は同一ではありません。
では、誰が歪曲してのでしょう?
それはまぎれもない私たちです。

なぜ、歪曲したのかと言いますと、当然のごとく現代にマッチしないからですね。
例えば、おやさまのひな形の場面で屋敷に米泥棒が押し入っておやさまが泥棒を許して米を与えたという有名な話があります。しかし、これは現代では考えられません。
まず米泥棒がいません。もし泥棒を見つけて「お前何やってる!」と言ったところで見つかった犯人は有無をも言わさずナイフで一刺しというのが現代日本では常識となりつつありますよね。少なくとも犯人が「許して下さい~」と乞うほうが少ないのは自明です。
しかし、そういった慈悲溢れるおやさまのひな形を現代でどのように実践するかは難しい問題です。

そして、こういったアポリアを用木は実に懸命に実践しようとしています。
しかし、現場では通じない問題をどう現場に生かすかは誰も教えてくれません。
しかし、現場での不具合をエライ人達は米泥棒の話をするばかりで一向に教えない。
確かに、「ひな形はひな形(見本)なのだから、それをそっくりそのまま実践するのではなく
それをモデルとして、その心を学べと言われそうですね。」
はい。確かにそうです。しかし、その心の実践は現代では非常に難しい。
意識を学ぶ以前の問題であり、現場での生き方自体が分からない人が多いと思う。
つまり用木としての現代社会での立ち位置が非常に明確ではないということです。
例え、天理時報に載っているような成功者(「○○教区の○○さんが青少年育成で
○○褒章授章」)のことが見本として書いてあっても、それを読む大多数の平凡な庶民には彼らの真似はできない。

むしろ、教会・用木として生活苦で文化資本もない人間がドミナントではないでしょうか。
教会の信者はどんどん高齢化で減少しており、まず今日、明日のご飯を心配しなくては
ならない人です。そういった人にエライ方々のモデルは解離しすぎている。
それよりもより基本的な生活スタイルというものを提示してあげるできなのです。
解離したモデルで「こうしなさい」というのは圧迫でしかありません。

あ、なんか現代の大学生みたいなものですね。
最近は大学生の意識の低下がささやかれていますが、大学側としては学生に対して生活指導をしている所があるそうです。例えば、ゴミの出し方や自炊の仕方など。
しかし、大学側の対処が速いのはこういった学生の変化は必然であると認識している点であります。つまり、こういった学生を作り出したのは今世の中を邁進させている40代50代の我々であるという意識なのですね。
これに対して頭の堅い方々は「そこまで手取り足取り教えるなんてバカじゃねーの」と思われるでしょうが、こういった方法でしか将来を建設的にしていく方法がないのではないか?

今回も用語についての話だったのに、結局天理教内部の解離現象になりました。
結局どんな問題でもいきつく先は「もっと冷静に周りを見渡してごらん」ということでしょうかね。

結論として、宗教的言語概念をたやすく口にする人間は、人間同士のより深部にあるものを見失っているということです。ちなみに私は用木の人と話す機会があって、その人が「神様は・・・」とか「それはいんねんだよ・・・」とあたかもその人が自分を神様のように言うのを聞くと「あ、こいつはダメだな」と思ってしまいます。それは、人として間違っているし、そういう人はKYですね。(おじさま達。最近若者言葉で『空気読めない人』のことを『KY』
と表現するようですよ。若者の超越した言語感覚にはほんと脱帽しますよね。)
用木はあたかも私が人間的に優れていると思っている人が多い。(「この間お話したある用木はニュースの犯人を見て「今こそだめの教えてを教えてあげなきゃ!」とだいぶ見下ろした目線で息巻いていましたが。)
しかし、実際には「お前どうなんだ?人のこと馬鹿にしてんじゃ

学力低下の考察から・・・

今日は、職場で最近の若者は仕事を覚えないというところから学力低下の話になった。

最近では、学力低下の話題については少しメディアでも落ち着いた感じがあるが
○○テストとかがある度に学力低下はコンスタントにメディアで批判される。
この間見たTVでは、学力低下が国別のランキングで示されていた。(よく覚えてないけど)

とりあえず、日本は学力ランキングが一昔前と比べて低下している。
私のようなペーペーの学者もどきが見ると
「たかが100人に聞いただけで信頼できねー」とか
「学力の定義とはなんだよ」
とか卒論指導のようないちゃもんをつけたくなるんだけど。
100歩譲って学力が低下しているとして・・・
もっとラディカルな視点で言えば、

「学力低下ってそんなに悪いことなのだろうか?」

という点については誰も言わない。そこまで意識は回らないのか?
(そういう点に気が向くような常識人はTVには出ないだろうけど。だって視聴者にはおもしろくない意見だから。視聴者にも責任があるのだよと言われそうな番組は必然的に視聴率が悪くなる。)

TVの人(全員じゃないけどほとんどの人)は
「いやー最近のこどもはやっぱあかんねー」「そうだそうだ!」しか言わない。
視聴者も「そうだそうだ」と思うことが一種のカタルシスになっているから視聴率は↑

でも実際はトップ10に入ってたのが20位以内とかその程度の話である。
もしトップ10から200位以内とかになったら問題かもしれない。
(日本は識字率だけでも世界的には普通に高い)

しかし、200位以内といのは不可能である。いくら日本が今後も質的に
変容しようともそこまではならない。なせなら、質的な変容は同じ変容のまま
ずっとは進まないからである。衰退が永遠に続くことなんて科学的にはない。
経済活動も然り。人間はバランスが悪くなると必然的にバランスを取ろうと無意識的に動きます。特に日本人は。

だからたかが学力が『少し』低下したぐらいで騒ぐもんでないよ。
質的な変容を考えるなら、悲観的な現状の日本は『実は』異常に恵まれている。
まずはそこからスタートではないのか。
私だけが楽観的なのか?  こんな恵まれた国は他にないよ。
もちろん、年金とか社会制度や所得格差なんて表層的でしかない。
本当に重要なのは意識格差ではないか?
表層的な格差から意識の格差になってくると、所謂弱者と言われる人は
上昇不可能になってしまう。
例えば、経済格差なら¥300の宝くじで逆転できる。
しかし、それが意識の格差になると不可逆性になってします。
宝くじの買い方を知っていても、そこから得た賞金を資本とした貨幣の運動を知らない
と、ただ賞金を消費するだけになってしまい、即刻弱者に戻るのみだ。
つまり、貨幣の運動という資本主義の根本原理を知らないとただの一発屋で終わる。

格差で騒いでいるTV人を見るたび格差をなめるもんじゃないと思う。

日本は貧乏人も金持ちも立ち入れる場所は同じである。
例え貧乏でもそれなりの格好をして、入場料を持っていれば六本木ヒルズに入れる。
しかし、格差がある国ではプロレタはブルジョワが済む地域には入ることでさえ
拒否される場所なんて五万と有る。厚い壁で強制的に隔離されている地域もある。
刑務所ではなく、住宅地の話である。

もし、宝クジの買い方を偶然知っていても、新聞もTVもない。インタネットで株式も
見れないとなると、自分の知りたい知識ですら何か分からない。
ブルジョワに対する羨望の感情が沸々と憎しみに変わっていくだろう。
それがルサンチマンである。

だいぶ話が脱線して、重要なトピックが中途半端に終わってしまったが
それはまた別に書こうと思う。(特に格差問題ね)
つまり、学力低下という問題は表層でしかない。
より深刻なのは学力低下ではなく。
緩やかに情報へのアクセス権を放棄しつつあるということである。
そして、そういった状況をよしとする点ではないか。

学校の成績が悪くても、話し言葉がなっていなくても携帯操作ができれば
いいのではないか?
より深刻なのは現代日本で「ケータイって何?」とか「欧米かっ!って聞いたことがない」
という方であろう。それは学力とは無縁であるのだ。
もちろん前述したように日本ではそういった悲観的な状況は現実的でない。
しかし、一部の人間の間でそれが進行していることが深刻だ。
ここまで言って卑怯だが、将来なんて誰にもわからないのだ。
                                                             おわり。

おっと、これで終わったらこのページの存在意義はない。
こういう哲学的な探索はここではなくて、もっと詳しくて正確な所にあるよね。

私が上記考察で言いたかったことはもう少し深く考えませんか?ということにある。
「学力低下が悪いのか?」とか「それが示す意味って何だろう?」
と内省することが重要であると言いたい。日本では特定のオピニオンリーダー
の意見をそのまま全体のイデオロギーとする傾向が強い。
そしてオピニオンリーダーはTVの人であり、「TVに出ている」という時点で
偏っている人でしかないのだ。

では天理教と絡めてみましょう。
天理教の用木も同じですね。
私が対人的に使用されることを嫌う宗教概念(いんねん、り、とく、たんのう・・・)
を容易に口をつくという人は、その言葉を言った時点で思考制止しているしかない。
なぜなら、その言葉は絶対でありそれ以上何も言えないからである。
(誤解のないために。私は宗教概念を嫌いなのではない。むしろ立派な概念である。
それを人が人に言う行為が嫌いなのである。)

私はそういう人に向かって「それは違うよ」と言ったら「素直じゃない」とよく言われます。

そういった言葉が発せられる場合、ほとんどが難しい現実的な問題である。
「この問題どーする? わかんねーよ。んー」と考えてる人に向かって発せられる。
そういった時に非現実的な言葉をかけることは論外である。
確かに宗教学概論の授業などで宗教概念のトークをしてるときにはアリかもしれない。
しかし、現実的な問題の場合に発する場合では全く噛み合ない。

離婚しようか迷っている夫婦に「それは○○家のいんねんだから、たんのうせよ。
教会に足を運べよ。」と
言うのは問題のすり替えでしかない。
陽気ぐらしでもない。だって、援助じゃないもの。煙に巻いて洗脳してるだけ。
つくづく、私は天理教の「現状のおたすけ」は対人援助活動じゃないと思っています。
それだけ、「それを言って何のためになるの?」と言いたいことが多々ある。
困っている人を助けたいの?それとも満たされないあなた自身を助けたいの?
と考えさせられます。

ふーっ。。やっと本日の核心たどりつけました。
誰も学者のように専門的に「これは宗教か?」「この概念はどういう意味を持つのだ?」
なんて考える必要はありません。
あくまで人間的に「これを言われちゃ困るよね」とか「この人は食べ物がなくて困っている
んだからウダウダ言ってないで『ご飯食べる?』って聞いてみよう」とか。
実にシンプルだと思うんだけどなー

あ、そうだ。
半年位前にオーストラリアで虐待の取り組みをしている人と話をすることがあたんだけど、
その人が「対人援助で一番大切なことは何か分かるか?」と聞いてきたので
「相手の思いを想像(image)することですか?」と答えたら。
「違うよ。何事も『私の今やっている援助は、その人に本当に意味があるのかを己に問い続けることだよ。』」ということでした。ちょっと感動しました。

是非、用木の皆様も相手の立場という意味を真剣に考えてはいかがでしょうか?
そうすると容易な発言ができません。なぜなら、自分の中から「たすけたい」と
思う気持ちのもとで紡ぎ出された言葉は本物であり自分でしか責任を取れないから。
しかし、その言葉は実に人間的関わりであり、真の援助だと思います。
「学力低下だー」って騒いでいるより十分意味があると思います。

次回は「相手の立場に立つことは可能か」について書きますね。
おやすみなさいませ。