天理教の一大イベントである「教祖130年祭」が昨日終わった。次の大きな動きは10年後になる。
毎日新聞が電子版で26日の昼過ぎには、その模様を配信した。
http://mainichi.jp/articles/20160126/ddf/041/040/003000c
約20万人が、ここに集まっていると思うと驚きである。以前、統計をとったときにも思ったが、30年前の100年祭のように1週間や1ヶ月などの期間で実施すれば、もっと多くの人が集まるのだろう。それには、私には想像もできない主催者として様々な問題もあるのだろうが。
ただ、この約20万人を多いと考えるか、少ないと考えるか。歴史をみれば明らかであろう。
下世話で申し訳ないが、私は今回天理教が回収した金額を知りたい。3年前に126億円であったお供え金が、2015年にいくら集めたのだろうか。天理教のお金と人は100年祭以降、順調に減少している。しかし年祭の前年だけはピョコッと増加するのである。詳しくはコチラ
(年祭は1月26日なので、年祭臨時収入は、前年の収入にほぼ反映される)
この年祭の統計を天理教が公表するのは、ずいぶん先のことになると思うので待つしかない。
今回は、私の体験談と実際に見た資料を開示したい。
まず定義を掲げたい。
ノルマとは半強制的に与えられた労働の基準量であり、大抵の場合時間的強制も付加される。(wikipediaより)
結論から述べる。ノルマと聞いて、営業職などの方は違和感がないだろう。しかし、話は仕事ではない。宗教である。あなたは宗教法人がノルマ制を採用していればどう思うだろうか。一気に、怪しい感じがするのではないか。それが普通の反応である。しかし天理教では未だに強いノルマ制が採用されている。これを今回の話にしたい。
少し前になるが、お正月に天理教の教会に挨拶にいった。神殿に入ると130年祭関連の掲示が複数、壁に貼ってあった。
私はそれらを写真に撮った。下の資料は、私が写真の一つからほぼ同じに作成したものである。
この資料は天理教がノルマ制であることの証拠である。
「心定め」というのは、教義的解釈はわからないが、普通に考えて数値目標と捉えて問題はない。
つまり、この教会の今年の数値目標のポスターである。特定できないように、数字は見やすいように少し変えたが大きくは変えていない。
右から順番に見ていく。
「初席者」というのは、天理教の信者になるために聞かなくてはいけない9回の話の1回目のことである。もちろん、この話は奈良県天理市の天理教本部でしか聞けない。
「よふぼく」というのは、上記の9回の話を完遂し、信者になる許しを得たもののことをいう。
「修養科生」というのは、3カ月間天理教本部で泊まり込みで教義の学習や、実習(といって掃除や雑用がメイン)をおこなう。
「教人登録」というのは、マスターのようなもので「よふぼく」の上位資格であり、数日の研修と試験をクリアすれば得られる。教会長や道専務という天理教のみで生活している人の多くがもっている。
「おつくし」というのは、お供え金である。ここだけ隠蔽しているためか単位が書かれていないが、単位は万円である。
これを見て、天理教はノルマ制を採用していることに間違いはない。
このポスターについて、この教会の方と少し話をした。それを以下に列挙する。
・心定めというのは数値目標だけではない。気持ちの結果である。
・130年祭に向けて少し気合いを入れた数字になっている。(例年より多めの目標)
・130年祭のみというわけではない。130年祭以外にも、大教会の記念年や教祖の誕生記念年など、2,3年に一度はこういった大きな数値目標を設定している。
・記念年でなくても、毎年数値目標は作っている。
・このポスターを誰に作れと言われるわけではない。でも皆やっている。フォーマットは上級から送られてくる。信者に周知させるためにも必要。
・明確に上から「お前の教会はこの数値目標だ」と言われることはないが、暗黙の圧迫はもちろんある。教会長会議では、実際に各教会の目標を調整する。
・特に大教会の建設や、天理市の詰所の建て替えなどで「○○円必要だ」と言われることはある。その要求金額を各教会で割り付けられる。
・ノルマと言われればノルマだが、達成できなくても何も罰則はない
・罰則はないが、金などは上納する際に、人的資源は申請するときに必ず上にバレるので、それなりの暗黙の評価は生じる。もちろん目標が達成できれば、「次はもっと数値が高くなるのはいうまでもない。大教会からも「あの教会は頑張っている」と注目される。
話した内容はこのような感じである。数値目標を「気持ちの問題」にすり替えるあたりは、天理教の大事なところはウヤムヤにする汚い姿勢が見事に反映されている。恐らく天理教人の私に対する反論は「これは個人の目標でありノルマではない」というだろう。しかし、それはブラック企業と同じ理路である。個人の目標であれば公開する必要も、仰々しく掲げる必要もない。神との個人的な約束は、信仰の本質であり、そういった姿勢を私は歓迎する。しかし共同目標として公開され、それに向かうことはノルマ以外の何者でもない。
最近聞いた話では、ある教会では「上級教会の会長が下の教会に来ることなんてほとんどなかった。しかし大教会が数億円の普請(建て替え)をしてから毎月「○○円、お供えするように」と来るようになった。こんな人間を信じられるか」といった話である。
こういったノルマ制は、今回に限らずに私も何度か目にしている。130年祭だからというよりも、これが天理教の平常運転なのであろう。このような「心定め」と偽装したノルマは、全国の教会でやっているのだろうか。それとも特定の教えをくむ系統(大教会)だけのことであろうかという疑問がある。
しかしネットでググってみれば、ノルマ制が一部なのか、組織の体質なのかは明らかであり、天理教のノルマ制の根深さはすぐに理解できる。
例えば以下のようなポスターである。画像をクリックすればリンク先に飛べます。
他ににもある。これらはググったら簡単に出てきたもので特殊な例ではないだろう。ググればこれ以外にもたくさん出てくる。
加えて、天理教のノルマ制は学生の時から、叩き込まれているのだろう。この思考停止装置を発動された無邪気な若者たちは、なぜ信仰にノルマや数値目標が必要なのか考えることもしないのだろう。
本日は、確定人数報告日です!現在の人数は、、、、 1250人! 5000名まであと3750人 蒔いたる種は皆生える! やってきたことは、間違ってません!あとは、最後の追い込みと、神様に心をつなぐ伏せこみが大切です! みんなでラスとスパート勇んで頑張りましょう!^o^
— 第52期天理教学生会 (@52gakuseikai) September 7, 2015
そのほかにも沢山の資料がネットには転がっているので、気になる方は検索なりツイッターなりで調べてほしい。
話を戻す。初任給が20万円を切るような地方にある、おじいさんやおばあさんくらいしか集まらない小さな教会で、この金額を上納することを知れば(達成できなくてもそれに近い金額)、天理教が全国から年間、百数億円を集めるのも頷ける。こんなことをやっていては天理教が「陽気ぐらし」をできるわけがないし、そういった当たり前の感覚は天理教人にはないのだろうか。
ここからは少し考察を加えたい。なぜ天理教が社会にとって害悪となるのか説明する。
まず、根本に立ち返ろう。なぜ宗教がノルマを課す必要があるのだろうか。ここで気をつけたいことは、崇高な教えや教義解釈はどうでもよいということ。ノルマ制が事実としてあるということである。天理教の方には是非、立ち止まって想像してほしい。
つまるところ、ノルマ制を採用している宗教団体に、あなたは入りたいだろうか。
例えば、あなたが街を歩いて○○教の方に勧誘されたとしよう。その方は、とても優しくて、親身になって話を聞いてくれる。しかし、その方が所属する教会では「何名を連れてこい」というノルマがあったら、あなたはとのように思うだろうか。街であなたに声をかけた方は本当にあなたのことを思って声をかけたのだろうか。それとも、ノルマがあるから声をかけたのだろうか、声をかけられた私は心配にならざるを得ない。ここで大事なことは、ノルマがある以上、例えその人が本当にあなたのことを思って声をかけたとしても、すべてが嘘っぽく聞こえることでしかない。そう、とてもいい人であって嘘がない人であってもだ。天理教の方に質問してみればいい。例外なく「あなたのことを思っているに間違いないじゃない!!」と声高らかに宣言するだろう。しかし、傍から見れば、天理教人らが金のため、名誉欲のためと見られても今の天理教には反論できない。それほどノルマ制というのは印象も悪く、真実にはなりえない。
神を信じるだけなのに、陽気に生きるだけなのに、天理教を信仰したいだけなのに、なぜそこまで金が必要なのだろうか。天理教人はきちんと社会(信者にも)に説明すべきであろう。
巨大な組織を運営するのには金がいることは理解できる。では会費制にするなり、観光資源なり、冠婚葬祭なり、物販なり自助努力できることは山程あるであろう。極端な話、お供え金なんて、数百円でもいいじゃないか。なぜ祝儀袋に入れて名前を書いて申告する必要があるのだろうか。
どんな丁寧な天理教人も、この集金方法については一切誰も説明していない。
「神様に喜んでもらうため」という詐欺な理屈では誰も納得できるわけがない。ノルマを採用しているなんて、だから天理教の教えは浅いと思われるのだろう。ノルマを強いるのであれば、なぜそれほど金がいるのか説明すべきであろう。
金を払えば助かる?苦労して頑張った分だけ神様は喜んでくれる?本当にそう思うのであれば、こそこそしていないでホームページにでも、大きくそう書きなさい。そうしないのは、天理教人もまた「ノルマで人を圧迫するような方法は本当は良くない。こんなことでは国民の信頼は得られない」と薄々感じているからであろう。汚い手法を使うことを黙認している宗教に、どんな善があるのか私には全く理解できない。
天理教はあまりに汚い、姑息な方法でノルマを心の問題にすり替えている。
なぜ人から金を奪うほど、天理教は金が必要なのか。
中身のない綺麗事ばかり言ってないで、丁寧に、親切に説明すべきであろう。
tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp