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天理教の言っていることが理解できない怒り

先日雨が降る中、近所の道を駅に向かって歩いていた。すると、住宅街の狭い道の真ん中で一人の若い女性が傘を差して、産まれたばかりの乳飲み子を背負ってチラシを配っていた。私は数10メートル先から、「あれ?選挙も終わったのに何だろう」と思って、その女性に近づいた。すると「天理教でーす。よろしくお願いいたします」ということで、私は絶句したままチラシを受け取ってすれ違った。私が絶句したのはこの極寒の中、傘を差して乳飲み子を背負って布教する大学を出たばかりだろうかの若い女性の姿に驚いたからである。
もし彼女が私の知り合いであれば、「子供が風邪をひきますよ。やめなさい」と言うだろう。それほど状況としては痛々しいものがあった。天理教人は誰も彼女を止めないのだろうか。むしろ、苦労話やたんのう(≠修行)として美談になるのだろうか。
受け取ったチラシを電車を乗りながら読む。全文(文末の教会名と住所は省く)を以下に引用する。

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「幸せのもとは」
人間にとっての悩みの多くは
夫婦、親子、兄弟姉妹のもつれ、
つまり家族に関するものです。
これが治れば、
幸せな社会になっていきます。
そのためには、まず、
この世界の元を知ること
人間は何のために誰によって造られたか・・・
人生の目的、創造主を知ること
人生の目的は陽気ぐらしであり、
創造主は親神様であります。
私たちは陽気ぐらしを目指して
努力しているのです。
その陽気ぐらしをするために
組み合わされたのが家族であります。
夫婦、親子、兄弟姉妹は
陽気ぐらしをするために
一番適したメンバーなのです。
そのことを自覚すると、
日々感謝して暮らせるのではないでしょうか。
家族におこる事情は、どんなことでも、
お互いが自分自身のこととして受け止めて、
話し合い、たすけあうことが大切
五本の指、どの指を噛んでも痛いように、
家族一人の痛みは、家族みんなの痛み
家族の一人に変わってもらいたいと思った時は、
自分自身を変えていくことが近道。
家族は一つにつながったもの
喜びも悲しみも家族で分かちあい、
生きている喜びが周りに伝わるよう、
その輪を世界中に広げていきたいものです。

願い通りの守護ではなく、
心通りの守護なのです。
心を変える為の信心であり、
自分が変われば全てが変わります。
思い切って教会を訪ねてみませんか?
どんな悩みも聞かせて頂きます。

天理教◯◯◯大教会
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やはり論理が飛躍して、何が言いたいのかよく分からない。日本語としての一文が長く、主語と目的語がごっちゃになっているため理解が難しい。天理教人との会話や神殿講話でよくある洗脳的特徴である。ましてや「世界の元」「創造主」「心通りの守護」など天理教的語用に親しみのない我々一般市民に通じると思っているのだろうか。それとも何が言いたいのかよく分からないことが宗教特有のレトリックであり、必要条件なのだろうか。宗教や神という輪郭が定まらないものだからこそ、畏敬の念を込めてシンプルに人間の言葉を丁寧に重ねる必要があるのではなかろうか(話を単純化した方がいいということではない)。

つくづく、天理教の布教活動はどこを目指しているのか分からなくなる。「天理王命」と書いた旗を先頭に一列になって歌をうたいながら行進する神名流しも、各家庭にピンポーンと天理教を勧める個別訪問も、駅前などで絶叫しながら話をする路傍講演も同様である。そこまで一般市民に人に避けられ嫌われてまですることに何の意味があるのだろうか。教祖の娘が浪速布教をして、民衆に好奇の目で見られたときと時代が違いすぎる。このような時代錯誤の勘違い布教がたんのう(≠修行)なのか。
教祖の雛形とは、ただ先人の真似をすればいいという軽いものだろうか。私には教義理解と経営戦略の点で今の天理教の布教論が理解できない。
かといって、こういった話をすると、これまで私が天理教人に言われたことは、「先人の雛形を辿り、先人の思いに心を寄り添うことが大事だから」と、耳触りが心地よく、そして全く意味のない言葉と実践ばかりであった。
一方で「万人に好かれるなんてことは目指していない。私たちの布教で、一人でも助かる人がいればいい」と言われたこともある。では天理教は社会的or精神的弱者のためだけの教えなのか。普通に不自由なく生活している者に「だめの教え」(最後の教え)は必要ないのだろうか。
これに応えられる普遍的な教義思想を語れる天理教人に出会ったことはない。多くが、天理時報で使用されているような、その場だけの耳障りの心地よい、中身がからっぽな言葉を並べているだけで発話者の個性は見えてこない。
素朴な疑問として、なぜ天理教人は天理教を信仰しているのだろうか。

こういった問いを天理教人に問い続けていると、いつの間にか「カインは気難しい」と言われて終わるのがオチである。
天理教自身の問いとてし果たしてそれでいいのだろうか。

同様に天理教の信仰に対して「天理教を信仰すると家族が円満になる」というが、天理教家族が平均以上に円満であるということを感じたことはない。もちろん円満な家族もあれば、そうではない家族もいるだろう。そうである以上、天理教を信仰すると陽気ぐらしになるという理路は当然成立しない。説得性もない。
特定の苗字ばかりの能力のない官僚組織や、後継者問題、信者離れで天理教の教会が激減していることも同根であろう。

今回、記事に書いたことが宗教の本質ではないことは私も感じるところである。私が取り上げていることは教義よりも行動経済学的であり、宗教を表面的に扱っている嫌いがある。宗教はより形而上学的に議論されるべきであると思う。しかし、天理教を語るときに、天理教という実践宗教を裏付ける理論的な浅薄さと、天理教人の矛盾した言動を野放しにはできないという思いが常にシコリのように残り続けていることも事実であり避けては通れない。しかし、二代真柱以降の天理教の理論的成熟を担う人間がいないことをここで嘆いても無意味であることは承知している。
しかし、私は極寒の雨が降る中、乳飲み子を背負った若い女性が必死で頑張っている姿を見て、これが天理教のいう陽気ぐらしの実態なのか戸惑うとともに、天理教教義の不安定さや偽善的信仰に憤りを覚えたことをここに記す。なぜ天理教人はこうも世間一般とのバランス感覚に欠けているのか、天理教の著しい衰退の一端を見た気がした。

人権意識の低い大教会長は糾弾されるべきである

先週、久しぶりに天理教人にお会いし話をする時間があった。この方は、いわゆる「道一条」と言われる方で、昔からの私の知り合いである。非常に信仰が篤く、毎月の上級教会へのお供え(心定め)も「親(上級教会)に喜んでいただきたい」と少なくないお供えをしている。もちろん、彼の生活は苦しい。 話では、130年祭に向けての天理教の動きや、先月の大祭の青年会総会の話や、天理教の教会が火事になった話など多くの話を聞くことができた。しかし、私は話の中で彼の思想が以前とは違うと感じることができた。

以前であれば、「宗教って怖いね」と私が感じるほど、上級教会や大教会、本部への忠誠心が前面に出ていた。しかし今回話をして、私は彼の忠誠心に陰りがあることを感じた。そこで多少、誘導的であるが「130年祭が終わると、天理教ってどうなるんでしょうか」と疑問を投げかけてみた。すると、「天理教は大転換を求められるでしょう」と思いがけない返答があった。以前の彼であれば一般常識から見ると、まるで天理教に洗脳されていると思わんばかりの、天理教体制に対する陶酔ぶりであった。しかし今回は、まるで覚醒したかのように現体制への猜疑心を露わにしていた。

あまりの変化に私の思考は止まってしまい、彼の話が何も頭に入ってこなくなった。そこで彼の変化に対する私の驚きを、率直に彼に表明した。「以前と違って、何か変わりましたね」と。すると、天理教の体制に対する問題点をどんどん述べていただいた。例えば、この苦しい日本経済の中で若手(青年)に対して雇用保険、国民年金を保証もせずに、幹部連中の中には生命保険にも入っている人がいることや、現場には「勇めよ」というばかりだが、大教会長は「本部の御用」ばかりで現場に顔すら出さない、顔すら出さないくせに教会の子弟たちに対して大教会には人が少ないからという理由だけで一方的な人事権を行使する。人事権だけならまだしも、その子の人生を左右するような進路や婚姻に対しても権力を行使する、天理教人がネットやブログなどで意見を表明するようなら、大教会から止めるようにと圧力がかけられるといったことが挙げられる。

上記に挙げた例が、すべての権力者に当てはまるかはわからない。一部の権力者なのだと思う。しかしこれまで天理教に心酔してき信仰者が、「今の経営者は無能だ」と言っていることは間違いない。私はこれまでのブログの中で、社会常識に無知な権力者と天理教本部の共犯関係を指摘してきた。しかし彼は天理教の衰退に関しての戦犯は「無能な大教会長である」と断罪した。

彼がいうには、現真柱が天理教のリーダーになってから真柱の統率力は一気に低下した。現真柱には宗教団体のトップとして求められるある意味異常なカリスマ性や、独裁的な指導力はない。別の見方をすると、現真柱は現実的で平均的で魅力がないリーダーになった。そして、現真柱の統率力が低下した代わりに、その取り巻きとなる大教会長(本部、教庁)の意見が強くなったようである。

さて、ここで問題なのはこの大教会長たちが、天理教衰退の原因であるのに、責任を問われることなく世襲制という輪番でしかないという点である。さすがに彼は大教会長のことを無能と表現しなかったが、私は経営者として無能だと思う。天理教がここまで衰退した責任を誰かが取らないといけない。少なくともこれまでと同じような方法ではいけないはずである。しかし天理教の経営は、京大で理工学を学んだ人間や、大学を4年以上かけて卒業した人間が相も変わらず偉そうに信者に説諭している。外部から見て、経営能力がない人間が権力を握っている。これほど滑稽で無責任なことはない。

私は彼の発言した事例に対して、すべてにおいて権力の濫用の可能性があるとして社会学的に説明した。天理教は企業ではなく就労契約も保証もおこなっていないため、信教の自由や表現の自由という憲法の基本は、絶対的に守られなければならない。ここは法治国家の日本であり、どんなに崇高な教えを天理教が持っていても社会の構成員として例外は認められない。

また今後、天理教がどのように生き残るかという点においても、硬直した垂直したピラミッドでは生存戦略としても可能性は低い。組織として多くの人に共感を与える組織になるためには、本部—大教会—上級教会という閉鎖的でトップダウンでは多様性も柔軟性もない。今の天理教は教祖130年祭しか見えてないが、教祖130年祭後を考えるのであれば、全国に散らばる教会を地域主体で立て直さなければ、天理教は私が予想するよりも早く終わるだろう。そこには大教会長が正解であっては無理だろう。

最後に彼は、大教会長が権力を手放すか、勘違いを正さなければ天理教の未来はないと断言して別れることになった。教祖130年祭に向けて、意気軒昂に勇まなければならないのは現場の天理教人ではなく、大教会長であることを記す。大教会長という権力の適正化を望むばかりである。

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天理教「こどもおぢばがえり」に行ってきた

こどもおぢばがえりの最終日に参加してきた。今回は子供は同行せず、大人だけ。

天理駅に到着して、天理本通り(商店街)を通る。子供が多くて賑わっていると思ったが、意外に人が少なくて、商店街も閑散とした様子。駅から天理教本部のある神殿に徒歩で向かう。参道のようなもの。

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商店街のいたる所にポスターや旗が見える。

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これが天理教少年会のメインキャラクター「ピッキー」(右)。ミッキーマウスがネズミだとすると、ピッキーはたぶん黄色の鳥が原型。左はピッキーの相方の女の子のキャラクター。名前は分からない。

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天理本通りは全長1kmくらいでとても長い。途中には信号機が2カ所ある。長いのでお店に入ってしまうと、どっちから来たか分からなくなってしまう。

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商店街を駅から神殿に向かうに連れて、お土産を買う子供たちが多くなってきた。だんだんとイベント(お祭り)のような雰囲気がでてきた。よく目につくのが「カレーファイブ」というキャラクター。天理教が現在最も力を入れている物販の一つのようだ。宗教団体の物販がカレー?という疑問点はさておき、見るからに甘そう。(今回は試食せず)

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やっと神殿に到着。すでに汗だく。イベント中とは思えないほど人が少ない。写真には写ってはいないが、中学生のボランティア達(少年ひのきしん隊:天理教版ボーイスカウト)がタダで冷たいお茶をサービスしてくれる。熱中症が叫ばれている以前からこのサービスがあるのは天理教のホスピタリティ精神である。

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子供はイベント会場にいるため、神殿付近に子供は少ない。大人だけで子供のイベントに参加するのは気がひけるが、天理教本部のスタッフに聞くと神殿から一番近くは「アタックワールド」という会場があるから行ってみてはと説明を受けて向かう。

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天理教オリジナルキャラクターがいたるところにいる。写真にはうつっていないが、会場には子供がたくさんいた。プールもある。子供と同じ数ほどスタッフがいて、安全には配慮していることが窺える。スタッフは高校生ほどの若い人ばかり。

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待ち合いのテントには、引率の大人たちがぐったり。つかの間の休息のようだ。何十人もの子供を引率するのは、さぞかし大変だろう。

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天理教関連の主な施設の地図。改めて、宗教を中心とした街だと実感。

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夜のパレードまでは少し時間があり、移動する。パレード用の観覧席は、この期間だけのために設置される。時間と人手がかかっていることが窺える。

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パレードまでの時間に夕飯を済ませようと知り合いがおすすめしてくれたうなぎ屋さん。天理でうなぎ?と思ったが、普通においしかった。

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腹ごしらえも終わり、日も暮れ夜のパレードに向かう。ほとんどの準備を若者がしているのが新鮮。パレードまでの時間は、天理高校などの高校生が子供たちとゲームをして盛り上げる。

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10分ほどで夜のおつとめが終わり、いよいよパレードの開始。花火がスタートの合図。

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パレードのトップは天理高校吹奏楽部の行進。

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ピッキーの登場。メインキャラクターだが、そこまで人気者ではなさそう。

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フロートと呼ばれる、車を改造した乗り物。昨年見たものや、初めて見たものもある。完成度は高いが、どこか手作り感があり哀愁がある。わずか10日間のイベントのために、ここまでやるかと感心させられる。

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鼓笛隊やフロートから流れている音楽や、書かれているスローガンは天理教オリジナルなものばかりだが、宗教的というよりも、道徳的なものばかり。子供のイベントだが、世俗にまみれた大人もドキっとさせられる。

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毎年見ることができるキャラクターや乗り物。毎年見てても、じっくり見て聞いてしまう。

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パレードが終わると、神殿前で閉会式が行われる。最終日以外は閉会式はない。

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最後まで見たかったが、電車の時間が迫ってきていたので中座することに。神殿付近には全国にある教会の提灯が並べてある。幻想的な光景。ずらーーーーと。

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ずらーーーーーーーーーーーーと。これでもほんの一部らしい。

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最後の花火の音だけを聞きながら、急いで天理駅に向かう。おいしそうな天理スタミナラーメンを横目に駅に急ぐ。ぎりぎり電車に乗れ、無事地元に帰ることができた。

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終わり。改めて宗教団体とは、人の数がモノを言うのだと実感。今回感じたことは、「こどもおぢばがえり」はもう少しメジャーであってもいいのかなと。天理教人だけではなく、一般人も気軽に参加できるようなイベントとして。元々、教会単位の集団(団参)が対象だから、私のように個人で行った人間が駅を降りたところで何の案内もないし、どうしたらいいか分からない。CMや公式HPの垂れ流しを見ても不親切だし。宗教行事をレジャー化して誰でも来れるようにするのは難しいと思うが、現状のクオリティとかかる人手を考えると天理教内だけで完結するのは何かもったいない。何より幼児から低学年であれば、十分に楽しめるはずだ。家に帰ると娘も「今年も行きたかった!ずるい!」と言っていたし。「においがけ」という布教活動は天理教でも大切な政策の一つだが、つくづく天理教は情報発信や広報活動が苦手であると感じた。

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天理教のハッピを着た人間が従軍慰安の国連人権委員会で、日本への謝罪を求める発言をしたという件について

天理教は新興宗教団体として、一定の市民権を得ている。それらの大きな要因に、天理教は政治的な発言を多くしないという側面がある。某学界などは政治的発言というよりも、たびたび政教分離の俎上に挙げられるほど政治団体と一体化している。そこには団体として強力な求心力もあるだろうが、一方で宗教団体が政治活動をおこなうキナ臭い嫌悪感を感じる人は多い。その点において、天理教は比較的ゆるく、開放的で自由な雰囲気がある。天理教も過去には特定の政治家を応援したりしたこともあったようだが、近年では特定の政治家や政党にコミットすることはない。 私も、そのような天理教の姿勢には好感を持っている。個人がどのような政治的思想・信条を持っていようと、自由が担保されている。また過去のブログにも書いたが、世論を二分するような議題には天理教が関わることは賢明ではない。それは政治的目的を持った政治団体だけでよい。天理教の金科玉条は「陽気ぐらし」であり、政治的達成ではないからである。 そんな中、議論が沸騰している従軍慰安婦問題について天理教という名前を最近たびたび耳に目にすることがある。そのソースが以下のリンクである。ここから各ブログなどで拡散されているようである。

https://www.facebook.com/shun.
ferguson.3/posts/668771989875017

上記の写真を見ると、天理教のハッピ(公式ユニフォーム)を着た天理大学の教員が、国連の人権委員会で日本に謝罪を求める発言をした、という記事である。 下記の産経新聞でも、この人権委員会の特集記事を記載している。上記の天理教のハッピを着た人間の写真は、産経新聞ではこの問題に長らく取り組んでいる戸塚弁護士だけにトリミングされている。

http://sankei.jp.msn.com/politics/
news/140727/plc14072713000007-n1.htm

私は、これらの写真と記事がどの程度事実を正確に反映しているのか分からない。研究者として人権委員会を見学しただけなのか、天理教代表として何らかの意見表明をしたのか、天理大学の代表なのか、そして本当に日本に謝罪を求める発言をしたのか。ただ、写真からは天理教のハッピを着て、対日謝罪を求める人たちと同じ方向に着席(戸塚弁護士の隣)していることは事実のようである。本人にはこれが報道写真に撮られることも考えてのことであろう。このことからこの人物は天理教を代表して日本に謝罪を求める立場であると思われる。(天理大学の教員という立場で、天理教のハッピを着て、対日席に座っている以上、個人の意見とすることは非常に無理がある)

そこで私はハタと止まってしまった。天理教が、特定の政治的課題に対して明確な意見を表明するなど珍しいな、と。どういった教義が従軍慰安婦と関連しているのだろうか。「陽気ぐらし」という目的が、従軍慰安婦の賛否にどのように関わるのかイマイチ理解できない。一信仰者による個人的関係性の中で、従軍慰安婦における対日という思想は勝手にすればよいが、天理教総体として従軍慰安婦にコミットする動機(教義)は私にはピンとこない。つまるところ、従軍慰安婦などの特定の思想に肩入れするメリット(計算)が理解できない。弱者の救済という点では、「陽気ぐらし」の下位概念である「ひとだすけ」に関わることは理解できるが、従軍慰安婦に関しては政治的リスクが大きすぎる。 天理教の思想がどのように従軍慰安婦と関連するのかをネットで調べていると、下記の論文を天理大学からリンクできた。今回写真に写っていた研究者の論文である。

http://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/
metadata/3239/GKH022907.pdf

一読してみると、「従軍慰安婦」は「ある」という前提から議論されており、私も微妙な反応しかできなかった。自分に都合のよい情報しか集めない確証バイアスが多いと感じ、なかなか「はい、そうですか」と論理的に言える論文ではない。 この論文を読む限り、国連人権委員会での天理教の主張というのは誤りで、研究者個人の主張である可能性が強いと感じる。彼は従軍慰安婦を研究テーマにした研究者であり、何か個人的に強い思い入れがあるのだろう。私は、本件を天理教の政策ではなく、研究者個人の活動だったとしか思えない。

もし、天理教の主張であるのなから、どのような天理教教義と、どのような政治的目的が関連しているのか教えてほしい。

もし、研究者個人の主張であれば、個人の思想はどうでもいいが、旅費の出所や信者への説明はどのようにしたのかだけ明らかにしてほしい。

ええい、面倒くさい研究者だ。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

三代真柱の死去に思う天理教の暗い未来

 

三代真柱が死去した。全国紙のニュースでも取り上げられた。その後の教団葬の様子は、天理時報でも大きく紙面を割かれていた。天理時報や天理教人の論調として多いものが「年祭の旬に大きな節を見せられた、全力で年祭活動に向かおう」(ex天理時報4387号)と異口同音である。

私は元々、天理教の年祭についてはあまり理解していない。来年か再来年に天理教の教祖が亡くなってから130年となる年祭だが、これは天理教にとってどういうものなのかイマイチ理解できない。というのは、これが喜ぶべきことなのか、悲しむべきものなのか、苦しむべきものなのか、喜ぶために苦しむべきなのか、じゃあ何をもって喜べるようになるのか、どのように受け止めればいいのかよくわからないということである。つまり天理時報や天理教人の言動を見ると、「年祭に向かって頑張らねば」とゴールのない全力疾走を求められるという悲壮感しか私は感じない。それ以外の情緒を天理時報や天理教人からは感じない。

素朴な疑問として年祭って何の(誰の)ためなのだろうか。三代真柱の死去が、年祭活動と意味付けられることで、三代真柱の生前の意思が薄められているように外部にいる私は感じる。このことは小さいことのようだが、意外に重要なことなのではないかと思う。三代真柱の生前の意思は、どのようなものかは私は理解してない。しかし初代、二代、三代、四代と後継されるたびに、天理教の社会的影響力は低下している感が否めない。東大出身の二代は各界の人脈も豊富であり、宗教的には教義の編纂をおこない、社会的には学校、病院などを作り実質的に天理教を全国的に認知させた人物である。亡くなった三代はスポーツに造詣が深く、教内的には時間があれば全国各地の教会に出向いて説教をしたと聞く。これらは多くの天理教人が同意してくれるだろう。一方、現四代については「どんな人?」と天理教人に聞いても、なかなかパッと一貫した回答を得ることがない。まさしく「目立った特徴がない」というのが特徴だと私は思っている。そんな中でリーダーシップを保持していた三代の死去である。今後の天理教はどうなっていくのだろうかと考えたときに、明るく考えることは到底できない。

前述したように、天理教の最近の枕詞は「年祭に向かって」としか内容がない。私は思う。「そんな直近のことばかり考えていないで、15年後、20年後の天理教がどうなるのか考えた方がいいのではないか、と。もし20年後にも天理教が天理教で存在したいのであれば、天理教のリーダーが求心力を低下する中で、年祭ではなく、もっと先を考えるべきである。

天理教の規模は、日本の新興宗教の中では大きい。しかし、世界に1万7千の教会がある中で7割が事情教会(後継者がいないなど機能不全教会)と言われている。また残りの3割の教会や、大教会、天理教本部の毎月の祭りを見てみよう。そこに参加する半分以上の信者が後期高齢者である。彼らが20年後の天理教を支える中心人物になり得るはずがない。

20年後の天理教には五代目が誕生しているだろう。なかなか見慣れない五代目が豪腕なリーダーシップを発揮すれば、直系の好きな日本人は「なんだこの人?」と違和感を覚えるだろう。反対に、五代目がリーダーシップを発揮しなければ天理教は高校野球だけの存在感に成り下がるだろう。どちらにせよ天理教のプレゼンスは低下の一途をたどる蓋然性は高い。

私はリーダーの存在は大きいと感じている。日本においても失われた20年と言われていたが、自民党が与党を奪取してから国際政治での日本のプレゼンスは向上していることは間違いない。そのことを今の天理教に当てはめるのであれば、今の天理教は民主党政権時代といってもよい。現四代目がリーダーシップを発揮しないために、臓器移植に反対の上田氏や天理時報の手配りという小手先しか発信できない布教部長など、理解しがたい政策発信で天理教を迷走させていると私は思う。

20年後に天理教が社会のプレゼンスを確保するのであれば、目先の年祭活動ではなく長期的視野に立つべきである。天理時報の手配りなどと、ゆとり世代のような甘い考えではなく、体力も知性もエネルギーも溢れる若者をとフロントに置いて社会と架橋させるべきである。高度経済成長を経験して父権性社会の古典的な精神論だけで通用すると思っているのは日本のまだまだ未熟な点であり、天理教を堕落させてきた点である。日本の企業がそうしているように、20年後に後期高齢者となっている者や60代以上の幹部は天理教のフロントから退場していただき、若者に責任と信任を与えるほどの大転換をしなければ、20年後に天理教の未来はない。ということを三代真柱の死去に思う。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

 

二代真柱と嘉納治五郎に泥を塗った天理大学柔道部の暴力事件の根深さ

少し前にテレビや新聞のスポーツ欄では天理の2文字をよく見ることができた。柔道協会が暴力根絶に改革をすすめている真っただ中、また五輪招致の最終プレゼンの前という最悪のタイミングで天理大学柔道部の事件があった。本来であれば、ニュースになったそのときにこの記事も書こうかと思った。しかし必要以上に天理のイメージを悪くすることを私は望んでいないため落ち着いた今に発表したい。

まずは天理と柔道について概観したい。天理は高校野球が有名なように、スポーツに力を入れている。天理大学の体育学部はスポーツ界の実績はもちろんのこと、体育教員の養成など教育の分野でも非常に評価が高い。また天理市内にある宗教関連の宿泊施設である”詰所”を利用して、高校生や大学生のスポーツの合宿などがおこなわれることが多い。特に柔道、ラグビー、野球、フィールドホッケーなどは全国でも強豪、古豪であり知名度は高い。それらは総称して天理スポーツをして概念化されている。

その天理スポーツの原点は二代真柱である中山正善(現在の真柱の祖父)に始まる。二代真柱までの天理は宗教団体の役割は主に神事と布教であった。しかし東大宗教学科で学んだ正善は、教義、学術、文化の点で天理の社会的役割をグッと押し上げた。教義では天理教の教典を編纂し、学術では国宝級の書籍や世界的な文化財産を天理大学図書館や天理参考館にまとめた。また正善自身もスポーツを愛し、スポーツや健康への理解と投資を惜しまなかった。それらは彼のインテリジェンスとともに人脈の広さを物語るものである。

このように天理スポーツは歴史的にも社会的にも日本スポーツに大きな貢献をしていることに間違いはない。その視点で、今回の暴力事件を、私は「かわいそう」と思うのが率直な感想である。確かに天理大学柔道部の起こした事件は許されるものではない。しかし、ここまでメディアに大騒ぎをされて叩かれるのはスケープゴートや見せしめ的な意味合いが強いと思わざるを得ない。スポーツ界における暴力を言うのであれば、今回の天理大学の柔道に関わらず、日本全国でコンスタントにニュースになっている。昔から。その歴史を見たときに、今回の天理大学柔道部はあまりにタイミングが悪すぎたと言える。

私はスポーツにおける暴力を肯定しているわけではない。しかし、その根深さゆえに左翼主義者の暴力絶対反対という主張に対して「じゃあどうするの?」という疑問が絶えず頭にある。「暴力を使わない、最先端のトレーニング方法を・・・」という言葉が良く返ってくるが、スポーツ界全体として、それを達成することは果たして可能だろうか。

このスポーツと暴力の関係を考えるたびに思い出すことがある。それは家庭内暴力DVである。DVと聞いて多くの男性(女性)が「殴ったり、暴言をしたり、性的強要なんてしたことがない」と言う。私も同様であった。しかし数年前にDVの専門家と話をしたときに、「問題は『行為』ではなく『暴力の構造』である」ということを学んだ。DVの罪悪さについては専門家でなくても、誰もが知っていることである。しかし、その専門家が学生に対しておこなったDVの講義を聞いて、DVの危険性がある学生の多さに驚いた。暴力の構造とは端的に言えば「権力を使って、相手をコントロールする」ということがDVの根底にある。つまり「相手の携帯電話を黙って見る」や「ケンカしたときに相手からの電話に出ない」や「借りたお金を返さない」などはDVの予兆となる。これらは『デートDV』として若者のDV防止のための啓発が高校などで積極的におこなわれている。「暴力なんてしたことがない」という方も、「夫婦喧嘩で腹が立って、電話やメールを無視した」ことくらいはある方が多いのではないだろか。反省の意味を込めて、私は何度かある。
http://www.1818-dv.org/

スポーツと暴力を考える際に、必要条件である指導者と選手という不可分な身分差は、その開始時点で「暴力の構造」が始まっていることになる。その危険性を無視して、理想論を語るだけでは無責任ではないだろうか。例えば天理大学の柔道部の事件についても、
「大学は全柔連に暴力の事実関係を報告していなかった。藤猪部長は、この問題を把握し、 けがをした部員らに謝罪した後の8月21日、暴力問題など相次ぐ不祥事を受けて体制を 刷新した全柔連の理事に就任したが、「問題を大学の学生部に報告しており、学校の処分も出ていなかったので、(全柔連に)言い出せなかった」と経緯を説明した。 全柔連には、「読売新聞の取材を受け、3日に報告した」という。最終更新:9月4日(水)3時10分 Yahoo!ニュース(読売新聞)」
というように危機感のなさが露呈している。「まさか、こんな事件になるとは・・・」というのが率直な感想ではないだろうか。

今回の事件が根深いと言われるのは、その師匠と弟子のような上下関係が明確であればあるほど、その権力の危険性はどこに向かうのかという不確定性からは逃れられないということである。一昔前に「いじめられたと感じたら、それはいじめだ」というような極論が聞かれたが、そのような物言いすらも認めてしまうような極端な風潮が今の日本にはある。つまり暴力まで行かずとも師匠の「厳しい練習」であったとしても弟子が「こんな厳しい練習は暴力だ」と思ってしまえば、指導などということは成立しない。そして、私が難しいと感じるのは、この厳しい鍛錬に耐えることこそ美徳とするような心性が日本人には共通にあるということである。つまるところ「勝利至上主義はいけない」と言いつつも、勝利したら嬉しいという矛盾にどれほどの人間が自覚的かということであろう。奇しくも、東京オリンピックが決まり、どれほどの人間が1964の東京オリンピックのような日本の勢いを夢見ていることだろうか。どれほどの人間が柔道界の勝利至上主義を批判しつつも、金メダルの数を数えることに喜びを見出すだろうか。大阪の桜ノ宮高校の体罰事件でも、体罰を伴うような指導を容認してきたのは、選手であり、保護者であり、地域住民であったことは言うまでもない。

全国クラスである天理スポーツに関しても、多くの人間が応援し、そして利用してきたことを認めなければいけない。その視点から今回の天理スポーツの事件を天理大学と柔道部と元部長だけに責任が帰結されてもいいのだろうか。

では次に天理教を見てみたいと思う。天理教の組織では身分関係が非常に明確に線引きされている。天理教の教団幹部は、そのすべてがメンバーズオンリーの血で決定される。そこには能力も平等もない。

天理教からの防衛の仕方 親の思いという暴力性

天理教では3年後に教祖が没してから130年という節目を迎える。定期的に訪れる節目は、信仰上は竹の節のように堅いと例えられる。節目には困難が伴うと。しかし節に耐えるとそのうち必ず芽が出る旬が訪れるとされている。これらは、普通に考えれば節に耐える姿こそ神がきちんと見ている(報われる)という意味になるだろう。しかし天理教では、旬に向かって結果を出さないと節における忍耐が評価されないという逆転となる。ブラック企業は、結果が出ないと従業員に「会社が悪いのではない、お前のがんばりが足りないからだ。お前の修行が足りないからだ」というのは、天理教のそれと同じ構造ではなかろうか。天理教本部の役員の話でも、全国にある各教会の会長の話でも、「今こそ神様に評価されるべく節に耐えてがんばりましょう」と神の意思を個人の努力に帰結するレトリックの邪悪さを持っている。
今回はその一端を提示したい。今回私にメールを寄越した方は、親族のAが教会を継ぎたいと言っており、それに反対をしておられる天理教の未信者の方からであった。どう考えてもAが教会を継ぐ経済的、人間的な素質はなく、親族はみな反対している状況のようである。しかし会長は、Aと教会設立ができるように裏でコソコソと話を進めているようである。私が聞く限り、会長の頭には、この節目に教会を設立できるという外部評価がチラついているようである。
親族から反対されてまで設立する教会に何の意味があるのだろうか。天理教の節目だから、反対される中でこそ設立することに意味があるという、いつも通りのナルシストだろうか。
個人を特定できないように伏して公開したい。

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はじめまして。カインです。
メール拝読させていただきました。ご苦労のほどお察しします。

私見ですが、回答させていただきます。
前提として天理教の会長の資質に関しては多様です。
社会での就労経験があり、常識的な判断ができる会長もいます。
一方で、貴殿がおっしゃられる会長のように非常識的な会長がいるのも事実です。
私の皮膚感覚では、天理教に深くコミットする会長ほど話が通用しないです。
反対に、常識的な思考ができる会長は、天理教組織から一定の距離を置いています。
(というか、置かないとやってられないのではないでしょうか)

貴殿を苦しめている会長が、どの系統(大教会)で、どの思想の持ち主かは分かりかねます。
そのため、私のアドバイスが参考になるかは分かりません。
場合によっては厳しいことを言っているかもしれませんが、ご了承ください。

今後、教会長と話をするということですが、教理には教理で対抗するという
案については、私は反対です。
なぜなら、天理教の教理自体が、非常に強者(会長)の都合よく利用されているためです。
天理教がいくら「陽気暮らし」「人助け」という教えがあったとしても
「会長のエゴではないか」「人助けはいいが、こっちの家庭はボロボロ」と
言ったところで、通用しないでしょう。
私が予想するに、会長の乏しい語彙力や文脈には決まったパターンがあります。
まずは教会の歴史からはじまり、貴殿の先祖による信仰の始まり、
それらから現在の信仰について運命論的な因果論(いんねん)で
今の貴殿らが信仰的にいかに「できていないか」になるでしょう。
その上で、「親の思いに沿って」や「素直になるべき」「心を寄せて」と
自分の思い通りにコントロールしようとします。
もし話が物別れになったとしても、会長たちは「あいつらは
何も分かっていない」と自身を正当化しかしません(できません)。
その結果、こちらの心労と絶望感が増大するだけです。

天理教の組織はヤクザの縦社会と似ています。教会長は、その上の
教会長の言うことは応じる傾向が強いです。もし貴殿に、教会長の上の
教会長とコネクションがあり、且つその教会長が話が「わかる」人物で
あれば、相談することをおすすめします。

もしそのようなコネクションがなければ、自衛か第三者機関をお勧めします。

私に相談される方がよく言われるのが、天理教本部にクレームを入れることです。
しかし、これも私はお勧めしません。天理教本部には渉外課という部署があり
ここが対外的なクレームや問い合わせに応じます。しかしここに相談しても
「よく会長と相談するように」としか応じずに、何もしてくれず
その他の資源も用意してくれないほど天理教本部は無責任です。

先ほどの第三者機関ですが、もし人権侵害や法律に抵触するようなことがあれば
自治体の人権擁護委員会に通告することも視野に入れてください。
これは明確な物証がなくても疑いだけで十分です。
法務局でもいいですし、人権ネットワークなどの非営利組織に相談するのも
いいと思います。自治体での法律無料相談なども利用できます。

法律に抵触するようなことがなければ、最終的に自衛になります。
まず私のことですが、天理教人と話し合いをするときは、
高い確率でICレコーダーに録音します。
余裕があれば話し合いをする場所を写真で取ります。
少し揉めるような話し合いをする場合は前もって
「ICレコーダーで録音させていただきます」と断りを入れたこともあります。
もしそれを咎められれば「専門家にそうアドバイスされた」と言えば
牽制になるでしょう。
私はこのようなブログをやっていることもあり、
根拠もなく天理教を批判して名誉毀損にならないようにしています。
(天理教は信教の自由の中の宗教団体のはずですが、都合が悪くなると
不正競争防止法で下部の教会と裁判で争うような団体です。当然、敗訴しましたが)

私の対応はやり過ぎだと思われるかもしれませんが、
私は天理教に関して「宗教的虐待」や「宗教的ストーカー」団体という
認識であります。虐待やストーカーの対応が難しいのは、証明が難しいからです。
虐待は「しつけ」と変換され、ストーカーは「愛情」と変換され、
天理教は「親の思い」に変換されます。人権侵害も法律の抵触も、証拠がないと
誰も動いてくれません。ほんとに。
会長は法律の知識や社会常識が驚くほどありません。
(ここ数年、教会本部は信者のためではなく、教会長のための相談窓口を設置するほど
保身のためしか考えていません。人助けとは逆行していますね)

一会長の発言は二転三
転することは日常茶飯事であり
貴殿のおっしゃるように「言ってることと、やってること」が違うということは
珍しいことではありません。
もし録音した上で、会長の言行が不一致であれば、内容証明を送り、
弁護士に相談することが賢明です。

以上、少し過激な内容だったかもしれませんが、
会長は一般常識で「話したら分かる相手ではない」という認識がとても大切になります。
「話したら分かるだろう」と思って、結局話が通じずに、傷ついて
余計に心労が重なる方が多いです。

少しでも貴殿のご負担が軽減されますよう、
祈念しております。

追伸
個人を特定できない返事にしてありますので、
ブログにアップさせていただきます。

カイン
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この返信メールを送ってから、法的措置も含めてきちんと対応される予定との報告があった。私もこの大教会と教会の情報を収集したいと思う。これ以上、天理教に家庭を壊されないようにうまく乗り切っていただきたいと願うばかりである。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.com

 

天理教に人権を語る資格はあるのか

いくつかメールを頂いたが返信できずに申し訳ない。

現在、橋本市長の発言により人権について注目されている。誰のための人権なのか、政治も国民も迷走しつつある。彼が主張する「建前を言っていても仕方がない」という問題提起は、都合の悪いことを抑圧してきた政治家の思惑や、国民感情をあぶりだしている。しかし納めどころがない中での、あぶり出しは関係者の二次被害や、さらなる抑圧を強化してしまう可能性があることを私は危惧している。

私はかねてより、人権を大きなテーマとしている。天理教に当てはめるならば天理教の金科玉条である「陽気ぐらし」は人権を十分に包含していると考える。臨床社会学の一つの見方として、人権で傷ついた人間は人権で救済しなくてはいけないという考え方がある。人権の軽視によって、心の病を発症させられている人間は少なくない。人間関係での傷つきや劣悪な環境が当てはまる。どんな精神療法だろうと、カウンセリングだろうと、人権で傷ついた人へのケアは話を聞くよりも、人権の確保が前提となる。一人の人間としての尊厳の回復である。その中で、天理教の「陽気ぐらし」や「おたすけ」という概念は、人権という意味でも同等以上の言葉であるはずである。

一方で、私は天理教人の人権意識は低いと思う。理や徳などといった抽象的な概念は強者に都合よく信者を支配しコントロールするために利用される。また構成員の社会保障を設けず、宗教法人という聖域であぐらをかいて信者や若者の無年金を見て見ぬふりをしている。「一生懸命伏せ込めば、神様がなんとかしてくれる」という暴力的な言葉とともに。

これらのことは天理教本部と天理教教会は利用しており共犯関係にある。修行という建前で、卒業したての若者を「青年」という無保険・無年金の労働力として搾取する。賃金は「お与え」という建前で月に2万から3万という驚くべき低い金額しか渡さない。その「青年」は未成年の学生時代に権力者である理の親の許諾の印鑑によって奨学生として契約させられる。奨学金を扱う財団法人天理教一れつ会は、数年前に卒業後の天理教での労働を強制性システムから奨学金の返済可能へとシステムを変更した。しかし理の親という権力者の許諾は変わらないために卒業後に天理教での労働に従事せねばならない。そこには若者の主体性をカモフラージュして契約や信仰的脅迫で、逃げ道を奪っているといっても過言ではない。そこから脱走することは信仰的未熟者(家族に迷惑をかける)になるため、一定の強制力が生じている。

日本は以前からアメリカ国務省から人身売買(取引)の指摘を受けている。そのため2005年に刑法で人身売買罪が設けられることになった。主に性産業における女性が理不尽な借金を背負わされて、風俗店で働かせられるが、一向に借金は減らないという昼ドラマのようなことが現在の日本で実際にあるということである。同じような構造が天理教の内部でも展開されている。

先日もある教会の会長夫人と話をした。ある教会の若者二人が、結婚の結納を済ませた。新郎と新婦は別々の系統の教会であった。結納まで済ませたときに、なんと結婚が急に破断になった。それは彼らの理の親である大教会の会長が、ストップをかけたのだそうだ。その理由は「新婦は新郎が所属する河○町には不適当」という理不尽な理由だったそうである。この河○町は天理教内では原理主義的で「厳しい」と評価のある系統であり、ここの大教会長は信者が容易に話しかけることができないほどの「神のような存在」と評されている。新郎側の大教会長か新婦側の大教会長のどちらが「不適当」と判断したのかはわからないが、理の親と偉ぶるのであれば、子の主体性と幸せを尊重すべきであろう。少なくとも結納を済ませた若者の未来を閉ざすなど人権を軽視しているのも甚だしい。何様のつもりだろうか。そんなに大教会長という方は偉いのか。きっと大教会長たちは「この若者の将来を思って」というだろうが、そんなことは現代社会では通用しない。

以前、私は障害者の結婚について、ある家庭の救済を求めたことがある。新郎側の父親が新婦が障害者であることを理由に結婚を破談にしようとしたからである。父親以外の親族は結婚に賛成であった。父親の言い分は「障害者だから、ゆくゆくは本人たちが苦労するだけ」という訳の分からない理由で反対した。私は原理主義ではないので、父親としての責任感と子供を思う気持ちを一定程度理解はする。しかし、よくよく話を聞くと、そこにあるのは障害者を受け入れる責任回避と見栄しかなかった。到底、愛し合う若者二人のことを真剣に考えているとは到底思えなかった。

当然だが、本当に若者の将来を心配するのであれば、愛し合う二人を邪魔することなんてすべきではない。それは出自や血にこだわるほど滑稽であり、時代錯誤も甚だしい。

上記の天理教の若者の結婚破断に関しても、若者たちが私の知り合いであれば、私は自治体の人権救済委員会に連絡し、文科省宗教法人審議会、公安調査庁に通報するだろう。こんな宗教法人が「陽気ぐらし」や「おたすけ」として布教活動をおこなう資格はない。むしろ行政指導をあたえられるべきである。

日本全体が人権に関して低い意識であることは、今回の橋本市長でも浮き彫りになっている。「陽気ぐらし」という素晴らしい教義を持つ天理教こそ、人権に敏感であり、人権保障を牽引してもらいたいと思う。それは凄まじい勢いで天理教が衰退していることと無関係ではないということを天理教の方たちは本当に考えてほしい。人助けを主張したいのであれば人権教育や権利擁護こそ天理教の幹部たちは習うべきだ。

万が一、自分たちのおこないが、天理教として正しいというのであれば、胸を張って天理時報に掲載すればよい。愛し合う若者の結婚を破談にしましたよと。コソコソと自分の思い通りにやっているのは、それが人として恥ずべきことという認識があるからなのだろう。

本記事は、いくつかのデータと記録の一部に基づいて書いている。天理教の制度や、類似例などここ数年で変更点や動きがあれば、教えていただきたい。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

 

北朝鮮とローマ法王と天理教と

今朝のニュースでローマ法王が洗足式で受刑者の足を洗うことがニュースになっていた。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130329-00000001-jij_afp-int
従来の法王であれば聖職者の足を洗っていたようだが、新しいフランシスコ法王は少年院にいる受刑者の足を洗いキスをした画像が世界中を飛び交った。その中には異教徒も含まれており、異例ずくめのことであるようだ。私はカトリック教会について詳しくなく、信仰者たちの反応はどのようなものか分からない。しかしCNNなどは中立だが比較的好意的に報じている。
http://edition.cnn.com/2013/03/28/world/europe/vatican-pope/index.html?hpt=hp_t4

今回のタイトルにおいて北朝鮮とローマ法王と天理教を並列したのは、どれも後継問題の過渡期にあるという意味である。共通は不透明さと不安定さであろう。北朝鮮とローマ法王は後継が済んでいるが、新しいリーダーがどのような人物なのか不透明な部分が多く、評価も定まらない。少なくとも現時点で北朝鮮はバランスを逸した未熟なリーダーであり、ローマ法王は革新に意欲的であり保守層からの批判よりも若者や弱者からの関心を持たれるものとなっている。

当の天理教の次期リーダーは不透明なままである。現時点でこのブログに集まった情報(不確実)を統合すると、昨年真柱の甥が次期真柱に選定され養子として迎え入れられたようである。北朝鮮と同じく、これから何年もかけて子会社である天理教道友社(出版社)はその存在を小出しに報道して信者に認知させていくのだろうと思う。
これが本当の情報であれば、私は驚きはしない。養子縁組を繰り返してきた中山家の歴史を見ると、王位継承順位からの既定路線である。
ただ、その不透明さと強すぎる保守性に天理教の暗い将来を想像するしかできない。その後継者が類いまれなリーダーシップの持ち主であっても、それは内にいる少数の熱心な天理教信者にしか通用しないだろう。多くの人が「天理教は偉そうなことばっかり言うが、結局は血かよ」と天理教に対する無力感を再確認するであろう。天理教ではいくら頑張っても上昇することはありえないのである。保守を重んじるのは結構だが、天理教幹部が思っているより時代の流れは早くて厳しいだろう。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.com