先日雨が降る中、近所の道を駅に向かって歩いていた。すると、住宅街の狭い道の真ん中で一人の若い女性が傘を差して、産まれたばかりの乳飲み子を背負ってチラシを配っていた。私は数10メートル先から、「あれ?選挙も終わったのに何だろう」と思って、その女性に近づいた。すると「天理教でーす。よろしくお願いいたします」ということで、私は絶句したままチラシを受け取ってすれ違った。私が絶句したのはこの極寒の中、傘を差して乳飲み子を背負って布教する大学を出たばかりだろうかの若い女性の姿に驚いたからである。
もし彼女が私の知り合いであれば、「子供が風邪をひきますよ。やめなさい」と言うだろう。それほど状況としては痛々しいものがあった。天理教人は誰も彼女を止めないのだろうか。むしろ、苦労話やたんのう(≠修行)として美談になるのだろうか。
受け取ったチラシを電車を乗りながら読む。全文(文末の教会名と住所は省く)を以下に引用する。
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「幸せのもとは」
人間にとっての悩みの多くは
夫婦、親子、兄弟姉妹のもつれ、
つまり家族に関するものです。
これが治れば、
幸せな社会になっていきます。
そのためには、まず、
この世界の元を知ること
人間は何のために誰によって造られたか・・・
人生の目的、創造主を知ること
人生の目的は陽気ぐらしであり、
創造主は親神様であります。
私たちは陽気ぐらしを目指して
努力しているのです。
その陽気ぐらしをするために
組み合わされたのが家族であります。
夫婦、親子、兄弟姉妹は
陽気ぐらしをするために
一番適したメンバーなのです。
そのことを自覚すると、
日々感謝して暮らせるのではないでしょうか。
家族におこる事情は、どんなことでも、
お互いが自分自身のこととして受け止めて、
話し合い、たすけあうことが大切
五本の指、どの指を噛んでも痛いように、
家族一人の痛みは、家族みんなの痛み
家族の一人に変わってもらいたいと思った時は、
自分自身を変えていくことが近道。
家族は一つにつながったもの
喜びも悲しみも家族で分かちあい、
生きている喜びが周りに伝わるよう、
その輪を世界中に広げていきたいものです。
願い通りの守護ではなく、
心通りの守護なのです。
心を変える為の信心であり、
自分が変われば全てが変わります。
思い切って教会を訪ねてみませんか?
どんな悩みも聞かせて頂きます。
天理教◯◯◯大教会
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やはり論理が飛躍して、何が言いたいのかよく分からない。日本語としての一文が長く、主語と目的語がごっちゃになっているため理解が難しい。天理教人との会話や神殿講話でよくある洗脳的特徴である。ましてや「世界の元」「創造主」「心通りの守護」など天理教的語用に親しみのない我々一般市民に通じると思っているのだろうか。それとも何が言いたいのかよく分からないことが宗教特有のレトリックであり、必要条件なのだろうか。宗教や神という輪郭が定まらないものだからこそ、畏敬の念を込めてシンプルに人間の言葉を丁寧に重ねる必要があるのではなかろうか(話を単純化した方がいいということではない)。
つくづく、天理教の布教活動はどこを目指しているのか分からなくなる。「天理王命」と書いた旗を先頭に一列になって歌をうたいながら行進する神名流しも、各家庭にピンポーンと天理教を勧める個別訪問も、駅前などで絶叫しながら話をする路傍講演も同様である。そこまで一般市民に人に避けられ嫌われてまですることに何の意味があるのだろうか。教祖の娘が浪速布教をして、民衆に好奇の目で見られたときと時代が違いすぎる。このような時代錯誤の勘違い布教がたんのう(≠修行)なのか。
教祖の雛形とは、ただ先人の真似をすればいいという軽いものだろうか。私には教義理解と経営戦略の点で今の天理教の布教論が理解できない。
かといって、こういった話をすると、これまで私が天理教人に言われたことは、「先人の雛形を辿り、先人の思いに心を寄り添うことが大事だから」と、耳触りが心地よく、そして全く意味のない言葉と実践ばかりであった。
一方で「万人に好かれるなんてことは目指していない。私たちの布教で、一人でも助かる人がいればいい」と言われたこともある。では天理教は社会的or精神的弱者のためだけの教えなのか。普通に不自由なく生活している者に「だめの教え」(最後の教え)は必要ないのだろうか。
これに応えられる普遍的な教義思想を語れる天理教人に出会ったことはない。多くが、天理時報で使用されているような、その場だけの耳障りの心地よい、中身がからっぽな言葉を並べているだけで発話者の個性は見えてこない。
素朴な疑問として、なぜ天理教人は天理教を信仰しているのだろうか。
こういった問いを天理教人に問い続けていると、いつの間にか「カインは気難しい」と言われて終わるのがオチである。
天理教自身の問いとてし果たしてそれでいいのだろうか。
同様に天理教の信仰に対して「天理教を信仰すると家族が円満になる」というが、天理教家族が平均以上に円満であるということを感じたことはない。もちろん円満な家族もあれば、そうではない家族もいるだろう。そうである以上、天理教を信仰すると陽気ぐらしになるという理路は当然成立しない。説得性もない。
特定の苗字ばかりの能力のない官僚組織や、後継者問題、信者離れで天理教の教会が激減していることも同根であろう。
今回、記事に書いたことが宗教の本質ではないことは私も感じるところである。私が取り上げていることは教義よりも行動経済学的であり、宗教を表面的に扱っている嫌いがある。宗教はより形而上学的に議論されるべきであると思う。しかし、天理教を語るときに、天理教という実践宗教を裏付ける理論的な浅薄さと、天理教人の矛盾した言動を野放しにはできないという思いが常にシコリのように残り続けていることも事実であり避けては通れない。しかし、二代真柱以降の天理教の理論的成熟を担う人間がいないことをここで嘆いても無意味であることは承知している。
しかし、私は極寒の雨が降る中、乳飲み子を背負った若い女性が必死で頑張っている姿を見て、これが天理教のいう陽気ぐらしの実態なのか戸惑うとともに、天理教教義の不安定さや偽善的信仰に憤りを覚えたことをここに記す。なぜ天理教人はこうも世間一般とのバランス感覚に欠けているのか、天理教の著しい衰退の一端を見た気がした。