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天理教と足


今回は天理教組織とは離れて文学的なエッセイを書きたい。
少し前に天理教人と話していて、大変興味深い話を聞いた。天理教が始まったとされるのは、教祖が神の天啓を受けたときである。その日を境に中山みきの体内に神が入ったということである。
天理教学では、その史実や意味解釈にいろいろあるのだろうと思う。実際に私が調べても、理解ができない古語が並ぶばかりであった。「今の天理教が言ってることは歴史事実から間違っている」と忠告をいただくことも多いが、それはそもそも天理教の古典文献の少なさを考えると証明の必要条件を満たさない。1冊2冊の文献を取り上げて「これが正解」というのは、若者が「外国では19歳から酒が飲めるから19歳から飲んでもいいじゃん」と言っているのと変わりない。ということで私は教義解釈に関しては「色々な解釈があってどれだっていいが、とりあえずお酒は20歳からって社会は合意している」ということを採用してとりあえず議論を転がしたい。

私が大変に興味深く感じたことは、教祖の体内に神が降臨したという瞬間に先行して教祖の息子が足を痛めたことである。もともと教祖の中に神が入ったのも、教祖が息子の足の回復を願う祈祷をしていたことによる。この「足を痛めた」という事象が、古代キリストとの共通点を見出さずにはいられない。

キリスト教を考える際に「足」はキーワードである(と私は思っている)。異端を見つけるための踏絵という歴史があり、穢れを落とすために洗足式がある。キリスト教やイエスの歴史において、足を扱った物語や逸話は多い。そして最も私の知的興奮をかきたてたのは、キリスト教に影響を与えたギリシャ神話のオイディプスの神話を思い出さずにはいられない。

この神話は日本では心理学や文化人類学で大変に有名な話である。

オイディプスが生まれる前に、父であるライオス王は「息子が生まれると、息子はあなた(父)を殺すだろう」という神託を受けた。それでライオス王は、生まれた子供オイディプスを捨てた。捨てられたオイディプスは羊飼いに育てられ成長した。ある日、オイディプスが道を歩いていると、前からライオス王の行列がやってきた。オイディプスは王に道を譲るように命令されたが、オイディプスは拒否した。それに怒ったライオス王は、オイディプスの殺害を命じたが、逆にライオス王がオイディプスに殺された。オイディプスはライオスが父とは知らずに、父を殺害したのである。もちろんライオス王もオイディプスが息子と知らぬまま、神託通りに殺されたのである。その後、オイディプスはテーバイの街へ向かう。テーバイではスフィンクスという怪物が人間を襲っていた。スフィンクスが出す謎解きに答えられないと食われてしまうのである。スフィンクスはオイディプスにも謎を出した。「朝は4本足で歩き、昼は2本足、夜は3本足で歩く生き物は何か」という問題であったが、オイディプスはすぐに「人間」と答えスフィンクスの退治に成功したのである。赤ちゃんは四つん這いであるき、そののち二足歩行になり、老人になると杖という3本で歩くという意味である。これも足にまつわる重要なポイントである。

その後、オイディプスはライオス王の国を奪い、実の母親イオカステを母親とは知らずに妻として迎えた。その間に子供を授かったが、国は衰退の一途をたどった。そこで改めて神託を求めると、原因はオイディプスにあると言われ、父殺しや近親相姦の事実が判明する。母でありながらも息子の子どもを生んだイオカステは自害し、オイディプスも目をえぐり国を追放されたという話である。

そして、オイディプスという名前こそが「足を痛めた者」という意味である。父であるライオス王も同様に足を怪我している者という意味である。

以上のことから、天理教教祖の息子である中山秀司が天理教創世記において足を痛めたことは、とても文学的要素が組み入れられていると感じた。これが事実かどうかはしらないが、天理教の教典が二代真柱の命により、当時の小説家や知識人などによって編纂されたことを考えれば、ギリシャ神話からヒントを得た経緯があっても不思議ではない。推測で恐縮だが、天理教には中山秀司が足を痛めた以外にも足に関する出来事や事故が、天理教や社会の情勢を反映するように扱われているという逸話はあるんじゃないかと思う。知らないけど。キリスト教でも、足を痛めた者やふらついている者に対して、信仰の足並みや迷いとして解釈する場面が多い。中沢新一は、「キリスト教は創世記からふらついている(不安定な、脆弱な側面を持つ)宗教だ」と言い切っている。

話は飛躍するが、天理教はキリスト教と構造的に共通点があると感じることが多い。異端の多さや、イエス(教祖)は人なのか神なのかという矛盾を創世記から抱えていることも同じである。そういった意味で、これらの宗教における足という概念への考察は非常に学術的価値があると思う。

天理教の構造 かしもの•かりもの編


前回はひのきしん編として、天理教構造の一端を取り上げた。今回は、より深度を高めて考察したい。ひのきしんの意識の方向性に対して、どうしても神に向かってしまうのは、身体は神からの「かしもの•かりもの」という教えに由来すると推論できる。そして、その神に向かう行動は、必然的に自己満足な内面的限界と対峙しなければならない。特にひのきしんの行動的選択に関しては、人間の裁量以外にはありえない。「神のため」「人のため」とは言うものの、「じゃあ一生、その行為をやりつづけなよ」ということはできない。ここまで言ってしまうと私は非常に嫌味な奴だが、ラディカルに考えれば「神のため」「人のため」と全能知で人間的思考をマスキングする偽善に対しての論理的破綻を無視はできない。ひのきしんの行為選択、開始•終了選択は、どれだけ神の教えを組み入れようとも人間の行動でしかない。かしもの•かりものの教義的解釈は色々とあるのかもしれないが、とりあえず天理教ホームページの解釈を是として議論を前進させる。天理教ホームページでの「かしもの・かりもの」の解釈を引用すると
だれもが自分のものであると思って使っている身体を、親神様からの「かりもの」と教えられます。
そして、心だけが自分のものであり、その心通りに身の内をはじめとする身の周りの一切をご守護くださるのです。
これを、「人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る」(おさしづ明治22年2月14日)と仰せになっています。
従って、借りものである身体は、貸主である親神様の思召に適う使い方をすることが肝心です。
この真実を知らずに、銘々に勝手気ままな使い方をすることから、十全なるご守護を頂く理を曇らせ、ついには身の不自由を味わうことにもなってきます。

天理教人の行動は、真実という目的的な行動でなくてはならないということである。しかし真実というものの定義が非常に曖昧模糊としている。引用での真実の説明は「神様の思し召しに適う使い方」となる。この点について議論をしてしまうと結論が出ないアポリアになるので保留にする。真実の定義については、仏教的な雰囲気があるが今回は問題としない。

この「かしもの•かりもの」という教えは、宗教学として非常に特徴的であり、天理教の根幹であり、天理教の衰退の一因でもあると私は感じている。その意味をこれから説明したい。

宗教学として非常に特徴的と言ったのは、ユダヤ、キリストやイスラム、また宗教の原初において、我々(の肉体)は神からの被創造物であり神から贈与されたものであるというのが一般的教説である。これらの宗教のあらゆる行為において神の存在を突き詰めて行くと、それは「神は人間に贈与をおこなうもの。ゆえに我々が存在している」ということになる。それは天理教人の「神様に生かされている」という言葉と符合すると考えていいだろう。レヴィーストロースが人間関係の原初において贈与論を展開したことからも人類存続の重要な装置である。贈与というのは宗教(人間)というスイッチがオンにされた時点から開始する。つまり我々は神から贈与されたために、それを次の者にバトンタッチすることが最大の使命となる。信仰を伝えるために後世に言葉を伝え、人類を存続させるために異なる民族と女性を交換する。この贈与論は、人間関係と信仰の始まりとなる。しかし天理教では、この文化人類学的洞見や西欧教義に対して意義を申し立てる。かしもの•かりものというのは、こういった古典的宗教の贈与論に対して、天理教は貸与論であると私は解釈する。そして、この貸与論こそが、天理教の衰退に関与していると考えることができる。

宗教的な贈与論は、神から与えられたものを次は人間に伝えることを主に指す。レヴィーストロースが言った等価交換や反対給付という概念は、人間同士の交換という行為を前提としている。農耕民族の物々交換からはじまり、民族間、人間同士の交流が生まれ民族が拡大する。与えられた者は別の者に与えなければいけないという義務感を背負う反対給付によって世代間伝達が促進され人類は存続する。経済でさえもお金の交換であり、人類の原初形態に則している。西欧から入ってきた資本主義の原初形態は贈与という行為であり、その資本主義を形成した土壌はキリスト文化である。以前、私はブログにて「天理教人が天理教の発展を望むのであれば、天理教以外の異性と結婚するような教外婚を推奨するべき」と提案した。それは「天理教の(教会の)息子は、天理教を信仰している(教会の)女性と結婚すべきである」(天理教の娘は天理教の息子のところに嫁ぐべき)という暗黙の了解が存在し、実際に天理教内のファミリー婚の多さに驚愕したからである。この教外婚という概念は文化人類学的な知見からヒントを得たことであるが、天理教の婚姻形態をレヴィーストロースが見れば、天理教は民族的に淘汰され減少していくだろうと言うことは想像に難くない。それほど天理教内ファミリー内での結婚は多いと感じる。むしろ天理教を全く知らなかった女性が、天理教の教会に嫁ぐというケースは、私の皮膚感覚では少数派だと思う。天理教人の知り合いが複数いる人であれば「あの人とあの人は親戚」という多さには驚きを禁じ得えず、こんな時代が、まだ日本にあったのかと異様な恐怖を私は覚えた。あくまで文化人類学的に見ると、同じファミリーでの交換は血が拡大しない。血が拡大しないということは、自然に緩やかに民族は減って行く。他民族との交換は、そのまま遺伝のリスクヘッジになり、拡大し世代間で継続する。

閑話休題。一方、贈与論に比べ天理教の貸与論では、必然的に神との二者関係が求められる傾向が生じる。贈与論では、神から与えられたものを他者に伝えることが目的になる。しかし、天理教の場合は神から借りた肉体を神に返礼することが目的となる。だって借りてるんだから返さないといけない。天理教の貸与論は、個人的には非常に好感を持っており、また日本文化では貸与論の方が馴染みやすい傾向があることも感じる。しかし神から与えられた身体は、最終的に神に返却しなくてはならない。ここが本論のポイントであり天理教の特異点である。この教えは、陽気ぐらしで「人のため」という実践よりも、より根底に流布するものである。天理教本部の解釈は知らないが、「陽気ぐらし」よりも「かしもの•かりもの」が学術的に本質的である理由は、陽気暮らしは行為レベルで、かしもの•かりものは存在レベルだ

天理教の構造 ひのきしん編

前々回のブログで、聖職者でありながらキリスト教を批判したイヴァン•イリイチを取り上げた。神を思えば思うほど、神を自分なりに変容させてしまう葛藤が存在する。マルクスがかつて「宗教はアヘン」と言って、人間による宗教支配を痛烈に批判したことも、そう古いことではない。天理教も含めて宗教の持つ、社会的影響はどのようなものかと考えを巡らせば巡らすほどに迷宮に入ってしまう。宗教は、人を救いもし、また人を迷い込ませる側面があるのだろう。
イリイチはジェンダー論の中で、家事労働など利益は生み出さないが、なくてはならない再生産行動をシャドーワークと呼んだ。宗教活動も本質では、広義のシャドーワークなんだと思う。冠婚葬祭がそれであり、天理教で言えば「ひのきしん」という概念が当てはまる。それは「誰の仕事でもないが、誰かがやらないといけない仕事」に当てはまる。実際、会社などでは誰の仕事でもないが、誰かがやらない仕事というのは多数存在する。誰の仕事でもないという点では、誰もやらなくてもよい。しかし誰かがやれば、それだけで非常に快適になることがある。誰もやらないことを誰もやらないと、非常にやりにく職場になる。これは、就労経験があれば誰もが経験したことがあると思う。
ひのきしんはシャドーワークに当てはまる点があるが、その意味合いを天理教人に問うと「神への感謝」(天理教の教えなのかは定かではない)であるということだ。この神への感謝のためにという「ひのきしん」の意味は大変素晴らしいと思う。「ひのきしん」というのは漢字で書くと「日の寄進」となる。感謝のために時間を神に捧げるということの実践が「ひのきしん」ということになる。だから、ひのきしんの実践は利益を追求しないボランティア的活動が多いのは当然である。利益を追求したら、感謝という意味が薄れるから。なぜ「日の寄進」と漢字で書かずに平仮名表記なのかは分からないが、それがひのきしんの意味である。
ここからの考察は、私の私見であり批判を覚悟で書く。ひのきしんが「神への感謝」という内面的目的であるとすれば、それは行動的評価は不問となり自分の内面的裁量に依存するということである。つまりひのきしんの主体者が「これでいい」と思えば、それでひのきしんは完遂したことになる。これには天理教人からの反論が予想される。また実際には、そうではないことも多いのだろう。私がひのきしんに参加したことは遠い過去に数度あるだけなので、現在の実際は分からない。しかし、先日も行なわれた「全教一斉ひのきしんデー」を敢えて設定しなくてはいけない理由や、震災の支援も天理教本部が早々に終了宣言を出したことは、自分の裁量に依存していることでもある。その辺が、「ひのきしんはシャドーワークに当てはまる」や「広義のシャドーワーク」と表現を少し濁した理由である。あくまでシャドーワークは行動的側面に焦点があてられており、行動的目的に準拠する。しかしひのきしんは「神への感謝」となり外形的に評価できない。天理教原理主義的な見方をすれば、ひのきしんが神への感謝であれば24時間365日が適応されるべきで、外的誘因によってひのきしんが開始、終了されるべきではないとなるだろう。そして、シャドーワークとひのきしんの最大の齟齬は、行動的側面の解釈になる。ひのきしんは神への感謝であり、シャドーワークは「誰か(みんな)のため」ということである。「いやいや、ひのきしんも皆のためだ」と天理教人から反論が予想されるが、それを言ってしまうと「神への感謝」との整合性が難しくなる。現に「ひのきしんとボランティアは、行動は同じでも意味は違う」と天理教の会長さんより教えていただいたこともある。この整合性については管見の及ぶ限り、天理教人から納得のいく説明を受けたことがない。自己満足と言ってしまうと言葉は悪いが、天理教のひのきしんの実践には自己満足の雰囲気が拭いきれない。あくまで理論的に考えた場合ね。原理主義のように、そこまで攻撃的な指弾は求めないし、どれが信仰上、教義上適法なのかはここでは俎上にあげない。私は、天理教の優劣を評価したいわけではない。しかしこういった天理教の構造が存在するということを明示したい。
次回は、今回取り上げた構造をヒントに、天理教の衰退を考察したいと思う。

FLASH 5/8号 東日本大震災と宗教

読者の方から、5/8のFLASHという週刊誌を紹介していただいた。
http://www.kobunsha.com/shelf/magazine/current?seriesid=101002
早速、昨日職場の近くの売店で昼休みに購入する。あまり好んで買う雑誌のタイプではないな。
「東日本大震災と宗教」というテーマで、天理教の「災害救援ひのきしん隊」の活動が大きく取り上げられていた。災害救援ひのきしん隊の活動内容の記事は、これまで天理時報などで私が知り得た以上の情報は特になかった。しかし他の宗教団体との比較という視点で見れば、天理教の災害救援ひのきしん隊の支援規模は群を抜く。組織力も規模も、他の団体はほとんどが天理教の半分以下である。支援に関して規模なんて比較するものではないという見方もあろう。しかし、これだけ情報の流通量が莫大に増加している昨今では、「見ている人は見ている」というのは現実味を帯びている。それだけに、天理教の古典的な布教戦略によるイメージダウンが惜しい。

論じることと、行動すること

前回のブログで宗教に対するアレルギーが強い日本において、宗教理解を涵養させる側面について話をした。実践宗教としての天理教は、やはり行動的側面の次の段階において、その意味性が必然として問われる事態に遭遇する。つまり天理教外の人間にとっては天理教がどういう教えに基づいて考えるのかというよりも、どのように行動するのか、そしてそれはどういった意味があるのかという二段構えで理解が進展するということである。

私の好きな新約聖書学者に田川健三がいる。田川健三は「神を信じないクリスチャン」という異名を持つ。その思想によって、十分な知性と経歴があるにも関わらず封建的な宗教学界からは教職を追われた過去をもつ。田川の主張する神を不在とする根拠は、神の存在を積極的に思考すれば、どうしても自分の想像する自分だけの神に修正され、神が神でなくなるという逆転現象がおこるということである。神を想像すればするほど、自分だけの神を形作ることになるという矛盾が生じる。神は人間に作られた側面があると主張する。これは信仰を持つものにとっては大いなる挑戦であると思う。

私は神の存在を信じたいという希望はある。田川のいうように神を思考すればするほど神は人間仕様に変容される。しかし、それでも私は神は存在すると思う(天理教の親神かどうかは置いておいて)。それは、より純粋に形而上学的に神の存在を認めたいということである。かといって私自身には、神の存在を証明する知識も経験もない。神が存在すると考える方が豊かに生きられる気がすると思う程度である。しかし一方で天理教人による神の証明も怪しいと思っている。ここで言う天理教人は、私の知り合いのごく一部の天理教人であり天理教全体ではないことを注意してほしい。その上で私は天理教人のいう神の存在には賛同しない。まず私のモットーとして、「自分が信じている人が信じているものを信じる」ことにしている。私が持つ神の信仰に対する希望というのは「私が信じている人が、神を信じていれば、私も神を信じる」ということである。しかし、天理教人に深くコミットすれば、時には金銭のお供えを暗黙に強要され、「お前は分かっていない」と信仰的未熟さを糾弾される。信仰に疑問を持つのであれば、それは妥当性の検証がおこなわれることなく、理不尽に信仰的低位者としてのレッテルを貼られる。生まれたときから天理教組織に組み入れられている若者は、発達段階にともなう社会的自立度に応じて多くの割合で信仰に対する疑問をもつ傾向にある。しかしそれらの傾向は「お前はまだ分かってない」「教えに正直に?バカになれ」(人間思案を考えるなという意味だと思う)と抑圧され思考をストップされることを求められる。自分で考えることをやめたバカが、一人前の天理教人として見られるきらいがあるのである。つまり私が天理教の神を怪しいと思っているのは、それを信じることで生が豊かになるとは思えないからである。そして、それは天理教人の言動からでしか反応できない。天理教人の言動を見ると、田川のいう「神が人間によって作られる」という印象を脱却できない。その典型は、天理教人が多用する「神様は」という神を主語にした言動の多さであろう。そこには、人生をかけて答えの無い信仰を求めるという率直な姿勢よりは、傲慢で排他的な姿勢でしかない。

一方で、庶民宗教として発展してきた天理教にこれらの難問の負荷をかけるのも可哀想な気がする。ここまでの文章を天理教人が読めば「考えるのか、考えないのか、どっちだよ!」と詰問されそうである。しかしそれらは聖職者であるイリイチが「深い両義性」と言ったことに通じると思う。イリイチもまた、挑戦的な宗教批判を展開してバチカンと喧嘩したことで有名であるが、西欧社会の権力を大義にした操作主義を批判したことからも我々が学ぶことは多いのではないかと思う。天理教でも権力構造やお金など西欧社会の産物を多分に利用している。一方で、それらと対をなす教え(貧に落ちきれ、陽気ぐらし)に対して、どのような解釈がなされているのかは天理教人の言動をみても疑問ばかり残る。というか、そこまで深く自分だけの信仰を考えて求めている人は少ない気がしてならない。血や肩書きがないと、発言できないなんてその典型だろう。裸の王様ではないか。反対に名前や学歴や資格を黒塗りして天理時報を読めば、一人の人間として何か残せているのだろうか。私には見つけられない。そこには一貫した信仰心や、答えのない教えを求めていく姿勢よりも、いかにして人間を操作し、世俗的な評価を勝ち得るかということに思考を費やしている傾向が強いと感じざるをえない。あくまで私の主観的感想である。

天理教が把握していない被災地支援が多くある

職場の後輩が定期的に被災地に行き、被災者を支援する支援者の支援をおこなっている。先週末に、一緒に食事をして被災地の話を聞いた。
被災地では、至る所に祭壇がある。そこには絶えず参拝者が来ている。同時に、その参拝者に対して声をかける宗教関係者がいる。もちろん死者への鎮魂を促すために儀礼の促進という側面を強化している団体もある。一方で宗教団体への勧誘と思われるような団体もあるようだ。私の後輩は無宗教らしいので、その両方の団体に対して「怖かった」と言っていたことが印象的であった。
話は変わって、被災地の支援で一番勢いがあるのはNPOなどやボランティア組織なんだそうだ。行政の支援は強力で、生活を支える重要なポイントであることは言うまでもない。しかし行政支援は依頼が必要であり、支援が届くまでに時間がかかるという腰の重さがある。その点でボランティア支援は、大きなことはできないが、細やかな支援を迅速におこなってくれる。そして、そのボランティア支援団体には宗教団体を背景にしているところが少なくないようだ。中には天理教の教えを背景にして活動している団体もあるようだ。
天理時報で取り上げられている天理教の被災地支援は、ほんの一部であることは私の天理教人の知り合いから聞いている。天理時報で挙げられている天理教本部による被災地支援は「災害救援ひのきしん隊」の活動が多く取り上げられた。天理教本部としての被災地支援は、現在では終了宣言が出ている。しかし各教会単位や、地域支部単位で、数多くの天理教による支援が被災地で現在も活躍している。それはガレキの撤去や物資支援などの生活支援から、子どものケアや大人の息抜きなどの教育支援など多方面に渡る。天理教本部が、それらを把握しているかは知らないが(知り合いの天理教人は「大教会や教会本部には言ってない。上に言うと面倒になる」と言っていた)、それら信仰を持った人間の地道な行動は、私の後輩も含めて被災地の宗教に対する偏見や見方を変えているようだ。私も以前、被災地に支援に行く天理教人に対して「天理教が被災者に何ができるか」と意見交換したことがある。
私が後輩に言われたことは「とりあえず東北に遊びに行け」ということである。支援の段階は中期計画に入っており、経済を動かすためには被災地でお金を落とさなければいけない。夏にも私の仕事関係で被災者を支援するために東北に行くが、そのときは東北で散財する遊びをしようと思う。しかし大教会や天理教本部は、裸の王様なんだろうか。肥大した中央集権の限界がきていることが感じられた。

天理教人は、あらゆることに不満が多い

我が家に天理時報が届かなくなってから数ヶ月。天理教に関するネタがない。ネタを拾うために天理教道友社のホームページでアップされている天理時報の「視点」を読む。4月15日号の「“幸せな若者”への働きかけは」というテーマである。
まず3月28日に天理でおこなわれた学生のイベントの参加者に触れており、
参加者アンケートによると親が未信仰の人の割合は全体の14パーセント、約700人。若者による若者へのにをいがけの輪が広がってきている。
とある。何を根拠に「若者による若者へのにおいがけの輪が広がってきている」という結果を導きだしているのか疑問である。せめて過去数年の増加量を提示して(もっと言えば、変数間の有意差を出して)「輪が広がっている」というべきである。
それはエッセイに対しては少々厳しい注文かもしれない。しかし著者が取り上げている「絶望の国の幸福な若者たち」という本は、社会学者による社会学的な本である。私もずいぶん前に読んだが、この本は社会学者らしく、主張の根拠となるデータが多用されていた(と思う。あまり覚えてないけど)。当たり前のことであるが、データは絶対である。しかし導きだされたデータには様々な交絡変数やバイアスが介在するため、どのように解釈するかは注意しなくてはいけない。例えば結果が50%であっても人によっては「50%も」と思うのか「50%しか」という違いを検討しない考察は書いてはいけないということを先週の授業で学生に教えたばかりである。原発問題がいい例のように、自分の主張について都合よくデータを集めれば表面的な説得性は高まるが、決してアポリアに対する解答であってはならない。この本の最大の主旨として50代60代が偉そうに言う「最近の若い奴は…」という「若者論」は無根拠、無意味である。若者は現在の不遇な状態に対して満足であり、将来に対して不安をもっていることをデータで示している。でも結論は控えめだったように思う。記憶にない。

私が言いたいことは何かと言うと、天理時報の「視点」のように若者論を抽象論に置き換える保守的な老人世代の言っていることは社会にとって無意味である。無意味でなくても「若者はダメだ」と言うきとで、若者のモチベーションを高めることには決してならない。むしろ有害である。それは、なぜ最近の若者は今に満足し、将来に不安を覚えているのかということの理由を少しでも考えれば分かるはずである。そう、今の若者の状態は、我々が社会の恩恵を食いつぶしてきたことが一因である。少なくとも、将来は現在の結果であるとそのように考える方が建設的である。この天理時報の著者は、そんな現代の若者像に対して不満を持っている。しかし、「お前たち若者は「我さえ良くば、今さえ良くば」に毒されているから、もっと天理教を信仰しろ」と言うことで、本当に若者のモチベーションが上がり信仰が広がると思っているのだろうか。

一般の若者たちの間でも、被災地で各種ボランティアに励む姿は多く見られる。両者は、人のために自分ができることをするという点で相通じるが、親神様への報恩感謝の心からつとめるひのきしん、「一れつきょうだい」の教えのもとで展開される、信仰心に基づくたすけ合いの実践という意味では、明らかに一線を画す。

先行きの見えない社会背景が影響しているとはいえ、すでに「幸福感」を味わいながら生きる現代の若者たちに信仰的な働きかけを試みるのは一筋縄ではいかないだろう。しかし一方で、自分の身近にある「小さな幸せ」「いまの幸せ」だけを求める生き方は「我さえ良くば今さえ良くば」という、利己的で刹那的な考え方の延長線上にあるものとはいえないだろうか。まして「陽気ぐらし」「一れつきょうだい」の教えの世界からは、程遠い生き方と言わざるを得ない。

先述のように、若者による若者への布教の動きが広がっていることは頼もしい限りである。それだけに、にをいを掛けられた若者に対する事後の丹精、ひいては、若者たちが自らにをいがけ・おたすけの一歩を踏み出せるようなサポートといった私たち大人が取り組むべきテーマは、今後ますます重要になるだろう。

ボランティアに励む若者に対して「我さえ良くば、今さえ良くば」と言っていいのか?それらを利己的、刹那的な延長線上と言うのであれば、著者のいう「我さえ良くば、今さえ良くば」は何を指しているのだろうか。天理教を信仰していれば我さえ良くばの行動はすべて免罪されるのか。
あれ?そもそも天理教って、今に満足してはいけないという教えなのか?天理教って色々な出来事が神様の御守護だから、悲しいことでさえも喜ぶことをモットーとし、不平不満はたんのうするんじゃなかったっけ?それは「小さな幸せ」「いまの幸せ」とは違うの?ということは、天理教を信仰することは、「大きな幸せだけ目指し」「現状に不満を持つ」ことを目指すのだろうか。

天理時報の言いたいことはなんとなく分かるが、論点が全然芯を喰ってない。なぜ「視点」を書く天理教人は、こんなに社会に対して不満ばかりなのだろうか。聞いてる方がうんざりしてしまう。それで社会を少しでも良くできると本当に思っているのだろうか。前にも言ったが「我さえ良くば、今さえ良くば」と言う天理教人ほど「我さえ良くば、今さえ良くば」に毒されている見本はないと思う。本気で若者をサポートしたければ、まず不満をやめるべきだと私は提案する。私も年寄り論を書こうかな。年寄りほど、キレやすくて、経済に貢献しない(可処分所得が多い)年代はないというデータもあるんだけどね。でもそんなこと言いだしたら、私はスッキリするけど世代間調和なんてできないから言わない。こういった無反省的な記事を読むと天理時報の購読を止めてよかったと思う。ほんとに。

信念を持つことと社会に逆行することは全く異なる

googleで「天理教」と検索する。検索結果の最初の画面で、天理教に批判的なサイトが半分くらい出てくる。ほとんどが匿名の掲示板である。凄い、というか怖い。
以前、天理時報で天理教幹部が信者に対して「あまり天理教のことをネットやブログで発信しない方がいい」というニュアンスのことを発信していた。その結果かどうか分からないが、ネットでは天理教人が管理者と思われるサイトは少なく(検索上位には出てこない)、天理教を批判するサイトばかりが目立つ。天理教人によるネット発信機能を抑制すると、このままいくと天理教と検索すると、天理教を批判するサイトでネットは埋め尽くされることになりかねないのではないだろうか。特にネットというツールはネガティブな拡散速度が速い。以前のようにネットの情報は信頼できないと言って相手にしない対策は、どこに向かうのだろうか。本当に天理教幹部が天理教人の発信機能を抑制したいと思っているのであれば、こういった対応は本当に「社会を何も分かってない状態」ではないだろうか。社会の潮目がまったく読めていない。
むしろ天理教人にどんどん発信させて、「天理教」とググれば天理教の有益な情報が溢れる方が天理教にとってはいいことなのではないだろうか。私のブログのように、私がいい加減なことを言っても、読者が「カインの言ってることは間違いだ」と訂正してくれる方もいるし「カインの言いたいことは、こういう意味なんだよ」と私に替わって説明してくれる方もいる。私は読者に助けられている。
天理教幹部の中には、実は天理教の転覆を望んでいる者がいるということなのだろうか。どっちにしろ社会と天理教は逆方向に進んでいるようだ。

自己点検を機能させ天理教を前進させるためには

以前のブログで、私は天理教人のポジティブな要素を前面に出して「社会と天理教を架橋するために天理教人は社会に出た方がいい」と言った。すると、それに対する反応を多くいただいた。その反応の多くは「無理だろ」というネガティブなものであった。以下、ある方の短いコメントであるが天理教のリアルな構造が凝縮されているので再録したい。

天理教の人間はやたらとお道の人間と世間の人とを分け隔てているように感じます。
世間の人たちと自分たちは違う自分たちが特別であるかのような話にはうんざりします。私の知っている教会の人間はペテン師ばかりだと思っています。それくらい外と内の顔は違います。
社会に出たくてもその意思は通用しません。天理教の会長は特に自分たちの子どもを社会に出さず社会に出ることが道から外れている様な、間違いを犯すような気持ちにさせます。社会の色に染められて天理教の精神を忘れてしまうのが恐いからなのか何なのかは知りませんが、教会や天理教の施設で生活している限り自分の意思は有って無いようなもの。会長や先生と呼ばれる人の教えを守ることが信仰で、その人たちの意に反することは、埃だの欲だのという言葉で切り捨てられるのです。
子供に自由な夢や希望なんて持たせてあげられないのが天理教社会での現実です。

天理教組織から一歩引いて見ている私の言葉よりも、重みが異なる生の言葉だと思う。私にコメントやメッセージを寄越した方すべてが、ネガティブな反応をされる。私はそういった天理教のネガティブな点を知らないわけではない。むしろ、このブログをやっていると、天理教のダークサイドを数多く教えていただける。しかし、私が知るダークサイドが天理教の姿なのか、多くの天理教人に当てはまるのかは分からない。私が知る天理教人をみても、人として尊敬できる方もいれば、「本当に信仰者なのか?」と思う方もいる。天理教の将来像について想像し言語化すると、どうしても教義解釈の仕方や教義史実闘争になるきらいがある。申し訳ないが、私は天理教研究者ではないので教義解釈や史実闘争は理解が及ばない。そして、天理教人が布教する社会の人間にとっても天理教の細かい教義史実なんてどうだっていいだろう。信仰者にとって教義というものは、とても大切なものであることは理解できる。一方で行動レベルでの実践は手薄であるように思う。時折「天理教人は社会に出て、社会性を学ぶべきだ」という言葉も聞かれる。また中世キリストで異端を取り締まるための「異端審問裁判」が乱暴におこなわれた。私はそこまで攻撃的な指導や取り締まりは求めないが、天理教も社会の一員であることを求めるのであれば、社会の審問を受けるべきではないだろうか。私が言っていることはメタの部分であり結論ではない。その意味では社会にとって良いものは拡大してほしいし、悪いものは淘汰されればいいと思う。こういった考えは経済合理主義に毒された行き過ぎたキャピタリズムだろうか。しかし今の天理教では、こういったキャピタリズムを乗り越えるほどの天理教必要論を提示できる人は少ない。そこには「道専務」であることに優越感を覚えて、歩みを止めている保守的な老人か、倫理を重んじる中年だけであり、若者はやる気を削がれている。良い商品は皆買っていき、悪い商品は誰も買わない。天理教という商品価値はどこにあるのだろうか。信仰がなくても生きていける時代に、この問いは非常に難問である。しかし自室に籠って自慰行為ばかりしていては、自己点検なんてできない。天理教村と揶揄されないように開放することを提案したい。

美しい高校野球の闇

私の周りには高校野球ファンが多い。現在、選抜高校野球が開催されており、地方出身の人間との話題では高校野球に関するものが多い。今日は九州学院と作新学院卒の友人と話した。といっても技術的な部分は難しくて私は聞き役である。主に、審判の判定技術に関して話していた。総括すると、高校野球の審判はボランティアで形成されている。それらは野球経験者が主だが、審判を家業としているわけではない。そして誤審が多い。その誤審は、本大会では微妙な判定というより野球経験者なら「それはないんじゃないか」というほど、結構ひどい誤審なようだ。そして、高校野球では判定に対する「疑義」や「申し立て」というものが、美しくないという暗黙の了解が存在する。つまり、プロ野球であれば選手や監督が審判の判定に激高して、勢い余って退場になってしまうということがみられるが、高校野球ではそのような風景はあってはならないらしい。もちろん教育行事であるために、不合理なことも受け入れるという暗黙知が必要なことはいうまでもない。またそういった機能(「審判も人間だから間違うことはあるんだぜ」)を持たせることは必要かもしれない。しかし友人たちが嘆いていることは、審判技術が看過できないほどに、あまりに低いということである。つまり、「審判もミスジャッジすることはある」という想定を超えた、想定外の大きなミスについてである。この場合、微妙な判定のミスジャッジ同様に「審判が絶対」という対処は無理があるようだ。「審判もミスをするという不合理は学びである」という解釈を、あまりにもひどい想定外の誤審に対しても適応するのは強引である。それでは一定のルールのもとに頑張ってきていた学生が、あまりにかわいそうということで意見が一致した。
この話を聞いて、私は天理教の垂直的教会構造と類似していると感じた。教会では「会長さん」が絶対であり、教会の運営は会長さんの裁量が大きい。高校野球に置き換えるのであれば、審判は会長さんであり、選手は親族、信者である。高校野球も教会も、その運営母体は「審判(会長)が大きな間違いを起こすはずがない」という前提が存在する。しかし裏を返せば、「審判が素人のような大きな誤審をしたら対応はどうしたらいいか分からない」ということである。想定内ということは、想定外のことが起こったときの対応は考えられていないということでもある。それは高校野球に限らずに、原発が証明している。私は問題点の指摘だけに終わらさず、できるだけ私なりの回答を用意したいとブログでは心がけている。しかし申し訳ないが、この問題は考えれば考えるほど回答への道筋は複雑になる。今はこれに対する回答は持ち合わせていない。会長さんの裁量に対してビデオ判定や、罷免できる方法を用意することが適切なのか分からない。ただ、審判技術(会長さんの力量)の低下をこのまま放置するわけにはいかないのではないだろうか。裁量の自由は、権力の濫用と隣合わせである。