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天理教の勧誘と集金はノルマ制である。なぜ天理教はそこまで金が必要なのか、それを説明できなければ全てが嘘っぽく聞こえる

天理教の一大イベントである「教祖130年祭」が昨日終わった。次の大きな動きは10年後になる。
毎日新聞が電子版で26日の昼過ぎには、その模様を配信した。
http://mainichi.jp/articles/20160126/ddf/041/040/003000c

約20万人が、ここに集まっていると思うと驚きである。以前、統計をとったときにも思ったが、30年前の100年祭のように1週間や1ヶ月などの期間で実施すれば、もっと多くの人が集まるのだろう。それには、私には想像もできない主催者として様々な問題もあるのだろうが。
ただ、この約20万人を多いと考えるか、少ないと考えるか。歴史をみれば明らかであろう。
下世話で申し訳ないが、私は今回天理教が回収した金額を知りたい。3年前に126億円であったお供え金が、2015年にいくら集めたのだろうか。天理教のお金と人は100年祭以降、順調に減少している。しかし年祭の前年だけはピョコッと増加するのである。詳しくはコチラ
(年祭は1月26日なので、年祭臨時収入は、前年の収入にほぼ反映される)

この年祭の統計を天理教が公表するのは、ずいぶん先のことになると思うので待つしかない。

今回は、私の体験談と実際に見た資料を開示したい。
まず定義を掲げたい。
ノルマ
とは半強制的に与えられた労働の基準量であり、大抵の場合時間的強制も付加される。(wikipediaより)

結論から述べる。ノルマと聞いて、営業職などの方は違和感がないだろう。しかし、話は仕事ではない。宗教である。あなたは宗教法人がノルマ制を採用していればどう思うだろうか。一気に、怪しい感じがするのではないか。それが普通の反応である。しかし天理教では未だに強いノルマ制が採用されている。これを今回の話にしたい。

少し前になるが、お正月に天理教の教会に挨拶にいった。神殿に入ると130年祭関連の掲示が複数、壁に貼ってあった。
私はそれらを写真に撮った。下の資料は、私が写真の一つからほぼ同じに作成したものである。
心定め
この資料は天理教がノルマ制であることの証拠である。
「心定め」というのは、教義的解釈はわからないが、普通に考えて数値目標と捉えて問題はない。
つまり、この教会の今年の数値目標のポスターである。特定できないように、数字は見やすいように少し変えたが大きくは変えていない。

右から順番に見ていく。
「初席者」というのは、天理教の信者になるために聞かなくてはいけない9回の話の1回目のことである。もちろん、この話は奈良県天理市の天理教本部でしか聞けない。
「よふぼく」というのは、上記の9回の話を完遂し、信者になる許しを得たもののことをいう。
「修養科生」というのは、3カ月間天理教本部で泊まり込みで教義の学習や、実習(といって掃除や雑用がメイン)をおこなう。
「教人登録」というのは、マスターのようなもので「よふぼく」の上位資格であり、数日の研修と試験をクリアすれば得られる。教会長や道専務という天理教のみで生活している人の多くがもっている。
「おつくし」というのは、お供え金である。ここだけ隠蔽しているためか単位が書かれていないが、単位は万円である。

これを見て、天理教はノルマ制を採用していることに間違いはない。

このポスターについて、この教会の方と少し話をした。それを以下に列挙する。
・心定めというのは数値目標だけではない。気持ちの結果である。
・130年祭に向けて少し気合いを入れた数字になっている。(例年より多めの目標)
・130年祭のみというわけではない。130年祭以外にも、大教会の記念年や教祖の誕生記念年など、2,3年に一度はこういった大きな数値目標を設定している。
・記念年でなくても、毎年数値目標は作っている。
・このポスターを誰に作れと言われるわけではない。でも皆やっている。フォーマットは上級から送られてくる。信者に周知させるためにも必要。
・明確に上から「お前の教会はこの数値目標だ」と言われることはないが、暗黙の圧迫はもちろんある。教会長会議では、実際に各教会の目標を調整する。
・特に大教会の建設や、天理市の詰所の建て替えなどで「○○円必要だ」と言われることはある。その要求金額を各教会で割り付けられる。
・ノルマと言われればノルマだが、達成できなくても何も罰則はない
・罰則はないが、金などは上納する際に、人的資源は申請するときに必ず上にバレるので、それなりの暗黙の評価は生じる。もちろん目標が達成できれば、「次はもっと数値が高くなるのはいうまでもない。大教会からも「あの教会は頑張っている」と注目される。

話した内容はこのような感じである。数値目標を「気持ちの問題」にすり替えるあたりは、天理教の大事なところはウヤムヤにする汚い姿勢が見事に反映されている。恐らく天理教人の私に対する反論は「これは個人の目標でありノルマではない」というだろう。しかし、それはブラック企業と同じ理路である。個人の目標であれば公開する必要も、仰々しく掲げる必要もない。神との個人的な約束は、信仰の本質であり、そういった姿勢を私は歓迎する。しかし共同目標として公開され、それに向かうことはノルマ以外の何者でもない。

最近聞いた話では、ある教会では「上級教会の会長が下の教会に来ることなんてほとんどなかった。しかし大教会が数億円の普請(建て替え)をしてから毎月「○○円、お供えするように」と来るようになった。こんな人間を信じられるか」といった話である。

こういったノルマ制は、今回に限らずに私も何度か目にしている。130年祭だからというよりも、これが天理教の平常運転なのであろう。このような「心定め」と偽装したノルマは、全国の教会でやっているのだろうか。それとも特定の教えをくむ系統(大教会)だけのことであろうかという疑問がある。
しかしネットでググってみれば、ノルマ制が一部なのか、組織の体質なのかは明らかであり、天理教のノルマ制の根深さはすぐに理解できる。

例えば以下のようなポスターである。画像をクリックすればリンク先に飛べます。

活動方針他ににもある。これらはググったら簡単に出てきたもので特殊な例ではないだろう。ググればこれ以外にもたくさん出てくる。
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加えて、天理教のノルマ制は学生の時から、叩き込まれているのだろう。この思考停止装置を発動された無邪気な若者たちは、なぜ信仰にノルマや数値目標が必要なのか考えることもしないのだろう。

そのほかにも沢山の資料がネットには転がっているので、気になる方は検索なりツイッターなりで調べてほしい。

話を戻す。初任給が20万円を切るような地方にある、おじいさんやおばあさんくらいしか集まらない小さな教会で、この金額を上納することを知れば(達成できなくてもそれに近い金額)、天理教が全国から年間、百数億円を集めるのも頷ける。こんなことをやっていては天理教が「陽気ぐらし」をできるわけがないし、そういった当たり前の感覚は天理教人にはないのだろうか。

ここからは少し考察を加えたい。なぜ天理教が社会にとって害悪となるのか説明する。
まず、根本に立ち返ろう。なぜ宗教がノルマを課す必要があるのだろうか。ここで気をつけたいことは、崇高な教えや教義解釈はどうでもよいということ。ノルマ制が事実としてあるということである。天理教の方には是非、立ち止まって想像してほしい。
つまるところ、ノルマ制を採用している宗教団体に、あなたは入りたいだろうか。

例えば、あなたが街を歩いて○○教の方に勧誘されたとしよう。その方は、とても優しくて、親身になって話を聞いてくれる。しかし、その方が所属する教会では「何名を連れてこい」というノルマがあったら、あなたはとのように思うだろうか。街であなたに声をかけた方は本当にあなたのことを思って声をかけたのだろうか。それとも、ノルマがあるから声をかけたのだろうか、声をかけられた私は心配にならざるを得ない。ここで大事なことは、ノルマがある以上、例えその人が本当にあなたのことを思って声をかけたとしても、すべてが嘘っぽく聞こえることでしかない。そう、とてもいい人であって嘘がない人であってもだ。天理教の方に質問してみればいい。例外なく「あなたのことを思っているに間違いないじゃない!!」と声高らかに宣言するだろう。しかし、傍から見れば、天理教人らが金のため、名誉欲のためと見られても今の天理教には反論できない。それほどノルマ制というのは印象も悪く、真実にはなりえない。

神を信じるだけなのに、陽気に生きるだけなのに、天理教を信仰したいだけなのに、なぜそこまで金が必要なのだろうか。天理教人はきちんと社会(信者にも)に説明すべきであろう。
巨大な組織を運営するのには金がいることは理解できる。では会費制にするなり、観光資源なり、冠婚葬祭なり、物販なり自助努力できることは山程あるであろう。極端な話、お供え金なんて、数百円でもいいじゃないか。なぜ祝儀袋に入れて名前を書いて申告する必要があるのだろうか。
どんな丁寧な天理教人も、この集金方法については一切誰も説明していない。
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「神様に喜んでもらうため」という詐欺な理屈では誰も納得できるわけがない。ノルマを採用しているなんて、だから天理教の教えは浅いと思われるのだろう。ノルマを強いるのであれば、なぜそれほど金がいるのか説明すべきであろう。
金を払えば助かる?苦労して頑張った分だけ神様は喜んでくれる?本当にそう思うのであれば、こそこそしていないでホームページにでも、大きくそう書きなさい。そうしないのは、天理教人もまた「ノルマで人を圧迫するような方法は本当は良くない。こんなことでは国民の信頼は得られない」と薄々感じているからであろう。汚い手法を使うことを黙認している宗教に、どんな善があるのか私には全く理解できない。

天理教はあまりに汚い、姑息な方法でノルマを心の問題にすり替えている。
なぜ人から金を奪うほど、天理教は金が必要なのか。
中身のない綺麗事ばかり言ってないで、丁寧に、親切に説明すべきであろう。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

天理教の問題は、一部の人間の問題か、組織の問題か

最近よく言われるのが、「天理教の評判を下げることをやっている人間は、天理教の中のごく一部の人間であるから、天理教全体を悪く言うようなことはやめるべきだ」である。気持ちは非常によくわかる。しかし意地の悪い返事をするのであれば「あなたはそれを知っているのに声をあげないのですね。陽気ぐらしというのは、天理教で苦しんでいる人を無視することですか?」と言いたい。(言わないけど)

フォローをするわけではないが、私がこれまで俎上にあげてきた話題や経験談は天理教の一部の人間によるものである。だから人を苦しめない天理教人には少しの敵意もない。むしろ教えに基づく社会貢献をされている方も多く応援したいと考えている。しかし、私は「天理教は素晴らしい」と言うつもりは全くない。なぜなら、その一部の人間を生んでいるのは、天理教の構造的欠陥だからである。つまり、天理教の一部といえども、それが天理教組織の方針であったり、悪を知りつつ声を上げようとしない天理教人は、すべて共犯関係にあると私は認識している。

私がこれほど天理教にコミットするのは、私の知り合いの、昔から懇意にしてもらっている天理教の方が実際に苦しんでいるからである。特に若者が天理教に苦しめられていることを知った以上、力になってあげたいと強く思っている。

最近、以下の天理教掲示板が賑わっている。書き込まれている多くの方が天理教関係者か、元関係者だと思われる(天理教被害者の方も含む)。
天理教の「お供え」について

ここに記載されている体験談や経験談は、私が経験し発言してきたことと重なることが多い。もちろん教義の解釈などについては私の理解が追いつかない点も多いが、強引なお金の取り立てや権力の暴走は複数の方が同じ文脈で発言されていることは着目すべき点であろう。これを一部として済ませてしまうのは、臭いものには蓋をしてしまえという隠蔽の意図が見え隠れする。

天理教の構造的欠陥については、実の親ではないが「理の親」と呼ばれる信仰上の親の権力性が天理教にはある。私理解では、この理の親は本部や大教会長や会長を指すことが多い。この権力性が強いために様々な問題が生じている。

・若者の婚姻関係にまで第三者である大教会長や会長が意見したり介入したりする。
・結婚式を教会本部であげさせない大教会長のルールがある。
・天理教一れつ会という奨学金財団では、信仰上の権力者である「理の親」(大教会長)の署名を求める。
天理教施設である詰所に在籍する天理大学生は天理教行事に参加しないと、大教会長から退居するように脅迫される。

上記の事例は、これまで私が証言と証拠とともに集めた事例の一部である。そしてこれらこそ、天理教本部の組織や、宗教法人天理教教会本部の責任役員の組織(大教会)でおこなわれていることである。責任役員ということは、天理教の政治的、法的決定をおこなう中心的幹部である。このことをもって、私は「天理教は間違っている」ということをの一部の人間で終わらすことは決してしない。もう一度言う、天理教の構造的欠陥を維持しているのは天理教責任役員でしかない。法的権力もリーダーシップもない真柱などどうでもよい。

私はこれまで、上記の事例については、その都度、奈良県、天理市、京都市などの相談窓口や該当部署に通告している。話は親身に聞いてくれるが、私が当事者本人ではないということで事例に対して対応はとれないということであった。人権窓口は基本的に通告すれば対応の結果まで教えてくれることになっている。私も当事者に確認の上で対応までは求めていないため、行政報告という点で留めてもらうように働きかけている。きちんと声をあげて、上記のような天理教で頻発する類似のトラブルを知ってもらう段階と考えている。

ただ、行政に報告するだけでは何も事態が進展しないことは承知している。1年ほど前より、何名かの研究者と連絡を取り合う中で、今後の動きは練っていた。昨秋には天理教の脅迫的集金方法や天理教責任役員の言動について国にも通報をした。本来であれば宗教法人の管轄は都道府県や文科省管轄の文化庁であるが、戦略的に現時点では総務省と消費者庁に相談した。すると「国としては個別の事象に対応するこは難しい。国が動くためには一定程度の数の声がなければ動けない」という助言をもらった。(総務省は消費者庁に比べて少し素っ気なかったが)。

今月26日には天理教では教祖が亡くなって130年という重要なタイミングである。ここでどのよな発表があるのかはわからないが、この前後で天理教の権力の支配と集金方法に大きな改善の動きがなければ、次の展開に進みたいと考えている。

以前は私も天理教が悪いのではない、”一部の天理教人”だけが問題であると思っていた。しかし調べれば調べるほど、天理教全体の構造的欠陥であると感じるようになった。ノルマ制の集金方法や、人々に不安を与えて努力を強いる言葉は天理時報に溢れている。社会から見たときに、このような狂った組織は、きちんと社会の評価を受けて是正されなければいけないと思う。集金ノルマを課しているような組織が「ひとだすけ」と言ったところで誰が信じようか。

私は以前はおこなってなかったが、現在では天理教幹部の組織図と人名はすべて把握している。天理教の名がついたアカウントはすべて監視しており、天理教という文字がネット上に上がればすべて収集できるようにしている。これも多くの方々の協力だと感じている。これらのおかげで天理教の苦しんでいる方の声なき声と、天理教の異常な組織構造が垣間見れる。

「カインは天理教を潰したいのですか?」と言われるが、まったく違う。
「苦しんでいる人を助けてあげたい」、それだけである。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

天理教維持財団という組織について 天理教が投資で大儲け&大損しているという噂を信じるか信じないかはあなた次第だ

本ブログを管理してくれているM君から、天理教維持財団とは何の組織かと問われたが、当初私は何のことかわからなかった。
M君いわく、どうやら天理教の組織内に長らく存在していた財務管理系の組織であり、最近になり解体されたということであった。その組織が解体された理由は、お供え金の運用を失敗し莫大な損失を出した疑い(噂)があるということである。私は初耳である。ということで調べた。

まず、この「天理教維持財団」について、なかなか資料がでてこない。私が一部所有している月刊誌「みちのとも」にも見つけられない。色々な方法で検索をかけていると「昭和11年12月 天理教職員録」という冊子が出てきた。この43ページに「財団法人 天理教維持財団(天理教教会本部内)」という項目があった。引用してみよう。
———————————————————————-
◉財団法人 天理教維持財団(天理教教会本部内)
総裁 管長 中山正善
理事(本部)山田清治郎
(同    )上原義彦
監事(本部)山本利正
(同    )平野規知雄
評議員(同 )永尾正信
(同 )村田慶蔵
(同 )中山慶太郎
(同 )鴻田利吉
(同 )山澤?次
(同 )岩田長三郎
(同 )諸井忠彦
(中河)田中善永
(本部)植田英蔵
(筑紫)福原一正

●会計本部
理事
(本部)山田清治郎
(本部)上原義彦
(同 )西浦三治郎
(同 )山澤?次

○管理部(電一五七)
部長
第一課長    西尾直彦
第二課長(同 )山田忠則
掛員
(同 )南 石松
(東本)河野誠
(同 )橋本理一
(河原町)湯浅善之助
( 東 )吉野進
山原太郎
用度課長(本部)浅田銀次郎
掛員
(同 )桝井まつ
(同 )吉川みきの
(同 )和久田江つ
(同 )紺谷志げ
(同 )梅谷春江

○収入部
部長(兼)(同 )山田清治郎
第一課長(同 )(?員)
第二課長(同 )椿昌雄
第三課長(兼)(同 )同
掛員(同 )鴻田勝之助
助手
(奈良)柳田一雄

○支出部
部長(本部)小松駒太郎
第一課長(本部)西村勝造
第二課長(兼)(同 )同
第三課長(兼)(同 )同
————————————————
◉財団法人 天理教朝鮮維持財団
総裁 管長 中山正善
理事
理事長(本部)岩田長三郎
(同 )上原義彦
(同 )山澤?次
監事
(同 )山田清治郎
(同 )西浦三治郎
———————————————-
維持財団という名前の組織は以上である。どうやら、この維持財団という部署が当時の天理教の財務を担当していたようである。存在は真実のようである。ただこの冊子は職員録ということで、金額は載っていない。

その他には、「新興宗教教組のウラの裏がわかる本」(早川和廣1988年)の126ページにこんな記述がある。
「実際、520億円の予算の歳出の主なものは、教組100年祭特別会計への繰入金が300億円。教団本部から年間の活動資金として宗教法人天理教に割り当てられる回付金が157億8400万円、やしき整備費が45億5465万円と大半を占めている。
結局、教団の運営費は宗教法人天理教への回付金程度であり、あと大半の金は、教組100年祭特別会計への繰入金、やしき整備費といった名目で、実は天理教維持財団に蓄積されるというのである。
天理教維持財団は、総裁である中山善衛真柱を含め、17名で構成されているため、天理教関係者にとっても、その内部はうかがい知ることのできないものとなっているが、漏れ伝わるところでは、中山ファミリーの財産を管理する、その意味では”中山・天理教維持財団”ということになる。
結局、現在の天理教は末端に行くほど、貧に落ちきっており、逆に真柱を中心とする中山ファミリーの私生活は王侯貴族をしのぐといわれている。
「天理教は真柱から教会長に至るまで、完全なる世襲制を敷いているため、大教会でも初代の人はみんな苦労してきたわけですが、三代目、四代目となるにつれて、何の苦労も知らずに育ってきた人間ばかりが多くなったのです。真柱同様『教組のひながたを通れ』と号令をかける当人が、全然、その道を通っていないというバカげたことになっている」
ある本部関係者は解説するが、要するに、真柱自身、教組のひながたなど歩いていないのである。

以上である。上記の本は天理教を批判的に書かれており、また本部関係者の発言を乗せており、どこまで信用できるかは読者が判断するしかない。しかし「天理教維持財団」というものは少なくとも昭和11年には存在していたことは間違いないであろう。

では次は、その天理教維持財団という部署が、「莫大な損失を出して解散した」というとこについて言及するべきであろう。しかし大変申し訳ないが、私にはそれを裏付ける資料を見つけることができなかった。別のソースでは、
2001年9月30日本部側の理由説明が一切されぬまま天理教の金庫番である天理教維持財団が突然解散する。これに関する本部側としての理由説明は一切されていない。天理教教会本部が株式投資その他で大失敗し、兆を超す莫大な損失を出したのではないか? と云う観測も出ている。
(天理教教組中山みきの研究)
などがある。天理教の中では比較的有名な話であるようだ。しかし私の調査と同様に信頼できるソースのものがなかなか出てこない。

ここからは私の推測である。天理教がこれまでお供え金や上納金を最高に集めた年は教組100年祭の前年の1985年である。この年、天理教のお供え収入は天理教の説明で約510億円であったことは既報の通りである。しかし、その年以外は400億円を超えた年が1回、300億円を超えたのも1回しかない。その中で、天理教維持財団が兆を超える金額の損失を出したというのは少し現実味に欠けるのではないかと思う。数百億の投資で兆の損失というのは飛躍していると私は考える。

しかし、以前、私が公表した天理教の収支の一覧を見ると、天理教には非常に不可解な金額、それも巨額で不透明な数字が多いことに気づいた方も多かったと思う。もう一度、一覧表を掲げるので見てほしい。今回は2014年、2015年分も入力済みである(2015年は補正予算未)

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例えば、まず前回も遡上にあがった「雑収入」である。2015年は雑収入が4億6千万円といったが、2013年は12億である。1990年前後は30億円台が続いたこともあった。次に「やしき整備特別積立金より繰越」という項目においても、1996年以降、10億〜60億の繰越が頻発している。極めつけは1989年の「特別会計より繰越し金」という項目で400億円もの収入があった。特別会計というわけの分からない名目で400億円など、謎すぎるであろう。
支出も同様である。繰越し金が数億円規模で増えたり減ったり、「予備費」や「積立金」というこれも訳の分からない名目で突然、降って湧いたような数億円〜数十億円のお金が出たり入ったりしている。こんな不透明な会計を公開していては、「兆を超す損失を出した」という噂が立っても不思議ではない。少なくとも、私は天理教が数百億から数千億の損失を出したという事実がもしあったとしても、この不透明な会計では「あり得る」と思う。もし私の推測や信者の噂が間違いであれば、こんな中途半端な数字を出し続けるより、訂正するか正しい数字を公表した方が天理教のためにもいいと思うが。。。もしくは天理教信者にはすでに何らかの説明があったのだろうか。

この動きと奇妙に符合すると思われるのが、日本の経済状況である。100年祭前後はバブルの絶頂であり、その後のバブル崩壊、そして失われた20年、そしてアベノミクスである。その日本の経済的な上下とともに、天理教の数億円規模の金額が連動していると見ることもできる。(連動していないという見方もできる)

また同じ結論で申し訳ないが、こんな不透明な会計をやっていては、天理教が社会の信頼を得ることのは到底無理な話であろう。噂が真ではなくても、否定はされていない。以前上げたような、天理教幹部の年収が奈良県の高額納税者の上位に毎年載っている現状を見れば、「天理教を信じてください」と言ったところで誰も信用できないだろう。政治家の政務費や政活費の不適切な使用が近年大きな問題になっているのも、バレることはないだろうという認識や適当にやっていたことの必然的な結果であろう。

「これ天理教以外の人から見たらヤバイよね」と、常識的な気持ちを理解する天理教人はいないのだろうか。これからの時代は、まさしくこういったカネの話はどんどん風当たりが強くなることは間違いない。天理教は、今回のこういった些細な数字からでも、丁寧に改善していくべきであろう。反対にこういった些細なことからでも変えていけないようでは、これからの天理教には暗い将来しか見えない。まさか「いずれ天理教の良さは分かってもらえるだろう」なんて本気で思っているわけではなかろう。
こんな「明らかに怪しい」会計を信じる人がいるなんて、信仰とは本当に怖いと感じる。

天理教の雑収入4億6千万円はどこからきているのか いずれ宗教法人の透明性を問う時期が必ずやってくる

安保法案が可決された。いくつかの団体、組織、またはその有志がデモやWEBページを作ったりと反対運動がなされた。この件に関して、この場では特に立場を明確にしない。私より詳しい方が多数声をあげており、そちらを参照されたい。

私はこの安保法案の可決までの動きについて、ある意味すごい時代にきたんだと感じることが多かった。それは情報の速度と、組織が隠したい情報の暴露である。つまりインターネットである。
ひと昔であれば、国会で起きていることを「ほぼ同時」に国民が知ることはなかった。多くが数時間後の次の日か、少なくとも、テレビ局というフィルターを通して、限られた時間でしか知る方法はなかった。しかし今回の安保法案では、個人が発信者となり、世界中に情報は溢れた。国会審議もNHKが中継を止めてもネットで見ることができた。

その結果、政党、テレビ局、活動家、あらゆる人たちの隠したいであろう情報が簡単に漏れ伝わってきた。メディアリテラシーという誤った情報に左右されずに、情報を選択し、正しい情報を読み解くことは大切だと思う。しかし、その情報の正しさこそメディアや研究者、当事者も含め、誰も「正しい」判断ができない状態になっていると感じた。そもそも正義はどこにあったのだろうか。

そして忘れてはいけないことは、情報の正誤にこだわるよりも、ネットが人々を団結させ、膨大な集団エネルギーが生まれるということであろう。その結果がアラブの春であり、香港の学生運動であった。権力者がどう行動し、陰で何を話し合ったか、それを知ることが簡単にできる時代にきている。これが社会にとって良いことなのか、悪いことなのか私にはまだ分からない。しかし、もう後にはひけない。小さな出来事、小さな情報、小さな行動が、人生を狂わせ、組織を崩壊させ、容易に権威や権力を無力させる時代になったということである。
この認識は組織経営としては常識になっており、大企業が学生バイトの行動一つで株価を暴落されることは珍しいことではない。

そして、この時代の波に曝されるのは天理教も同様であろう。天理教は良心的な組織であり何も隠してるつもりはないと信じたい。しかし「大教会長に進路を変えさせられた」「お供えは心定めというノルマ制である」「天理時報の購読数が減少しており本部勤務者は一人一部の購入を勧められている」といった情報が証拠とともに私の元に多く送られてくる。ICレコーダーでとった録音データを送ってこられる方までいる。それらを公開するつもりはないが、私が発信していることがガセネタであるかどうかは、読者の判断に委ねたい。今後天理教に関わる人間が、天理教を発展するために団結するのか、天理教を変革するために団結するのか、私にはわからない。

話は長くなったが、これから本題。これまで天理教の財政についてデータを調査してきた。天理教本部の収入の9割以上がお供え金である。では、残りのお供え以外の収入、4億6千万円は何か。天理教の月刊誌である「みちのとも」によれば「雑収入」とある。雑収入で4億6千万円とは、常識外れのどんぶり勘定である。これについては、私も以前の財政データを調べているときに不思議で仕方なかった。「この雑収入はどこからきているんだ?」と。しかしどこにも雑収入の詳細が載っていないため、言及ができなかった。天理教関連の書物を出版している天理教道友社の売り上げだろうか、私は道友社は赤字と聞いているが。

ということで、あらゆる方面から、できる限り調べてみた。すると驚くべき事実がいくつか出てきた。

事実1 宗教法人は、宗教法人法において財務諸表は公開しなくてもよいと決まっている

宗教法人法第25条において、宗教法人は年度終了後に収支計算書を作成し官庁に提出しなければならないとなっている。しかし、公開義務はない。天理教の財政状況を調べている中で、あまりに情報が公開されていないので、薄々感じていたが、やはり公開義務はないということは法律で決まっていたのだ。これは宗教の公益性と信教の自由を担保するための措置であると思われる。しかし、信者などの利害関係者は閲覧を請求することは可能である(しかし「不当な目的ではないと認められる者」とあり、実質のところ信者が教団に財務状況を請求したところで天理教は公開しないだろう)。つまり天理教信者ではない私のように、目的が調査・研究であっても第三者には公開してなくてもよいということである。天理教信者の方は是非天理教本部に開示請求してほしい。そうすれば天理教が信者や社会に対してどのような姿勢であるかは明確になるだろう。
天理教は表向きは情報公開しているようでも、所有財産や予算の詳細など大切なところは全く公開していないので、良心的な組織とは言えない。冒頭にも言ったように、こういった閉ざされた姿勢は今後どんどん風当たりは強くなるであろう。
日本にはいくつかの宗教法人(天理教ではない)が財務状況を公開しているところもあるようで好感がもてる。

リンク 宗教法人法

事実2 天理教には天理教が投資して設立した株式会社があり、そこの役員は天理教幹部ファミリーであると思われる

私が確認したところ印刷業の株式会社天理時報社と、不動産業の株式会社東京天理教館の2つである。天理時報社は代表取締役が諸井博和氏である。彼の名前で検索すると天理教の幹部かその親類であることはよくわかる。みちのともによると「天理やまと文化会議委員」に任命もされているので幹部に近しい人物であることは間違いない。なぜなら天理教幹部で諸井という苗字は多いからである。
東京天理教館は、天理教という名前も入っており、普通に考えて天理教が投資して作った関連企業であろう。代表者の松田嘉次氏は、天理教幹部であるのかはわからなかった。しかし天理教幹部にも松田姓が複数いるため、ほぼ幹部親族であることは間違いないと私は見ている。この天理教会館であるが、月に数百万円のテナントを抱えるビルを複数運営しており、その賃料収入はかなり大きなものと考えることが普通であろう。この会社から天理教へのお金の流れなどは不明だが、この会社自体は、非常に大きな資産と収入を有していることは間違いない。この会社が有しているビルなどは、もともと信者のお供え金が原資であり、天理教を経由して投資されたと考えることができる。土地の取得、ビルの建設など都心に有するということは数百億〜数千億円規模のお金が投資されたことは間違いないだろう。

私には分からないが、もし諸井一族や松田一族のようなものが代々と世襲制で天理教の幹部職を勤めているとしたら、組織として風通しが悪すぎであろう。その他にも同じ苗字の者は非常に多い。この辺もいずれ徹底的に調査したいものだ。

リンク
天理時報社
東京天理教館

事実3 天理教は株式投資をしており、相当数の株を資産として保有している

実は、私が一番知りたかったのはここである。しかし、宗教法人には資産の公開義務はないため知るすべはなかった。しかし、そのことを株式を公開している企業であれば天理教が株主であることを知ることができるかもしれないと数年前に聞いたことを思い出した。
検索してみると天理教は奈良テレビの主要株主であることが明らかになった。7万6千株で7.13%の比率というとかなりの株を保有している。奈良テレビのwikiに載っていた。
現在の状態はわからなかったが、奈良新聞社の設立時の筆頭株主は天理教であったという情報もあった。
もう少し調べると、天理教は奈良の優良企業である南都銀行の株主でもあった。天理教が保有する南都銀行 の株、その数なんと2014年現在、204万6千株を保有しており、南都銀行の発行株の0.7%の比率である。(大株主総覧2014年版(下巻)東洋経済新報社)。2015年9月現在、南都銀行の株価は約350円である。つまり204万6千株を所有していると計算すると、天理教は南都銀行の株を取得するために7億1400万円を投資したことになる。(注意 取得した時の株価は分からないため推測値にすぎない)
そして、現時点での南都銀行の配当利回りは1.87%で、一株あたり7円とある。つまり天理教は、南都銀行の株を所有していることで、年間2,800万円余りの配当金を得ていることになる。(南都銀行は年2回の配当)

いくつかの資料を目にすると、宗教法人は投機的な株の売買は倫理的に問題があり、また現実的でもない。株の売買などではなく資産として保有し続けて毎年配当金を得ることが目的となる。つまり、上記に挙げた少数の企業だけの投資というのは考えにくく、公表されていないだけで、より多くの株式や資産を天理教は保有していると考えるのが普通である。天理教の4億6千万円の雑収入の内訳は、こういったものだと推測することができる。配当金をお供え金や寄付金と計上することはさすがにしないだろう。もし5億円の多くが株式投資だとすれば、配当利回りを2%で計算した場合250億円もの原資を投資したことになる。教祖100年祭のときに500億円もの収入があったことを考えると、当時の天理教が「今後のため」に株式投資で資産運用していたとしても違和感はないと私は考える。

私は宗教法人の資産運用が悪いというわけではないし、経営上の判断として私は妥当だと思う。しかし、疑問点は残る。それを以下に考察する。

今回の3つの事実は、天理教信者にとっては当たり前なのかもしれないが、私は知らなかったし非常に驚いた。多くの一般人も知らないことが多いであろう。何に驚いたかというと、これだけの資産を保有していながら、財務諸表を公開しなくていいということである。そして、これらの原資はその多くが信者のお供えであることは自明である。そもそも宗教法人法の目的は先述したように公益性と信教の自由の保証であり、宗教法人が資産を大量に保有することなど想定していない。少なくとも、文化遺産や文化財としての資産、または寺社が設置されている土地などの直接的管理のためであり、直接関連のない企業の株式を大量に保有することは想定されていないはずである。(法律的には資産運用として宗教法人の株式投資は問題なし)

これはマズイと思う。何がマズイかというのは、公益性を担うはずの宗教法人が国民への説明責任を果たしていないことである。守られるべき宗教法人が、それをいいことに、理念を逸脱しているのではないだろうかということである。これは市場経済という点においてもフェアではないと思うのは私だけだろうか。私は天理教に対して言っているのではなく、日本の社会制度、宗教法人への課税制度に対する疑義として言っている。宗教法人を市場経済で語るのは妥当ではないが、配当金を得るために、信者から集めた金を投資に回し、それらの活動に対する情報公開がないというのは、それは倫理的に許されるべきなのかということである。(改めて言うが法的には問題がない)

つまり、宗教法人というPublicな組織が、株式会社というPublicな組織から株主として得ている配当金は信者のお供えを原資としており、株の配当金は宗教法人の資産として使われるべきである。
私は何が言いたいのかというと、お供え金も配当金も天理教全体のために使われるべきであり、信者へもフィードバックされるべきということである。より具体的に言うのでれば、天理教幹部だけが社会保障と安定した給与を得ているのであれば、それらを天理教の構成員にも広げるべきだと言っている。それは共産主義的な思想ではなく、社会組織としての責任という点である。特に株式等の配当金は、お供え金の個人の意思とは性質が異なる。株式投資は、利益を得るための、安定した組織運営のための資産運営である。別の言い方をすれば、法人としての「儲けるため」のものであるとも考えることができる。他人の財布で儲けたのであれば、他人にも返す。借りたものは返す。
もし天理教が雑収入で得ている4億6千万円を、1万6千ある教会に配分するとしたら約2万8千円を分配できる。たかが2万8千円であるから必要ないと考えるのか、道義的責任としておこなうのはかは、まったく意味が異なるであろう。

宗教法人がおこなう投資というのは、そういった性質を帯びていることを自覚する必要があるだろう。一旦、お供えという形で出資者の手元を離れたお金を天理教がどうしようと、それが天理教発展になるのであれば、出資者への直接的な還元は必要ないと天理教は考えているのかもしれない。しかしそうであれば公益性を担う法人に属する出資者には知る権利が担保されるべきであり、天理教は株式投資や資産など財務諸表を公開し、広くその財務活動を国民に公開すべきであろう。
少なくとも私が信者であれば、お供えの記名制の廃止と財務諸表の公開がないと信仰心の涵養と組織への忠誠なんて生まれるわけがない。

例えば、こうしたお金の流れを天理教人と議論すると「お供をした時点で、そのお金のことは言うべきではない。それが真実のお供えである」と言われたことがある。信仰者としてはそう考えるのが適切だと思う。しかし、その説明で社会が天理教に理解を示してくれると思うのは全く違う。私が申しているのは、天理教の信仰者に対して公開すべきであると言っているのではない、社会に対して説明責任を全うしろということである(金額を開示しろということではない)。「少なくとも天理教本部は信者にアクセス権を付与できるように情報公開はきちんと納得してもらえるように努力してます」と社会に説明しなくてはならない。信者にきちんと説明して納得して信仰してもらうことこそ、社会への説明と同義ということである。「みちのとも」で公開されているような、どんぶり勘定や、確認のしようがない再現不可能な数字では話にならない。「みちのとも」でも「天理時報」でも公開すりゃいい。信者もよくわかっていないのに、国民が納得することはあり得ない。
そして「お供えをしたお金のことを後でぐちぐち言うな」というのは暴論であり、そういった権力を発する天理教人は、社会に向かって説明責任を放棄していることと同じである。

もし天理教本部が「お供えされたものに口を挟むな」と理解し、配当金などの法人の利益は役員等のみで消費するという考えをするのであれば、信者を消費者と認識しており倫理的に疑問が残る。ここから脱却するためには天理教はヤクザのような親子関係の偽装と上納金を撤廃して、1万6千箇所あまりの個々の教会の自立を促進する必要がある。記名を求めるお供え方法や、大教会長が若者の進路や婚姻までに口を出す現状を見れば(教義にはなくても実際にある)、言い逃れはできない。

ということで、私はこの件に関しても、一定の資産運用をしている宗教法人への課税はおこなうべきだと思う。こういった事実は行政や研究者にきちんと伝えていきたいと思う。

教祖100年祭のとき、天理教の収入は500億円もあった。その金は、どこに消えたのか。今回の調査で、その一端が垣間見えたと思う。

リンク
野村證券 宗教法人向け
弁護士ドットコム 高野山真言宗が「投資失敗」で15億円の含み損「宗教法人の資産運用」はどこまで?
京都仏教界 宗教法人法「改正」と税制 ~宗教法人の自主性を確立するために~
南都銀行 中間配当金支払いに関する通知

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

信者の自主性を偽装した集金方法を今も採用している搾取の天理教

天理教を知っている人からも、まったく天理教を知らない人からも「天理教の金の動き」について問い合わせがある。その度に説明するのは骨が折れるので、図を書いてみた。

天理教の収入の多くを占める「お供え金」について。
天理教は「天理教教会本部」を頂点としたピラミッドになっている。
本部ー大教会ー分教会ー布教所 という流れである。大教会は約160箇所、分教会は約1万6千箇所となる。
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教会、大教会、本部それぞれの段階でオリジナルな信者を抱えている。各教会や教会本部の神殿(参拝場)には賽銭箱が供えられており、神社と同様にお賽銭を入れる。しかしこれらは一人あたり数円から数百円が多く、収入としては大きくはないと聞いたことがある。実際に教会の賽銭箱を覗いてみればわかる。

天理教の集金で最も大きな比重を占めるものは毎月の月次祭(つきなみさい)で集められる「お供え金」である。各教会には必ず決められた日に月次祭がある。信者はその日(もしくは前後)に教会にのし袋に入れてお供えする。のし袋には上に「御供」と書き、下にお供えした者の名前を書く(下記資料写真、名前は仮名)。それを月次祭の際に教会の人に手渡す。教会で集めらえたお金は、集計され一括して上級教会の月次祭に持っていかれて「お供え金」として上納されるのである。最終的には奈良県天理市の教会本部の毎月26日の月次祭に集められることになる。

天理教本部のお供え金は2013年は約120億円であることは既報の通りである。各教会は、全国に1万6000箇所ある。つまり各教会は、年間約70万円余りを上納していることになる。しかし、事情教会と言われる機能不全な教会も多く、各教会でのお供え金のバラツキは非常に大きい。また集金したお金の全額を上納していることはなく、集金した中から教会家族の生活費などが抜かれているようである。

信者にとっては毎月の「お供え金」は署名入りなので、非常に心理的・経済的な強制になっていることは言うまでもない。「お供え金は気持ちでいい」という天理教人がいたら気をつけるべきである。 0

お供えの袋は署名入りのため、教会の人間には誰がいくらお供えしたのかは明白である。そして金額が高いと「いい信者」で、低いと「頑張っていない信者」となることは当然の帰結である。天理教がヤクザやネズミ講と例えられるのは、こういったピラミッドの上下システムにあることは間違いない。天理教は別名「搾取の天理教」と昔から言われているのはこういったシステムが原因であろう。おつとめの歌の一節である「悪しきを払うて助けたまえ」を「屋敷を払おうて田売りたまえ」と変換され、屋敷や田んぼを売ってでも金を作ってお供えしろという天理教を揶揄する言葉が昔からある。しかし署名入りのお供えなど、こういったシステムが今も残っている以上、現在も「搾取の天理教」に対して反論はできない。「お供えは強制ではない」という天理教の人間がいたら、その教会のお供え金システムに匿名性が保証されているかをきちんと確認した方がよいだろう。
私はこうした半強制的な集金システムが天理教の害悪(衰退)の根源であると考えている。信教の自由の下で、自由意志であるべきはずのお供え金に署名を求めるというのは、解釈によっては信教の自由を侵害するような人権侵害になるとも考えている。
今年の6月に暴力団の上納金は所得税として扱われ、工藤会トップが脱税で検挙される事件があった。暴力団と宗教法人の天理教を同列に扱うことはフェアではないが、天理教の莫大な金額の不透明さを考えると、天理教内の本部への上納金に対しても贈与税や所得税をかけるべきであると私は考えている。宗教法人への課税は、本来であれば私は反対派であるが、賛成派にならざるを得ないほど天理教のお金の流れは不透明であると考えている。(参考:天理教の財政に関する記事

高校生を対象に合宿を開催して「天理教大好き」「天理教素晴らしい」と、自己判断ができない未成年を短期間で洗脳のように意識変化させるのは結構だが、天理教の権力と金の暗部をひた隠しにしていてはカルトと何が違うのか私には判断できない。

少なくとも、この署名入りのお供え金システムを採用している教会には決して近づくべきではない。初めてこの封筒を見せられたとき、私は「天理教は恐ろしい。しんどなるわ」と思った。こういった感覚は天理教人にはないのだろう。改めて宗教は怖いと思う。

この袋がなくても天理教の教えを信仰することはできるはずである。

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天理カレーを食す

今年は夏のこどもおぢばがえりに参加できなかった。そのため懇意にしている天理教人から、うちの娘に「天理カレー」のレトルトをお土産として頂戴した。
天理カレーというのは、天理教本部の食堂で提供されるカレーのことであると思われる。昨年のこどもおぢばがえりで天理を訪問した際に、天理カレーのキャラクターであるカレーファイブの顔ハメパネルを撮影したが、たべるのは初めてである。

これがパッッケージのおもて。こどもおぢばがえりのカレーと書いてある。天理教道友社のホームページからも購入できるようだ。あまくち大盛り250gで値段は324円。スーパーで購入するレトルトに比べると非常に高い。
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パッケージのうら。製造者は名古屋のめいらくグループ。販売者は(株)天理ふしん社。「この商品は道友社とめいらくグループの共同開発商品です。」と記載がある。このパッケージには天理教という言葉は一つも出てこない。

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中身。少し黄色く、じゃがいもが多くトロミが強い。味はあまくちだが、幼児用の甘口ほどくどくはない。数口だけしか食べてないが、おいしく食べることができた。
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箱の中には、カレーファイブのキャラクターのシールも入っていた。
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なんとLINEのスタンプも120円であるのか!

リンク
LINEストア
道友社カレーファイブオフィシャルサイト

ちなみに、製造者のめいらくグループの創業者は天理教信者と思われる。「めいらく 天理教」でググれば、色々と出てくるのも興味深い。

リンク
めいらくグループ
めいらくグループのWikipedia

近年、天理教(道友社)は、天理教色、宗教色を薄めた書籍や製品を増やしていると感じる。これは天理教の財政が危機的になっている中で、某宗教団体のように出版で稼ごうという姿勢であることは間違いないだろう。お金のお供えという信者に負担ばかりを強いることに比べれば、健全な経営方針であり、私は良いことだと思う。しかし、こういった取り組みが天理教の財政的な手助けとなっているのか、布教戦略として成立しているのか、それは全く別の問題である。天理教の雪崩を打ったような衰退を考えると、宗教経営としては遅きに失していることは明白であり、組織構造変化をもたらすような荒治療が今の天理教には必要であろう。

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こどもおぢばがえりも参加人数は減少している

明日26日から天理市の天理教教会本部では「こどもおぢばがえり」(KOG )が8月4日までの10日間開催される。

名前の通り、子供を対象とした天理教のイベントである。

せっかくの機会なので、以前取得した統計データを公開したいと思う。天理教データは、以前にまとめた天理教統計年鑑から引用した。日本のデータは、文科省の学校基本調査から引用した。

こどもおぢばがえりの参加人数は、天理教の他の統計データと同じく、減少の一途をたどっている。直近のデータである2013年では子供は11万1千人の参加人数である。反対に大人(育成会員)の数は10万2千人である。子供に比べて減少幅が少ない。ここ最近では子供の数に迫るくらいである。こどもおぢばがえりというよりも、おとなおぢばがえりにした方が適切かもしれない。
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次に、子供の数が減少していることに関して考察する。日本はいま少子化を迎えており、子供数は減少している。こどもおぢばがえりの子供の参加人数は、そもそも日本の子供の数が少ないための自然減であるのかを明確にしたい。

下の図はこどもおぢばがえりの子供の参加者数を日本の義務教育(小中)に在籍する子供で割った割合である。2001年以降、120年祭の2006年を除き減少している。そのため、こどもおぢばがえりの子供の参加者数は少子化に関わらず減少していることは間違いない。
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しかし、それでも現在でも11万人を動員していることは、日本の子供の100人に1人以上が参加していることになり、これは凄いことだと思う。(7/26追記→読者からのコメント「こどもおぢばがえりの動員数は延べ人数です。義務教育の生徒の実人数で割ることはできないものです。だから同一人物がかりに1週間連続して参加すれば、7人としてカウントされます。」)

いつものようにエクセルファイルのダウンロードを用意した。コピーフリーであり自由に使っていただいて結構である。しかし誤記もふくめ責任は負いかねます。

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注意
・本記事の数値は、そもそも天理教本部の発表であり、どこまで真の値を反映しているかは不明である。つまり申請人数と実際の参加人数の乖離や、複数回参加した人などがどのように処理されているかわからない。

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天理教の幹部はお金持ちなのか ぼちぼち結論にしよう 奈良県高額納税者一覧から見る天理教幹部の収入

天理教幹部が贅沢な暮らしをしているかどうかは、本ブログでも何度か取り上げている。私の認識では、天理教幹部は決して贅沢はしていない。私が接したことのある幹部は、贅沢ではないが「普通」の生活をしている(と私は思っている)。この「普通」の生活が、天理教末端の貧しい人からしてみれば「贅沢」なのかもしれない。つまり末端の天理教人は国民年金も保険も払っていない中で、道一条というほぼ副業禁止の生活を強いられている。「神様にもたれれば、成るようになる」という人権無視な言葉とともに。一方、天理教幹部(天理教本部で役員として在籍しているもの)の「普通」の生活は、家を買い、自動車を所有し、複数の子供達を大学に通わせるだけの財力がある。この同じ信仰者の中でのギャップが、天理教幹部贅沢論の根源なのかもしれない。
また天理教の財政状況を調査する中で、使途がはっきりしていない莫大な金額が動いていることはこれまでも明らかにしてきた。人件費がどれくらいで、どの役員がどれくらいの収入を得ているのか、中山家の運営費がどれくらいなのか、さっぱりわからない。そこで、経営学の知り合いに宗教法人に関わる人の収入について相談すると「宗教法人だからといって個人の所得は免除されない。きちんと申告する必要がある。もし所得が高額であれば、2006年まで高額納税者公示制度があるから公開されている」という助言をいただいた。
そこで早速、過去の高額納税者一覧の資料を取り寄せて奈良県を調査した。すると天理教の幹部の一部は毎年奈良県の高額納税者の常連であることが判明した。調査した中での最高納税額は、昭和60年の中山善衛氏の9600万円余りである。約一億円。。。繰り返すが、この金額は所得額ではない。納税額である。私は開いた口が塞がらなかった。私は税法の専門家ではないため、間違っているかもしれないが、累進課税で1800万円以上の所得に対して40%の税率と考えると、当時の中山善衛氏は一人で約2億4000万円の収入を得ていたと計算できる。この金額を見て、私は天理教という組織は真柱のために存在しているのかとさえ思ってしまった。
しかし単純に、これらのお金が何に使われているのか疑問が残る。真柱を維持するための運営費(生活費、警備、護衛費、使用人の人件費などが考えられるのかな)に使われているのか、ここから彼らはどれくらいを天理教本部にお供えや寄付をしているのか明確ではないため、どれくらいを私的な財産としているのかはわからない。ただ言えることは、数億円規模のお金が一度は特定の幹部の財布に入れられているという事実である。

ある幹部の納税額

所得税率に関する参考リンク
所得税の税率ー国税庁

参考資料は青文社の「大阪国税局管内 近畿地方2府4県 1000万円を超える高額納税者全覧」の昭和59年〜平成16年発行を用いた。(それ以外の年代はなかった。ちなみに1991年分も資料がなかった)
教祖100年祭以降、天理教の収入が著しく減少しているのと同じく、中山善衛氏などの所得も減少していることがわかる。それであっても直近の平成16年分の三者の合計は約7000万円余りという納税額である。まるでプロ野球選手の年俸を見ているようである。
まだ私の知り合いの天理教人に感想を聞いてはいないため、天理教人はこのデータを見てどのような感想を抱くのであろうか。私は知りたい。また、この高額納税者一覧は納税額が1000万円以上の人間しか掲載されていない。そのため他の幹部役員が低所得であるということにはならない。納税額が1000万円までいかなくとも、高額な所得を得ている可能性もあるだろうし、奈良県以外なのかもしれないし、私が特定の氏名以外を探さなかったからかもしれない。しかしこれだけの収入を得ているということは、天理教の本部役員もそれなりの収入を天理教から得ていると考えることは自然であろう。

これだけ日本社会で格差是正のために富の再分配が叫ばれている中で、天理教ほど富が偏在しているのは、組織の激しい衰退と無相関ではないと考えるのが経営者の思考であろう。幹部のみなさん、その何億かのお金を道一条の若者の社会保障に回してはどうでしょうか。「勇め、徳を詰め」と言うより、圧倒的にやる気をおこさせるために効果的・長期的な経営戦略だと思いますよ。

今回私の理解が進んだことは、特定の幹部は日本社会の一般常識とはかけ離れているほど莫大な収入を得ていること、そして「貧に落ち切れ」という言説は真偽はさておき笑えないジョークでしかないということである。「お供え金」の解釈や宗教的意味性に関しては、個人の自由という考えが優先されるために特に私から意見はない。しかし私の昔からの知り合いである天理教人は、この事実を知らなさそうなので本当にかわいそうだと思う。

今回は2006年まで実施されていた高額納税者公示制度で公開されている情報をもとに調査した。2006年に同制度が廃止になったのは個人情報保護の観点からである。しかしそもそも宗教法人は税制上の優遇を受けており、その活動は社会的性格上の公益事業であることは宗教法人法でも記載されている。また「宗教活動はまさに「不特定多数の者の利益を実現する」ものであると考える」と藤原は述べている。宗教団体を社会として(宗教団体とは無関係な日本人も含めて)公益性を認めるかどうかは議論が残る。一方で、特定の団体を支える構成員においてはその宗教活動が不特定多数の利益のための活動(陽気ぐらしやおたすけ)である以上、最低限構成員に対して公益性が生じるのは必然である。つまり公益性を担う宗教団体が集めるお金は、そのお金自体に献金者の公益性という性格を帯びる。私も過去に天理教に献金した記録が残っており、私が天理教のお金の使徒を求めることは公益性にかなうことを意味する。加えて個人情報保護法では個人情報を「生存する個人に関する情報」(第2条第一項)と定義しており、中山善衛氏とその妻の中山まさ氏に関してはすでに故人であり該当しない。

話は変わるが、宗教法人法を読んでいると宗教法人の収益事業において興味深い点があった。天理市の信者用宿泊施設(詰所)では、一泊1000円と一食250円というのを聞いたことがある。これは、宗教法人の収益事業にならないギリギリの金額ということである。これ以上の金額を信者から徴収すると収益事業とみなされ課税対象になるということである。天理教は税金対策もよく考えているようだ。
収益事業にあたる場合であっても、墳墓地の貸付け(法税基通15-1-18)や宗教法人の有する宿泊施設に信者や参詣人を1泊1,000円(2食付きで1,500円)以下の料金で宿泊させる場合には税務収益事業(この場合は旅館業)にあたらない』税務会計情報ねっ島

いつもと同様に一覧にした表を下記に用意したので自由にダウンロードしていただいて結構です。コピーフリーですので、自由に使っていただいていいです。しかし誤記などもふくめ、その責任は負いかねます。

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tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

次期真柱(天理教トップの後継者)は天理教をワクワクさせることができるか

天理教の出版社が発行している「すきっと」の過去10冊を取り寄せて、流し読みをした。既報のように、この媒体は誰に向けて何を伝えたいのか全く分からない「すきっと」しない媒体である。
それを一気に読むと、所々に気づいたことがある。それは、二代真柱である中山正善氏の逸話が散見されることだ。正善氏は今の四代真柱の祖父にあたる。
「すきっと」という媒体は、角界の著名人へのエッセイやインタビュー記事が中心になっている。それらの角界の著名人の語りの中で、この中山正善氏との関係を想起する場面が多いことに気づく。つまり、著名人や文化人が、過去に中山正善との関わり間接的にでも持っていたということである。彼は1967年に没するまで交友関係は政財産業界から文化芸術まで幅広かった。彼は東大卒で、政財界に留まらず、学術やスポーツまで幅広い人脈を構成しており、それが天理教の理論的、社会的発展に大きく寄与したことはいうまでもない。新興宗教法人が病院や学校や博物館や図書館など、これらの社会的建築物を作れたのは彼の社会的功績だろう。庶民の宗教として発展してきた天理教にとって、インテリなカリスマとして彼が牽引してきた功績は大きい。戦後という時代的なものもあったかもしれないが、まさしく帝王学に近いパワフルなものである。天理教と同時期に発生した宗教団体が、天理教に圧倒的差をつけられたのも彼の功績だと私は考えている。

一方で二代中山正善氏の作り上げたものが完成したときが、天理教のピークでもあったと私は思う。つまり二代真柱以降、明らかな発展は天理教にはない。三代も今の四代も、二代の業績を維持・発展させたものの、二代と同じようなリーダーシップや、パワーを感じる逸話や社会にインパクトを与えるような業績は見当たらない。彼の不在と時期を同じくして天理教も衰退している。
孤高のカリスマとしての存在は、大阪の橋下市長と維新の会との関係とダブって見えるのは私だけだろうか。

では、五代に内定した時期後継者の中山大亮氏はどうであろうか。彼は今後の天理教を「変える」ことができるだろうか。しかし現時点で、彼に関する情報は乏しい。まずは「みちのとも」に掲載されていた彼の情報を取り寄せた。

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平成3年1月23日、中田善亮・道子夫妻の第二子(長男)として出生。21年1月11日おさづけの理拝戴。同年2月天理高校第1部卒業。25年3月関西大学政策創造学部政策学科卒業(みちのとも2013年5月号)

平成3年1月23日、中田善亮・道子夫妻の第二子(長男)として出生。21年1月11日おさづけの理拝戴。同年2月天理高校第1部卒業。25年3月関西大学政策創造学部政策学科卒業。同年4月4日、教祖殿での「養子縁組の儀」で、「養子縁組固めの盃」を戴かれ、中山善司真柱様とはるえ奥様の養子になられた。(みちのとも2013年12月号)

平成3年1月23日、中田善亮・道子夫妻の第二子(長男)として出生。21年1月11日おさづけの理拝戴。同年2月天理高校第1部卒業。25年3月関西大学卒業。同年4月4日、中山善司様とはるえ奥様の養子になられた。同年10月24日、真柱継承者として推戴された。(みちのとも2014年11月号)
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以上が天理教が広報誌「みちのとも」で公表している後継者中山大亮氏の経歴である。
学歴差別をするつもりはないが、二代真柱は東京大学で学んだ。そこで学んだ知識と得た人脈が、その後の天理教の社会的発展に影響していたことは間違いない。大学やゼミの同級生が、各界でリーダーとなることは東大では珍しいことではない。正善氏は知り合いの作家、学者に教義の編纂を依頼した経緯もある。「すきっと」でも少し触れているように、多くの角界の要人との交流があったのだ。
天理教の頭首ともなれば、それなりの要人との関係はあるだろう。しかし「政治的付き合い」なのか、「酒を飲みかわせるパーソナルな間柄」の違いは大きいであろう。

私も学歴コンプレックスというものを感じることがある。学歴や出自で人を区別すべきではないという考え方も理解できるが、それはほとんどの人がそれらによって利益を享受しているため、多くが理論成立していないと考えることもできる。天理教人も、天理教コミュニティの中では天理教人としての優位性を十分に享受しているのである。なぜなら天理教コミュニティの中で、私も部外者として疎外感を感じ、天理教人しか通用しない言葉で従属を求められ恐怖を感じたことがあるからである。

私は天理教に限らずに、大学名、学閥、学派、OB、社名、地域というものが、社会で多くの賛同と利益を得ている場面を何度も目にしてきた。たとえばAという人の方が明らかに優れているのに、Bの方が人間関係の上で優先されることなんて社会では普通にある。コネや縁故と言われるものだ。それは悪い面だけでなくても、コミュニティーの形成やセーフティネットという点では非常に効果的なこともある。県人会や社内学閥なんてどこにでもある。

その点でも五代となる後継者が今後”社会”に影響力を持つものだけが集えるメンバーズオンリーの交友関係を持てるかは疑問である。そして、やはりトップ外交として真柱がどのような社交界での存在意義を築くかは、そのまま天理教の社会での存在意義と大きな関わってくるのは言うまでもない。

「みちのとも」2014年12月号p24の中山大亮氏の青年会長告辞を読むと、まったく当たり障りがない。読む時間が無駄に感じるほど天理時報のテンプレート例文のようなものであった。(天理時報のライターは、同じ例文集から引用しすぎて言葉に中身がない)。彼の個性や強さが垣間見れるものは何もなかった。大学卒業後間もない彼に、過剰な期待をしても可哀想だが。

日本でも有力な政治家がそうであるように、大卒後は会社員や研究者としての社会的経験を積んでから政治家になるのが慣例である。天理教の幹部のように大卒後すぐに天理教という閉鎖的環境に置かれてしまうことを考えると、今後も天理教の社会的ブレークスルーは難しいと思う。彼の人生の幅を考えると、今後彼は天理教を通してしか世界を見れないことを私はかわいそうに思う。天理教バカを育てても経営能力や政策立案、交渉術が無能であっては天理教という時代錯誤の封建組織をまとめあげることは、よほどの戦略と個性がなければ不可能であろう。ましてや自己の正当性のために教義と権力を利用していることに無自覚な大教会長や本部員という元老院たちと交渉するのは厄介であろう。
逆説的に考えてみてはどうだろう。もし彼に会社員経験があるとなれば、私は天理教も変われるのではないかと感じる。もし彼がグーグルやソフトバンクで働いたことがあったり、証券マンや商社マンの経験があったとすれば、私は今後の天理教の変化にワクワクせざるをえないであろう。
今思えば、二代真柱の最大の失敗は、優秀な人材を養成しなかったことにあるだろう。真柱や幹部としての帝王学や覇道を継承する人材とシステムを構築しなかったのは、カリスマ故の盲点だったのかもしれない。

私の知っている天理教の優秀な子弟たちは、天理教の教会を継がずに社会で素晴らしい活躍をしている。中には教会を継がないことで天理教人から「お前は助からない」と最低な言葉を浴びせられたという証言もある。私は「縦の伝導」と言いながら、若者の選択肢を限定させる天理教の構造に(それを見て見ぬふりをする教会長・信者たちに)本当に怒りを覚える。

少なくとも現時点で私が天理教に感じるものはワクワクなんてものは微塵もない。

今後の変化の可能性として五代真柱となる後継者は社会的に非常に優秀な女性と結婚するか、ラリーペイジのような優秀な人材を幹部に登用することであろうか。しかし天理教の崩壊へのタイムリミットがそれを待ってくれるかは別問題である。
一つのポジティブな側面として、みちのともに掲載されていた中山大亮氏の顔を見る限り、私はなかなかの恰幅の良さそうな実直さを感じた。それが良い方向に活かされれば末端の天理教人を救済するような古い価値観を打破して社会の支持を得やすいのかもしれないと思う。しかし悪い方向に向かえば、何も変わらずに相変わらず同じ名字の人間が役職を輪番し、彼を最後に天理教は日本史の教科書から消失することもあるだろう。
天理時報や演説では意気軒昂だが、天理教を信仰している人たちは、綺麗事なしに果たして本当に教祖130年祭や将来の天理教にワクワクしているのだろうか。私には天理教人の130年祭のワクワク感はさっぱり伝わってこない。

都構想にならって、天理教も一度仕切り直しの選挙でもしてはどうだろうか。大教会を中心とする垂直型組織を解体して地域別の教会コミュニティとする選挙でもしたら、どっちが勝つのだろうか。上納金の受け皿となる大教会と教会本部ファミリーの既得権益者たちが勝つか、お金はないが本気で将来を変えよう考えている末端信者たちか。なかなか興味深いが、今の天理教には献金を正当化するだけの知性も体力も勇気はないことは明らかである

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

30年前に頻発した天理教の不祥事。教勢拡大は、不祥事に繋がるジレンマ。天理教幹部による8000万円脱税事件の背景。

日本が右傾化や好戦的になって言われて久しい。右傾化や好戦的態度と言われているが、国家としての前提なのか、戦争への連続性なのか、立場によって考え方は様々である。私の考えは国家として新聞を賑わしている大国視点ではなく発展途上国視点で弱者を救済するようになってほしい。平和や国益という目的は共有できても、方法論や手段が異なるため議論となり論争となる。
もちろん戦争は最も忌避しなければならないことではあるが、どのような立場であっても特定の視点でしか物事を見れないことに私は最も怖いと感じる。「まーまーしゃーない。ちょっと話ししようや」というような仲を取り持つような大人が最近少なくなっているのではないかと感じる。どのような大人も、たとえ戦争を声高らかに反対する大人でさえも、感情的になり、目くじらを立てている。そこにこそ戦争に近い雰囲気を感じるのは私だけだろうか。どのような立場も否定する気はないが、その人たちから見れば、私こそが平和ボケしているリベラルなのかとさえ感じる。
そのため私は国家総動員のようなスローガンが嫌いである。スローガンとなった途端に、それ以外の言論を封殺し、それに乗れきれない者を排除するような雰囲気が生じるからである。

この文脈で天理教のスローガンや130年祭への総動員的な雰囲気を批判するのは少し場違いなのかもしれない。なぜなら宗教とは、それが必要条件なのかもしれないからである。しかし現在天理教がもつ教祖130年祭に向かう集団主義的な雰囲気は、部外者の私には異様に感じる。天理教の発行物や天理教人にもらう配布物には、教祖130年祭に向かうことしか書いていない。

来年1月26日、天理教では教祖が身体的に亡くなってから130年を迎える。そのため現在、教団では広報誌などを使って「130年祭に向けて」と信者や構成員に対して国威発揚のごとく発信しまくっている。既報のように「130年祭までに3000人を信者に(初席者に)しよう」というノルマ的な数字まである。教会単位では「130年祭までにお供えを◯◯万円させていただこう」という金額まであるようだ。
数字ついて、いつも私が意見を聞いている天理教人に問い合わせてみると「数値目標として設定されているが、ノルマを達成しなくても特に罰則はない。罰則はないが、数字が低い天理教人は「頑張っていない(勇んでいない)」という暗黙の空気を周知することになる。これでも100年祭の頃に比べるとプレッシャーは非常に緩やかになった。100年祭の頃はいろいろあったから」ということであった。いろいろあったことについては「よく知らないけど、上層部からのプレッシャーから、教会長の強盗とか自殺が多かったようですよ」ということだった。

少し気になったので調べてみた。すると「天理教・その堕落と悲劇:300万信者の悲劇、お供え金地獄、教会長残酷秘話、本部の犯罪、相次ぐ離脱・・・」早川和広1988という本が出てきたので、早速取り寄せた。
天理教のお金にまつわる話や真柱中山家に対する批判などが中心であった。どこまで本当の話かは私には判断ができなかったが、この著者は社会派の力のあるジャーナリストのようだ。
そこに書かれていた100年祭前後の事件について引用する。

「東西礼拝場の建設や、百年祭の準備に忙しい昭和59年1月5日の早朝、本部直属教会長たちによる年頭会議が開かれる、おめでたい日を選んで、長崎県の肥長大教会長が天理詰所(宿舎)で首吊り自殺をはかったのだ。」(p20)

「同じ年(昭和59年)の10月25日、今度は山名大教会(静岡県袋井市)の部下教会である静岡県の鮎ケ瀬分教会長が天理の山名詰所で飛び降り自殺をはかった。この日は、東西礼拝場落成の日であり、前日には親神(人間創造の神)が人間を宿し込んだ地とされるぢばの証拠であるかんろだい(甘露台)据えかえの儀が行われ、翌日は秋季大祭という天理教の三大慶事が重なった、とりわけおめでたい日であった。」(p20)

「昭和59年5月28日、船場大教会(大阪市)の部下教会である埼玉県の大請分教会長が、東京・足立区の平和相互銀行千住支店(当時)に包丁を持って押し入り、強盗傷害の現行犯で逮捕されている。」(p21)

これについては、私も当時の新聞を見返した。当該事件の記事はあったが、天理教という文字はなかった。

「それ以前にも、57年12月23日、郡山大教会(奈良県)の部下教会である広島県の竜安芸分教会長が広島市信用組合大河支店に押し入り、やはり現行犯で逮捕されているのである。」(p21)

「そのおめでたい百年祭も終わりに近づいた昭和61年2月14日、天理教本部にとって由々しき事件が起きたことは、ほとんど知られていない。その日、日光大教会(栃木県)部内のある教会の団参一行は、天理へのおぢば帰りを終えた後、鳥羽伏見で一泊、帰路につくことになっていたのだ。ところが、その団参の引率者が入水自殺を遂げるという事件が起こったのである。天理の本部での自殺でなかったことが、教団本部にとってはせめてもの救いであったというべきかもしれないが、自殺の原因は、地元に帰れば、また立教150年へ向けての”きりなしふしん”(お供え金)が待っていると思うと、家路に向かうのが憂うつであり、その苦労を思い悩んでの結果であったと関係者の間では囁かれている。」(p26)

「昭和62年1月26日、立教150年を10ヶ月後に控えた春季大祭に、天理を訪れたブラジルからの団参の責任者が、翌27日、拳銃密輸容疑のため岡山市内の宿泊先で手入れを受け、拳銃数丁と実弾数発を押収されるという事件が起きたのだ。その日流れたテレビのニュースでは、天理教の名前こそ出なかったが、事件を知らされた天理教本部関係者・M氏は、「拳銃に限らず、海外の天理教関係者による密輸は、そう珍しいことではない」と指摘した。」(p30)

「2月18に日午後9時35分ごろ、東京都葛飾区にある天理教本田分教会から出火、木造平屋建ての同教会兼住居のうち、教会部分(70平方メートル)を焼き、高山朝治分教会長(76)と長男のプレス工・節男さん(55)の二人が焼死するという事件があった。翌日の「読売新聞」には、本田署の調べとして次のように書かれていた。<出火場所は、教堂とトイレの境付近とみられるが、火の回りが異常に早く、二人が焼け死んでいる場所が不自然などの点があり、同署できょう19日現場検証して調べる>その結果、本田分教会では、その火災の前にも出火があり、そのときは近所の人たちが消火器を持って駆けつけ、火を消したため大事には至らなかったという騒ぎを起こしていることがわかったのだ。そして、近所の人たちが帰った後、改めて内側から鍵をかけ、二人は石油をかぶった後、火を放って焼身自殺をしたわけであった。亡くなった高山分教会長は、何十年もの間、上級の本畑分教会(東京)に日参するほど信仰熱心で有名だったが、上級の会長の「私たちのまことの表しようは、(本部に)おカネをお供えする以外にないんだ」という姿勢が続く中でのカネ集めに、信者たちが音を上げ、家庭内も揉め、関係者に「ホトホト、お道(信仰)も嫌になった」と漏らすようになっていたという。「火事のあった日の午後も、同じ葛飾区内の布教所に行って、”カネ、カネ、カネといわれるばかりで、もうホトホト嫌になってしまった”と、弱音を吐いていた矢先の出来事でした(東京の教会長S氏)(p31)

「カネがらみではないが、天理教関係者にとって衝撃的だったのが、62年6月5日、香川県木田郡の天理教本田中分教会・佐々木徳雄教会長(49)が修行のため小屋に監禁していた女性(22)を死に至らしめたという事件であろう。地元の「四国新聞」(昭和62年6月7日)には、以下のように報じられた。<A子さんは先月ごろからノイローゼ気味となり、両親が佐々木に「娘の体の調子が悪いので、精神修行してくれないか」と頼み、先月29日にA子さんを預けた。佐々木は教会兼自宅でA子さんの面倒を見ていたが、A子さんが品物を壊したり、走り回ることから、両親に連絡して、1日、A子さんの手足を縛って教会東側のトタン小屋(幅2メートル、奥行3メートル)に閉じ込め、外から施錠。食事は佐々木や両親が運び込み、きちんと食べさせていたが、最近は食欲がなくなり、牛乳やプリンなどを与えていた。佐々木が5日午後7時すぎ、様子を見たところ、A子さんがぐったりしていたので119番通報した。調べに対して佐々木は、「両親から相談を受け、精神修行するためA子さんを預かった。しかし、A子さんが走り回って危ないので、けがをしてはいけないと思い、両親に話して小屋に入れた」などと自供。同署(高松東署)では、さらにA子さんを閉じ込めていた5日間の詳しい状況などを聴いている>彼女の両親は20年ほど前からの天理教信者で、本田中分教会に通っていたという。ちなみに、彼女が閉じ込められていた小屋は、ふだんは物置として使用されていたもの。当時、香川県では30度を超える真夏日が続いており、彼女は急激な脱水症状を起こしたとみられている。直接の原因は急性心不全であった。」(p34)

この事件は、私も当時の新聞を読んだ。同情する点も多く、佐々木会長の人柄もあり地元では減刑嘆願署名運動もあったようだ。

事件ではないが、

「ある教会の後継者で、当時はエリートサラリーマンだった人が、職場結婚することになったんです。相手は天理教とは縁のない人だったので、花嫁修行を兼ねて修養科へ行ったわけです。で、終了間近になって、本部員の先生にお茶に誘われ、二人きりになったら、その先生が「結婚をやめて、ぼくの女になれ」と関係を迫ったわけ。彼女はバカにしないでって、帰ってきたんだけど、地元に帰ってから、そのことを教会長に話したんですね。その本部員というのは、天理教のある施設(いこいの家)の長をやっている人物の関係者ですけど、文句をいっても、申し訳ないでおしまいですよ。(p93)

『T氏は語る。「修養科生に手をつけて有名になったのが、埼玉県の秩父大教会長です。相手が「生徒に手をつけ、女遊びをやっている人が教会長でいいのですか」と、本部に直訴したんですね。直訴されたんで、本部も何とかしなければいけないわけです。で、結局、夫婦仲が悪いから、そんなことになるのだろうというので、夫婦で海外布教に行ってこいと、ブラジルに半年ばかり行かされてしまった。しかし、帰ってきたら、どうせバレたんだからと、本人はもっとおおっぴらに女遊びをしている」(p94)

「教祖100年祭の準備も、ほとんど終わろうという昭和60年11月7日、天理教の幹部役員(本部員)3人が、大阪国税局の税務調査を受け、合計約8000万円の脱税を指摘され、約2500万円の追徴税を課せられていたことが明るみに出てしまったのだ。つまり、本来なら役員個人の支出として計上すべき子弟の学費や結婚式費用を、非課税の宗教法人会計で処理していたというのである。当時の報道によれば、その事件の概要は、以下のようなものである。<大阪国税局の調べなどによると、申告漏れを指摘されたのは、天理教本部で教団の運営に当たっている責任役員18人のうち3人。57年から59年にかけて全国各地の教会で行なった講演の謝礼金の一部や、役員個人が関係した出版料収入などを申告していなかった。また、東京の大学に進学したり、海外留学したりしている子弟の学費や結婚式の費用を宗教法人の会計から支出し、役員個人の申告から覗いていたが、同国税局は「子弟の教育費などは親である役員の個人的な支出であり、役員に同額の所得があったものとみなすべきだ」と課税対象として認定した。(「静岡新聞」昭和60年11月7日)

「60年の春ごろから一部関係者の間で問題視されていた、いわゆる中野大教会(滋賀県)問題であった。親教会の教会長の自殺未遂、ヤクザの介入など、話題は多いが、すべての原因は詰まるところカネに対するルーズさんあった。中野大教会問題とはいえ、問題をおこしたのは、部下教会である。つまり、中野大教会傘下に南濃分教会(岐阜県)があり、その部下に浪越分教会(愛知県)がある。問題はこの浪越分教会で起こった。浪越分教会の会長であった山田晴久氏は、(中略)いわくつきに人物であった。今回の問題の発端は、もともと彼が信者のために墓地の造成を手がけることに始まったのだが、墓地管理だけでは事業的に赤字が増えるばかりで、どうしようもないため、さらに不動産を手がける傍ら、ヘルスセンターをつくるというように、事業の幅を広げていったことであった。だが、しょせん素人のやること、(中略)59年までは、その借金も12億ぐらいだったらしい(中略)その結果、借金のカタに、浪越の部下教会までが担保に入れられ、責任を感じた親教会の南濃分教会長が自殺未遂をするに及んで、問題が表面化してしまった。そして、昭和60年3月半ば、浪越の部下教会長ら十数人は、天理教本部へ押しかけ、真柱が帰ってくるところを待ち受けて、”直訴”に及んだのであった。そこで、彼らは土下座して、浪越分教会長の不始末のせいで、自分たちの教会が担保に入れられているという窮状を訴えたのである。この浪越分教会の借金は、最終的には58億円に及んだといわれるが、そのうちの約40億円がいわゆる「悪しき金融業者からの金」だったと見られている。本来であれば、いくら本部で直訴などしても、本部が救済に入ることなどないのだが、この件に関しては、借金の取り立てに、ある暴力団が間に入って動いたこともあって、本部がその借金を肩代わり、暴力団に金を渡して、騒ぎを食い止めたといういきさつがあった。天理教本部は、その上で、中野大教会以下の各教会長を罷免、それ以上、問題が表面化しないようにしたのであった。(p97)

「中野問題以後、本部は心配になって、全国の大教会の借金の有無の総点検をやった。その結果、全天理教の教会の借金は、中野大教会を除いて、約100億円あったと言われている。」(p100)

「日野大教会は現在、山添理一前会長が実権を握っているのですが、この前会長についてはなにしろ袖の下を使って、上に取り入り本部役員になったと一般に噂されているぐらいで、悪い噂がいっぱいという人物なんです。この前会長時代に、日野大教会は滋賀県の山中に大きな敷地を買って、そこに大神殿を建てた。その費用を、カネに余裕のない部下教会に割り当てたのです。当時は、さらに教祖100年祭に向けて、本部へのお供えもしなければならない時期でしたから、各教会は非常に苦しい状況だったわけです。しかし、日野大教会側の言い草は決まっていて、『親のいうことはハイと素直に聞け!』という天理教の金科玉条を持ち出し、命令に逆らえば教会長の資格はないということで、クビを切られてしまう。そうなると、その教会長一家は路頭に迷うわけです。つまり、大教会に生活権まで握られているから、すべての命令に対してはイエスとしか答えられない。そこで、彼ら教会長たちは窮余の策として、自分の土地や建物を担保に入れて、金を借りまくり、サラ金や高利貸しにまで手を出さざるをえなくなる。ところが、利息も払えない。その結果、暴力団が借金の取り立てにくる。とうとう、部下の教会は逃げ場を失って、最後の手段として天理教の真柱に自分たちの窮状を訴えるために直訴したわけです」その金額が、全体で36億円であったというのだが、結局、天理教はその36億円を天理教の”御用銀行”である地元の南都銀行に立て替えさせたのである。そして、部下教会は、今度は南都銀行に、借金の返済をするという形にしてのであった。(中略)つまり部内で36億円という借金を生み、暴力団が介入、真柱への直訴騒ぎまで起きたにも関わらず、本来、そうした問題を起こしたことに対する責任が問われる山添理一前教会長は何も処分されず、逆に天理参考館館長に就任、出世までしているのである。」

以上である。その他、天理教関連の裁判事例や、大教会などの建物建築に関する問題、天理教の問題点を指摘したものへの罷免、除籍問題(中山みき研究ノート、八島問題、ほんみち)などが詳しく書かれている。とても興味深く、一気に読める。いずれ天理教関連の訴訟や裁判についても詳しく調査したいと思う。こうった事件や出来事は、天理教人の中では皆が知っている当たり前のことなのか、それとも知らない人が多いのだろうか私は知りたい。暗い過去としてタブーなのだろうか。

来年の教祖130年祭に向けて天理教本部は構成員にハッパをかけたいが、ハッパをかけすぎると教祖100年祭のように反社会的な事件が頻発してしまうジレンマを抱えることになる。もし100年祭のことのような事件が起これば、今の情報化社会では一気に社会から天理教批判が噴出するであろう。

私が最も興味深かったことは、天理教幹部(本部役員)による脱税事件である。私が知っている本部役員数人を見ると、本部役員はお金持ちという実感はない。生活に困っている感じではないがネット上に散見されるような、「天理教幹部は贅沢三昧」という批判は妄想的なお門違いだと私は認識していた。しかしこの事件で明らかになった脱税額は8000万円と高額である。3人の総計としてもかなり高額である。ということは、本部役員はかなりの高額なお給料を貰っていることになる。確かに今思うと、私の知る本部役員も贅沢な暮らしはしていないが、年の近い子供数人を大学まで行かせている。息子さんの結婚披露宴もそれなりのホテルで盛大にやっていた。そう考えると、贅沢に映らないような生活をしているけど、不自由のない生活であることは間違いないだろう。もちろん私の知り合いの末端の天理教人は、奨学金なしで子供を大学に行かせる余裕なんてなく全くなく、結婚式も明らかにお金がかかっていない教会での手作りであった。教会での手作り結婚式が悪いというわけではないが、信仰者の中のこの格差はきちんと明らかにすべきだと思う。
前回、天理教の財政統計をまとめた中で、「結局使途不明金が多くて、何に使われているのかはっきりしない」と感じた。しかし今回確信したことは、本部に集まるお金の中から数億円規模で本部役員の給料となっていることは間違いないだろう。また役員は、それぞれ病院や学校などの役員も兼任しており、役員報酬も得ている。もし違うというのであれば、天理教本部はより詳細な財務状況を公表すべきだ。

私は特に天理教と直接的な関わりがなく、お供え(献金)もしていないので、究極的にはどうでもいい。しかし、私の知り合いの多くの若者が、大教会で青年という立場で月2,3万円の給料(お与え)の中で生活し(衣食住はほぼ無料だが)、さらにその金額から毎月のお供えをしなければならないという生活である。もちろん年金も社会保障もない。また代々と続いている教会を継いだ若者なども、週に数回アルバイトをして日中は布教をして必死に生きている。毎月十数万の収入の中から家族を養い、教会を運営し、毎月のお供えもしている。信者からの献金は、そのままほぼ手をつけず上級教会へ献金し、最終的には天理教本部に上納される。もちろん、教会にいる彼らも年金や社会保障などできていないことが多い。しかし大教会や教会本部からは「たんのう(現状を喜ぶ)しろ」や「素直になれ」というレトリックを用いて弱者を洗脳している。こういった組織構造や既得権益を維持するために、教会本部や大教会が発するありがたい言葉は何の説得力もないだろう。私が当事者であれば、「なんじゃあこの組織は。あほらしい、やってられん」と思う。しかし組織構造に組み入れられた身分階層社会では、低位固定された末端の天理教人は「やってられない」と逃げることもできない。低位固定という概念は日本人にはピンとこないかもしれないが、ヨーロッパの階級社会と同様の構造である。

この状況を放置している天理教が、今後も社会の承認を得ることは難しいであろう。