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天理教の勧誘と集金はノルマ制である。なぜ天理教はそこまで金が必要なのか、それを説明できなければ全てが嘘っぽく聞こえる

天理教の一大イベントである「教祖130年祭」が昨日終わった。次の大きな動きは10年後になる。
毎日新聞が電子版で26日の昼過ぎには、その模様を配信した。
http://mainichi.jp/articles/20160126/ddf/041/040/003000c

約20万人が、ここに集まっていると思うと驚きである。以前、統計をとったときにも思ったが、30年前の100年祭のように1週間や1ヶ月などの期間で実施すれば、もっと多くの人が集まるのだろう。それには、私には想像もできない主催者として様々な問題もあるのだろうが。
ただ、この約20万人を多いと考えるか、少ないと考えるか。歴史をみれば明らかであろう。
下世話で申し訳ないが、私は今回天理教が回収した金額を知りたい。3年前に126億円であったお供え金が、2015年にいくら集めたのだろうか。天理教のお金と人は100年祭以降、順調に減少している。しかし年祭の前年だけはピョコッと増加するのである。詳しくはコチラ
(年祭は1月26日なので、年祭臨時収入は、前年の収入にほぼ反映される)

この年祭の統計を天理教が公表するのは、ずいぶん先のことになると思うので待つしかない。

今回は、私の体験談と実際に見た資料を開示したい。
まず定義を掲げたい。
ノルマ
とは半強制的に与えられた労働の基準量であり、大抵の場合時間的強制も付加される。(wikipediaより)

結論から述べる。ノルマと聞いて、営業職などの方は違和感がないだろう。しかし、話は仕事ではない。宗教である。あなたは宗教法人がノルマ制を採用していればどう思うだろうか。一気に、怪しい感じがするのではないか。それが普通の反応である。しかし天理教では未だに強いノルマ制が採用されている。これを今回の話にしたい。

少し前になるが、お正月に天理教の教会に挨拶にいった。神殿に入ると130年祭関連の掲示が複数、壁に貼ってあった。
私はそれらを写真に撮った。下の資料は、私が写真の一つからほぼ同じに作成したものである。
心定め
この資料は天理教がノルマ制であることの証拠である。
「心定め」というのは、教義的解釈はわからないが、普通に考えて数値目標と捉えて問題はない。
つまり、この教会の今年の数値目標のポスターである。特定できないように、数字は見やすいように少し変えたが大きくは変えていない。

右から順番に見ていく。
「初席者」というのは、天理教の信者になるために聞かなくてはいけない9回の話の1回目のことである。もちろん、この話は奈良県天理市の天理教本部でしか聞けない。
「よふぼく」というのは、上記の9回の話を完遂し、信者になる許しを得たもののことをいう。
「修養科生」というのは、3カ月間天理教本部で泊まり込みで教義の学習や、実習(といって掃除や雑用がメイン)をおこなう。
「教人登録」というのは、マスターのようなもので「よふぼく」の上位資格であり、数日の研修と試験をクリアすれば得られる。教会長や道専務という天理教のみで生活している人の多くがもっている。
「おつくし」というのは、お供え金である。ここだけ隠蔽しているためか単位が書かれていないが、単位は万円である。

これを見て、天理教はノルマ制を採用していることに間違いはない。

このポスターについて、この教会の方と少し話をした。それを以下に列挙する。
・心定めというのは数値目標だけではない。気持ちの結果である。
・130年祭に向けて少し気合いを入れた数字になっている。(例年より多めの目標)
・130年祭のみというわけではない。130年祭以外にも、大教会の記念年や教祖の誕生記念年など、2,3年に一度はこういった大きな数値目標を設定している。
・記念年でなくても、毎年数値目標は作っている。
・このポスターを誰に作れと言われるわけではない。でも皆やっている。フォーマットは上級から送られてくる。信者に周知させるためにも必要。
・明確に上から「お前の教会はこの数値目標だ」と言われることはないが、暗黙の圧迫はもちろんある。教会長会議では、実際に各教会の目標を調整する。
・特に大教会の建設や、天理市の詰所の建て替えなどで「○○円必要だ」と言われることはある。その要求金額を各教会で割り付けられる。
・ノルマと言われればノルマだが、達成できなくても何も罰則はない
・罰則はないが、金などは上納する際に、人的資源は申請するときに必ず上にバレるので、それなりの暗黙の評価は生じる。もちろん目標が達成できれば、「次はもっと数値が高くなるのはいうまでもない。大教会からも「あの教会は頑張っている」と注目される。

話した内容はこのような感じである。数値目標を「気持ちの問題」にすり替えるあたりは、天理教の大事なところはウヤムヤにする汚い姿勢が見事に反映されている。恐らく天理教人の私に対する反論は「これは個人の目標でありノルマではない」というだろう。しかし、それはブラック企業と同じ理路である。個人の目標であれば公開する必要も、仰々しく掲げる必要もない。神との個人的な約束は、信仰の本質であり、そういった姿勢を私は歓迎する。しかし共同目標として公開され、それに向かうことはノルマ以外の何者でもない。

最近聞いた話では、ある教会では「上級教会の会長が下の教会に来ることなんてほとんどなかった。しかし大教会が数億円の普請(建て替え)をしてから毎月「○○円、お供えするように」と来るようになった。こんな人間を信じられるか」といった話である。

こういったノルマ制は、今回に限らずに私も何度か目にしている。130年祭だからというよりも、これが天理教の平常運転なのであろう。このような「心定め」と偽装したノルマは、全国の教会でやっているのだろうか。それとも特定の教えをくむ系統(大教会)だけのことであろうかという疑問がある。
しかしネットでググってみれば、ノルマ制が一部なのか、組織の体質なのかは明らかであり、天理教のノルマ制の根深さはすぐに理解できる。

例えば以下のようなポスターである。画像をクリックすればリンク先に飛べます。

活動方針他ににもある。これらはググったら簡単に出てきたもので特殊な例ではないだろう。ググればこれ以外にもたくさん出てくる。
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加えて、天理教のノルマ制は学生の時から、叩き込まれているのだろう。この思考停止装置を発動された無邪気な若者たちは、なぜ信仰にノルマや数値目標が必要なのか考えることもしないのだろう。

そのほかにも沢山の資料がネットには転がっているので、気になる方は検索なりツイッターなりで調べてほしい。

話を戻す。初任給が20万円を切るような地方にある、おじいさんやおばあさんくらいしか集まらない小さな教会で、この金額を上納することを知れば(達成できなくてもそれに近い金額)、天理教が全国から年間、百数億円を集めるのも頷ける。こんなことをやっていては天理教が「陽気ぐらし」をできるわけがないし、そういった当たり前の感覚は天理教人にはないのだろうか。

ここからは少し考察を加えたい。なぜ天理教が社会にとって害悪となるのか説明する。
まず、根本に立ち返ろう。なぜ宗教がノルマを課す必要があるのだろうか。ここで気をつけたいことは、崇高な教えや教義解釈はどうでもよいということ。ノルマ制が事実としてあるということである。天理教の方には是非、立ち止まって想像してほしい。
つまるところ、ノルマ制を採用している宗教団体に、あなたは入りたいだろうか。

例えば、あなたが街を歩いて○○教の方に勧誘されたとしよう。その方は、とても優しくて、親身になって話を聞いてくれる。しかし、その方が所属する教会では「何名を連れてこい」というノルマがあったら、あなたはとのように思うだろうか。街であなたに声をかけた方は本当にあなたのことを思って声をかけたのだろうか。それとも、ノルマがあるから声をかけたのだろうか、声をかけられた私は心配にならざるを得ない。ここで大事なことは、ノルマがある以上、例えその人が本当にあなたのことを思って声をかけたとしても、すべてが嘘っぽく聞こえることでしかない。そう、とてもいい人であって嘘がない人であってもだ。天理教の方に質問してみればいい。例外なく「あなたのことを思っているに間違いないじゃない!!」と声高らかに宣言するだろう。しかし、傍から見れば、天理教人らが金のため、名誉欲のためと見られても今の天理教には反論できない。それほどノルマ制というのは印象も悪く、真実にはなりえない。

神を信じるだけなのに、陽気に生きるだけなのに、天理教を信仰したいだけなのに、なぜそこまで金が必要なのだろうか。天理教人はきちんと社会(信者にも)に説明すべきであろう。
巨大な組織を運営するのには金がいることは理解できる。では会費制にするなり、観光資源なり、冠婚葬祭なり、物販なり自助努力できることは山程あるであろう。極端な話、お供え金なんて、数百円でもいいじゃないか。なぜ祝儀袋に入れて名前を書いて申告する必要があるのだろうか。
どんな丁寧な天理教人も、この集金方法については一切誰も説明していない。
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「神様に喜んでもらうため」という詐欺な理屈では誰も納得できるわけがない。ノルマを採用しているなんて、だから天理教の教えは浅いと思われるのだろう。ノルマを強いるのであれば、なぜそれほど金がいるのか説明すべきであろう。
金を払えば助かる?苦労して頑張った分だけ神様は喜んでくれる?本当にそう思うのであれば、こそこそしていないでホームページにでも、大きくそう書きなさい。そうしないのは、天理教人もまた「ノルマで人を圧迫するような方法は本当は良くない。こんなことでは国民の信頼は得られない」と薄々感じているからであろう。汚い手法を使うことを黙認している宗教に、どんな善があるのか私には全く理解できない。

天理教はあまりに汚い、姑息な方法でノルマを心の問題にすり替えている。
なぜ人から金を奪うほど、天理教は金が必要なのか。
中身のない綺麗事ばかり言ってないで、丁寧に、親切に説明すべきであろう。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

天理教の問題は、一部の人間の問題か、組織の問題か

最近よく言われるのが、「天理教の評判を下げることをやっている人間は、天理教の中のごく一部の人間であるから、天理教全体を悪く言うようなことはやめるべきだ」である。気持ちは非常によくわかる。しかし意地の悪い返事をするのであれば「あなたはそれを知っているのに声をあげないのですね。陽気ぐらしというのは、天理教で苦しんでいる人を無視することですか?」と言いたい。(言わないけど)

フォローをするわけではないが、私がこれまで俎上にあげてきた話題や経験談は天理教の一部の人間によるものである。だから人を苦しめない天理教人には少しの敵意もない。むしろ教えに基づく社会貢献をされている方も多く応援したいと考えている。しかし、私は「天理教は素晴らしい」と言うつもりは全くない。なぜなら、その一部の人間を生んでいるのは、天理教の構造的欠陥だからである。つまり、天理教の一部といえども、それが天理教組織の方針であったり、悪を知りつつ声を上げようとしない天理教人は、すべて共犯関係にあると私は認識している。

私がこれほど天理教にコミットするのは、私の知り合いの、昔から懇意にしてもらっている天理教の方が実際に苦しんでいるからである。特に若者が天理教に苦しめられていることを知った以上、力になってあげたいと強く思っている。

最近、以下の天理教掲示板が賑わっている。書き込まれている多くの方が天理教関係者か、元関係者だと思われる(天理教被害者の方も含む)。
天理教の「お供え」について

ここに記載されている体験談や経験談は、私が経験し発言してきたことと重なることが多い。もちろん教義の解釈などについては私の理解が追いつかない点も多いが、強引なお金の取り立てや権力の暴走は複数の方が同じ文脈で発言されていることは着目すべき点であろう。これを一部として済ませてしまうのは、臭いものには蓋をしてしまえという隠蔽の意図が見え隠れする。

天理教の構造的欠陥については、実の親ではないが「理の親」と呼ばれる信仰上の親の権力性が天理教にはある。私理解では、この理の親は本部や大教会長や会長を指すことが多い。この権力性が強いために様々な問題が生じている。

・若者の婚姻関係にまで第三者である大教会長や会長が意見したり介入したりする。
・結婚式を教会本部であげさせない大教会長のルールがある。
・天理教一れつ会という奨学金財団では、信仰上の権力者である「理の親」(大教会長)の署名を求める。
天理教施設である詰所に在籍する天理大学生は天理教行事に参加しないと、大教会長から退居するように脅迫される。

上記の事例は、これまで私が証言と証拠とともに集めた事例の一部である。そしてこれらこそ、天理教本部の組織や、宗教法人天理教教会本部の責任役員の組織(大教会)でおこなわれていることである。責任役員ということは、天理教の政治的、法的決定をおこなう中心的幹部である。このことをもって、私は「天理教は間違っている」ということをの一部の人間で終わらすことは決してしない。もう一度言う、天理教の構造的欠陥を維持しているのは天理教責任役員でしかない。法的権力もリーダーシップもない真柱などどうでもよい。

私はこれまで、上記の事例については、その都度、奈良県、天理市、京都市などの相談窓口や該当部署に通告している。話は親身に聞いてくれるが、私が当事者本人ではないということで事例に対して対応はとれないということであった。人権窓口は基本的に通告すれば対応の結果まで教えてくれることになっている。私も当事者に確認の上で対応までは求めていないため、行政報告という点で留めてもらうように働きかけている。きちんと声をあげて、上記のような天理教で頻発する類似のトラブルを知ってもらう段階と考えている。

ただ、行政に報告するだけでは何も事態が進展しないことは承知している。1年ほど前より、何名かの研究者と連絡を取り合う中で、今後の動きは練っていた。昨秋には天理教の脅迫的集金方法や天理教責任役員の言動について国にも通報をした。本来であれば宗教法人の管轄は都道府県や文科省管轄の文化庁であるが、戦略的に現時点では総務省と消費者庁に相談した。すると「国としては個別の事象に対応するこは難しい。国が動くためには一定程度の数の声がなければ動けない」という助言をもらった。(総務省は消費者庁に比べて少し素っ気なかったが)。

今月26日には天理教では教祖が亡くなって130年という重要なタイミングである。ここでどのよな発表があるのかはわからないが、この前後で天理教の権力の支配と集金方法に大きな改善の動きがなければ、次の展開に進みたいと考えている。

以前は私も天理教が悪いのではない、”一部の天理教人”だけが問題であると思っていた。しかし調べれば調べるほど、天理教全体の構造的欠陥であると感じるようになった。ノルマ制の集金方法や、人々に不安を与えて努力を強いる言葉は天理時報に溢れている。社会から見たときに、このような狂った組織は、きちんと社会の評価を受けて是正されなければいけないと思う。集金ノルマを課しているような組織が「ひとだすけ」と言ったところで誰が信じようか。

私は以前はおこなってなかったが、現在では天理教幹部の組織図と人名はすべて把握している。天理教の名がついたアカウントはすべて監視しており、天理教という文字がネット上に上がればすべて収集できるようにしている。これも多くの方々の協力だと感じている。これらのおかげで天理教の苦しんでいる方の声なき声と、天理教の異常な組織構造が垣間見れる。

「カインは天理教を潰したいのですか?」と言われるが、まったく違う。
「苦しんでいる人を助けてあげたい」、それだけである。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

天理教維持財団という組織について 天理教が投資で大儲け&大損しているという噂を信じるか信じないかはあなた次第だ

本ブログを管理してくれているM君から、天理教維持財団とは何の組織かと問われたが、当初私は何のことかわからなかった。
M君いわく、どうやら天理教の組織内に長らく存在していた財務管理系の組織であり、最近になり解体されたということであった。その組織が解体された理由は、お供え金の運用を失敗し莫大な損失を出した疑い(噂)があるということである。私は初耳である。ということで調べた。

まず、この「天理教維持財団」について、なかなか資料がでてこない。私が一部所有している月刊誌「みちのとも」にも見つけられない。色々な方法で検索をかけていると「昭和11年12月 天理教職員録」という冊子が出てきた。この43ページに「財団法人 天理教維持財団(天理教教会本部内)」という項目があった。引用してみよう。
———————————————————————-
◉財団法人 天理教維持財団(天理教教会本部内)
総裁 管長 中山正善
理事(本部)山田清治郎
(同    )上原義彦
監事(本部)山本利正
(同    )平野規知雄
評議員(同 )永尾正信
(同 )村田慶蔵
(同 )中山慶太郎
(同 )鴻田利吉
(同 )山澤?次
(同 )岩田長三郎
(同 )諸井忠彦
(中河)田中善永
(本部)植田英蔵
(筑紫)福原一正

●会計本部
理事
(本部)山田清治郎
(本部)上原義彦
(同 )西浦三治郎
(同 )山澤?次

○管理部(電一五七)
部長
第一課長    西尾直彦
第二課長(同 )山田忠則
掛員
(同 )南 石松
(東本)河野誠
(同 )橋本理一
(河原町)湯浅善之助
( 東 )吉野進
山原太郎
用度課長(本部)浅田銀次郎
掛員
(同 )桝井まつ
(同 )吉川みきの
(同 )和久田江つ
(同 )紺谷志げ
(同 )梅谷春江

○収入部
部長(兼)(同 )山田清治郎
第一課長(同 )(?員)
第二課長(同 )椿昌雄
第三課長(兼)(同 )同
掛員(同 )鴻田勝之助
助手
(奈良)柳田一雄

○支出部
部長(本部)小松駒太郎
第一課長(本部)西村勝造
第二課長(兼)(同 )同
第三課長(兼)(同 )同
————————————————
◉財団法人 天理教朝鮮維持財団
総裁 管長 中山正善
理事
理事長(本部)岩田長三郎
(同 )上原義彦
(同 )山澤?次
監事
(同 )山田清治郎
(同 )西浦三治郎
———————————————-
維持財団という名前の組織は以上である。どうやら、この維持財団という部署が当時の天理教の財務を担当していたようである。存在は真実のようである。ただこの冊子は職員録ということで、金額は載っていない。

その他には、「新興宗教教組のウラの裏がわかる本」(早川和廣1988年)の126ページにこんな記述がある。
「実際、520億円の予算の歳出の主なものは、教組100年祭特別会計への繰入金が300億円。教団本部から年間の活動資金として宗教法人天理教に割り当てられる回付金が157億8400万円、やしき整備費が45億5465万円と大半を占めている。
結局、教団の運営費は宗教法人天理教への回付金程度であり、あと大半の金は、教組100年祭特別会計への繰入金、やしき整備費といった名目で、実は天理教維持財団に蓄積されるというのである。
天理教維持財団は、総裁である中山善衛真柱を含め、17名で構成されているため、天理教関係者にとっても、その内部はうかがい知ることのできないものとなっているが、漏れ伝わるところでは、中山ファミリーの財産を管理する、その意味では”中山・天理教維持財団”ということになる。
結局、現在の天理教は末端に行くほど、貧に落ちきっており、逆に真柱を中心とする中山ファミリーの私生活は王侯貴族をしのぐといわれている。
「天理教は真柱から教会長に至るまで、完全なる世襲制を敷いているため、大教会でも初代の人はみんな苦労してきたわけですが、三代目、四代目となるにつれて、何の苦労も知らずに育ってきた人間ばかりが多くなったのです。真柱同様『教組のひながたを通れ』と号令をかける当人が、全然、その道を通っていないというバカげたことになっている」
ある本部関係者は解説するが、要するに、真柱自身、教組のひながたなど歩いていないのである。

以上である。上記の本は天理教を批判的に書かれており、また本部関係者の発言を乗せており、どこまで信用できるかは読者が判断するしかない。しかし「天理教維持財団」というものは少なくとも昭和11年には存在していたことは間違いないであろう。

では次は、その天理教維持財団という部署が、「莫大な損失を出して解散した」というとこについて言及するべきであろう。しかし大変申し訳ないが、私にはそれを裏付ける資料を見つけることができなかった。別のソースでは、
2001年9月30日本部側の理由説明が一切されぬまま天理教の金庫番である天理教維持財団が突然解散する。これに関する本部側としての理由説明は一切されていない。天理教教会本部が株式投資その他で大失敗し、兆を超す莫大な損失を出したのではないか? と云う観測も出ている。
(天理教教組中山みきの研究)
などがある。天理教の中では比較的有名な話であるようだ。しかし私の調査と同様に信頼できるソースのものがなかなか出てこない。

ここからは私の推測である。天理教がこれまでお供え金や上納金を最高に集めた年は教組100年祭の前年の1985年である。この年、天理教のお供え収入は天理教の説明で約510億円であったことは既報の通りである。しかし、その年以外は400億円を超えた年が1回、300億円を超えたのも1回しかない。その中で、天理教維持財団が兆を超える金額の損失を出したというのは少し現実味に欠けるのではないかと思う。数百億の投資で兆の損失というのは飛躍していると私は考える。

しかし、以前、私が公表した天理教の収支の一覧を見ると、天理教には非常に不可解な金額、それも巨額で不透明な数字が多いことに気づいた方も多かったと思う。もう一度、一覧表を掲げるので見てほしい。今回は2014年、2015年分も入力済みである(2015年は補正予算未)

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例えば、まず前回も遡上にあがった「雑収入」である。2015年は雑収入が4億6千万円といったが、2013年は12億である。1990年前後は30億円台が続いたこともあった。次に「やしき整備特別積立金より繰越」という項目においても、1996年以降、10億〜60億の繰越が頻発している。極めつけは1989年の「特別会計より繰越し金」という項目で400億円もの収入があった。特別会計というわけの分からない名目で400億円など、謎すぎるであろう。
支出も同様である。繰越し金が数億円規模で増えたり減ったり、「予備費」や「積立金」というこれも訳の分からない名目で突然、降って湧いたような数億円〜数十億円のお金が出たり入ったりしている。こんな不透明な会計を公開していては、「兆を超す損失を出した」という噂が立っても不思議ではない。少なくとも、私は天理教が数百億から数千億の損失を出したという事実がもしあったとしても、この不透明な会計では「あり得る」と思う。もし私の推測や信者の噂が間違いであれば、こんな中途半端な数字を出し続けるより、訂正するか正しい数字を公表した方が天理教のためにもいいと思うが。。。もしくは天理教信者にはすでに何らかの説明があったのだろうか。

この動きと奇妙に符合すると思われるのが、日本の経済状況である。100年祭前後はバブルの絶頂であり、その後のバブル崩壊、そして失われた20年、そしてアベノミクスである。その日本の経済的な上下とともに、天理教の数億円規模の金額が連動していると見ることもできる。(連動していないという見方もできる)

また同じ結論で申し訳ないが、こんな不透明な会計をやっていては、天理教が社会の信頼を得ることのは到底無理な話であろう。噂が真ではなくても、否定はされていない。以前上げたような、天理教幹部の年収が奈良県の高額納税者の上位に毎年載っている現状を見れば、「天理教を信じてください」と言ったところで誰も信用できないだろう。政治家の政務費や政活費の不適切な使用が近年大きな問題になっているのも、バレることはないだろうという認識や適当にやっていたことの必然的な結果であろう。

「これ天理教以外の人から見たらヤバイよね」と、常識的な気持ちを理解する天理教人はいないのだろうか。これからの時代は、まさしくこういったカネの話はどんどん風当たりが強くなることは間違いない。天理教は、今回のこういった些細な数字からでも、丁寧に改善していくべきであろう。反対にこういった些細なことからでも変えていけないようでは、これからの天理教には暗い将来しか見えない。まさか「いずれ天理教の良さは分かってもらえるだろう」なんて本気で思っているわけではなかろう。
こんな「明らかに怪しい」会計を信じる人がいるなんて、信仰とは本当に怖いと感じる。

天理教の雑収入4億6千万円はどこからきているのか いずれ宗教法人の透明性を問う時期が必ずやってくる

安保法案が可決された。いくつかの団体、組織、またはその有志がデモやWEBページを作ったりと反対運動がなされた。この件に関して、この場では特に立場を明確にしない。私より詳しい方が多数声をあげており、そちらを参照されたい。

私はこの安保法案の可決までの動きについて、ある意味すごい時代にきたんだと感じることが多かった。それは情報の速度と、組織が隠したい情報の暴露である。つまりインターネットである。
ひと昔であれば、国会で起きていることを「ほぼ同時」に国民が知ることはなかった。多くが数時間後の次の日か、少なくとも、テレビ局というフィルターを通して、限られた時間でしか知る方法はなかった。しかし今回の安保法案では、個人が発信者となり、世界中に情報は溢れた。国会審議もNHKが中継を止めてもネットで見ることができた。

その結果、政党、テレビ局、活動家、あらゆる人たちの隠したいであろう情報が簡単に漏れ伝わってきた。メディアリテラシーという誤った情報に左右されずに、情報を選択し、正しい情報を読み解くことは大切だと思う。しかし、その情報の正しさこそメディアや研究者、当事者も含め、誰も「正しい」判断ができない状態になっていると感じた。そもそも正義はどこにあったのだろうか。

そして忘れてはいけないことは、情報の正誤にこだわるよりも、ネットが人々を団結させ、膨大な集団エネルギーが生まれるということであろう。その結果がアラブの春であり、香港の学生運動であった。権力者がどう行動し、陰で何を話し合ったか、それを知ることが簡単にできる時代にきている。これが社会にとって良いことなのか、悪いことなのか私にはまだ分からない。しかし、もう後にはひけない。小さな出来事、小さな情報、小さな行動が、人生を狂わせ、組織を崩壊させ、容易に権威や権力を無力させる時代になったということである。
この認識は組織経営としては常識になっており、大企業が学生バイトの行動一つで株価を暴落されることは珍しいことではない。

そして、この時代の波に曝されるのは天理教も同様であろう。天理教は良心的な組織であり何も隠してるつもりはないと信じたい。しかし「大教会長に進路を変えさせられた」「お供えは心定めというノルマ制である」「天理時報の購読数が減少しており本部勤務者は一人一部の購入を勧められている」といった情報が証拠とともに私の元に多く送られてくる。ICレコーダーでとった録音データを送ってこられる方までいる。それらを公開するつもりはないが、私が発信していることがガセネタであるかどうかは、読者の判断に委ねたい。今後天理教に関わる人間が、天理教を発展するために団結するのか、天理教を変革するために団結するのか、私にはわからない。

話は長くなったが、これから本題。これまで天理教の財政についてデータを調査してきた。天理教本部の収入の9割以上がお供え金である。では、残りのお供え以外の収入、4億6千万円は何か。天理教の月刊誌である「みちのとも」によれば「雑収入」とある。雑収入で4億6千万円とは、常識外れのどんぶり勘定である。これについては、私も以前の財政データを調べているときに不思議で仕方なかった。「この雑収入はどこからきているんだ?」と。しかしどこにも雑収入の詳細が載っていないため、言及ができなかった。天理教関連の書物を出版している天理教道友社の売り上げだろうか、私は道友社は赤字と聞いているが。

ということで、あらゆる方面から、できる限り調べてみた。すると驚くべき事実がいくつか出てきた。

事実1 宗教法人は、宗教法人法において財務諸表は公開しなくてもよいと決まっている

宗教法人法第25条において、宗教法人は年度終了後に収支計算書を作成し官庁に提出しなければならないとなっている。しかし、公開義務はない。天理教の財政状況を調べている中で、あまりに情報が公開されていないので、薄々感じていたが、やはり公開義務はないということは法律で決まっていたのだ。これは宗教の公益性と信教の自由を担保するための措置であると思われる。しかし、信者などの利害関係者は閲覧を請求することは可能である(しかし「不当な目的ではないと認められる者」とあり、実質のところ信者が教団に財務状況を請求したところで天理教は公開しないだろう)。つまり天理教信者ではない私のように、目的が調査・研究であっても第三者には公開してなくてもよいということである。天理教信者の方は是非天理教本部に開示請求してほしい。そうすれば天理教が信者や社会に対してどのような姿勢であるかは明確になるだろう。
天理教は表向きは情報公開しているようでも、所有財産や予算の詳細など大切なところは全く公開していないので、良心的な組織とは言えない。冒頭にも言ったように、こういった閉ざされた姿勢は今後どんどん風当たりは強くなるであろう。
日本にはいくつかの宗教法人(天理教ではない)が財務状況を公開しているところもあるようで好感がもてる。

リンク 宗教法人法

事実2 天理教には天理教が投資して設立した株式会社があり、そこの役員は天理教幹部ファミリーであると思われる

私が確認したところ印刷業の株式会社天理時報社と、不動産業の株式会社東京天理教館の2つである。天理時報社は代表取締役が諸井博和氏である。彼の名前で検索すると天理教の幹部かその親類であることはよくわかる。みちのともによると「天理やまと文化会議委員」に任命もされているので幹部に近しい人物であることは間違いない。なぜなら天理教幹部で諸井という苗字は多いからである。
東京天理教館は、天理教という名前も入っており、普通に考えて天理教が投資して作った関連企業であろう。代表者の松田嘉次氏は、天理教幹部であるのかはわからなかった。しかし天理教幹部にも松田姓が複数いるため、ほぼ幹部親族であることは間違いないと私は見ている。この天理教会館であるが、月に数百万円のテナントを抱えるビルを複数運営しており、その賃料収入はかなり大きなものと考えることが普通であろう。この会社から天理教へのお金の流れなどは不明だが、この会社自体は、非常に大きな資産と収入を有していることは間違いない。この会社が有しているビルなどは、もともと信者のお供え金が原資であり、天理教を経由して投資されたと考えることができる。土地の取得、ビルの建設など都心に有するということは数百億〜数千億円規模のお金が投資されたことは間違いないだろう。

私には分からないが、もし諸井一族や松田一族のようなものが代々と世襲制で天理教の幹部職を勤めているとしたら、組織として風通しが悪すぎであろう。その他にも同じ苗字の者は非常に多い。この辺もいずれ徹底的に調査したいものだ。

リンク
天理時報社
東京天理教館

事実3 天理教は株式投資をしており、相当数の株を資産として保有している

実は、私が一番知りたかったのはここである。しかし、宗教法人には資産の公開義務はないため知るすべはなかった。しかし、そのことを株式を公開している企業であれば天理教が株主であることを知ることができるかもしれないと数年前に聞いたことを思い出した。
検索してみると天理教は奈良テレビの主要株主であることが明らかになった。7万6千株で7.13%の比率というとかなりの株を保有している。奈良テレビのwikiに載っていた。
現在の状態はわからなかったが、奈良新聞社の設立時の筆頭株主は天理教であったという情報もあった。
もう少し調べると、天理教は奈良の優良企業である南都銀行の株主でもあった。天理教が保有する南都銀行 の株、その数なんと2014年現在、204万6千株を保有しており、南都銀行の発行株の0.7%の比率である。(大株主総覧2014年版(下巻)東洋経済新報社)。2015年9月現在、南都銀行の株価は約350円である。つまり204万6千株を所有していると計算すると、天理教は南都銀行の株を取得するために7億1400万円を投資したことになる。(注意 取得した時の株価は分からないため推測値にすぎない)
そして、現時点での南都銀行の配当利回りは1.87%で、一株あたり7円とある。つまり天理教は、南都銀行の株を所有していることで、年間2,800万円余りの配当金を得ていることになる。(南都銀行は年2回の配当)

いくつかの資料を目にすると、宗教法人は投機的な株の売買は倫理的に問題があり、また現実的でもない。株の売買などではなく資産として保有し続けて毎年配当金を得ることが目的となる。つまり、上記に挙げた少数の企業だけの投資というのは考えにくく、公表されていないだけで、より多くの株式や資産を天理教は保有していると考えるのが普通である。天理教の4億6千万円の雑収入の内訳は、こういったものだと推測することができる。配当金をお供え金や寄付金と計上することはさすがにしないだろう。もし5億円の多くが株式投資だとすれば、配当利回りを2%で計算した場合250億円もの原資を投資したことになる。教祖100年祭のときに500億円もの収入があったことを考えると、当時の天理教が「今後のため」に株式投資で資産運用していたとしても違和感はないと私は考える。

私は宗教法人の資産運用が悪いというわけではないし、経営上の判断として私は妥当だと思う。しかし、疑問点は残る。それを以下に考察する。

今回の3つの事実は、天理教信者にとっては当たり前なのかもしれないが、私は知らなかったし非常に驚いた。多くの一般人も知らないことが多いであろう。何に驚いたかというと、これだけの資産を保有していながら、財務諸表を公開しなくていいということである。そして、これらの原資はその多くが信者のお供えであることは自明である。そもそも宗教法人法の目的は先述したように公益性と信教の自由の保証であり、宗教法人が資産を大量に保有することなど想定していない。少なくとも、文化遺産や文化財としての資産、または寺社が設置されている土地などの直接的管理のためであり、直接関連のない企業の株式を大量に保有することは想定されていないはずである。(法律的には資産運用として宗教法人の株式投資は問題なし)

これはマズイと思う。何がマズイかというのは、公益性を担うはずの宗教法人が国民への説明責任を果たしていないことである。守られるべき宗教法人が、それをいいことに、理念を逸脱しているのではないだろうかということである。これは市場経済という点においてもフェアではないと思うのは私だけだろうか。私は天理教に対して言っているのではなく、日本の社会制度、宗教法人への課税制度に対する疑義として言っている。宗教法人を市場経済で語るのは妥当ではないが、配当金を得るために、信者から集めた金を投資に回し、それらの活動に対する情報公開がないというのは、それは倫理的に許されるべきなのかということである。(改めて言うが法的には問題がない)

つまり、宗教法人というPublicな組織が、株式会社というPublicな組織から株主として得ている配当金は信者のお供えを原資としており、株の配当金は宗教法人の資産として使われるべきである。
私は何が言いたいのかというと、お供え金も配当金も天理教全体のために使われるべきであり、信者へもフィードバックされるべきということである。より具体的に言うのでれば、天理教幹部だけが社会保障と安定した給与を得ているのであれば、それらを天理教の構成員にも広げるべきだと言っている。それは共産主義的な思想ではなく、社会組織としての責任という点である。特に株式等の配当金は、お供え金の個人の意思とは性質が異なる。株式投資は、利益を得るための、安定した組織運営のための資産運営である。別の言い方をすれば、法人としての「儲けるため」のものであるとも考えることができる。他人の財布で儲けたのであれば、他人にも返す。借りたものは返す。
もし天理教が雑収入で得ている4億6千万円を、1万6千ある教会に配分するとしたら約2万8千円を分配できる。たかが2万8千円であるから必要ないと考えるのか、道義的責任としておこなうのはかは、まったく意味が異なるであろう。

宗教法人がおこなう投資というのは、そういった性質を帯びていることを自覚する必要があるだろう。一旦、お供えという形で出資者の手元を離れたお金を天理教がどうしようと、それが天理教発展になるのであれば、出資者への直接的な還元は必要ないと天理教は考えているのかもしれない。しかしそうであれば公益性を担う法人に属する出資者には知る権利が担保されるべきであり、天理教は株式投資や資産など財務諸表を公開し、広くその財務活動を国民に公開すべきであろう。
少なくとも私が信者であれば、お供えの記名制の廃止と財務諸表の公開がないと信仰心の涵養と組織への忠誠なんて生まれるわけがない。

例えば、こうしたお金の流れを天理教人と議論すると「お供をした時点で、そのお金のことは言うべきではない。それが真実のお供えである」と言われたことがある。信仰者としてはそう考えるのが適切だと思う。しかし、その説明で社会が天理教に理解を示してくれると思うのは全く違う。私が申しているのは、天理教の信仰者に対して公開すべきであると言っているのではない、社会に対して説明責任を全うしろということである(金額を開示しろということではない)。「少なくとも天理教本部は信者にアクセス権を付与できるように情報公開はきちんと納得してもらえるように努力してます」と社会に説明しなくてはならない。信者にきちんと説明して納得して信仰してもらうことこそ、社会への説明と同義ということである。「みちのとも」で公開されているような、どんぶり勘定や、確認のしようがない再現不可能な数字では話にならない。「みちのとも」でも「天理時報」でも公開すりゃいい。信者もよくわかっていないのに、国民が納得することはあり得ない。
そして「お供えをしたお金のことを後でぐちぐち言うな」というのは暴論であり、そういった権力を発する天理教人は、社会に向かって説明責任を放棄していることと同じである。

もし天理教本部が「お供えされたものに口を挟むな」と理解し、配当金などの法人の利益は役員等のみで消費するという考えをするのであれば、信者を消費者と認識しており倫理的に疑問が残る。ここから脱却するためには天理教はヤクザのような親子関係の偽装と上納金を撤廃して、1万6千箇所あまりの個々の教会の自立を促進する必要がある。記名を求めるお供え方法や、大教会長が若者の進路や婚姻までに口を出す現状を見れば(教義にはなくても実際にある)、言い逃れはできない。

ということで、私はこの件に関しても、一定の資産運用をしている宗教法人への課税はおこなうべきだと思う。こういった事実は行政や研究者にきちんと伝えていきたいと思う。

教祖100年祭のとき、天理教の収入は500億円もあった。その金は、どこに消えたのか。今回の調査で、その一端が垣間見えたと思う。

リンク
野村證券 宗教法人向け
弁護士ドットコム 高野山真言宗が「投資失敗」で15億円の含み損「宗教法人の資産運用」はどこまで?
京都仏教界 宗教法人法「改正」と税制 ~宗教法人の自主性を確立するために~
南都銀行 中間配当金支払いに関する通知

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

信者の自主性を偽装した集金方法を今も採用している搾取の天理教

天理教を知っている人からも、まったく天理教を知らない人からも「天理教の金の動き」について問い合わせがある。その度に説明するのは骨が折れるので、図を書いてみた。

天理教の収入の多くを占める「お供え金」について。
天理教は「天理教教会本部」を頂点としたピラミッドになっている。
本部ー大教会ー分教会ー布教所 という流れである。大教会は約160箇所、分教会は約1万6千箇所となる。
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教会、大教会、本部それぞれの段階でオリジナルな信者を抱えている。各教会や教会本部の神殿(参拝場)には賽銭箱が供えられており、神社と同様にお賽銭を入れる。しかしこれらは一人あたり数円から数百円が多く、収入としては大きくはないと聞いたことがある。実際に教会の賽銭箱を覗いてみればわかる。

天理教の集金で最も大きな比重を占めるものは毎月の月次祭(つきなみさい)で集められる「お供え金」である。各教会には必ず決められた日に月次祭がある。信者はその日(もしくは前後)に教会にのし袋に入れてお供えする。のし袋には上に「御供」と書き、下にお供えした者の名前を書く(下記資料写真、名前は仮名)。それを月次祭の際に教会の人に手渡す。教会で集めらえたお金は、集計され一括して上級教会の月次祭に持っていかれて「お供え金」として上納されるのである。最終的には奈良県天理市の教会本部の毎月26日の月次祭に集められることになる。

天理教本部のお供え金は2013年は約120億円であることは既報の通りである。各教会は、全国に1万6000箇所ある。つまり各教会は、年間約70万円余りを上納していることになる。しかし、事情教会と言われる機能不全な教会も多く、各教会でのお供え金のバラツキは非常に大きい。また集金したお金の全額を上納していることはなく、集金した中から教会家族の生活費などが抜かれているようである。

信者にとっては毎月の「お供え金」は署名入りなので、非常に心理的・経済的な強制になっていることは言うまでもない。「お供え金は気持ちでいい」という天理教人がいたら気をつけるべきである。 0

お供えの袋は署名入りのため、教会の人間には誰がいくらお供えしたのかは明白である。そして金額が高いと「いい信者」で、低いと「頑張っていない信者」となることは当然の帰結である。天理教がヤクザやネズミ講と例えられるのは、こういったピラミッドの上下システムにあることは間違いない。天理教は別名「搾取の天理教」と昔から言われているのはこういったシステムが原因であろう。おつとめの歌の一節である「悪しきを払うて助けたまえ」を「屋敷を払おうて田売りたまえ」と変換され、屋敷や田んぼを売ってでも金を作ってお供えしろという天理教を揶揄する言葉が昔からある。しかし署名入りのお供えなど、こういったシステムが今も残っている以上、現在も「搾取の天理教」に対して反論はできない。「お供えは強制ではない」という天理教の人間がいたら、その教会のお供え金システムに匿名性が保証されているかをきちんと確認した方がよいだろう。
私はこうした半強制的な集金システムが天理教の害悪(衰退)の根源であると考えている。信教の自由の下で、自由意志であるべきはずのお供え金に署名を求めるというのは、解釈によっては信教の自由を侵害するような人権侵害になるとも考えている。
今年の6月に暴力団の上納金は所得税として扱われ、工藤会トップが脱税で検挙される事件があった。暴力団と宗教法人の天理教を同列に扱うことはフェアではないが、天理教の莫大な金額の不透明さを考えると、天理教内の本部への上納金に対しても贈与税や所得税をかけるべきであると私は考えている。宗教法人への課税は、本来であれば私は反対派であるが、賛成派にならざるを得ないほど天理教のお金の流れは不透明であると考えている。(参考:天理教の財政に関する記事

高校生を対象に合宿を開催して「天理教大好き」「天理教素晴らしい」と、自己判断ができない未成年を短期間で洗脳のように意識変化させるのは結構だが、天理教の権力と金の暗部をひた隠しにしていてはカルトと何が違うのか私には判断できない。

少なくとも、この署名入りのお供え金システムを採用している教会には決して近づくべきではない。初めてこの封筒を見せられたとき、私は「天理教は恐ろしい。しんどなるわ」と思った。こういった感覚は天理教人にはないのだろう。改めて宗教は怖いと思う。

この袋がなくても天理教の教えを信仰することはできるはずである。

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天理カレーを食す

今年は夏のこどもおぢばがえりに参加できなかった。そのため懇意にしている天理教人から、うちの娘に「天理カレー」のレトルトをお土産として頂戴した。
天理カレーというのは、天理教本部の食堂で提供されるカレーのことであると思われる。昨年のこどもおぢばがえりで天理を訪問した際に、天理カレーのキャラクターであるカレーファイブの顔ハメパネルを撮影したが、たべるのは初めてである。

これがパッッケージのおもて。こどもおぢばがえりのカレーと書いてある。天理教道友社のホームページからも購入できるようだ。あまくち大盛り250gで値段は324円。スーパーで購入するレトルトに比べると非常に高い。
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パッケージのうら。製造者は名古屋のめいらくグループ。販売者は(株)天理ふしん社。「この商品は道友社とめいらくグループの共同開発商品です。」と記載がある。このパッケージには天理教という言葉は一つも出てこない。

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中身。少し黄色く、じゃがいもが多くトロミが強い。味はあまくちだが、幼児用の甘口ほどくどくはない。数口だけしか食べてないが、おいしく食べることができた。
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箱の中には、カレーファイブのキャラクターのシールも入っていた。
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なんとLINEのスタンプも120円であるのか!

リンク
LINEストア
道友社カレーファイブオフィシャルサイト

ちなみに、製造者のめいらくグループの創業者は天理教信者と思われる。「めいらく 天理教」でググれば、色々と出てくるのも興味深い。

リンク
めいらくグループ
めいらくグループのWikipedia

近年、天理教(道友社)は、天理教色、宗教色を薄めた書籍や製品を増やしていると感じる。これは天理教の財政が危機的になっている中で、某宗教団体のように出版で稼ごうという姿勢であることは間違いないだろう。お金のお供えという信者に負担ばかりを強いることに比べれば、健全な経営方針であり、私は良いことだと思う。しかし、こういった取り組みが天理教の財政的な手助けとなっているのか、布教戦略として成立しているのか、それは全く別の問題である。天理教の雪崩を打ったような衰退を考えると、宗教経営としては遅きに失していることは明白であり、組織構造変化をもたらすような荒治療が今の天理教には必要であろう。

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こどもおぢばがえりも参加人数は減少している

明日26日から天理市の天理教教会本部では「こどもおぢばがえり」(KOG )が8月4日までの10日間開催される。

名前の通り、子供を対象とした天理教のイベントである。

せっかくの機会なので、以前取得した統計データを公開したいと思う。天理教データは、以前にまとめた天理教統計年鑑から引用した。日本のデータは、文科省の学校基本調査から引用した。

こどもおぢばがえりの参加人数は、天理教の他の統計データと同じく、減少の一途をたどっている。直近のデータである2013年では子供は11万1千人の参加人数である。反対に大人(育成会員)の数は10万2千人である。子供に比べて減少幅が少ない。ここ最近では子供の数に迫るくらいである。こどもおぢばがえりというよりも、おとなおぢばがえりにした方が適切かもしれない。
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次に、子供の数が減少していることに関して考察する。日本はいま少子化を迎えており、子供数は減少している。こどもおぢばがえりの子供の参加人数は、そもそも日本の子供の数が少ないための自然減であるのかを明確にしたい。

下の図はこどもおぢばがえりの子供の参加者数を日本の義務教育(小中)に在籍する子供で割った割合である。2001年以降、120年祭の2006年を除き減少している。そのため、こどもおぢばがえりの子供の参加者数は少子化に関わらず減少していることは間違いない。
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しかし、それでも現在でも11万人を動員していることは、日本の子供の100人に1人以上が参加していることになり、これは凄いことだと思う。(7/26追記→読者からのコメント「こどもおぢばがえりの動員数は延べ人数です。義務教育の生徒の実人数で割ることはできないものです。だから同一人物がかりに1週間連続して参加すれば、7人としてカウントされます。」)

いつものようにエクセルファイルのダウンロードを用意した。コピーフリーであり自由に使っていただいて結構である。しかし誤記もふくめ責任は負いかねます。

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注意
・本記事の数値は、そもそも天理教本部の発表であり、どこまで真の値を反映しているかは不明である。つまり申請人数と実際の参加人数の乖離や、複数回参加した人などがどのように処理されているかわからない。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

天理時報の偏向記事から 天理教幹部の視野の狭さが若者を潰す 高齢者には退場していただこう

天理時報4436号の視点「道路交通法の改正に思う」というテーマ。
あまりに欺瞞に満ちた、誘導記事で辟易する。私が天理時報の購読をやめたのも、こういったあまりに偏った見方や、一部の幹部による知性が全くない記事を読むことにバカらしくなったからである。
私が天理時報の購読を止めてからも、読者の方から「こんな記事がありましたが、どう考えますか」と記事のコピーが送られてくるので結局は天理時報の視点はほぼ毎週読んでいることになる。
なぜ私がこの視点を俎上にあげるのか。それはこの視点は天理教の幹部が執筆しており、天理教の社会のものの見方、考え方が強く反映されているためである。つまり天理時報の視点には天理教幹部の知的劣化が表現されており、それは「天理教の衰退の原因」が書かれてあると言っても過言ではない。社会の流れや読者の意向を読み取ることなく、一方的な天理教的主張でしかない。北朝鮮の労働新聞と同じく読む意味がまったく感じられない(行事報告などは別)。
天理時報は記者とコメンテーターを要していると思われるが、彼らの知性と技量は疑問でしかない。法律学や政治学、経済学、情報学、統計学などの専門性やメディア論やジャーナリズム論をきちんと大学で学んだ人間が編集に携わっているとは到底思えない。一宗教団体の新聞であるため、そもそも天理時報は社会の公器ではないという主張もあるだろう。しかし、取材をすること、文章を書くこと、主張したいこと、社会と照らし合わせること、その基本がまったくできていない。結局何が言いたいのか分からないまま「将軍様マンセー」で終わるのと似たようなものがある。
こんなものにお金を払う人がどれだけいるのか調べてみた。まずはWikipediaの「天理時報」から。
スクリーンショット 2015-07-20 19.13.08

(20145年7月19日現在)

次に静岡教区中遠支部のホームページからの引用したものをまとめた。
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現在、天理時報は12万6000部(2015年3月)の発行部数であるようだ。天理時報の購読者も驚くほど減っている。2.3ヶ月に1000部ずつ発行部数が減っていっていると思われる。全国手配り率は増加しているようだが、この数字は真実ではない。これは、単に発行部数が減少しているために増加しているように見えるだけである。そこで私は発行部数を手配り率で掛けた、実際の手配り数を計算した(黄色)。すると手配り数もきちんと減少しているのである。この数字は天理教道友社も把握しているはずであり、手配り数は減少しているのに「手配り率は増加している」と喧伝するのは読者を騙している。手配り運動について述べているサイトも、手配り率については言及しているものの手配り数にはあまり触れていないのも納得がいく。例えば福岡教区奈良教区など。
(2014年7月だけは発行部数が急増しているのは分からなかった)。

天理時報の年間講読料は3960円(税込)であるため、12万6000部では4億9千896万円の売り上げとなる。1000部減少で396万円の減収である。ここのホームページの数値が正しいかどうか信ぴょう性が分からないため、断言はできない。しかしこれを見る限り、業績は悪化しているとしか言えない。私の天理時報への批判は、天理時報の購読をやめた読者も同じような感想を持っているのではないだろうか。個人的には天理時報の発行部数の減少に伴う減収よりも、天理教本部の影響力が低下していると考える方が天理教的には深刻ではないかと思う。悲しいかな、購読を止めた読者は天理時報に3960円の価値がないと判断しているのである。天理時報にそれを言ったところで「新聞の凋落は世界的な動きで、インターネットの発達が原因だ」と責任転嫁され、天理時報の質の向上については議論されないだろうが。

少し寄り道をしてしまったが、話を戻そう。「視点」である。
私が腹立ちを覚えるのは、情報をきちんと理解せずに、若者を悪者に仕立て上げている点である。視点の前半部分は道路交通法の改正の説明であり、大きな問題はない。しかし4段落目から雲行きが怪しくなる。
「特に、自転車と対歩行者の事故は近年大幅に増え、なかでも子供と高齢者が加害者となるケースが後を絶たない。」とある。私は調べてみた。各都道府県ごとのデータでは、バラツキが大きいので採用しない。そこで全国の警察を統括している警察庁の「交通事故統計」データを使用する。
スクリーンショット 2015-07-21 14.23.06(警察庁 平成26年中の交通事故の発生状況)

ここ10年ほど、日本の交通事故は発生も負傷者も死亡者も減少している。筆者は「自転車と対歩行者の事故は増加」ということなので、全体の数値は参考として掲げておく。

 

次に自転車乗車中の年齢層別死傷者数の推移である。
スクリーンショット 2015-07-21 14.28.35

(警察庁 平成26年中の交通事故の発生状況)

自転車に関連する負傷も全体的には減少していることは間違いない。年別に多少の増減はあるものの、全体としてどの年代も減少している。子供も高齢者も。天理時報の筆者は道路交通法の改定には自転車事故の増加があると言っているが、それはどこのデータをご覧になったのであろうか。まさか妄想ではなかろうな。日本の警察はそんなこと言ってはいないのだから、きっと海外のデータを見たのであろう。

次に天理時報の筆者は「特に、自転車と対歩行者の事故は近年大幅に増え、なかでも子供と高齢者が加害者になるケースが後を絶たない。」と続く。なるほど、では調べよう。
スクリーンショット 2015-07-21 14.35.45(警察庁 平成26年中の交通事故の発生状況)

2008年(H20)以降、自転車の対歩行者の事故も減少していることは間違いない。増加は2008年までしかない。つまり天理時報の筆者は2008年(H20)までのデータしかみていないのであろう。少なくとも「近年大幅に増え」と書くのは明確な間違いである。それとも、この筆者は現在2008年だと思っているようだ。誰か彼に今年は2015年ですよ、と伝えてやってくれんかね。

次に私がもっとも腹立たしいと感じる部分を検証したい。天理時報の筆者は「実は、筆者は今回の自転車の取り締まり強化を大変結構なことだと歓迎している。なぜならば、実際に筆者も「危ない!」と思う自転車の危険運転を日ごろ何度も目にしているからだ。そして、目にするのは若い学生が多い。」と書いている。本当だろうか。
スクリーンショット 2015-07-21 14.52.27

(警察庁 平成26年中の交通事故の発生状況)

このデータをみて、天理時報の筆者は学生だけを悪者にしていいのだろうか。自転車乗車中の違反が事故になって相手を傷つけているのは、若者だけの問題なのだろか。少なくとも65歳以上も違反も多いし事故も多い。若者が特別に多いというわけでもない。これは自転車事故があたかも若者の交通ルールの悪化を原因とする議論のすり替えでしかない。自転車による交通事故は、誰が悪いというものではなく全年齢層が気をつけるものであることは間違いない。

では、より踏み込もう。若者を悪者としたい天理時報の筆者のために、若者と高齢者のどちらが悪人か比べてみよう。
スクリーンショット 2015-07-21 15.00.14 (法務省)

このデータをみて、若者と高齢者のどちらの検挙者数が増加傾向にあるかは明確であろう。このデータから若者だけが悪人とは到底いえない。安っぽいメディアの、頭の悪いコメンテーターのように、「近年、少年犯罪が悪化」として片付けられるほどどこかの年代が特別に悪いのであろうか。

次に少年による犯罪別の送致人員についてみてみよう。
スクリーンショット 2015-07-21 15.06.22(法務省)

大きな波が2つある。今から50数年前と30数年前に比べると少年犯罪も大きく減少したものである。さて、50数年前と30数年前に少年だった危険な年齢層の人たちは、一体いまは何歳になっておられるのでしょう。きっと更生して自転車の違反もせずに真面目な社会人として生きておられるのでしょう(皮肉)。

スクリーンショット 2015-07-21 15.15.28 (法務省)

最近の高齢者は怖い。殺人、強盗、傷害、暴行、窃盗とやりたい放題。天理時報の筆者が「お道の者として、このたびの道路交通法改正を、若い人たちや子供たちに対して、人々が互いにたすけ合う陽気ぐらしの精神を伝える好機として捉えたい。そして、その姿を社会に映していきたい。」と述べているが、滑稽でしかない。というより意味が理解できない。そんな方は天理教をやめて交通指導員にでもなれば、陽気ぐらしの目的が達成できるということなのかな。
むしろ自転車マナーよりも法律を守らなければならないのは高齢者の方ではないのだろうか。私は高齢者のみなさんに人を殺したり、人の物を盗んだりしてはいけないと伝えたい。それは人々が互いにたすけ合う陽気ぐらしの精神を伝える好機として捉えたい。そして、その姿を社会に映していきたい、と思う。

私が言いたいことは、若者より高齢者の方が危険人物であろうということではない。私が述べたことは社会学の自明であり議論にすらならない。若者や高齢者をターゲットにしたところで不毛な議論であり、くだらない。私が言いたいことは、この筆者のように誰かを悪者にし、一方的に上から目線で持論を展開することは何のためにもいならないということだ。この筆者が自転車に乗った若者に不愉快な思いをしたことがあるのは間違いないのであろう。しかし、個人的な恨みを紙面を使って晴らすことは、まともなオトナのすることではない。私には、Twitterで悪事を暴露する若者と、この筆者の違いが分からない。自分が舞台のヒーローにでもなった気分なのだろう。

私が腹を立てるのは、こういった「自分は正しい」と考える権力者こそ若者を潰し、正義感を振りかざすだけで未来のことは何も考えていないためである。この天理時報の筆者(諸)は何歳の方なのかはわからないが、もし高齢者であれば私の反論が気に入らないであろう。その気に入らない気持ちこそ、あなたが若者に植え付けている嫌悪感だと思うべきであろう。
私こそ若者の声を代弁しているとは思わない。しかし、こんな若者の悪口を堂々と書いている人間に、若者の育成ができるであろうか。「最近の若者はダメだ」と居酒屋でいうのには問題ないが、人事部長が広報誌で言ってしまってはアウトである。更迭である。人を育成する立場ということは文句や悪口を偉そうに述べることではない。もっと伝えるべき大切なことが天理教にはあるのではないだろうか。
天理教は後継者不足問題、信者の減少と、抜き差しならない課題を抱えている。その原因となる組織に対する嫌悪感は、今回の記事で明確に私に伝わってきた。すくなくとも、私はこの筆者の教会の信者になるくらいなら死んだ方がマシだと思った。
若者が継ぎたくない天理教を作っているのは誰か、そこが焦点だと思うが天理教幹部は継がない若者に問題があると思っているのだろう。人に物を教える資質のない者が、「交通安全を教えてやろう」なんて、どの口が言うのだろうか。

物を書くことを仕事の一部にしている私としては、せめて背景データの確認と社会の流れというものを確認してほしいが、この筆者はそれを求めるこができない教養と学習の持ち主なのであろう。それにしても天理時報の編集部やデスクは、「ちょっと事実とは大きく異なるので書き直してください。せめて日本の警察の資料を使ってください」くらい言えないものだろうか。天理時報「視点」の筆者は天理教幹部であり、幹部の書いたことは事実とは異なっていても、編集部は間違いを指摘できないのであろうか。天理教道友社とは、そこまで「終わった」組織なのだろうか。捏造なのか、勘違いなのか分からないが、一般紙であれば謝罪・訂正記事が必要なほどの偏向記事であろう。

天理教道友社の方たちは、長期的視点に立って、読者に何を伝えたいのか、社会にどういった貢献をしたいのか、自分の使命と役割とプライドを明確にして紙面を作っていただきたいものだ。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

天理教の憲法解釈は危険思想か 天理時報6/28第4433号の「視点」から

長らく天理時報を読んでいないが、たまに読者の方からコピーや資料が送られてくる。今回いくつかの資料とご意見を頂戴したので、拝見するとともに私の感想を述べる。
天理時報6月28日の第4433号の3ページの「視点」である。この「視点」というコーナーは、新聞で言えば社説に近い。これは天理教の幹部が輪番で執筆しており、時事問題などを取り上げている。天理教としての見方・考え方が披瀝されているといってもよい。

今回、何人かの方が引っかかったであろう「視点」は「信仰者の”良心”への期待」というタイトルである。私も送られたコピーを一読した。今回の視点は「信教の自由」について書かれており、非常に興味深いタイトルだが、内容は非常に危険な思想である。
私が危険と感じた点を3点に分けて説明する。①なぜ今のタイミングで「信教の自由」をテーマに掲げる必要があるのか、②天理教の「信教の自由」の解釈が非常に危険であること、③信者への「良心」を偽装した「心の自由」への権力を使った脅しであることの3点である。

①について、なぜ今、唐突に天理教が憲法や法律を持ち出してきて「信教の自由」を語りだすのか。私は継続して天理時報を購読したり天理教をウォッチしていないので、いま天理教内で憲法や法律をめぐってホットな話題なのかはわからないが、おそらくそんな危なっかしい話は議論にしないであろう。ではなぜ今回扱われたのか。
時を同じくして、「みちのとも」7月号に天理教という宗教法人から離脱した教会があるという記事があったようだ。(下記リンク切れのため6/28に更新)

|告|
法人の所在地 東京都世田谷区太子堂弐丁目八番九号
法人名 宗教法人天理教東芝分教会
代表役員名 山下典子
責任役員名 山下栄
責任役員名 高山鐡彌
右法人は、今般、宗教法人天理教から離脱し、宗教法人天理教とは関係のない宗教団体となったことにより、今後は、右法人はもちろん、右法人の代表役員、責任役員並びに今度とも右法人と行動を共にする信者は、右法人が宗教法人天理教と被包括関係にあった当時有していた権利及び享受していたすべての利益はもとより、信者として詰所を利用する利益など一切を喪失したのでこの旨公告する。
平成二十七年六月六日
宗教法人天理教代表役員 中田善亮

簡単に言えば、「異端が出たから破門にした」という天理教の報告である。宗教法人天理教と天理教東芝分教会の被包括関係を解消したということである。被包括関係の離脱は天理教の意向なのか、この天理教東芝分教会の意向なのかわからない。しかし「今後は、右法人はもちろん、右法人の代表役員、責任役員並びに今後とも右法人と行動を共にする信者は、右法人が宗教法人天理教と被包括関係にあった当時所有していた権利及び享受していたすべての利益はもとより、信者として詰所を利用する利益など一切を喪失したのでこの旨公告する」とある。
確かに被包括関係の解消であるから、そこから離脱することは一切の関わりを認めないということになるのは社会人であれば理解できる。しかし「陽気暮らし」を標榜し、「世界一れつ皆兄弟」(世界中の人間が神の子であり兄弟である)を声高らかに言い、盗人(米泥棒)でさえも赦したという教祖の逸話を披瀝している天理教である。なんだかあまりに矛盾を感じるのは私だけだろうか。教えとは裏腹に非常に心の狭い、冷酷な対応ではなかろうか。やはり宗教といえど、社会契約でしか人を見ていない。今の天理教には許しや、寛大な心なんてものは教団からはまったく窺えない。「包括関係は解消だね。ただ何か困ったことがあったら協力するね」くらい言えないものだろうか。それとこれとは別ということは理解できるのだが、人助けを宣言しているくせに、あまりに人間味がない。天理教が宗教である意味が私にはわからない。

そもそも、天理教(包括法人)と各教会(被包括法人)は上下関係でも支配関係でもない。包括という言葉が理解を難しくさせているが、その関係性は並列であり、一方が権力を行使して不利益を与えるようなことはあってはならない。つまり、天理教本部と各教会の関係、これは一方が活動の制限を行使するようなものではなく、単に被包括関係にすぎず、辞めたくなったら公告をして手続きをすれば天理教から離脱できる。そして、包括法人は被包括法人が離脱するからといって役員を替えたり、制限を加えるような不利益をおこなうことはできないと宗教法人法第78条に規定してある。

リンク:被包括宗教法人からの被包括関係の廃止について 松波克英(名古屋弁護士会)

また天理教を離脱したからといって、天理教を名乗れないわけではない。天理教豊文教会が天理教との被包括関係を解消し天理教から離脱した後も「天理教」を名乗って布教活動をしていることに関して、天理教は裁判で待ったをかけたことがある。結局、2004年の最高裁判決では天理教豊文教会は天理教を離脱しても、その活動は天理教であることは他ならぬ事実である。裁判所はそのことを認めて天理教を離脱して以降も天理教の名称を使用することを裁判官全員一致で認めたのである。

リンク:最高裁判例

私が言いたいことは、天理教を離脱せよということではない。そんなことではなく、憲法が保障する信教の自由というのは他の法律や教義で縛られるようなものではく、極めて重要であるということである。この憲法が保障する自由と民主主義は、我々の生活の根幹をなすものであり、誰にも侵す権利はないということである。そして、これら自由と民主主義の獲得は天理教の歴史と同じく、先人たちの血と涙と汗の結晶であることは言うまでもない。我々はそれを決して軽視してはいけないということである。不幸なことに、この自由と民主主義を軽視する言動が今の日本社会には溢れており、時に天理教人からも聞かれることが残念でならない。信者側からしてみれば、天理時報という権力側から、わざわざ「良心への期待」などと言われる筋合いはこれぽっちもなく、権力の勘違いが甚だしいということである。権利擁護の教科書でも読んではどうだろうか。

少し話が逸れてしまったが、ひょっとしたらこの異端問題然り、天理教内での思想のバラツキや異端の増加を天理教は感じているのであろう。確かにTwitterでも見れば、天理教の悪口やネガティブな評価が非常に多い。「天理教が素晴らしい」なんてものは一昔前であれば天理教人みんなの共通認識であったものが、今では天理教人すらも「天理教って素晴らしいのか?」と思うようになったのかもしれない。私は天理教人と接する中で、天理教人の本部組織に向ける疑心暗鬼や疲労感を強く感じる。それが天理教衰退として数字となって表れているのであろう。また「視点」を読む限り、その衰退の責任を信者に転嫁しようとしているとさえ感じる。そのため、この記事は「思想統制」の一種であると私は受け止めている。

②天理教の「信教の自由」の解釈が非常に危険思想である。これは今回の「視点」を読む限り、この筆者は、非常に重大な勘違いをしていると思われる。それは憲法の意味と、「信教の自由」が保障されているのは宗教法人ではなく、個人(国民)であるという点が分かっていないことである。
この筆者は「現在、憲法によって信教の自由が保障されているが、宗教法人法の基本的理念は「信教の自由と政教分離の原則」「聖・俗分離の原則」「自治の尊重と自律性への期待」「性善説」である。」と述べている。この筆者の重大な勘違いというのは憲法と宗教法人法を並列に扱っている点である。憲法と法律を同等のものだと認識しているのである。この筆者は法学の基礎を誤っている。どう考えても憲法は法律ではない。法律は個人を制限するものであり、憲法は権力(国家)を制限するものである。憲法は数多ある法律の上位概念であり、何人も侵害することはできない。その憲法に「信教の自由」があるというのは、天理教に信教の自由があるということではなく、個人に信教の自由が付与されているということである。この違いは非常に大きい。「視点」2段落目の「この宗教法人法の目的は、宗教団体に法人格を与え、宗教団体が自由で自主的な活動をおこなうための財産や団体組織の管理の基礎を確保することにある。」とある。確かに宗教法人法の主旨は、宗教法人にも財産所有と保管を認めるということにある。宗教法人が信者を管理、操作していいというものでは決してない。そのため、この筆者が書いた「団体組織の管理」という表現が最も怪しい。宗教法人法での「管理」という言葉は、財産と事業の管理でしか使用されず、組織の管理というのは、人を管理するという思想に発展しかねず危険である。
信教の自由を整理すると、天理教に自由があるのではない。信教の自由が与えられているのは個人である。宗教法人というのは信教の自由を保障された個人の集まりであるということである。例え天理教の「教規規定及び規則」に「一般教会は、本部の定める祭儀をおこない、教義を宣布し、信者を教化育成する」とあり、おつとめを勤め、神一条の理を伝えて布教すると記されている」(3段落目)とあっても、それは「天理教は自由に布教する権利があり、その中のことは教規で決まってんだから、信者は俺のいうことを聞け」という免罪符を法的に許容していることには決してならない。憲法が保障している以上、個人は天理教を信仰する自由も辞める自由もあり、何人もそれに対して不利益を与えることはできないのである。

リンク:宗教法人法

③信者への「良心」を偽装した「心の自由」への権力を使った脅しである。
以前私が取り上げた天理時報の記事で、インターネットなどで天理教人が個人で発言することに対して、一つの情報だけを頼りに、あるいは偏った情報を基に記されているケースが多い」と言論弾圧ともとれる表現を天理時報内で書かれたことがある。

リンク:天理時報4264号視点「信仰者のリテラシーとは」は自由社会に対する挑戦である。本ブログ2012年1月22日

私の元にも、「ブログを開設したら大教会や教会から止めるように言われた」という天理教人の経験談が複数寄せられている。こういった天理教本部の牽制が、どれほど時代錯誤で社会を読めていないか如実にわかるものはないだろう。

それはさておき、天理教はことあるごとに、天理時報などの媒体を使って信者を牽制する。上記①②とも関与するが、全体的に今回の「視点」の本質は、天理教本部からの牽制であることは間違いないだろう。宗教法人法や憲法など「視点」前段ではいろいろと書かれてはいるが、筆者が言いたいことの本質は最下段に全て詰まっている。それは「教規の第一義は、教団が大きくなり、信者も増加するにつれて、信仰しやすいように、あるいは誤解を生む向きが生じないようにと作成されたもの。当然のことながら、性善説に基づいて条文化されたものである。しかもそれは、他教団と比べて、教規の条文が少ないことが特徴的である。親神様の子供である人間には「心の自由」が許されているという教えが根底にあるからだろう。信仰者の”良心”への期待を深く感じる。」とある。

なぜこのような言わなくもいいことを(だって自由なんだから)、敢えて言う必要があったのか。それは今の天理教の信仰者には誤解が生まれており、性善説に基づいているのに信者はちゃんとしないし、良心への期待がないからと筆者は言いたいのであろう。要は「俺らは信者の心の自由を認めてやってんだから、お前らちゃんとしろよ」ということである。この文章のどこに心の自由があるのだろうか。そしてこういう対応をすることが、結局天理教のためになっていないことがなぜ分からないのだろうか。天理教を国家に、信仰を生活に置き換えてみれば、その馬鹿さ加減に失笑するしかない。権力側が、心の自由や良心を被権力側に示すことが、どれほどマイナス効果となるのか。天理教幹部は一度天理教以外でまともな社会生活を過ごされた方がいいのではなかろうか。

おまけ
「視点」5段目に興味深い記述がある。それは昭和16年に天理教の組織階級を5階級(以前は大教会ー中教会ー分教会ー支教会ー宣教所)から2階級(大教会ー教会)に変更した際の当局への説明書である。「「制度上教会の階級の重籍に過ぐるはややもすれば、之がために教義その他の指導監督につき不十分なる結果を招来するの憾みなしとせず、加え下級教会の経済的負担は之がために亦加重せられるため教会本来の使命達成に付障害を来し、その発展を阻害するの傾向ありたるを以って・・・」と付記されており、当時の担当者の苦心のほどが察せられる。」とある。

これを読んで私は思う。今も組織の末端の下級教会は、階級の重籍に苦しめられ、経済的負担は大きいから2階級も廃止すべきなんじゃないのかと。当時の担当者の苦心はわかったから、いまの担当者も苦心すべきではないのかと。
具体的に言う。私が懇意にしている末端の下級教会の若者は、何人もいる親のいうことに日々振り回され(階級の重籍)、天理教行事を優先するため就労も満足におこなえず収入も少ない。社会保障も払えず、それでも毎月のお供え(お金)を本部ー大教会ー上級教会ー上級教会ー自教会とおこなっている(経済的負担)。天理教本部が2階級制度にしたことを自負し、いまの組織体制に問題がないという認識であるならば、大きな間違いであろう。天理教を信仰する末端の若者たちの根本的な問題は階級の数ではなく、親子関係を偽装した上下関係でしかない。天理教本部の人間は何も問題が見えていないのではないだろうか。

まとめ
色々と天理時報を引用してきたが、全体のニュアンスとしてなぜこれほど天理教は信者に対して偉そうなのだろうか。
来年の教祖130年祭ということに対しても、根本的な政策として天理教は内向きである。なぜそれほど布教実践が内々で自己完結しようとしているのか私は疑問で仕方ない。教勢が衰退しているのを止めようと思うのであれば、天理教人が、天理教の手法で、天理教的に布教していてはダメであることは明白である。そうであれば、天理教人が社会的な手法で、社会的に布教すればいいと思うが、天理教人はなぜかそうは思わない。教祖の雛形というのは自己満足の形だけのようだ。
天理教人こそどんどん社会に出て、ネットへの発言をどんどん行うべきであると思うのは私だけであろうか。それとも天理教は社会が怖いのだろうか。もしくは、それほど天理教本部は天理教信仰者を信頼していないということであろうか。こんなバカな信者たちに社会に出ていってもらっては困るということか。どちらにしても閉鎖的で退廃的な組織であることは間違いない。

こういった社会を読めない危険思想の持ち主が、天理教内部にいる限り天理教の未来は絶望的であろう。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

 

天理教信者になるための通過儀礼「別席」を最後まで達成できるのは半分以下というサバイバル

これまでまとめたデータを順次公開する。今回は「別席」について公開する。以前、信者数について文化庁の宗教統計調査をもとにまとめたが、今回は天理教が発行している統計情報をもとに、主に別席の数値について検討する。まずは制度を説明する。天理教の内部には信者という明文化された地位はない。天理教統計に計上されている信者数は「用木(ようぼく)」と言われる人数が計上されていると思われる。その用木は主に「別席」という過程を経たものがなる。つまり別席という過程が天理教の信者になる通過儀礼といってよい。そして別席というのは天理教本部において9回の話を聞かなくてはいけないらしい。私は伝聞でしか知らないが、その話は天理教の歴史や心構えのようなもので約2時間近くあるようだ。そして、全く同じ話を9回聞く必要がある。詳しくは天理教ホームページにある。(天理教ホームページは不親切であまり理解できない)
その別席の参加者数と、9回の話を完遂した人数も統計情報として掲載されていたのでまとめた。天理教の教団勢力の衰退というものが手に取るようにわかる。

別席の誓い・おさずけの理拝戴人数の変遷

「天理教信者になる人数(別席の誓い)」も「天理教信者になった人数(おさづけの理拝戴)もここ数年で非常に急激に減少していることは間違いない。別席の誓いをした人数は2013年で1万人くらいなのに、10年ごとに約1万人ずつ減少している。そして完遂者(理拝戴)は10年ごとに約5000人ずつ減少している。恐ろしい推測として、このまま減少率を維持すれば、次の10年で天理教の新規信者数は限りなく0になる。

次にサバイバル率である。最後まで別席を完遂した者数(おさづけの理拝戴者数)を別席の誓い者数(初席者数)で割ったものである。そのまま「別席の生き残り率」であり、完遂者 / 初席者 である。

 

別席の誓い サバイバル率
私が扱った資料は2013年が最新のデータだが、その時点でも「天理教の信者になる」という誓いをした人から「天理教の信者になった」という完遂者の割合を見ると全体で44%という通過率(サバイバル率)ということがわかる。例えば100人が信者になる意向を示していても、実際に信者になるのは44人ということである。興味深いのは、80年祭、90年祭、100年祭、、、と10年ごとの年祭において、急激にサバイバル率が低下していることであろう。これは人集めだけはしたが、信者になってもらう率は非常に低かったということである。つまり、「初席者◯◯人!」と目標値だけ決めて雑に人を集めたが、その後は丁寧に対応できていないということになるのではないか。むしろ、完遂者数と照らし合わせると、年祭で人集めをしても、それだけで満足してしまっている。
正直なところ、私はこの割合が高いのか、低いのか判断ができない。普通に考えると制度的欠陥であることは間違いない。しかし他の宗教と比較しても、信者の基準が多様すぎて比較できない。そこで、知り合いの天理教人にデータを見せて感想を聞いてみた。すると驚くべき回答を得ることができた。

・そもそも別席の話は寝ててもいいし、実際寝ている人が多い。
・各教会が競うのは、完遂者よりも初めて話を聞く人数(別席の誓い=初席者)である。なぜだかわからないが、完遂者を上げようという話にはあまりならない。
・約44%というサバイバル率は実感より高いと思われる。なぜなら強制的に受講しなければならない学生数(天理教関連高校)が毎年数百人いるから。
・9回話を聞かなくてはいけないという点は非常に負担であり、本部も認知している。そのため短期講習のようなものにも力を入れている。
・10年後であれば新規信者が0になることはない。しかしこのままでは若年者や社会的強者からは相手にされずに、よりカルト志向を強くした非社会的集団へと移行すると思われる。実際、原点回帰現象のようなことがおこっており歴史的な偉人、偉業を利用し、権力者への統制を強めている。これは北朝鮮などとまったく同じように組織力学として非常に危険な兆候である。
・末端の教会では100年祭のような圧迫感はないが、「あれしろ、これしろ」という大教会長の鶴の一声ばかりでウンザリ感は強い。
・天理教本部は当然このデータを把握しているだろう。しかし9回を減らすことはしない。それは教えを曲げることに等しい。

以上である。現在、天理教の動きや雰囲気は私の知るところではないため実際の組織内部の声が実感としてわからない。しかし、どうやら今の天理教は来年の130年祭に向けてだけ必死なようである。「現在の信仰」を高めるのではなく、先人の偉業と足跡を利用して凝集性(といっても人と金集め)を高めているようである。これが事実であれば、組織として末期であろう。その昔、天理教の教祖は官憲の厳しい取り締まりを受け、何度も投獄されている。それが天理教では美談とされて、何度も利用されている。天理教が得意とする「節」(苦難)を乗り越えていこうという教えはいいが、それが「社会に理解されなくても、自分たちの信念を貫き通す」ということになれば危険である。現代社会では非常に危険なカルト性となる。そういった原点回帰を教団や権力者が利用しなければならない現状こそが、天理教の布教戦略の怠惰な姿である。これは本部をはじめ大教会長たち権力者たちの責任であることは明白であろう。

いつものようにエクセルファイルのダウンロードを用意した。コピーフリーであり自由に使っていただいて結構である。しかし誤記もふくめ責任は負いかねます。

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tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp